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自分で考える!

あれ、ニャン太郎のやつfacebookを始めたのか


自分で考えようと決心した途端に

力が沸いてくる。

勇気が沸いてくる。



あなたが

自分の意見を言うのには勇気がいるとか、

怖いと感じるのは、

本当に自分で考えていないからだ。



本当に自分で考えるとき、自分が勇気そのものになっている。

外から勇気を探す必要などなくなる。



不安なのは、借り物で考えようとするから、

だから間違っていないか不安になるのだ。



自分が考えの主体になれば、比較するものはなくなる。

間違いを心配する必要もなくなる。



あなたにとっての真実なら、

それが間違いだと誰が言う権利があるだろう。



あなたは自分の考えに完全にコミットしているから、

そんなことは考える必要がなくなる。



知識が頭の中で渦巻いているようでは、

自分で考えることなど出来ない。



それらが収まるところに収まるよう、

自分でかき回さないことだ。



濁ったコップの水をきれいにするには、

何もしないでいることが一番、それ以外にない。



あなたがこれは正しいだろうか、

間違ったことを考えていないかと心配になるのは、

あなたの中にチェックする人をもう一人抱えているからだ。



その人は、たいていは誰か他人のふりをしている。

それは外にいる人だと、あなたは思い込んでいるのだ。



しかし、そんな人が誰もいなくても、

あなたの中にいる監視人が他人のふりをしてあなたを不安がらせるのだ。



あなたが、本気で自分で考えようと思って、

すべてにコミットする気になれば、

監視人はいつの間にかいなくなる。



コンピュータのプログラムでは、通常、例外はデフォルトとして処理される。

つまり、想定した条件のどれにも引っかからないものは、

デフォルトの動作をすることになる。



そしてデフォルトの動作というのは、問題を起こさない安全な行動なのだ。

あなたがたとえ条件を入れるのを忘れたとしても、

安全で問題のない処理をするように作られている。



その意味では、デフォルトの行動を書き忘れたり、間違えたりすることの方が問題になる。

条件については、多少なら少なくても大きな問題はない。

せいぜい少し気の利かないプログラムに見えるだけだ。

しかし、デフォルトの処理が間違ってしまえば、それはバグになる。

ユーザーは許してはくれない。

プログラム全体がぶっ飛んでしまうからだ。

「何も反応しないんですけど!!!」



この場合の「想定した条件」とは、あなたにとっては、

普段、間違えないようにと気を配っていることを表している。

もちろん、すべてなどチェックできない。

せいぜい今のあなたの気がつく範囲のチェックが出来るだけだ。



どうせあらゆることをチェックすることは出来ない。

それよりも、本来のあなたが一貫していること、

しっかりしていることの方が大事なのだ。



チェックに引っかからないとき、あなたは何も考えずに

デフォルトの行動をとっているだけだ。

それは心配しなくても、間違いのない行動をとっているのだ。



すべてをデフォルトに任せられると思えるのは、

あなたが外側からの知識に惑わされなくなったときだ。



必要なチェックは、外を探さなくても自分の中で出来ることに気がつくだろう。

そもそも、いままでも自分の中でチェックしていただけなのだけれど。



そして、そのときあなたは自分で考えるようになる。



あなたは、いちいち自分で考えているなどと意識することもないだろう。

考えることが、すべてあなたそのものだからだ。



そのとき、すべてはただ起こっては過ぎていくものだと感じられる。

必要なものがあるなら、それは向こうからやってくる。

あなたが受け入れられるようになったとき、そのときその姿が見えてくる。



考える自分、チェックする自分、怖がる自分、・・・

いろんな自分を作り出さないことだ。



そうすれば、あなたはひとつのものとして行動する。

なんの無駄な行動も、無駄な気遣いも必要がないものだったとわかってくる。



そしてもちろん、そのときこそ、最高の効率で行動できる自分がそこに現れる。



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何でも当たり前だと思うな

踊りたい気分


以前にも取り上げましたが、20世紀を代表する最も深い影響力を持った演劇の指導者
サンフォード・マイズナーの言葉をまずご覧ください。
いまに生きること、本当の自分に気づく上でも刺激的な言葉ではないかと思います。

゚・*:.。. .。.:*・゜

サンディーからのメッセージ

常に具体的であれ
どんな瞬間にもすべて意味がある
瞬間に生きろ
完全に生きる- 一瞬一瞬に -それが真実だ
聞いて、観察して、聞いて、本当に見て、聞いて、集中して、聞く
たまたま何かが起こって、あなたに「それ」をさせるまで、何もしてはいけない
考える前に、行動しろ-あなたの本能はあなたの考えよりもっと正直だ
愛想のよい魅力なんてあり得ない
1オンスの行動は、1ポンドの言葉に値する
そこに何も無いなんてことはあり得ない
沈黙は大いに語る - それはやはり、罪の大きさを包み隠すのと同じことだから
何でも当たり前だと思うな

ゲーテが言ったサンディーのお気入りは…
「舞台が綱渡りのロープのように細かったらどんなにいいだろう
そうすれば才能の無い者が舞台に立とうとしなくなるから」

サンディはショーからデュースに関する言葉を貰った…
「総ての基本事実の背後は人間的である」

*ショー :
バーナード・ショー 《1856‐1950 アイルランド生まれの英国の劇作家・批評家 1925年ノーベル文学賞受賞。》
*デュース :エレオノラ・デュース 《1858-1924 イタリアの女優世界中でデュマ、イプセン、ヴェルガの作品を演じて名声を博した。》

こちらのページから引用させてもらいました。
サンディーからのメッセージ 演劇を愛するすべての人へ

.。.:*・゜゚・*:.。.

どの言葉も刺激的ですが、今回読み返してみて目にとまったのが、最後の『何でも当たり前だと思うな』という言葉です。

人が「当たり前」を口に出すとき、必ずその前に過去のストックを掘り起こしているはずです。
「当たり前」とは自分にとって、既知の事柄であるはずですから。
もし知らなくても、何とか自分の過去の記憶と結びつけたくなります。

分類できない混沌としたものは、自我を不安にさせるからです。
『それってなに?なんて言ったの?そんなの初めて聞いた。』と言ってもいいのですが、そう言えるときもあれば、言えないときもあります。

即座に自分のストックにある何かと結びつけないと我慢できないのです。

ですから、誰かに何かを話したとき、当たり前ではないような何かを話したとき、
相手の反応は2つのタイプに分かれます。

一つのタイプは、その話を聞いて自分の感じたことを返す人。
もう一つは、『それって、つまり○○のことだね!』と返す人。

先ほども言ったように、同じ人でもその話の内容によっては、別のタイプの反応を返すことでしょう。

自分に今に生きる余裕があるとき、不安だけれど、どこかわくわくするその話、もっとその中にとどまってみようと思うとき、人は「当たり前」を口にしないし、分類しないでも平気でいられます。

あなたに余裕がないときには、即座に既知のものと結びつけないと不安になります。
「ははは、当たり前じゃないか!」と言って見せないと、不安がぬぐえないのです。

当たり前にしたいのは、知らない世界にいたくないからです。
それは同時に、いつもの不満ばかりで新鮮味のない世界に逃げ込んで、傷を負いたくないと言っているのです。

しかも、それはあなたにとって、いつも気にしながら、でも平気な顔をして押し込めようとしているような、なにかの思い出と関係がある可能性が高いのです。

だからその何かを守らないといけないと思い、自我がパトロールに緊急出動をかける。
『この話はそのまま受け取ると危険だ!』

危険を冒すかどうか、そこで次のことが出来るかどうかが決まります。

|どんな瞬間にもすべて意味がある
|瞬間に生きろ
|完全に生きる- 一瞬一瞬に -それが真実だ
|聞いて、観察して、聞いて、本当に見て、聞いて、集中して、聞く


真実が危険に思えるとき、次のことはとても出来ない。

|たまたま何かが起こって、あなたに「それ」をさせるまで、何もしてはいけない

『起こさせるなんて、とても怖くて出来ない。だってそんなことをして今の自分が壊れたらどうするんだ!直ちに防衛軍を出動させよ!』

『何でも当たり前だと思うな』

それが出来るとき、私達はいまここにいられます。
それでこそ、退屈な、こともなきこの世の中、と嘆かなくてすむようになる。

当たり前とは、新鮮さを打ち消す行為に他ならない。

何でもかんでも当たり前のことにしていながら、
「どうして私には新しい世界が開けないのか」と嘆いてはいけない。

大胆であれ!
冒険しよう!

だから、

|考える前に、行動しろ-あなたの本能はあなたの考えよりもっと正直だ

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スローガンを捨てよう!

ロケットにつかまるビジネスマン

人間の心理というのは、客観的でも合理的でもないことが多いものです。

自分の信念に合うことは「すばらしい意見だ!」と感じさせ、信念と合わないことに対しては、ほとんど無意識に避けてみたり、あるいは「けしからん考えだ!」というレッテルを貼ってしまうものです。

参考: 『理解できるような助言は・・・』


誰でもそのことに、うすす気づいているのですが、いざ現実を前にすると、どんな人でもこの偏りに振り回されてしまいます。

人間心理の限界というか、くせのようなものだと思って、その事実に向き合う必要があります。

そして、このことに真剣に取り組んでみるなら、下手な心理的な鍛錬よりもずっと自分の幅を広げてくれるでしょう。

それと逆を行くのが、信念に生きること、スローガンで生きることです。

目標を立ててそれを達成すること自体は、別に悪くはないのでしょうが、予定通りであることに必要以上にこだわってしまうのはなぜでしょうか。

どんなに念入りに立てた計画でも、途中で変更が必要になることも当然あることです。
ですから目標にこだわらずに、柔軟に状況次第で計画なり自分の考えなりも、変わってもかまわないはずです。

しかし私達は、なぜか宣言したとおりに達成することがやたら評価されるような社会にすんでいます。

言行一致という言葉もあるように、社会的に見れば、個人の行動は予測可能である方が集団にとって都合がいいという理由があるのです。

それが、自分の属するグループ、会社、国家というように、規模が大きくなるほどその拘束力は強くなるでしょう。

しかしたとえば、オリンピックの選手は国を背負っての重責から、ストレスに押しつぶされてしまうこともあります。逆にそれほど注目されていなかった選手の方が、予想外の力を発揮することだってあるでしょう。

ましてや、個人のレベルで考えるなら、あまり自分はこうでなければならないと思わず、無節操にならない程度に柔軟さを持った方が自由になれます。

どうして自分がそれにこだわっているのか、そこまでこだわる理由があるのかどうかを見直してみたとき、その背後に自分の恐れが隠れていることも多いものです。

人に知られたくないと思っている、何かの恐れが隠れているのです。

それを恐れるあまり、それが起こらないように予防線を張っていたことが、やがて本来の理由などどこかに忘れ去られて、ただ「これは変えてはならない」という信念に変わってしまうこともあるのです。

迷信と呼ばれるものの中にも、もともとはそれを言い出す原因になる出来事があったのかもしれません。
形骸化してしまった決まりごとは、今では役に立たなくなっているのに、言い伝えだからそれを破ってはならないとタブーになってしまうのです。

自分にとってのタブーはなんでしょう?
そこには隠された恐れが潜んでいないでしょうか?
それを打ち破ってみる価値はあるでしょうか?

「私の不満」とは、ほとんどが「私の信念」と現実との間の食い違いが元になっています。

私は信念に従えと主張しますが、長期的に見れば現実の方が勝つのです。
現実に合わなくなった信念はあなたを痛めつけるだけです。

それはたいしたことはないものから、あなたの一生を左右するほどの影響を与えるものまで様々あります。

社会の都合に振り回されても、あなた自身にとってはちっともいいことはないかもしれません。
その犠牲になって「こんなにがんばって守ったのに」と思っても、文句を言う相手はいません。すべては自分が選択したことなのですから。


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自分の責任はどこまでかを見極める

上司に叱っれる2



人間関係においては、いろんなタイプの組み合わせでドラマが行われます。

必ずしも、同じタイプの人がくっつくわけでもないようです。

第三者的に見ていると、片方が一方的に相手を責めていて、どうして相手はそれにつきあっているのか不思議に思うことはないでしょうか?

しかしそのような関係においては、どちらも自分の弱点をさらけ出さないために防御しているので、一見奇妙に見える関係が成立してしまうのです。

パティー:マーシー、あんたは私をあの学校に行くのをとめずに、笑いものにしたのよ!

マーシー:私が何か言ってもどうせ聞かなかったでしょう。

パティー:あんたの努力がたりないのよ。

パティー:ほんとに私をとめる気だったら、とめることもできたのよ。

マーシー:本気でとめようとしたら、私のことぶっていたでしょ...

パティー:あんた身をかわすこともできたのよ。

パティーのように、何を言おうと相手の責任にしてしまうことが反射的になっている人もいるものです。

マーシーがどうであるかは、これだけではわかりませんが、彼女の立場の人間が自分の方に責任があると思ってしまうタイプだと、一方的な攻撃に負けて自分が悪いと思い始めてしまうものです。

さて、その場合パティーのような人間に出会ったから、かわいそうにマーシーは犠牲になったのだ、と考えればいいのでしょうか?

表面的に見ればそう見えますが、パティータイプとマーシータイプが出会うとき、このようなゲームは毎回繰り広げられることになるのです。

パティーは表面的には「迫害者」の立場をとる人です。しかしそれは力の強い側が弱い側を迫害するというものとは違います。

パティーの方も実際には自分の中にマーシー的なものを抱えています。
そして自分の中のマーシーが痛めつけられるのを防ぐために、自分が先に攻撃に回ることでそれを回避しようとするわけです。

そんなとき逆の立場をとりがちなマーシーという存在は、ゲームを仕掛けるのに絶好な相手であるわけです。

マーシーの方も、自分の中で「犠牲者」的な自分と「迫害者」的な自分を抱えています。
しかし、パティーとは逆に、まずは「犠牲者」側にまわりがちな適応方法を身につけてきたと言えるでしょう。

オフェンスとデフェンスがそろったのでゲームが始まります。

ところで「犠牲者」と「迫害者」を括弧付きで書いているのは、心理的な役割だと言うことを示しています。

本当に迫害者になりたいわけでも犠牲者になりたいわけでもありませんが、いままでその役割を演じることで自分を守る方法を身につけてきたわけです。

そして、この役割は別の要因が生じると簡単に逆転してしまうこともあります。

よく「いじめ」の問題で言われることですが、自分がいじめられる立場になりたくないので、自分もいじめる側になってしまうと言うことがあります。
「迫害者」は自分の中に「犠牲者」の役割も抱えているのです。


本当はもっとストレートに自分の望みを伝えたり、あるいは不満を表明したいのです。
ですが、人生のどこかでそれは効果がないと思い込んでしまった。
実際にそう思うような機会を経験したのです。

しかしその多くは幼い子どもの頃に身につける姿勢、態度です。
そして、やってもだめと思い込んでしまったのは、自分が幼くて力がなく、それと比べて大人があまりにも巨大な存在に見えただけかもしれません。

どんな理由からにせよ、私達はそういった姿勢、構えを身につけてしまうものです。

大事なことは、このようなゲームの関係は、偽物であることを見抜くことです。
本気で迫害者になりたいと思ってもいないし、犠牲者になりたいわけではないのです。

さて、それをふまえて、「自分の責任はどこまでかを見極める」と言うテーマを考えたいと思います。

特にマーシー側になりがちだと思う人は、容易に自分に責任のないことまで罪悪感を感じてしまいがちです。
それはその結果、自分が「犠牲者」に身を置くことで、本当の自分の気持ちに直面しないでその場を乗り切るやり方を習慣にしてきたからです。

もしかしたら、哀れな自分を救ってくれる「救助者」が現れてくれるかもしれないと期待し、「犠牲者」に身を置こうとするのです。

ですがゲームを続けている限り、本当の自分の気持ちはわからないままです(少なくとも表面的には)。
それは、いつも満足のいかない形で、終わります。

それでも「誰からも無視されるよりはまし」と自分を納得させて、再びゲームの機会を持つような状況に身を置いてしまうのです。

自分の本当の気持ちを確認するためには、一つは「自分の責任はどこまでか」を問いかけてみることです。

「私は私の感情には責任を持つけれど、あなたの不満はあなた自身が責任を持たないとならない。」という事実をしっかり見極め、そう主張できる自分を持つことです。

とくにパティーのような相手に対する場合にです。
パティータイプは簡単に、自分の問題をあなたに押しつけてくるからです。

「それは私の問題ではない」とはっきり宣言することです。
それを言うことに、何も罪悪感を感じる必要はないのです。

ですが、マーシータイプは、なにかと自分が悪いと罪悪感に入り込みがちです。
うまく罪悪感を呼び覚ますコツをわきまえているのがパティータイプの人間だからです。

そして、いったん罪悪感が発動されると、「それは私の問題ではない」と冷静に判断出来る自分がどこかに飛ばされてしまうのです。

それでも、どちらのタイプであるにせよ、それは今までに身につけた姿勢や習慣に過ぎないと思って、繰り返し「自分の責任はどこまでかを見極める」ことにチャレンジすることは出来ます。

どんな習慣も、新しい習慣に置き換えられるときがきます。
今のままでいいとか思って、不満を抱える関係を続けないことです。

たしかにそれは、ある面であなたが絶望に陥るのを守ってくれたやり方だったかもしれません。
ですが、今の自分には他の選択もあるのです。
新しい姿勢があることを認めて、偽物の関係を捨ててしまう方がずっとずっとメリットは大きいのです。

『ゲシュタルトの祈り』

私は私のために生きる。
あなたはあなたのために生きる。

私は何もあなたの期待に応えるために、
この世に生きているわけじゃない。

そして、あなたも私の期待に応えるために、
この世にいるわけじゃない。

私は私。あなたはあなた。

でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。


※なおここで「ゲーム」は、交流分析(エリック・バーン)、「迫害者」「犠牲者」「救助者」は交流分析(カープマン)の意味合いで使っています。

※引用:「いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント」
エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02


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大事なことだけ取り組もう!

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こんなに一生懸命やってるのに、ちっともよくならないと嘆いている人はいないでしょうか?

もしかすると、あなたは重要でないことに巻き込まれて、無駄なことに時間をとられすぎているのかもしれません。

それと、いまやっていることが本当に実を結ぶという実感があるでしょうか?

本当に大事なことだけに取り組んでいないとき、実は自分でも役に立つと信じていないことを、仕方なくせっせとやり続けているという場合も多いものです。

自分で心底大事だと感じられるものに集中すること、それ以外を排除する勇気を持つ必要があります。

ところで、ものごとは自分にとって必要なことと、どうでもいいことに分けられるものです。

ご存じの方も多いでしょうが、パレートの法則(80対20の法則)というものがあります。

簡単に言えば、重要なことの80%は20%の作業から生み出され、残りの大部分は全部あわせても20%しか成果を上げないというものです。

この法則に倣って考えてみれば、自分にとって重要なことは全体の20%しかないということ。
いつもやっている80%のことは、思い切って捨ててしまっても80%は達成できている事になります。

80%が達成できれば御の字です。
100%でないとだめと言う人は、完全主義に陥りすぎている。

生活を重要なことに絞ってシンプルにしてしまうことです。

おまけにどうでもいい80%は、往々にして全体のやっかいごとを生み出す犯人であることが多いものです。

「何で自分はこんな事やっているのだろう?」と思ったことはないでしょうか?
それこそが80%の重要でないことに気づいたときの反応かもしれませんね。

重要でないことはやっていても気が乗らないし、他にもっと大事なことがあると言う思いがつきまといます。

当然効率も上がりません。きっぱり捨てた方がよほどいいことが多いのです。

それからもう一つ忘れてはならないことがあります。

「其の安きは持し易し(そのやすきはじしやすし)」(老子)

つまり、ものごとは易しいうちにかたづけるべしと言うことです。

問題が大きくなってしまえば、手をつけるのが大変になり、その対策に時間と労力をとられてしまうことになります。

だからまだ問題が小さくて、柔らかくて取り組み易いうちに処理しておけば、自分でもやったかどうか気がつかないうちにそれは片付いてしまうものです。

老子が「無為を為す」と表現することの一つの意味はこういう事なのでしょう。

普段当たり前のように処理していることは、たとえば1日のそれを振り返ってみても、とてもたくさんのことをやってきているのです。

しかし必要だと確信して実行していることは、知らないうちにやりこなしていて、ほとんど無意識にやり遂げているものです。
それも、とても効率よくです。

ところが何事も、改めてこれをやらなければと力んでしまうと、とても大変なことに見えてくるわけですね。

それも気乗りのしないことである場合が多いわけで、本当にやらないといけないことなのかもう一度考え直して、思い切って切り捨てるのがいいことだってあるのです。

ところがそれがわかっていながら、わざわざ困難がないと物足りないと思う人もいます。

その心理の一端には、目立つことをして自分の価値を訴えたいと言うことがあるのかもしれません。

「こんなに大変なことを克服してやり遂げました」と訴えれば、まわりからは拍手されるかもしれません。

しかしそれに味をしめて目立つこと、奇抜な方法をアピールするやり方は、一時的には目立っても長続きしないものです。

さらに問題なのは、自分自身はそのトリックを知っていると言うことです。

自分をだますようなやり方を続けていれば、たとえまわりはだまされても、自分自身で自分を罰したくなってくるのです。

それが因果応報と言うことです。

そして、そのような思いの背景には、まわりの評価がないと自分の存在価値をはかれない、という思いが隠れています。

必要以上に自分を目立たせたいという思いは、そうしないと自分自身を認められないという、今までどこかで身につけた必死の訴えの現れなのかもしれません。

ですが長い期間一線で活躍する人というのは、人知れず、地味でも大切なことを着実に積み重ねてきているものです。

それは自分自身が知っていれば、他の人が気づかなくても、自分への信頼となり、揺るがない自信が出来あがるものです

自己への信頼、むしろ、それこそが最初に取り組むべき課題なのかもしれません。

まわりを欺き、自分をだますようなやり方を続ければ、当然自分自身を信じることが出来なくなります。

それは目先の成果など問題にならないくらい重要な問題です。

いったん自分自身を信じられるようになれば、まわりの世界は一気に変わります。

いままで振り回されてきた他人の言葉も、一瞬で嘘を見破れるようになります。

そしてなにより、いちいちまわりの世界の動向にくっついていかなければという努力が必要なくなります。

探す場所は自分の中にあるとわかってしまうからです。

いままで振り回されて費やしてきたエネルギーを、自分が本当に必要なことに集中させることが出来るのです。

もちろん自分にとって大事なことは何であるのかも、そうならないと本当には見えてきません。

本当の自分を見つけるということは、今まで自分を騙してきたことを見破って切り捨てるということに他ならないのです。


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感情とのつきあい方

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感情とのつきあい方といっても、簡単な決まりでかたづけられるものではないでしょう。

ここでは、私達が感情に関して偏った見方をしていないかという面から、感情を本来のままの姿でとらえてみたいと思います。

まず最初に、私達は感情を有益なものか有害なものかで分けることを、当たり前のように行っています。

ポジティブ(肯定的)な感情、ネガティブ(否定的)な感情と表現するのが、その典型でしょう。

しかし、忘れてはならないことは、本来感情そのものには、ポジティブもネガティブもないということです。

人間的に見て、つまりは社会的な価値観を加えた場合に、ポジティブになったり、ネガティブになったりするわけです。

社会的な存在として、自分自身に対して、あるいは人間関係において、有益に働く感情は好意的に受け入れてポジティブであると呼び、有害な影響をもたらしそうであればネガティブと呼んで遠ざけようとします。

ですが、純粋な感情そのものは、ポジティブにもネガティブにも関係ないのです。

私達は、感情というものをどのようなときに発生し、どのように消えていくものか、余りよくわかっていません。
私はこの感情に関してはよく知っている、私の反応の仕方をよく心得ているというものもあるでしょうが、多くの場合何でそんな気分になったのかわかるとは限りません。

もちろん、ポジティブとかネガティブという性質を付加したところで、その感情を自由に出来るわけではありません。

「どうしてポジティブになれないんだろう」とか、なんで「ネガティブとわかっているのにこの感情を抑えられないの?」というようにです。

私達が感情をコントロールしていると言うとき、ほとんどはそれを押さえ込めると言う意味で使っています。

ある感情を抑えられるかどうか、その耐性は人によって違います。

たとえば出来事に対して、ある人はすぐに怒り狂ったように感情的になるし、別の人は冷静なままでいられるのです。
しかし、そのとき冷静でいられた人も、別の出来事に対しては、人一倍反応しやすいということもあります。

また、抑圧することで感情を抑えると言っても、限度はありますし、押さえつけた感情は消しゴムで消したようになくなるわけではなく、自分の感情の置き場所に押し込められただけと考えた方がいいでしょう。

その場面で感情を抑えられたこと、それ自体はその人の適応能力と評価されるでしょうが、自然な解消の仕方が出来たことを意味するわけではありません。

適応能力だけに気をとられて、自分はいつでも感情を操れると思ってしまうと、いつか自分の奥の方からその感情が顔を出し、「これが本当に自分なのか?!」と驚くような事態が起きるかもしれません。

ところで、ここまでは感情を押さえつける面だけを見てきましたが、純粋なもともとの感情は、その本来の性質を超えて過剰に拡大されたり、ゆがめられたりもするものです。

たとえば先ほどの怒りの表出の仕方について考えてみると、そのときの出来事に見合った反応以上に、過剰に反応してしまうとすれば、その人特有の反応の仕方が組み込まれてしまっていると考えられます。

まず、その人はその種類の怒りを表す状況を、他の人よりも多く経験している事が考えられます。

そして、毎回その怒りを感じるたびに、それに付随してその人特有の価値観を結びつけてしまうのでしょう。

「わたしはこれだけは許せない」とか「この手のことには涙もろいんだ」といった、その人特有の反応の仕方を学習し、強化してきているわけです。

それは本来のその感情の範囲を超えて、拡張された感情と行動のセットが作られているのです。

このことだけを見ても、ある名前のつけられた感情を、ポジティブな感情、ネガティブな感情と分けてしまうことの無意味さがわかってくるでしょう。

感情が有害に働くときの多くは、本来の自然な感情そのものではなく、拡張された反応のセットがもたらすことの方が多いと考えた方がいいのです。

たとえば、怒りは正義を守るときには有益に働くかもしれないし、ねたみの感情も扱い次第でその人のモチベーションの一因になるかもしれません。

悲しみは、状況は何も変わらなくても不幸な出来事を洗い流してくれるでしょうし、鬱を感じることも、あまりにも活発になりすぎた利益優先の心身の扱いに対して、抵抗を示すという役割を担っているのかもしれません。

以上のことを考え合わせるとき、特定の名前の感情を有益か無益かで分けてしまうことや、抑圧すべきものと決めつけること、あるいは逆に肯定的な感情ばかりを自分のものとして受け入れようとすることなどに、疑問が生じてくるのではないかと思います。

言ってみれば、自然に起きてくる感情にはなんの罪もありませんし、それぞれ何らかの意味があって生じてきているはずなのです。

その意味を見過ごしたり、自分の都合で邪魔者にしたり、ひいきにしたりすることは、行き過ぎれば必ず支障を来します。

むしろ加工されない本来の感情の意味を尊重し、振り返ってみるとき、いままで何か物足りないと思っていた自分の生き方に彩りを添えてくれるに違いありません。

邪険にしてきた感情がないか、過剰に優遇して他の感情を見えなくしてはいないかなど、折に触れて見直してみれば、きっと新しい発見をもたらしてくれるでしょう。

何よりも、どの感情も自分自身そのものであることを、取り戻させてくれるでしょう。


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語っていることはその人自身とは限らない~本物を取り戻しましょう!

アニヤ_kitten1324_03


チャーリー:たまに泣きたいくらいさびしくなるんだ。
ルーシー:あなたに必要なのは、友だちなのよ、チャーリー・ブラウン
チャーリー(怒ったように):もちろんだとも。友だちがほしいんだ!! 友だちがいれば、さびしくなんかならないよ!!
・・・
ルーシー:あなたに友だちがいないなんて、不思議でも何でもないわ... あなたってとても気むずかしいんだもの!

引用:「いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント」
エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02

この会話で注目すべきは、チャーリーの2つめの言葉(太字の部分)ですね。

珍しく(?)ルーシーがチャーリーのことをまじめに心配してくれているのに、チャーリーは言葉の上では同意しているが、その語る姿勢は「僕に関わってくるな」と言っているかのようです。

それは、ルーシーの最後の言葉が物語っています。

人が語ること、その言葉の意味することと、実際のその人の本心とは、多くの場合一致しないものです。

言行一致する人とは、自分にきわめて正直で、自分に嘘を言わない人です。
1つ自分を欺くようなことを始めれば、それに付随してあれもこれも嘘で固めなければならなくなります。

自分でわかっていて一時的なものであれば、それほど問題はないかもしれません。
ですが、たいていの人はこれだけは触れられたくないという秘密を抱えているものです。

そして、そのことが絡んでくると、他のことではとても正直で素直な人も、簡単に自分を偽る言動をとってしまいます。

チャーリーは、その言葉の通り、友達が欲しくてたまらないのです。
ですが、「友達がいたら寂しくなんてならない」と言っているように、自分には友達はいないと思っています。

自分を友達だと思ってくれるような人はいない。なぜなら自分にはそんな資格がないし、人から好かれるようなタイプの人間じゃないからだと思うのです。

~~
まわりの仲間を見てごらん、みんな好かれる要素を持っているのに、自分には何もないのさ。

友達みたいに近づいてきても、裏では自分のことをやっかいな人間だと思っているんだ。

中にはまだつきあいが短くて、それに気がつかないで近づいてくる人もいるけれど、本当の僕の正体がわかったら、離れて行くに決まっている。

だから、誰かが近寄ってくると、後で後悔しないように最初から拒否しておかないといけないのさ。

ああ僕がもっと人から好かれるような人間だったら、そしたら自信を持って人を受け入れるのになあ。
~~

しかし実際には、「僕がもっと人から好かれるような人間だったら」というのはなんの根拠もない彼の創作なのです。

実際のところ、チャーリーには何かと近づいてきて、アドバイスをくれたり、皮肉を言ってからかいに来てくれる、彼を気遣う仲間がたくさんいるのです。

ある見方からすれば、「僕がもっと人から好かれるような人間だったら」という仮面を使うのは、自分には人から好かれる資格なんかないんだという脚本を守ろうとする道具なのです。

何でそんな脚本を持つに至ったか、とりあえずその理由や起源は何でもかまいません。
問題は、現にいま、彼がその脚本を演じ続けているという点にあります。

そして、そのマイナスにしか見えない、ばかげた脚本も、何かの役に立っているから維持され続けています。

それらの理由を追及することは、場合によっては役に立つかもしれません。
しかし、もっと肝心なのは自分がその脚本を演じているときの自分に気づき、それをまさに自分がやっていることなんだと身体全体で感じ取ることです。

そして、一方では元々の願いである、人から好かれ求められる自分を復権させることです。

いまや元々の素直な願いは、ルーシーの去り際の言葉のように、あきらめや皮肉のようなマイナス感情を呼び起こす言葉という形にすり替えられています。

それでも何もないよりましだと自分を慰めているのです(そういう言葉が返ってくるだろうとは気がついています)。

もし自分が、本当にに友達だよと言ってくれる人を信じ、受け入れるような態度を見せたら、それさえなくしてしまうのではないかと恐れているのかもしれません。

だから、今のままでもゼロよりはいいからと、脚本を書き換えるのを拒否する自分がいるのです。

もちろんそれは、どこかゆがんだ形の真性でない交流方法です。
それらは、少しでも早く本物の素直な感情のやりとりに変えた方がいいに決まっています。

それには、自分の全身で感じ取って、本物と脚本の両方を見分けることです。

いったん本物が見えたら、
いったんそれが本物で、本当に欲しいのはそれだとわかったら、
それは何度も何度もよみがえってきて、偽物は、脚本はもういらないと告げるでしょう。

その過程は多少の痛みを伴います。

いままでしがみついてきた安全毛布を手放すのに不安を感じるでしょう。
何度も後戻りしたくなるかもしれません。

しかし、一度本物を感じたら、その味は二度と忘れられなくなる。
偽物がいかに見かけだけで、実は自分をだますものだったのかを感じ始めるでしょう。

それと多くの場合、まわりには、いままでのあなたに戻りなさいと言ってくる人も登場します。
それでも、あなたは本物を追求しなければなりません。

一度本物を感じたら、その味は二度と忘れられなくなる。
偽物がいかに見かけ倒しかを見破り始めているのですから。

一度本物を感じ取ったら、偽物の言葉や脚本は捨てなければならない。
お守りの言葉を捨てるのです。
脚本はもちろんですが、たとえそれが、ありがたい言葉、偉い人の言葉であってもです。

「私にはこの言葉がある。だからもう大丈夫!」
そんなのは嘘です。ちっとも実際には大丈夫じゃない。
そんな言葉をお守りにしていては、本物の自分を感じ取れません。

感じる代わりに、言葉で説明をつけてしまう。
それをやっていては、自分の感性を信じることがいつまでも出来ないままになるのです。

その感性は、最初は、いままでは、非常に頼りないものだと思ってきた。
だからこそ、はっきりと目に見える言葉に頼ってきたのです。

ですが、自分感覚を信じられない限り、言葉を抱えていても変化はないのです。
いつもいつも、そのお守りの言葉で感じとることの代わりをさせてしまうからです。
自分の感性を信じられるようにならなくて、どうやって変わろうというのでしょう!

禅か何かの言葉にあるように、
河を渡ったら、もう乗ってきた舟は捨てていかないとなりません。
舟を担いだまま歩き続けてはならないのです。


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いいことはいつ起こる?

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「哲学者」ライナスとチャーリー・ブラウンの会話から

ライナス:何事も永遠には続かないのさ。
ライナス:すべてのいいことには終わりがあるんだ。
二人は考え込む:・・・・・・
チャーリー:だったら、いいことはいつから始めたらいいのかな?

引用:「いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント」
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なかなか考えどころの多い会話ですね。

『何事も永遠には続かないのさ。』

たしかにそのとおり。

『すべてのいいことには終わりがあるんだ。』

もう一つ、同様に「すべての悪いことには終わりがあるんだ」とも言えるでしょう。

『だったら、いいことはいつから始めたらいいのかな?』

さて、この台詞の背景には何があるでしょう。

チャーリーはいいことをいつ起こらせようかと考えたのでしょう。
自分の好きな時間に「いいことタイム」を作れたらいいだろうなあと。

ライナスの言葉の段階では、なにも問題はないのです。

しかしチャーリーが時間やいいことの起き方を操作したいと思い始めたとき、いかにも人間らしい「できないこと」をやり始めてしまうのです。

私達は、チャーリーのように特定の時間をベストに持って行きたいと思い、いろいろ作戦を練って準備したくなります。

典型的なのは、何らかの大事な用件で誰かに会うというイベントです。

相手にあったら「最初になんて言おうか?」「どんな風にふるまえばいい?」と予行演習をします。

そしていざ本番。

準備したことは、たいていは10分の1もその通りにはならない。
途中から、準備したことなどどこかに行ってしまうこともよくあることです。

さて、会見は終わり、あなたは帰り道を歩きながら、突然ひらめくのです。

「そうだ、あれを言えばよかった!」
「何で思いつかなかったんだろう!!」『ダイワピョン(笑)』

次は必ず使ってやるぞ『ダイワピョン』

リハーサルではその時間は完璧だ。これで間違いなくうまくいく!
・・・
そして、帰り道では、これまたベストな新しい方法が発見されることになるのです。

さて、これをどう考えるか。
準備が不十分だった。次はもっとうまくやれるはずだ。。。

ほんとうにそうなのでしょうか?

多かれ少なかれ、このパターンは繰り返されます。
次こそは完璧だと用意した計画は、予定では完璧なのに、本番は別世界に来たようになってしまう。
そして本番が終わると、また新しい完璧さがよみがえってくるのです。

それに気がつかない限り、同じ事は繰り返されるでしょう。
準備することは本当に必要なのでしょうか?

ここでは暗黙の前提にしていることがあるのです。

私が考えた「いいこと」を私の望む時間に起こさせることができるはずなのだ。

ですが現実には「私のいいこと」だけが起きるわけではないのです。
「あなたのいいこと」「彼女のいいこと」はどうするのです?

そして、実際に起きることは、私とまわりの世界の相互作用です。

「私のいいこと」でさえ、本番のまっただ中で変化するものです。

「起きることを私の都合通りにできたら!」、それこそが最高の出来だと思ったり、私の実力の見せ所だなどと力まないことです。

それを社会が評価したとしても、あなたの価値が変わったわけではないのです。

客観的に見れば、世界をあなたの都合のいいようにねじ曲げようとしているのです。
あなたの都合が正義だと主張しないことです。

あなたの働きかけが世界を変えます。
そして、そのリアクションであなた自身も変わるのです。

あらかじめ考えた予定に縛られないことです。
そうしないと、何が起ころうとあなたは記憶を探って予定の行動をとらなければならなくなる。
もはやあなたは今に生きてはいられなくなる。

目の前にすばらしい予定外の出来事が起きてしまう!
しかし、そんなアクシデントにかまってはいられない。
予定を実行するのだ!
計画が最優先だ!
(笑)

第三者の立場でその滑稽な様子を眺めてみてください。
そして、準備することがいかに人生を退屈にしてしまうかを見てみるのです。

そうすれば、何をすべきか、今に生きるとはどういう事かが見えてくるでしょう。

お手上げの子供
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相手を信頼できないのは自分が信頼できないから

ボール遊び


苦しい状況になると、仲間を信頼できないと感じることがあります。
しかし多くの場合、相手を信頼できないのは、その前に自分を信頼できていないためです。

うまくいっているときには、自分も相手も信頼するのは難しくありませんが、自分への信頼が問われるのは、自信が持てなくなっているときです。

状況によっては、確信が持てなくても自分への信頼が要求されるのです。

たとえば、あなたが上司で指導する立場にあるけれど、その状況に関しては部下の方が経験も技術も上回っているというような状況もあるでしょう。

自信という意味では、部下の方に分がありますが、あなたに必要なのは自分への信頼を失わないことです。

自分がトータルでその状況を乗り越えられるという自分への信頼があれば、誰が適しているかとか何をやるかは問題ではないのです。

あなたのやることは自分への信頼を失わずに、最善の対応をできるように部下や自分を動かすことにあります。

必要であれば、「この件に関しては君の方が経験があるから、自分ならどう判断するかを聞かせて欲しい」と素直に頼めばいいことです。

部下はあなたの全体を見通す判断を聞いてあなたへの信頼を失わないし、自分の意見を尊重してくれたことに感謝するでしょう。

逆にあなたが自分への信頼を失っている場合、二通りのまずい対応が考えられます。

一つは、自分の自信のなさを隠すために、自分の判断をごり押ししてしまうというやり方。
もう一つは、自信の持てないまま、あいまいな指示を出して、自分も部下も迷走してしまう様なやり方です。

どちらもあなたの自分への信頼のなさから、誰も確信を持って動けなくなってしまうのです。

誰の方がその仕事に適任かということと、自分や相手への信頼とは別の問題なのです。

肝心なのは、自分への信頼を持つことであり、それがあれば誰が何をやるべきかの冷静な判断も下せます。
そして、その信頼は、部下や周りの人間への信頼感にもつながるのです。

あるいは、こちらの方が状況としては多いかもしれませんが、部下の力をまだまだ信用できないということも多いでしょう。

あなた自身への信頼が揺るがなければ、誰と一緒に仕事をしても、何とかなるという信頼をもてるのです。

そしてそれがないと、どんなに信頼できる相手と一緒にいても、相手への疑いを持ってしまうことになります。

子どもと何かを一緒にやるという場合なら、なおさらそれははっきりするでしょう。
あなたが自分を信頼して、ゆったりと確信を持って動けば、子どもは安心してそれに従うでしょう。

これは子どもの方が詳しそうだと思えば、自分が教わる側に回ることもできます。
子どもは自分を信頼してくれたことで自信を持てるし、公平な判断のできるあなたを尊敬するでしょう。
自分を信頼できてなければどうなるかは、もう言わなくてもわかりますね。

苦手な相手と組むことになったから、自信がなくなったと思うのは、もともと自分への信頼が不足していたのです。

もっと自分を信頼しましょう。
それは自分が何ができるからとか、誰と一緒だからといったことに左右されない、自分への信頼なのです。

条件次第で信頼が揺らぐのは、信頼というものが無条件にもてるものだと信じていないからです。
まずは基本的な自分への信頼を持ち、経験がそれをより強固なものにしてくれるのです。

最初は何の保証もない状況でも、考えずに動いていくうちに自分を信頼できるようになったことを、実はいくらでも経験してきているはずです。

あなたは自分が母国語を覚えられるかどうか、自信がないと感じながらやっていましたか?
そんなことはいちいち考えなかったでしょう。
しかし考え出すようになると、たとえばそれが外国語だと途端に信頼をなくしたりするわけです。

★誰を疑おうと勝手だが、自分自身だけは疑うものではない。
★相手を信頼できないのは、自分を信頼できていないから。
★条件がそろえば信頼するとは言っていられない状況で、自分がどうしてきたかを思い出してみること。
★自信が出てきたらやってみると言っていたら、あらゆる貴重なチャンスをなくしていくことになります。
★できない理由を探すことなど実に簡単です。ですが、それが何の役に立つでしょう。疑いを引き出すような意見は聞かないで、あなたができるという結果を示してあげましょう。


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「べき」を探せ

苦痛メンタル


自分を制限しているものが何かを知りたいとき『「べき」を探せ』と言われることがあります。

「べき」とは「あなたは~すべきである」という意味のべきです。

自分の行動の規範を言い聞かせるために「べき」を使っているのだから、別に悪くないじゃないかと思われるかもしれません。

その通りに機能していれば、問題はないのでしょうが、「べき」が登場するとき、どこか自分が駆り立てられるような、あるいは重苦しさを感じたりしないでしょうか?

「べき」が登場するとき、私の中には、その言葉通りにしようと思う自分と、それに抵抗しようとする自分が存在します。

抵抗しその「べき」に従いたくないという自分がいるからこそ、あなたはわざわざ「べき」を持ち出しているのです。

抵抗するものがいないのなら、ただ黙ってそれを実行すれば終わりなのですが、それができないでいるから「べき」を登場させるのです。

ですから、自分が「べき」を持ち出したと気がついたら、それに抵抗する自分がいて、葛藤が生じていることを確認してみることです。

確認しなければ、抵抗している自分の存在に気がつかないままかもしれません。

そして「べき」に追い立てられて、「じゃあやりましょう」と思うのですが、なぜかはかどりません。
次々と、問題が起きたり、先延ばしするような理由を思いついたりするようになります。

「なぜいつもこうなってしまうのか?」と悩むようなら、「べき」と抵抗勢力の存在を認めることです。

元々葛藤を生じる理由があって、それが存在するわけですから、気がついても事態は何も変わらないんじゃないかと思うかもしれません。

ですが、問題の存在を発見し明確にすることは、問題を半分解決したようなものです。
残りの半分は、どちらをとるかを決断して、決めたことを実行するだけです。

その決断とは、今の自分にとってもはや必要ではないと感じる方を手放すということです。

どっちも残したいと思うのはうまくいかないでしょう。
両立しないから葛藤が生じるわけであり、両方抱えれば最初の状態に戻って、ときおり「べき」を唱えながら、「またうまくいかなかった」と自分を責めるゲームを続けることになります。

手放すことは、新しいものを手に入れるためには、避けて通れないことがほとんどです。

人間の身体は新陳代謝で入れ替わることで、必要な状態を維持できるのです。
同じように、古くなった考えは手放さないと、新たに欲しくなったものは手に入らないのです。

「べき」と抵抗勢力の存在を見つけて、葛藤を消し去りましょう。
それによって、無駄なゲームから一つ解放されるのです。


なお、「べき」は様々なバリエーションをとります。
やっていくうちに、共通するパターンは見えてくるものですが、最後に追加説明として1つ2つ取り上げてみます。

たとえば「人はこう生きるもの」という形の様々な信念は、『無条件に従う』ことが前提になっているので「べき」が隠されていても気づきにくいのです。

タブーのように扱って疑わずにいることで、隠された「べき」に気づけないと、いつまでも苦しいままになってしまうでしょう。

そのほかにも、「私はこういう人だから」と言う表現があります。

これには自分は他のやり方を選択してはならない、今のやり方を守るべきだという思い込みが隠れている場合があります。

そう思うようになった起源が何かあったのかもしれませんが、今の状況に応じて変えてもかまわないのです。自分に許可を与えてあげましょう。



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すばらしきあいまいさ

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落ち込んだり、悔しい思いをしているときは、自分が何かを判断していることに気がついています。

つまり、「こうだから自分は落ち込んでいる」のであり「あれが自分に悔しい思いをさせている」ということをわかっているわけです。

ところが、自分が判断を下し、フィルターをかけてしまっていることに気がつかない状態もあります。

そんな状態の一つは、何事にも感動できない、驚きや美しさを感じられないといった、無味乾燥な状態に陥っているときです。

そうなってしまうのは、何かの判断を下してそれ以外を受け入れない状態になっているのです。

意固地になって、何かにしがみついて、そこから離そうとするものに抵抗しているとき、素直で柔軟な発想はできませんし、受け取り知覚するものにも偏りが生じてしまいます。

下手に受け入れたら、いま固着している状態が崩されてしまうと恐れるからです。

ですから、素直に笑えないし、泣けないし、驚いたことを人に知られたくないのです。

意地を張って縮こまっていないと、何が今の状態を壊してしまうかわからないと恐れていますが、その状態を壊してしまうことこそ自由な空間に自分を導いてくれることに、なかなか気づけません。

私達の知覚はわざと曖昧にできているようです。
なぜなら、あまり正確無比に区別がついたのでは、普段の生活に困ってしまうからです。

たとえば人混みの中でも、知っている人の顔を識別できるのは、すべての特徴を正確に比較判定しているからではないでしょう。

曖昧な判定で相手を絞り込めるから、どうやって見つけたか自分ではわからなくても、相手が目に入ってくるのです。

少々違った服装をしていても、帽子やめがねをかけていても判定できるのです。

機械の画像判定が実用的になってきたのは、情報の処理能力のアップによるものですが、そういった機械の判定とは違ったやり方で、より少ない情報処理でも区別できるために、曖昧さが何らかの役に立っているのに違いありません。

また人間の知覚は自分が欲しいと思うもの、必要なもの選んで、効率よく収集します。
それは、自分が信じたいことを信じやすいという人間性にもどこかでつながっているのかもしれません。

都合のいい曖昧さは、人間の知覚や心理の限界をもたらす一方で、すばらしく効率のいい働きにもつながるのです。

その自由さは、見たいものを見せてくれます。聞きたいことを聞かせてくれます。

しかし、固まった不自由な精神状態にあると、先ほどの話のように曖昧さを嫌い、偏った判断ばかりを選択するようになってしまいます。

適度な曖昧さを許せる余裕が、縮こまってしまった自分に少しずつ動きを取り戻してくれます。

無感動になったり、まわりの景色が色あせ、驚きや喜びが感じられない時、偏った判断に固執する固まった自分がその背景に存在するのです。

自由に動ける自分でいられるとき、見たいものを自由に思い描くことができます。
ただし、自分の経験にないことはどうやっても思い浮かばないでしょう。

そのためにも、新しいものを見つけ受け取る余裕が必要です。
偏って縮こまっている精神からは、知覚できるもの自体が限られてくるからです。

そこでは機械やコンピュータに要求される、正確さや忠実さとは異なった仕様が必要です。

すばらしきあいまいさを発揮できるためにも、機械的な正確さが要求される時とそうでない時を使い分けることが必要です。

そして、その使い分けができるのは、判断する方の自分からは生まれてこないような気がします。


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