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年の瀬にあたって

本年もお世話になりました。

新年を迎えるに当たって抱負を考える方もいらっしゃるでしょう。

しかしあまり背伸びをしてみても、結局なんにも変わらなかった自分に気がつかされることも多いのではないでしょうか。

やはり自分にふさわしいことに集中してみる方が、やりがいも感じるし、結果も出やすいものだと思います。

しかし、なぜか自分にすぐできることを実行するのは、進歩がないように感じて重要視しない人も多いように感じることがあります。

そこには「今のままの自分では不十分だ」と思っている自分が隠されているのかもしれません。
ですが、今の自分にできることこそ、最優先にやるべきことであり、それをあれこれ考えずに実行することが、新しい道を切り開いてくれるように思うのです。

いくら高尚なことを考えても、人間性という枠を抜け出すことは難しいものです。
むしろ、人間的であることをもっと評価し、今の自分の持っているものを見直してみる方が、ずっと有意義です。

ひらめきOL


人間性は未熟なものと見なさずに、一緒に歩いていく友だと思って付き合っていく方がいいのです。

気がつかないうちに、自分の人間的な面が表に出てくるものです。
自分らしさをダメなものと思わず、積極的に採用してあげましょう。

アインシュタインは、このように述べています。

「人間性について絶望してはいけません。なぜなら、私たちは人間なのですから。」

もっと人間的でありましょう。

いまの自分を責めてみても、何もいいことはありません。

いまの自分こそが、他にはない正真正銘の唯一の実存なのですから。

それでも、自分を責めたくなりますか?

同じくアインシュタインが、このような言葉を残しています。

「どうして、自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要なときに責めてくれるんだから、いいじゃないですか。」




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【引用】『アインシュタイン150の言葉』
ディスカヴァー・トゥエンティワン / 1997-03-31 /



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自分を取り戻すために(2)

まわりの出来事や他人の行動にとらわれない自分、それを取り戻すためには、自己完結することがどうしても必要です。

自己完結とは、つまり他のものに左右されずに、 自分の主体的な選択だけで決定できるということです。



前回はこのように、自己完結ということを書きましたが、ではなぜ自己完結しないといけないのかということを、そうでないとどうなるのかという面からみてみましょう。

自己完結できないと何が起こるでしょうか。

まず対人関係で言えば、まわりの人が何と思うだろうかが気になります。

他の人があなたの考えを受け入れるかどうかが、あなたの幸福を左右してしまうのです。
せっかく自分ではうまくいっていると思っていても、誰かの一言でその平和な世界はもろくも崩れてしまいます。

あるいは、直接的な被害はなくても、「なぜもっと自分のことに関心を持ってくれないのだろう」と思い始めると、世界はあなたの期待通りに動かないと不満を感じ始めるのです。

また、自分に直接影響はなくても、「あの人のやり方は良くない」と「私」が思うとき、あの人は変わらなければならないのであり、あなたが何とかしなければいけない存在になってしまいます。
その人がそのままであるのが許せない、そう言って自分の力だけではコントロール出来ないことを、自分が変えたいという無理なことを始めてしまいます。

泣いている女の子


次に、まわりの出来事や運・不運という言葉を考えてみましょう。

私たちは、「まわりの世界は、自分の希望とは関係なく起きてくるものだ」ということを半分は信じていますが、残りの半分では「自分の期待が事態を変えていくはずだ」というようにも、どこかで信じているのです。

それが証拠に、私たちはまわりで起きてくることを、なんとなく人格を持った存在のように扱っています。

「これだけ不運が続いたのだから、これからはいいことが起きてくれなくては困る。」
「こんなにいいことばかり続いていると、なにか不吉なことが起きるのではないかと心配になる。」
「こんなに頑張ったのに、その仕打ちはないだろう!」

運・不運という言葉自体が、起きてくることをどこか人格化して扱っている感じを受けます。
心情的にはわかりますが、いくら嘆いてもそれが効果をもたらすとは思えません。
ほどほどにして、起きてくることを受け入れる方向に切り替える必要があるのです。

また、「自分の信念が現実を変えてくれる」と信じる考え方が根強くあります。
この考え方は、まわりに左右されずに生きようとするという点では、望ましい面も持っています。

自分で出来ることを実行した上で、結果を期待するのですから自分への信頼感も育てられるでしょう。
しかし、批判的な言い方をするなら、その根底にあるのは「自分の希望どおりにものごとが起きるべきである」という子どもっぽい期待なのです。
残念ながら、期待しようがしまいが、起こることは起きていきます。

あまりにも信念にこだわって生きていこうとするのは、運命に対するストーカー行為のようなものです。
「信じるものは救われる」というのは、「期待すればかなう」ということとは全く異なるものです。
前者は仏教的な意味合いで、起きてくることを受け入れる姿勢があるのに対して、後者は現実の方が自分の希望に従うべきだという考えにつながっていくのです。
東洋的な受容する姿勢と、西洋的な自然を従わせ征服するという発想の違いのようなものです。

平等とは、自分の期待に左右されない見方です。
まわりの出来事に対しても、最後は平等に見ていくしかありません。
「期待」に「現実」が従うべきだと思ってはなりません。

夢見る女性


期待したとおりにものごとが進まないのを「不運」だとか「悲劇」だと言ってしまうと、とんでもなく悪いことが起きているように思えますが、安心してください。

それは単に、あなたの「期待」と「現実」の間にギャップがあるということに過ぎないのですから。
平等に考えるなら、「期待」と「現実」はもともと、一致することもあれば、しないこともあるのです。

一致しない場合は、「現実」が変わらないのなら、「期待」の方を変えるだけのことです。
とんでもない不幸のように思う必要などないのです。
いままでの、「その期待をいだいていた自分」が、自分のすべてだと勘違いしてしまったから、自分のすべてへの脅威のように感じるだけなのです。
現実を受け入れて、そこから何が出来るか考えなおしてみようと考える自分も、もともと存在しているですから、それを思い出してみることです。

最後に前回のように、具体的なフレーズをいくつか取り上げてみましょう。

・将来の準備はこれで充分だろうか?
それよりも、そんなふうに思い悩むことは必要なの?

・なぜあの人はあんな行動をとるのだろう?
人の行動を気にしている自分の正体を知りましょう。
実はあの人の問題ではなくて、自分の問題なんだとして捉えてみましょう。

・なぜいつも犠牲になるのは私なんだ!
犠牲になったと思っている「私」とは誰?
「私」の期待通りでなかったから、私が犠牲者だと感じているだけではないですか。
それとも、自分から「犠牲者」になろうする傾向があったりしませんか?

・これで正しいのだろうか?
正しさを気にする自分の根底にあるのは恐れです。
本当はなにを怖がっているのか、自分と話しあってみましょう。
別にあなたの正しさを証明して見せなくても、そのままで人は受け入れてくれますよ。

・あの人のように自分も他人から認められたい
本当に「人の評価が自分の幸せを左右する」世界で生きたいと思っているのですか?
それは「他人が認めてくれない時には、自分は苦しむべきだ」と自分で言い聞かせているようなものです。
自分でやるべきことはやっていると実感していれば、他の人の評価などそれほど気にならなくなるものです。




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自分を取り戻すために(1)

まわりの出来事や他人の行動にとらわれない自分、それを取り戻すためには、自己完結することがどうしても必要です。

自己完結とは、つまり他のものに左右されずに、 自分の主体的な選択だけで決定できるということです。

もちろんものごとは自分の思った通りに運ぶとは限りません。
しかしそんな場合でも、それならば、自分はどう動くかを決定することはできるわけです。

状況や他人の期待はずれな行動に対しても、それを嘆いて、そうすれば何かが変わるかのように、なんでそんなことが起きたのかを延々と考えても仕方がありません。

そんなことをしているよりも、やるべきことは制御する力を自分に取り戻し、状況に関わらずに自分でできることにエネルギーを集中させることです。

つまり自己完結できることを探して、それに力を注ぐのです。

困る


「なぜいつもこんな目に会うのだろう?」という嘆きは、なにも産み出さず、自己憐憫にひたるだけになってしまいます。

そうではなく、「自分の行動の何がこういう事態を引き起こすのだろう?」という問いかけに変えてみましょう。

そうすれば、よくこういう事態が起きるのは、まわりのせいではなく、「自分のやりがちな行動になにか原因があるはずだ」ということに目を向けることができるのです。

自分の行動ですから、まわりがどうであれ自分でそのやり方を変えることはできるわけです。

いつまでも世の中を嘆いたり、他人の批判をやっていては、自分を惨めにするだけですが、自分のできることに取りかかれば、事態を変えられるだけでなく、自分への信頼も取り戻すことができるのです。

同様に「なぜ事態は自分の思いと違う方向に進んでいくのか?」ではなく、その出来事のあり方に、自分がどのように影響されているのかを調べてみましょう。

どんなことが起きたとき、あなたは動揺して、冷静さを失うのでしょうか?

そのパターンは、他の人とは違って特有の傾向を持っているはずです。
それは、おそらく自分が触れたくないと感じている部分と結びつているのでしょう。

だから、他の人が別に問題を感じないことに対して、直ちに反応してしまうのです。

混乱する男の子


また、「このような事態になってしまった。どうやって自分を守ろう?」と考えるよりも、「何かの行動を起こさないといけない」と駆り立てるものは何であるのかを考えましょう。

もしかすると、なにもせずに耐えて待つしかないのかもしれません。
有効な方法もわからないのに、むやみにあれこれ手を出してしまうと、余計に事態を悪化させてしまいます。

なんにでも、インスタントな解決があると考えていませんか?
だれか守ってくれる人がいるはずだと探していませんか?

状況は最悪でも、受け入れるしかないのなら見ないふりをしても仕方ありません。
「唯一最善の解決は、ただそのまま事態を受け入れること」ということもあるものです。

それでも、受け入れることは自分だけでできます。
ただ受け入れるとは言っても、それは自分の積極的な選択なのです。
自分をその後に続く現実に取り戻してくれるという、大事な行動なのです。

そうしないと、何かできることがあるはずだと考え続けてしまうのが、思考というものの癖なのです。
自分を守る必要などないとわかったら、いつまでもそのことを考えていないで、いま目の前にある変化する現実に目を向け直すのです。
そうすれば、その問題はもはや過去のものになってしまうのです。



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出会った時間に練習はない

試験、試合といったものには本番があって、それまでの期間は練習と呼んで別の期間であるかのように扱います。

たしかに本番である試験に焦点を合わせれば、練習が存在しますが、人生の出会いには練習などなくすべて本番であるわけです。
今は練習だからといっても、それも自分の人生から見れば本番であり、すべて同じ価値を持った瞬間の連続なのです。

練習だといってまだ本気でないと言っていると、本番が来ないうちに人生が終わってしまうかもしれません。
こんなはずはない、まだ本番になっていないのにといって後悔しても遅いのです。

今はつまらない、苦しい期間だから本物ではないといって過ごしても、時間は平等に過ぎていくのです。
そのような発想になってしまうのは、目標指向で生きていくことに慣らされてしまっているからではないでしょうか。

本番が来るまでは仮の期間という発想をやめて、いまがすべて本番というつもりで生きるなら、たとえ目の前で不本意な出来事が進行中であっても、そこには同じだけの貴重な意味があり、価値のある時間を過ごしていると考えることができます。

苦しいと感じる時間だからといって、目の前のことから目を逸らしたりして逃げないで、その事態に対して自分がどのように対処していくかを、もう一人の自分として眺めてみるのです。
不思議なもので、見るのも嫌だと思っていた事態も、離れて見てみればよくあるトラブルに過ぎないことが分かってきます。

この程度のことなら充分起こりうることなのに、なぜこんなに大問題だと考えてしまったのだろうと思えるようになれば、この時間を自分の経験として生かせるものにしていこうという発想も生まれてきます。

上司に叱っれる1



まさにどの瞬間も、一期一会の貴重な時間です。

あとから思えば、あの時は嫌な経験だと思ったけれど、あの出会いがなければ今の自分はいなかったし、今となってはいい経験だったと思えることがよくあるものです。

ですから、どの出会いも今は練習だからとか、本気でないからといった態度で接するべきではないのです。

目標思考が強すぎれば、その目標に関係ないことや妨害になると思われることは、邪魔な時間だと思って切り捨てたり、いい加減に過ごすことになりがちです。

ですが、その目標とは関係なくても、いい加減にしていいような出会いはひとつもないはずなのです。
その時間もあなたはノンストップで人生を生きているのですから。

いいかえれば、「無駄な時間」というものは、あなたがそうだと思わなければ存在しないわけです。

出来事や人との出会いを貴重な一期一会の出会いだと思って大切に扱いましょう。
きっと出会いの方もそれに応えてくれるでしょう。


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嵐の中でも時はどんどん過ぎていく



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Yes&Noという生き方

自分をキュートだと行ってもらいたいルーシーは、誰かれ構わず聞いて回っています。
スヌーピーにも聞きに来ました。

Peanuts_yesno.gif

DailyStripからのshare
http://c0389161.cdn.cloudfiles.rackspacecloud.com/dyn/str_strip/332124.full.gif
クリックすると少し拡大します。


「キュートだと思うのなら片耳を上げて。思わないなら両方下げたままにして。」
「じゃあ、もう一度きくわよ。私をキュートだと思う?」
スヌーピーは片耳を折り曲げて上げました。
「わかってたわ。片方だけを採らしてもらうわ、そのYes&Noの返事のうち。」

スヌーピーの返事はYes、Noどちらとも取れる返事ですが、人間社会の常識に囚われて、ルーシーを喜ばせる返事をしたり、あるいはいじわるな返事をすることもなく、正直にどちらもありうることを示したのだ、とここでは考えておきます。

さて、YesかNoかを答える場面では、どのような返事が考えられるでしょう。
同じ答えでも、そこにはいくつかの違った意味合いが考えられるかと思います。

「Yes」と答える場合:
A.あなたの言うとおりですよ。賛成します。やりますよ。そちらが好きです。(言葉通りのYes)
B.どちらもあるけど、相手の期待にあわせて賛成しておこう。

「No」と答える場合:
A.それは違うと思う。賛成できない。そんなことはしたくない。そっちは嫌い。(文字通りのNo)
B.どちらもあるけれど、私の考えを主張しておくために反対しよう。

「どちらでもいい」と答える場合:
A.実際どちらもありうるから決めかねる。(言葉通りの意味)
B.ノーコメント。どちらに賛成しても、あとでやっかいだから保留しておこう。

微妙な意味合いを考えれば、他にも色いろあるかもしれませんが、言葉通りのAタイプの返事の他に、人間関係が絡んでの返答であるBタイプが考えられます。

Bタイプの返答は、場合によっては人間関係をこじれさせないためには必要な場合もありますが、自分への信頼感が充分でない場合には、他人に嫌われることの恐れから無理に自分の考えを押し殺すということにもなりかねません。

またAタイプの返答は、一見何の問題もないようですが、これにも注意しておきたいことがひとつあります。
それは、「今ここでの自分の考えはYes(あるいはNo)である」と言っているのだということです。
時と場所が変われば、自分の意見も変化する可能性があることを忘れないでいるということです。
しかし、多くの人はこれを嫌います。どちらかに固定するほうが楽だと思うからです。

言葉は自分の考えを整理したり、はっきり確認するのに役立つ反面、一度その言葉で表現してしまうと、自分の考えが固定されてしまって、他の可能性を切り捨てる危険性もはらんでいます。

ところで、スヌーピーの返答のように「Yes&No」という答えも考えられます。

これは、先程の「どちらでもいい」のBのように、恐れから来るものではなく、どちらの可能性もあることを積極的に受け入れるという考え方です。
今の自分が判断できることなど限界があること、どう頑張っても絶対的な正しさなどわからないことを認めた上での積極的な「Yes&No」の選択です。
自分はYes、Noどちらもとりうることを許可しておく考えです。

社会においては、一般的に「Yesor No」の返答を要求される場面がほとんどでしょうが、どちらかを答えたとしても、心のなかでは「Yes&No」を維持しておくことです。
どちらもありだと認めておけば、しっくり来ないまま、どちらかに決めてあとから悩んでしまうことも少なくなります。

「自分はYes派だから、そんなことは出来ない」、「その考えは魅力的だけど自分はNo派だから受け入れられない」といった悩みがなくなります。
自分には判断を下すことが出来ないからどちらかに決めないのですから、相手によって返答を気にして変化させる必要もなくなります。
どちらの答えにしようと、その時の優勢な方を選ぶだけのことですし、どちらを選んでも自分で後悔することもありません。

スヌーピーの場合も、ルーシーを気遣って返事を考えたり、仕返しを怖がって相手に取り入る必要もない、という立場から返答しているのだと考えられるわけです。

「Yes/No」をはっきり答えることが素晴らしいことだと考える文化もあります。
はっきりどちらの立場か表明することが、潔いという見方もあります。
しかし、決められないことまで、どちらかの立場に立つ必要はないわけです。

自分の考えを誇ったり、立場を守ることに固執する生き方は、本来の道を進むのには余計な考えであるということを、老子はこのように書いています。

爪先で立つと、長く立っていられない。
大股で歩くほど、うまく歩き続けることは出来ない。
自分を目立たせようとするものは、自然に認められなくなってしまう
自分を正しいと思いたがるものは、世間からは認められない
自慢したがるものは、功績を上げることはできない
得意になりたがるものは、長続きしない。

道から見れば、これらは余分なものである
無駄であるばかりか、時にはこれが不幸をもたらす
だから、道に従う人は、これらを避ける。

道徳経 第二十四章



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どちらを選ぶか迷うとき

『選択とはすなわちこれ取捨の義なり』   法然



私たちは、どちらにしようかと迷う時、どちらが得かにばかり目がいってしまいがちではないでしょうか。

こっちはこの部分が優れているが、あっちは別の捨てがたい特色を持っている。
どちらも手放せない。なのに片方を選ばないといけない。
どうすればいいんだろう?

選ぶ方にとらわれていれば、選ばなかった方には未練が残ります。
あとになって、あの時むこうを選んでいればと思い出すと、未練は後悔を生み出すのです。

先程の法然の言葉は、「一つのものを選ぶとは、他のものを捨てるという選択なのだ」ということを言っています。

選択する行為は、選ぶだけでなく、むしろ何を手放すかを選ぶことであるというのです。

この観点から見ると、私たちは選択するというときに、後者の何を手放すかという点を忘れてしまうようですね。

ひらめいた男性


「何を手放すか」という視点から考えるのに、以下で3つほど注意したい点を挙げてみたいと思います。

ひとつは、それを選んだ場合に、どんなマイナスをもたらすかという面もしっかり見極めるということです。

いいことばかりを探して迷っていた状態から抜け出すために、なんとなく直面するのを避けていたマイナス面に正面から向き合いましょう。

どれほど優秀な面があるとしても、マイナス面を正当に評価してみれば、「そのままそちらを選び続けると困った状態に陥る可能性がある」ということがはっきりわかるかもしれません。

それが避けるべき理由になるとはっきり理解すれば、今まの迷いから一気に違った見え方ができるようになるかもしれません。

2つ目は、「この選択を機に、いままで捨てられずにいたことを、思い切って手放そう」と新たな決心するということです。

ものごとには、両方を立てるわけにはいかないことがあります。
どちらも魅力があるから、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしていたわけですが、この機会にその迷いからお別れしようと決心するのです。

手放すというと、なにか失う方ばかりが目立ちますが、何かを手放せばそこには新しいものが入ってくるスペースが生まれるのです。

また、手放せないでいることは、思っているよりもずっと、あなたの負担になっているかもしれません。
失いたくはないけれど、「これを維持することの煩わしさから逃れたい」という気持ちもどこかにあって、ずっとそれを願っていたかもしれないのです。
おもいきって手放せば、こんなにせいせいするのなら早く捨てればよかったと思うかもしれません。

それは、過去においては大切な意味があったのかもしれませんが、いまはもう役目を終えて退いてもらうのがいいものになっていたのでしょう。

何かを手放すという選択は、時には何を取り入れるかというよりも重要な選択にもなるのです。

夢見る女性


最後に3つ目ですが、何かを選択するときには、かならずそれを選んだ時の自己イメージを思い描いています。

こちらを選べばこんなイメージ、あちらを選べばこんなイメージというように、ここでも新しく取り入れたことからばかりイメージする傾向があります。

しかし先程のように、手放したらどうなるかという観点からも自分をイメージしてみましょう。

うまくフィットすれば、手放したときの自分をイメージしただけで、「これだ!」と迷いが断ち切れるかもしれません。
いまの状態に満足できないために、あれこれ新しいものを探し求めていたのですが、実はいままで抱え込んでいた何かを手放すことが本当の望みだったということもあるわけです。

このように「捨てる」「手放す」という選択は、何かを取り込むことよりもずっと積極的な行為にもなりうるのです。
そして、手放してできた空間には、いままで想像もしなかった新しいものが、入ってくれるかもしれないのです。

『選択とはすなわちこれ取捨の義なり』
もう一度考えてみたいものです。


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自分を不幸にするいくつかの衝動

季節外れですが、「飛んで火にいる夏の虫」という言葉があります。

虫は明かりの方に引き寄せられる習性をもっているのですが、それが場合によっては火の中に飛び込んで身を焼かれる羽目に陥ってしまうのです。

このような身を滅ぼしかねない習性は、虫に限らず、人間の場合にもいくつか挙げられるでしょう。

キャンプファイアー


それはやること自体は、楽しいし、やらずにおれないような行為なのですが、それにいつまでも従っていると面倒な事態に陥ってしまうのです。

仏教では大きく3つの衝動(快楽、競争、怠惰)を戒めています。
それはこれらの衝動が人を幸福ではなく、自己破壊へ導くからだと考えているわけです。

麻薬やお酒などは、その時は快楽を与えて、とても楽しいと感じるかもしれませんが、それに依存することは確実に心身を蝕んでいきます。

他人と競争して勝つ喜びや、他人の過ちを指摘して得意になってみたり、あなたは間違っていると言って怒鳴りつけるのは、どこか気持ちがいいものですが、これらも後からじわじわとと時間をかけて、あなたを苦しめることになります。

相手を罵ったことは、そのときは相手に向けたものですが、それはそこで消え去らずにどこか心に残ります。
その保存された攻撃衝動は、時と場所にかかわらず、また相手が誰であっても再現されることになります。

そこでは相手は誰でもいいわけで、そのとき一人称(わたし)も二人称(あなた)も三人称(彼ら)の区別はなくなります。
つまり、それはあなた自身にも当然向けられるのです。

もっと分かりやすく言えば、他人の間違いをあれこれ指摘したがる人は、自分もそれらを他人から指摘されることに怯えることになります。

他人の間違いをいつまでも許せない人は、自分自身が少しでも間違ったことをしてしまったら、いつまでも自分を責めて苦しめられることになります。

どうして世の中はこんなに窮屈なんだと嘆く人は、自分が他人に対して、やたら細かいことを守るよう期待している人なのです。

怠けることについては、まわりから文句を言われなければこんなに楽なことはないと思うかもしれませんが、最初は楽しくても、やがてとてつもなく退屈になり、自分はなんのために生きているのだろうと悩みだすことになります。

これらの衝動は、しかしいくら戒められてもやめられないものです。
なんどやめても、隙があれば復活してきますし、禁じられたとなると、どんなことをしてもそれが欲しくなったりするのです。

ですから、むやみにストイック(禁欲的)になることはありませんが、これらは「最初は甘く快楽を与えるけれど、必ず後からその代償を支払うことになる」ということを忘れないほうがいいでしょう。

そして、もっと注意したいのは、個人レベルでは気をつけていても、社会やまわりの環境は、あなたにその誘いを向けてくるだろうことを忘れないことです。

「みんなで渡れば怖くない」式に、「みんながやっているのに、なんで自分だけなんで守らないといけないんだ」と思って参加してしまっては台無しなんです。

たとえば、いくら使っても一定額ですとか無料ですとかいわれると、これはいいとばかりどんどん手に入れたくなります。
少しでも多く手に入れないと損だとばかり、夢中になって集めだすと、いつのまにか自分にとって何がどれだけ必要だったのかが分からなくなるのです。

最初は、これだけあれば十分だと思っていたのに、あれもこれもと魅力的なものを見せられると、元々の必要性はどこかに忘れられて、そこばかりに注意が向くことになります。
そのようなことがなければ、いろんな方面に自分の関心を向けられたのに、外から刺激され無理やり需要を作りこまれて、他のことに関心を向ける余裕がなくなってしまうのです。

そんなことに時間を取られていると、なかなかそこから抜け出るのが難しくなります。
ほどほどに切り上げて、いろんな自分の関心事を広げたり、取るばかりでなく与えるとか、集めるばかりでなく手放すことにも注意を向けてみるのです。

ライバル・ビジネスマン


あるいは、競争についてはどうでしょうか?
表向きは共存を訴えながら、実質的には競争社会であることが当たり前になっているこの世の中にいても、あなたは競争から自由な位置に身を置いておくこともできるでしょう。

たとえば、あなたに誰かが競争を挑んでくるかもしれません。
でも、あなたがその人のことを競争相手と見ないかぎり、あなたはそのことで何の苦痛も感じることはありません。

お互いが同じ事を目指している場合なら、才能がより豊かな人の方がそれを開花させる可能性が高いでしょう。
そう思って、あなたが相手の挑発に乗らなければ、競争関係は成立しません。
また別の道を歩んでいるなら、何の関わりも持だない存在となりますから、あなたが気にすることは別にありません。
いづれにせよ、あなたが自分から競争に参加しなければ、競争相手という概念が生じてこないままいられるわけです。

競争するよりも、あなたならではの才能を発揮するほうが賢明ではありませんか。
他の人と比較するのではなく、次のことを問いかけてみるのはいかがでしょう。

「私でなければならないこととは何ですか?」
「私にしか出来ないこととは何ですか?」


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心得たと思うは、心得ぬなり

心得たと思うは、心得ぬなり。
心得ぬと思うは、心得たるなり。
蓮如



世の中には、ずいぶん確信を持ってものごとを語る人がいますが、「絶対まちがいない」という言葉を多用する人はどうも信じたくなくなってしまいます。

もちろん状況によっては、曖昧な言い方ではなく、確信のある言葉を相手に言ってあげないといけないということもあるでしょうから、一概には言えないのですが、聞いていて特定の前提を絶対視していると感じたら、どんなに魅力的に聞こえても偏りがあると疑ったほうがいいかもしれません。

そんなに確信を持って言えることは世の中にないはずです。
過去にとらわれ、未来を予測することの出来ない人間にとって、確信を持つということは、実はその前提を信じたいという願いに過ぎない場合の方が多いのではないでしょうか。


「心得たと思うは、心得ぬなり。」とは、自分はもうすべてわかったと言い切るような人は、実はわかっていないのだという意味です。

ものごとは深く知れば知るほど、最初に思っていたほど確信をもって断定できるものではない、とわかってきます。
その分野の専門家であれば、わかることの限界ということが見えてきますから、そのあたりを心得て断定する言葉は使わないものです。
それが「心得ぬと思うは、心得たるなり。」ということです。

逆になまじ聞きかじりの知識を持ったような人ほど、自分はわかったつもりになって断定的な物言いをしたがるものなのです。

私たちは、自分の詳しく知らないことについては、専門家が言うのだから正しいに違いないと思いがちですが、それはせめて専門家には確信を持ってもらいたいという願望が含まれているのかもしれません。

だいたい何かの分野を掘り下げたことがある人なら、わかることには限界があることが見えてくるわけですから、それが他の分野であっても、同様にいくら専門家でも限界を持っているだろうと想像がつくわけです。

ところで、断定的な言い方をする人は、「心得たと思って心得ていない人」であるか、職業的な必要性から断定的に言わざるをえない人の2種類が考えられます。

後者は、例えば患者を安心させて気力を持たせるために「大丈夫ですよ」といってみせる医者のような立場の人が考えられます。
あるいは、すこし他のバリエーションを考えてみると、何かを販売するために「当社の商品なら絶対です」と言い切ってみせないといけない、という立場に置かれた人も考えられます。
断定的な言葉が満載の本は、魅力的には見えますが、期待して読んでみると、結局何も得るところがないような気がします。
どちらのケースにしても、あまり限度を超えて根拠のないことを吹聴するわけにはいかないものですが、仕方がない場合というものもあるでしょう。

詐欺セールス2


しかし問題なのは、中途半端な知識を得て、やたらと確信のある言い方を撒き散らす人には注意したほうがいいということです。

それを見分けるには、相手が何を前提にしているかを見ぬくことです。
その前提を明らかにしていけば、たいていはそんなことを断定できるはずがないことが見えてきます。

「私はいろんな経験をしてきましたから、これは絶対大丈夫です」と言われると、信じたくなってしまうものですが、その人の経験はあなた自身に当てはまるかどうかはわからないのです。

「未来は誰にもわからない」という弱みがありますから、人はそれを保証すると言われると、嘘でもいいから信じたくなるものです。

だからこそ、何かを信じる前に、それを信じるのは根拠があるからなのか、それとも信じたいからなのかを自分に問いかけるべきなのです。

確信がないことに耐え切れずに、何かを信じたいという思いから断定的な言い回しを信じてしまうのは避けた方がいいでしょう。
はっきりと騙されたと分かるような詐欺に引っかかる場合ももちろんですが、その後の人生を苦しくしてしまうような信念、思い込みを植えつけてしまうことの方が、むしろ被害は大きいかもしれません。

すぐに不安を解決してくれると謳うものに飛びつかずに、不安なままの自分と向きあって、自分が本当は何を求めているのかを自分で見つけることが大事なのです。

そして、誰であろうと、何の不安もなしに確信を持てるようなことはないと知っておいたほうがいいでしょう。

知れば知るほど、絶対的な確信など持てないものであるということがわかってきます。
まだ自分には知らないことがいっぱいある、ということをわからせてくれるわけです。

それが「心得ぬと思うは、心得たるなり。」ということなのでしょう。


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どちらも正しい

ここに、どちらが正しいかといがみ合っているふたりに聞かれた賢人が、どのように答えたかという話があります。
もしかすると、似たような話を、どこかで聞かれたことがあるかもしれません。
こんな話です。

ふたりの男が表で何かについて言い争っています。

賢人は家の中でその言い争いを聞いていたのですが、そのうちふたりのうちのひとりが怒って立ち去ってしまったようです。

残ったひとりは、怒りが治まらない様子でしたが、やがて賢人の家に気づいて訪ねてきます。

賢人に「今の争いを聞かれましたね、どちらが正しかったか教えて下さい」と言います。
「わたしは、きちんとあの男に理由を説明して見せたのです。
どう考えても、私の考えには間違いはありませんが、あの男はわかろうともせずに、自分の非を認めないのです。」

けんか夫婦1


この「私の考えには間違いはありません」、「わかろうともせずに、自分の非を認めないのです」という部分が、口論が起きたときに必ず出てくる典型的な言い回しですね。
この言い方が登場すると解決は難しく成るのですが、それはともかく、話を続けましょう。

賢人は、男に「それはあなたが正しい」と言い切ります。
男は、理解されたことに喜んで帰って行きました。

しばらくすると、今度は先に帰ってしまった方の男がやってきて、同じことを賢人に尋ねます。
自分の立場がいかに理にかなっているか、相手がいかに理解がないかを訴えるのです。

それを聞いた賢人は、こちらも同じように「それはあなたが正しい」と言い切ります。
男は、理解されたことに喜んで帰って行きました。

さて、一体どういうことなのでしょうか?

「どちらも正しいなどということはない」と思われるでしょうか。
たしかに、これが裁判の場であったら、大岡裁きでもなければどちらも正しいでは済まないのかもしれません。
ですから「どちらも正しいなどということはない」と言う考えもまた、正しいのです。

しかし、「正しさ」というのは、どういう観点から見るかで変わってしまうものです。
ふたりの男の、それぞれの立場から見れば、それぞれが正しいのです。

そもそも違う立場から主張し合うから争いになるのであって、どちらが正しいかを判断した所で、お互いの考えが変わることは望めないのが、こういった口論の典型的な結末だと言えるでしょう。

そこでは、どんなに理論的に正しさを主張し合った所で、お互いが自分の主張を収めると言うことはほとんど望めないのです。

それは、私たちが一度「私の正しさ」を言い出すと、それはもはや客観的な正しさだけではなくなり、私の自我を守らなければならないものに変化してしまうからです。

ですから、両者とも相手の主張を冷静に聞ける自分を持っていたとしても、そのような正しさよりも自分の立場を守ることの方が優先事項になってしまいます。

問題は事実関係を離れて、お互いの自我を守るための争いに変化してしまうため、どれだけ客観的な論争をしたとしても、どちらが勝ってもしこりが残ってしまうのです。

このような人間性を理解するなら、「話せばわかる」ということが成立する状況かどうかを判断して、ダメだとわかったらすぐに争いを中止するのが賢明だと言うことになりますね。

では賢人は、なぜどちらに対しても、「それはあなたが正しい」と言い切ったのでしょうか。
それは、先程述べたように、お互いの立場に立てばどちらも完全に正しいからです。

それぞれの相手が話すことを偏見を持たずに聞いてみれば、どちらも彼の立場に立てば正しいことを言っているものです。
そして、自分の正しさを守りたいという欲求は、自分の身体を傷つけないように守ろうとするのと同じように必要なことでもあるのです。

つまり、このような口論は、やるだけムダであると言う結論になるわけです。
このような状況になってしまえば、正しさの証明は何の解決にも導かないのです。

賢者はこの事をふまえた上で、どちらが正しいかと聞かれたから、あなたが正しいと答えたのです。
それは、事実をねじ曲げたわけでもないし、自分の考える正しさを抑圧したわけでもありません。

口論は何も解決に導かないことを理解して、それぞれの立場の正しさを一歩離れた位置から見ることが出来たからこそ、両者の間違いを指摘するような無駄なことをやめて、「あなたは間違ってはいないよ」と答えるわけです。

その口論から離れて、お互いが頭を冷やせば、そこで始めて本当の解決の可能性も見えて来るでしょう。
だから、さっさと矛を収めてしまうのが第一なのです。

喧嘩する親子


自分の意見を冷静に主張できることと、口論の場で自我の主張を収めないこととは、意味が全然違います。
ところが、発端は冷静な意見交換であっても、どこで後者の自我のぶつかり合いになるかは、なかなか予測出来ませんし、厳密に言えば区別するのは難しいものでしょう。

口論になってしまった後で、自分の方から意見を引っ込めるのはなかなか難しいものです。
自分の方が正しいと思い続けながら、自分が引くことは人間性から言ってほとんど不可能に近いのです。

しかし、口論しているときの自分がどんな状態になってしまうかを離れて見られるように訓練してみれば、必要なのは「私の正しさ」ではなくて、事態を好転させることにあると割り切ることも出来る様になってきます。

またそれが出来る様になれば、ものごとには多様な見方が存在することを認めるのも容易になってきます。
自分でも、そのいろいろな観点に自分をおいてみることが出来る様になるからです。

そういった意味では、素直であることや、ありのままであることは、決して単純なだけでは出来ないものだと言うことになるかも知れませんね。
多様な観点に自分をおいてみるためには、天性の率直さだけではなく、経験を積むことも必要でしょう。

「正しさ」や「信念」などという言葉にとらわれていては、このような多様さを受け取る余裕が持てません。
「ふところの深さ」を持つには、邪魔なもので場所をふさいでいてはダメだと言うことですね。

「徳」という言葉にはなにか説教じみたものを感じがちですが、そうではなく人間性の理解だという観点から見てみるなら、抵抗なく何をすればいいのかも見えて来るものではないでしょうか。

誰しもいったん「私の正しさ」を主張し出すと、事実はどこかに置き忘れられてしまうもの、その前にそこから離れて自分を見ることが出来るかどうかがポイントですね。


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自分を認められるのは自分だけ

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チャーリー・ブラウンのお父さんが床屋さんだったのは知りませんでしたが、チャーリーはカット代金が値上がりすると聞いて、とんでもなく空想を広げてしまいます。

それってすごいことだと思わないかい?
そうしたら、お父さんは新しい車を4台も買って、プールもあるし乗馬も出来る、毎晩ステーキが食べられるし、冬場はリビエラで過ごすんだぜ!

床屋の息子がこんなに皮肉屋になれると思わなかったよ。

この会話はともかく、実現できないとわかっていても、私たちは空想を広げて、しばしそれにひったっていたいと願います。
今の自分の現実が、とてもつまらないものに見えて、きっと良くなったときの自分はこうなっているだろうと、せめて空想の中でくらい遊んでみたくなるのです。

しかし、そこで見落としてはいけないのは、私たちが望んでいるのが空想の世界のようなもので、現実はずっとつまらない刺激のないものだと決めつけている点です。

なぜか実現しそうにないと思いながらも、空想の世界の方が自分の本当の望みでよりリアル感を伴っているのに、現実の自分は調べるまでもなく退屈で、つまらないものに過ぎないと考えるのです。

より現実的なものは間違いなく自分のありのままの姿であり、空想の世界はあこがれの対象でしかないのですが、なりたいと願っているのは空想の世界の方なのです。

ですが、空想が突然実現したりすると、たぶん私たちはその状態に耐えられなくなり、元に戻りたいと思い出すでしょう。

あなたが本当に自分に満足出来るようになるのは、ありのままの自分に気づきそれを受け入れられたときなのです。
いくらまわりの人から見て魅力的な境遇に置かれようと、自分が真に満足するのは、自分を心から認められるときだけなのです。

ですから、そのためには自分のありのままを好きになることです。
他人から何と言われようと、そんなそのままの自分を認めて、いとおしく思えないと本当の満足感はありません。

他人から批判されると、すぐに自分の方が間違っていると思ったり、さらには他の人達はみんな、口には出さないけれど、きっとこんな自分をあきれてみているに違いないと思うようになってはいけません。

まずは、冷静に考えれば、自分以外の人がみんな同じ考えを持つなどと言うことは現実にはないのです。
口に出そうが、出すまいが、あなたのことを好きだと思っている人も、嫌いだと思っている人もいるわけで、そのことを何とかしたいなどと不可能なことを考えないことです。

あなたを嫌う人がいても、嫌いな事情はその人の問題であって、あなたが責任を持つことではありません。
文句を言うなら、嫌うのをやめればいい訳ですが、そうしないのは嫌いたい事情がその人にあるのです。

それは、自分の好き嫌いを観察してみればすぐにわかることです。
客観的に見れば、嫌う理由はないんだけど、理由などどうであれ、今はその人を受け入れたくない自分がいるのです。

そんなときは、自分が受け入れる余裕が出来るまで、その人から離れていればいいのです。
離れていれば、自分の見方も変わってきますから、何であんなに嫌っていたのだろうと思うようになるのです。

その理由は、自分に嫌いたい事情、つまり自分の弱点を刺激される存在であったからなのです。
自分が、その自分の弱点を受け入れられるようになるにつれ、嫌いな感情も薄れてきます。
もはや、嫌う理由もなくなってくるからです。



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僕のお父さんはまだカット代のことで悩んでいるみたいなんだ。

カットする道具を揃えてきて、僕の頭をカットしてやろうなんて言い出さないかとヒヤヒヤしてるんだよ。

それは、いい考えだね。
カットされている間に、君は自分の本が書けるよ。
自分の手で絵画を描いたり、自分の感性で作曲したりしてみればいいんだよ。
どうしてそうしようと思わないんだい?
いい考えだと思うなあ。

床屋の息子がこんなに感受性豊かだとは思いもしなかったよ。

チャーリーの反面教師ぶりは、どこか私たちに本当の自分を思い出させてくれるのかもしれませんね。

空想をふくらませる話や映画にあきると、ふとPeanutsでホッとしたくなるのではないでしょうか。


※訳がおかしかったら教えて下さい(^_^;)


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情報集めとあなたのユニークさ

ネットの時代になって、情報収集の効率は飛躍的に発展しました。
図書館で文献を探して、その中から目で追いかけて情報を探していたのと比べて、今や検索をかけるだけでズラッと必要な情報が並びます。

情報を集め整理してそれを提供する人は、ネット以前にもいたわけですが、今ではやろうと思えば誰でも情報の収集家にも、提供者にもなれる時代です。

プロではない情報処理の要員を一般に依頼して、それをまとめるというやり方も、新しいビジネスになっていくでしょう。

しかし勘違いしてはならないのは、情報がすぐに手に入るからと言っても、それは自分が新しいものを創り出したわけでもないし、それらが自分のものになったわけではないことです。

ネットで情報


「ネットで少し調べればわかることでしょ。もっと自分で調べてから質問しなさい。」
そんなふうに叱られるようにもなっています。
こうして叱られて、傷ついた人ほど後輩に対して同じことを言ったりします。
自分も馬鹿にされたから、言い返したくなるのかもしれませんが、しかし、自分もほんの数カ月前には、全く知らなかったことなど忘れているのです。
単に調べ方を身につけただけで、勘違いしてはいけません。
情報を整理して新しい見方を提供できてこそ、他人に教えることが生まれてくるのです。

このような豊富になった情報というのは、もともと誰かがどこかで創りだしたものを借りてきているわけです。
情報収集をやっていれば、当然その収集したり整理したりするノウハウは蓄積されてきます。
少しやっていれば、専門家のようにも見えてくるわけで、必要な人にそれを提供すれば、それがビジネスにも成り得るものです。

さらには情報処理がこれからの時代の新しい産業のように思われていますが、しかしそこでは新しいユニークなものを生み出すわけではないことも忘れてはなりません。
新しいものを生み出すながれも、それとは別に、ちゃんと存在し発展させなければなりません。
誰もが情報収集家ばかりになっても、誰がつくりだすのかということになります。

ところで情報に限らないことですが、人は何かを集めだすと、それ自体に夢中になってしまいがちです。
情報集めにのめり込んでしまうと、人はそのことが自分の生きる目的であるかのような気にもなってしまいます。

「情報を集めていけば、いつかなにか答えが見つかるだろう。」
そんな漠然とした思い込みから、もっともっと情報を集めようとします。
そのうちに、他人よりもより多く、より早く、情報を手に入れることに熱中してそれが生きがいになってしまうかもしれません。

ですが、既存の答えをいくら集めても、集めるほど、あなた自身のユニークさは隠れてしまいます。
借り物の思想を、借り物の言葉で語る自分、それがなにかユニークであるかのように勘違いしてはいけません。

なにか物知りになったり、自分で何かを生み出したような気になっていても、それらは所詮、情報収集を行ったに過ぎません。
そこらじゅうに転がっているガラクタを集めて、それを自分なりに整理するという行為で、かろうじて自分らしさを見せるかもしれませんが、そんな外を探すのをやめればべつのことが見えてくるのです。

いやそれよりも、外側から情報を取り入れてばかりいては、自分の中でそれをこなす暇もないし、だんだん自分の表層部分でそれらを出したり、入れたりするだけの情報処理マシーンになってしまいます。

自分の奥に隠されてしまったユニークさは、表に出られる機会を失ってしまいます。

時には、情報に頼ることをやめて、すべて自分の中に問いかけるだけで答えを求めてみましょう。

「このまま情報の洪水に巻き込まれていては、何かを失ってしまいそうだ。」
そんなふうに、いち早く危機感をいだいて、なかには、既に意図して情報を遮断し始めている方もいらっしゃるかと思います。

子どもひらめき


「今日は、調べるのをやめて自分で考えてみよう。」
そう思うだけでも、自分のユニークさを回復するための時間を作り出すことが出来ます。
また情報に頼らないで、自分の目で見て自分がはだで感じで、なにかを見つけることができるでしょう。

自分で見て感じることを一切やめてしまうと、なにが自分であるのかがだんだんわからなくなってしまいます。
わからないからと、さらに情報を集めようとしても、余計に遠ざかるだけなのです。


誰もが桁外れになることを求めている
それを追求しているのは自我だ
特別な誰かでいようとすること
ユニークで比類のない誰かでいようとすること---
そして、ここにパラドックスがある
例外的であろうとすればするほど、
それだけあなたはあたり前に見える
なぜならば、誰も彼も桁外れを追い求めているからだ
それは実にありふれた欲望だ
もしあなたがあたり前になったなら
まさにあたり前であろうとするその探求こそ桁外れなものだ
というのも
誰かがただ誰でもなくなろうとすることなど世にもまれなことだから
誰かがただの虚ろな
空っぽな空間になろうとすることは世にもまれなことだからだ

これこそある意味では本当にただならぬことだ
誰ひとりそれを求めてはいないのだから---
そして、ただの人になったとき
あなたはただならぬ人になる
そしてもちろん、突然あなたは
探求することなくして自分がユニークになっていることを発見する

Tao永遠の大河〈2〉―バグワン・シュリ・ラジニーシ老子を語る (1980年)
著者: バグワン・シュリ・ラジニーシ めるくま-る社 / 1980-03


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「Less is More」


「Less is More」

これが人生のほとんどの分野に

当てはまることをよく考えてみることだ。




「今持っているモノで満足し、ありのままの姿を喜ぶことだ。
 何も欠けていないと悟れば、全世界が自分のものになる」
----- 老子 -----


今日が楽しくなる魔法の言葉 (136ページ)
著者: アーニー・J・ゼリンスキー ダイヤモンド社 / 2003-09-20



いま手に入れたいと躍起になっているものを思い浮かべてください。

出来ればそれを100%で手に入れたいと、あと少しの努力を手を抜かないように頑張っています。

いつからか、80%では失敗だと思うようになってしまった。

しかし、80と100の間は非常に遠いのです。

ちょっとした手違いで失敗があっても、80ならなんとか無理しなくても手に入る。
しかし、それでは満足できない。
100でなければならない。

80なら無理しないで手に入るから、他のことに目を向ける余裕も出てくるでしょう。

しかし、80から100への間は、それまでの全部よりも大変なのです。
全神経を使って取り組まないと、ちょっとした油断で取りのがすかもしれない。
1%でもかけたら100にはならないと思うと、他のことにも気が回らない。

このような、80から100への「無駄な」努力をやめたら、どんなに気が楽になるでしょう。
どれだけ、平和な日々が戻ってくるでしょう。

社会は、朝から晩まで、100では飽きたらず、120が手に入る方法や、商品を売り込んできます。

あなたのうちには、この商品はありますか?
これがないと、80どまりですねー。
余裕があれば、これをプラスすれば、120にでもなれるんですよ。

手術する医者


100でないといけない神話は、他にも根拠があるのかもしれません。

プロは、100でなければならない。
アマチュアなら80で満足してもいいが、プロはそういうわけにはいかないんだ。

たしかにそのとおりです。
たとえば、私たちが難しい手術を受けなければいけないとき、「私はいつも80くらいでやっています」という医者に身を託したくはないでしょう。

安全を信じて利用する交通機関が、80の点検しかやっていないと聞かされたら怒りたくなります。

100を提供すると約束する商品のほうが、買いたくなるでしょう。

しかし、それでも私たちの普段の生活にまで100を持ち込む必要はありません。

いま80で満足している時、ちょっとした隙をつかれて100の提案を持ちかけられる。

あなたは、「今のままで十分です」と答えますが、100への魅力が頭の片隅に残ってしまう。
以前に100を手に入れた時のことを思い出し、それもいいかもしれないと思い始める。

そこで何が起こるでしょう。

あなたは、80から100への困難な道に足を踏み入れてしまった。
禁断の道は、魅力的でいままでの平和な暮らしよりも刺激があります。
今までの習慣を壊してでも、後の20を手にいれたくなる。 

いつもなら、ウチのことや家族のことを振り返る余裕があったのに、その程度のことならいつでもできる、いまを逃すと100に到達できない。
そんなふうに、余裕を無くして、たかが20のために全精力を奪われてしまうのです。

「Less is More」

足りないくらいのほうが、ずっと幸せだったのに。

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こうあらねばならないなんて馬鹿げている

Peanuts1.gif

「雨の日は嫌いだよ、何にも出来やしない..」

「だけど考えてみると、こんなにいい天気になったとしても、やっぱりやることなんて何もないんだなあ。」

DailyStripからのshare
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最初のセリフからは、「雨だから」という理由でなにもしない自分を、つい説明せずにはいられない気持ちが感じ取れます。
ではこのような自分の状態を説明したくなる気持ちは、どこから来るのでしょうか。

「自分にはやるべきことがある。」
「私は何もやることがないような人間ではないはずだ。」
「雨でさえなければ、バリバリやることがあるんだよ。」

こんな言い訳を考えながら、自分にはやるべきことがあると言い聞かせたいのです。
じつは、やるべきことなど何も無いことを認めたくない、そんな現実には直面したくないと思っているのかもしれません。
そのあたりの事情は、人によって変わってくるでしょうが、どこかで「やるべき事を持っている」ことを自分の存在価値と結びつけて考えているのではないでしょうか?

それはいつのまにか、本来の目的を離れて一人歩きするようになり、人はやるべきことを持っているものだと考えるようになります。

しかし最後のセリフでは、スヌーピーは正直に「何もやることなどない」ことを認めています。
どこか羨ましいと感じながら、しかし犬と違って人にはそんなことは許されないんだよといいきかせるのです。

しかし、そう決めてしまわなければ、やるべきことがあるはずと考える根拠は実は何も無いのです。
もっともらしく聞こえる説明も、そのように考えたほうがなにかメリットがあるという程度のものなのです。

ですから、自分にはやるべきことが思い浮かばないからといって悩む必要はありません。
正直に考えるなら、そんなものはもともとないのですから。

Peanuts2.gif

「私もスティックホース(馬の頭がついたおもちゃ)がほしいなあ。」

「みんな持ってるのに、ないのは私だけよ」

そこへ、スヌーピーがスティックホースにまたがって通りすぎます。
「ええ!ほんとに誰でも持ってるじゃない!!!」

DailyStripからのshare
http://c0389161.cdn.cloudfiles.rackspacecloud.com/dyn/str_strip/341927.full.gif



最初は、「あればいいかもしれないな」で始まるのですが、みんなが持っているのを次々見せられたり、あるいはテレビのCMで毎日のように訴えかけられると、「これは自分にも必要だよ、持ってないと取り残されてしまう」と不安になってくるのです。

私たちが、「これはぜひとも必要な物」と言い出す根拠も、案外このようなところから発生してくるものがほとんどでしょう。

人の真似ばかりするものじゃない、自分は絶対に持たないと言いはるのもまた、気になっていることへの裏返しです。
別にまわりに影響されて自分も欲しくなったとしても、それは自然なことです。
まわりを真似ていくことで、生きるのに必要なことを身につけてきたのですから。

問題なのは、その後に必要以上にこだわりを持ってしまうことです。
「持っていればいいことがある」と認めたとしても、それがないと許せないとか、生きていけないと言い出すと問題になってくるのです。

あったほうがいいけれど、自分は持っていないものはそこらじゅうにあるのです。
こだわり始めた対象にしても、それは同じことのはずなのですが、その時は冷静な判断がつかなくなっているのです。
手に入れたとしても、いずれ飽きてくればその他のものと同様になってしまうのですけどね。

それはともかく、このような働きは「あるべき人生のモデル」についてもあてはまるのではないでしょうか。
みんなが、「こう生きるべきだ」と言っているのを聞き続ければ、そこからはみ出してまで自分なりに判断するのは難しくなってきます。
しかし、そのような信念も、それほど根拠があるものばかりでないことや、人が思いつくことなど所詮限界があることを知っておけば、熱狂的にその考えにのめり込むことはありません。

今の自分にとっての現実が重要なのであって、あるべきことのために生きているのではないことを思い出すことです。
100万人がそうだと言っても、自分の直感が拒否するなら、密かに信じるのをやめておけばいいのです。


人生はこうあるべきだと考えるのはやめて、
人生をありのままに受け入れてみよう。
こんな人生でいいはずがないと
思えば思うほど不幸になる。
現実をありのままに受け入れれば、
人生はこうあるべきだという思いこみから解放される。

コメディアンのレニー・ブルースはこう言った。
「あるがままでいい。
こうあらねばならないなんて馬鹿げている」


今日が楽しくなる魔法の言葉 (32ページ)
著者: アーニー・J・ゼリンスキー ダイヤモンド社 / 2003-09-20



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毎日この神秘を少し理解する

好奇心は、それ自体に存在理由があります。
永遠や人生や実在の不思議な構造といった神秘についてよく考えてみるなら、
畏敬の念をもたずにはいられないでしょう。
毎日、この神秘を少し理解しようとするだけで十分です。

『アインシュタイン150の言葉』
ディスカヴァー・トゥエンティワン / 1997-03-31 /


この文章を読んで思ったことが2つあります。

ひとつ目は、やはり人生は神秘に溢れたものだととらえることです。
自分が今まで理解していることなど、とてもその不思議で神秘な世界をとらえてはいないこと。
そのような謙虚な見方をするなら、世界にたいして畏敬の念をもたずにはいられないでしょう。
いつまでたっても、その神秘さは消えることはないと考えれば、次の2つ目の方針が見えてきます。

驚く女子


それは、毎日少しだけ理解するようにすればいいということです。
一度に全部知ろうと思わないこと。
全部を説明しないと動けないと感じるのは、思考に、ロジックに、説明にとらわれている態度なのです。

好奇心や驚き、畏敬の念を打ち消して、自分はすべて理解して説明できると考えたがる。
これが、世界を狭い範囲に閉じ込めて、やがて現実との離反に苦しめられる事態をまねくのです。
無理やり作り上げた説明は、限界だらけの部分的で一時的な有効期限しか持てないのです。

これで世界はわかったと思っても、少しでも状況が変われば説明がつかなくなります。
これでいままでうまくいったのだからと、強引にルールを強要しても、神秘な世界はそのルールをすり抜けていきます。

今日実際にやったことが、昨日までのルールに当てはめると不十分だったと自分を責めないことです。
今日の自分は、今までの自分のトータルなのですから、そちらの方が過去のルールよりも現実なのです。

昨日の人間関係で自分も他人も縛らないことです。
昨日まではOKしたけれど、今日はNGだと言い切ることに躊躇しないことです。
約束を破らない範囲で柔軟に変化することを許しましょう。

「昨日はあなたは違うことをいった」と追求したくなっても、相手が変化したのなら極力追求しないことです。
あなたが全面的に正しくて、それで相手を打ち破っても、相手の変化を封じ込めてしまうあなたの行為は、これからのあなた自身に返ってきます。
別の日に違った見方を発見したあなたは、でも考えを変えてはいけないというあなた自身のいった言葉に縛られることになるのです。

相手を言いくるめたり、打ち破ることに快感を感じているとしたら、早めに考えを変えた方がいいでしょう。
公私ともに裁判官でいられる人間などいないからです。

裁判


いつかあなたも裁判員に選ばれるかもしれません。
そのときあなたは、相手との関係を極力排除して判断を下さなければなりません。
その公平で重みがあり、相手の人生を左右する重大な判断のやり方を、少しでも普段から使ってみようと考えてみるのです。

目の前のみなれた世界から、新鮮さと神秘さを発見しようと思うなら、
まだまだ、知るべきことはいつまでも尽きないと思うなら、
昨日のルールを今日にでも捨てる勇気をもっているなら、
退屈な世界や、すぐに行き詰まり、しかも息詰まるような世界から抜け出すことができます。

昨日の決心を変えようとする自分を見つけても、いまの自分の感覚がルールよりも重要だと訴えていると思うなら、罪悪感を持たずにそれを許しましょう。
その小さな許しが、あなたの周りの世界を重苦しく澱んだものから、軽快で明るくうきうきするものに変えてくれるでしょう。

この文章を読み終わったら、すぐに自分を許し解放するものをひとつ見つけてみましょう。
なにか不思議で新鮮な驚きを見つけてみましょう。
その気になれば、すぐにでも見つかるでしょう。


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牢獄からの解放 アインシュタインの言葉から

人間とは、わたしたちが宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である。わたしたちは、自分自身を、思考を、そして感情を、他と切り離されたものとして体験する。意識についてのある種の錯覚である。

この錯覚は一種の牢獄で、個人的な欲望や最も近くにいる人々への愛情にわたしたちを縛り付けるのだ。

わたしたちの務めは、この牢獄から自らを解放することだ。それには、共感の輪を、すべての生き物と自然全体の美しさに広げなければならない。実質的に新しい思考の形を身につけなければ、人類は生き延びることができないだろう。

アインシュタイン150の言葉 (40頁)
ディスカヴァー・トゥエンティワン / 1997-03-31 /



鎖から解放


ここでアインシュタインが「意識についてのある種の錯覚である」といっているのが、自我というものでしょう。
私たちはいつもこの自我によって自分の存在を確認しています。
そして、この自我がなくなれば自分はいなくなってしまうと思っているのです。
これが「錯覚」なのです。

現実の生活の場では、私たちはいつも次にやるべきことを思い浮かべ、それをこなしている主体こそが自分そのものだと思っているわけです。
ですが、それらはいま目の前にある状況にたいして働きかけている思考に過ぎないでしょう。

次に何をするか?

「これがあれば次に進める」「これをこなさないと次に行けない」といった思考で、目の前の課題に自分を駆り立てていくことが自分の存在そのものであって、その他のことは気晴らしに過ぎないくらいに扱っているのです。

いまの課題が順調に進んで右肩上がりであれば、「自分はうまくいっているじゃないか。他に何が必要だというのか。」と考えます。

しかし、目の前の課題が完了するか、挫折するかしたとき、私たちは牢獄にいることを思い出すことになります。
あるいは、いそがしさに駆り立てられている中、ふと目の前の課題を忘れたとき「自分は何をやっているんだろう?」と虚しさを感じることがあるかもしれません。

このように、目の前のやるべき事で自分の生きる価値を見出すという、条件付きの自分の存在確認から離れてみなければ、錯覚のまま生きて行くことになるのです。

なにかを計画的に実行する場合には、このような思考は役に立つのですが、その思考そのものが錯覚から抜け出せなくしている原因でもあるのです。

「あと一歩で目的を達成できる」という状態は、悪魔的に私たちをしばりつけます。
つまり、例えば99個が完成した後で、最後の1個を邪魔されたらなんと思うでしょうか。
「あと1個なのに、このまま終わらせる訳にはいかない」という思いは、あらゆる犠牲を払っても達成しなければいけない状況に私たちを駆り立てます。

せっかくこの人達と仲良くなれたのだから、自分を押さえてもこの関係を崩してはいけないという思いは、それが積み重なってくれば、だんだん身動きが取れなくなってしまいます。
ふと気がつくと、自分の本当にやりたい事を聞かれても、はっきり分からなくなっている自分を発見するのです。

「私はあなたの味方ですよ」と言ってしまったばかりに、状況が変化して相手がとんでもない要求を言い出しても、なかなかそれを裏切るわけにはいかなくなります。
関係を壊すよりも、なんとか今のままで自分を納得させられる理屈をひねり出そうとしますが、それには無理があるでしょう。
どこかの時点で、「状況が変われば関係も変わっていかなければならない」ことを受け入れなければなりません。

このような牢獄に縛られた状態では、いまの状況がもはや自分には合わなくなっても、それを認めることが非常に困難になってしまいます。

毎日やっていることが、じわじわと自分を苦しめていて、ときどき自分で自分に言うことを聞かせられなくなってきたと感じるなら、思い切った方向転換が必要かもしれません。

その課題を何も考えずに拒否できますか?
毎日続けているからといった理由で抜け出せなくなっていませんか?
99個まで終わっていても、後1個を残して放り出せる勇気がもてますか?

ひらめいた男性


「これさえうまくいけば、あとはすべてうまくいく」という発想はほんとうでしょうか?
それが完結しても、ただ目の前の課題が終わっただけ、直ぐに次の課題を作り出さないといけなくなるのです。
それは自我を満足させただけに終わってしまうからです。
これが自分だと錯覚している自我というものに、駆り立てられているだけではないかと振り返ってみてはいかがでしょうか。

「それでどんないいことがあるの?」と聞かれるでしょうか?
次々に「いいこと」を探さなければ生きていけないという思い込みがそう言わせるのです。
「理由」がないと、「条件」がないと動けなくなっている自分に気づくことです。

理由も聞かずに、ただ放り出してしまいたいと思っていることはないですか?
「無条件」になにか思いついたことをやってみる自由を取り戻すのです。


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せいぜい10個の問題なんだ!

自分の抱えている問題が自分の身だけに起こっていると思っていないだろうか。

しかし、人生の問題は大きくわけて10くらいしかない。
しかも、だれもがその10のうちのいずれかが
形を変えた問題を抱えているのだ。

だから、あなたの問題も
それほど特別なものではないのだ。


【引用】『今日が楽しくなる魔法の言葉』 67頁
著者: アーニー・J・ゼリンスキー
ダイヤモンド社 / 2003-09-20



10の問題は、それぞれ誰かによってたやすく解決されてきました。
それは、人によっては問題ですらないことなのです。

ひとはそれぞれ、8個はなんとかなるが、1つか2つの問題を苦手とするといったような状態なのでしょう。

つまり、誰かにとっては問題にもならないことが、あなたにとっては死活問題となるということもあるわけです。

重要なのは、なんとかなることを、どれだけ多くクリアできるかではなく、1つか2つを大問題に仕立てあげないことです。

苦手なことというのは、あなたの他の特性と結びついています。
あなたがこれは自分のやり方であり、そこに問題はないと主張するとき、苦手な問題を作り出す要因をも一緒に育てているのかもしれません。

それを問題ともしない人が、どのように対象を見ているかを知れば、「私にはそんなやり方は向いていない」とか「私にはその考え方は受け入れられない」と言いたくなることでしょう。

だからこそ、ある人にはたやすいことが、あなたには大問題に化けてしまうのです。

虫眼鏡のサラリーマン


もう駄目だと諦める前に、あなたのこだわりを諦めてみれば、問題はもはや問題ですらなくなることも考えられます。

あなたにだけ特別に大問題に見えるのは、まさに、あなたにだけあるこだわりが原因なのです。

それを捨てるくらいなら、解決しなくてもいい。
その問題と心中するような気になるのは、それがあなたのこだわりである何よりの証拠なのです。

「なにかを得るためには、なにかを失う必要がある」といわれるのは、まさにそのことを表しています。

問題の解決よりも、それを作り出している自分のこだわりを振り返った方が早いのです。

誰かにとっては問題にもならないことに、あなたのすべてを賭けてこだわりを守り抜くか、それとも捨てさる決心をするか、これが一番の核心であることが多いのです。

それがよくあることなのは、そのような働き方をするのが、私たちの心のくせであるからです。

あなたの、あなたらしさとあなた特有の問題は、両方で影響しあっています。
しかし、あなたらしさを全部捨てなくても、ちょっとこだわりを緩めるだけで道は開けてきます。

もうどこにも押せるキーはないと嘆いていたら、「そんなのこれでいいんだよ」とマウスのワンクリックで解決するやり方を誰かが教えてくれるのです。

マウスとキーボード


今まで思いもしなかったけれど、わかってしまえば、それは誰にでもできる簡単なことだったことを発見するのです。

たかが10種類のパターンに大騒ぎしないこと。
それは、誰かが簡単に解決していることに過ぎないのですから。



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太極図 今の自分を取り戻そう

太極図


白と黒の涙のような形の向き合ったこの図は、太極図と呼ばれます。
そしてこの太極図はタオイズムを象徴するものであるとも言われます。

この太極図的な世界観は、森羅万象を陽と陰の要素によって成り立っているというように考えるのです。

図で言えば白いほうが陽で黒いほうが陰です。
陽は行き着くと陰となり反転し、陰は行き着くと陽となり反転します。

一般的には、陽をポジティブな働きかける方だと考え、陰をネガティブで受身の方向に捉えます。

この太極図の重要な点は、単に二極化した事象を捉えるだけでなく、それらが上述のようにお互いに端まで行き着けば反転して反対側の性質に変化するという点です。
また、陰と陽は対立するものではなく、お互いに補い合うものであると考えます。

そして人間もこの陰と陽の性格を自分の中に抱えています。
あらゆる相対的な面を陰と陽とで捉えられますが、どちらも自分の一部であり、瞬間を捉えればどちらかが優勢であっても、いずれ反対の極に転ずるのです。

さて、昨今の私たちは、何かをやり遂げることが生きることである、という考えに非常にとらわれがちです。
自分はこれをやり遂げてこそ生きてきた意味があるというように、大きく捉えることもありますし、また日常的にも、すぐそこにある未来に向けて、やり遂げるべきことが意識の殆どを占めているのではないでしょうか。

たとえば、今日の昼食は何にしようかと考えます。
どこに食べに行くか、どこでお弁当を買うか、あるいはなにか料理をつくろうとするのかもしれません。
このようなことは当たり前のこととして捉えていますが、すべていま起きているのではなく、これから未来に向けての行動を予言(宣言)しているのです。

そのような未来予測は、いま目の前にみえていることや感じていることを押しのけて、意識を占拠してしまうのではないでしょうか。

急いで出勤


これから電車に乗ってどこかへ行くというとき、駅に向かって歩いている自分のことは、ほとんど意識せず、ただの途中経過として捉えていることも多いでしょう。
心は、もう電車に乗っている自分や、到着した後の自分の行動に置き換えられているかもしれません。

未来に向けて「やり続ける」ことは、いまの私たちの最も常識的な行動なのですが、「やり続ける」ことが意味するものは、いまは「何かが足りない」状態であると言っている事でもあるのです。

獲得すればするほど、「何かが足りない」という思いを強化していることになるのです。

ちょっと横道にそれますが、2つの事をやりたいけれど、両方やる時間はないというとき、普通ならどちらかを諦めるしかないと考えますが、思い切って両方放り出してしまうという手もあります。

いまのやり方では、いくら逆立ちしても両方はできません。
ダメなやり方は、いくら工夫してもダメなんです。

しかし、両方放り出してご破算にしてしまえば、それらはいつの間にか再構築されてきます。
うまく行けば、両方をやり遂げる活路が見いだせるかもしれません。

話を戻しましょう。

いつもなにか足りないものを求めて、獲得する方向に未来へ向かうこと、仮にこれを「陽」だと捉えれば、「陰」の方はどういう状態を意味するでしょうか。

それは、「いまここ」にとどまっていて、今の自分の持っているものに満足したり、それを味わうことなのです。
実は、未来に向けて足りないものを求め続ける活動は、それ自体に満足することもあるでしょうが、獲得したものを自分のものとして捉えたり、味わうという時間は含まれていないのです。

活発に動いていると、それ自体で満足しているような気になりますが、やはりじっくりと「いまここ」にとどまって、それをかみしめる時間を持つことを無くしてしまってはバランスを崩してしまうのです。

陰と陽のバランスを取り戻すには、多くの人はもっと今に留まって持っているものを味わうようにした方がいいでしょう。
持っているものを知って、その豊かさをかみしめるとき、新しいものはもういらないという満足感を味わえるのです。
老子が言うように、「知足者富」(老子道徳経 第三十三章) 「足るを知る者は富む」と言うことなのです。

陰の方のバランスを取り戻すには、もっと「いまここ」にとどまる練習が必要かもしれません。
なぜなら、私たちはほんの1分間ですら何も考えずに、いまにとどまることが難しいものだからです。
そんな時間の使い方は、昨今の社会的な生活から、だんだんかけ離れてしまってきたのがその原因なのでしょう。

常に前を目指し、何かに向けて動いていないと満足できないように慣れてしまった私たちは、もっと何の目的もなく、時間を過ごすことを取り戻す必要があるかもしれません。

私は充分のんびりしているから大丈夫という人でも、例えばテレビを見て過ごしていたとしたら、心のなかはどこか遠くに飛んでいたのかもしれないのです。
今の自分を忘れていれば、それは目的意識がはっきりしていたかどうかだけの違いで、なかなか今にとどまることは出来ていなかったのかもしれません。

ハンモック


「思い切って、いまやらなければいけないリストを消し去っることは出来ますか?」

こう聞かれて、「そんな恐ろしいこと。。。」、と思ったりしませんでしたか?

いつの間にか、私たちは「未来への予約」を持っていないと不安になってしまうのです。
何が起こるかわからない「いま」にとどまっていることに耐えられなくなっているのです。

「未来に向けてなにかを獲得するよう行動すること」と「今の自分に満足していい気分でそれを味わっていること」の両方を自分の中に取り入れてみましょう。

前者は放っておいても身についているでしょうから、後者を少し意識して取り入れてみるのです。

陰陽のバランスを取り戻さないと、いつか息切れしてきます。
なにか物足りないと感じる毎日がやってくることになるのです。

未来を切り離した、なんの目的も持たない時間を設けてみることです。

そして「知足者富」ということを、もう少し振り返ってみたいものですね。



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「もっと頑張らねば!」タイプの落とし穴

いつでも「もっと頑張らねば!」と言い聞かしている。
少しでも手が空くと、他にやることはないだろうかと探し始める。
「よくそれだけ頑張れるね」と声をかけられるが、自分ではこれでも充分でないと思っている。
休んでいると落ち着かない。

このようなタイプの人っていますよね。
「私もそうだ」という方、そういうタイプになんとなく憧れる方、あるいは「でもちょっとやりにくいところもあるわね」と体験を語る方、様々だと思います。

頑張るうさぎ


いつも頑張り続けるタイプの人は、その有能さや仕事の面での信頼感に助けられる面が多いし、非の打ち所がないようにも思えます。
しかし、本人は自分ではこれくらい無理しているうちに入らないと思っていて、ついつい無理し過ぎる面がありますから、無理が生じてうまくいかなくなったときには、その脆さを見せてしまうこともあります。

まずこういったタイプは、「一生懸命やっていてこそ自分は評価される」ということが、自分の支えになっています。
その頑張りは、まわりの人が何というかよりも、自分の基準から見て頑張っていると納得出来るものでないといけないのです。

これが、いい方向に向かえば、当然その勤勉さや有能さが実を結んで仕事などでいい結果をもたらしてくれます。まさに他の人も見習うべき模範的な人なのです。

しかし、無理を続けているのに、自分ではその限界になかなか気付けないところがあります。
気付けないのか、限界を認めようとしないのかはわかりませんが、限界を超えていても頑張ってしまうので、それがミスを生んだり、体を壊したりする結果を招くかもしれません。

また、他の人達との関係について言えば、他の人のやり方に割り込んだりしなければいいのですが、自分が頑張っている自負もあり、しかも妥協しない性格なので、ついつい他の人のやり方に批判的であったり、口を出したくなったりするのです。
積極的に他の人を非難することは少ないでしょうが、余裕がなくなってくると他の人に批判的になる面も現れてきます。
わたしなら、こんないい加減なやり方では満足しないのに、なんでこの人達は手を抜いたようなことをしているんだろうと不満になるのです。

うわさ話


しかし、これは言われる側の人から見れば、それはたしかに理想だけれど、いつもいつも完ぺきにできるものではないし、無理して続かなくなるようでは、返ってマイナスになる場合もあるという言い分も持っています。
頑張りは認めるけれど、限界を見きわめることも大事なことだし、もうすこし柔軟にまわりに合わせてほしいと思ってしまうのです。
あるいは、そんなに頑張られては、自分がいかにもサボっているように見えるじゃないか、と思う人もいるかもしれません。

責任感や頑張りを認める一方で、頑固さやスーパーマン的なやり方、妥協の無さが不満でもあるのですね。

ですから、うまくいっている間は、まわりからも好かれたり尊敬される明るいタイプですが、無理をしてうまくいかなくなると悪い面が顔を出し、まわりもそれを感じとって反発を示すようにもなってしまいます。

このようなタイプの人が、いつも「もっと頑張らねば」と思うようになってきたのは、それなりの環境で生きてきたこともあるでしょう。
頑張っていい結果を出すことが、自分が認められる条件なんだという思いが、他の人よりも強くなってきたのです。
そして、頑張る人だからいい結果を出すことも多かったでしょうから、それを維持しなければならないという思いも強くなってきます。
いままで1番できた人は、2番手に甘んじることが許せなくなってくるでしょう。
どれだけ無理してでも、自分を満足させるだけの成果をもたらさないと不安になるのです。

そのような自分を認められるための条件を満たすためには、手を抜いたり、気を許すことを認めない性格を徐々に強化していきます。
自分に対する厳しさは、その裏返しで他の人にも同じことを期待し、そうでない人を非難するような面も現れてきます。

忘れてはならないのは、その優秀さや頑張りの裏には、「頑張らない私は認めてもらえない」という恐怖感が隠れている点です。

謝罪はちまき男性


このタイプの人は、もう少し柔軟に自分をみつめ、条件なしでも自分を認められるように方向転換を考えるとちょうどいいかもしれません。
自分の頑張りの裏にある恐怖感を認めて、自分の弱点を知ることで、もっと自分を楽にすることができるでしょう。

「必ずしも成果をあげるという条件付きでなくても、自分を認めてくれる人はいるんだよ」というように安心できるような機会を持つようにするのです。
そして、時には自分にも頑張りが続かなくなる時もあるのだと正直に認めることや、「今回はこれで許して」と軽口を言えるくらいの柔らかさを持つことです。
自分への厳しさがゆるんでくれば、他の人の不完全さもある程度笑って受け入れる余裕も出てきます。

次に逆の立場から見てみましょう。
このようなタイプに、どこかやりにくさを感じている方なら、まずこの人達の頑張りの裏には、「がんばらないと他の人から認められなくなってしまう」という恐れが潜んでいることを理解してあげることです。

そのように見れば、なぜここまで妥協しないで頑張り続けるのかという、自分には理解しづらかった点も少し理解できるようになるかもしれません。
別に、他の人を批判したくてそうしているのではなく、自分に対しても同じことを要求している人なんだとわかれば、少しくらいは許してあげましょうと思えてくるのです。

このようなタイプは、自分には負担を強いてしまう面もあり、必ずしも自分にはやさしくないのですが、その頑張りがあればこそ、時には歴史的に偉大なことをやり遂げるような人が生まれてきたということもあるでしょう。

人の長所や短所は、一面からだけ測るようなものではありません。
その人の短所があるからこそ、長所も発揮できるということもあるわけです。
短所を消したら、長所も消えてしまったということだってあるかもしれません。

トータルに付き合うことです。
自分自身に対しても、他の人に対しても。
長所に対しても、短所に対しても。

いつも長所ばかりの人間を目指さないで、短所も笑って認められるとき、寛容さが生まれます。
自分にも他人にも優しさを持てるためにはそのような余裕が必要なのです。


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老荘思想のコラム連載(11)

『COCORiLA (ココリラ) ?癒しのポータルサイト?』様にて老荘思想のコラムを連載中です。

【今月のコラム】

「現代社会と老荘思想(11)」 [2010/12/05]

「どうしてあんな立派な大木を見ようともしないのですか?」
師匠は答えます。
「あの木は役に立たない。無用の木だからだ。」
「立派な大木に見えるが、あの木で何かを作っても、すぐに腐ったりぼろぼろになってしまうから、誰もあの木を切ろうとしなかった。だから、あんなに巨大になるまで生き延びることができたわけさ。」

大木


役に立つことに突き動かされる私たちは、自分たちも役に立つ人間だということを証明することに躍起になるわけですが、それは裏返せば役に立たなくなったとき見捨てられ、自らも希望を失うことにもなるということになかなか気づきません。

人間社会の中で考えても、役に立つことだけに躍起になっていれば何かを見失います。
また、役に立つ力があるにしても、それをあえて見せない生き方が必要なときもあるのでしょう。
お寺の境内に生え出た大木は、自らの役割を人間の基準にも合うようにつくりだしたという見方も出来ます。
木が成長するスピードは一代の人間では見届けられないこともありますが、そういうスケールの中で自分の役割を見てみることも、人間の短いスケールでは見えなかったものを見せてくれるかもしれません。
いろんな見方をしてみることで、役に立つとはどういうことなのか、もう一度見なおしてみたいと思うのです。




【今までの連載記事】

「現代社会と老荘思想(1)」 [2010/02/15]
「現代社会と老荘思想(2)」 [2010/03/06]
「現代社会と老荘思想(3)」 [2010/04/10]
「現代社会と老荘思想(4)」 [2010/05/02]
「現代社会と老荘思想(5)」 [2010/06/06]
「現代社会と老荘思想(6)」 [2010/07/11]
「現代社会と老荘思想(7)」 [2010/08/14]
「現代社会と老荘思想(8)」 [2010/09/05]
「現代社会と老荘思想(9)」 [2010/10/09]
「現代社会と老荘思想(10)」 [2010/11/04]




以下のサイトで連載しています

癒しのポータルサイト:COCORiLA (ココリラ)




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流れに任せる/抑圧された自分の声を聞いてみよう

以前「自然のままで十分?」で描いた水泳の達人の話があります。

これは「荘子」の中にある話で、登場する人物は孔子と弟子と水泳の達人です。

凄い振動音で流れ落ちる雄大な滝、魚や亀でも近づけないだろうというその滝へ飛び込む達人。

孔子は、彼は自殺したのだと思い込み、弟子と共に彼を探しに行きます。
滝近くの下流の川に近づいてみると、平気な顔で泳いでいるその達人を見つけ、孔子は驚いて「どうして滝に傷つけられないなどということができるのですか」と尋ねる。

滝1


達人は答えます。

単に水の本質に従うだけです。
水の力は決して侮れないが、私はもう何年も知っている友人として水と付き合っているのです。
水がどうしたいのかを知っていますから、それに逆らおうとか、私の意志でそれを操ろうなどと考えないで身を任せていればいいのです。

水の流が私を深いところへつれて行く時には、それに逆らわずに行くところまで潜っていきます。
いつまでも落ち続けるわけではないのです。
そのうち上昇する流れの中にいる自分を発見するでしょう。
上昇する気配を感じたら、これまた逆らうことなく自分をその流れに任せて上昇するのです。

ところが、私たちがやってしまいがちなのは、水の力に引きずられて深いところに連れて行かれそうになると、これは大変だと思ってむやみに抵抗し、なにか出来ることはないかとでたらめにもがいてしまいます。
そのままどこまでも、深く深く落ちて行くと思ってしまうのです。

一方で、自分が上昇する動きに乗ったと感じ始めると、「こんなにうまくいくはずはない」と思い始めて、よせばいいのに疑いの心を持ってそれを妨げるような余計なことを始めてしまいます。

どちらにしても、流れに逆らおうとすれば、溺れてしまうことになるのです。

荘子がこの話で、タオイズムについて語ろうとしているのは、流れに精通してそれに任せられるマスターになることの勧めです。

タオイズムは、何でもかんでも受身で身を任せようと言っているわけではありません。
滝の勢いで引きずり込まれるときには逆らわないでいるというように、人間がいつ自然に従えばいいのかを見極められるように、人生を見つめることです。
流れに逆らわないでいる時と、乗っかっていけばいい時を見分けられるように、普段から感性を磨くことです。

感性を磨くというのは、新しい何かを取り入れることではなく、既に自分の中にあるけれど、それが出てくるのを妨げているものを使いこなせるようになるということです。

夢見る犬


私たちが意識していることというのは、ごく一部です。
いわゆる無意識と呼ばれているものは、私たちの中にある隠された感情や、経験から来る衝動などがうごめいている状態なのでしょう。

夢の中では、その一部の抑制が取り除かれるので、目覚めているときには意識しないような自分の衝動がなにかに象徴されて現れてきます。
そして、夢よりももっと奥には、さらに隠された感情や衝動が存在するのでしょう。

それらが意識できないのは、社会の中で生きる存在として、抑制なしにそれを表現しては問題があると考えたり、無意識に規制をかけているからです。
しかし、それらのうち問題があると意識できているのはごく一部に過ぎず、その多くはどうしてそうなったのか自分でも覚えていないような、矯正されたり教育を叩き込まれた結果なのです。

ですが、問題は抑制された衝動は、すべて社会に適応しないようなものではないということです。
ある人は、そんな抑制を持たないし、それを自由に表現している。
しかし、自分にとっては、それは怖くてできないことであったり、それは正しくない事だと思っていたり、あるいは、理由はわからないけれどやらないほうがいいのだと思っていることだったりするのです。

それらの中には、抑制せずに表に引き出して自分でもやってみるなら、より自分を満足させ充実感をもたらしてくれるものがあるはずなのです。

それは、素直に表現できる機会を与えられれば、自分に生きている実感をもたらしてくれますが、今まで通り抑制を続けるなら、そこにくすぶったままでいつか表に出たいと抵抗を続け、その結果なにか充実感が持てないと感じさせてしまうのです。

表に出られない衝動が潜んでいる時、私たちはそれを言葉で表現できない、よくわからない違和感といったかたちで感じるのです。

このような何か本物でない感じを持つ状態は、私たちに自由がなく、なにか罠にはまってしまったような感覚をもたらします。
理屈の上では、今時分は正しいことをやっているはずだと言い聞かせますが、でもそこには本当にやりたいことをやっていないような感触があるのです。

違和感を感じる時は、それが何かを振り返って、解放されたがっている自分を発見しましょう。

それらはまさに自然に任せて自分を動かせなくなってしまう理由の一つだといえます。

自然に帰る


自然の一部である衝動を、隠された領域に追いやってしまうから、感性がどんどん鈍くなってしまうのです。

滝の強大な水流に飲み込まれるように、自然は私たちのせこい思惑などあざ笑うかのような仕打ちをしてくることもあります。
それも自然の流れだと受け入れるつもりがなければ、自然の驚異にただ立ちすくむしかなくなるのです。
「災難に遭う時は遭うがよろしかろう」と受け入れるなら、それに続く上昇する水の流れに乗る機会も巡ってくるのです。

抵抗出来ないときには、身をまかせようという選択をできるようになることです。
タオイズムの抵抗しない生き方とは、「ただ自然に従っていれば、いつでも自分の望むようにことが運ぶようになる」と考えることではないのです。

自分も自然の一部として、必ずしも自分個人にとっては利益をもたらさない流れに巻き込まれることもあることを知っておくこと。
そこから抜けだそうと抵抗すべき時か、そうではない時なのかを見分けられるように、普段から自分の今までの経験を生かして感性を磨いておくことです。

それには、自分の隠されてしまった衝動とも仲良くしておくことです。
理屈ではいまのやり方が正しいと思うけれど、何かそうではいことを告げている自分を感じたら、時にはそれに賭けてみることも必要かもしれません。

それがうまくいってもいかなくても、そんな自分を断罪するようなことをしないこと。
評価の土俵に晒してしまわないで、そのままでうまく付き合っていくことです。

そうすれば、行き詰まった時も自然に返る道を忘れずにいることができます。

うまくいかない時期にも自然の一部であることから離れないで、上昇する時期を待つのです。

逆らっても無駄なあがきにしかならないことには、抵抗せずにじっとしていましょう。
期待以上の幸運を感じる時も、怖がらずにその中の一部としてとどまりましょう。

わけのわからない人には、相手をどうにかしようと思わずに、自分のペースを乱されないようにかかわりを持たないことです。

自分のコントロール出来ないことが思ったように運ばないときは、自分では何も出来ないのですから、そんなことにエネルギーを使わずに放っておくことです。
あなたがやきもきしたところで、何も変わりません。

そんなことに神経を使わずにとっておけば、動ける時が来たときに、一気に動き出すためのエネルギーを取り出せるようになります。
そして、上昇する流れに乗ったなら、躊躇しないで自分もその一部になって動くことです。

怠惰とかなまけものという言葉がありますが、本来人間はこれらの言葉で表されるような状態にはならないものではないかと思います。

そのように見える状態には、必ずそれなりの理由があるのです。
口ではやると言っておきながら、そして本人もやるつもりだと意識はしているけれども、体が言うことを聞かないといった状態があります。

それは、たとえば心の奥では、それをやらないほうがいいと思う理由を持っているのかもしれません。
世間的な理由からは、それをやることが望ましいとされ、自分でも認めていながらも、その圧力に抵抗して主張している自分がいるのです。
あるいは、気力はあるのに動けないときは、身体が拒否しているのかもしれません。
疲れていたり、どこか身体に不具合が生じているのかもしれません。

そんな時もあるものだと認めて、いまはおとなしくするべき時だと思えるなら、罪悪感を持たずに堂々と怠けものになったほうがいいのです。
何も出来ないのに、出来ない自分を責めるのは何も生み出さないし、余計に復活できなくしてしまいます。

滝の勢いのある流れには逆らえません、浮き上がるときに動けるように身を任せてみるのです。



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口中の斧 /人の悪口は魅力的?

 *口中の斧(句・ウダーナヴァルガ8章)

 人がうまれた時には、実に口の中に斧が生じている。人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである。

 善い言葉を口に出せ。悪い言葉を口に出すな。善い言葉を口に出したほうが善い。悪い言葉を口に出すと、悩みをもたらす。

 他人が悪い言葉を発したならば、言い返すためにそれをさらに口にするな。同じような悪口を口にするならば悩まされる。聖者は悪い言葉を発する事がない。愚かな者どもが悪い言葉を発する。

仏典? 釈迦か?
http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/mutoku/18_15shaka%20-ka2.html



嫉妬などから人を中傷するような言葉を使っていれば、いつかそれは自分に向けたものになって返ってきます。
道徳でそのように言われているから悪口を言わない方がいいわけではありません。

それは、まさに自分自身を、同じことを人から言われる人間に変えてしまうからです。
それが「人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである。」ということです。

鎌を持つ悪魔


しかし最近のマスメディアで流れていることといったら、次々起こる不祥事と、スケープゴートへの中傷に溢れています。
マスコミ側にしてみれば、そのような中傷を煽るような番組を流せば、確実に視聴率が上がると計算できるからやっているということのようです。
本当なんだろうか、マスコミが仕組んでいるんじゃないのかと疑いたくもなりますが、実際視聴率に関してはそういった現実があるようです、

いずれにしても、マスコミが流し、そればかり聞かされる視聴者はその気になり、さらに見たいからと視聴率でマスコミをそのように仕向けてしまうという、お互いが増長しあっているところもあるのでしょう。

そして、その根底にあるものは、人は悪口に惹かれやすいということです。

しかし、退屈な現実を忘れようとして刺激的なものを取り込みすぎれば、いずれは自分を害することになるのです。
子どもにおやつばかり食べさせてはいけないのと同じような原理ですね。

たしかに人の悪口をみんなで言ってるぶんには、ストレス解消になるように錯覚するものです。
ドラマで散々悪いことをした人が、最後にひどい目にあうのをみて溜飲を下げるということもありますが、それは自分がかかわらないところで起きているからです。

自分が当事者になって誰かに復讐しても、ドラマと違ってそれは決して痛快なものではなく、後味が悪いばかりか今度は自分自身を責めるようになってしまいます。

「あの男がやったことは確かにひどいが、でもあなたのやっていることもそれと同じではないか」と諭されて復讐を断念するような場面もありますね。

他人をおとしめても、決して自分は心から満足することはないし、穏やかな気持でもいられなくなるように作られているようです。

自分がやったことは、いつか自分に返ってくるのです。

ですから、マスメディアに同調して、悪者を吊るし上げるようなことには加担しないことです。
さらにひどいのは、その人が一転して悲惨な状態になってしまったとき、そこまで追い詰めたのは誰だといって、今度は別の標的を探すようになってしまうことです。

嫌悪を示す女性


「私はこの人間が嫌いだ」と思うのはまだいいでしょうが、「だからこの人間が不幸にならないと気が済まない」に変わってしまうと要注意なのです。

そう思うとき、自分の「口中の斧」が発動し、自分自身を切り裂いてしまうことになると仏陀は説いているのです。

視点を変えてみれば、人を中傷する言葉を言いたくなるのは、自分の中にそのような自分がいるからです。
自分に嫉妬する心があるから、悪口を言いたくなってくるのです。

ですから、ただ表面的に「悪い言葉」を使わないようにしようと思っただけでは、問題は解決しないでしょう。
そんな時は、逆に自分が悪口を言いたくなっているのに気がついたら、そのようなことになった自分の心の動きをさかのぼってみることです。
そこにあるのは、結局自分を責める気持ちなのです。
自分よりも相手の方がいい結果になった、だから自分はダメだから自分を罰しないといけない。
そして自分ばかり責めるのがいいかげん苦痛になってくると、今度は相手に矛先を向けることになるのです。

そのようなやり方で責任をたらい回しにしても何も解決しないのです。
唯一解決する方法は、自分を責めるのをやめることです。
それは同時に他者を責めることもしなくなるということです。

誰が悪いのかを探し出すようなことをしていれば、おとなしくしていた「口中の斧」を蘇らせることになる。
相手を中傷したり、逆に自分を実際以上に見せかけようとするのは、自分で悩みの種を作り出すことにつながるのです。
それよりも、自分が言われて嬉しい言葉を人に投げかけましょう。

拍手


また、不用意に世間の風潮に流されて、人を中傷してしまうのは、決して軽々しく扱うようなことではないと思います。
自分も傷つけるし、社会がそのように流れてしまうことに加担してしまうことにもなるからです。
自分だけは、そんなことに加担しないでいましょう。
刺激的で魅力を感じても、甘い罠にははまらないようにしましょう。
それが穏やかなあなたの心を「口中の斧」から守ってくれるのです。


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私は人の先には立たない

私は三宝を大事にしている。 老子

我に三宝有り
持して之を保つ
一に曰わく慈
二に曰わく倹
三に曰わく
敢て天下の先と為らず

老子道徳経 第六十七章

つまり三宝とはこの三つです。
「慈」(人を愛すること)
「倹」(必要でないものを欲しがらない)
「人の先に立たない」

宝箱


この中で、今回は「人の先に立たない」ということを考えてみたいと思います。

もとの老子のことばをどのように解釈するかは、色々意見が分かれるようです。
実は、道徳経には戦争に関係していると思われる文章も結構出てきます。
軍を率いるリーダーの資質として、リーダー面して先に立たずに、全体を見守る役割を忘れてはいけないといった意味にも取れます。
あるいは、政治を行うものは、民衆が自分たちの手柄で繁榮できていると感じられるように、後ろに隠れて自分の力は見せないでいるといった文章が他の箇所に出てきますが、それと関係すると取ることもできるでしょう。

しかし、老子が個人的な生き方として、三つの宝を大事にしていたと考えてもおかしくはないでしょう。

それらはともかくとして、もう少し自由にこの言葉から想像を膨らましてみましょう。

「人の先に立たない」「他の人の後ろからついていく」とは、現代の世の中においては、非常に消極的でやる気がない人間のように思われるでしょう。

いまの世の中は、一方で競争の害を説きながら、実態としては基本にあるのは競争に他ならないと言ってもいいでしょう。

自由に競争して構わないというのが、前提にあるわけです。
ですから、競争できるのにそれに参加しない人間は、置いておかれても文句は言えないと言わんばかりです。

受験戦争


子供の頃から「お受験」などと言って競争にさらされていきます。
親も競争に勝って人よりも上の地位に立てる人間になってくれることを密かに願います。

必要となれば、人をけ落としてでも自分が勝つことを厭わないのです。

これらのことは、おおっぴらに言わないまでも、暗黙の了解のようにみんなが承知しています。

それが常識になっているので、競争に参加することを尻込みする人間は低く見られたりするわけです。

しかし、これらの前提をとっぱらって、「私はあえて後ろから行く」と宣言してみたらどうなるでしょうか。

普段の生活で「おさきにどうぞ、私は後からでいいです。」と言ってみたら。

自分が真っ先にレジを済ませたいと、空いているレジを虎視眈々と狙うような真似をせずに、近くの列に並ぶようにする。
こんなことで神経をすり減らしては勿体無いでしょう。
自分が先に行きたいと焦っている人は、先に自分の番になったとしてもどこか不機嫌そうじゃないですか。
一番長い列に並んだからといって、せいぜい10分か20分しか違わないんだし、そんなに急いで何を自分は目指しているのかと考えてみる。
その程度の時間を無意識に気にするようになってしまった自分をこそ反省してみるのです。
そんなに時間に余裕のない生活を望んでいるのかと。
こんな馬鹿馬鹿しいことに神経をすり減らす必要がどこにあるだろうかと。
そんなふうに思ってしまえば、いくら後回しにされたって腹が立たなくなってきます。
イライラするのはもうやめたと決めた途端に、同じ景色も違って見えてくるのです。

バーゲン


「先に行かないと自分の分け前がなくなってしまう」
こんな考え方も、自分を急き立てる要因かもしれませんね。
これを推し進めると、新発売の製品を一番先に買いたいと思って徹夜で並んでしまうのかもしれません。
しかし、ほとんどの場合短いブームが去ると、その商品は時代遅れのものとなって、安くていつでも変える商品にかわってしまうのです。
それに必死の思い出獲得した戦利品も、その多くは使われもせず置きっぱなしになってしまう。
使い切れないほどほしい物を集めても、実際にそれを楽しむことはないのです。
「もう使わなくなったからあげるよ」と言われて、それを受け取った人がそれを思う存分楽しんだとしたら、どちらが満足のいく生活なのでしょう。

競争することも、それが自然な流れで発生しているうちは、楽しめるし意味もあるのです。
しかし、人間の思考というのは一度「競争するモード」にセットされてしまうと、必要なこともそうでないことも関係なしに、勝つ方法をひたすら追求してしまうのです。
普通なら、こんなことに勝ち負けをこだわっても仕方ないと感じるようなことも、「競争モード」にとりつかれると何でもかんでも、ただ勝たねばならないと思ってしまいます。

小さな子供とゲームをしたとき、勝たせてあげようと思わないですか?
それとも、おとな気なく自分が勝たないと気が済まないですか。
もしそうなら、不必要に競争に囚われているのかもしれませんね。

人と競争をしないことで、自分のペースを維持できます。
どっちが上でも私には関係ないと思えば、下手に神経を使わなくても済むのです。
そのようにしていれば、なんにでも勝ちたがっている人の余裕の無さが見えてくるし、哀れにさえ思えてきます。
本来競う必要がないことが、はっきりと見分けられるようになってきます。

競争に生きる人は、たとえ今自分が上にいても安堵感はありません。
今の地位を失うのではないかと、いつもビクビクしていなければなりません。
昨日まで1位にいた人は、今日の2位が許せない。そこに何ほどの違いもなくてもです。

競争に明け暮れている時というのは、熱病にかかっているようなものです。
熱が冷めれば、そこにたいした意味はなかったことが見えてきます。
しかし、その時はそれが死活問題だと映るのです。
自分の命を削っても、それに勝たねばと思ってしまうのです。
そのような経験がすべて意味が無いとは言えないでしょう。
しかし、それがすべてで、これからもずっとそうだと思うようなら、ちょっと考え直したほうがいいのです。

相変わらず、いじめが問題になっています。
いじめの問題は、先日のモラハラの問題とその根っこは同じようなものに思えます。
自分が勝たないと生きていけないから、弱い立場の者を徹底して攻撃しようとするのです。
その根底にあるのは、競争に勝つものだけが生き残れるという考えです。
いじめを何とかして欲しいと訴えながら、一方では他の子よりもいい成績を願う親。
その根底に共通してあるものが見えているでしょうか。

なにかとりとめがなくなってきましたが、話を戻しましょう。

「お先にどうぞ、私は後からでいいです。」と言ってみませんか。
不要な競争だと思ったら、自分から先に負けてしまって後ろに立ってみたらどうでしょう。

勝ち負けの結果を普段から他人に見せないようにする。
誇らしげに見せることが、また競争に自分を引き戻してしまうからです。

そこで感じる、ほっとするような安堵感、
久しく感じていなかったという人もいるのではないでしょうか。




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タオイズムは努力しない

「タオイズムは努力しない」とはどういうことでしょうか。

タオイズム(老荘思想)と仏教や禅は深い関係にありますが、仏教では例えば五戒(ごかい「不殺生」「不偸盗」「不邪淫」「不妄語」「不飲酒」)といわれる戒律があったりするのに対して、タオイズムはそのような戒律的なものはなく、むしろ不自然な足かせをはめることを嫌うのです。

また努力しなければできないようなやり方は、タオ的ではないと考えます。

座禅


しかし、努力も勧めないし、「無為」などといった訳のわからないことを唱えるタオイズムは、何も動こうとしないで、怠惰にだらだらしていることを説いているのではないかと思われるかもしれません。

タオイズムが勧めるのは、たしかに努力がなくシンプルな無為で人生を送るということです。

それは、言い換えれば自然(タオ)から外れた、人為的なことを排除してシンプルな自然さを取り戻すということです。

老子は、タオの道は広く平らなで歩きやすい道であると表現しています。
そして、「けれども、人は広い真ん中を通らずに横道を通りたがるのだ」という意味のことを言います。

道を歩くということに例えれば、タオイズムが唱えるのは、広い道を一歩一歩堅実に歩むことです。
それは地味で堅実なあゆみであって華々しさはないでしょうが、しかし確実なあゆみなのです。

そして、一歩足を踏み出せば、次の一歩足を踏み出すという繰り返しは、自然な動きであって努力のいらないものだと考えるのです。

例えば、私たちは身体の内部で、胃や腸といった内臓がどのような働きをしているのかを意識しません。
それは、確実に動いていなくては困ることですが、しかしそれを意識したり、努力して動かしているとは考えないでしょう。

また、少し特殊なのは、呼吸です。
同じように無意識に働きもしている呼吸という活動ですが、意識して呼吸しようと思えば、それもまたできるのです。
そのような唯一とも言える意識して制御が可能な体の働きがゆえに、禅やヨーガやリラクゼーションなどではその働きを精神の落ち着きを獲得する導入に使うことを考えます。

ですが、意識してもできるけれども、呼吸も自然な働きのひとつであるといったほうがいいでしょう。
そして、一歩一歩あゆむという活動も、同じようにそれが自分の一部となってしまえば自然な働きになるのです。

他にも方法があるのではと、あれこれ目をそらして横道を歩こうとしなければ、ただ黙々と一歩一歩あゆむことは意識しなくていいほど自然なものとなってしまうでしょう。

そのような自然に任せる動きをすることは、努力してやることではないといってもいいでしょう。
そして自然な勤勉さに従うことは、努力であったり退屈なことではないのです。

それに対して、横道にそれたり、人為的な方法で楽をして進もうと考えるのはタオから外れたやり方であると考えます。
また一方で、歩き方に決まりを設けて「正しい歩き方」を守ろうとさせるようなことも、タオイズムの流儀ではないのです。

自然な働きが自分の一部となってしまえば、努力することもなく、簡単で気苦労もない歩みをすすめることができるのです。

その意味では一歩一歩進むという勤勉さも、ごく自然なことであって、わざわざ戒律を持ち出すようなこともないと考えるわけです。
「大道廃れて、仁義有り.... 道徳経第18章」というように、自然(タオ)から外れて道を見失うから、仁義や孝慈といったことを改めて持ち出さなければならないのだというわけです。

ari.jpg


広い道を一歩一歩あゆむ。「千里の行も足下より始まる 道徳経第64章」
しかし、このような堅実な歩き方を面倒に思ったり、横道を探したくなるのも現実のようです。

一歩一歩堅実に歩くのが確実だと思っていても、なにかもっと早く進める方法があるのではないか、もっと楽に未来を約束してくれる妙法はないだろうかと考えたくなるのです。

そして現代の世の中はまさに、そのような楽な方法を探したり、誰かにそれを次々に見せられて右往左往しているといったイメージを持たないでしょうか。

私たちが日頃せっせと努力していることの多くが、横道を探すことだったり、刺激的で魅力的に見える新しいおもちゃを求めることだったりするのです。

真ん中の道を行くことは、退屈で魅力がないと感じがちです。

それと比べて未来を保証してくれるような、新しい未知のおもちゃは、あやしげではあってもひどく魅力的に見えるものです。

「簡単にできそうだし、努力も要求しないようだ。そして効果を高らかに保証している。」
同じことが続くつまらない日常から逃れるには、ちょっと覗いてみてもいいのではないかと思ったりするのです。

しかし、試してみたらそのような方法は結局効果がないし、元の木阿弥だったということになるのです。
こんなことなら、地道に歩いていれば少しは前に進めていたのにとその時は後悔するのですが、しばらくたつとすっかり忘れて「こんどこそ間違いないのでは」と希望的観測で動いてしまいます。

このような新しいおもちゃは、最初は魅力的に見えても、すぐに他と変わらないことに気づきます。
そして、やっぱり地道にやっている方が確実だったようだと思い始めるのですが、ここまで来たらひょっとしてもう少しで大当たりするのではないかと期待の方を信じたくなって残念な結果を見るまでやめられない。

「この不安を我慢して信じていれば、人よりもいい目を見られるかもしれない」
そんな考えに根拠はないのですが、人の射幸心をくすぐるのです。

またこのようなどこか正当さに欠けるやり方は、やっている間には不安がつきまとうし、終わったあともうまくいった、いかないに関わらずどこか後味の悪さを感じるものです。

いい加減に、横道にはうんざりしてきた。
もっと堅実で、余計な不安を持たないやり方に戻りたい。

そのような気になったら、シンプルなやり方に戻るのがいいでしょう。

歩く人シンボル


自然な働きにあわせて、堅実にありそうもない期待は持たずに進むやり方。
それを自分の一部としてしまえば、努力することもなく、簡単で気苦労もない歩みをすすめることができる。
それがタオイズムの流儀なのです。

そしてそのような理由から、タオイズムは努力を必要とするやり方をやめなさいというのです。


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