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自分自身で自分のスイッチを切るだけのマシン~自分で選択する

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スイッチを入れると、たとえば手が出てきてすぐにスイッチを切って返って行くというマシンをごらんになったことがあるでしょうか。

※「Leave Me Alone Box」などで検索するとYouTubeでいくつも出てくると思います。
見たい方は、たとえばこれ



この自分自身で自分のスイッチを切るだけのマシン、誰かがせっかくスイッチを入れて動こうよと言ってくれても、いやだほっといてくれと言ってすぐにスイッチをオフにしてしまうのです。

自分自身を否定するマシンと言う見方も、なかなか興味深いのですが、今回の話は、ちょっと別の面を見ることからスタートします。

このマシンは実は、誰かがスイッチを入れると、それを切ってしまうことが自分の使命になっています。
誰もそれを命令しているわけではないのに、スイッチを切る以外の選択が出来ない。

つまり、何が自分にとって重要なのかを選択する余地を持てないまま、自分を否定して終わらせてしまうのがこのマシンの姿です。

本当はスイッチを入れて生きていたいのに、自分で終わらせることを選ばずにいられないこと。

そこに、このマシンが自由を持てない理由が存在するのです。

『スイッチを入れられても私は気にしない。いちいち切ったりしないよ!』とこのマシンが宣言できたとき、自分を生き続ける可能性が生まれてきます。

それでは、やっと本題に入ります。
このマシンから連想して、あなたがスイッチを切らずにいられない問題を考えてみましょう。

この人に関わると、いやだと思いながら○○しないでいられなくなるという人を取り上げましょう。

それではまず、あなたがいつもその人と関係すると問題を引き起こす、そういった人を思い浮かべてみましょう。

おそらく、というよりも間違いなく、そういった人たちはあなたの身近な人であるはずです。

それは家族だったり、会社でいつも接する人、あるいは最近はネットでつながりのある人かもしれません。

◆あなたをすぐ怒らせる人がいます。

今日は怒るまいと思っていても、そうはいかない。
まるで私を怒らせるために生まれてきたんじゃないか、と思ってしまう。

今日はいつものように、なぜ自分が怒っているかという理由を数えるのをやめてみましょう。
そうではなく、『スイッチを入れても私は気にしない。自分を怒らせることを拒否します。』と言ってみるのです。

今日のあなたは、なぜかいつもあなたの機嫌を損ねる言葉が、右から左へ通り抜けていきます。あなたはそんなことは一向に気にならない別人なのです。
なぜって今日は、怒るのを拒否したからです。

怒るのをやめてみれば、あなたの怒る理由など絶対的なものではないことがわかるでしょう。
あなたが別の人だったら怒らないだろうと思えるなら、今日はその人になったつもりでいましょう。

その結果、その怒りの原因である人は、今日のあなたを見ていつもと違うことを感じ取るかもしれません。
あるいは気づかないまま、あなたを怒らせるようなことを「今日はその気分じゃないな」と思ってやめてしまうかもしれません。

それとも、もっと奇妙なことを発見するかもしれません。
つまり、その人は誰が相手だろうと同じことをする人であり、他の人はそのことで何とも思っていなかった。
それに反応してしまうのは、あなたならではの反応であったことに気づくのです。

そうです、あなた自身の怒りに対するコミットメントが確実に存在しているということです。

あなたは怒りを起こさせるのが外にいる相手だとばかり思ってきた。しかし自分のコミットを認めたとき、それはもう自分の問題に変わるのです。

自分の問題だったと認めることは、悪いニュースではなく良いニュースです。
もはやあなたは、相手次第で怒らされる奴隷ではなく、自分で自由に選択できるのです。

怒りを抑えましょうと言っているのではありません。
そんなことなら、毎日のようにやっていて、うまくいかないことはいやになるほどあなた自身が知っています。

そうではなく、あなたは今日はそのことで怒らない別の人を演じてみるということです。
そしてまた、あなたは今日はそんな怒りに自分が踊らされるのを拒否する人になってみるのです。

他の感情についても、同じように試してみましょう。

その人と関わると毎回のように・・・になります。

◆あなたは憂鬱になります。

あなたの憂鬱はあなたのものです。引き金になる人のせいにしていないで、自分がその憂鬱そのものになってみましょう。あなたは何を感じ、誰がそこに登場するでしょうか?
それはいま目の前にいる人ですか?
違うとしたら、何か共通するものを持っている人でしょうか?
今日は、そのどちらの人も知らない人になって演じてみましょう。

◆あなたは嫉妬を感じます。

私が主役のはずだった、なぜ私じゃなくてあなたなの?
あなたが本当に責めているのは、相手ですか?自分ですか?
自分を責めているなら、今日は別の人を演じてみましょう。
そのことに関して、あなたは全く縁のない人です。
それがどうなろうと、全く気にならない人です。
さて、責められる人は誰か見つかりましたか?
それともそんな人は、最初からいなかったのでしょうか?

◆あなたは悲しくなります。

悲しんでいるのはあなた自身です。相手の何があなたを悲しくさせたのでしょう。
今日は、その相手の人になって演じてみましょう。
その人になったとき、あなたは他人を悲しくさせるような人でしょうか?
「悲しめ、悲しめ!」と言っているでしょうか?
言っていないなら、他の何を拒否すればあなたは悲しくならないでしょうか?
今度はちっとも悲しくない全く別人になってみましょう。
その人から見れば、相手はどんな人に見えるでしょう。
さて、悲しませる人、悲しくさせられる人、彼らはどこにいるのでしょう?


おわかりでしょうか?
スイッチを入れに来る人に反発して無意識にスイッチを切ってしまう人をやめてみる。
スイッチを切るかどうかは自分で決める人になろうと決心するのです。
自分は「ほっといてくれマシン」ではなくて、人間だと宣言しましょう。
そのとき、今まで見えていなかった何が見えてくるでしょうか?


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混乱した状態も悪いものではない~ルールとは

パソコン・メンタル



「混乱した状態も悪いものではない」と言われても、何を言われてるのかさっぱりわからないという方がほとんどでしょう。

逆の方向から言った方がわかりやすいでしょう。
つまり、ルールというのは私達を便利にしてくれますが、同時に束縛するものでもあると言うことです。

私達は説明のつく理路整然としたことに慣れすぎていて、それこそが本来の状態だと思い込んでいます。

ですが、説明のつけられることを最初からやっていたわけでもないし、それが本来の自分というわけではありません。

子どもの頃に思いつきで遊んでいたとき、ルールなど無視して遊んでいなかったでしょうか。
ルールに縛られるようになるにつれ、だんだん子どものように、大胆で荒唐無稽なことを考えられなくなります。

そして、まわりからのしつけや教育によって、第2の自己を作り上げてきた。今ではそれこそが自分自身だと確信しています。

ですから、自分の行動はすべて自分の考えるとおりになっていると信じたり、説明できないことを恥じたり、あるいは予測のつかない行動をする他人を批判したくなるわけです。

もちろんルールに従って動ける自分というものが不要だと言っているわけではありません。

それがなければ、たった一人で生きているのでもなければ、たちまち困った状態になるのは、言うまでもないことでしょう。

つまり、必要なときにルールに従うか、それとも縛られないのか、自分を切り替えられる余地を残しておけるかどうかがポイントだと言っているわけです。

しかし私達は仕事の中に入り込むほど、ルール通りに動ける自分こそが役に立ち、曖昧でぼんやりとした思いなど、邪魔になるものでしかないと思い始めてしまうものです。

その考えは、仕事だけでなく人間関係にも派生していくのは目に見えています。
つまり人間関係に対しても、予測可能で違反がないことを期待してしまうのです。

そして違反するものに対しては、文句を言って、なんとしても従わせようとやっきになります。

「それが社会のルールというものだ」といって、絶対的なルールのように感じてしまうのですが、実際に私が思い浮かべているものは実は「私のルール」に過ぎません。

相手もルールをわきまえているかもしれませんが、それは「相手のルール」であって同じではありません。

絶対的で誰にでも共通すると信じているルールは仮想のものであり、一度としてみんなが一致したことなど無いのです。

そのような幻想を捨てて、ルールに沿っている自分がすべてではないと思い直したとき、ルールから外れる自分も自分の一部であることを思い出します。

そういった自分を見つけても否定する必要がなくなるので、今までそのたびに感じていた罪悪感や、駆り立てられるような思いからも解放されるのです。

そして、混沌としていて、いつ変化するかもしれない状態を嫌がっていたのは、決まった予測のもとで安全に生きたいという守りからだということに気がつきます。

守りというのは、必ず予想外の事態への恐怖を作り出すものです。

今持っているものが明日はもう無いとしたら、あの人が急にいなくなったら、今の社会的な地位を急に失ったら、etc.etc.

もともとルールなど何もなかったことを思い出すとき、今の作られた偽の安全は無くしてしまいますが、それを守ろうとして抱えるようになった恐怖や強迫的な駆り立てからは解放されるのです。

今、あなたが気に入らないと思っていることはなんでしょうか?

「あの人が言うことを聞かない」でしょうか?
「私の期待していることが起きてくれない」という思いでしょうか?
「こんな社会は間違っている」でしょうか?

バリエーションはたくさんあるでしょうが、どれも「私のルール」に沿ってことが進まないということが原因になっているわけです。

しかし、そんな約束は成立してはいないのです。

もともと約束など無かったと理解できれば、あなたは約束と違う外側の事態に腹を立てる必要もないし、またあなたが約束通り義務を果たさなければと思うことからも解放されます。

社会的な関係性のために、必要なとき必要なだけルールに従えばいいだけです。

それを超えて自分を縛っているのは、他ならぬ自分自身であり、それから解放できるのも自分自身だけです。

「いや、そんなことはない。自分だけでは決められないこともある。」という脅しには乗らないことです。
そんなことを言う人は、自分が縛られているルールにおまえも従うべきだと言っているだけです。

限られた範囲での取り決めはあるとしても、条件なしに強要されるルールなど何もないのです。

あなたが自由と引き替えに安全か何かを手に入れようとして取引をしない限り、あなたを束縛するものなどどこにもありません。

そして、それが保証されていなければ、どこに自由などあるでしょうか。

ほとんどの人は、自由が欲しいと言いながら、安全が欲しいという恐れへの回避行動から、悪魔の取引をしてしまうのです。

たとえこの取引をしても、いつか何かを手に入れたら、あるいは誰かが現れて、そこから解放される日が来るはずだと言い聞かせて自分を騙し続けます。

そうやって、本当は信じてもいない希望を持ち続けることになるのです。

ですが、選択の自由を明け渡してしまったあなたに、望むとおりの世界が現れるはずはないのです。

そもそもは、予測できる明日を欲しいからと、必要以上の約束を自分にしてしまったのが原因です。

このように考えてくれば、他人や出来事をコントロールできる力を手に入れれば、自分を苦しめる感情もコントロールできると思うことが幻想であることは想像できるでしょう。
コントロールしようと思うこと自体が苦しさの原因だったのです。

どちらに転んでもいいと思っていることに対して、あなたは不安など感じないでしょう。

ルールのないこと、説明のつかないことを受け入れられた分だけ、あなたは力を回復し、自由になれるのです。

そして、それがすなわち、今の苦しさから逃れる唯一の方法でもあるのです。

空の雲を眺めてぼんやりしているとき、あなたは幸せです。自然と一体になれます。

しかし、あの雲がもう少しこっちにあった方がきれいだと思い出したとき、あなたは現実の生活に戻らないといけないと、急に憂鬱になり、ため息をつきます。

その現実の生活と呼んでいるものとは、他ならぬルールに束縛される自分に戻ることなのです。


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苦しいことも時には必要なのだろうか?

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苦しいことを我慢してもいいことはありません。

ですがこの単純な言い回しに対して、例外もあると言いたがっている自分がいたりしないでしょうか。

ですから、まずはその例外を持ち出したくなる理由を考えてみましょう。

ひとつは自分の中に潜んでいる自分を罰したいという思い、つまり罪悪感から来るものです。

そのような自分が働き出すと、表向きは「時には苦しいことにも耐えなければならないものだ」という言葉が思い浮かび、これは必要なことなんだと思ってしまうのです。

ですが、実際には自分の罪悪感をなだめるために、この辺で自分に苦しみを与えておこうと自我が画策した結果なのです。

このような罪悪感から来る苦しみは、直ちに断ち切ってしまうのが一番です。

「いままで罪悪感が理由でなんとなく受け入れてしまったけれど、本当は必要ではないものなんだ」と見極めて手放してしまうことです。

一度それを実行すれば、苦しみを手放しても何も問題は起きてこないことに気がつきますから、そのあとも見極めることが、どんどん容易になります。

2つめは「苦しいことから逃げてはいけない」という言葉を無条件に信じてしまうことから来る場合です。

「苦しいことから逃げてはいけない」と教えられたり、そういう経験をしたことから、その言葉を汎用化してしまったのです。

ですが「苦しいことから逃げてはいけない」と言われる本来の意味は、向き合うのがいやなことでも、それを避けたままでは解決しないということを言っているわけです。

実は、この「苦しい」という言葉がくせ者なのです。

「苦しい」という言葉を汎用化させてしまうと、脳はすべての「苦しさ」やそれに近い状態に対して同じ反応を起こしてしまうのです。

その結果、いま苦しいと感じている様な気がするが、これもきっと必要な苦しみに違いない、だから我慢しないとならないのだと考えてしまいます。

これは、言葉というものが便利な道具であると同時に、私達を混乱させる弊害も持つという典型的な例です。

その結果、こんな苦しい思いは必要のないものだと感じていても、手放すことに不安を感じてしまうのです。

たとえば、避けてはいけないものとしてあげられるのが、ありのままの自分に直面するときの痛みです。

最初は何らかの不快な感情や痛みが伴うと思ったために、本当の自分と向き合うのを避けてしまったのでしょう。

ですが、それが苦しみになってしまったのは、それを避け続けてきたからです。

思い切って向き合ってしまえば、一瞬の痛みで済むことも、避けるというやり方がいつまでもそれを引きずり、苦しみにまでふくれあがらせてしまうのです。

このような言葉に基づく混乱を避けたければ、「苦しいことから逃げてはいけない」ではなく、「避けられないことには、向き合わないといけない」というように、もっと明確な言葉に置き換えて使うようにすればいいでしょう。

◆あなたの望んでいるのが幸福なら、何であれあなたを苦しませるものは不要なものである。躊躇しないで排除することを断行すればいい。

◆苦しみを避けるためには、自分の本当の姿を明らかにすることが必要である。しかし直面することを苦しみだと思って避けているから、逆に苦しい思いを育て続けることになる。

◆苦しいと感じながら、駆り立てられるようにやっていることに気づくこと。強制されてやっていることは、何であれいい結果に導かれることはない。
あなたは、もうしつけを受けている小さな子どもではないのだから、実体のない強制に対していつまでも奴隷になっていることはない。

◆準備をすることと、今を犠牲にすることを勘違いしないこと。
「今日苦しい思いをしておけば、明日になって慌てなくても済む」という言葉も、本当に妥当な範囲の準備活動なのか、それとも何かの贖罪のために不要に苦しんではいないかチェックしてみること。

◆せき立てられて生きることに喜びはない。そこでは必ず不要な苦しさを感じているはず。やらないといけないと言っているのは誰なのか、良く確認してみることだ。

◆「この苦しさは必要なことなの?」という思いが浮かんだら、その声を応援してしっかり耳を傾けること。それこそが自分を取り戻すきっかけになるかもしれない。


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マイナスの影響を与える人

苦痛メンタル



その人と会って話をしたり、ネットなどで文章を読んだとき、なぜだかわからないけれど、いやな気分が残ったり、イライラしてきたりするってことありますね。

どこが原因かわからないから、余計に始末が悪いんです。

ですが、自分の変化には何か原因があったはずです。

相手の言っている言葉は、表面的には直接原因を表すようなものでなかったのですが、巧妙にこちらの心理の何かを引っかけてしまっている可能性があります。

たとえば、社会的に望ましいことと自分が思っている基準から、相手の行ったことに反論することを控えてしまう様な場合です。

そこで私は言いたいけどやめておこうと我慢する。
ですが相手は巧妙に反論したくなる要素をちりばめているのです。

中には、下手に反論すると待ってましたとばかり、その反論の不備を突いてくる。
抑えるのもいやな気分にさせられるけれど、反撃してもやり返されて余計にひどくなる。

実はこういった相手は意識的か、習慣になってあまり意識がないかどうかはわかりませんが、結果の計算は出来ているのです。

その結果とは、相手の苦しむ顔、悔しがる様子であることが多いのです。

話さなければよかったと思う人の多くは、たとえばこのような人ではないでしょうか。

・こちらの言ったことに、何かとケチをつけてくる。
・せっかくの達成や気分の良さが台無しになるようなことを思い出させる。
・皮肉を言うことに楽しみを感じているような人。


皮肉屋さんというのは、自分の言葉で相手の痛いところを突いたと感じられることに快感を感じているように見えます。

そしてまた、それは打ち上げ花火のようなもので、相手をぎゃふんと言わせて、その一瞬の快感のためにやっているようなものです。

それが終わってしまうと、もう相手にも話題にも関心は無くなってしまいます。
当然、解決や後がどうなるかなど考えてもいません。

相手の痛がっている顔を眺めながら、自分は他の獲物を求めて、その場を立ち去っていこうとしているのです。

ですから、皮肉屋さんの言った内容は、そんなに考えた上で生まれてきたものではないし、本人もその続きがどうなるかなど考えていないのでしょう。

その意味では、皮肉屋さんに対して「あなたならどうすればいいと思いますか?」と聞いてあげましょう。
相手への仕返しではなく、相手のために聞いてあげるのです。

おそらくちゃんとした答えは出てこないでしょう。
なぜって、「痛いところを突く」と言うことがゴールであり、問題を解決しようと思って言っているわけではないからです。

あなたが一生懸命考えて、努力して積み上げたことは、誰かの一言で台無しになったりはしません。

実際にやったことは、実体のない一言などよりも重みがあるし、価値があることは明らかではないですか?

相手は自分が優位に立とうとしているのでしょうが、あなたまでそれに付き合って、だめな役に自分をおとしめる必要などないのです。


優位にあるか劣勢にあるかは見かけだけ。

容易に立場は逆転するものだし、そのような優位とか劣勢ということを超えて、対等な位置からものを見ることが出来なければ本当のことは見えてこないものです。

そして見かけの優位さなどに気を取られないで、本質を見抜くことを忘れなければ、相手の引っかけに惑わされることはありません。

ゲームに引き込むための「引っかけ」が存在していることに気づきましょう。

たとえばわざと曖昧な言い方をしていながら、「こんなにはっきり言ってるのにわからないの?」と言って挑発します。

誰しも自分に自信のないところがありますから、そういう言い方をされると自分の理解力が不足しているのかなあ、と自信をなくしてしまいます。

ですが、ゲームの場合は巧妙に話をぼかしているのであって、あなたの理解力の不足ではないのです。

それでも、自信をなくしたあなたは、細かく確認しにくくなるので、自分なりに考えて理解しにくい部分を補って意見を言います。

そうなれば、あなたは相手の引っかけにはまってしまったのです。

「そんなこと私はひと言も言ってないよ。全くあなたの理解力のなさには困ってしまうね。」みたいなゲームの仕上げをするのです。

あなたは、「そんなつもりじゃないのに」と思って悔しい思いをしますが、ますます相手のペースにはまってどんどん不利な状況に追い込まれてしまいます。

あなたの弱みは、たとえばあなたの信じている社会的な望ましい人物像にあるのです。
普通の相手ならそれは正しく機能しても、このような相手だと通用しなかったわけです。

たとえば、あなたが曖昧な言い方に対して確認を躊躇したこと、それはおそらくあなたの優しさ故なのでしょうが、相手は引っかけるための餌に、まんまとはまってきたぞと思っているのです。

罠にはまらないためには、あくまで自分を信じることです。
曖昧でわからないと思ったら、その自分の感覚を信じて、確認しましょう。
もし相手が、きちんと応えないのなら、その人とは話を打ち切ればいいのです。

相手はあなたの弱点を見抜く達人だけれど、まともなやりとりに戻ってしまえば、その企みは通用しなくなります。

あくまで自分を信じてぶれないことです。
あなたの本当の望んでいることが何かを忘れないこと。

あなたの弱点を突かれたのですから、動揺してしまうのは当然なのです。
間違っても、それをあなたの能力や価値のなさと結びつけないことです。

一息ついて、ちょっと動揺しただけだと思って、自分を信じる原則に従って仕切り直せばいいのです。

このようなゲームにはまってしまえば、それが相手の仕掛けだろうと、自分の仕掛けだろうと、本物の交流にはなりません。

自分が被害者だろうと、攻撃する側だろうと、あるいは助けようとしている人であろうと、どれも同じように偽物の関係に過ぎないということです。

さて、こういった相手に対しては、今は相手にしたくないと思ったら、相手とは関わらなければいい。

それでも、相手をしなければいけないのなら、あくまで自分を信じて自分の弱点に注意しながら接することです。

その意味では、自分の弱点を知っておくのは大事です。

その弱点は、普段はうまく正しく機能するし、自分でもそれは自分の良さの現れだと思えるようなものである場合が多いのです。

ですが、相手によっては、あなたのその原則を守ろうとするこだわりを、逆手に取られてしまうのです。

ですから一般に使われる表現で言えば、優しさもいいけど相手によっては厳しさも必要だよということですね。

もちろん同じ相手であっても、普通に流せばいいときもあれば、この人がこれを言い出したときは接し方に注意しようと思う必要があるでしょう。

◆なんのためにこの人と接しているのかを思い出しましょう。そこから外れてきたら、話を打ち切ることです。そのことを相手に悪いとあなたに思わせるのは、あなたの弱点と相手の引っかけの相互作用なのです。

◆ゲームの仕掛けにはまらないこと。また自分の仕掛けやすいゲームにも気づきましょう。
ちなみに相手のゲームとあなたのゲームが対照的で、相補的な(攻撃側といじめられる側のような)場合お互いにゲームを仕掛けることも多いのです。

◆あなたの優しさや良い面も、相手によっては引っかけの道具にされてしまうこともあることを知っておくこと。たとえ良さであっても、こだわりすぎずにニュートラルに戻れるようにしておくことです。

◆同じ人でもいつでも論理的であるわけではありません。変化に対応するには、頼れるのは自分であり、自分に忠実であるという軸をぶれないようにすることです。
どんな立派な見解であっても、外側に基準を持っていたのでは、簡単に揺れ動いてしまうし、ゲームに入り込んでしまうのです。


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あの時はつらかったね!

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『あの時はつらかったね!』と誰かに言ってもらえたら、きっと救われたような気持ちになりますね。

でも誰かがそれを言ってくれるのを待つ必要はありません。
自分で自分に言ってあげましょう。

しかし、それを言えるためには、1つの前提があります。
時にはそれは、大きな壁となって立ちはだかるかもしれません。

その前提とは、「その出来事やその時のつらかった自分が存在したこと」を認めて受け入れることです。

それは簡単であるとは限りません。

なぜなら、自分の経験したことであっても、そのつらさからそれを打ち消してしまおうとする防衛規制が働くのが、人間の心理というものだからです。

そんなことは「なかったことにしよう」としたり、あったことを覚えてはいても、なんとか「正面から向き合うことを避けよう」としたりするものです。

「なかったことにしよう」パターン:

「私にそんなことがあるはずがない。私はそんなことなど平気な人間だから」と言ってしまいます。

そして、それを言ったために、本当に自分はそのような感情に対して、平気であることを装わなければならなくなります。

何かの感情を打ち消して感じなくしようとすれば、その感情だけでなく、いろいろな関係しそうな状態も否定しなければならなくなります。

その結果、特定の感情を避けるために、直接関係のない感情まで鈍磨させないといけない、と言う弊害が起きてくるのです。

つまり何事にも、あまり気軽に感情を表現できなくなります。
そのため、たとえそれが楽しい感情であってもも抑制がかかってしまいます。

ですが、このように装ったところで、隠している感情は消えて無くなるわけではありません。
否定しようとすることも働きかけであり、その力が逆方向の抵抗を作り出し、たえずその反勢力に対抗し悩まされることになるのです。

「正面から向き合うことを避けよう」パターン:

このパターンでは、自分につらいことがあったことは認めていますが、その本当の姿を見ることからは目をそらしているのです。本当に追体験することは避け続けなければなりません。

ですから、そのために様々な策略を労することになるのです。

たとえば、こんな感じです。
「私ってこんなひどい過去があるの。だからかわいそうだと思って。」
「こんなかわいそうな私が失敗したって誰が責められるというの。」

直接傷口には触れないまま、開き直ったり、同情をかったり、あるいは感情的になったり事態を混乱させて、追求されることを避けようとします。

こうして周りの人間に対してバリアーを張っておいて、触れたくない自分には、まわりからも自分からも、見えなくなるようにするわけです。

このような防衛のパターンは、個別に見れば実に様々なパターンがあるでしょうが、今はこの程度にして、次に進みましょう。

このような防衛する自分に気づいて、「避けていた感情の存在を受け入れること」が必要になるというところに戻りましょう。

しかし、自分で隠そうとしているときは、無意識に入り込んでいるから「自分で気づくなんて出来ないじゃない?」と思われるかもしれません。

しかしそれを言ってしまっては、気づけない自分をそのまま続けるだけです。
もしかすると、そのように思うこと自体が自我の防衛パターンの一部になっているかもしれません。

ここはひとつ、意を決して「自分の経験したことなんだから、自分でわからないはずはない」と宣言してしまいましょう。

それは実際事実であるし、回避に手を貸さなければ、やがて宣言だけでなく本当に実現することになるでしょう。

ですが、いざやろうとは思っても、どうやればそのような自分を見破ることが出来るのか戸惑うかもしれません。

しかし手がかりはあります。

そのような状態にあるとき、普段とは違い自分になっていますから、防衛規制が働き始めたときの変化をとらえてみましょう。

・落ち着かなくなる。
・話をそらしたくなる。
・早口になったり、多弁になったり、声が大きくなる。
・誰かを攻撃したくなる。
・開き直ろうとする。
・なんとなく悪いことをしているような後ろめたさがある。
・自然な感情が起きてくるのを警戒したり、特定の感情ばかり使おうとする。

パターンは人それぞれ特有のものになるでしょうが、そこにいつもと違うパターンが見られるはずです。

ひとつでもそんなパターンに気づけるようになれば、だんだん容易になってくるでしょう。あとは済し崩し的に征服できる可能性が高くなります。

つらい経験であった、あるいはそう思い続けてきたわけですから、直面するときはやはりそれなりの覚悟は必要です。
泣きたくもなるかもしれません。

ですが、それは隠し続けるよりはずっといい結果をもたらすと信じてがんばってみましょう。

つらい過去は誰でも思い出したくないもの。

しかし、一旦向き合ってみれば、いいことはたくさん巡ってきます。
そして、それを経験すれば、隠していることなどばかばかしいことだと思えるようになってくるでしょう。

正面から向き合った結果は楽しいものです。

・すっきりした気分になります。
・今までよりも軽くなれます。
・隠すために使っていたエネルギーが解放されます。
・いままで、ずっとやりたくても避けていたことが、うそのように気軽に出来るようになります。
・誰かのせいで犠牲になっているという思いが消えていきます。
・同じような思いで無理をしている人に気づくようになれますから、許容する心や思いやりをもてるようになります。

そして、自分に正直に向き合うことがどんどん容易になっていくでしょう。
その結果、こうありたい自分ではなく、ありのままの自分を好きになります。

今までと同じ環境にいても、そこから見える世界は、防衛が解けた自分を反映して自分に対して優しい人ばかりの世界に見えてくるでしょう。

『あの時はつらかったね!』と自分でも言えるし、そう言ってくれる人も現れることでしょう。



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最初から自分を否定する人はいない

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人はみな生まれたときは、生命感に満ちていてそれを否定するようなものは持ち合わせていません。

もちろん自分が嫌いなどという感情も、なんのことかわからないでしょう。

しかし徐々に大きくなるにつれ、まわりに他人が現れ、その関係性の中で生きていくうちに、自分の思う通りに世界は動かない事態に出会うようになります。

「そんなばかな。どうして私の思うのと違ったことが起こるのか?」

しかし、ばかなことではなく、現実にそれは起こり続けます。

それをどう解釈するか、いろんな情報を持たない幼い時ほど、その衝撃は大きく、ひねり出した結論も自分を痛めつけるものになりがちです。

つまり、「なぜかはわからないけれど、私の何かが悪かったからこれが起きたのだ。」ということです。

やがて自分の思い通りでないことが起きると、自分の何かが悪かったのだと結論づけるようになるのも、無理のない成り行きでしょう。

成長して、いろんなことを考え合わせることが出来るようになれば、そんな単純な直結の仕方をせずに、別の因果関係を考え出す力も生まれてくるでしょう。

ですが、それでも今までに積み上げてきた因果関係の影響は強いものがあります。
おそらく、言語化される前のそういった説明のつかない感情と出来事のセットは、考えても説明がつけにくいし、書き換えることは用意ではありません。

「この気分になったとき、いつもよくないことが待っている。」といった情緒的な因果関係で成り立っているからです。

急に憂鬱な気分になったとき、その原因を説明するのは難しくて、何も出来ないままその状態を我慢して過ごすしかないのです。

ですが、悲観することはありません。
原理は単純です。
あなたの積み重ねてきた記憶が、いまの「これこそが私だ」と思い浮かべるものの実体だからです。

書き換えれば「私」はいくらでも変えられるわけです。

ですが、原理が単純でも、実際に自分を変えるとは簡単ではないことは、今更言わなくても経験積みのことと思います。

その難しさは、変えようとしている主体が、その対象でもあるという関係にあることに起因します。
過去の記憶の蓄積が作り上げた「私」という存在を、自我と言う呼び方で扱っていきましょう。

自我はそれ自体が、主張し自分自身を変えられないように守ろうとします。

「こんな自分は嫌いだから変わりたい」とあなたが思っても、自我は抵抗します。

「いままでこの自分のおかげでやれてきたんじゃないか。今更それを変えるなんて、とんでもないことだ。
思い直そうよ。変わってしまったら、どんな恐ろしいことが待っているかわからないよ。」

とでも言うように、あなたを元の自分に引き戻すのです。

先日も書いたように、無理矢理、力わざで自己改造を試みることは、ほとんどの場合失敗したり、長続きしないものになってしまいます。

それは抵抗する側の自分が納得できていないから、いつまでも復活してきて、元に戻った方がいいと訴えてくるからです。

変わることは、いいことももたらすけれど、そればかりでなく、今まで考えずにやっていたことを否定する必要も出てきます。

それは居心地が悪く、不安を伴います。

そんな不安を感じると、「ほら、やっぱり今までのままがいいんだよ」となってしまうのです。

巧妙に変わらない方がいい事態を作り出しても、自我は抵抗します。

ですから言葉で表現できるような小手先のテクニックでは、変わることは難しい。

それには、いままで時間をかけて作り上げてきた自分を納得させるだけの、真摯さで取り組まなければなりません。

しかし真剣であることと、力んだり努力するということは別のことです。

あるがままの今の自分が、何をどう感じて作られているのかを、手を加えたりせずに観察することが必要です。

その過程では、解釈が入り込まないようにすることです。
解釈を入れた途端に、観察は、ありのままではなく作られた脚本に沿った見方に書き換えられてしまうからです。

それは今まであまりやったことのない経験になるでしょう。

解釈し、その結果方針を決めることが、自我に沿った今までの自分のあり方だったわけで、はからいのない、ただ受動的な観察などしたことがないからです。

ですが、何かの拍子で、気づくことはあったはずです。
これが本物の自分ではないかと、理由はわからないけれど思うのです。

それはおぼろげで、なんの筋道も見えてこない。
ふだんなら、そんな役に立たない戯言を考えてないで、現実的になろうと目をそらしてしまうからです。

ですが、もともと持って生まれた、生きる方向性とでもいうものをあなたも持っていたのです。

さまざまな、自我の構築がその方向を妨げてきました。
しかし消えてしまったわけではない。

解釈を加えずに自分を見つめることを続けるなら、やがてその道筋とそうでない作られた後付けの解釈の見分けがつくようになるでしょう。

ぼんやりしているからと言って諦めないことです。
自我の抵抗があるものと思って、諦めないで真剣にしかし力まないで取り組むことです。

そうすれば、根無し草ではない、ちゃんと地に足の着いた自分というものが、よみがえってきます。
それは目先の利益など、かすんでしまうほど、すばらしいものであるのを確信するでしょう。

失われた本来の自我を求めて、「妥協しないこと」です。

もうこれでいいdろうという時は、おそらく来ないでしょう。
変化も一緒に受け入れるのが、そのあり方であるはずだからです。

そしてその結果、ありのままの自分であることが、どんどん好きになってきます。
ぐらつきもどんどん無くなってくるでしょう。

どうしたらいいのか迷ったら、他人や社会にではなく、自分に聞けばいいと自然に思えるようになってきます。

失われていた本来の自我の復活の時です。
幼い頃、「何でこんなことが起こるの?!」というショックで、諦めてしまった自分を、否定せずにもう一度取り戻すのです。

まわりの世界は、「私」を否定するところではない。
そう思えるかどうかは、誰のせいでもなく「私」次第なのです。

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強い心とは

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「強い心」と言う表現があります。

この言葉から皆さんはどんなことを連想するでしょうか?

叩かれても平気でいられる、打たれ強い印象でしょうか。
また意志の強さや、積極的な印象もあるかもしれません。

おそらく根底にあるのは、自分の思うことを出来るとき「強さ」と呼び、まわりに負けてしまって自分を生かせないとき「弱さ」を感じるのではないでしょうか。

ところで、強い心を持つために心を鍛錬すると言う方がいます。
ですが、心の鍛錬とは何を意味しているのでしょう。

最近はどうなのかわかりませんが、以前に見聞きしたところでは、社員教育のために町中に出て大声で演説したり、歌を歌ったりして精神を鍛えるようなことがまじめに行われていたようです。

ですがこれは一体何を鍛えていることになるのでしょうか?
こんなことをやっては、人によっては心のバランスを崩してしまうでしょう。
また、厚顔無恥と言う言葉がありますが、面の皮を厚くしたところで、心を鍛えたことになるのでしょうか。

というよりも、そもそも心は鍛えられるようなものかどうか?を考える必要があります。

鍛えると表現しているなら、それが実際は何を変えようとしているのかがわからないとなりません。

心が強い人は、自分が思ったことを出来る人、だから社会的な適応能力も高いと考えがちですが、両者は結果であって、心の強さがその原因であるわけではないでしょう。

そこで社会に適応すると言うことを少し見てみましょう。

無理に社会に適応する自分を強化することは、出来るかもしれませんが、過剰な適応は長続きするものではありませんし、バランスを崩したり、むしろ本来の自己は強くなるどころか弱くしていることになります。

ある人が何かをするのが苦手だと言うとき、それは他人よりも能力が劣っていることを意味しているのでしょうか?

場合によっては、関連する能力の不足のために、苦手意識ややりたくないという思いがあるのかもしれません。

しかしそれよりも問題は、その人がそれを自分で本当にやりたいと思っているかどうか、ではないでしょうか?
やりたくもないことなら、苦手だろうが、なんだろうが関係ないはずだからです。

仮に本当にやりたくないのに、まわりが必要なことだと言っているから自分も出来ないといけないと思っているだけだとしたらどうでしょう。

その場合、自分にとって必要かどうかを、はっきりさせて切り捨ててしまえば、いつまでも悩むことはありませんね。

このような考え方に隠れて混乱しがちなのは、社会的に要求されることと、自分が本当にやりたいと思っていることとの見極めです。

社会的に望ましいとされるから、自分もそうありたいと思っていても、心の奥では、本当は自分はそんなことをやりたくないと思う自分が存在するかもしれません。

苦手だと思ってやらないことの中には、心の深い部分でそれをやることがいやだと言っている自分がいる可能性があるのです。

子どもの教育やしつけの場合は、いやだと言ってもやらせた方がいいこともあるでしょう。
しかし、社会に出て生きるようになった大人にとっては、自分が本心ではやりたくないことなら、「何でもかんでも自分も出来ないといけない」と思う必要などないでしょう。

社会的な適応ということと、自分が本当にやりたいこと、このように生きたいと思うことをはっきり切り分けることを考えましょう。

心が弱いから、自分のやりたいことが出来ないとか、うまく世渡りできないということではなく、この両者はどちらも結果であり、その原因となるのは何かを考えた方がいいようです。


心を鍛えるといって社会的な自分の適応能力を強めることばかり考えていると、本当に自分のやりたいことがわからなくなってしまいます。

適応とは、ある意味で本来の自分を隠してしまうことに繋がるのですから。

本来の自分をそのまま表現したいと思うのなら、社会的な自分を強化する必要はありません。
それではむしろ逆行することをやっていることになります。

心を強くしたいと思う理由が、自分に忠実に生き、やりたいことをやれるようになりたいということにあるのなら、やるべきことは本当の自分を知ることにあります。

社会に適応するために自分を殺してきたことが、本来の自分を弱くしてしまったのです。
本当はこうしたいと思うことを抑えて、適応することを優先したために強くなれなかっただけです。

自分に素直に、忠実になるのに、こころを鍛える必要はありません。
ただ忠実に生きると決心すればいいだけです。
適応と称して、本来の自分を抑えたり隠したりしなければいいのです。

今までの習慣で社会を気にして自分に忠実になれないというなら、そういった条件反射的な自分の反応に気づくこと。そして、変えようとか思わずにただその様に反応している自分を見つめることです。

無理に変えようとするやり方は、「心を鍛える」と表現されるやり方と同じ発想なのですが、これは大抵うまくいきません。
本来の自分が納得していないからです。

逆に自分のそういった反応に気づくことが出来れば、そしてそれが自分を生かすことにならないと納得できれば、自然とそれらは消滅します。

今までうまくいかなかったのは、無理に変えようとしたからです。
トータルな自分を無視した力わざは失敗するのです。

努力するということは、何かに抵抗しているということです。
つまり抵抗する対象である自分が存在しているということですから、それを無視した「努力」というのは長続きしないことになるのです。

さて、強さという話に戻りますと、本当に自分に忠実な人というのは、それだけで強さを感じるものです。

適応ばかり考えて、うまく世渡りをしようと考えている人間は、同時にそれが弱点でもあるのです。
その作られた自己というのは、自分でも操作を加えているので、他人からの別の操作でも容易に操られてしまいます。

しかし自分に忠実な人には、それは通用しません。
つけ入る隙がありません。
人はそれに強さを感じるのです。

もう一度整理してみましょう。

・社会的な適応能力と心の強さは関係ない。
・自分は心が弱いと思っているのは、適応能力と勘違いしているだけかもしれない。
むしろ、適応ばかりに気をとられるから本来の自分を表現するのが苦手になっているだけである。
・本当の心の強さとは、自己に忠実に生きられることにある。
・自分に素直であることは、選択の問題であって、鍛えるような問題ではない。
・適応ばかり強化しようと思っていると、心は弱くなってしまう。

植物がコンクリートの隙間から顔を出し、花を咲かせるのを見ると、人間は困難を乗り越えてたくましく育っていることに感動します。

しかし植物にすれば、「困難を乗り越えて」などと思ってはいないでしょう。
ただ、光を求めて芽を伸ばし、水を求めて根を張り巡らせてきた。
当たり前のことを、自分の置かれた環境で忠実に行ってきただけです。

そして、当たり前のことを当たり前に確実に行うことが、生きると言うことであり強さであると思うのです。

うまく適応することばかり考える人間は、本来の生きることを忘れてしまいがちです。
だから、すぐに自分はなんのためにそれをやっているのかがわからなくなってしまう。

そんな人間にばかり囲まれていると、自分が何のために生きているのか、わからなくなってきます。
生きる意味などというものがあるとすれば、「いまここで自分に忠実に存在すること」を置いて他にはないでしょう。
もう一度自分を素直に振り返ってみれば、その答えはすぐ出てくるでしょう。

ところで、自分を退屈だと感じるのは、自分に素直でないからです。

他の人に目を向けても、退屈な人というのは、適応ばかり考えている人であることが多いと思いませんか?

そういう人は、その人が本当に何をやりたいのかが見えてこない。
たとえその人が流暢に話していても、本心は何なのかはわからないし、まるでセールスマンがセールストークをしているように思えてしまいます。

お互いがそんなことをやる人ばかりで生きていれば、そしてそんなものが生きることなら、生きる意味がわからなくなるのも当然でしょう。

主なまとめは先ほど書きましたので、最後に簡単にまとめ直してみます。

・心の強さとは、自己に忠実に素直に生きる力である。
・それは鍛えると言うよりも選択の問題である。
・当たり前のことを当たり前に本気で楽しむこと。
・適応などは2次的な問題に過ぎない。
・退屈なのは本来の自己を忘れてやりたくないことばかりやっているから。



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言葉の冒険~素直な人VSわがままな人

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言葉の冒険としたのは、どういう発見があるかわからないけれど、とらわれないで考えてみようという意味です。

さて「素直な人」と「わがままな人」は、何となく対立するもの、相反するものというイメージがあります。
それでは両者が一般にどのような意味で使われているかを見てみましょう。

素直な人:
人の言うことをよく聞く。
自分が気がついていなかったことを指摘されても、なるほどと受け入れたり改められる。
概してその人に対して反発を感じさせない。
?自分の考えを押しつけない?

わがままな人:
自分の言いたいこと、思ったことを口に出してそれを通そうとする。
自分の意見が受け入れられないと気が済まない。
概してその人に反発を感じる場合が多い。
?自分のことが先で、他人の考えを押しのけてしまう?

どうでしょうか?皆さんの印象と一致するでしょうか?

最後の?をつけた項目は、本来の意味合いを超えて、印象が先走っているかもしれないと思える部分があるので区別してみました。

素直な人でも自分の意見は主張すべき時はするでしょう。それが出来ない人だと思ってしまうのは本来の意味合いを超えて付け加えている気がします。

わがままな人は、他人の意見を押しのけたり潰してしまいたいとまで思っているのでしょうか?
むしろ自分の考えを通すことにとらわれすぎて、他人の意見を聞く余裕をなくしているだけのような気がします。
駆け引き的な意味合いで、他人の意見を潰そうという計算があるとまで拡張するのは、本来の範囲を超えているような気がします。

さてこうやって並べてみると、一つ見えてくるのは、どちらも自分の考えに対して正直であると言うことです。
つまり、素直な人も、わがままな人も、どちらも自分に素直だと言うことです。

そう考えると、このどちらでもない人物のイメージが浮かび上がりますね。
それは、相手の出方次第で意見をころころ変える、風見鶏的な人です。

そして、そういった人の方が不自然で、嘘をついてる感じを受けるので、それならばわがままな人の方がまだましだという気もしてきます。

実際、「私はわがままなのは嫌いじゃない」と言う方もいらっしゃるのではないでしょうか。

私達は、嘘やごまかしには飽き飽きしています。
それくらいなら、少々わがままでも嘘のない人の方が信用できるのです。

さてもう一度、「素直な人VSわがままな人」に立ち返って考えてみましょう。
両者の違いはなんなのでしょうか?

どちらも自分に正直だけど、自分を押し通そうとする度合いが違うということでしょうか?
なんとなく、人間関係、つまり社会的な適応度の違いを表しているように見えますね。

社会は、わがままな人よりも素直な人を受け入れやすいだろうということです。
関係を乱す人間よりも、おとなしくしたがう人間の方がくみしやすいということです。

それから、忘れてはいけないのは、私が「この人は素直な人」、「この人はわがままな人」と言うとき、そこにはその人の偏りがあるということです。

つまり私の考えに賛成してくれる人、私の受け入れて欲しい考えにあえて反対しない人に対して「素直な人」と感じ、逆の人は「わがままな人」だと言ってしまう傾向があるはずです。

自分に従ってくれる人ばかりまわりに集めているのも、ちょっと考えものです。

もしかすると「わがままな人」だと遠ざけている人は、あなたの認めたくない部分を正直に指摘する人なのかもしれません。

冒険になったかどうかわかりませんが、ここまで書いてくると素直な人とわがままな人の対立構造よりも、自分に正直な人とそうでない人の対立の方がよほど重要ではないかという気がしてきました。

わがままなのもそれほど悪くない。
「腕白でもいい。たくましく育って欲しい!」


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2つのアプローチ~私とどうつきあうか

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自分のこととはいっても、うまくつきあっていくことはなかなか難しいものです。

単純にいい部分と悪い部分を切り分けて、それらを強化するかや排除するかで扱うというようには簡単にいかないものです。

そんな自分の扱いについて、一見矛盾する2つのアプローチを考えてみます。

まず一つ目は、先ほど述べたように、単純に強化と排除では扱えないことを前提に考えます。

たとえば、何かの問題や悩みが生じて、その原因を探ってみたら、自分のある傾向がもたらすものらしいとわかったとします。

それらは、たとえば人見知りする、行動力に欠ける、飽きっぽい、慎重さに欠ける・・・等々の自分の性格傾向なのかもしれません。

そこで、たとえば自分は決断が遅くて、行動力に欠けるから、これからは決断に時間をかけないようになろうと思って自己改造を試みるとします。

ですが、たいては、三日坊主で終わってしまうでしょう。
そして、自己改造もうまくいかない自分を責めたり、だめな人間だと悲観してしまうかもしれません。

ですが、なにごとも両面があって、その片方だけが正しくて、反対側は間違いだと決められるようなものではありません。

「決断が遅い」と言うことは、別の面から見れば、じっくり熟慮できる性格であるとも言えるわけです。

そして、逆の傾向が強いタイプの人からすれば、「自分は思いつくとすぐに行動して失敗が多い」だからあんな風にじっくり考えるようになりたいと思っているかもしれない傾向でもあるのです。

先ほどのような強制的な自己改造とは、両面を見ないで片方のメリットだけを強調している点で問題があります。

また、もうおわかりでしょうが、「決断に時間をかけない」と決めることは出来ても、それは単独で変えられるといったものではありません。

もともと、じっくり考えて決めようとする自分が存在するのです。
その自分を消してしまうわけにはいかないのです。

自己改造をやろうと思ったその人自身も、始めるときにそのことにぼんやりとでも気がついたはずです。
「自分の一部が消されてしまう」という思いです。

その自分とは、いままでも自分のいろんな部分と絡み合って役に立ってもきたわけです。

思いつきで、君はもういらないと言われて消し去れるような簡単なものではないし、それだからこそ一貫した自己が維持されているとも言えます。

ですから、強制的な強化や排除というのは、消されかかった自分の抵抗にあって、いずれ失敗してしまうに決まっているのです。

いままで傾向の強かった自分も、これから変えたいと思った自分も、両方がしっかりと自己認識できている必要があります。
その上で、どちらを消すのでもなくつきあえるようになったとき、結果として自己改造というものがもたらされるわけです。

ですから、単純に自己認識もなしに強化や排除で自己改造することは、無謀な取り組みであること。
また、自己を全体として扱うアプローチ、2元的ではなく、両方の極のバランスを考慮したアプローチをとることが大事だと言えるでしょう。

さて、もう一つの方、一見今の話とは逆にもみえるアプローチの話に移ります。

これは一言で言えば「未練を断ち切る」ということです。

これがどうしても必要な場合があります。
それは、ゲームをやっている場合です。

典型的なのが、共依存と呼ばれる関係におけるゲームです。

親子の間での共依存の場合、親の多くは子供に対して「甘やかし」をします。
子供に依存した親は、子供が成長していくにつれ、だんだん自分がしてやれることが、少なくなってくることに不安を感じます。

そのために、子どもに自分でやらせた方が良いことまで、親の方から先に手伝ってやってしまおうとするのです。

一見子供を心配しての行動に見えますが、過度の干渉になってしまうのは、子供のためと言うよりも、親自身の不安から来る行動だと言えます。

一方で、子供の方は依存した親に育てられると、「自分でやるからいいよ」という一言がいえないまま、自分も親に依存するという関係を強いられることになります。

子どもからすれば、自分で考えて行動したいと思い、今度こそは自分の意見を通そうとします。

しかし「こんなにあなたのことを思っているのに、なんて親不孝なことを言うの!」といった一言で、子どもは罪悪感を感じ、反発しながらも自分の考えを諦めて親の言いなりになってしまうのです。

それがゲームになってしまうと、見かけ上は抵抗しているように見えても、結局は自分の考えをあきらめて親の意見に従うことになります。

そして、親の意見と自分の意見の間で葛藤をくすぶらせながら、いやな思いをする経験を繰り返してしまいます。

共依存の関係では、相手との関係の中に、愛情面で自分を満たしてくれるものも存在するわけです。ですから、その関係を崩してしまうことに恐れを感じるのです。

その一方で関係そのものに、息苦しさを感じている自分も存在するのですが、その関係を維持するためには、自分自身の感情を素直に感じ取ることを、犠牲にしなければならなくなるのです。

これを解決するには、先ほどのアプローチとは逆に、強制的にでもこの関係から脱出する必要があります。

もちろん相手は抵抗したり、何とか引き戻そうと工作し策略を使ってもくるでしょう。

しかし、引き戻されてしまっては、いつまでも解決しないのです。
「未練を断ち切る」と表現したのは、このことです。
この場合は、妥協はいい結果をもたらしません。

このように2つのアプローチを見てくると、どっちがいいのかとわからなくなるかもしれません。
しかし、どちらのアプローチにも共通していることがあります。

それは、方策などと言ったことよりも大事な根本姿勢ですが、正直に本当の自分を知るということです。

自己認識を伴わない策略は、意味がないし失敗に終わるのです。

正しい原因をつかまないで悪あがきしても、事態は悪化するばかりです。

砂時計になったパソコンで、余計なクリックや、やたらとキーを押すことは、やればやるほど復帰が遅くなりハングする原因にもなってしまいます。

悪あがきではなく、目先の策略ではなく、正しい原因をつかむことが何よりも大事です。

そして、探すところはひとつ、自分の心の中にあります。




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ありのままの自分をすきになる2

アリーkitten1624


世界を狭めたり、住みにくくしているのは、自分自身に他ならないと気がつくことはないでしょうか?

・今日、腹を立てたのはどんなときですか?
・今日、憂鬱になるようなことが心をよぎったのはどんなときでしょう?
・今日、何もかも昨日と同じ、いいことなんて起こらないと感じたのはどんなときでしょう?
・・・
どれも『あなたが思い描く理想のイメージ』と、『あなたに見える現実の世界』が一致してくれないという不満からきています。

さらにあなたは、『あなたに見える現実の世界』の方は、客観的な現実だと思い込んでいて疑いません。

ですが『あなたが思い描く理想のイメージ』も、『あなたに見える現実の世界』も、どちらもあなたが作り出した、あなた独自の世界なのです。

同じ状況にいながら、隣の人は、なにも気にしないで平気でいられるようだと感じたことがあるでしょう。
見ている世界は一人一人違うのです。

自分で両方作っておきながら、片方は自分自身で、片方は外側の世界だと思い込んでいます。

両方が一致することが、あなたの望みだとしたら、どちらをどう変えるか、もう一度考え直してみることです。

もちろんそれを、自分自身で考え、自分だけでそれをやってみることです。

他人の意見を当てにしようと思っていると、また別の作り物の世界をこしらえてしまうだけです。

あなたの作り出した世界が、あなた自身とずれてしまったのは、もともと他の人の意見に振り回されたおかげだったのではないですか?

あなたは「世界が自分の望むものになったら、そのときこそ満足できる」と思っているかもしれません。
ですが、自分と自分の作り出す世界を一致させる方法は他にもあるのです。

自分が本当に作り出したい世界に生きることです。
そしてそれなら、夢が叶うのを待つ必要はないし、貴重な「今ここ」ですぐにでも出来ることです。


☆~⌒☆
まわりを見回してみましょう。
そこに、自分の苦手な人はいますか?
そして、自分に危害を与えるかもしれない人がみえますか?
その人が好きになれないのはなぜだろう?
それを正直に考えて見ることです。

それは、あなたの中にある敵対する自分がそのように見せているのではないでしょうか?
自分自身と仲良くなれるほど、外側の問題は消えていきます。

そして世界とは自分が見ているそのものに過ぎないことに気が付くときが来るでしょう。
それならば、どんな世界を望みますか?

自分で好きになれる世界が欲しければ、何よりも自分を好きになれるようになることです。
そして、やがてそうなれるでしょう。
その時、世界はあなたのものになります。

『ありのままの自分をすきになる』より
https://www.facebook.com/note.php?note_id=117670438312909
☆~⌒☆


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関係とは不確かなもの

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関係とは不確かなもの、安全でも一貫してもいない、いつでもあなたの期待通りではないものです。

ここで言っている関係とは、あなたとまわりの人との関係であり、また自分自身とどのようにつきあっているかという関係でもあります。

私達は関係の中に安心を求めたいのです。

私の相手をするこの人は、いつでも私の期待を裏切らない、一貫して私の思うことに応えてくれる人だと思いたいのです。

そうすれば、社会に出て安心の出来ない人間関係に巻き込まれていても、家に帰れば安心できる関係が待っている。そう思って乗り切ろうと考えるのです。

ですが、関係というのは、あなたの都合でいつでも依存できる対象にはなってくれません。

それがどんなに特別な人であろうと、あるいは自分自身であろうと、今のあなたが期待していない面を見せてくるものです。

いつでも同じ心地よい状態をもたらすものを求めるのは、残念ながらかないません。
それがかなうのは、一時的に酔っぱらった状態にある短い時間でしかないのです。

それが適うかのように幻想を抱いて、いつかそういう人が現れると信じていることは、そもそも無理なことだったと気がつくこと。
それが、いつかどうしようもない苦痛にまで発展して絶望に陥ることを避ける方法です。

そしてそれは、一貫しているという幻想がもたらした偽の安心感ではなく、いつでも裏切らない関係とのつきあい方を知る方法でもあります。

あなたがもし自分自身に一貫性を求めすぎるなら、あなたはそれに合わない自分を常に押さえつけます。それらを無視して、その結果、絶えず起こってくる葛藤に苦しむことになるでしょう。

言い換えれば、あなたのエゴを強大にしすぎてしまうということです。
エゴはあなたに一貫した安心を保証すると言って、自分だけを信じなさいと言います。

しかしそのやり方は、エゴと合わない自分が顔を見せ始めると、ただちにそれを無視したり排除したりするというものです。

それでもある程度まではうまく機能します。
時々顔を出す憂鬱な自分を、気のせいだと言って押し込めておけば、今のままがもたらす快適さを享受できるから、それでいいと言って暮らしているのが日常行っていることなのです。

あなたが自分に一貫性を求める程度に応じて、あなたはまわりとの関係でも同じものを求めます。

あなたが自分を許さないのと同じように、他の人にもそのルールを守ることを期待します。

それが期待できない相手が現れると、「どうしてこの人はこんなこともわからないのか?」と腹を立てることになります。
あるいは「この人は、どうして昨日と違うことを言い出すんだ!」といらだってくるのです。

ですが、自分自身もまわりの人も、常に変化しているのが当たり前です。
一貫していると期待するのは、幻想でしかないのです。

幻想を信じている自分からすれば、それを捨てると言われるのは、突然奈落の底に突き落とされるように感じてしまうかもしれません。

ですが、現実を見ないで幻想に生きることは、麻薬に依存しているのと同じように長続きはしないのです。
いつか破綻したときにもたらすものは、現実の非情さなど問題にならないくらい悲惨なものにもなるでしょう。

たとえば『明日は私の念力で晴れにしてみせる!』という幻想を抱いたとします。
しかし、次の日は雨になりました。

『これは何かの間違いだ』と言い続けて晴れてくるのを待ち続けるでしょうか?
普通はそんなことはしませんね。

『仕方がない。天気には勝てない。』と幻想を諦めて、雨の日の不利益を我慢し、それに応じた対策を講じながらやるべきことをやるわけです。

自然との関係がそうであるなら、人間との関係でも同じことは出来るし、それは恐れているほどの不都合ではないのです。

『幻想を信じるから現実が怖いものに変わってしまう』だけです。

あなたが自分自身に対して、幻想を捨ててありのままを見ようと決心するなら、あなたは自分自身の一貫性のなさを受け入れることが出来ます。

いままで、これは自分ではないと言い聞かせてきたような、タブーだった自分も復活してきます。
それは、今までのあなたに、なにか物足りなさを感じさせ続けてきたことの一因だったかもしれません。

そして自分への接し方に柔軟さと自由さを取り戻したとき、あなたはまわりとの関係も一気に違って見えてくることに気がつくでしょう。

あなたのまわりには、今まであなたの幻想がいらつかせていた人ではなく、ただ、ありのままにふるまっている人がいただけだと気がつきます。

それは、あなたにとって都合のいい人ばかりではないけれど、私自身がそうでないのと同じように、絶えず変化する、ありのままにふるまう人たちがいるだけなのです。

あなたは今までのように人に会うことに苦痛を感じたり、重苦しく感じる必要がなくなります。
なぜなら、あなたの幻想、つまり「人はあなたの期待通りにふるまうべきだ」という幻想を捨てて、その通りにならないことを怖がらなくなったからです。

『ずっと変わらないままであるべき』という子どもの頃の幻想を諦めたとき、あなたは常に変化し続けている現実を受け入れることが出来ます。

どうして「相も変わらず退屈な日常が続くんだ」と思っていたのは、実はあなた自身が変化を拒んでいたからだと気がつくでしょう。

『変化も悪いものばかりではない』ことがわかったとき、今まで受け入れを拒否してきた様々なことがあなたの味方になってくれます。

それは思いもしなかった世界を見せ始めてくれるかもしれません。


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