« ホーム »

牢獄からの解放 アインシュタインの言葉から

人間とは、わたしたちが宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である。わたしたちは、自分自身を、思考を、そして感情を、他と切り離されたものとして体験する。意識についてのある種の錯覚である。

この錯覚は一種の牢獄で、個人的な欲望や最も近くにいる人々への愛情にわたしたちを縛り付けるのだ。

わたしたちの務めは、この牢獄から自らを解放することだ。それには、共感の輪を、すべての生き物と自然全体の美しさに広げなければならない。実質的に新しい思考の形を身につけなければ、人類は生き延びることができないだろう。

アインシュタイン150の言葉 (40頁)
ディスカヴァー・トゥエンティワン / 1997-03-31 /



鎖から解放


ここでアインシュタインが「意識についてのある種の錯覚である」といっているのが、自我というものでしょう。
私たちはいつもこの自我によって自分の存在を確認しています。
そして、この自我がなくなれば自分はいなくなってしまうと思っているのです。
これが「錯覚」なのです。

現実の生活の場では、私たちはいつも次にやるべきことを思い浮かべ、それをこなしている主体こそが自分そのものだと思っているわけです。
ですが、それらはいま目の前にある状況にたいして働きかけている思考に過ぎないでしょう。

次に何をするか?

「これがあれば次に進める」「これをこなさないと次に行けない」といった思考で、目の前の課題に自分を駆り立てていくことが自分の存在そのものであって、その他のことは気晴らしに過ぎないくらいに扱っているのです。

いまの課題が順調に進んで右肩上がりであれば、「自分はうまくいっているじゃないか。他に何が必要だというのか。」と考えます。

しかし、目の前の課題が完了するか、挫折するかしたとき、私たちは牢獄にいることを思い出すことになります。
あるいは、いそがしさに駆り立てられている中、ふと目の前の課題を忘れたとき「自分は何をやっているんだろう?」と虚しさを感じることがあるかもしれません。

このように、目の前のやるべき事で自分の生きる価値を見出すという、条件付きの自分の存在確認から離れてみなければ、錯覚のまま生きて行くことになるのです。

なにかを計画的に実行する場合には、このような思考は役に立つのですが、その思考そのものが錯覚から抜け出せなくしている原因でもあるのです。

「あと一歩で目的を達成できる」という状態は、悪魔的に私たちをしばりつけます。
つまり、例えば99個が完成した後で、最後の1個を邪魔されたらなんと思うでしょうか。
「あと1個なのに、このまま終わらせる訳にはいかない」という思いは、あらゆる犠牲を払っても達成しなければいけない状況に私たちを駆り立てます。

せっかくこの人達と仲良くなれたのだから、自分を押さえてもこの関係を崩してはいけないという思いは、それが積み重なってくれば、だんだん身動きが取れなくなってしまいます。
ふと気がつくと、自分の本当にやりたい事を聞かれても、はっきり分からなくなっている自分を発見するのです。

「私はあなたの味方ですよ」と言ってしまったばかりに、状況が変化して相手がとんでもない要求を言い出しても、なかなかそれを裏切るわけにはいかなくなります。
関係を壊すよりも、なんとか今のままで自分を納得させられる理屈をひねり出そうとしますが、それには無理があるでしょう。
どこかの時点で、「状況が変われば関係も変わっていかなければならない」ことを受け入れなければなりません。

このような牢獄に縛られた状態では、いまの状況がもはや自分には合わなくなっても、それを認めることが非常に困難になってしまいます。

毎日やっていることが、じわじわと自分を苦しめていて、ときどき自分で自分に言うことを聞かせられなくなってきたと感じるなら、思い切った方向転換が必要かもしれません。

その課題を何も考えずに拒否できますか?
毎日続けているからといった理由で抜け出せなくなっていませんか?
99個まで終わっていても、後1個を残して放り出せる勇気がもてますか?

ひらめいた男性


「これさえうまくいけば、あとはすべてうまくいく」という発想はほんとうでしょうか?
それが完結しても、ただ目の前の課題が終わっただけ、直ぐに次の課題を作り出さないといけなくなるのです。
それは自我を満足させただけに終わってしまうからです。
これが自分だと錯覚している自我というものに、駆り立てられているだけではないかと振り返ってみてはいかがでしょうか。

「それでどんないいことがあるの?」と聞かれるでしょうか?
次々に「いいこと」を探さなければ生きていけないという思い込みがそう言わせるのです。
「理由」がないと、「条件」がないと動けなくなっている自分に気づくことです。

理由も聞かずに、ただ放り出してしまいたいと思っていることはないですか?
「無条件」になにか思いついたことをやってみる自由を取り戻すのです。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ
このブログを登録 by BlogPeople




[関連記事]
「判断」を捨てれば新しい救いが見えて来る
苦しみがなくなるのではない



関連記事

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 幸せになる考え方
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







コメントの投稿

非公開コメント

そうなんですよね。
相手の言葉から始まり、チャンスは今だと思って計画をすすめていくけど
無理な部分がでてきて
それでも、今しかないんだからと心の余裕をなくしてしまう。
頭が固いっていうか
目的がずれていくというか、それで相手を責めてしまったり。
それが結果的に、自分を見失って相手に振り回されたことになっちゃう。
自分は我慢して合わせてるのになんでっていう。
その時点で無理が出てきてることに気づかないといけないですね。

Re: らるさん

> そうなんですよね。
> 相手の言葉から始まり、チャンスは今だと思って計画をすすめていくけど
> 無理な部分がでてきて
> それでも、今しかないんだからと心の余裕をなくしてしまう。
> 頭が固いっていうか
> 目的がずれていくというか、それで相手を責めてしまったり。
> それが結果的に、自分を見失って相手に振り回されたことになっちゃう。
> 自分は我慢して合わせてるのになんでっていう。
> その時点で無理が出てきてることに気づかないといけないですね。

理屈ではなく、その時の感覚(心と体の両方)を大事にしてみるなら、
言葉には出来ないけれど、なにか違うと訴える自分を発見できるかも知れません。

説明がつくことよりも、違和感の残らない選択を考えてみるといいかもしれませんね。

No title

こんばんは。

興味深い記事ですが、今ひとつ理解できないことがあります。

『条件付きの自分の存在確認から離れてみなければ、錯覚のまま生きて行くことになるのです。』とありますが、これはほとんどの場合不可能であると思います。

例えば仕事や勉学等ですが不本意でもそれをこなすことによって得られる達成感というものがあるでしょう。

確かに条件付きではない本来の自分に立ち返る時間というのは必要だと思いますが仰るように、『俺何でこんなことしてるんだろう。タオの道に従って辞めたるわ。』ではそれこそ自分の牢獄から出ることにはならないのではないでしょうか。

また、後半の99の話も論点のすり替えではないでしょうか。

99やっても自分に合わなければ思い切り辞める勇気が必要なことは理解出来ます。しかし前半の条件付きの段と関連性がありません。

結局何がおっしゃりたいのですか?

人は困難なことがあっても前に進まなければなりません。
例えそれが不本意なことであっても。
でもそれを打開していくことで得られる達成感や満足感といった人間性ををあなたは否定しているわけですか?

つまり何でもかんでも自分がいやなものは放りだして、好きなことだけやってれば良いということでしょうか。
もしそれが無条件に何か思いついた事で、やっているうちに困難を感じたらどうすれば良いですか?辞めれば良いんですよね?

あまりにも非生産的であり、まるで『働いたら負け』と言っているニートの戯れ言そのものに聞こえるのですがいかがでしょうか。

はっきり言って目の前の課題をこなしていることが自我であると錯覚している人なんてほとんど居ませんよ。

そういった本来の自我と相反する雑務をこなしながら本来の自分とどう折り合いを付けて行けば良いかのバランスを自分で管理することこそが人としての営みでしょう。むしろ無条件でというのが無理です。『これやってみたい。
』と思ったとしても、その裏には『面白そうだから。』という条件がつきますでしょ。

何か説得力が無いんだよな~。

また、アインシュタインが言いたいのは『人に気を
使って自身を消すことよりも、自身の意思に従って高見を目指せ。』ということだと思うのですが違いますか。

アインシュタインの言う牢獄とは他社の顔色を伺って自分の殻に閉じこもって何も出来ない状態のことであり、鬱憤溜まっていることとは違う気がしますね。

Re: No title

> こんばんは。
>
> 興味深い記事ですが、今ひとつ理解できないことがあります。
>
> 『条件付きの自分の存在確認から離れてみなければ、錯覚のまま生きて行くことになるのです。』とありますが、これはほとんどの場合不可能であると思います。
>
> 例えば仕事や勉学等ですが不本意でもそれをこなすことによって得られる達成感というものがあるでしょう。
>
> 確かに条件付きではない本来の自分に立ち返る時間というのは必要だと思いますが仰るように、『俺何でこんなことしてるんだろう。タオの道に従って辞めたるわ。』ではそれこそ自分の牢獄から出ることにはならないのではないでしょうか。
>
> また、後半の99の話も論点のすり替えではないでしょうか。
>
> 99やっても自分に合わなければ思い切り辞める勇気が必要なことは理解出来ます。しかし前半の条件付きの段と関連性がありません。
>
> 結局何がおっしゃりたいのですか?
>
> 人は困難なことがあっても前に進まなければなりません。
> 例えそれが不本意なことであっても。
> でもそれを打開していくことで得られる達成感や満足感といった人間性ををあなたは否定しているわけですか?
>
> つまり何でもかんでも自分がいやなものは放りだして、好きなことだけやってれば良いということでしょうか。
> もしそれが無条件に何か思いついた事で、やっているうちに困難を感じたらどうすれば良いですか?辞めれば良いんですよね?
>
> あまりにも非生産的であり、まるで『働いたら負け』と言っているニートの戯れ言そのものに聞こえるのですがいかがでしょうか。
>
> はっきり言って目の前の課題をこなしていることが自我であると錯覚している人なんてほとんど居ませんよ。
>
> そういった本来の自我と相反する雑務をこなしながら本来の自分とどう折り合いを付けて行けば良いかのバランスを自分で管理することこそが人としての営みでしょう。むしろ無条件でというのが無理です。『これやってみたい。
> 』と思ったとしても、その裏には『面白そうだから。』という条件がつきますでしょ。
>
> 何か説得力が無いんだよな~。
>
> また、アインシュタインが言いたいのは『人に気を
> 使って自身を消すことよりも、自身の意思に従って高見を目指せ。』ということだと思うのですが違いますか。
>
> アインシュタインの言う牢獄とは他社の顔色を伺って自分の殻に閉じこもって何も出来ない状態のことであり、鬱憤溜まっていることとは違う気がしますね。

Solo さんの仰っていることは、よりよき社会の一員であることが人間というものの絶対条件であるというような前提のお話ですね。
ここで言っているのは、そんな条件を外してみるという話です。
その条件としている社会というものも、単にその時代と空間に特有の人間の取り決めから成り立っているものに過ぎません。
アインシュタインは、そんな今の社会を人間の条件のように思い込んでいること自体を批判してこの言葉を書いているのではないですか。私はそのように受け取ってこの文章を書いています(もちろん本人の真意は誰にもわかりませんが)。

>人は困難なことがあっても前に進まなければなりません。
例えそれが不本意なことであっても。
でもそれを打開していくことで得られる達成感や満足感といった人間性ををあなたは否定しているわけですか?

「困難なこと」「前」「不本意」「打開」、これらも今自分の生きる社会に合わせる上で出てくる言葉ではないですか。
「達成感や満足感といった人間性」とはなんでしょうか。
社会の要求に答えられた、そうすると社会はそれを賞賛してくれる。
それを糧に生きていこうとするのが理想なら、今の社会至上主義で生きようという話になります。
「人間性」という言葉を使われていますが、今の説明のようにその社会の理想像を指しているだけで、普遍的な意味の「人間性」という言葉とは程遠い話です。
また社会という個人が存在するわけではありません。それも錯覚です。
「達成感や満足感」をもたらしているのは、自分の中に取り込んだ社会がそんなあなたを許容してくれたと感じるということですが、それは社会に受け入れられない(さかのぼれば両親等の受け入れ)事への恐怖から起きてくるやもを得ない強迫的な行動ではないですか。

>つまり何でもかんでも自分がいやなものは放りだして、好きなことだけやってれば良いということでしょうか。
もしそれが無条件に何か思いついた事で、やっているうちに困難を感じたらどうすれば良いですか?辞めれば良いんですよね?

これも先ほどの説明で、条件と言っていることの意味を考えれば、こんな疑問は生じてこないでしょう。

いままで築き上げてきた自我は強力です。
ひとつふたつ言葉を唱えただけで、それらを断ち切ることなんて、簡単にはできません。
ある日突然変われるようなものではなかなかないでしょう。
しかし、そんな中でもどんな方向を目指すのかの指針は必要でしょう。
それは、今自分がいる社会にどっぷり浸かっていたのでは、脱出等不可能です。

たとえば会社組織の一員なら、命令されることにたいして、「何か違う」という自分の中から訴えてくる感じと葛藤を起こすことも多々あるでしょう。
そんなときに、どうやって本来の自分を殺さずに生きていけばいいか、それを考えなければなりません。

> あまりにも非生産的であり、まるで『働いたら負け』と言っているニートの戯れ言そのものに聞こえるのですがいかがでしょうか。

これこそが、自分のいる社会にどっぷり浸かった人の考え方ではないですか。
社会に馴染めない人間をニートと呼んで、主流から外すことで今の自分を優位な人間だとすり替えるという、社会の思惑にすっかりはまってしまっているのです。

「ニート」という言葉でひとくくりにするのは乱暴すぎますが、しかしそういった人たちの行動に見られるのは、社会への抵抗からくるものであり、条件付けられない自分を大事にしたいという現れが原動力なのではないでしょうか。

何もしない人間と見ているのは、「社会が期待する行動」という観点から見て何もしてくれないのです。
「社会が期待する行動」からみて非生産的に見えるだけです。

アインシュタインの警告は、まさにそんな社会にどっぷりのままでは危険だと言っているのです。
sidetitle最新記事sidetitle
《最近7日間の人気順位》
~ランキング全体をみる~
~ランキング全体をみる~

sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle全記事表示リンクsidetitle
過去の記事はこちらから↓

全ての記事を表示する

sidetitleブログ紹介sidetitle
☆~新刊⌒☆
☆ちゃん見るシリーズ☆


好評発売中


アルファポリス
第2回エッセイ・ブログ大賞
特別賞『タオに生きる』 pao
WebコンテンツPickUP!タオに生きる
【 エッセイ・日記・blog > blog 】
老子の教えに学ぶ
老子のいう「タオに生きる」ということはどういうことなのか。さまざまなアプローチから、自らの考えや学んだこと、思ったことが綴られています。心をやすめ、身体をやすめ、穏やかで落ち着いた生活をしたい……そう願う人たちにとって、ヒントに溢れたブログです。


ez-HTML





PRR
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleカレンダーsidetitle
11 | 2016/12 | 01
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
sidetitleにほんブログ村sidetitle
sidetitleお世話になってますsidetitle
※FC2ブログのリンクですが、なるべくblogpeopleのリンクをお願いしています(右サイドのお友達リンク)
このブログをリンクに追加する
sidetitleスポンサード リンクsidetitle
sidetitleアクセス情報sidetitle
sidetitleジャンル・ランキングsidetitle
[ジャンルランキング]
心と身体
47位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
スピリチュアル
14位
アクセスランキングを見る>>

sidetitle検索フォームsidetitle


もう一つの「タオに生きる」カテゴリー別
Screen Shot_30p ※徐々に更新しています
タオに生きる(人間関係)
タオに生きる(アドバイタ関連)
タオに生きる(YouTube#1)
タオに生きる(YouTube#2)


[上位タグ20]
感情、莊子、思考、怒り、罪悪感、老子、いまここ、人間関係、バイロン・ケイティ、交流分析、タオ、エックハルト・トール、ありのまま、許す、YouTube、老荘思想のコラム連載、不安、過去、無為、OSHO

sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleアクセスランキングsidetitle
訪問いただいているサイト
(週間 木曜日リセット)
※こちらでタイトルを入れさせてもらっていますが、出したくないとか変更したいという方はご連絡下さい。

sidetitleカテゴリsidetitle
カテゴリーを追加し整理しました。 バイロン・ケイティ、エックハルト・トール、ガンガジ、ムージ、OSHO
sidetitleQRコードsidetitle
QRコード
sidetitleお友達リンクsidetitle
FX