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夢について

夢について思いついたことを書いてみようと思いましたが、「夢」でネット検索してみると「夢占い」「夢診断」といったキーワードがずらっと並んでします。
なんとも期待したより、自分の側の働きかけを感じない受動的な雰囲気を感じてしまいました。
夢のないというか、夢を持てない世相を示しているのでしょうか。

これと並んで、「運勢」とか「運がよくなる」といった話題が人気があるようですが、どうしてこんなに運頼みの世の中になってしまったのだろうと考えてしまいます。
これも自分の力ではどうにもならない不安な社会情勢を反映しているのでしょうか。

ところでこれから書こうとしているのは、寝ている間に見る夢の話ではなくて、未来に対して自分の思い描いている「夢」の話です。

未来の可能性を狭めないためには、夢を思い描くのに出来るだけ制限を設けない方がいいでしょう。
こんなことは無理だと制限する自分を少し黙らせて、出来るだけ自由に自分の想像をふくらませることです。
どうせ夢を描くなら中途半端に終わらせることはないのですから。

しかしその一方で、夢を絵に描いた餅に終わらせないためには、それを実現するために自分が何をすればいいのかを真剣に考える必要があるわけです。
そして、この現実に対する姿勢、立ちはだかる困難にどう立ち向かうかは、先程の夢を思い描くときとは全く異なるものにならざるを得ません。
自由に想像を遊ばせるのではなく、今度は批判的な見方や現実的な対応が必要になってくるからです。

夢見る犬


ですから夢を描くことと、その実現に向けて動くことは、同じライン上で考えていてはうまくいかない様な気がします。
その意味では、子どもに対して「大きな夢を持ちなさい。そして困難には負けずに頑張りなさい。」というように2つのことを同時に伝えることは注意しなければなりません。

子どもにとっては、どちらも経験のないことなのですから、2つを一緒に言われるとどうしても同じ線上でこれらを処理しようとしてしまうからです。
「夢も頑張って持つよ。諦めないでがんばるよ。」とけなげにも欲張って頑張ろうとすると、実際には何をすればいいのかがわからなくなる可能性があります。

夢を持とうとすることは自由に無制限に発想することですが、現実の困難に負けずに頑張る方は、時には自分のやりたいことも諦めなければならないという逆の発想も必要になるわけです。

どちらも充分に経験のない子どもからすれば、2つを満たそうとすればどちらかを犠牲にしなければなりません。
子ども時代であれば、無理に現実的なあきらめを持つよりは、夢を大きくふくらませる方がいいのかもしれません。

あまり早くから、実現可能性に目を向けてしまえば、現実的になりすぎて「親を見ればボクの将来知れたもの」と言う発想になりかねないのですから。
親の期待ばかりふくらませて、子どもに親の思いが伝わらないと嘆く前に、夢を描く過程と実現の過程には違いが在ることをきちんと教えているのか、振り返って見る必要があるように思います。

ところで夢を描いて、いざそれを実現しようとするなら、そこから先は現実的に自分が動く必要があります。
自分が動いて行く中で、その過程として夢に向かって少しずつ進展があるのが本来のあり方でしょう。
そうなれば、当然その中では自分が夢のために代償を払っているという実感が伴うはずです。

夢見る象


ところが、夢を持つことばかり熱心で、膨大な夢のリストを作り上げながら、何ひとつ実現しないという人もいるものです。
それは「夢を持てばそれはいつかかなうのだ」という思い込みだけがあって、実際の自分はちっとも変化しようとしていないということです。
ただ夢のリストを作って、毎日眺めていた所で、何も変化するわけはありません。
夢を思い描く過程と、実際に自分が働きかける過程とは別のものであることがイメージできていないからそういうことが起きるのです。

自分が夢の中の1つを実現しようと思うのなら、それは1つを選択して、他のものは捨てるという選択を行わなければなりません。あれもこれも夢を叶えたいと思うのは単なる願望であって、実現しようという意欲は見えてきません。
また、実現に向けて動く中では、ある程度目標以外のものを犠牲にして、目標に向けてエネルギーを集中しようという自分の変化を感じるはずです。
選んだものを優先し、他のものを犠牲にするという自分の関わりや、代償を払っているという実感が伴うはずなのです。

そのような変化が何もないとすれば、それは「夢」を夢見ていることでしかありません。
そういう人は、実現しない方が夢のリストは綺麗なまま取っておけますから、それを大事に眺めて満足していることになってしまうのです。
夢ばかり追って夢のリストマニアになってしまわないことですね。

ところで、夢実現ではなく夢の話の全般を書いているわけですから、ここでがらっと視点を変えて、「夢なんて本当に必要なものか」ということを考えて見たいと思います。

夢を実現するというのは、「ある時点で決めた目標を期待通りに実現する」ということに他なりません。
しかし期待した通りにものごとが起こることは、そんなに素晴らしいことなのでしょうか。

極端な例で考えるなら、未来を予測する方法があって、自分の望みが叶うかどうかが予めわかったとしたら、それがどれほどありがたいものなのかということです。

それが当たり前になってしまえば、たとえばレストランでオーダーしたメニューが期待通りに出てくるのと変わらないことになってしまうわけです。

いや、どうなるかわからないことが期待通りに叶うからありがたいのだと言われるでしょう。
確かにそうなのですが、実現することに価値があるのなら、別に期待通りでなくとも実現さえすればいいという考え方も出来るでしょう。

あるいは、夢を叶えるとは、将来を先取りしようとすることになりますが、過去の時点で、自分の将来を決めてしまうことが絶対的にいいことだとは言えないのではないでしょうか。

自分の夢というのも当然変化していくものです。
変化に合わせて方向を切り替えることも同じように大事なことでしょう。

あまり夢にとらわれすぎない方がいい面もあるわけですし、これを実現することに命をかけるとまで思うことには、それだけリスクが伴うということを考えておかなければなりません。
うまくいけばいいのですが、「他の事をすべて犠牲にしていて、突然不可抗力で実現が不可能になったらどうなるだろう」ということも考えた方がいいわけです。

目標を持つ男の子


別にこんなことを言ったからといって、夢を実現しようと思っている人に水を差すようなことを言いたいわけではありません。
たしかに、どうなるかわからないことにチャレンジして実現することの喜びは、他では変えられない喜びがあることも確かです。

分散した小さな実現の集まりと、1つの大きな夢の実現、どちらに重点を置くかという選択もあるでしょう。
また、自分の人生全体のバランスを考えて、どこまで力を注ぐかという選択でもあるのです。

それからもうひとつ考えておきたいのは、自分が望んだことだけでなく、その過程では副次的に起きてくること、実現していくことがあるはずです。
あまり特定の夢にとらわれすぎることは、そのような過程を見る余裕を無くすことにもつながります。

とりたてて、これといった社会的に価値のあることを為し遂げることはなかったと思っていても、他の人に与えた影響は、もしかしたらあなたのあずかり知らぬところで、とても価値のあることを為し遂げているかもしれません。

夢の実現とか、成功とかいった言葉にあまり巻き込まれないようにすることも、ひとつの生き方です。
それは、その人の経験や年齢にもかかわることでしょう。
若いうちから夢を捨てたり、挑戦を避けるのはもったいないことのように思います。
一方でいままでそこそこやり遂げたことがあるという人なら、引退して別のことに興味を向けることも出来るでしょう。

まだいろいろ書きたいこともありますが、拡散しすぎてまとまりがなくなりそうなのでこの辺にしておきます。

最後に、どこか「運だのみの夢実現」に傾いているような気がする昨今の風潮ですが(気のせいであればいいのですが)、そんなことに惑わされて自分を見誤らないようにしたいものだと、ちょっと気にしてみたりするのです。


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眼明らかなれば、途に触れて皆宝なり

心暗きときは、すなわち遇(あ)うところ、ことごとく禍(わざわい)なり
  眼(まなこ)明らかなれば、途(みち)に触れて皆宝なり

空海「性霊集」



自分のこころが落ち込んでいたり、疑心暗鬼になっていれば、その人が見る世界は危険がいっぱいの不安だらけの世界になってしまいます。

しかし、その同じ世界、何も変わっていない世界も、自分のこころが清らかで澄んでいれば、見るもの聞くものがことごとく自分を豊かにしてくれる素材に見えてくるものです。

あなたが他人を疑っているとき、まわりにいる人はあなたを騙そうとする人に満ちあふれているように見えます。まったく油断のならないのがこの世の中であると感じるのです。

詐欺セールス


あなたが自分ばかり損をしている、自分ばかりこき使われていると思っているとき、まわりの人は楽ばかりしている様に見えますから、あなた自身の望むこともどうやってサボるかというずるい考えになってしまいます。
実際は、自分が手を抜こうと考えているから、まわりの人が同じことをしている様に思えるという順序なのかもしれません。

あなたがうまく人を操ることができれば、利益を上げるのは簡単だと考えていれば、まわりは簡単に騙されそうな人達に見えてきます。
しかし、そんな考えにとりつかれているあなたは、気がつくと詐欺まがいの話に乗って、自分が騙されていることになるのです。

まわりが敵ばかりだと感じている人は、その人を助けようとしている人も拒絶してしまいます。

番犬は見知らぬ人に出会えば吠え立てますが、敵ではないことがわかれば攻撃をやめるのです。
もはや排除しなければならない存在ではなくなるからです。
やたらと吠えようとしている自分に気づくときはないですか。

利口そうな犬


一方で、あなたが世の中の人を信頼できているとき、いまの現状がうまくいっていなくても、そのうち何とかなるものだと世の中を信じることが出来ます。

あなたが被害妄想に陥っていなければ、他人から批評も自分へのアドバイスと聞き取ることが出来ますし、応援の言葉は何か企んでいるなどと思わずに、素直に賞賛として受け取る事が出来るでしょう。

周りにいる人達は、すべて自分と同じチームの仲間だと信じることができるのです。

そんな濁りのない心の眼でいるとき、たとえつらい出来事に出会っても、自然の流れの中での一つの変化でしかないと受け入れる事も出来るでしょう。

それは、自分の都合のいいように解釈しようというような、小手先のごまかしとは別のものです。
比較することで「自分の方がまだましだ」と考えるような、相対的な解釈でストレスをかわそうとするやりかたでは、同じことが続いたりすればすぐに耐えられなくなってしまいます。

相対的な見方ではなく絶対的な意味で、嬉しいことを嬉しいと感じ、悲惨なことはそのまま悲惨さを受け取るのが「眼明らかな」見方だと言えるのでしょう。

いまの自分のこころはどのような状態でしょうか?

もし暗さが見え隠れしていると思うのなら、自分の中の明らかな眼を使うことを考えましょう。

自分の世界の見え方を裏返してみれば、その暗さの原因はすぐに見つかるでしょう。

しかしその原因を取り除こうというやり方は、多くの場合効果を生み出しません。
原因となっている自分と同類の自分がいくら考えても、同じ場所から外を眺めていては、抜け出すのは難しいからです。

そのような見方をしている自分を、きっぱりと切り捨てて、自分の「明らかな眼」を使おうと決心することです。

手垢にまみれていない新鮮な視点から、まっさらな世界を見直してみましょう。

あなたのこころが映し出された結果である「禍」と、現実の「禍」は区別しなければなりません。
いつもあなたを恐れさせているのは、現実の「災難」ではなく、あなたの想像が作りだした架空の「災難」なのです。

そうすれば、かつては疑いを知らずに見ていた希望に満ちた世界は、今もそこにそのまま存在していることを発見できるでしょう。


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無条件のやすらぎ/正直さ


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無条件のやすらぎ/正直さ

瞑想とは精神を一切の不正直から自由にすることである。
不正直の原因は思考にある。
正直になろうとする思考の試みは、何かとの比較による相対的なものであり、それゆえ不正直をまぬかれない。
一切の比較は逃避の過程にほかならず、それゆえ不正直を生むのである。
正直とは不正直の対極にあるのではない。
それは何らかのパターンに従うことではなく、あるがままの実相を全的に理解することである。
そして瞑想とはそのような正直さの、沈黙における運動である。

Europe9 P.197
クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔 (サンマーク文庫) ジッドゥ クリシュナムルテイ (1998-09)



正直な自分の感情や考えは、思考によってはもたらせません。

私たちは正直な自分を取り戻そうというとき、「私はこんなところが正直でなかった。だからこれをやり直そう」と考えてしまうのです。

しかし、正直でない部分をいくら探して取り除こうとしても、正直さは見つかりません。
正直でない自分を掘り起こしている行為自体が、すでに思考の働きの中に入り込んでいることだからです。

「正直とは不正直の対極にあるのではない。」

正直さは、探し求める所からでもなく、時間をかけて思考を巡らすわけでもなく、一切の条件をつけないでも取り出せるものであるはずです。

では不正直な自分をチェックして正直さを求めようとしているとき、そこに登場してくる自分とはどんなものでしょうか。

私たちが、「これが正直な自分だ」とか「これが正直な私の考えだ」「これが私の正直な感情だ」といっているときの、その実体とはどんなものでしょうか。

・人生のどこかで取り込んだ考え方、生き方、哲学といったものを遵守しようとする自分。

いまの自分のやり方を正しいと思いたい。それにはその同じ線上にあるさまざまなやり方を否定するわけにはいきません。
たとえば「私はどんなときも子どもの意見を尊重します」という方針を選択します。
しかし、子どもはどんなでたらめで不合理な意見を言い出すかも知れません。
ばかばかしくて聞いてられないと思っても、相手の意見を尊重するでしょうか。
あるいは、その意見を認めたら子どもが危険な目にあうかもしれないとわかったら、そんな方針を崩さずにいられるでしょうか。
正直に反応するなら、断固としてNOを言わなければならないかも知れません。
方針にとらわれている自分の中にいる限り、自分の本当の正直さを見つけることが難しくなるでしょう。

・あなたの考え方に真っ向から反対してくる人や、あるいはもっと単純にあなたが嫌いな人の意見に相対するときの自分。

もし正直に考えれば相手の考えの方が正しいと感じたとしたら、あなたはどのように反応するでしょう。
あなたは正直に相手の考えの正しさを認められるかもしれません。
あるいは、それを上回るような自分のプライドがそれを認めることを拒否するかもしれません。
そしてどちらを選んだにせよ、そのような自分の信念がからんだ思考を経由して取り出した「正直さ」とは、あるがままの自分であることは疑わしいのです。

・正直に言えば反対だけれど、あきらかに相手の意見に従った方が自分の利益になるという場面での自分。

典型的なケースは、自分が組織に所属する場合の行動です。
会社員であるあなたは、やりたくなくても会社の方針であれば従わなければなりません。
どこまでなら、自分を曲げても会社に従うかは人それぞれ、さまざまでしょう。
また、時には「これは自分の考えを変えたわけではない」という説明を考え出して、自分も会社の方針も正しいと証明し自分を納得させなければなりません。

・誰かと喧嘩して意地を張っている自分

正直な自分に無条件に従うと決心したとき、すべてのわだかまりは消えるのですが、それはなかなか難しいのです。

けんかする子ども2


考え出すともっと色々ありそうですが、このようなさまざまな自分を抱えている私たちは、正直な自分を見つけたいと思っても、なかなか至難の業であることに気がつくでしょう。

気づかないうちに、このようないろんな自分の中の1つが前面に押し出されてきて、これこそが本当の自分だと言い張ります。

「正直な自分を見つけたい」と思っても、思考に巻き込まれている限りすぐに迷路にはまり込んでしまうのです。

それでは正直さを探し求めることは、いつも無駄なあがきになってしまうのでしょうか。

おそらく「探し求める」などという言葉を使っているかぎり無理な様な気がしませんか。

「正直になろうとする思考の試みは、何かとの比較による相対的なものであり、それゆえ不正直をまぬかれない。」

「探し求める」ことは、思考に入り込んで、「あれじゃない、これじゃない」とか「こちらの方が本当の様な気がする」といった、比較の世界に入り込んでしまいます。

もし本物の「正直さ」を取り出せるとしたら、それは努力を放棄したところで、どんな条件もつけないでいい状態で、しかも一瞬にして取り出せるものの筈です。

なぜなら、努力とは思考に他ならないし、そこに条件が必要であるというのも同様です。
また、時間を必要とすること自体が、思考の働きであることを物語っているからです。
時間とは思考がたどってきた痕跡にほかならないからです。

そんなさまざまな思考を放棄した状態で、ただ「正直」な自分を感じようと思っただけで、直ちに得られるのが本当の正直さなのでしょう。

何も用意せず、どんな力みもないところで、「正直なところ自分はどう思うか」を問いかけられたとき、そこに現れるのがありのままの正直な自分といえるでしょう。

あえてつかまえようとすると非常に難しいけれど、幼子のような正直さで求めれば直ちにつかめるのがそれなのです。

王子様


そして、そんな正直な自分をみつけてそこに留まるとき、あらゆるまわりの問題は消え去ります。
それはどんな思考も絡んでこないからです。
そしてあらゆる不安も一瞬で消えてしまいます。
そんな体験こそが、本物の自分にあえたという感覚を与えてくれるのです。

それを得られないために、ああでもない、こうでもないと自分を捜し回っているのではないですか。
それは、しかし思考の中で探してもいつまでも、見つかるはずのないものです。

それが一瞬でも自分で見つけられたと感じられ、またそこに戻っていけると思えるとき、どんなにまわりの現状が問題だらけでも安心できる自分を発見したわけです。

そして、それは特殊な訓練を積んだ人にだけ発見できるようなものではなく、だれもが今までに体験している感覚であるはずなのです。

ただ私たちが、思考の世界に入り込んで、それが自分だと思い込んでしまうから見えなくなってしまうわけです。

なんでもないことだよ。
心で見なくちゃ、
物事はよく見えないってことさ

星の王子様



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自分を説明しようと思わないこと2


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自分を説明しようと思わないこと2

あなたは朝眠りから覚めるとまず何を考えるでしょうか。

たとえば、いま自分がどこにいるかを思い出そうとします。
自宅で寝ていて朝になって目が覚めたんだとか、今日は旅行に来ていて、いまは旅先の宿にいたんだと思い出すといった具合ですね。

また、そのあとには、いま自分はひとりでいるのか、まわりに誰かいるのかを確認し、他の人がいるとわかると、急いで対人的な場面での自分というものを作り直そうとするかもしれません。

しかし、おそらくそんなことよりも先に、「私は誰であるか」を思い出し作り上げようとしているはずなのです。

「私は誰であるか」なんて、記憶喪失でもなければ、わかっているのは当たり前だと思うかも知れません。

しかし、記憶が障害を受ければ自分が誰であるかがわからなくなるということは、「私は○○である」ということは別に自明なことではなくて、その都度自分とは誰かを思いだし構成し直しているんだとも考えられます。

このようにして確認し直している「私」という存在は、自分が生まれてから現在に至るまで経験してきたことで作り上げてきた「自分」という存在です。
それは、自他共に認める自分という「人格」であり、「私とは誰か」に答えようとする「自我」という存在です。

2つの感情


そしてこのように考えてみれば、もしかするといまの私という「人格」とは全然別の自分が作られていたかもしれないといったことも考えられるわけです。
たとえば、生まれてすぐに他の家庭環境で育てられていたら、今の自分とはかなり違った自分になっていたかも知れません。
つまり、作り上げられてきた自分という「人格」は、1つの可能性として出来上がった自分に過ぎないわけで、唯一絶対の自分などではないのです。

そして、このような作られた「人格」というものがあるのなら、それとは別に「本質」的な自分というものがあるのではないかと考えてもいいわけですね。

それは、今のような「自分」に作り上げられていくのと並行して存在してきた加工されない「本質」の自分というものです。

普通私たちが「私とはどういう人間か」を考える時に思い浮かべるのは、「人格」の方の自分なわけです。
そしてその自分は「作られてきた自分だ」などとは考えずに、これこそが私自身だと信じて疑わないものでしょう。

なぜなら、自分というものを毎回確認し、再構成し直しているのがこの「人格」の方の自分だからです。
毎朝目が覚めて、今日も昨日と同じ「私」の存在を信じられるのは、この再確認を行っているからではないでしょうか。

さてタイトルの「自分を説明しようと思わないこと」という話に入りますが、前回の話にもあったように、自分を説明しなければいけないと思うことは、この自分という「人格」を維持しようとする行為だとも言えます。

他の人に対して、「私とはこういう人間です」と見せ、説明している自分がそこにあるわけです。
あるいは、自分自身でも「これが私という人間なんだ」と言い聞かせ、その確信を強めている自分というものがあるわけです。

そうすると、実は昨日までの自分と違う自分を発見することは、自分という「人格」からすれば、あまり受け入れたくない都合の悪いことになってきますよね。

つまり、そんな自分は私ではないと否定し排除しないと、今までの一貫してきた人格を維持することが出来ないかもしれないからです。

自分自身を混乱させるような「自分」は受け入れたくないし、あるいは他の人に対して今まで「自分はこういう人間だ」と示してきたことに、ほころびを生じさせたくないわけなのです。

そのために、私たちは「自分を説明しなければ」という思いにつきまとわれ続けます。

私は「昨日と同じ一貫した人間ですよ」と証明したくなるのです。

感情の変化


このこと自体は、別に問題があるとは言えませんし、社会的に見れば、一貫しない人格では都合の悪いことも生じてくるでしょう。

しかしその一方で、先程の「人格」とは別の「本質」的な自分というものと合わせて考えて見るとどうなるでしょうか。
現在作りあげられてきて維持しようとしている「私」という「人格」は、「本質」の自分というものからすると、ずれていたり、無理をして作り上げている部分がないとはいえないでしょう。
いまの「人格」に作り上げるために都合が悪い自分は存在を無視されてきているかもしれないわけです。

そのような両者で一致しない自分が存在した場合、「人格」こそが本物の私だと主張する自我は、矛盾する自分の存在を無視したり抑圧してしまいます。
今の自分こそが本物だから、それと矛盾するような自分は自分だと認めたくないという抵抗から、何とか排除しようとしてしまうわけです。

しかしそのような抑圧は、時としてあなたに本来の自分を取り戻したいという要求から、さまざまな形を取って訴えかけてくるでしょう。

押さえつけられたことへの抵抗は、あなたに何か居心地が悪い思いをさせたり、本当の自分でない感じをもたらすかもしれません。
あるいは、あまり存在を否定された自分を放置すれば、少しずつ鬱を感じだしている自分を発見するかもしれません。

私という「人格」の方だけを優先して、隠された「本質」の自分を排除してしまわないことです。

ですから、今の自分こそが唯一の自分だというように、あまり信じ込まない方がいいかもしれません。
「これこそが私です」と一貫した自分を見せようとしないことです。
「一貫していよう」とか「説明出来る自分でいよう」と思ってしまうと、柔軟さを無くしてしまうのです。

「自分を説明」できないといけないと思わないこと。
そうすれば、もっと気軽に今の自分から外れた自分を受け入れることが楽になってくるものです。

あなたが、いま何となく束縛された感じを持っているようなら、「こんな私だっているんだよ」と気軽に受け入れることを試して見たらいかがでしょうか。

今までの自分からすると「説明できない」自分だけれど、「これも私の一部なんだよ」と認めてあげることですね。

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出し惜しみをやめてみよう

道というものは、空の器のようでありながら、
汲み出しても、汲み出しても満ちあふれてくる、
底が見えない万物の源とでもいおうか。
老子道徳経 第四章



子どもがおやつを与えられると、ついつい手が出て一気にたいらげてしまいます。
しかし、そのうち学習してきますから、「いまもっと食べたいけれど、我慢しないと明日までのおやつがなくなってしまう。あとで我慢しないといけなくなるのもいやだな。」と考えて制限することを覚えてきます。

おやつを食べる


サラリーマンの家庭では、給料日前になるとだんだんと出費を控えるようになるかも知れませんね。
使い放題を続けてきたから、エネルギー資源が枯渇してしまう、大変な事態だといってエコが叫ばれるようになりました。

「資源には限りがあるんだから、取り放題というわけにはいかない。」

このような考え方は、私たちのどこかに染みついている考え方かもしれません。

先程の老子の言葉のような、いくらでもくみ出せる魔法の源というのは、それこそおとぎ話の世界の話に思えてくるでしょう。

しかしこのような考え方も、自分の能力を表現するという場面では、マイナスに働くブレーキとなりかねません。

つまり、あなたの才能を出し惜しみしないことです。

こんなに、一気に使ったら、才能が枯渇してしまうのではないかと思って、ついセーブしてしまうことはないでしょうか。

「こんないい出来上がりの作品は、めったに出来ないから将来のためにとっておこう」
このような考えを持ち出すと、たいてい才能は続かなくなって、逆に枯渇してしまうこともあるわけです。

それよりも「こんないい出来上がりの作品」だからこそ、どんどん表に出して、次を作り出そうという意欲があるときこそ、もっと上位のレベルへとステップアップ出来る機会を作りだしてくれるのではないでしょうか。

それから、出し惜しみをするというのは、いまの能力はすべて自分が作り上げたと考えている傲慢さが隠れてはいないでしょうか。

スポーツ選手などでも新記録を出せたときは、気がついたら達成していましたということも多いものです。

オリンピック


才能なんていうものは、やっているうちに偶然に見いだされたり、進化していくものだと考えていれば、それらを自分の采配でコントロールしようなど思わないでしょう。

このいい結果も単なる通過点に過ぎないと思って、リセットして一からスタートし直せる様な人こそ、思っても見ないスゴイ結果を生み出す人ではないでしょうか。

今たまたまいい結果を得られたからといって、それを出し惜しみするようでは、そこまでで上昇がストップということにもなりかねません。
それこそ、「子どものおやつ」と同じ発想になってしまうから、自ら限界を作りだしてしまうのではないでしょうか。
ケチケチしないで大盤振る舞いするくらいの気概がないと、新しい才能が生まれては来ないのかもしれません。

それと、出し惜しみするのは「限られたものを他の人と奪い合っているのだ」という考えとも結びついてしまいます。
自分で確保しておかないと、いつなくなるかわかったものでないという不安を作りだしてしまうのです。
そんな不安は、むしろ不足を自分で呼び寄せるようなものです。

惜しみなく自分の能力を他人に提供しましょう。
そうすれば、きっとそれを上回る供給がどこかからやってきます。
さらに上のレベル世界も見えて来るでしょう。

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罪悪感によるコントロール

罪悪感というのは、誰もが根深く影響されている感情の一つです。
しかし私たちのほとんどは、罪悪感について曖昧に理解しているために、ついつい不要な後ろめたさを感じながら、それが仕方のないことだと思って犠牲になったままでいるのです。

罪悪感というのは、本来は、実際に自分が誰かを精神的あるいは肉体的に抑圧したり、傷つけたりした場合に感じるものです。
あなたの行為によって、誰かが能力を発揮したり、自由に表現したりすることを制限したり、あるいは喜びを奪ってしまうようなことになったとき、あなたはそれに対して罪悪感を感じるでしょう。

このような本当の罪悪感というのは必要なものです。なぜならそれを何とも感じないとすれば、他の人を傷つけることを何とも思わない人になってしまうからです。

女の子腕組み


しかし、このような本物の罪悪感とは別に、誰かに押しつけられてしまった「無実の罪悪感」とでも言うものが存在します。
それはとても日常的に使われているので、区別ができなければ本物の罪悪感と同じようにあなたを苦しめることになります。

たとえば、このような母子の何気ない会話。
「楽しそうでいいわね。お母さんは家にいてやることがいっぱいあるから、自分だけで楽しんできなさい。いいんだよお母さんは慣れているから、家で我慢して用事をやっているわ。」
このように言われれば、子どもは、楽しいはずのイベントに後ろめたさを感じながら出かけなければならないのです。

子どもは、別に何も母親を抑圧するような行為をしているわけではありません。
本来なら思いっきり楽しみに期待をふくらませて、出かけていい場面なのです。
このようなときに子どもが感じているのが、責任のない罪悪感、無実の罪悪感なのです。

そして、たとえ無実の罪悪感であっても、その人を苦しめる点では自分に責任のある罪悪感とかわりはありません。

男の子悩む

では、なぜこのような責任のない罪悪感を感じてしまうことになるのでしょうか。

それは、人間関係というものの基盤に存在する精神的な依存によるものです。
つまり、「こんなことを言ったり、やったりしたら、相手から悪く思われたり、嫌われたりしないだろうか?」という思いです。
「人から悪く思われる」ような行為を自分がしてしまうことが、本物の罪悪感の時の他人への抑圧行為のかわりに存在しているというわけなのです。

あなたは自分が言ったことややったことが原因で、相手の表情にかすかに浮かぶ不快感を見逃しません。
これを見たあなたが自分自身に対して下す評価が、あなたに責任の持てない無実の罪悪感を抱かせることになるのです。

そして、あなたはこのような無実の罪悪感を感じるのと同時に、その裏返しとして、相手をコントロールしたいときにこの無実の罪悪感を利用しようとしてしまいます。

誰かがあなたのやり方を批判したり、あるいはそもそも相手のことを善く思っていない時、あなたは自分を正当化するために相手に罪悪感を感じさせることでコントロールしようとするのです。
相手がその行為に罪悪感を感じれば、あなたの正当性を主張することが出来るかのように感じてしまうわけです。

このような意識的、無意識的な罪悪感による他人のコントロールは、日常的に行われていますから、あなたもそこら中でその犠牲になっているのではないでしょうか。

はっきり後ろめたさを感じる場合もあれば、なんとなく気が重いなという感じを持ってはいても、何が起きているのか気がつかない場合もあるでしょう。

機嫌が悪い男の子

そして、親子関係とか特定の人との関係では、それが毎日のように繰り返されるために、当事者は毎回うつを感じることを繰り返すことになります。
それは、その人の性格そのものにも影響を与えてしまいます。

このような不当な罪悪感から逃れるためには、まずは罪悪感を感じたときの自分の感情をよく観察してみることです。
そして、それがあなたが誰かを押さえつけたために起きた本来の罪悪感であるのか、それとも誰かの意向によって自分が押さえつけられている為に起きた罪悪感なのかを区別することです。

また、それと共に「自分の感情に責任を持てるのはその人自身にしか出来ないものだ」という原則を思い出すことです。
「あなたのおかげで、わたしはこんな気持ちにさせられた。」という脅しには乗らないことです。
その人が自分でそのような感情を持たないことを選択しない限り、あなたにはどうしようもありません。
あなたが脅しに乗って相手に従ったとしても、相手はすぐに同じ状況をまた作り出して、あなたに罪悪感を迫ってきます。

相手は、このやり方で相手をコントロールすれば、自分の不安感を何とか出来ると信じていて、それ以外の方法に気づかないために同じことを繰り返しているのです。
自分の不安感を本当におさめるためには、原因となっている自分の不安と向き合うしかありませんが、それを恐れ避けようとするために、誤魔化す方法として罪悪感で他人をコントロールしようとしているのです。

そして同じことは、あなた自身もついついやっていることかもしれません。
どちらにしても、不当な罪悪感への脅しは拒否すると決心することや、自分からもそのような方法で相手をコントロールすることをやめようと決心することです。

相手がその方法の常習者であるほど、あなたの拒絶に対する抵抗があるかも知れません。
しかし、まずはあなたがそれを拒否することを繰り返し選択して、あなた自身が不要な罪悪感から解放されることが肝心です。
そして、あなた自身がそれから解放されるのを見て、相手も自分の無駄なやり方を考え直すときが来るかもしれません。
相手にそれが出来なくても、あなたがそれに罪悪感を感じてはいけません。
それは相手の人が、自分自身で選択することだからです。あなたが強要することではありません。
「そんな冷たいことはできないわ。」と思わせるのは、このような罪悪感そのものなのです。

「罪悪感によるコントロール」という手段に関して、あなたは加害者にも、被害者にもならないと決心すれば、やがてあなたのまわりからそのような方法をとる人もいなくなってくるでしょう。


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富士は日本一の山/社会構成主義

今回は「現実は社会的に構成される」「言葉は世界をつくる」などの主張が特徴である「社会構成主義(social constructionism)」という考え方を紹介したいと思います。

ところでタイトルの富士山は特別な意味があるわけではないのですが、後ほど例として使っているものです。

さて、社会構成主義の発想は、人は自分を取り巻く世界や現実をありのままに捉えて、理解するものであるとする見方を否定する。人は自分の持つ認識の枠組みや知識を使って世界を理解し、自分なりの意味を生成するのである。しかも、経験を通して取得した知識や認識の枠組みは、社会が歴史的、文化的に相対的なものであることから、同じ事象や現象も、時代や地域によって意味が異なってくるとの考えに立つことになる。(Akiyama 2頁)



そして社会構成主義では、「外在化」、「客体化」、「内在化」という三つのプロセスについて考えます。

外在化とは人が外的世界に作り上げた人間の一つの内的世界のことである。すなわち、社会規範や制度は、そもそも人の価値観が外的世界に投影されたものであり、それは人が自身の行動のために安定した環境を整える所作であり、その複合体が社会である。つまり、社会は人間による産物と見なすのである。例えば、一つの個人の着想を書物やストーリーにすることにより、それは他者に触れる社会的領域に入ることになり「外在化」することになる。
このように外在化された現実の複合体である社会は客観的なものとして具体化する。これが客体化である。本来人間が作りだしたものが、「当然なものとして」、「容易には変えられないものとして」存在するようになる。また、当然のものとして、その社会に存在する人は客体化されたものと接触し、経験することになる。この端的な例が言語という制度である。われわれはそれを自然の世界と同様に当然のものとして経験する。すなわち、社会は客観的事実として経験させられるのである。さらに、人は客体化した現実を自分の内的世界に取り入れる内在化が生起する。すなわち、人は所与の言語制度に従って思考し、感情を持つ存在となるのである。つまり、言語制度と言う外在的で客観的なものに規定されることにより、人の存在は成り立つのである。この三つの契機を辿るプロセスを通して「社会は人間の産物であり」、「社会は客観的事実であり」、「人間は社会の産物である」ことが論証されている。
このことは、われわれ人間の主観的世界は常に客観的世界に影響されており、それなしに主観的世界は存在しないことをことを示す。同時に、客観的世界は、われわれの主観的世界によって支えられ、それなしには成りたち得ないことをことを示している。両者に明確な分節点は存在せず、双方が互いに参照しあい浸透し合う関係にあることが分かってくる。(Akiyama 2?3頁)



この3つのプロセスについて、もう少し分かりやすいように「富士山」という山を例にして書いてみます。実施の富士山がどのようにして名付けられたり、その言葉が定着していったのかは存じませんが、ここで例に上げているのは、全くのフィクションですのでご了承下さい。

富士山1


まず「外在化」と言うプロセス。
私たちが、富士山と呼ばれている山を見て、例えば美しいと感じたり、形が綺麗だ、どの山よりも高く見えるなどなど、感じたことを表現します。
やがて、この山を「富士山」と名付けようということになります。
このような、複数の人間による1つの山への主観が「外在化」されます。

その後「富士山」にまつわるさまざまな情報が加わっていき、そのうち富士山を見たことのない人や、見えない地域に住んでいる人にも「富士山」という山が日本に存在することが知られ、定着していきます。
「富士山」は日本一高い山であるとか、その姿が美しいと感じる人が多いこと、その姿を詠ったり、絵を描いたり、写真に撮ったりする人も多いことなどから、富士山に関するさまざまな情報が一般化し、客観的な事実として「客体化」するわけです。

しかし、ある程度の共通の認識は持つものの、「富士山」に対する主観的な認識は、人によって当然異なってきます。
「私はそれほど綺麗だと思わない」「見たことないから何とも思わない」「ゴミの山で世界遺産に登録出来なかった山だ」「富士山を世界遺産にしよう」「富士山もまた噴火するんだろうか、怖い」「富士登山はいい思い出になった」などなど。
このように「富士山」という言葉は個人による主観に基づいて自分の中に取り込む「内在化」が行われいきます。
一度は主観から「外在化」したものは、「内在化」によって再び主観的世界に戻されますが、それらは途中の「客体化」を経由したものであり、別々個人の主観から主観への受け渡しであるわけです。

このように私たちが、3つのプロセス経て、世界を理解し、自分なりのとらえ方を作り上げていると言う考え方、主観的世界は常に客観的世界に影響されていることや、逆に客観的世界も主観的世界に支えられて存在するという見方は、私には非常に興味深い「内在化」をもたらしました。
読者の皆さんはどのように思われたでしょうか。

こんなことを考えて何が面白いのか、と思われる方もいらっしゃるでしょうから、もう少し続けてみます。

ところで「富士山」を取り上げましたが、あまり主観的な影響が強くなく、単純化されたものとして例に挙げてみたものですが、だからといって「富士山」を「社会構成主義」から考えて見てもそれほど面白いとは言えません。

むしろもっと主観的世界と客観的世界の理解の仕方が大きな意味を持つ内容において、その意義は大きいのではないかと思います。

たとえば、私たちは身近な人について、この人はこういうタイプ人であると判断したりします。
その時に使われる「客体化」された世界(言葉)とは、どれほど客観性や普遍性を持つものだろうか、ということをよく考えなければなりません。

それらは「社会構成主義」が主張するように、その時の社会に影響されたものでしかないわけです。

魔女


たとえば、かつては「魔女狩り」というものが行われました。
「魔術」を使える「魔女」の存在が信じられ、「魔女」だと思われた人間が糾弾され裁判を受け、処刑されたりしたわけです。

現代においては「魔女」を信じる人はほとんどいないでしょうが、「魔女狩り」という言葉は象徴的に今も使われたりします。
「外在化」され、「客体化」された言葉が、客観的な事実とは異なっても、それを受け入れる社会に生きていれば、それは真実と見なされ大いに影響を受けることになるわけです。

現代において「魔女」は信じられなくなったとはいえ、後世になれば、現在信じられている人間に対する評価も「魔女」の様なとんでもない偏見に満ちたものと見なされる時代が来るかもしれないのです。

一方で「内在化」という過程でも別の問題が考えられます。
個人の主観は、「客体化」された言葉であっても、自分の都合のいいように解釈して使用することになります。
たとえば、自分が気に入らない人間には、より批判的な表現である言葉をあてはめようとするかも知れません。
いったん、そのようなレッテルを貼り付ければ、その人に対する主観はより批判的な評価に傾いていくことでしょう。
それは、言葉を客観的な事実だと勘違いしているほど、及ぼす影響は大きなものとなります。

「外在化」の過程における偏り、「内在化」の過程に入り込む偏見、そして「客体化」された言葉とはどれほどの客観性、普遍性を持つものであるのか。
こういったことを考えて見るには、この「社会構成主義」が主張する3つのプロセスの考え方は非常に整理しやすい視点を与えてくれるように思えるのです。


「参考」
社会構成主義とナラティヴアプローチ ?ソーシャルワークの視点から?
(Social Constructionism and Narrative Approach : From Social Work Perspective)
秋山薊二( Akiyama Keiji )

http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~akiyak2/narrative.pdf



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グルジェフの文章より

さて、マダム・ド・ザルツマンから報告を受けたところによると、だれも私が言ったことを理解しなかったようだ。
人には火が必要だ。火がないところには何も生まれない。
火というのは苦しみのこと、望んで引き受けた苦しみのことだ。それがないなら何も生まれない。
人はこの火をおこさなければならない。どうしたら自分に苦しみが生まれるかを知り、自分に苦しみがあるときにはそれを活用しなさい。
この苦しみはあなたが自分で用意するべきだ。
あなた自身だけが、何が自分に苦しみをもたらすかを知っている。
この苦しみから生じた火は何かを「調理」する。それは融合と結晶化をもたらし、あなたに「為す力」を与える。
自分の欠点ゆえに、自分のプライドゆえに、あるいは自分のエゴイズムゆえに苦しみなさい。
そして自分の意図を思い起こしなさい。
自分で自分のために用意した苦しみがないなら、何も生まれない。
意識性が増すにつれ、[機械的な]苦しみは減っていく。
そのままなら成長は止まる。その先には何もない。
だからあなたは良心の呵責【かしゃく】を呼び覚まし、自分が必要とする苦しみを自分で用意しなければならない。

グルジェフ ミーティングの記録 1941?1946年  ミーティングの記録(一)

グルジェフ 創造と進化の図絵



私はグルジェフの思想についてはよく知りませんから、この文章が何を言おうとしているものか、もしかするとまったく見当違いかもしれませんが、幾つか興味を惹かれた表現があったので自分なりの解釈を書いてみたいと思います。

私たちが苦しいと感じる場合、条件反射的で表面的な苦しみなのか、本質的な苦しみなのかが分かれるのではないかと思います。

たとえば、何かを計画して予定通りに進まないとき、そこでは計画通りに進むことで得られる報酬が頭にあります。
それを手に入れたいという思いから行動にのめり込んでいるとき、結果が予定通りに運ばなかったり、期待はずれであることは、そのものが苦しみであると感じるわけです。

しかし、この苦しさは、自分の予想通りに物事が進むべきであるという希望的観測に基づいたものであり、自分の思いと外界の出来事が一致すべきであるという根拠のないことを無理に信じようとしている結果なのです。

その思い込みがなければ、そもそも苦しさは感じないでしょう。
ひいきのチームが試合に負けることや、優勝できないことは、その人にとっては残念で苦しさをもたらすかもしれませんが、そのチームに何も思い入れがない人にとっては、苦しみでも何でもないわけです。

別の例で言えば、誰かを説得したいとか、自分の思うことに賛同してもらいたいと願うとき、相手から拒絶されることは苦しみをもたらします。
しかし、それも先程と同様で、自分の願望が叶わなかったが故の苦しさでしかないのです。

これらは、どちらもそれまでの自分の作り上げた期待と、外界の出来事との食い違いでしかないのです。
それもどちらかと言えば、自分自身でも自分がどのような動機で行動し、感情を左右されているのかにあまり意識的に気づかないままの行動であり反応なのです。

グルジェフが、「どうしたら自分に苦しみが生まれるかを知り、自分に苦しみがあるときにはそれを活用しなさい。」というとき、それは無意識の反射的な苦しさに振り回されていないで、その原因を突きとめて自分の制御下に起きなさい。
そこから何か機械的な反応でないものを生み出しなさいと言っているのではないでしょうか。

「自分が必要とする苦しみを自分で用意しなければならない。」
無意識に苦しみに振り回され、それから逃げようとしている状態を抜け出して、その「苦しさ」がどこから生まれてくるものかを見つけ出す。
その「苦しさ」を向こうから勝手に襲ってくるものではなく、自分がその出所を知っていて、さらにそれを自分の成長のために積極的に活用出来るものとしようというのです。

飯ごう炊飯     消火1


「人はこの火をおこさなければならない。」
人類にとって、自分で火をおこせるようになるまで、火とは山火事など偶発する自然界の脅威の一つでした。
自分で火をおこすことを覚えたとき、それは役に立つものへと変わりました。
また、どうやってそれがもたらす危害を防ぐかということも、同時に習得したのです。

[機械的な]苦しみに振り回されているのは、火を使えない状態と同じです。
それを自分で起こし、使いこなすことで眠っていた可能性を掘り起こすことも可能になってくる。

それが「自分の意図を思い起こ」すことへとつながっていくようです。
※「意図」とは何かは、もっとグルジェフを知らないとわからないのでしょうが。

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誰も悪くないという見方

「誰も責められる人はいないよね?」と聞かれてすぐに「そのとおりだね」と答えられるでしょうか?

即座に答えるのを躊躇するとき、あなたは何か怨恨を抱えているのかもしれません。

誰も間違っていないと信じられれば、安心してお互いの関係を先に進めることが出来ます。
その信頼があってこそ、次の段階へ進めようという新しいことも考える気になってきます。

しかし、すべて信頼するというのはなかなか難しいもので、何かしらまわりの人のやっていることに、過ちとか欠点を見つけてしまいます。
いったん、なにか「責めるべき」ことを見つけてしまうと、それが片付かないと安心して先に進めなくなってしまうものです。

お母さん


ただ、これらは実はあなた自身の中に持っている「責めるべき」ものを反映したものなのかもしれません。

あなたが誰かを責めたくなっているのに気づいたら、責める自分に入ってしまう前に、それが何であるかを改めて確認してみて下さい。

それは、責めようとした人が特別に間違っているのでしょうか?
その人の固有の欠点とか過ちなのでしょうか?

もしかすると、それはあなた自身が「責めるべき」項目を抱えていて、相手が誰であろうとすべての人に対して責めようと思っていたことではないでしょうか。

もしそうであれば、あなたは今までのどこかで、人間の過ちやすい面に気づいて、それを警戒しなければならないと考えだしたのでしょう。
そのような失敗を目にしたのか、あるいはあなた自身が過ってやってしまった失敗であったのかもしれません。

それを発見できたら「責めるべき」リストは思い切って破り捨ててしまったらどうでしょう。

自分も他人も責めるべき人などいない。
間違いが起きても、すぐに訂正してしまえばいいことだ。

OKお母さん


それは理想だけど実際には難しいと思ってしまうと、難しくて現実的でないように思えてしまうかもしれません。

しかし、他の人を信じるようにコントロールするのは難しくても、少なくともあなた自身は自分もまわりも悪くないという見方を取る事なら出来るでしょう。

あなた自身が「責め」を抱えなければ、まわりの人も影響されて同じ方向に考えてくれる可能性は高まります。

しかし、あなた自身が「責めるべき人」を造りだしていたのでは、確実に「人は信じられないと思える世界」にいることになってしまいます。

「責めたり」「裁いたり」することは、この世の中にはつきものだという世界観は、それ自体あなた自身を反映したものではないでしょうか。

自分のまわりだけは、「過ち」のない人間関係を築こうと決心すれば、「それほど現実離れした考えでもないか」と思えてきませんか。
軽い気持ちで試して見てはいかがでしょうか。

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個人的な受け取り方から抜けだそう/すぐにキレないために

怒っているハート

ついムカッとなったり、キレてしまう状態から脱却するには、いつまでも事態を個人的に受け取り続けないことです。

私たちは普段からものごとのとらえ方の癖といったものを持っていますから、いきなり自分の枠組みから外れた働きかけを受ければ、身構えたり、反発を感じたり、攻撃に転じたりしてしまうのも仕方のないことです。

「相手はこういう人だから、こういう言い方をしがちだ」という情報を持っていれば、それが防止に役立ちそうにも思えるのですが、いきなり話しかけられたりすれば、その場ではつい衝動的に反応してしまいがちです。

相手の傾向について情報を持っていれば、後からそれを使って相手の言動を理解し直すことは出来ますし、それを繰り返していれば徐々に衝動的に反応することも少なくはなっていくでしょう。

しかし、いつも一緒にいる家族や同僚となら、そういうことも出来ますが、あう人あう人にいちいちそんな対応が出来るわけではありません。

叱る母親

ですから、むしろ「キレない」でいようとするよりも、いつまでもその状態をとり続けないことを考える方がずっと現実的なのではないでしょうか。

そして、いつまでも反発が収まらないのは、最初に言ったように、いつまでも事態を個人的に受け取り続けるところにあるように思います。

つまり、相手の言ったことや行動が「わたしという特定の個人に向けられた」ものであると思いこみ過ぎるのです。

人の心理というのは、誰か特定の人にだけ向けられた思いのように見えても、ほとんどの場合は「自分(1人称)」か「誰か他の人(2人称あるいは3人称)」かという大ざっぱな2種類のものに向けられたものなのです。

またさらに言えば、自分に向けられた感情と他人に向けられた感情は、容易に入れ替わってしまうものです。
相手を攻撃している思いは、容易に自分への攻撃にも転化しますし、その逆の現象も同様におこります。

このように、人の心理状態は、誰か特定の人への思いというよりも、その人固有の構えによって生じた、不特定の相手への感情表現であると考えた方があたっていると思われます。

つまり、何かを許せないと思う人は、あなただけではなく他の誰に対しても、その非難を向けるものだということです。
ですから、それを「わたしという特定の個人に向けられた」ものであると気にしすぎることはありません。

もしあなたが、その非難から自分の普段から気にしている弱みを刺激されると、つい自分だけに対する攻撃のように思ってしまうかもしれません。
しかしほとんどの場合、あなただけが気にしすぎる必要はないことなのです。
あなたが、たまたま運悪くその場に居合わせただけなのかもしれません。

メンタル

このような人間の心理の傾向をわかっていれば、いつまでも相手からの非難などを個人的なものだと思い続ける必要はないとわかります。

ついムカッときて反応したとしても、いつまでも私への非難だと思い続けなければ、キレた状態を続けることもなくなるでしょう。

そして、より早くその切り替えを出来る様にするには、すぐに「いま」に立ち戻ることです。

実は先程書いたように、相手の非難から自分の普段から気にしている弱みを刺激されてしまうと、「いまここ」を離れて過去の記憶の世界に入り込んでしまいます。
自分の過去の記憶から、傷ついた経験やその時の感情などがセットになって蘇ってきて、あなたはその記憶の世界にさまよい込んでしまいます。

相手の言ったことは、きっと私のあの出来事を知っていて非難しているに違いないとか、自分はまたあのときのような失敗をしてしまったのだろうかとか、そういったことを曖昧に思い浮かべてしまうのです。
また、自分への非難や攻撃として受けとってうろたえると共に、なんとか否定しないとまずいことになると思い込んで、相手に対する反撃に転じてしまいます。

こうなると、もはや原因が相手なのか自分なのかはあまり関係なく、「いまここ」から離れた自我の攻防の世界に入ってしまうのです。

ですから、なんとかこのような世界に入り込まないように、「事態を個人的に受け取らない」ことと、素早く「いまここ」に立ち返ることが肝心です。

「いまここ」に立ち返って、「いま」の相手の表情をありのままに見て、「いま」相手が言っていることを自分の構えに影響されずにそのまま聞き取るようにするのです。
そうすれば、一瞬のうちに遠い記憶の世界に飛んでいた自分を、いまここに引き戻すことが出来ます。
そうか、いま自分はここにいなかったと気づきます。

「見るときは、じかに見ること」「聞くときには、聞こえることをそのまま聞くこと」
キレるとは、遠い記憶の世界に飛んでいってしまうことなのです。

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3つの自分/あなたを解放しよう

3つの自分といっても自分がいくつもあるわけではないのですが、本来の自分を見分けるためには、分類してみることが役に立つことがあります。

このブログでも紹介してきた、ジョハリの窓(「自分で気づいている/他人から知られている」という2つの軸で4分割した自分)や、交流分析でいう自我状態(親・大人・子ども)などもそうですが、ここではもっと単純に「見せかけている自分」と「隠さなければと思っている自分」の観点から3つの自分を考えて見ます。

2つの感情


つまり、「見せかけている自分」と「隠さなければと思っている自分」、そして「ありのままの自分」の3種類です。

「見せかけている自分」

あなたが世間に見せている自分であり、自分自身でもこれが本当の自分であると信じ込んでいる(信じたがっている)ことが多い部分です。
それらは、社会の基準という方向から見た場合、「自分が社会的に望ましい人間である」と思いたがってそれに合わせようとしている自分であるといえます。
また、2番目の「隠さなければと思っている自分」との関係でいえば、それと反対で対照的な自分が自分なのだとアピールしようとしているともいえます。

具体的には、次のような問いかけに答えることでわかってくるでしょう。
・あなたは世間からどんな人間だと見られたいですか。
・あなたという人間のどこを真っ先に知って欲しいと思っているでしょうか。
・他の人があなたのことを表現する中で、あなた自身が特に大事だと感じるのはどのような自分でしょうか。

「隠さなければと思っている自分」

これは、もしかすると自分の中に潜んでいる人格だろうと感じているのですが、決して人から知られてはいけないと思っている自分です。
言い換えれば、この部分を他の人に知られてしまったら軽蔑されたり、まわりから見捨てられたりするのではないかと恐れている自分なのです。
おそらくそのほとんどは、幼い頃に経験した見捨てられるのではないかという恐怖体験が、強く焼き付いてしまった恐れの傷跡なのでしょう。
そして、肝心なのは、それらはあなたがそう思い込んでいるだけで、別にあなた自身の人格などではないのです。

次のような問いかけで、確認してみましょう。
そしてそんな自分がいるのかも知れないと恐れていたのが勘違いであることを確認しましょう。
それらは、あなたがどこかで傷ついたときに、急いで隠そうとしてしまい込んだものに過ぎないのですから。

・それらの多くは普段から見せかけようとしている自分とは反対の自分ではないですか。
・自分ではなく、あなたが一番気に入らないと思っている人を思い浮かべて下さい。
それらの人の中に見つかる、あなたの嫌っている部分とは、まさにあなたの中にもあるかも知れないと恐れている部分なのではないですか。
・これを知られたら大変だと思っている自分がいませんか。

リラックス1


「ありのままの自分」

ありのままの自分でいるかどうかは、その時の自分が安心してゆったりしていられるかどうかで確認できます。
見せかけたり、隠したりする人が目の前にいないときの力を抜いた状態、自分ひとりになってホッとした状態の自分なのです。
他の2つの自分の度合いが強いほど、最初は「ありのままの自分」の声は小さく弱々しいかもしれません。
しかし、この自分を取り戻すにつれ、あなたは自分の人生を生きている実感を強く感じられるようになります。
そして、なによりもこの状態にいるときは気分がよくなるのです。

さてこのような3つの自分を考える事にどんな意味があるのでしょうか。
とくに「隠さなければと思っている自分」については、だれでもわざわざ見ようとしたくないし、苦痛を感じることでもあるでしょう。

そんなことをしてでも、これを考える理由は、「ありのままの自分」を取り戻すことこそが目的です。
そして、「見せかけている自分」や「隠さなければと思っている自分」の出番を徐々に減らしていって「ありのままの自分」が主役になるための習慣を作っていくのが狙いなのです。

さきほども言いましたが、「ありのままの自分」を取り戻すにつれ、あなたは自分の人生を生きている実感を強く感じられるようになります。

そして「隠さなければと思っている自分」が、実はどこかで身につけた本来の自分ではないことに気づいていくことで、そのようなものを恐れて隠している必要がないことに気づき安心を取り戻せるのです。
分裂してしまった自己を1つの自己にまとめ上げていけるのです。

「見せかけている自分」も、「隠さなければと思っている自分」との関係から取り繕っていた自分に過ぎないことがわかってくれば、そのような自分にいつまでもしがみつく必要はないことがわかってきます。
見せかけを捨ててしまっても、なにもまずいことなど起きないとわかって、その支配を弱め、より「ありのままの自分」が自由にその表現を許されるようになってきます。

あなたは社会の中にいても、自宅でくつろいでいるときのように、自分を表現できるようになっていくのを実感できるでしょう。


コツコツ


もちろん、これらの自分は1年や2年ではなく長年かけて作られてきた自分ですから、理屈を知ったから一気に100%入れ替わるということは期待できません。

時には、強まっていた「ありのままの自分」が一気に自信を失って、他の自分に支配権を奪われるようなこともあるでしょう。
しかし行きつ戻りつはあるにしても、一度ありのままの自分を経験すれば、それと一致する行動はどんどん強化されていきます。
その逆に、いわば作り物の他の二つの自分は、その存在理由がどんどん弱まってきます。

ある段階まで来れば、もう後戻りはしたくないと思えるようになって、どんどんその変化は大きく加速していくことでしょう。
気分よくいられる時間が増えて、本来はこれが当たり前だったのだと思えるようになってきます。
ほんとうの自分を表現できていると感じますから、生きている実感が湧いてきます。
居心地の悪さが消えて、元気が出てきます。

その他にも、他の人が自分を見せかけるために苦労しているのも感じ取れるようになりますから、その人のために励ましたりする働きかけも出来る様になってきます。
相手の人も、あなたといれば自分を隠さなくていいことを徐々に感じる様になってきます。

考えて見て下さい。
取り繕う努力にエネルギーを使うよりも、本来持っているあなたの潜在的な可能性を広げる方が効率もいいし、意義があるのはあきらかではないですか。


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投げ出したくなる時2

以前に「投げ出したくなる時」で投げ出してしまう時の原因を取り上げてみましたが、面白いテーマなのでもう一度考えて見ます。

このテーマは別の見方をすれば、最後まで達成できない原因を知ることや、一緒に仕事をする人のタイプを知るのに役立つかもしれませんね。

「そんなに真剣に考えなくても」

だれでも緊張する状況が長く続くと、耐えられなくなってくるものです。
しかしこの傾向が特に強い人というのもいるようです。
「緊張する状況(プレッシャー)」をともかく避けたがる人です。
このタイプは、普段から緊張を嫌うため、物事に正面からまともに向かうのを厭がります。
その結果、真剣に考える場面になると「茶化して誤魔化そう」としたり、「そんなに真剣に考えなくても」といってみたりしやすい傾向があります。
一見、脳天気に見えて実はどこかで悩んで落ち込むタイプかも知れません。
ともかく、緊張状態が続くと真っ先に逃げ出す行動に出るので、結果として何もかも放り出してしまいます。



失敗・頭に手をやる


このタイプの亜流として、実際に失敗していやな目に遭うくらいなら、「先に失敗してしまおう」というタイプが考えられます。
いずれにしても、これらのタイプが一番気にしているのは、他の人からの評価にあるということです。

自分が失敗してしまうと、誰からも見捨てられるのではないかという恐怖が強いのです。
ですから成果を上げるためにリスクを冒すよりは、自分の失敗が目立たないように誤魔化してしまう方が、まだ危険が少ないと思ってしまうのです。

このような人と一緒に何かをやろうとしている場合には、最後の詰めの段階になって自分は抜けると言い出したりすることがあるので注意が必要です。


「もう疲れたよ!タイプ」

このタイプは疲れてしまうのが、他の人よりもかなり早いのです。
そして「もう疲れたよ!」というのが、何よりも免罪符だと考えます。
あきらめが早いとも言えます。



一緒に仕事している場合は、「もう疲れたよ!」のひと言で放り出してしまわれたのでは、たまりませんね。
頭で計画的に進めるタイプとは対照的で、自分の身体全体で関わってくるタイプですから、うまく乗ってくれると頼もしいタイプなのかもしれません。
なんとか、疲れてしまわないようにフォローしながら、その体当たり的ないい面を発揮してもらいたいものですね。


「不安なことがあるともうダメ!」

このタイプは、追い詰められてそうなると言うよりも、普段から「不安なこと」があると他のことが何も手に付かなくなります。
こんなに不安なことを抱えているのに、他のことなんか考えられないのです。



心配性の人は、心配することが実際の仕事に置き換わってしまいます。
実務よりも心配することで貢献しているつもりになっているような所があるので、投げ出してしまうと言うよりも実質的に戦力にならなくなってしまうという感じですね。


「気分の問題です!」

こころのもやもやがあると、何もかもいやになります。
こちらは、「不安。。。」のタイプとは少し違って、「気分の問題」にされるので、他の人はどう対処していいものか困ってしまいます。
理詰めで説得しようとしても、まずうまくいかないタイプです。



原因はさまざま考えられますが、なかなか成果を出すのは難しいタイプですね。

疲れたサラリーマン


「こんな毎日は投げ出したい!」

毎日、決まり切った仕事が待っているのです。
でもどれも投げ出してしまっては、すぐに困った状況に陥るので、投げ出すわけにはいかないのです。
毎日、毎日、ほんとにいやになってきます。
でも誰もこの大変さをわかってくれない。
抜けるに抜けられない、がんじがらめの生活というわけです。
問題は、状況にある様に見えます。
しかしこのようなことを嘆く人の多くは、少し休みを取ったりすると、再びこの同じ状況に戻っていって、こつこつと作業を再開します。
じつは、このような状況に陥る人は、もともと仕事を抱え込むのが好きなのかも知れません。
そうでなければ、もっと前の段階で逃げ出しているとも言えますから。



本当にやりたいことを認めることが怖いので、仕方なく当たり障りのないことでお茶を濁していることも考えられます。
そもそも自分のやりたいことは何であるのかを、原点に返って考えて見た方がいいのかもしれません。
正面から自分に向きあいさえすれば、次の日からやりたいことが見つかったからといって、変身しているかもしれませんね。
そもそも、もともとはやるべきことはやっていくタイプである可能性が高いのですから。


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過干渉、過保護、過剰適応

子育てについては、親や祖父母からの過干渉、過保護が問題にされることがあります。

過保護と言う言葉からは、子どもを甘やかし過ぎるという印象を持たれるかもしれませんが、成長の過程の必要な段階で子どもが甘えられないでいることは、これもまた別の問題を起こします。

まずは、子どもはいつも自分を守ってくれる存在がそばにいることで、自分が安心してやっていけるという自信を持たなければなりません。
つまり、自分はここにいていいんだ、自分がただいることを喜んでくれる親が身近にいてくれると感じられるだけ、甘えられる期間をもつことも必要なわけです。

この段階で、そのままの自分を受け入れることにつまづきを生じなければ、自分が存在していいことや、いらない人間ではないということを確信することが出来ます。
これが大人になってからも、無条件に自分を受け入れられるかどうかに関わってくるわけです。

おもちゃで遊ぶ子ども


ところが、子どものためにやっているように見えていながら、問題を作ってしまうのが、過干渉、過保護というものです。
これは、子どもが自分でやろうとすることを、親や祖父母といった身近な存在が先取りしてしまい、子どものかわりにお膳立てしてしまうということです。

これを続けられると、子どもは自分の頭で考えたり、悩んだり試してみたりすることが出来ません。
子どもが自分の手でやってみて、失敗したりうまくいったりを繰り返して、達成感を感じたり自信も生まれてくるわけですが、それを親が先取りして手を出してしまうことがその機会を奪ってしまうのです。

子どもだから失敗しそうで心配だし、危なっかしいからと言ってかわりに手出ししないで、そういったことを最小限にとどめなければなりません。

子どもにしてみれば、ちょっと自信ないけど試して見ようかなとようやく勇気を出してやろうとした時に、親がやってあげるよと言って横取りしてしまうと自分の経験を積み重ねることが出来なくなります。

また、自分の自発的なやる気を見せるたびに、お前には無理だからお母さんにまかせなさいといわれてしまうと、自分では考えたり行動しない方がいいんだと決めてしまう可能性があるのです。
これが、子どもが自分の考えを使わずに、親の考えにかわりをまかせてしまうという共生関係をまねいてしまいます。

このような過干渉で育てられた子どもは、自分で何かをやり遂げたという感覚を持てないため、親がそばにいないと極端に自信のない臆病な子どもになってしまいます。
そして学校や社会に出てきた途端に、いきなり自分で考えたり行動しろと言われるわけですから、どうしていいのかわからなくなってしまいます。

自分で考えるなと言われ続けてきたわけですから、何か問題が生じても自分で責任を持たず、すべてまわりのせいにしてしまうようになるのも、この過程を考えれてみれば当然なのかもしれません。

褒める父子     悩む女の子


ところで、もうひとつの「過剰適応」というのは子どもの側のありかたです。

最初の方で述べたように、幼い頃に自分がそのまま存在することにたいして、充分な信頼感をそだてられた人にとっては、他人からの賞賛や承認がたまたま得られなかったとしても、ぐらつかないで自分を受け入れていることが出来ます。

ところが、これが充分に育ってこなかった子どもは、自分の存在価値に対して不安を感じていますから、それを埋め合わせるために、他の人からの承認や賞賛の言葉を頼りにするようになります。

そういった子どもは、ほめられている間は、自信を持って行動できますが、軽く扱われたり、叱られたりすると途端に自信を失ってしまうのです。
そしてまた、親や大人が喜びそうなことに焦点を合わせようと無理していますから、自分の考えをはっきり言ったり、反論したりすることが出来なくなってしまいます。
これが「過剰適応」と呼ばれる状態です。

このような子どもは、見たところ聞き分けがよくていい子に映ります。
親にとっても、この子は兄弟の中でも手のかからない子どもだと思っているかもしれません。

しかし、「過剰適応」している子どもにとっては、いつも自分の存在価値を確かめるために、誰かの賞賛を探し求めていなければならず、それが受けられなかったらどうしようという不安がつきまとっているのです。
大人から見ておとなしくていい子に見えても、本人はとても苦しい状態にあるわけです。

このような子どもは、やはり自発的な行動を控えてしまい、大人の顔色をうかがうことになってしまいます。

大人が認めてくれるような結果を出して褒めてもらおうという意識が強いですから、学校の成績とか能力面での向上心は強くなるかも知れません。頑張り屋さんである可能性も高いでしょう。

しかし、自分を認めさせるために、それなりの評価を受けられるだけの能力を示せているうちはよくても、いつでも自分だけがいい結果を出せるわけではありませんから、いずれ限界を感じるときが来てしまいます。

まわりからの評価の獲得にうまくいかなくなったときに、自分への承認の根拠を失うわけですから、そこでどれだけ無条件に自分を認めることを取り戻せるかが重要になってくるわけです。

それがうまくいかないと、子どもであればおとなしかったのに急に切れてしまうようになったとか、大人であれば深刻なうつ病を発症する原因となったりもするわけです。

大人になっても、成果を上げることに異常に執着する人の場合、成果を重視する社会にあっては方向が一致しているので評価を受けるかもしれません。
しかしその根底に自分を受け入れられないことへの恐怖が潜んでいるとすれば、いずれ限界を感じたときに深刻な問題を引き起こす可能性があるといえるでしょう。

どこかで立ち止まって、条件付きの承認ではなく、自分への無条件の承認を育てることを考えた方がいいのかもしれません。


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苦痛を抱える自分はほんものだろうか?

困難な状況にあるとき、人はさまざまな回避策を試みます。

困難の原因を、誰か他人のせいだと考えて、その人を恨んだり攻撃することで、現在の自分の問題から目をそらそうと考えたりします。
またそれが出来ない場合には、自分自身を苦しめることで、少なくとも自分はいま罰を受けているのだから、と考えてそれを免罪符にしようと考えるひともいるでしょう。

このようないいわけ、特に後者のやり方に慣れていると、自分を苦しい状態にしていることが習慣になり、ちょっとしたきっかけで苦痛の中に浸ってしまう状態に入り込んでしまいます。

苦痛メンタル


もしこのような状態を繰り返していると感じるなら、苦痛を感じて何かを回避しようとしている自分がいないかをチェックしてみるといいでしょう。

それは誰もが避けようのない苦痛なのか、それとも自分がわざわざ作り出してしまっている苦痛なのか区別して、後者であれば抜け出す方法がないか考えて見ることです。

中には、そのようなやり方に慣れきってしまって、自分から苦痛や問題を取り去ってしまうと空虚に感じてしまい、再び元の苦痛を感じる状態に戻りたくなってしまう人もいます。

しかし、そうだとしても粘り強くその習慣から抜けようと試みれば、その状態が本来自分が望んでいる状態ではないということに気づけるようになるものです。

そうなってしまえば、あの頃いつも苦しんでいたのは何だったんだろうと思えるようになるでしょう。
ちょうど、大人になって子どもの頃の悩みがなんでもなく思い出されるようなものです。

そこで、苦痛を感じている自分に気づいたら、以下の項目をチェックして何か役立てないかを考えて見て下さい。
人によって、とりやすい態度は違うものですが、何か思い当たるところはないでしょうか。

医師の説明と老人


◆自分は苦しんでいる。それは本物の人生を生きているからだ。
人生は辛く、苦痛に満ちていないと本物だと感じられないというのは、刺激的な出来事こそが生きる実感だと感じられるという、感覚の麻痺を起こしているのかもしれません。
ほんとうに、いつまでもそうしていたいのですか?
穏やかでいて、しかもほんものの人生というのは、あり得ないのでしょうか?

◆自分が苦しんでいるのは、まわりには自分を苦しめる敵がいっぱいいるからだ。
これも、前述の他の人を悪人に仕立てることで、状況をありのままに見ようとしないやり方かもしれません。
敵がいるから仕方ないのではなく、自分が敵を作り出して、自分の問題と向き合うことを避けている可能性はないでしょうか。

◆自分は苦しんでいるのだから、他の人よりも重要な人間なのだ。
「心穏やかでいる他の人と違って、自分のこの惨めさをみてくれ。」と言っていませんか?
同情を受けたり、自分を特別扱いして欲しいという逃げ口上になっていないでしょうか。

◆自分は苦しんでいるのだから、何も気にしない他の人よりも、それだけ責任感が強いのだ。
責任感とは、別に自分を苦しめることではないでしょう。
それに自分を責めて苦しめるのは、自分自身への責任を放棄していることにならないでしょうか。

◆自分は苦しんでいるのだから、自分の方が正しいのだ。
こんな理由は成り立ちませんね。
正しさとは何かが本当には判断できずに、無理矢理主張しているだけでしょう。
「正しさ」という言葉で、何にとらわれているのかを考えて見たらどうでしょうか。

◆自分は苦しんでいるのだから、それだけ他の人より思いやりがある人間なんだ。
そんなことがいえるのでしょうか?
むしろ、自分自身を苦しめるという、自分への思いやりのなさを忘れていないでしょうか。
自分への思いやりを果たせない人は、なかなか他人への思いやりも持つ余裕が持てないのではないでしょうか。

それから最後にもうひとつ、
◆自分は苦しさを終わらせたいと本当に願っているんだ。だからこんなに苦しんでいるんだ。
本当に苦しさを終わらせたいと思っているかどうか、もう一度考え直してみましょう。
実は、苦痛がなくなってしまうのを恐れている自分がそこにいないでしょうか?
おなじみの苦痛を抱えていることでバランスを保っている今までのやり方をやめて、苦痛なしでもやっていけないかどうか試して見ましょう。


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頼れる存在など誰もいない

悲観的なタイトルですが、一度は「自分には頼れる存在など誰もいない」という事実を受け入れるところからスタートする必要があるでしょう。

それは、「自分が期待するとおりに、自分の希望を叶えてくれる人が誰か存在する」という幻想を一旦捨ててしまおうということです。

自分の希望から人を見て、いつかそれに応えてくれる人が現れるだろうと思うのは、無理な願いです。
人が行動するのは、その人の人間性にそって、その人の期待することを行うのだと認めることです。

この事実を、自分でかってに、ねじ曲げて見てしまうやり方は現実的ではありませんし、いずれ期待が裏切られたことに気づくことになります。

はとの親子


たとえば、自分が誰かに依存しているとしたら、自分が依存できているのは、相手がそれを大目に見てくれている間だけであると知らなければなりません。
今こんなに期待に応えてくれるか人だから、いつになろうとこの関係は変わらないはずだと、勝手に決め込んではいけません。

また、頭ではわかっていながら、なかなか忘れがちな事実は、人はその人の自己関心(利己心)に沿って行動するという事実です。
たまたま、それがあなたの期待と方向が同じであれば、その人に期待することは叶えられるでしょうが、それは、あなたの関心と一致している間だけであることを忘れてはなりません。

それから、ついつい期待をかけてしまうのは、親切や慈善行為というものが、すべて思いやりから出ているものばかりだという思いです。
もちろん純粋にそういう気持ちで動いている場合も、たくさんあるでしょうが、その中には自分が「いい人」だと思われたいという願望からの行動も含まれているということです。
それは、純粋に親切でやっていたその人が、途中から変わってしまうことだってあるでしょうし、その逆の順序もあるでしょう。

このような人間性の事実は、別に冷徹であったり、人間を信頼しない見方であるわけではありません。
いってみれば、「人は嘘をつく」という事実を受け入れるのと変わらない程度のものです。

なかには、このような見方をすることをためらったり、嫌ったり、あるいは後ろめたく感じる人もいるかもしれませんが、ありのままの人間性から目をそらすことは、現実的ではありません。
むしろ、このような人の傾向を認めた上で、相手に対する信頼感を持ててこそ、本当の信頼感だと言えるのではないでしょうか。

会話2

もちろん、こんなことは承知してますよと言う人もいらっしゃるでしょうが、わかっていても、つい忘れて過剰な期待を持ってしまうというのは、ありがちなことではないでしょうか。

そして、ついつい相手に頼りすぎたとき、相手がこれ以上受け止められないと感じて打ち切って、あなたの側は裏切られたと感じてしまうのです。

こういったことは、別に悪気があって相手を騙すような場合はむしろ少なくて、頼ろうとした側の過剰な期待や依存心が原因である場合が多いのではないでしょうか。

さらに言えば、裏切られたと感じるのは期待する側にその要因があったということですし、それを相手が悪いのだと考えるのはどこか違うのではないでしょうか。

そして、基本的に相手は「自己関心」に沿って行動するものだと認識していることは、よりお互いの利益になる関係を築くためにも有効であるでしょう。

子どもっぽい依存心をいつまでも捨てられないで、誰に対しても頼ろうとするのは、どこかで断ち切る必要のあることです。

それは、自分の期待で世の中が動くのではないと知って、ありのままを受け入れるのが一番いい方法であることを受け入れることにもつながります。

そして、最もまずいやり方は、いつまでも自分の期待でまわりが動くと信じて、現実を見ようとしないことです。
なかには、裏切られることこそが現実だと、妙にねじ曲げた見方になってしまう人もいますが、それこそが悲観的な見方であるといえるでしょう。

人は「自己関心」に沿って動くもの、それが人間性というものだとを、善悪や価値判断を抜きにして受け入れることが、スムーズな期待はずれのない人間関係を築くのに必要なことではないでしょうか。


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「判断」を捨てれば新しい救いが見えて来る

自分の「判断」を捨てるとはどういうことでしょうか。

私たちは意識してか、無意識のうちにかはともかく、まわりで起きていることについて、何が起きているかを判断して、それこそが現実であり間違いのない事実だと信じています。

そこでは、自分の判断によって見ている現実と、実際の現実の間に隔たりがある可能性が見失われてしまいます。
中には、半分くらい信じていて、もしかしたら自分の判断がずれているかもしれないと感じつつ行動していることもあるでしょう。

偏りが生じやすいのは、その対象が自分にとって重要な意味を持つ場合です。
自分にとって、より重要であるほど、そこで下した判断は間違っていないと信じたくなりますから、他の可能性を指摘されても、なかなか自分の判断を手放すことが難しくなってしまいます。

逆に言えば、自分にとってはどちらでもいいようなことについては、気軽に考えていますから「たとえそれが間違っていてもかまわないや」と思えるので、それを修正することになったとしても別に抵抗を感じません。

虫眼鏡探偵


自分の判断を強く握りしめてしまうときに問題なのは、それは確かに「自分は正しい」という感じを与えてくれるのですが、その反面それ以外の可能性を見ようとしなくなり、前進しなくなってしまうということにあります。

そんなときは、今の自分の判断こそが正しいと信じたいわけですから、他の可能性があることは知りたくないし、教わる必要もないと思ってしまうのです。

しかし、もしその判断を抱えていて、正直なところは行き詰まりを感じていたり、停滞していると感じるなら、思い切って自分の判断を手放してしまうことを考えて見たらどうでしょう。

実はどんなに正しい判断であろうと、ものごとは常に変化するわけですから、いつまでも正しくあることは期待できないのです。
昨日までの常識が、今日は間違いになる可能性もあるわけです。

ですから、むしろ「判断」というのは、軽く握っているぐらいの方がいいわけで、いつでも捨ててもいいくらいの気持ちでいれば、それにはまり込んでしまうこともなくなります。

意見を交わすビジネスマン

「判断」も、それが「信念」にまで発展すると、もっと扱うのが大変になってきます。

「今はこう思うけど、間違っていたらそれなりに別の解決も見えて来るだろうし、新しい見方を手に入れる事が出来るかもしれない。どっちでもかまわないよ。」くらいに思えたら柔軟性に富んでいると思いませんか。

じつは、「信念」とか「判断」というものは、捨ててしまった方がさっぱりして、気持ちがいいものです。

「信念」や「判断」という言葉から想像する顔の表情はどんなものですか?
きっと、硬い顔、怖い顔、力んだ顔が思い浮かぶのではないでしょうか。
それからもわかるように、手放せば自分を縛り付けている鎖をふりほどくような開放感を感じるものではないでしょうか。

そして、それを手放すことを怖がっているのが、何かを探ってみれば、自分を解放するための新しい発見もみつかるでしょう。

「なぜ、それを捨てられないのだろう?」と自分に問いかけてみましょう。
きっと実りのある問いかけになると思います。

今日は1つの判断を捨ててみましょう。


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寵辱には驚えるが若し(ちょうじょくにはくるえるがごとし)

寵愛と屈辱は人を狂ったようにさせてしまう。
それは大きな患いを自分の身体のように大切なことだと思ってしまうようなものである。

これはどういうことかといえば、自分が人から寵愛を受ければ喜んで興奮し、逆に屈辱を受ければ失望してやはり興奮してしまうということだ。これを「寵辱には驚えるが若し」というのだ。

老子道徳経 第十三章


この老子十三章の後半では、こういった名誉とか恥に動かされるのではなく、自分そのものを捧げる覚悟があるものに天下を任せるべきであるという意味の文章が続いています。

自分が評価されたことを、何らかの方法で知ったときに上機嫌になり、途端に自己評価を高めるのですが、逆に自分の評価を認めてもらえなかったり、期待した評定をもらえなかったりすれば、世をすねたり落ち込んだりしてしまうものです。

しかし、そういった名誉を追いかけ、他人からどう評価されるかが、自分の価値を決めてしまうのだと考えることでいいのでしょうか。
そうではなく、自分そのものの価値はそんなところにあるのではないのだと信じたいことでしょう。
ここには、「もっと大きなものにつながっている別の自分がいるのだ」と信じて平然としていればいいと思うのです。

父親と娘2


ところが、そうはいっても自分の普段のこころの動きを正直に見つめていれば、いかに他の人からどう評価されるかで、心が揺れ動いてしまっているのかを感じることでしょう。

これは、今までも何度か書いてきましたが、自分が親とかまわりの育ててくれた人から少しでも注目を受けようと努力してきたことに由来しています。

「自分は存在するだけで、まわりの人に受け入れてもらえて、手助けや愛情を受け取る資格があるんだ」ということをどれだけ信じられているか、これが大きく関与しているのです。

容易にそれを受け入れられる人は、それを信じられる状況を豊富に経験してきたのでしょうし、残念ながらそういうことに恵まれなかった人は、何とか自分をアピールしてまわりを認めさせなければならないと考えていくことでしょう。

それは、単純にどちらか片方だと言えるようなものではなく、ひとりひとりその現れ方は違っているでしょう。
ひとによって、ある面は容易に自分や他人を信じられるけれど、特定の場面では自信を持てないといった違いもあることでしょう。

しかし、ここで注意したいのは、無条件に自分を受け入れたり、他の人から受け入れられることを信じることが、本来のあり方なのだろうということです。

それを信じることが難しい場面もあるでしょうが、「だから自分はその価値があることを人に見せて証明するしかないのだ。」と考えて、それこそが自分の生きる道であるかのように錯覚しないことが必要だと思います。

結果の非難


たしかに、今の社会は測定できるような能力を獲得して、それを人に示して評価されることを理想とするような傾向があります。
社会のために何らかの能力を示せてこそ、その人の存在価値があるというのが、疑いようのない常識のようになっています。

しかし、その人の存在を評価することなど、誰かに出来ることではないでしょう.
ましてや、今の社会が基準とするような特定のことだけで、それを評価出来るものでしょうか。
社会の常識に毒され切っていないで、自分の正直な判断力を使って見れば、それはすぐにわかることだと思います。

承認されることに不安を持つ人は、他者からの承認がないとやっていけないと考えるため、絶えずまわりの顔色をうかがって、どっちがほめられるだろうかと、気にしながらいつも何かを達成しなければなりません。

そのような強迫観念にとらわれて、自分で高い目標を設定して、自分の努力をすべてそこにつぎ込んでいかないといけないわけで、常に苦しさがつきまといます。
「仕事とは苦しいもの」という、わかったようなわからないような言い訳をして納得し、社会もそういっているはずだと、また自分の位置を確認しなければなりません。

無条件の承認を受け入れられるためには、そのような強迫観念から脱却することを決心しなければなりません。
そんな外からの基準でしか自分を安心させられない体質を、根本から変革しようと考えなければなりません。

今の社会に生きていれば、元の状態に戻ってきなさいと常に誘惑されます。
自分の内面の基準で生きるなんて言っていれば、たちまち社会から取り残されてしまいますよ、まわりの人と同じようにしないと怖い目に遭いますよと脅かされるわけです。

「常に新しい目標を立てて頑張ってます。」
この言葉が、誰かまわりの人に向いているなら、いつまでもはてしないマラソンが続くことになります。
しかし、自分に向けての決心ならば、結果がどうであれ、それで自分が打ち砕かれるようなことはないでしょう。

外の基準でしか自分の評価をできないことは、どれだけ頑張っていようとも、結果次第でたちまち歓喜したり奈落の底に落とされたりする危険にさらされ続けることになるのです。

どちらを選ぶかは、簡単な選択ではないかもしれません。
しかし、どちらにしろ、確実な結果を保証してくれるようなものは、どこにも存在しないことは認識しなければならないでしょう。

「寵辱には驚えるが若き」自分からどれだけ解放されるか、挑戦してみる価値があることだと思います。


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子ども時代の遊びと現在の自分

子ども時代の遊び方を振り返って見ると、大人になってからのその人の行動や個性についても、さまざまなことが見えてくるものです。

遊びは子どもにとっては、単なる娯楽や楽しみだけではなく、成長するためにも欠かせない精神的、身体的な活動です。
そして子どもの頃の遊び方の中にも、すでに行動的で活発な表現をするのか、あるいは受け身な観察者になるのかといった傾向も現れてきます。

自発的で自然な表現で無邪気に遊ぶ場合もあれば、適応した面が強く現れて楽しみよりも相手に勝つことがもっと重要だと考えるかもしれません。

屋外で遊ぶ子ども


また遊びの中に、将来の予行演習として、自分の得意な役割というものも作り上げていきます。
その顕著なものは、ままごと遊びでの役割ですね。

あるいは、テレビやアニメの登場人物を演じてみたりします。
正義の味方になるか、悪役になるのか、主人公になろうとするか、好みの脇役を演じたがるのか、いろいろな個性が見えてくるものです。

当然そのような傾向は、その子どもの将来の職業にも影響を及ぼしてくるでしょう。
また、そのモデルとなるのは、両親の仕事や日頃の行動かもしれません。

子どもが、プレーヤーになって実際に行動することを好むのか、それとも観客として想像の中で自分が活躍するのを見ているかでも違いが出てきます。
それは大人になってからも、社交的な場面で自分が主役になろうとするか、取り巻きとして集団を眺めている方が楽だと感じるか、といったかたちで現れてくる可能性が高いでしょう。

子どもがどこで遊びたがるのか、あるいはどこで遊ぶように育てられたかというのも、結構重要な影響をもたらすものです。
つまり、外で友だちと一緒になって身体を動かすことが多いか、家にいてひとりで遊んだり家族とだけ関わって遊ぶのかという違いは、大人になってからもどちらを好むかに現れてきます。

そのような違いが出てくるのには、いろいろな要因が関係してくるでしょう。
たまたま外で遊びたがる友だちに恵まれていれば、外で遊ぶことが多くなったりするでしょうし、親の過ごし方を見て、それをまねるうちに好みが作られてくるかもしれません。

家庭で遊ぶ子ども


また、親のしつけや感じ方が、直接子どもの遊び場所についての制約をもたらす場合もあります。

家の中で子どもが騒ぐのが嫌いな親は、子どもに「家の中で遊んではいけない」と言うメッセージを送ってしまいます。

「外で遊んできなさい。家の中は遊ぶ所じゃないよ。」
「部屋を散らかすと怒るよ。」
「家の中で騒ぐんじゃありません」
「静かにしてないと、お父さんが怒りますよ。」

このような子ども時代を過ごしたとすると、大人になってからも、なんとなく外に出ないと息抜きが出来ないと感じるようになるかも知れません。

夫婦の間でも、やすらげる場所が正反対だと、一方が外に遊びに出かけたり旅行したがるのに対して、もう一方は家でのんびりすることを好むことになり、どちらかが犠牲になって我慢することになるかもしれません。

このような自分でも意識しにくい禁止令が働いていると、本人はなぜかそれを実行することに抵抗を感じてしまうのです。
そんなとき、相手が家の中に居たがったり、外に行きたがるのかがわかっていないと、単に自分勝手に決めてしまうことが許せないと感じてしまいます。

また遊ぶことが出来ないという大人も存在します。

「そうやって遊んでばかりいると、ろくな大人になれないよ!」
「勉強が終わらないうちは、遊びは禁止」
「遊んでるのは時間の無駄」
「おまえには遊ぶ時間などない」

このような「遊び」に対する罪悪感を植え付けられていると、大人になってからも出来るだけ遊びの時間が無いような仕事を選んでしまうかもしれません。
そして仕事の中に遊びが入ることを嫌ったり、だれかが無駄な時間つぶしをしているのをみるといやな気分になってしまいます。

おもちゃで遊ぶ子ども


それから、遊びかどうかはともかく、子どもらしい無邪気さで騒いだり、動き回っている子どもをみるといらついてしまう親もいます。
その親自身も、やはり子どもの頃に同様のことの禁止を経験しているのかもしれません。
この場合も、大人になってからも、ふざけたり、大きな声ではしゃいだりすることに抵抗を感じてしまうという可能性があります。

しかし、このような子ども時代の経験があったとしても、それは変えられないものではありません。
自分の無意識の抵抗がどこから来ているものかを感じ取って、それを変えようと決心することも出来るわけです。

それは、自分の中に存在して禁止を命じているのは、いまはそこに実際に存在する人間ではないことを理解し、自分自身に許可を与えることです。
頭ではどんな行動も取り得るとわかっていながら、実際に動けなくさせているのが誰なのか、そして、そこにダメだと言ってくる人が実際にいるわけではないことを理解するのです。

子どもの頃は出来なかったいろんなことを、大人のあなたは今は難なくやっています。
それと同じように、何となくあなたを動けなくしているその禁止令も、あなた自身が決意して許可を与えればいいだけだということを理解します。
そうすれば、いまここで自分がどう行動するかの選択肢は拡がります。
いままで、自分には縁のないことだと考えていた選択にも可能性が生まれるのです。


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他の人に変わってほしいとき自分を振り返ってみよう

他の人に何か変わって欲しいなあと思っているとき、実は自分が変わりたいと思いながらできずにいる部分を、相手に反映していることがあるものです。

たしかに、自分にはできているのに相手が変わってくれないから、期待するという場合もあるでしょうが、実は自分自身への期待を相手の中に見ているということも意外と多いものです。

叱る母親


このように自分の特性を他人の中に見ることを、心理学では投射(投影)と呼びますが、投射から自分を知るためのワークを少し見てみましょう。

◇自分が嫌っている人を思い浮かべてみる。

・この人を嫌いなのはどの点だろう?
その嫌いな点とは自分の中に存在するだろうか?
実は自分でもその特性を持っているという可能性は?

・この人に似た人を他にも知っているだろうか?
その人たちも自分は嫌っているだろうか?

・このような嫌いな特徴を持っている自分を想像して、自分がそのような行動をしている様子を思い浮かべてみる。
どんな気がするだろうか?
もしかすると、嫌っているけれど、実は自分にも同じ特性があるかもしれないと感じるかもしれない。

・人のやっているのを見て気にさわる行動を、自分もまねてやってみる。
ピンとこなかったら、そのしぐさを大げさに誇張してみる。

◇自分が賞賛している人を思い浮かべてみる。

こちらも、上の例を参考にしてやってみてください。
もしかすると、自分があこがれている人の特性を自分が持っていることを発見するかもしれません。


さて、本題に戻りますが、誰かに変わってほしいと感じる点について、自分自身を振り返って見てください。
そして、それが実は自分も変わりたいと思いながらできずにいることだと気がついたら、ぜひ自分が変わることを考えてみてください。

たしかに自分を変えるというのも、言葉で言うほど簡単なことではありません。
しかし、他の人については、自分のコントロールでで直接変えることはできません。
相手次第なので、自分ではどうにもできないことを願うのは、もどかしく、イライラする願いです。
ところが、「自分を変える」という方なら自分の決心次第でできるのです。
相手次第の世界から、自分でどのようにも出来る世界へ切り替えられるのです。

「相手が変わるべき」と決めつけていたのをやめて、自分が変わることを考えて見るのは、実に実りの多い試みです。
今まで「相手が変わってくれさえすれば」と思って先送りにしていたことこそ、実は自分を変えたいと思っていたことなのかもしれないのです。

自分で変わりたいと思っていることを、他の人から指摘されるのはいやなものです。

喧嘩する親子

たとえば、子どもが自分で気がついて何とかしたいと気になりながらも、うまく行動化できないでいらだっている。
そんなとき、親からそれを指摘されると、頭ではわかっていても、反発して意地でもやらないとへそを曲げてしまうかもしれません。

同じように自分でわかっていながら、実行できないでいることは、なかなか正面から認めたくないのです。
そんなときに、誰かの中にその特性を見つけたりすると、自分のことだとは気づかずに、「あの人は変わった方がいいね」と思ってしまうのです。

他人を変えることは、自分が変わるよりも何倍も大変な試みです。
そして、もし自分の投射として他人を変えようとしているのなら、たとえうまくいったとしても、あなたは満足することはないでしょう。
あなた自身が、変わることが唯一の解決なのですから。

相手次第で自分の気分が左右されてしまう事態を自分から作らないことです。
「相手が変わるべき」と意地を張らないで、「自分が変わってみようか」と「折れて」みたら、実に実りの多い変化が待っているかもしれません。

先程の子どもの例でも、最終的に解決を見るには、親子とも素直になって何をすればいいのかを認められるようになることが必要なのです。

いままでずっと解決しなかったのは、自分のプライドのせいだったのかもしれません。
「自分の方が折れてみる」という勇気を出した人は、驚くほど簡単に世界を変えられるのです。


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現在の状況を信頼できないとき怒りを感じるのです

よく観察してみれば、とっさに怒りを感じたように思えても、そこには過去の状況を思い出している自分が存在するものです。

「この状況はいつか似たようなことがあった。あのときも、相手が悪いと思って怒ってしまったが、結局傷つくことになった。今も同じ状態になってしまうだろう。」
このような回想が一瞬のうちに起こり、嫌な気分で終わるような状況に突入してしまうのです。

このとき自分を怒らせてしまったのは、過去の記憶です。
そして、そんなときには、今の状況をよく見ている自分は後ろに退いてしまいます。
今ここでの出来事に参加しているのではなく、過去の感情や状況を再現しようとしている自分が前面にいるのです。

怒っているハート


もし、いまここに留まれるなら、「多少の不都合はあっても、この状況もきっとなんとかできるはずだ。」と思って、自分や相手のことを信頼できるようになるものです。

一瞬のうちに過去に飛んでしまわないで、いまの状況にしっかり入り込んで、信頼できる自分や相手を感じてみるのです。
「あの時も傷ついてしまった」という記憶ではなく「今回もなんとかなるはずだ」という信頼に身を委ねてみましょう。

相手に怒りをぶつける代わりに、たとえば相手の深い感情を、ただ観察し認めてみることです。
たとえ相手の要求が不当なものに思えても、相手は今はそういう表現をするしか余裕がないのだと思ってみるのです。そういう見方に切り替えた途端に、ずいぶん感じかたは変わってくるでしょう。
怒りはおさまり、冷静に状況を見ることが出来ます。

肝心なのは、今目の前の言い争いに勝つことではなく、そのあとの嫌な気分を招く状況を作らないことなのです。

ちょうどクレームをつけてくるお客さんを扱うベテラン店員のように、冷静に自分が信頼を取り戻せる状況を作り出すのだと決心するのです。

怒る主婦1


目の前の議論に勝つのではなく、長期的なお互いの勝利を勝ち取るのです。

もしかすると、相手は肩すかしを喰らったように感じるかも知れませんが、不毛な言い争いには参加を拒否して何が起きるのかを見てみましょう。
相手もあとになって、あなたに感謝するはずですから。

不毛な言い争いは、習慣になります。
そして、毎回必ずそのあとには、嫌な気分が待っているのです。

いまの自分と相手を信頼すること。
きっと状況を改善できると信じて行動すれば、あとに待っているのは自分への信頼なのです。
それだけでも充分に見合った報酬であるはずです。

「また言い争ってしまった」と後悔しないで、「今回もまたうまく解決できた。いつもこうなるのはわかっているんだよ。」と言えるようになるといいですね。



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思い込みを捨てて身軽になりましょう

本当に必要なことと、ただやるべきだと思い込んで負担を感じていることとは、別のものであること。
これを見分けられると、ずいぶんと身軽になれます。

たとえば、知らないうちに見失ってしまっているのが、自分の人生は自分の内面から自発的に行動するものであって、外側の誰かに従うものではないという点です。

確かに自分で考える様になる以前から、私たちは周りの人間に従ったり、認められることを必要として育っていくわけですから、人の反応を気にしないで行動するということがなかなか出来なくなっています。

そして、気がつくと他の人の判断が何よりも重要だと考えて、自分の判断力を過小評価してしまうことはよくあることです。
その結果、自分の判断だと思いこんでいますが、実は負担になっていることの多くが、他の人がどう評価するかを気にしたり、恐れている所から発生しているわけです。

男の子悩む



最終的に決めるのは自分でOKなのだし、それ以外にないことをはっきり理解してしまえば、ちょっとした決断に自信を持てなくなることもなくなるわけです。

そして、なんとなく自分の行動に不安や恐れを感じる原因が、外側からの評価にあるときがつけば随分と身軽になれるのではないでしょうか。

また他の人の判断というものに、自分の身を委ねてしまうと、いつも自分は自分で決められないという不利な状況に自分を追い込んでしまうのです。
それはそうですね。他の人がどう決断するかは、あなたには確信できないわけですから。

それは、まるでいつも試験の合否結果を待ちながら行動しているようなものです。
自発的にもなれないし、いつも気分は不安がつきまとって晴れないままなのです。

入学試験


また、主客を入れ替えれば、自分で決めることを重視するようになれば、相手の人の判断する力を自分が肩代わりしようということもなくなります。
相手のひとは、自分で決断できるように助けてあげることが自分の出来ることであるし、その人の決断する内容は、あなたが責任を負うべきことではないのです。

ところが、自分が面倒を見た人が、何か間違った決断をしてしまうと、自分まで責任を感じてしまい、まるで自分が失敗したような気分になってしまうことがあります。
しかし、例え失敗に終わったとしても、その人が自分で決断したということが重要なのであって、それをまわりが評価することではないのです。
また、そんなときは、きっと自分でも自分のことを決断できなくなっているのではないでしょうか。

外側にある一時的なものを、それに頼らないと生きていけないかのように思い込まないことです。

たとえ今は、目の前にあるその何かが自分の人生のすべてに関わる重要なことに見えても、それに頼らないとどうしようもないと思い込まないことです。

何か目の前のことに頼ろうとするときには、変化に対応できない自分の思い込みを強化してしまうことになりますから、それに頼るような選択しかできない自分になってしまうのです。

どんなに重要なことに見えても、いま目の前にある一時的なものを過大視しないことです。
たとえそれがダメになっても、その時はその時で、頼れるものはいつも自分の内側にあるのだと信じられるとき、あらゆる不安は消え去ります。。

どうしてこんなに人生は大変で疲れるのだろうと思う時には、必要のない荷物を下ろす時なのだと考えてみるといいのではないでしょうか。

それは、誰が決めたわけでもなく、あなた自身が作り出したルールやお荷物なのですから。

ガッツポーズをする女性


自信は、自分の内面から来るものだけをあてにすることです。
外側にあるものから来る自信というのは、いつか一気に自信喪失に反転してしまうものです。

本当に必要なことは、自分の内側を信頼できるようにすることです。
そのためには、外側の何かや、誰かに頼りたくなるのを拒否し続けることです。
ひとつ頼るものを作れば、一つ不安の種を作り出すことになるのです。

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現代社会と老荘思想(8)

『COCORiLA (ココリラ) ?癒しのポータルサイト?』様
にて老荘思想のコラムを連載中です。

【今月のコラム】

「現代社会と老荘思想(8)」 [2010/09/05]


自然な調和を取り戻す

聡明さなど排除し知識を捨てれば、ひとびとの利益は増加する。
人の道にこだわらず正義を追求しなければ、ひとびとに親子の情愛が戻ってくる。
うまくやろうとか利益を追求しなければ、ひとびとは盗んだり不正を働くようなこともなくなる。
このようなものは、人が作り出した不充分な知恵なのだ。
本来の自分そのままでいればいい。
いろんな色に染まらず、加工されない荒木のままでいること。
必要以上に我をはったり、欲をもたないことだよ。

老子道徳経 第十九章



ハンモック


【今までの連載記事】

「現代社会と老荘思想(1)」 [2010/02/15]

「現代社会と老荘思想(2)」 [2010/03/06]

「現代社会と老荘思想(3)」 [2010/04/10]

「現代社会と老荘思想(4)」 [2010/05/02]

「現代社会と老荘思想(5)」 [2010/06/06]

「現代社会と老荘思想(6)」 [2010/07/11]

「現代社会と老荘思想(7)」 [2010/08/14]



以下のサイトで連載しています

癒しのポータルサイト:COCORiLA (ココリラ)




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PCの故障のため数日間、新しい記事の更新やご訪問を休ませていただきます。

とりあえずご報告のみで失礼します。
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怒りに隠された自分の罪悪感

怒りの感情は、普通に考えれば「相手が自分に対して悪いことをした」から怒っているのだということになります。
しかし、そのほとんどは、自分自身に対する気持ちを、相手に投影したものです。
つまり、自分自身に罪悪感を感じるから、それを相手が悪いことにしてしまおうとするわけです。

自分が怒っているとき、私たちはその原因に対して、自分にはまったく関係なく、自分は何も悪くないふりをしてしまいます。
しかしその怒りや攻撃の元になっているのは、自身への恐れや罪悪感なのです。

たとえば、子どもが悪いことをしでかして親や先生に叱られたとき、素直に認めたくなければ、誰か他の人が悪いから自分はこんなことをしてしまったんだ、自分は何も悪くなんかないんだと開き直ります。
そこに怒りの感情を含ませて、自分の罪悪感を隠そうとするわけです。
これが、いわゆる逆ギレというものですね。

僕が正しい


親が自分の子どもを叱っているときも、思った通りにいうことを聞いてくれない子どもを見て、冷静さを失って感情的になってしまうのは、たとえば自分の育て方に責任を感じているかも知れません。
「なんでこうなってしまったの、私の責任かしら」と自分に対する罪悪感がそこには潜んでいますが、それを素直に認められないと怒りで感情的になって一時的にでも目をそらそうとするのです。

このように怒りは、本当は自分は正しくないのを薄々感じていながら、素直にそれを受け入れることができないため、相手を攻撃して無理矢理自分は正しいと証明したいという衝動なのです。

ですから、いったんそのいいわけを使い始めてしまえば、自分でその誤りを認める気にならない限り、その怒りをいつまでも続けなくてはならなくなります。

こんな状態の人には、相手が冷静になれるまで、相手をしない方がいいのは経験されているのではないでしょうか。
自分の正当性が脅かされるような意見は、感情的に拒否してしまいますから、どんな正当な意見も逆効果になります。

そして、そのような怒りは、周りにいる無関係な相手もターゲットにされてしまいます。
もはや、怒りの原因が最初と違っていようと関係なくなり、だれかれかまわず怒りを発散するという八つ当たり状態になってしまうのです。

どこか怒りというのは、理屈を超えて不当さを伴うものです。

その不当な不適切な行動を助長しないために自分でできることは、怒りを使ってまわりの状況を動かそうとしている自分を認めてその行動をストップすることです。

自分の怒りで、まわりが仕方なくしたがってくれたことに味を占めて、同じやり方を使おうとしている自分を阻止するのです。
本当は自分に非があることを感じながら、まわりを責めて従わせても、自分自身を騙すことは出来ません。
それをくりかえせば、だんだん自分自身への信頼を失ってしまうことになります。

父親と娘1


しかし、怒りがどんな場合もいけないと決めつけて、怒りを自分から閉め出すのもまた考えものです。

たとえば、親が真剣に子どもを叱っている。
子どもは、いくらものわかりがよくても、自分にまったく無関心でいられるよりは、真剣に叱ってくれる親に愛情を感じられるものでしょう。

親が自分の弱さや恐れを隠す為に、感情的になって怒ってしまうのは問題があります。
それはもはや相手が誰だろうと同じで、自分の恐れから来ている行動だからです。

しかし、子どものことを考えて真剣に怒りを表しているのを感じられれば、子どもはたとえそこに親の弱さを見たとしてもそれを軽蔑することはないでしょう。

また、親が怒りや感情をまったく表さない人だと、子どもはまたそんな親を自分の中に取り込んでしまいます。
子どもにとっては、怒りを表さない親を見ているのは、自分も同じようにしなさいと教えられているのと同じだからです。

さて、そのような場合はともかくとして、普段から無意識に怒りを発散しまくっている自分に気づいて何とかしようと思うのなら、怒りを感じている自分を発見したときの見方を変えて見るのはどうでしょうか。

それは、自分が怒りを感じたとき、そのきっかけになった人に対して、
自分の怒りの原因の張本人だと見るのをやめて、
自分の罪悪感を知らせてくれている人なのだと見てみることです。

一瞬自分がムッとしたときに、そこに自分の罪悪感が隠れていないかを確認してみるのです。
その気になれば、そこに自分の弱点を指摘されて、それがあらわになるのを恐れている自分が見つかるでしょう。

怒りの原因を認めない限り、いつもきっかけがあれば再燃してしまう原因を抱えていることになります。
いつまでも、怒った後に後悔の念を抱きながらも、同じ怒りを繰り返すのを阻止するのです。

衝動的に怒らずに、自分の恐れをそこに発見して認められれば、自分への信頼感が高まります。
怒りを発散した後に感じるむなしさ、後ろめたさを繰り返さなくても済むようになるのです。


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もしわたしが宇宙だったら

課外授業 ようこそ先輩「生命の起源を旅しよう」という番組を見ました。
NHK 課外授業ようこそ先輩 | これまでの放送 長沼毅

小学生を対象とした体験学習という形式の授業内容です。

途中からしか見ていませんが、そこでは、転がっている石ころを拾ってきて、この中に生命はいるだろうかということで、石を粉になるまで砕いてシャーレの培養液に入れます。
時間をおくと、石の中にいた無数の微生物がシャーレの中で活動を始めていました。

どんな辺境でも逞しく生きる「生命」、こんな石ころの中にも生命が存在する、「生命ははびこる」と長沼さんは言います。

そして、ではこの生命というものが地球上にいなかったらどうなるだろうか?
生命がいようといまいと、やはり太陽は東から昇り、宇宙という存在もそれに関わりなく活動し続けるだろう。

種と双葉


では、なぜ生命がこの地球上にいるのだろう、自分がこの宇宙を作った母なる存在だったらどう思うだろうか?
宇宙の創造主になったとしたら、あなたは生命をこの星に存在させようと思っただろうか?

こんな風に話が進んで、子どもたちに作文を書かせます。

「もしわたしが宇宙だったら」

子どもたちは、宇宙の気持ちになって生命の存在意義について、どのように考えるかを作文に書きます。
記憶に頼っていますが、大体こんな内容の文章が紹介されます。

「人がいれば苦しいことも、楽しいことも両方ある。でも人がいなければ、そんな楽しいことも苦しいことも何も存在しなくなる。わたしは生命を作り出すだろうと思います。」

長沼さんは、こんなことを言います。
人生は苦しいことが9割で、楽しいことは1割もないかもしれないとお釈迦さんは言っています。
それでも、大人たちは苦しいと嘆いているばかりでなく、楽しそうにしていますね。
それが知恵というものです。
知恵があれば、苦しいことはあっても楽しく生きられる。

「人はいろいろな争いを起こす存在。僕はこんな生命なら、いない方がいいかもしれないと思います。」

長沼さんは、いいます。
争いを起こす存在は問題です。でもそれでも宇宙は生命を作ってしまいました。
宇宙は生命を作り出さなかった方がよかったのかな?

「やっぱり生命には滅んで欲しくない」と男の子。

もうひとりの女の子は、「もし宇宙に生命というものがなかったら、そこは何にもない。誰もなにも感じないさみしいところ。宇宙が生命を作り出してくれたことに感謝します。私がこの世界に生まれたことを嬉しく思います。」

長沼さんは感激して「素晴らしい。」と一言。

こんないろんなことを考えさせる課外授業でした。

「もしわたしが宇宙だったら」、あなたは生命を作り出したいと思うでしょうか。
生命には、どのように生きていて欲しいと思うでしょうか。

宇宙1


そして、このような身近な生活から遠く離れた位置から眺めてみたら、あなたは自分の生命としての存在をどう思うでしょうか。

「人間と自然の共存」という視点もありますが、まだどこか人間を特別視した見方なのかもしれません。
人間も宇宙のその長い長い変遷の中では、ほんの一瞬にしか登場していない存在なのでしょう。
人間がどんな存在になろうと、宇宙全体から見れば取るに足らない一ヶ所のうごめきでしかないのです。

そんな中で、私たちが思い悩んで人と争っている姿など取るに足らないものです。
たとえば、あなたが他の人よりももっと優秀な人間でありたい、競争に勝ちたいと宇宙に願ったとして、宇宙の創造者はどう思うでしょう。
どうせどの人間も同じことを願っているから、誰かの願いだけかなえるわけにはいかないと思うのでしょうか。
それとも、気まぐれに格差を作り出して遊んでみようと思うのでしょうか。

いずれにしても、そんな違いは、ほんの一瞬に起こる出来事に過ぎないし、生命全体の視点に立てば、そんな一つの生命の願いなど、いちいち扱う対象ではないのかもしれません。

そのような視点に立って考えるなら、私たちが悩んでいることなど、身のほどをわきまえない悪あがきにしか見えません。
宇宙からみれば、そんなことで悩んでしまう生命を作った覚えはない、そんなことで騒いでいるようなら、ちょっとしたバグに過ぎないと言うでしょう。
本来の設計では、生命はそんなことで左右されるようなものには造っていないのであって、人間が勝手に勘違いしているだけだと。

気象災害

台風が来たって朝には静かになっている
大雨が続いても1日で終わるだろう
このように天地の働きでさえいつまでも続くものではない。
人が考えてやっていることなど長続きするわけがない。
老死道徳経 第二十三章



あなたの悩みなど、宇宙の視点からはそもそも問題にもならないもの。
あなたが宇宙なら、もうすこし勘違いしない生命だけにしておこうと思い直すでしょうか。


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自信が持てないときは他の人に手をさしのべる

うまくいかないことがあって気分が落ち込んでいたり、何かの出来事で傷ついたり、今の自分がどう思われているかが気になったり、なんとなく否定的な気分が支配的な時というのがあります。

そんなときは、屈辱感とか罪悪感、あるいは正体のはっきりしない恐れの気持ちから、何かをやるにも自信が持てず、自分が非常に小さな存在に思えてしまうものです。

このような困難に向き合ってしまった自分を感じたら、自分の内面を怖がらずに振り返って見ることも大事ですが、もう一つの脱出方法として、自分ではなく他人に意識を向けてみることを試してみましょう。

失敗授業中


あなたのまわりの人を見回して、あなたの助けを求めていそうな人を見つけて、手をさしのべてみることです。
何か自分に出来ることはないかという見方で、相手の状況を聞いてみましょう。

自分の苦悩はひとまず横に置いて、他の人の問題に自分の関心を集中させてみます。

自分の傷口を見直して悲惨な感情にのたうち回るのではなく、自分から人に手をさしのべて相手の問題に取り組むとき、相手もあなたも共に癒されるのです。

そんなとき、あなたのぼろぼろになりかけていた自信は、いつのまにか「なんか問題なんてあったの?」というように小さな問題になっているかもしれません。

それよりも、あなたが手をさしのべ、他の人に何かをしてあげられたことで自分への信頼を取り戻し、また自分が他の人から必要とされていることを思い出して勇気が湧いてくるのです。

「今の自分よりも大変な人はいないだろうか?」という目で見てみれば、自分の問題などどうでもよくなって、もっと大事なことを思い出すかもしれません。

相談1


「自分のため」が「人のため」に変わり、また「人のため」が「自分のため」になって返ってくるという、いい流れに自分が乗っているのを発見するでしょう。

人を助けようとするとき、自分がひとりでいたのでは、起きてこなかった勇気が湧き上がってくるのを感じます。
人の為に動いていると、自分の為にやっていたときには出来なかったようなことを平気でやっている自分を発見します。

人を助けているつもりが、自分も相手やまわりの人から支えられていることを実感し、相互依存の関係を感じることが出来ます。

人をリードしているつもりが、自分が人を活かしているのではなく、人に助けられたり支えられてその中にいることを発見するとき、自分の孤独感や、他人からどう見られているかなどの不安というのは消え去っています。

自分の出来ることは、それを必要とする他の人の存在があってこそ意味があることを見いだしたとき、孤立している自分ではなく、流れの中で他の人と一緒に存在している自分を実感できるのです。

自分に自信が持てないときは、他の人に手をさしのべてみましょう。


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