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受動的な観察者

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何かのきっかけで、いろいろな自分に気がついて驚いてしまうことも時にはありますね。

「自分はこういう人間だ」と言い聞かせていたことでは説明が出来ないと、そこで戸惑ってしまうのです。

むしろ、「自分はこういう人間だ」と決めつけていたことが、大ざっぱすぎたことに気がつかないといけないのです。

では、いろんな自分が現れてもてあますときどうすればいいでしょうか。

ここでは、交流分析などを中心に自分を知る方法を考えてみます。

まず、カープマンの提唱する3つの役割について。

私たちは普段から、「迫害者」「犠牲者」「救助者」のどれかの役割を演じようとしがちで、どれを使いやすいかという、その人の得意な役割を持っています。

この場合の役割とは、ドラマで役者が役になりきっているように、ほかの人からはその人そのものに映るのですが、実際は役割を演じているのです。

しかし、役者も役になりきっていると、それが自分そのものに思えてくるといわれますが、同じように役割を演じているときには、私たちもそれこそが「私」そのものだと感じているのです。

自分そのものだと思うわけですから、その役割を批判されたり攻撃されれば、自分を守ろうと必死になります。

荘子の話に出てくる王様に奴隷のように使われる男の話。

昼間の実際の生活では王様から奴隷のようにこき使われますが、夜眠った後は夢の中で自分が王様の役割に転じて王様をこき使おうとします。

現実の場面では男は「犠牲者」を演じていますが、彼の中にはまた「迫害者」としての自分も立派に存在しているのです。

現実を離れた夢の中では、その「迫害者」が自分そのものになります。

はたして、本当の自分はどちらなのかと悩むわけですが、どちらも自分だというのが正解なのでしょう。

自分はこういうタイプだと社会に向けて表明していても、決してそれだけが自分ではないことは、まわりの人も自分自身もうすうすわかっているものです。

しかし、いったんそれから外れた自分が現れると、どうしたらいいだろうと慌ててしまうのは、自分が思い描いた自分とあまりにも同化しているためです。

それは、自分の中の一部に過ぎないという見方が出来なくなってしまうのです。

さて、いろんな自分が出来上がってくる過程をごく大ざっぱに見てみましょう。

まだ幼い子どもは、親に保護されて生きるしかありません。

ここで親が果たす役割は、養育的に子どもを扱う親と、しつけなどで命令する立場の親の2つの面を持ちます。

子どもは、自然に反応する自分の他に、親の期待に応えないと生きていけないと思って親に合わせて適応しようとする自分が存在します。

親が子どもに命令するときというのは、ちゃんとした理由が有って子どもを守るために叱る場合もあれば、単に親の側が機嫌が悪くて、つい無関係に子どもを叱ることもあるでしょう。

しかし、子どもにすれば、そんな事情はわかりません。

理由はわからないけれど、自分は叱られていて、嫌な思いをすることもあるんだと受け入れるしかありません。

反発を感じて抵抗する子どももいれば、自分の中に押し込めてしまう子どももいます。いずれにしても、理屈抜きで反応するしかないパターンを作り上げていきます。

しかし、幼い時期には子どもと親の関係は一方的であるとはいえ、親の姿を見ている子どもはそれを自分にも取り込んで行きます。

「お母さん、またテレビつけたまま寝てたよ!ダメだねえ」と子どもが言うとき、子どもは親の立場から見ているのでしょう。

子どもの中の「親」もだんだん育っていきます。

大人になるにつれて、その占める割合も増えてくるでしょう。

ここまで見てきただけでも、自分と一口に言ってもいろんな役割の自分が蓄積されてきただろうことがわかります。

王様にこき使われる男は、仕方なく従う「子ども」としての役割の他に反発を感じている「子ども」も感じ取るでしょう。

そして夢の中で自由を取り戻したときには、自分の中にとりこまれた批判的な「親」を発動することになるわけです。

言語化されていない段階での反応ほど、反射的に現れてコントロールするのは難しいものです。

しかし、だから「いつも私はこうなってしまう」と決めつけてしまうのは早計です。

すぐに反応してしまうからと言って、それだけが自分だということにはなりませんし、他の反応は自分に出来ないと決めつけなければ、他の自分を発見できるのです。

表向き従順な子どもは、適応した「子ども」をまず表に出すこどもです。

しかし、他の自分もまた立派に存在しています。

ときには、反発する「子ども」が顔を出しますが、それは自分じゃないと押さえ込んでしまうのかもしれません。

従順な「子ども」とペアを組んでいるのは、威圧的な命令する「親」です。

当然、その親像は自分の中にも取り込まれています。

「親」と「子ども」の関係は他人との交流以外にも、自分自身の中での「親」と「子ども」の対話が存在します。

従順に仕方なく従う「子ども」を演じることが多ければ、ペアを組む批判的な「親」も自分の中で育てていきます。

「犠牲者」は追い詰められれば、一転して強力な「迫害者」に変身します。

「救助者」は相手が助けを拒むと、これまた一転して「迫害者」に変身します。

まわりの人は、自分のとりやすい役割を補完するの人に見えてくるのも仕方ないことです。

自分が反発を感じやすいほど、まわりの人は自分を怒らせるように見えてきます。

自分が隠そうとしている、不都合な自分を刺激するような人が目に入りがちなのです。

しかし、それは人間の心理の弱点というものです。

ですから、そういうものだと思って、罠にはまっても自分だけの責任を感じる必要も有りません。

素直に自分を見られるようにしておくことが、そういった罠にはまらない対策になるでしょうから、嘆いたり罪悪感を抱くくらいなら、それを見抜く観察眼を磨けばいいのです。

子ども達が5,6人集まって遊んでいるのを見ていると、すぐにこの子はいじめられそうとか、この子はガキ大将っぽいなとかいうのが見えてきませんか。

だれしも自分の得意な役割を、自然と表に発散しているのです。

そして、それを補完する役割の人が近づいてくるものなのです。

キックミーと叫んでいる子どもには、いじめっ子が近寄ってくるのです。



長くなりましたが、本題に戻しましょう。

「受動的な観察者」として自分を見るのです。

さまざまな自分が存在することを認めて、「どうせ私は~な人間」と決めつけないことです。

決めつけないでいることを続ければ、こんな自分はいないと切り捨てていた自分も、自分の存在を主張し始めます。

やがて自分が思い描いてきた自己像とは、実は社会的に望ましいとされる自分ばかりを積み上げたものだとわかってくるでしょう。

押し込められていた自分を見つけ出すに従って、自由を取り戻していきます。

そんな自分は自分ではないと無理に信じようとしたり、他人に見せかける為に使っていたエネルギーがいままで自分から自由を奪ってきたのです。

それが、なにかスッキリしない自分の原因で居続けてきたのです。

「受動的な観察者」というと、いつも冷静になって白けているような印象を持つかもしれませんが、必要なときには、自分自身に入り込めるという選択の自由をもつのは、普段からニュートラルでいられる自分があるからこそです。

いつも何かに入り込んで、力が入っている人は、他の事を頼めそうにありませんよね。

近寄れば、それに賛同しないわけにいかないと感じてしまいます。

何かをしきりに訴え続ける人をよくみていれば、なぜそんなにこだわるのか聞いてみたくなりませんか。

それしかない、それを逃したら自分がいなくなると必死な裏側が見えてくるのです。

「これこそが自分だ」と言い聞かせるやり方はどんなことを生みだすでしょうか。

・それを批判されると、死活問題のようにそれを守るのに必死になります。

・それ以外の自分を認めないでいることが、柔軟な切り替えを難しくして、選択肢を狭いものにしてしまいます。

・受け入れられるのは、自分に賛同してくれる人ばかりになってきます。

・自由を制限された思考からは、偏った考えしか生まれてきません。

解放するというのは、縛り付けてきたと思い込んでいる「外側の何か」に反旗を振りかざすことではありません。

解放とは、自分の中にある縛り付けている自分の解放しかないのです。

それには、先入観を無くして自分を観察する姿勢が一番なのです。

華やかな騒がしさで自分を誤魔化していても、パーティの後の寂しさを生み出すだけです。

そういう人は、いつも仲間がいないと不安になります。

やたらと能動的になる姿勢は、何かへの反発からくるものです。

そして反発する対象がなくなったら、すぐに力を無くしてしまいます。

相手が謝ってきているのに納得しない怒った子どものように、いつまでも怒り続けるために、別の反発する対象を探し続けることになってしまいます。

ありのままに見るには、受動的な観察が必要なのです。

相手ありきの反発を捨てて、自発的な姿勢を生み出すことが必要です。



だれかを悪者にしたいと思っているのなら、まだ認めていない自分がいるということです。

敵を想定しないといけないようでは、本当の改革は出来ません。



自分自身で考えるには、一人静かに自分を振り返る時間が必要なのです。

ありのままに、受容的にです。
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