残念なことに、あなたがなにか新しいものを見るたびごとに、あなたは既知の情報や知識や記憶をそこに持ち込んでしまうのです

この知識と信念という二つのものが、私たちの生活の中で異常なほど強力な役割を果たしていることを観察することは、とても興味深いことです。膨大な知識のある人や博識家を私たちは大変尊敬しますが、それがどのような意味をもっているかあなたはお分かりでしょうか。もしあなたが、あなたの想像を投影したものではない、何か新しいものを発見したり体験したいと思うなら、精神は自由でなければなりません。精神はその新しい何かを見ることができなければなりません。しかし残念なことに、あなたがなにか新しいものを見るたびごとに、あなたは既知の情報や知識や記憶をそこに持ち込んでしまうのです。そしてその当然の結果としてあなたは、過去の古いものをではない全く新しいものを、見たり受け入れたりすることができなくなるのです。
どうかこの問題をすぐ、日常のありふれた事柄に置き換えて考えないようにしてください。たとえば、もし私がどのようにして私の家へ帰るのか分からなければ、私は途方に暮れてしまうでしょう。またもし機械の操作を知らなければ、私はほとんど役に立たない人間になってしまうことでしょう。しかし今私が申し上げようとしていることと、こうした問題は全く別のことなのです。私たちはそういうことをここでお話しているのではありません。
私たちはここで、安全、つまり何かになろうとする心理的な欲望の手段として使われている知識を、問題にしているのです。それでは、あなたは知識を持つことによって、何を得ることができるのでしょうか。それは、知識の権威、知識の重み、自分が重要だという意識、威厳、活力に満ちているという感情などではないでしょうか。事実、「私は知っている」とか「存在する」とか「存在しない」と言う人は、明らかに思考を停止してしまって、欲望の全体的な作用や働きを追求することを止めてしまっているのです。
~J.クリシュナムーティ 「自我の終焉」
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