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あたりまえのことをあたりまえに!

毎日同じことの繰り返しで退屈するから「何か変わったことはないだろうか?」と思ったりします。

しかし、これは起きてくることが平凡で退屈なのではなくて、実は「自分が変わりばえのない毎日にしているのでは?」ということはないでしょうか。

風、疎竹に来たるも、風過ぎて竹に声を留めず。
雁、寒潭(かんたん)を度るも、雁去りて潭(ふち)に影を留めず。
故に君子は、事来たりて心始めて現れ、事去りて心随いて空し。

風がまばらな竹藪に吹いていると、その時、竹の葉は風に吹かれて鳴るけれども、吹きすぎてしまえばもとの静けさにもどり、竹藪にはなんの音もしない。また、雁が冷たく澄んだ淵の上を渡っていくと、その時は雁の姿を水面に映すけれども、雁が飛び去ってしまえば、淵の上の雁の姿はまったく跡を留めていない。だから君子というものは、何か出来事が起こると、はじめてそれに対応する心があらわれ、それが過ぎてしまえば、それにしたがって心もまったく無になってしまう。
(菜根譚 講談社学術文庫・中村璋八、石川力山訳)


雁・夕焼け


「事来たりて心始めて現れ、事去りて心随いて空し」

何かが起きて初めて対応を考えて動き、ことが治まれば忘れてしまう。
このあたりまえのことが、実は難しいものです。

私たちは過去に経験したことを今に生かそうとします。
昨日と同じ過ちを繰り返すのは、学習能力がないわけで困った人だと言われます。

確かにそれがバランスを保っている分には、過去を生かすことは有益です。

ですが、同じ働きがかえって私たちを生きにくくしたり、苦しめたりする原因にもなるのです。

たとえば、「何かが起きて初めて対応を考えて動く」というと、「そんなことではダメだ。あらかじめ予測して準備を怠ってはいけない。出来ることはすべてやっておきなさい」と考える人もいるでしょう。

あるいは、過去の経験を生かす事は、私たちが効率よく動くための助けになります。
昨日までのやり方を継続していけば、毎回考えなくても今やることはわかってきます。

やり方を決めたら、それはもうルーチンワークにしてしまって、あたらしい事を考えるのにエネルギーを使おう。
これぞ出来る人の心得だと考える人もいるでしょう。

しかしこのルーチンワーク化こそが、私たちを退屈にさせていて、それから逃れたくて何か新しいワクワクすることが起きないだろうかと思わせるのです。

実は現実に起きてくることは、そんなに変化がないわけではなく、ルーチンワーク化された私たちの見方が、「いまここ」で起きている変化を捉えられなくしてしまうのではないでしょうか。

その結果、私たちは今起きていることを楽しむには、日常を離れて旅行をするなど何かイベントを作らないと変化を楽しめないと思い込むようになります。

目を向ける気になりさえすれば、毎日なんども「風は疎竹に来ている」のです。

昨日の継続が今起きていることを見る機会を奪ってしまうから、毎日同じことしか起きないのも当たり前なのです。

肝心なのはバランスです。
変化のなさにうんざりしているなら、「少しルールを破ってしまおう」というくらいの変革が必要です。

「これは今日のうちにやらなければ」と思って決定事項にしていたことを少し優先順位を下げてみましょう。

そのかわりに、今目の前で新しく起きていることはないのか見わたしてみましょう。

いま風が吹いているのかどうか調べて見ましょう。
飛んでくる雁はいませんか?

毎日予定を20個こなしているのなら、10個だけにして、その時間で今を感じ、まわりを見わたし、自分の気分を聴いてみましょう。

今日は1個しかやらないと決めてもいいのです。
大勢に影響などありません。
あると思わせるのは、自分の中の恐れだけです。

そもそも、予定など多少の効率化をもたらすはかりごとに過ぎないのです。
予定なしに目の前のことをこなしていても大差はありません。

予定に縛られて動きが鈍らない分効率的かもしれません。
それに、いま急に起きて来たことにも柔軟に対処が出来ます。

「予定通りに進んでいる」と安心したり、満足している自分は、ちっとも安全などではありません。
それどころか、そのことが「予定が狂うことを怖がる」自分を作りだしているのです。
また、それが予定通りに出来なかった自分を責める自分を強化しているのです。

まわりは「予定どおりですか?」と声をかけてきますが、気にしないで「いまここ」をもっと楽しむことです。
そうしないと、いつになってもあなたが望んでいる「いつかくる安らぎの時」はやってきません。

毎日が退屈で窮屈だと感じ始めたら、作られた娯楽を求めずに、「いまここ」にいる自分を自由にさせてみることです。

誰かが作った楽しみを探したりしないことです。
作られた楽しみこそが、あなたを退屈にさせているのです。

準備しないと何も起こらないという思い込みをやめてみましょう。
いま目の前で起きていることをちょっと感じてみましょう。

そして楽しみが終わったら忘れることです。

「事去りて心随いて空し」

この楽しみを明日にも残しておこうと思ったとき、また新しいガラクタを作り出しているのです。
持っている物を捨てられなくてガラクタだらけになるのは、この「楽しみを明日にも残しておこう」という思いが原因なのです。

ガラクタに囲まれていると、だんだんあなたに鬱が忍び寄ってきます。
「捨てられないし、かといって変化もしない」ものが、あなたを真綿で締めるように憂鬱に追い込んでいくのです。

予定があるのも良し、予定がないのもまた良し。
突然の来客も良し、突然の別れもまた良しなのです。


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本当の自分というけれど

「これは本当の自分じゃない」と表現する場合がありますね。

その場合、普通は、「いまの自分は本来の実力を充分発揮出来ていない」といった意味合いを表しているのでしょう。

しかし、この「本当の自分」という表現は、注意して考えると大きく分けて2通りの意味がありそうです。

ひとつ目は、もともとのこの表現の意味合いを表すものです。

つまり、自分で本当はこうしたい、こう表現したいというものが具体的にイメージされているのですが、他の人との関係上、それをしかたなく修正して表現しているのだという場合です。

たしかに、いつでもどこでも、自分の思うとおり100%を表現する人はまずいないでしょう。

自分で人は気にしないと宣言している人でも、多少なりと人を前にすれば修正が入っているものです。

このように、本来の自分の欲求がハッキリわかっていて、対人的にそれに修正を加えているから本当の自分ではないという場合がひとつ目の本来の意味です。

しかし、この「本当の自分」という言葉を手に入れたために、だんだん元々の意味を離れて、観念的に「本当の自分」がひとり歩きしてしまうことが考えられます。

それはこのように表現されます。
「いまの自分が自分で気に入らない。こんな自分は本当の自分ではないのだ。」

たとえば実力が発揮出来なかったとき、「こんなのは本当の自分じゃない」と言っておけば、本当の自分ならもっと力を出せたはずなのだ、というように自分を納得させられるわけです。

あるいは、そんなに具体的に何が気に入らないかが、わかっていない場合もあります。

しかしいまの自分では何か不満だし、こんな筈じゃないという思いがあるのです。

いまのそのままの自分が本当の自分だと認めたくない、だからいまの自分は「本当の自分」ではないと表現しないではいられないのです。

この2つ目の「本当の自分」が意味するのは、「いまの自分」は仮の自分であって、「理想の自分」が「本当の自分」であるということなのです。

どちらの意味で使っているかで、取り扱いには注意が必要です。

前者の意味なら、「本当の自分」をありのままに表現することを目指すことが、より自分を解放し楽にしてくれることにつながります。

しかし、後者の意味の場合は、意識を変革する必要があります。

つまり、いまのままのあなたが本当の自分(現状なのだ)ということを認めて、「本当の自分」と表現している理想の自分は、残念ながら、まだちっとも自分のものにはなっていないことを認めなければなりません。

言葉はすぐにひとり歩きして、毒にも薬にもなります。

言葉に騙されるくらいなら、何も考えない方がまだましです。
考える以上自分の使っている言葉には、充分注意を払って言葉を大事に扱いましょう。

鏡の中の女性

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他人の評価は時間をかけて

「群盲象を評す」ということわざがあります。

象と飼育係


複数の盲人が象をなでて、自分の手に触れた部分だけで象について意見を言うと、それぞれ印象が異なってしまうという話ですね。

私たちの他の人への印象にも、このような傾向が大いにあるわけで、たとえばAさんはCさんのことを「頑固な人だ」と言い、Bさんは「素直な人だ」と評価しているということもよくあることです。

これは、CさんはAさんと接するときは、なぜか頑固になってしまい、Bと会うとなぜか素直になれるといったことが起きているのかもしれません。

みなさんも自分のことを振り返って見れば、思い当たるのではないでしょうか。

他人の評価は鵜呑みに出来ないということを、頭に置いておかないと思わぬ勘違いをする可能性があります。

Cさんを知らない人が先にAさんの評価を聞いて頑固な人だと思い込んで、余計な先入観を持ってしまうとかですね。

また、他人を介さなくても、自分だけで最初の印象で相手を特定のパターンに押し込んでしまうという可能性もあります。

少なくとも、一定の期間をかけてみないと、相手を評価することは出来ないと思っているくらいでちょうどいいのかもしれません。

思い込みで相手を扱うと、最初から相手の一部分しか見ないようになってしまいます。

また、後から何となく最初の印象と違うと思い出しても、最初の決めつけが激しいと変更するのが大変になってしまうのです。

それから、会ってすぐに相手を値踏みしないといられない人は、自分のあせりや不安感から無理に判断を下していないか振り返って見るのもいいのではないでしょうか。

これは「わかってるよ」と思いながらも、やってしまいがちなミスですが、思っている以上に大きな損失をもたらすものです。

それが原因で人づき合いが苦手になっていしまう可能性もあります。

しばらく判断は保留にして、相手が見せてくる情報だけを手がかりに相手を知るという心の余裕を持ちたいものです。

虫眼鏡で観察



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投影 - 他人はあなたに何をしてくるだろう?

「投影(投射、プロジェクション)」という心理の働きについて考えて見ましょう。

あなたが最近「私を非難したがる人が多い」ように感じているとしたら、あなたは「誰かを非難したくなっている」のかもしれません。

「なんでみんな冷たいの?」と感じるとき、あなたの中で他の人を拒否しようとしている自分がいないでしょうか。

みんな優しい人ばかりに見えるとき、実はあなた自身が自分に優しく出来ているのです。

そんなちょっと不思議な心理を振り返って自分の見方にしてしまいましょう。

☆~⌒☆

まず、あなたは自分が何かをしたいと思っています。

しかし、それを行うことはあなたの持っている基準のようなもので禁止されています。

つまりあなたは「そんなことはしてはいけない」と思っているから、自分がそのような欲望を持ったことを否定して、そんなものは持っていないと思い込みます。

「わたしがそんなこと考えるわけないじゃない」と思って、その存在を消し去ろうとしますが、実際にあるものはただ消すというわけにはいきません。

仕方がないので、その欲望はエネルギーを保ったまま、どこか見えないところで、あなたの中にしまい込まれることになるのです。

これが「抑圧」ということです。

やらないようにしようと単に意識して押さえているのは「抑制」ですが、それよりもレベルが深くなって「抑圧」になってしまうと、あなたはその存在を意識することすらなくなってしまいます。

しかし、そのエネルギーは消えたわけではありません。

いつも機会があれば外に出たいと待ち構えているのです。

抑制や抑圧は誰でも抱えているものですが、ある程度まで強くなってくると、社会生活を送る上で障害になってくることもあります。

他人からみれば抑制や抑圧の表れは、比較的わかりやすいものです。

自分のことではないから、それを禁止する自分がそこにはいないからです。

ですから、「このことに触れると、なぜかこの人は不自然な行動を始める」というように感じられます。

なんとなく「何か隠しているな」と感じられるのです。

あなたに好意的な人であれば、それに触れないでおいてあげようと思いますが、そうでない人は容赦なく、そこに切り込んできたりするでしょう。

いずれにしても、いつまでもそれを隠したままでいたのでは、いつまでもスッキリしないし、人間関係に溝を生じさせてしまうことにもなりかねません。

ですから、余り抑圧のエネルギーが巨大に成らないうちに、ガス抜きしようとします。

たとえば自分では「何でこんなこと言ってしまったんだろう」と理由が掴めない行動の多くは、このようなガス抜きの行動だったのかもしれません。

このような、抑圧を外に発散する手段のひとつとして「投影」という働きがあります。

これは直接的な発散ではなくて、ひとひねりした心の働きです。

「投影」とは本来あなたの欲望なのに、それを他の人が持っていて、あなたにそれを要求してくると感じる現象です。

つまり、本当はあなた自身がそれをやりたいのですが、自分でやることは許せないから、他人があなたに向けてそれを実行してくると思うことで、エネルギーを調整しようとしているのです。

「抑圧」から「投影」に転じる仕組みを理解していれば、あなたは自分の「投影」を探ることで、自分自身の「抑圧」を発見し、停滞しているエネルギーを解放することができます。

その結果ずっとスムーズに自己を解放できたり、他者と係わることが楽になってきます。

それには、あなたの行っている「投影」を探してみることです。

自分の中に求める気持ちが全くなければ、他人の行動は自分の感情を刺激したりはしないものです。

気になっていること、あなたが普段から「他の人が私にしかけてくる」と感じていることをチェックすれば逆にたどって自分の隠している抑圧を見つけることが出来るわけです。

鏡の中の女性


◆「まわりの人は私を非難しようとしている」

他人のちょっとした仕草や言葉に過剰に反応して、想像をふくらませてしまい、客観的な事実もないのに他人が自分を非難しようとしていると感じるのです。

そこには、あなたの側に他人を非難したい気持ちが隠れています。

◆「まわりの人は私の悪口を言っている」

これも前の項目の亜流ですね。

顔を合わせたときにはどんなに親しく好意的であっても、あとでひとりになるとあのときのあの行動、あの言葉には裏があったように思えてきたりするのです。

だから、あとから「私のいないところでは悪口を言っているに違いない。」と信じ始めたりするのです。

しかし、これが「投影」だとすれば、実はあなた自身が普段から「相手を非難したい」と思っていることになります。

つまり「非難したがる人が多い」と感じ始めたら、あなたは「誰かを非難したくなっている」けれどそれを抑圧しているのかもしれないのです。

これに付随するのは、他人のあら探しです。

他人のあら探しをしては、不満を溜めて「これじゃあ誰かを非難しないではいられないよね」という状況をせっせと作り上げ、我慢できなくなって爆発することで抑圧を外そうとする非常手段を使うのです。

◆「なんでみんな冷たいの?」

そんな風に感じるとき、あなたの中で「他の人を拒否しようとしている自分」がいないでしょうか。

本当は「いまは近寄ってこないで!」と言っている自分が隠れているかもしれません。

そんな自分に気がつけば、まわりの人への見え方も変わってくるでしょう。

◆「なんでそんなにカリカリしてるんだ、笑顔で行こうよ」

必要以上に他の人に笑顔を要求したいとき、あなたの中に誰かへの「怒り」は隠れていませんか?

あなたが感じることは許されないと思っている怒りはないでしょうか。

◆「まわりの人はうまく立ち回っている」

まわりの人に嫉妬していないでしょうか。

そう感じるあなた自身が、誰よりも評価されたいと願っているのかもしれません。

原点に戻って、目の前のことを淡々と進めていきましょう。

以上あげたのは否定的な感情でしたが、肯定的な感情もまた相手に映し出されています。

◆「みんな優しい人ばかりだ」

そう思えるとき、あなた自身の他の人へのいとおしさがあふれているのかもしれません。

まわりの人を、いまのあなたはどんな風に感じていますか?

それは、もしかしたら自分の中で抱えている感情かもしれません。

他の人があなたにしてくるのではなくて、その前にあなたがそうさせているとわかったなら、自分がまず変わればよかったのだと気がつくでしょう。

世界は自分に働きかける個々の人物や物の集まりだと見ているかも知れませんが、実はあなた自身が投影して作り上げている世界です。

他の人も、あなたと全く同じように自分の世界を作り上げて世界を見ています。

エネルギーをどちらから見るかで、自分に見えたり他人に見えたりしているだけで、すべてあなたが見え方を決めている世界なのです。

そう思えば、誰が何と言ったかを気にして、その駆け引きに疲れはてていることのくだらなさが見えてこないでしょうか。

「私の思い」なのか「あなたの思い」なのかは、重要ではなく、どうすればうまくエネルギーを回せるのかを考えればいいのです。


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ブラックボックス的生き方#3

前回までの説明をふまえて、もう少し具体的な考え方を書いてみたいと思います。

あなたが誰か初対面の人と出会うとします。

通常あなたは相手がどんな人間であるかを、大急ぎで観察し自分なりに相手と自分の関係を作り上げようとするでしょう。

それは野生の動物が、何かの他の動物に出会ったとき、相手を値踏みして敵か味方を瞬時に判断しようとするのと同様です。

もし危険な相手なのにそれを判定出来なくて逃げ遅れたら、そのまま相手に殺されてしまうかもしれないのですから、まさに命がけで自分をフル動員して対処しようとするでしょう。

人間の場合は、普通は野生動物のように、ひとつ間違えばかみ殺されるような状況にはありません。

しかし、野生の動物にはない高度な思考という働きが、いろんな相手に対する情報を勝手に作りだしてしまうという不利な面も持っています。

思考によって作り出されたものは、その時の現実での経験よりも、大きな影響を及ぼすことも多いのです。

思考が作り上げた相手へのイメージは、あなた自身の今までの経験の記憶を無意識に再生し始め、目の前の人はその人のことを知らないにもかかわらず、あなたの知っている属性を持っているに違いないと考えてしまいます。

人の認知の仕方は、カメラなど機械が捉えるものとは異なり、いわば自分の都合のいいようにバイアスを掛けてものを見たり認識しようとします。

たとえば、相手の顔を写真のように正確に固定されたイメージで記憶していたのでは、相手がその時と異なる服装や髪型などに変わったら別人だと思ってしまうかも知れません。

実際には知っている人を見かけたとき、どこを認知しているのか自分でもよくわからないまま、全体としてそれが自分の知っている人だと気づくものですね。

そこでは、曖昧に相手を捉えることが、厳密さよりも役に立つのです。

ですからむやみに正確に細かく認知するのではなく、あえて曖昧さを許して認知するという認知の仕方が発達してきたのでしょう。

この事は、実生活においてはそのほうが都合が良い面も多いのですが、一方で似たような対象を同一視してしまうということにもつながります。

過去に似たような見かけの人を知っていると、その人の人柄や内面について何も知らないのに、過去に知っていた人と同じ属性を持っているように錯覚するということも起こってきます。

これは別に「面倒だからこの人も同類だと思ってしまおう」などと意識してやっているわけではありません(中にはわざとそうする場合もあるかもしれませんが)。

全く未知の人では不安だから、無意識に相手を自分の知っている人に作り上げたくなっているわけです。

一概にこの傾向がマイナスに働くとは限らないのは、先ほど述べたとおりです。

しかし、プラスの面の主なものは、毎回相手を観察し直さないとわからなくなったのでは効率がよくない、すぐに相手を認識できた方がいいだろうといった、あった方が便利である程度の働きが中心ではないでしょうか。

それに比べて、相手をありのままに見ないで、自分の都合のいい人物イメージに書き換えてしまうという働きの方は、人間関係のトラブルの原因を作りだすという、よりやっかいな事態の引き金ともなります。

たとえば、充分に相手の情報もないのに、見た目だけでイメージを作り上げて、この人は自分の苦手な人、近づかない方がいい人と思ってしまうと、せっかくの出会いの機会を閉ざしてしまうでしょう。

あるいは逆に、過去に好意を感じた人と似ているからといって、まだよく知らないうちから相手を信用しすぎて失敗してしまう、といったこともあるかも知れません。

ですから、ここで相手をブラックボックスとして観るということを思い出せばいいのです。

相手に一旦ブラックの箱をかぶせてしまいましょう。

そうすれば、実際には見えていなかったもの(思い込みで見えると錯覚していたもの)が姿を消します。

そして相手が実際に表現してくれた情報だけを、ありのままに認識することが出来るようになります。

相手についてまだ知らない面も、きちんとわかっていますから、必要であればその情報を自分で作ったりせずに、相手に確かめるという行動もとれるようになります。

人間関係で悩んでいる人の中には、相手の本当は見えていない部分を、勝手に自分で作りだしては、それを非難、攻撃している人がいます。

客観的に見ればこれは不可解な行動なのですが、本人は自分の思考の中で現実だと錯覚してそれを繰り返している場合が多いのです。

これなど、ありのままに相手を見て、知っていることと知らないことをしっかり認識すれば、簡単に避けられる過ちなのですが、放置すると非常にやっかいな問題に発展する可能性があります。

背伸びをする女の子

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ブラックボックス的生き方#2

前回は人間関係についてのブラックボックス的見方を書きましたが、人生の生き方についてもわかっているようで、実はあらかじめわかる人は誰もいません。

行き先がブラックでは、「お先真っ暗」みたいに聞こえますが、見えないものを見えたつもりになることも、行き過ぎると弊害をもたらします。

「出来るだけ方向を自分で定めて生きることが望ましい」というのが今の私たちの常識になっています。

しかし、そこでもブラックボックスをどう扱うかという問題は残るわけです。

「人生の価値基準」をもって、ぶれない一貫した生き方をするか、
そんなものを気にしないで勝手にやればいいと思うか、
そのどちらかだと思うのが、一般的な考え方でしょう。

「人生の価値基準」に忠実であるとどうなるか?
・決断が必要なときに迷わない。
・自分の目的の達成に向けて効率よく動ける。
・周りから一貫した人だと思われる。

だから基準を持ちましょうと言われるわけです。

ですが、何かを基準にすることは、それ以外を排除することです。
最初に基準を決めたその時点の自分の判断に、その後の生き方を賭けるということを意味するわけです。

「人生の価値基準」を持たない生き方は、刹那的でどこに行くかわからないという印象を持たれているでしょう。

しかし、現実に私たちが行うことは、その都度その瞬間の選択が出来るだけです。

「人生の価値基準」をもたないといっても、その都度その時の自分の信念で選択を行っているだけで、自分のプラスに成ると思う選択を行うという点では、同じことです。
そこには、自分の選択基準が一貫しているかどうかの違いがあるだけです。

ところでこの価値基準に従おうという生き方を「選択的理念」と呼んでおきます。

一方で前回もちらっと触れましたが、タオイズムなどでは、あえて自分で選択しない、動かないという生き方を説いています。

そこでこちらを「非選択的理念」と呼んでおきます。

「あえて自分で選択しないこと」をその都度行うわけですから、これも1つの人生理念には違いないからです。

しかし、だからといって両者を同じように「人生理念」という言葉で表現するのは混乱しそうですから、別の名前をつけてみたわけです。

クラブを選ぶ


さて前置きが長くなりましたが、では「非選択的理念」とはどういう生き方なのか。
それをタオイズムに沿って考えたいと思います。

タオイズムとは、ものごとの流れを作り出すもとが道(タオ)であり、タオとは人間が言葉で表現できるようなものではなく、人間も含めた世界全体の流れを作りだしている大きなエネルギーのようなものだと説明されてます。

それなら、タオイズムとはタオとは何かを追求する考え方のことかと思われるでしょう。

しかし最初から言葉で言い表せないようなものを想定しているわけですから、タオを理解したら方向がわかる様になるとか、モノサシになると言う方をすると少し違うような気がします。

むしろ、タオイズムとは、「タオに沿って生きることを選びながら、タオとは何かを気にせずにそれに任せて生きること。」という表現の方があたっていると思います。

ですからモノサシをタオに置き換えるという「選択的理念」ではなく、「非選択的理念」なのです。

さて、ここでようやくこの文章の本題にたどり着いたわけですが、「非選択的理念」とは、人生もブラックボックス的に渡っていこうということです。

すなわち、このような手がかりで考えて見ましょう。

・あらかじめモノサシを用意しない。
・ブラック(ボックス)をホワイト(ボックス)にかってに置き換えない。
・自分の選択すらも大きな流れの一部だと捉える。
・自分の選択とは、すなわち自我(エゴ)のことである。

しかし、それでは自分の意志とは、主体性とはどこに行ってしまうのかと心配になる方もいらっしゃるでしょう。

そういうものが本来存在するのであれば、何があろうと残るだろうし、もともとないものなら消えていくだけです。

子どもの頃、自分で決めなさいといわれて、そうか自分で決めればいいのかとすぐに納得したでしょうか。

基準をどこかで身につけていれば、自分で決められるし、自分の意志という意味もわかるでしょう。
しかし、そのようなものをまだ身につけていない段階で、自分で決めろと言われることは、わからないことを無理にやれと強要されているわけです。

そういうやり方をとる拠り所は、子どもは徐々に周りから基準を獲得していくものだから、そう言っておけば、そのうち自分で基準を持つようになるだろうということなのです。

ですから、自分で決められるはずだと言われても、いくら考えてもわからなくて、仕方なく周りのやり方に合わせてわかったフリをすることになります。

自分の意志とか言っても、起源をたどればそんなものなのです。

機械を使って選択


基準がなければ、意志すらも存在しないブラックボックスなのが本来の世界です。

基準を持っていないとと困ると思うのは、社会がそれを要求してくるからです。
ですから、社会と係わる上では、仮の基準を持っておけばいいのです。

そこで、ブラックボックス的生き方とは何でしょうか、という中心課題に移りましょう

それは、中身はいつまでも全貌が見えないままの相手に付き合っていくということです。

そこでは、ブラックな(見えない)ものを、勝手に見えた気にならないことです。

またブラックボックスは中身がわからないと言っても、その中身は一貫した働きをするものであることを了解していることです。

だからまかせることはまかしてしまう。
見えないことは、無理に見ようとしないであずけてしまえばいいわけです。

そうすれば、見えてきた物だけを相手に集中することが出来ます。
そして自分でコントロール出来ない事に神経をすり減らす必要がなくなります。

勝手に基準を作り上げていなければ、素直に無理なことは無理だとわかってきます。
無理なことを、出来ないといけないと思い込んでいるから苦しいわけです。

自分で受け入れた基準であっても、一旦受け入れれば、社会は従わなければ許してくれません(実質的には自分自身が自分を許さないわけですが)。

中には受け入れるつもりなどなかったのに、従っていることもあるでしょう。
できるだけ本来のブラックな状態に戻してやれば、見えないけれど自分を威してくることもありません。

見えないものは対抗する余地がないのですから、無駄な抵抗やというかもともと相手できないことに係わることがなくなります。
誰の手柄かも気にならなくなります。
その分、見えていることだけに集中すればいいわけです。

自分でどのような筋道で実現するのかを描くこともないわけですから、途中経過が違っているとやきもきすることもなくなります。

いつまでに達成するかというのは、社会的なもの、企業理念のようなものであって自分の生き方までそれに合わせる必要はありません。
気がついたら本当に必要なことは自然と出来上がってくるものです。

すべてまかせて、ゆったりと生きていくのが当たり前なのだと思えること、それがタオイズム的な生き方です。そのイメージとして相手をブラックボックスとして扱うのです。

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ブラックボックス的生き方#1

ブラックボックスとは、内部の状態や構造を理解していないが、外部から見た機能や使い方だけがわかっているという装置や機構を意味する言葉です。

中身は見えないけれど、インプットに対してのアウトプットは外側から見えるわけで、手がかりはそれだけです。

そこでは中身の原理は必ずしもわからなくてもかまわないという意味合いがあるわけですが、逆に原理が説明出来ないと困るから明確にしようとするのが、ホワイトボックス化と呼ばれたりもします。

ここでは、機械の話ではなく、人生に対する姿勢として、ブラックボックス的に生きるのか、ホワイトボックス的に生きるのか、ということを考えたいと思います。

老子の説く道(タオ)は、この意味では非常にブラックボックス的だといえます。

タオとは人間には計り知れないけれど、大きな流れとしての道(タオ)に従っていれば問題は生じないという考え方です。

その考え方は、ホワイトボックス的に生きたい人にとっては、非常にあやふやな考え方に見えるかもしれませんが、どちらを取るのがいいのか、簡単には決着がつかない問題だと思います。

さて、生き方全体の話は、また別の機会に譲るとして、今回は人間関係におけるブラックボックス的な見方ということを考えたいと思います。

つまり、相手の中身はあくまで見えないけれど、見えないままでつきあっていこうという姿勢です。

それは、あえて見えていない部分を明らかにしようとしたり、自分の側で憶測することを避けようとするという意味合いも含みます。

相手が見せようとしない段階で、せっかちにそれを明らかにしようというのは、人によっては迷惑なことでしょう。

中身が見えないのは困るから、明らかにならない人とはつきあえないとか、人はできるだけオープンであるべきだという考え方はホワイトボックス的だといえるでしょう。

人の心がホワイトボックスであったらいいのかどうかは、難しい問題です。

簡単に相手の心が見えるものなら、全く人間関係というものは、今とは違うものになっているでしょう。

しかし、幸い?にも、相手の心はブラックボックスです。

ところがそのことは、親しくなるにつれてつい忘れてしまいがちなことでもあるのです。

長く付き合っていいれば、相手の心は知っていると思いたくなるものですが、そこで自分が作り上げたイメージで相手を扱ってしまうと、思わぬトラブルに遭うことがあります。

悩む2人


すこし、ご自分でいままでの人間関係のトラブルを思い起こしてみて下さい。

そのほとんどが、相手がブラックボックスであることをつい忘れて、知っているつもりになった為に起こっていないでしょうか?

あの人のことはよく知っているから、親子だからよくわかっているから、そういう思い込みでつい自分の側の思い込みでブラックボックスをホワイトボックスだと思い込んでしまうのです。

また今までは、このインプットからは、決まってこのアウトプットがあったから、今回もそうに違いないと思う場合もあるでしょう。

それがあたっていれば問題はないのですが、過去のパターンはいつも同じように再現できるとは限らないのです。

今回のやりとりでは、いろんな状況の微妙な違いによって、いままで経験していなかった相手の中のブラックボックスが動きだすかもしれません。

あるいはブラックボックスの中身への推測に、自分の側の思い込みが入り込んで偏った解釈を生み出していたことも考えられます。

自分の思い込みを、相手の特性だと勘違いしてしまうことは、特に注意していないと非常に起こりやすいのです。

これは、「私」が主観的に作り上げた相手の人物像であると思っているくらいでちょうどいいのです。

「あの人のことはわかっている」という言葉を使ってしまうと、自分自身が容易に騙されてしまうものです。

わかっていないことまで、わかった気になってしまうことが誤解を生み出します。

慎重にブラックボックスとして扱う姿勢があれば、不要な誤解は避けられます。

また、相手に失礼な発言をしたりすることも自然になくなります。

知っている人も知らない人も、その都度ブラックボックスであることを思い出すことが重要になるのです。

またある意味では逆な面でも効果を発揮します。

例えば、相手の肩書きや影響力に圧倒されて、相手をひとりの人としてみることが難しくなっているような場合です。

相手の情報から、勝手にホワイトボックス化して作り上げた人物像が、あなたにとってとても気後れする存在を作り上げているのです。

それらをいったん捨ててしまって、相手をその都度ブラックボックスとして扱う姿勢があれば、実際のインプットに対するアウトプットだけを頼りに相手を判断できます。

「へーこんなことを考えるんだ。私とも近い部分もあるのかもしれない」というように、相手が見せてくれるのにまかせて相手のイメージを作っていくことです。

毎回が新しい出会いだという見方、相手のことをわかっているつもりにならないで、その都度ブラックボックスであることを思い出すことが、ありのままの相手を捉えるためには必要です。

あえてこんなことを書くのは、私たちは放っておけばどんどん相手をホワイトボックスであるかのように作り上げてしまうも傾向があるからです。

それは、未知のものは怖いという思いから、できるだけ知っている存在に作り上げたいという心理が働くことも一因でしょう。

相手のイメージを描く、まさにその段階で「私の見方」を入れないようにする姿勢、見えないことを見えた気にならない姿勢をを心がければ、人間関係はずっとスムーズになります。

また、相手が親しい人なのかどうか、目上の人かどうかなど、複雑に相手によってルールを考えるのではなく、シンプルに共通して持てる姿勢でもあるのです。

この姿勢でいれば、はじめて会う人や気後れしてしまいそうな人に対しても、緊張感が少なくなる効果もあるでしょう。

わかってもいないことを「私」の解釈で補うことが問題を作り出しています。

しかも、それは私が作りだしておきながら、相手のせいだと思ってしまいがちなのです。

喧嘩する親子 (2)



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ひとつ妥協してみようではないかね

「世界はあなたが望むように出来ている」

そう信じさせてくれる言葉を聞くと、事実かどうかなどお構いなしに飛びついてしまう。

しかし、お好みの言葉しか受け付けないでいると、

どんどん、あなたと世界の間のずれが大きくなっていく。

気に入らなくても、起きていることにもしたがえる自分も持たないといけないだろう。

「なんで?」と言われても、そうであるものは、そうなのだ。

「なんで?」と聞く自分に、逆に「なんで?」と聞き返してみよう。

もはや、この世は私の住む世界ではないと諦めてしまわないうちに、

ここは、ひとつ妥協してみようではないかね。

何を妥協するのか?

子どものように自分の思う世界でないと嫌だと言い張る自分に

妥協して受け入れることを教えなければならない。

雨とカエル


妥協と言うよりも、現実に目を向けろという当たり前のことをするということだ。

嫌だと言い張る子どもに妥協して貰えば、

それは嘘ではなく現実なのだとわかってくる。

いつか王子様が迎えに来ると信じたり、

今はカエルに変えられているけれど、いつか本来の王子様に変身できるのだと、

そんなおとぎ話を信じている子どもを説得してみよう。

自分を騙して現実から目をそらしていたのでは、

いつまでも本物の世界を見ないままになってしまう。

ここは、ひとつ妥協してみようではないかね。

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瞑想とは何ですか?#2

前回の「瞑想とは何ですか?」ではOSHOの文章から紹介しました。

ただそこに存在している状態にあること、すべての行為(doing)を落とし、考えることも、何かに集中することも、熟考することもしないでいる状態。

このように、ほんの一瞬でもあなたが何もしないでいられるとき、全くリラックスして瞑想状態にあるのです。

しかし、この表現から瞑想を理解するのは、実際には非常に難しいのです。

特に、瞑想しようと能動的になれば、すでに瞑想からはかけ離れたものになってしまうからです。

また、せっかく瞑想状態に入っても、それに気づいて「いまがそうだ!」と思った途端に瞑想から外れてしまいます。

瞑想は受動的な観照者である状態です。

しかしなかなか受動的なままでいることが出来ない。

能動的になってしまう大きな原因は、そこに言語が介在してくることです。

先ほどの「いまがそうだ!」と思った時のように、すぐに言語化が起きてくるのです。

ですから、瞑想状態を維持するためには、言語化しようとした瞬間を捉えて、能動的に思考が働き出すのを阻止しなければなりません。

しかし、私たちはあまりにも言語化することになれてしまったために、曖昧な状態でいることに耐えられなくなってきます。

「今どういう状態か?」という疑問が起きてしまったら、それに答えようと言語化が起きてしまうのです。

言語も思考も完全には連続していません。
その言葉と言葉の隙間を捉えたら、説明のない状態がそこに存在することを発見します。

話が何かで中断したとき、再開しようとして「どこまで話しましたかね」といったりしますね。

そのときは思考の再開を意識的に行っているわけですが、そうでないときでも、ごく自然に思考をつなげているものです。そして、それは思考の世界ではなく、それこそが自分自身だと勘違いしているのです。

思考の連続にあるとき、私たちは「いまここ」とは違う世界に生きています。

その中断は、もしかするとまさに「いまここ」で発生したイベントが、あなたをいまに引きずり戻したのかもしれません。

言語化された自己は、ある意味何かの目的を果たすためには役に立ちます。
しかし、それはあくまで一時的な道具として使うにとどめることです。

なぜなら、あなたがなりたいのは、道具ではなく自分自身であるはずだからです。

道具として使いやすい自己は他の人にとって重宝がられるかもしれませんが、それに味を占めて自分を道具にしてしまうことは注意したいものです。

おだてられて気分がよくなって、自分の流れから外れてしまうと、いまここから離れていってしまいます。


もともとあなたはそうではなかった。

言語に囲まれて、もうひとりの自己を形作ってしまったために、本来の自分が隠れてしまったのです。

ゲシュタルト図形は多くの方がご存じだと思います。
向き合った2つの顔に見えるか?、花瓶に見えるか?


ゲシュタルト心理学


このとき、片方が見えると、もう一方は背景に消え去ってしまいます。
それらは同時に両方は見えない。

同じように、言語化された作り物の自己を見ている時、背景になってしまった本来の自己は隠されてしまいます。

それは消え去ったのではなく、ただ隠れただけです。

ちょっとした視点の変化で、花瓶は2つの顔に変化します。
それらは、いつも両方そこに存在しているのです。

本来の自己が前面に現れていて、無意識ではなくそれを意識してできているとき、そのうえ能動的でもないとき、あなたは瞑想状態にいます。

それと比べて、無意識に制約がなくなった状態は、眠って夢を見ているときのようなものです。

それはそれで何かの役に立っているのですが、瞑想を行うのは無意識ではなく、意識的にその状態にいられるようにすることです。

意識的でしかも言語化せずにいられるとき、受動的な観照者となります。

そのとき、あなたの中には不安も気がかりもなくなる。

それを普段の基本的な状態に出来たとき、必要なときだけ言語を使って、まわりの人達との接触を行ない、必要がなくなれば言語化された自分から離れることも自由に出来るようになります。

それは、いまに存在することでもあります。

言語化した途端に、あなたは今から離れて、作られた時空に住むことになります。

そこでは、おなじみの不安や、駆り立てられている感情が入り込んできます。

そこから抜け出そうとすれば、さらに能動的に言語を使い回してしまうという悪あがきが始まってしまうのです。

いまに存在できれば、すべての不安は消え去ります。
それは、原因となる働きかけをする人がいなくなるからです。

そして、それは一時的な不安の回避ではなく、まさに不安が存在しない状態にあるということです。

それ以上何もする必要は無いのです。

あなたが作り出さない限り、始まりも終わりもありません。
ただ「いま」の連続が存在するだけなのです。

もし「まだ何かが終わっていない」と主張したくなるとしたら、それはあなたが「いま」から外れているからです。

「いま」に生きている自分には、何の積み残しも負債も存在しないのです。

瞑想とは、積極的、能動的に出来るものじゃないところが難しい。
それは、「がんばって」出来る事じゃないからです。

それは、言語化せず、今から外れていないという否定表現が手がかりです。
しかし、その手がかりは強力な道しるべにもなるでしょう。

「でも、その瞑想が何をしてくれるというのか?」と言いたくなるなら、あなたは道具化した状態にあるのかもしれません。

瞑想する顔

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大知は閑閑たり

大知は閑閑(かんかん)たり、
小知は間間(かんかん)たり。
大言は炎炎(淡淡たんたん)たり、
小言は(せんせん)たり。

大 知 閑 閑 , 小 知   。
大 言 炎 炎 , 小 言   。

荘子「斉物論篇」



大きな知恵のあるものは、ゆうゆうとして自分の道を歩む。
小さな知恵のものは、こせこせしてゆとりがないし、いつも焦っている。

すぐれた言葉は淡泊であっさりと語られるが、
つまらぬ言葉はいたずらにあれこれ言い訳が多くて煩わしいものだ。

自分がゆったりと目の前のことに取り組めるなら、「大知」に生きているのでしょう。

しかし、いつも追い立てられ、せこせこしていると感じるなら、自分の目指しているものをもう一度見直してみよう。

間違った道に入り込むと、進めば進むほど間違った方向に進んでしまう。
その結果、あせってもっとスピードを上げようとするから、方向転換など思いもよらないことになってしまう。

無駄な努力を積み重ねるほど大きな失敗はない。

「こんなに頑張ったのに、何でうまくいかないんだ!」と嘆いて放り出してしまわないうちに、目指しているものを見直してみるのがまずやるべきことのはず。

「せっかく積み上げたのに手放せるか」といってしがみつくのが、ますます自分の首を絞めてしまう。

いきなり大言を語れないなら、まずは小言を自分に語ってみて、その中に含まれるエッセンスを見つけ出そう。

間違っても、小言を着飾ってごまかしたあげく、何か語った気にならないことだ。
聞かされている方はいい迷惑だから。

小言にならないうちに、この辺で終わります。

森林

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裁く人ではなく見守る人に

自分のことを振り返ったとき、どのように感じますか?

なにかと自分の欠点が目に入って来るでしょうか?
それともただそういう人間だからと笑って受け入れているでしょうか?

とは言っても、ずっとどちらか一方という人は少ないでしょう。

その時の状況によって、欠点が気になったり、思い出して憂鬱を感じたり、不安になったりすることもあれば、こういう自分も好きだよと思えるときもあるでしょう。

それはバランスの問題ですが、自己批判の傾向が強すぎると、いつも自分に不満を感じて、なにかと別の自分に変わりたいと、せき立てられているように感じるかも知れません。

そうなると「今のままではダメ」という思いが、いつも付きまとうので、何もかも忘れてゆったりするということが出来ません。

そして、ひとりで自分自身と向き合っていると居心地がよくないと感じる人は、その不安を隠すために他の人とのつながりを求めるようになります。

人と話をして、不安をごまかせている間はいいのですが、そのうち自分の中の不安が表面に表れてきます。

そして問題なのは、自分自身の不安なのに、そうなってしまうのを相手のせいにしてしまうということをやりがちなのです。
他人のせいで自分が居心地が悪いと思ってしまいます。


実は自分を評価したり、批判したりすることなど必要ありません。
必要なのは、いまの自分をそのまま受け入れることだけです。

批判的に自分を見る傾向があると、そこでは「裁く自分」と「見張られている自分」が存在することになります。

自分の中に、そのような駆け引きを必要とする関係があったのでは、いつも間違いをしでかさないかをチェックしながら生きていくことになります。

この対立関係が自分の中での葛藤を引き起こす原因なのです。

自分を2つの自分に分裂しないことです。

ただそのままの自分でいればいいと思えるとき、何も考えずに自然に自分を動かすことが出来ます。
その時はじめて、自分の感じたことがそのまま自分だと思えるのです。

そこには、裁く人も、許可する人も必要ないのです。

面白いことに、自分ひとりではこの「裁く人」を断ち切れない人が、誰かと一緒だとゆったり出来るといった場合もあります。

それは、自分ひとりでは許せないことを、その人が「大丈夫やっていいよ」と言ってくれる気になれるからでしょう。

ですが、それでは誰かに依存した生き方から抜け出せません。

自分で自分を許す人になり、さらには裁くこと自体がもう必要ないと思えるまで、自分を受け入れる人になることです。

それは、独善家になるということではありません。

独善家というのは、名前の通り善悪の裁きを常に持っていて、自分の考えと違う人を裁こうとしている人です。

実はそのままの自分でOKだと言えることは、特別なことでも何でもなくごく当たり前のことであるはずです。

自然界を見て下さい、自分で芽を出していいか自信を持てない種などありません。
蔓を伸ばしていいですかと許可を求めたり、今日も咲いていいですかと尋ねる朝顔など見たことがないでしょう。

ですから、不安を感じるのは、何か余計なものを自分で背負ってしまっただけだと思って、いずれそれは消えてなくなると信じればいいのです。

風船


自分でそうなると思えば、そうなります。

それが出来ないのは、相変わらず自分の邪魔をする自分を大事に持っていようとするからです。
嘘みたいですが、自分を痛めつける原因を自分から手放さないようにしてしまうのです。
そんなのどう考えても不自然なことじゃないですか?

どちらを信じるかと考えていたのでは、いつまでも騙され続けます。
裁く自分は巧妙にあなたを信じさせようとするからです。

「これだけは許せない」なんて思っていませんか?
いったいどれだけ「これだけ」を作ってきたでしょうか。

ただ「もういらない」といって手放して振り返らないこと。
手を放してしまった風船のように、飛んで行ってしまうのをただ見送ればいいのです。


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水たまらねば月も宿らず

「朝顔に つるべ取られて もらい水」  千代女


井戸


ご存じの方も多いこの句を詠んだ千代女(ちよじょ)のこんな逸話があります。

ある夜に、千代女は井戸から汲んだ水を桶に入れて運んでいました。
桶の中を見ると、きれいに月が水面に映っています。

しかし、当然少しでも動くと、水面が揺れて見事な月のかたちは崩れてしまいます。

私の心の乱れが、月を崩してしまうのだろうか。ありのままに、崩れないように映せる鏡に私はなれないのだろうか。

そんなとき、虫が飛んできて桶の水に飛び込んでしまいます。
月は崩れます。

風が吹いてきて水面が揺れます。
月は崩れます。

再び思い直して、桶を運びはじめようとしたとき、桶の底が抜けて水はすっかり流れてしまいました。

もはや月も消えてしまいました。
せっかく運んだ水もすべて流れてなくなってしまいました。

千代女はここで悟り、大笑いします。

桶の月は消えてなくなった。
水もなくなり桶は空っぽ。


しかし、私の心配などと関係なく、月は空を見上げれば存在したのだ。

水面の月にとらわれて、私の心のせいで月が左右されるなど馬鹿なことを考えたものだ。
水を溜めなければ、そもそも月も映らなかったというのに。

「とにかくにたくみし桶の底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず」


月2


☆~⌒☆

私たちが、ふだんからよく陥っている悩みというのもこのようなものです。

◆月の姿かたちを崩さないようにしたい。

私の心が乱れるから、月もきれいなままでいてくれない。
いや写真に撮っておけば、ずっと私のものになるじゃないか。

※その時追っかけているのは、水に映った月なんですけど。

◆せっかく運んだ水が、全部流れてしまった!

なんて世の中は意地悪なんだろう。
もっとしっかりした桶を作ろう。
いや、桶のたがを点検しなかったのがいけなかったのだ。

※どのように準備しても、起きるときには起きるのです。

☆~⌒☆

水面に映る月をうっとり見つめたところまではよかったのです。

しかし、この月を「私」のものにしたいと執着心を持ちはじめる。

その時点で、月は空の上にあることを忘れてしまいます。
「私の月」は、この目の前の水に映る月なんだと。

いつまでも変わらないものなど何もない。
そうわかっていながら、このまま「私の月」を保存しておきたいと思い出すとき、私の悩みが始まります。

せっかくここまで水を運んだのに。
桶さえ壊れなければ、今は水を家の中に運べていたのに。

なぜ、私に意地悪するんだと思えば、世界は私に敵対するものに見えてきます。

しかし、どのように注意深くしていようと、底が抜けることもあるでしょう。
そして、そこで起きたことは、水にとっては自然に重力に従って地面に流れ落ちただけです。

「私」がどのように解釈しようと、起こるべきことが起きただけ。
なんで、世界を恨む必要があるのでしょう。

すべては「私」がからんでいるから、起きてきた迷いごとにすぎません。

月は、私が生まれる前も、いなくなった後も、空の上に存在し続けます。
水は高いところから低いところへ流れます。
水面は「私の心」にかかわらず揺れるときには揺れ、波を立てるのです。

「私」の望みと違うことが起きて、「私」のこころがざわついただけなのです。

今悩んでいることはなんでしょう?
それは、どんなふうに自然をねじ曲げているのでしょう?



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邯鄲の夢(かんたんのゆめ)

この話は、唐の沈既済の小説『枕中記』(ちんちゅうき)に登場する故事です。
「邯鄲の枕」とか「黄粱の一炊」などさまざまな呼び方があります。

趙の都の邯鄲を目指していた廬生という若者が、食事をしようと旅宿に立ち寄ったとき呂翁という道士に出会います。

廬生は、呂翁に話しかけます。
「毎日畑を耕し、あくせく働くばかりの変わりばえのしない生活にうんざりしてきました。そこで人は功を成し遂げて官吏とか将軍になってこそ生きている意味があるのだと思い直し、そのために邯鄲に向かっているのです。」と。

「毎日同じことの繰り返しで生きているなんて、どこに生きている意味があるのでしょう」と主張するわけです。

廬生は宿の主人から黄粱(栗粥)がまだ出来ていないから待つように言われます。

そのとき、呂翁という道士は、「待っている間、この枕で少しお休みなさい。この枕には夢を叶える不思議な力が備わっているから。」といって廬生に枕を貸します。

黄粱が出来上がるまで少しだけ休もうと思った廬生は、枕を借りて横になります。

すぐに眠りに落ちた廬生は、夢の中で次々と功を成し遂げ、願っていた地位や名誉を手にします。
ところが得意の絶頂にあるときに誰かにはめられて逆賊の疑いをかけられ、一転して罪人にされてしまうのです。
その後もかろうじて夢をつなぎながら一生を終える自分を夢の中で経験します。

夢を叶えることに執着して、成し遂げるたびに新たに生きがいにする夢を探し続けることになる。
しかしそれも老いて死ぬときがくれば何の保証にもならない。
廬生は後悔します。こんなことなら田舎で地道に田畑を耕している方がよかったと。

そこで廬生は夢から覚めます。
「よかった夢だったのか。」

それは黄粱がまだ蒸し切っていないほどの短い時間の夢だったようです。

呂翁は廬生に言います。
「人生とはみんなそのようなものだ。」

廬生は、先ほどの後悔を思いだし、「毎日同じことの繰り返しで生きている」そのことにこそ実は意味があったのだと気がつきます。

その意味を悟った廬生は呂翁に礼を言い、出世する夢を捨てようと思います。
邯鄲に向かうことも止めにした廬生は、再び田舎への道を戻っていきました。

☆~⌒☆

夢見る女性


この話をどのように受け取るか、それは一通りではないでしょう。
ここでは、タオイズム的に解釈してみたいと思います。

廬生の生き方や考え方は、現代においても何も変わるところは感じられません。

なんとか、老後も楽に暮らせるだけのお金を蓄えておきたい。
そのために、少しでも待遇のいい仕事に就きたい。

いつしか肝心なことは仕事をする自分自身よりも、仕事がもたらす成果にこそあるのだと考える様になります。

成果にもとづいて夢を思い描きます。
そこにたどり着くための道筋を描き、計画を立てます。

あとは、「生きるための指針とは目標を叶えることにある」と思うようになるのに時間はかからないでしょう。

目標を立てたり、夢を見ること自体が問題があるというわけではありません。
問題が生じるのは、それに依存してしまうようになる点にあるのです。

目標に生きることは、未来に向けてそれを逆にたどって、いまの自分のあり方を決めることになります。

いまの自分は、純粋な意味での「いま」の自分ではなく、未来から遡った「いま」どうあるべきかという自分に置き換えられてしまいます。

その結果、純粋ないまを生きる自分はどこかに置き去りにされて、代理の自分を生きなければならないという奇妙な生き方が始まることになるのです。

本来は目標に向けて何をするべきかは、その時々の「いま」に起きてくるできごとに従うことであるはずです。

しかし人為的に、目標に依存した生き方を採用しはじめると、頭で考え出した現実のモデルが現実となり、それに沿った行動を取りたいと願う自分が本当の自分だと錯覚するようになります。

廬生に話を戻すと、夢の中で見た廬生の生き様は、一生をその中で終えたけれど結局後悔して終わる人生でした。

しかも、その一生は「黄粱の一炊」にも満たない短い時間で経験出来るような、中身の薄いものでしかなかったのです。

廬生がこれこそが生きがいを感じる一生だと思ったものは、夢見て、果たし、破れ、夢見て、果たし、破れ、そして気がつけば終わってしまうはかないものでしかなかったのです。

なぜそんなに中身が薄いのかと言えば、頭で考え出した代理の人生を生きているからではないでしょうか。

自分の考えた未来像に合うように作り出された「いま」を生きているから、本当の生きている実感がないまま時間が過ぎていくのです。

目標さえ達成すれば、その時は本当の人生を生きられると思っているから、いつもいまは準備のための時間でしかないのです。

本当にいまを生きるには、その「過程」こそが生きる意味がある時間であることに気がつかないとなりません。

目標達成の時だけが意味があるのではなく、そこまでの一つ一つの過程がすべてであり、それだけで終わりになってもいいくらいに生きるなら、目標などその中のちょっとした道しるべにしか過ぎないのです。

未来の目標のために自分のすべてをかけるなどと言う人がいるとしたら、それは多分に神経症的な考えであると思わざるを得ません。

夕食がごちそうだから、今は少し我慢しておこうというのはわかりますが、遠い将来のごちそうのためには、それまで一切食べないでおこうとは普通考えないのです。

生きている実感とは、いまここで、自分自身にしか経験出来ない、常にユニークな一瞬に存在するのです。

目標や未来のために、いまにかけるバランスを崩してはならないのです。

いまだけが大事という言い方をすると、それは刹那主義だといって反対する人もいます。

しかし、刹那主義とは、実は目標達成主義から逃れられない人が、それに反発してとっている生き方です。

どうせ夢がかないそうにないから、今だけよければいいと言う考えです。

ですから、未来から逆算していまの自分を認識しようとする基本姿勢こそが、刹那主義を生み出すのではないでしょうか。

もうそろそろ目標をプラカードに掲げて生きようとするやり方から、いまここのあなただけしかできない経験を充分に味わってみてはどうだろう。

そんなことを思わせる寓話として、この邯鄲の夢を読んでみました。


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「見返りを求めない」もっとわかりやすくならない?

この文章は次の記事を読んで思ったことを書いたものです。

『ばかばかしい。感謝するの、やーめた!:日経ビジネスオンライン』

この記事では、夫婦間のコミュニケーションから始まって、相手の反応にどう対処すべきかというテーマが書かれています。

夫婦間の交流というのは、相手を目の前にした情報量の多い関係です。

実際この記事でも、多すぎるほどの情報をどのように処理しようかということが問題になっています。

ここで「私」の側で実際にやっていることは、どんなことでしょうか。

相手の情報を「私」が解釈して、取捨選択し、「私」から見た相手の人物イメージを作り上げているのです。

「あの人は~な人である」という記述があります。

ごく当たり前に使われる表現です。

そしてこの記述から私たちは「あの人は客観的にみて~な人である」と受け取るのです。

ですが先ほど述べたように、この文は『相手の情報を「私」が解釈して、取捨選択し、「私」が作り上げた相手の人物イメージ』だと言うことです。

実はとても客観的といえる代物ではないのです。

そのまま信じると、言葉は、簡単に私たちを騙し混乱させてしまいます。

ところで、私たちがネットの上で人と交流する場合、実際に会ったことのある人だと事情は大きく違いますが、ネットだけでの知り合いの場合は、どのように相手のイメージを作り上げているのでしょう。

Facebookのように相手の情報が多めのSNSもありますが、それにしたところで、相手のことは、写真と文字情報だけを頼りに作り上げています。

先ほどの、夫婦間の情報は多すぎるほど多かったわけですが、今度は逆に相手のイメージを作り上げるのに充分とは言えない情報量です。

足りない情報はどうしているかと言えば、「それはわからない」として扱っていればいいのですが。。。

私たちが実際にやりがちなのは、「私」の知っている人物イメージで相手の不足した情報を補ってしまうということです。

ネット上の関係でも、やはり最終的には、『相手の情報を「私」が解釈して、取捨選択し、「私」が作り上げた相手の人物イメージ』を使っているのです。

「あの人は~な人である」という表現を、簡単に客観的な判断だと勘違いしないことです。

これは、「私」が主観的に作り上げた人物像であると思っているくらいでちょうどいいのです。

けんか夫婦2


さて、以上をふまえて、相手の人物像を出来るだけ「はずれ」のないように、現実と大きくずれないように描くにはどうすればいいのか?を考えて見ましょう。

◆まずは、「あの人は~な人である」という表現を客観的な判断だと勘違いしないこと。

あくまで「私」の人間観で補って作り上げたものであると認識しておくこと。

◆「わかっていない情報」がたくさんあることを認めること。

隙間があると、私たちはすぐに自分の側で補ってしまうものです。

そうしないと、相手をひとりの人間としてイメージできないからです。

当然、人の数だけひとりの人に対する人物イメージが存在するものであるというのが現実です。

◆前項をふまえて「わかっていない情報」をブラックボックスとして扱うこと。

ブラックボックスとは中身が見えない箱です。

中身は見えないけれど、インプットすれば、それに対して出てきたアウトプットは知ることが出来るというものです。

ですから、「ブラックボックスとして扱う」という姿勢は、見えない中身を自分の知っていることに置き換えないでブラックのまま扱うということです。

あくまで、あてにできるのは、インプットに対するアウトプットであるという態度です。

つまり相手が描き出してくる人物像を、わかってくるにつれて描いていくという姿勢ですね。

◆情報が多くても、少なくても、私たちは「私」の作ったイメージで相手を見がちであるという傾向をいつも忘れずに、できるだけブラックボックスとして扱う。

「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があります。

ここでいわれているのは、親しくなるとすぐにわかっているつもりになって、ブラックボックスをただちに「私」のイメージに置き換えてしまう傾向が強くなることを言っているのでしょう。

虫眼鏡で観察


以上述べたやり方は、最初は違和感があるかもしれません。

どこか冷たく相手を観察していると思うかもしれません。

ですが、勝手に「私」のイメージで相手を扱うことが、どれだけトラブルを巻き起こしているかを知れば、どちらがいいかということです。

ところで「見返りを求めない」という言葉は、わかった気にはなりますが、一段階抽象度が上がる感じなので、実際に行動しているとすぐに忘れてしまいます。

相手のイメージを描く、まさにその段階で「私」を入れないようにする姿勢、見えないことを見えた気にならない姿勢をを心がければ、人間関係はずっとスムーズになります。

また、相手が親しい人なのかどうか、目上の人かどうかなど、複雑に相手によってルールを考えるのではなく、シンプルに共通して持てる姿勢でもあるのです。

おそらくこの姿勢でいれば、はじめて会う人に対しても、緊張感も少なくなる効果もあるでしょう。

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これは、人間関係だけでなく当てはまるのではないでしょうか。

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老荘思想のコラム連載(19)

『COCORiLA (ココリラ) ~癒しのポータルサイト~』様にて老荘思想のコラムを連載中です。

【今月のコラム】

「現代社会と老荘思想(19)」 [2011/08/07] ◇道のまん中が王道なのだ◇

現代社会と老荘思想



◇道のまん中が王道なのだ◇

天の道は弓を引くときのようなもの、高い方は下に引っ張られ、低い方は上に引き上げられるのだ。「天之道,其猶張弓乎。高者抑之,下者舉之。」

つまり力を持ちすぎたものは、いずれ力をい落とすことになるし、下に甘んじていたものも、やがて力を発揮出来る機会がやってくるもの。

これが自然の成り行きだと老子は言います。

「道」の働きというのはそういう調整作用があるものだと言っているのです。

すなわち。「余り有るものは之を損ない、足らざる者に之を補う」働きです。

ところが現実の社会では何が起きているのか。

足らざる者が余っている者に献上している。どうして有り余っている財産を天下の貧しい人々に放出しないのだろう。
これができるのは道に従うことを知っている聖人だけなのだ。

だから聖人は

「為して恃(たの)まず、功成りて處(お)らず、其れ賢を見(しめ)すことを欲せず。」

成功してもおごらないし、権力の座にいすわったりしないし、自分の有能さを見せびらかすようなことも望まないのだと言います。
・・・・

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【今までの連載記事】

「現代社会と老荘思想(1)」 「老子の三宝」
「現代社会と老荘思想(2)」 『道の道とすべきは、常の道に非ず。』
「現代社会と老荘思想(3)」 「すべては、もとはひとつ」
「現代社会と老荘思想(4)」 「無為(wu-wei)」
「現代社会と老荘思想(5)」 「上善若水」
「現代社会と老荘思想(6)」 「柔らかいものが堅いものに勝つ」
「現代社会と老荘思想(7)」 「無為によって全てを成し遂げる」
「現代社会と老荘思想(8)」 「自然な調和を取り戻す」
「現代社会と老荘思想(9)」 「天網恢々、疎にして而も失わず」
「現代社会と老荘思想(10)」 「自然はたえず変化する」
「現代社会と老荘思想(11)」 「役に立たない生き方」
「現代社会と老荘思想(12)」 「冬の川を渡るがごとく」
「現代社会と老荘思想(13)」 「私の本質は波ではない」
「現代社会と老荘思想(14)」 「和光同塵」
「現代社会と老荘思想(15)」「余 地」
「現代社会と老荘思想(16)」「我を張らない生き方」
「現代社会と老荘思想(17)」「聖人は腹をこさえる」
「現代社会と老荘思想(18)」「小魚を煮るように」




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説明をやめてみよう!

説明、説明、説明,...

一日中説明に明け暮れている人もいるようです。

「私は間違っていない、だって。。。」

「あの人はこうすべきだった、だから私は。。。」

「人間はこう生きるべきだ(私のやり方は正しかった)。」

では、わたしたちが説明をしようと思うのはどういう時でしょうか?

誰かに自分を説明しないではいられないとき、「私」は何をしたいのでしょう。

「説明しておかないと、私の考えを誤解されるに違いない」と考えているのではないでしょうか。

そこには、説明しないと誤解されそうだと「私が思っている」ことが存在します。

確かに客観的に見ても誤解されそうな事態というのも中にはあるでしょう。

しかし、誤解されないで欲しいと「私」が思っている時の多くは、「私の期待するやり方で理解して欲しい」という思いではないでしょうか。

何も聞いていないのに、向こうからどんどん説明してくる人に出会うと、最初は「どうしてこんなに一生懸命なの?」と思います。

そのうち、何となくこの人は何かを隠そうとしているのではないかと感じはじめるでしょう。「それでなきゃ何でこんなに必死になるの?」

そして、説明は誰か他の人にするだけでなく、同じように自分自身に対しても行っています。

「私はこういう人間だから、このようなやり方をとったんだ(間違っていない)」

といった会話を自分自身と行っているのです。

問題は、このような説明は、「隠しておきたい自分」を正当化するために使われがちだという点です。

本当はどのように感じたのかを見ないようにするために、一生懸命説明を考えて、それは仕方がないことだったと自分を納得させようとするのです。

その結果、本当の私は隠されてしまい、いつまでもこころの中にくすぶり続けることになります。

このパターンを打ち破るには、説明したくなったのに気がついたら、ぐっと我慢してそこで起きてくる感情をそのまま体験してみることです。

それによって、自分が何を感じて、何を操作しようとしていたのかが発見できます。

たいていは、いつも説明によって誤魔化してきた常連の感情がそこに見つかるでしょう。

「また君か、じゃあ今回はじっくり向き合ってみよう」

避け続けても、いつまでもそれは蘇ってくるのですから。

説明しているとき、あなたは未来と過去にだけ係わっています。

そのとき「いま」に存在している自分は見えていないのです。

いまに存在するためには、説明を止めてしまわないとなりません。

医師の説明と老人


説明をやめて、いまに存在してみれば、ごまかしのない自分が見えてきます。

その結果、いつも自分は「説明」によって何をやろうとしていたかも発見できるでしょう。

「説明」を繰り返している限り、自分は解放されません。

状況がつらくなるほど「説明」が必要だと感じ、その結果さらに「いま」から離れてしまうのです。

「説明出来ないと不安になる、だから。。。」しかしそこには不安の実体など何もありません。

「いま」に存在できれば、問題はただちに消えてしまいます。

過去と未来の「説明」の世界に住もうとするから、ますます混乱しつらくなってくるのです。

説明したくなっても、我慢して「いま」にとどまりましょう。

それだけで、世界はあるがままの現実に切り替わります。

説明しないでいることで、いまに存在している自分を感じられるのです。

そこには、ただ現実を見ている自分がいて、自分が作り出さない限り何も問題など存在しないことがわかるでしょう。


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自分の事情は特別なのだ

なかなか自分が変われないと思っている人に多いのが、この「自分の事情は特別」だという思いです。

「あの人の場合はそうしたらいいと思う」と他の人のことに対しては、客観的に問題を見分けることが出来ます。

しかし自分のこととなると、「だけど、私の場合はそれとは違う事情があるから(あてはまらない)」と訴えている場合が多いのです。

せっかくいいところまで気がついていながら、このような自己欺瞞が働いてしまうと、全体が台無しになってしまうことも多いのです。

なぜ自分のことは、客観的に見るのが難しいのかというのは、単純な理屈で説明出来るでしょう。

他の人のことは、「自分の事情」を訴える人が間に入らないのに対して、自分のこととなると、「客観的な事実を見る」の後に、ただちに自分の監査が入ります。

自分の監査とは、エゴ(過去に積み上げてきた自己イメージ)がいままでの自分をそのまま維持しようとするためのチェックです。
それを変えてしまうような事実は、「受け入れません」と拒否してしまうのです。

客観的に見れば、「新しい考えの方が自分のためになる」というのがどんなに明らかであっても、人は今までの自分をそのまま維持する方を優先してしまうことが多いのです。

つまり、過去や未来に生きようとするエゴが、いまここの事実を見て生きようとする純粋な自分よりも優先してしまうのが実状なのです。

「人は客観的な事実に従うもの」と信じていると、大きく間違えてしまうことにもなりかねません。

ほとんどの場合、しっかり目を見開いていなければエゴの思う通りに動くのが人間性というものです。

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「お客様のご希望から考えますと、このDVDレコーダーが一番いいかと思います。」

「そうねえ、確かにおっしゃる通りのようですね。
でも、やっぱりこちらの機種を頂くわ。だって○○さんがCMやっているから。」

これが、客観的な事実よりも自分の関心が優先するということです。

自己改造を試みる人の場合も、「だけど、私の場合はそれとは違う事情があるから」と考えることが大きな障害になるのです。

その結果、「客観的な事実は、他の人の為のもの」であって、私は自分の関心に従いますと思ってしまいます。

これを防ぐには、こうした人間性を理解して、「自分の説明」に従いたいという思いを振り切ってでも、事実を見るようにしなければなりません。

「いままでの自分が間違っていた」と信じることは、だれでも嫌なものです。

「嫌だ」というレベルを通り越して、自分の死活問題だと考えてしまう人も結構いるものです。
まさに、いままでのエゴにとっては、それは自分の死を意味するからです。

その結果、自分の間違いを認めるくらいなら、外側の現実認識の方が間違っているのだと考えてしまいます。

自分も対象のひとつだとして捉える自然科学的なものの見方も必要なのです。

片方だけで生きるのは、どこかで無理を生じてしまいます。

いつまでも、自分が変えられないと思うなら、このことをチェックしてみることです。

いつまでも、いやな思いをする同じパターンを繰り返しているなら、まさにその中にある自分を捉えて、「自分の事情」を主張しているエゴを発見することです。

それを捉えない限り、一難去ってまた一難という状態が繰り返されることになるのです。
なぜなら、エゴの働きそのものが、その嫌な事態を作り出そうとしているからです。

本当に変わる気があれば、今すぐにでも世界が変わって見えてくるはずなのですが、そうならないときは、いつまでたっても変わらないと思った方がいいでしょう。

いま変わらないことは、いつになろうと変わりません。
というよりも、その場合は変わりたく自分の方が力が強いわけです。

変わりたいという自分は実際存在するのですが、変わりたくないと抵抗する自分が同居しているから、いつまでも葛藤が繰り返されるのです。

どちらも譲らないのが「葛藤」というものですが、抵抗している方がそれを諦めれば、ただちに問題は消えます。

抵抗する方が、消えるべきなのは、もともとどちらが存在したのかを考えれば明らかでしょう。その逆は成り立ちません。
もともとの本来の自分はどう誤魔化しても存在を続けるからです。

実は、起きていることはすごく単純なのです。

複雑に見えるのは、抵抗する自分が説明を複雑にしているだけなのです。

その単純な事実が見えたとき、いままでの複雑さがうそのように、変化は純粋に全面的に起こるのです。

エゴとの戯れをいつまでも続けたいのか、本当に変わりたいと思っているのか、それを真剣に考えてみることです。

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10人の男たち

10人の男たちが大きな河を渡って向こう岸までたどり着いた。

そのひとりがみんな無事だったのか確かめようと、男たちを数え始める。

「大変だ!9人しかいないぞ!」

「誰かがまだたどり着いていない、助けに行かないと!」

他の男が確認する。「1,2,3、...、9」

「ホントだ。ひとり足りないぞ!きっと溺れてしまったんだ。」

次々と男たちは数を数えるがひとり足りない。

「大変なことになってしまった!」

自分自身を忘れている男たちは、失ったひとりを見いだすまで、完全な世界を生きることが出来ない。

私自身がそこにいることを、なぜか無視してしまう。

ある人は、自分には存在する価値がないと思って、その存在を消してしまう。

別のひとは、世界は自分の中にあると思っているため、自分自身が見えなくなる。

夕焼け河


そこに、旅人が通りかかった。

騒いでいる男たちに声をかける。

「何かあったんですか?」

「かわいそうに10人いたのに、ひとりがたどり着いていないんです。きっと河に呑まれてしまったんだ。悲しくてみんなで泣いているところです。」

「それは大変なことでした、...
しかし、あなたたちは全部で10人いるようですよ!」

「そんなはずはない、みんなで数えてみたんだ。誰が数えても9人しかいない」

「そちらの方から、番号を唱えてみてください。」

10人目の男が「10」と数えて、はじめて自分の存在を思い出した。

「そうだ、私がいたんだ!自分を忘れていたから、こんなに悲しい目に遭ってしまった。」

10人目の私を、本当に見つめているだろうか?

私自身が訴えている声をちゃんと聞けているだろうか?

なにか物足りないのは、私自身を忘れているからだ。

「そんなことは、他の9人は望んでいないだろう。だから私は消えてしまおう。」

そう思ってはいないだろうか?

「あの人が許せない。あの人がいなくならないと、耐えられない。だからそれまで、私は存在しないでいる。」

「望んだって、私の望みはいつも叶えられない。だから私は自分の願いは考えてはいけないのだ。」

10人目の私が生きられるときが来るまで、私は待っているんだ。

その時が来たら、私を生きよう。

その時が来たら、私は自分の望みを考えてもいいのだ。

その時が来るまで、私は自分であってはいけない。

私はいつまでも、自分自身でいてはいけない。

許されないことをしてしまったからだ。

私が人数に入らないのは、10人のひとりだと思えないからだ。

それは、自分だけは他の9人とは違うと思っているから起こる。

皮肉にも「私という存在も、10人の中のひとりに過ぎない。」と思えたとき、

私だけを特別扱いしないから、良くも悪くも自分をひとりとして認められるようになる。

作り上げた「私」という存在を消したとき、本当の私を表に出すことが出来るようになるのだ。

それまでは、自分の本当の思いは、「私」によって生存権を握られてしまう。

「私がそんなこと思うわけないじゃない。」

こう宣言する「私」に、自分を奪われてしまわないようにしよう。

私も10人の中のひとりに過ぎないと思えたとき、自分を人数に入れる事が出来る。

それほど私たちは自分への評価が低いことを、自分のまわりの人で観察してみればわかるだろう。

自己評価の低さが、本当の自分でない「私」をせっせと作らせているのだ。

ありのままの自分をそのまま見られたとき、それを受け入れたら、

作り上げてきた「私」は役割を終えることが出来る。

「いままでつらかったんだよ。わたしがここにいると言えなくて!」

「ときどき顔を出すことはあっても、すぐに先にやることがあると言って忘れられてしまった」

「私」が、つまりエゴが、消えたとき、

世界は穏やかになり、

本当に世界は、わたしのためにあると思える時が来るだろう。


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