自然の調和と心配性
老子の思想には、自然はそのままで調和するように調整機能が働いていくという考えが読み取れます。
たとえば、道徳経の第七十七章でもこのような内容が語られています。
そこで、自然の調和を乱さず「道(タオ)]に任せてしまうとは、どうすればいいのかを考えていきましょう。
よくこのあたりの話をするときに、このように考える方がいらっしゃいます。
「この自然の調整機能でゆがみを正す働きが起こる前に、それを防止するよう努力すればいいのです。」
これは非常に理にかなっているようにも思えますし、常識的にも受け入れ易いものかもしれません。
しかし、「防止するよう努力する」という所で、私は引っかかってしまいます。
つまりここで、道の働きを人間の頭で考えて、こうあるべきだと思う方向に向かおうというのは、基本的に人為的なやり方を採ろうとする今までのやり方と変わらなくなってしまうと考えるのです。
モデルが、「道(タオ)」になっただけのような気がしてしまいます。
私の考えるタオのイメージでは、気がついたらタオの働きで調和する方向に出来事が起きていたことに気がつくという状態なのです。
少し抽象的になっているので、「健康法」という例で考えて見ましょう。

昨今いろんな健康法に関する書籍が出版され、その傾向は今も衰えることがないようです。
あまり読んだことがないので、読者の皆さんの方が詳しいと思うのですが、たとえば「朝食はとった方が健康的である」と言う意見があれば、いや「食事の回数は?の方がいいんだ」という意見もあるでしょう。
「朝食では沢山食べる方がいい、いや起きてすぐいっぱい食べるのは良くない」などなど、何を信じていいものかと思ってしまいます。
もちろん、健康に悪いとわかっていることをやめないのはどうかと思いますが、すべて情報に従おうとしたり、頭でコントロールすることばかりに偏るのもどんなものだろうと思うのです。
それよりも、自分の身体に問いかけられるように、もっと自然に持っている感性を呼び覚まし、磨いていくことで、その鋭さを取り戻していくなら、そのような知識に頼らなくても何をすべきかはわかってくるものではないでしょうか。
また、先に何かおかしいと感じる感覚を、知識に振り回されてわからなくしてしまうと、せっかくからだが告げてくれている警告を見逃してしまうことにもなりかねません。
頭や知識で修正をかけていこうという傾向を抑えて、もっと自分の感性を取り戻すこと。
これが、自然の調整機能に身をまかせられるようになるためには必要なことなのです。
しかし最近は、それとは逆に知識で感性の代わりにナビゲーションをまかせてしまおう、という傾向が強いように思います。
それが、皮肉にも自然の感性を麻痺させ、自分の身体全体で自然との一体感を保つことが出来なくなってしまうのです。
防止法ばかり気になり出すとどうなるでしょうか。
この問いかけに答えるかのように、何があっても失敗を避けられる方法を、まず頭で考えてしまう習慣が出来てしまいます。
人間も始めは自然の中で生きて、さまざまな危険を回避する感性や能力をもっと身につけていたはずです。
それを、言葉や思考を使うことで代用してしまった結果、身体で感じとる能力を失っていきます。
この流れで考えると、心配性とは、自然の感じ取る能力を放棄して、言葉や思考を第二の感性として使おうとする傾向が強くなりすぎ、それが果てしのない悩み思考の渦に巻き込んでしまう状態なのではないでしょうか。
心配性でないひとなら、ここまでチェックすれば後はなりゆきにまかせてOKというように、思考をストップするタイミングで自然にスイッチを働かせます。
しかし、心配性の人は、物事を見た瞬間に、どのチェック機構を働かせるかのスキャンが始まってしまいます。
現実との接点が、ほんの一瞬で切れてしまい、あとは思考の中で過ごし始めるのです。
一つチェックが終わると、別のチェック項目を探します。
一通り終わると、もう一度最初からチェックし直してみようという衝動に勝てなくなります。
自然の感性が使われなくなり、それを信じられなくなるのと並行して、思考を代わりに働かせ、現実を見たり聞いたりすることを避けて思考だけに頼ろうとしてしまうのです。

もしそういう傾向に問題を感じているとしたら、バランスを変えることを考えて見ましょう。
・もっと自分の感性を取り戻し、信頼感を高めましょう。
・もっと目の前の対象を見たり聞いたりすることに時間を使いましょう。(現物を見ないで思考の中に入り込んでいませんか)
・データを集めないと動けない自分はいませんか?たまには予備知識なしの状況に飛び込んでみましょう。
そこで自由に動いている自分に気がついたら、もとから存在した自分がそこにあるのを発見するでしょう。
・シナリオ通りに演じる役者になっていませんか。シナリオのページが途中から無くなっていたら、後半に自分は何をするか即興で考えて下さい。シナリオを握りしめるのをやめれば、ただ自然に流れの中で動いている自分が姿を現します。
・なんでも結果を予測するのをやめてみましょう。「結果は見てのお楽しみ」と唱えてみましょう。
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心配性
心配性2/行動できない
たとえば、道徳経の第七十七章でもこのような内容が語られています。
道の働きは、弓を引くときの弦の状態のようである。
上の部分は下向きに引き下げられかれ、下の部分は上に引き上げられる。
同じように自然に従うなら、ものを持っている人はそれを提供し、不足している人はそれを与えられるのが自然で、全体が均等になるように流れていくものである。
しかし今の世の中、人為的な社会ではこの逆に富めるものがより多くを手に入れるし、貧困にあえぐものはよけい貧しく苦しくなっている。
人為的な操作がこのように自然の流れに逆らったことを作り出しているのだ。
そこで、自然の調和を乱さず「道(タオ)]に任せてしまうとは、どうすればいいのかを考えていきましょう。
よくこのあたりの話をするときに、このように考える方がいらっしゃいます。
「この自然の調整機能でゆがみを正す働きが起こる前に、それを防止するよう努力すればいいのです。」
これは非常に理にかなっているようにも思えますし、常識的にも受け入れ易いものかもしれません。
しかし、「防止するよう努力する」という所で、私は引っかかってしまいます。
つまりここで、道の働きを人間の頭で考えて、こうあるべきだと思う方向に向かおうというのは、基本的に人為的なやり方を採ろうとする今までのやり方と変わらなくなってしまうと考えるのです。
モデルが、「道(タオ)」になっただけのような気がしてしまいます。
私の考えるタオのイメージでは、気がついたらタオの働きで調和する方向に出来事が起きていたことに気がつくという状態なのです。
少し抽象的になっているので、「健康法」という例で考えて見ましょう。

昨今いろんな健康法に関する書籍が出版され、その傾向は今も衰えることがないようです。
あまり読んだことがないので、読者の皆さんの方が詳しいと思うのですが、たとえば「朝食はとった方が健康的である」と言う意見があれば、いや「食事の回数は?の方がいいんだ」という意見もあるでしょう。
「朝食では沢山食べる方がいい、いや起きてすぐいっぱい食べるのは良くない」などなど、何を信じていいものかと思ってしまいます。
もちろん、健康に悪いとわかっていることをやめないのはどうかと思いますが、すべて情報に従おうとしたり、頭でコントロールすることばかりに偏るのもどんなものだろうと思うのです。
それよりも、自分の身体に問いかけられるように、もっと自然に持っている感性を呼び覚まし、磨いていくことで、その鋭さを取り戻していくなら、そのような知識に頼らなくても何をすべきかはわかってくるものではないでしょうか。
また、先に何かおかしいと感じる感覚を、知識に振り回されてわからなくしてしまうと、せっかくからだが告げてくれている警告を見逃してしまうことにもなりかねません。
頭や知識で修正をかけていこうという傾向を抑えて、もっと自分の感性を取り戻すこと。
これが、自然の調整機能に身をまかせられるようになるためには必要なことなのです。
しかし最近は、それとは逆に知識で感性の代わりにナビゲーションをまかせてしまおう、という傾向が強いように思います。
それが、皮肉にも自然の感性を麻痺させ、自分の身体全体で自然との一体感を保つことが出来なくなってしまうのです。
防止法ばかり気になり出すとどうなるでしょうか。
「思いつきでしゃべらずに、話す前に考えなさい」
「いい加減なことをして後悔するのは自分だからね」
「本当にそれで大丈夫なの?」
「何事も慎重に準備してからやりなさい」
「あわてる乞食はもらいが少ない」
「どんなときも気を許しちゃダメだよ」
「本当に必要なときだけ実行しなさい」
「調子に乗ってるんじゃないよ」
心配性2/行動できない
この問いかけに答えるかのように、何があっても失敗を避けられる方法を、まず頭で考えてしまう習慣が出来てしまいます。
人間も始めは自然の中で生きて、さまざまな危険を回避する感性や能力をもっと身につけていたはずです。
それを、言葉や思考を使うことで代用してしまった結果、身体で感じとる能力を失っていきます。
この流れで考えると、心配性とは、自然の感じ取る能力を放棄して、言葉や思考を第二の感性として使おうとする傾向が強くなりすぎ、それが果てしのない悩み思考の渦に巻き込んでしまう状態なのではないでしょうか。
心配性でないひとなら、ここまでチェックすれば後はなりゆきにまかせてOKというように、思考をストップするタイミングで自然にスイッチを働かせます。
しかし、心配性の人は、物事を見た瞬間に、どのチェック機構を働かせるかのスキャンが始まってしまいます。
現実との接点が、ほんの一瞬で切れてしまい、あとは思考の中で過ごし始めるのです。
一つチェックが終わると、別のチェック項目を探します。
一通り終わると、もう一度最初からチェックし直してみようという衝動に勝てなくなります。
自然の感性が使われなくなり、それを信じられなくなるのと並行して、思考を代わりに働かせ、現実を見たり聞いたりすることを避けて思考だけに頼ろうとしてしまうのです。

もしそういう傾向に問題を感じているとしたら、バランスを変えることを考えて見ましょう。
・もっと自分の感性を取り戻し、信頼感を高めましょう。
・もっと目の前の対象を見たり聞いたりすることに時間を使いましょう。(現物を見ないで思考の中に入り込んでいませんか)
・データを集めないと動けない自分はいませんか?たまには予備知識なしの状況に飛び込んでみましょう。
そこで自由に動いている自分に気がついたら、もとから存在した自分がそこにあるのを発見するでしょう。
・シナリオ通りに演じる役者になっていませんか。シナリオのページが途中から無くなっていたら、後半に自分は何をするか即興で考えて下さい。シナリオを握りしめるのをやめれば、ただ自然に流れの中で動いている自分が姿を現します。
・なんでも結果を予測するのをやめてみましょう。「結果は見てのお楽しみ」と唱えてみましょう。
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