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なぜ私ばかりこんな目に会うのだろう? 道元『正法眼蔵』

辛いことが続くと感じてくると、「なぜ私ばかりこんな目に会うのだろう?」と嘆きたくなってくるかもしれませんね。

そんな時は、まわりの人たちは楽々と生きているのに、自分のまわりにばかり難題が降り注いでくるような気になります。

その結果、誰かのせいにしてみたくなったり、あるいは自分のやり方に何か重大な欠陥があるのではないかと悩んでみたり、誰かにすがりたくなったりします。

この困難な状況、どう考えたらいいのでしょう。

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道元禅師の『正法眼蔵』にこんな一節があります。

「これ自己の強為(ごうい)にあらず、威儀(いいぎ)の云為(うんい)なり」

どういう文脈で出てくる言葉かは、興味がある方は原典を見ていただくことにして、ここではこの部分だけ取り上げて解釈を書いてみます。

もちろん、道元禅師の言葉ですから、そこには仏法の前提があります。

この世の中は、厳然とした秩序があって動いている。

その秩序に従って行くことが仏道というものなんだということですね。

自分がこんなに困難さを感じているのに、いつまでも何かを強制的にやらされている。

あるいは自分がそうせずにいられないけれど、もういい加減疲れてしまった。

もうこんな状態はいやだ、なんとかならないのか!


はたして、それは「自己の強為(じこのごうい)」なのだろうか?

つまり、人間が人為的に強制してやろうとしていることなのか?を考えてみるのです。

この言葉では、それは「威儀の云為(いいぎのうんい)」なんだよと言っています。

つまり人間の意図的な努力によって、無理にやるということではなしに、本来の仏様の教えに従っていくなら、自然とこういう動作が生まれて来るんだよと言っているのです。

ですから、自分では主観的には「やらされている」とか「自分にばかり困難が舞い込んでくる」ように思っていますが、それにはちゃんと意味があるんだよということです。

言い換えれば、いずれ自分の役に立ってくることが起きているのだから、黙って付き合っていけばいいのだよ、と言っているのです。

ところで、「強制的にやらされている」のと「自分でどうしてもやらないといけないと感じる」のとでは意味が違うだろうと言われるかもしれませんが、心理的には同じことの裏返しです。

自分でそう感じないことは、たとえ誰かに強制されてもなんとも思わないのですから。

その役に立ち方は、今は簡単にはわからないかもしれませんが、大きくいえば2通りあるのかもしれません。

ひとつは、その困難が実を結んで、一回り大きくなった自分が完成することです。

こちらの方が、自然に思い浮かびますね。

もう一つは、やがて「その困難さは自分が無理に作り出している」ことに気がついて、「これこそがやるべきこと、あるべき姿」だと思っていたことを放棄する決心がつくという場合です。

こちらは、一見マイナスが大きいように見えますが、いったんそのことに気がつけば、開放される自分のもたらすものは、ずっと大きいかもしれません。

強情な自我がそれを手放す決心がつくまで、ひたすら「これでも気づかないか?」と試練を与え続けてくれたということなのです。

どちらにしても、一時的でなく、何度も自分に巡ってくる困難というものがあるなら、それは「強為」ではなく「云為」なのだと思えばいいでしょう。

そう思えば、困難さを嘆くというやり方でなく、その「云為」とは何をもたらしてくれるのだろうと気持ちを切り替えることができますね。


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Re: No title

コモモさん

どちらの考えがより正しいということはないでしょう。どちらも人間の心理としてありがちなことです。
二人の意見は全く違うように見えますが、共通している点があるのです。
それは「どちらが正しいか」にこだわっていることです。
これがある限り、議論しても永遠に平行線になります。
どんな画期的な理論を持ち出しても、どちらが正しいとは言えないからです。
もとにしている前提が違えば、いくらでも正しさは存在しいます。
一生議論しても答えは出ないでしょう。

正しさにこだわるのが無駄だとすれば、解決策は少なくともどちらかが正しさを捨てないとなりません。
しかし、「わかったじゃあ私が折れてあげるから。恩にきなさいよ」と思っているのではあまり変わりません。
相変わらず正しさを捨てられないからです。

正しさから逃れるには、全く次元の違う考え方が必要です。

たとえば、私たちは自分の体を自分で生かしているつもりになっているかもしれませんが、
無意識に働いていてくれる機能があってこそ生きていられるのです。
全部自分が意識しなければ、いちいち命令を出さないと働かないとしたらとても生きていけません。

何が言いたいかと言えば、自分が意識して判断していることなど、全体から見ればほんのわずかだということです。
どちらが正しいかなどということは、そのほんのわずかなモノの一部に過ぎません。

つまり私たちが生きていられるのは、ほとんどが何も知らないで生かされている働きのおかげなのです。
ですから、自分が正しさを知っているなどというのは、思い上がりに過ぎません。
よく感謝の心を忘れないようにと言われますが、それはこのような自分の力以外で生かされていることを忘れないでいるということです。

自分が正しさを知っていようがいまいが、生命の働きは恩を着せたりせず、黙々と働いてくれます。
自分が正しいにもかかわらず、また自分が正しくないにもかかわらず、生かしてもらっているのです。
人間が考え出した正しさなど、そんなことにはお構いなしに生きていることを思い出してみることです。

正しさにこだわる限り、解決は望めません。
関係が表面的に良くなろうと、悪くなろうと本質は変わらないでしょう。

そんなことよりも、今を生きていることに喜びを見出すなら、正しさなどどうでもよくなります。
解決のないことにこだわるか、時間を無駄にせずいまの喜びを生きるか、それが選択です。

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Re: No title

> paoさん
>
> ご回答ありがとうございます。
>
> おっしゃるとおりどちらの意見も正しくないと思います。
>
> ですので私はもう終わりにしたいのです。
> しかし彼が何も聞く耳をもちません。
>
> お前(私)が悪い・俺は裏切られた
>
> それにこだわり過ぎなのです。
> どうすればよいのでしょう?
>
> ちなみにうちの両親は放っておけと言っています。
> 私もこの争い自体かなり無駄だと思っているのですが彼が終わらせません。放っておいて私は私で楽しめばよいのでしょうか?

コモモさん

お話を伺った範囲では、現在のこの争いはこういうことです。
つまり、お互いが自分の正しさを少しでも聞いて欲しいという自我を満たしたい。
少しでも折れてくれたら、こちらも折れてもいいのだが、自分からは非を認めたくない。
端的にいえば、お互いがこういう状態にあるのではないでしょうか。

解決としては2つ考えられます。
1.片方がとりあえず全面的に謝る。(現状ではコモモさんの方がやるしかなさそうですが)
これは、自分の非を認めるということではなくて、いまは相手に理解する余裕がないから、
将来分かってもらえる時まで、私の方が譲ってあげておくわということです。
すぐに変化が望めるのは、このやり方だと思いますが、そこまで割り切って決心できるかどうかは難しい方法です。

2.先程の原因を踏まえれば、お互いが相手のミスを探してしまいがちです。
つまり、「やっぱり私の言ったとおりじゃない」と主張するきっかけを探しているような状態です。
しかし、これを続けるのは、ずるずると嫌な関係を続けることになってしまいます。
そこで、コモモさんの側は一切粗探しをやめましょう。
私はこのようなゲームには参加しないと決意して、相手の誘いに引っかかって議論にならないようにします。
ただ避けるのは難しいので、かわりにコモモさんが今自分の人生に何が必要か素直に振り返って、
ひたすら自分のやっていて心地いいことに専念するのです。
「○○を考えるな」と言われてそれをやるのは難しいですが、それに代わる楽しいものに関心を向け続ければ、
自然と考える機会は減っていくものです。
相手の言動に「また、あんな勝手なことを言っている」とか思って、嫌な感情に入り込むのを阻止するのです。
それを思いたくなるたびに、自分の楽しみたいことに心を切り替えるのです。
旦那さんももコモモさんが何も気にしないし、ゲームにも乗ってこないことがわかると、だんだんすねているのがバカバカしくなってきます。このやり方では相手の気が引けないと分かると、自然とやることも変わってくるでしょう。

1が難しいようなら2を検討してみてください。
どちらにしても、それがバカバカしくなるまで、「私のほうが正しいのに」という考えに入り込まないことが肝心です。
「私のほうが正しいのに」という思いこそが、この無益な争いの核になる原因だからです。





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