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失望は見直すきっかけ

「失望」、期待したとおりにものごとが進まなかったとき、どう対応するかを振り返ってみるとさまざまなことに気がつきます。
大きく分けて、三つの点から見ていきましょう。

・簡単に諦めてしまう

これは程度の問題ではありますが、ちょっと行き詰まるとあまりにも簡単に投げ出してしまうという人がいます。
このような人は、あらかじめ、「自分のまわりに起こることはうまくいかないようになっているんだ」とでも思い込んでいる様に思えます。

なにかまとまった計画を実行するには、少々のつまづきでいちいち断念していたのでは何も出来ないでしょう。
どこまで粘るかは、実は後に述べることと合わせて考える必要がありますが、目の前の状況にとらわれすぎない程度には、必要最低限の粘り強さは必要なことだと思います。

そのような傾向がない方には、奇妙に聞こえるかもしれませんが、自分のやろうとしていることがうまくいってもいいのだと自分に許可を与える必要があるのです。
その許可を与えれば、諦める必要はない、もう少し頑張ってみようという気が出てくるでしょう。

お手上げの子供


・なんでこんなひどいことが起こるの?

「なんでこんなひどいことが起こってしまったのだ。」
「こんなことは信じられない。」
「こんなことは起こるべきではない。」

失望を感じたとき、最初は誰しもその事態を嘆いてしまいますが、いつまでもその段階にとどまって何も出来なくなる人がいます。
落ち込んで何もする気がなくなったり、他の事をやりながらも、何度も何度も悲惨な事態を嘆き続けるという行動をとってしまいます。

この段階にいつまでも留まるのは、失意を盾にして本来の生きる流れをせき止めてしまうようなものです。
最初はひどい出来事のせいにしていられたとしても、そのうち何もしないでいる自分を責めることになります。
自分を責めながら、しかし状況を進展させる行動にあえて踏み切れないという悪循環に陥ってしまうのです。

そんなときは、次の新しい視点を検討してみるのがいいかもしれません。

探す1      ひらめきOL


・失望はそのとらわれを解放するチャンス

失望した出来事は、修復可能なものもあれば、とてもやり直せそうにないこともあります。
しかし、期待が大きかったほど、修復不可能という事実は受け入れるが難しいものです。
何とかしたいという思いが強すぎたり、その結果を受け入れたくないと言う思いが強いと、冷静さを失って現実離れした判断を信じ込んでしまったりします。

この場合も今までのやり方を継続するのか断念するのかは、どの程度で線を引けばいいか難しいものです。
その人の今までの経験も判断力に影響してきます。
それまでほとんど失敗なしに進んできた人ほど、挫折は大きなダメージを与えやすいでしょう。
いままでのやり方で何としてでも進んでいきたいと、別の可能性もあることを見えなくしてしまうかもしれません。

ここは、いったん今の状況を離れて、トータルな視点で今の気になっている状況を見直してみるのがいいでしょう。

期待していたことが裏切られた直後は、どうしても今までの努力を引きずっていて、その方向で続けたいという見方が強くなってしまいます。今までの苦労をムダにしてなるものかと考えたいわけですね。

しかし、この失望の経験は、「今こだわっていることを、いったん手放してみたらどうなるだろう?」と考え直してみるいいチャンスになるかもしれません。

今は目の前にある期待が実現することが、自分の今後を決めるために最重要な一里塚に見えるかもしれませんが、きっぱりとその思いを解放してみたら、視野が広がって思っても見なかった新しい可能性が開けてくるかもしれないのです。

人間は人生から問われている存在である」という見方も、このような目の前の状況にとらわれない発想があってこそ出てくるものなのでしょう。
もっと違う方向に進んでいく自分の方が、より自分に合っている可能性だってあるわけです。

それから、場合によってはそれが実現しないと自分は先に進めないと思い込んでいて、それがいままで自分を縛りつけていた張本人だったことを発見するかもしれません。

トータルな視点で見直せば、今こだわっているやりかたがすべてではないという新しい発想が出てきます。
選択肢は他にも色々あったんだと初めて気づけるかも知れないのです。

このように見てきますと、「失望」も残念な出来事ばかりとは限らず、新しい可能性への解放の機会になりうるものだといえるでしょう。

そして、期待していたことを断念してみることが、思っても見なかった自分の苦しさを、解放するきっかけになることもあるのです。


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被害者は加害者?

周囲の人は自分に辛くあたったり嫌みを言う人が多い、自分は損な役回りを引き受けることが多いと感じていないでしょうか。

自分はいつも被害者だと感じるとき、ちょっと自分を振り返って、自分の側にも問題がないだろうかとチェックしてみるのもいいかもしれません。

そこには、自分はいつも正しく、悪いのは常にまわりの人の方だという構えが出来ていないでしょうか。

自分が人にしてあげたことは大きく感じて覚えているのに、人からしてもらったことは当たり前のように感じて小さな扱いしかしていない。

人から傷つけられたと感じたことは、いつまでも心に刻み込んでいますが、自分が人を傷つけたことはあっさりと忘れてしまっている。

多かれ少なかれ、人はこのように自分の都合のいい方に結果を処理してしまいがちです。

うわさ話


しかし、このことを「ひどい人間」だ、「あってはならないこと」だというように価値判断して排除してしまわない方がいいのかもしれません。
人にはそういう傾向があるものだという程度に認識していれば、自分の中にそのような傾向を見つけても素直に受け入れる事が出来るものです。

そして、このような傾向に気づかないまま自分の構えを作っていると、どこに行ってもまわりは加害者ばかりいる、ひどい世界だと感じてしまいます。
一方で自分はいつも被害者で、人から同情される立場なのだと決め込んでいるわけです。

しかしまわりの人が加害者に見えるのは、自分の中にもそんなひどい行為をする人間を抱えているのだということに気づく必要があります。
むしろ順序は逆であって、自分の中にある人に対する攻撃性を、まわりの人の中に投影して見いだしているのではないだろうかと考えて見ましょう。

私たちは、年中同じ気分で一定しているわけではありません。
それどころか、ほんのちょっとした出来事が引き金になって気分は揺れ動いています。
一瞬のうちに被害者が加害者に、あるいはその逆に立場を変えてしまうこともよくあることです。

自分は両方の要素を抱えているんだと認めていれば、片方に留まってしまうことはないでしょう。
しかし、いつも自分は被害者だと感じる傾向があると思ったら、自分のまわりの人に対する構えを見直した方がいいかもしれません。

2つの感情


まわりの人がみんな意地悪で、自分を今にも攻撃しようとしている人ばかりだと感じるなら、知らないうちに、自分がそのような姿勢を積み重ねてきているのかもしれないのです。

正直に、自分が日頃から加害者であったり、被害者であったりとコロコロ変化しているのだと認識するようにしていましょう。
そうすれば、急に落ち込んでも、「そうか、今はそんな偏りを感じていたのだ」と気づいて自分の落ち着きを取り戻せるようになります。

慢性的にどちらかの傾向が強いと感じるなら、そんな自分が積み重ねてきた思い込みを見直すことです。
急に周囲の人の方だけ変化するわけではありません。
あなたの側の変化が、徐々にまわりの人の見方を変化させているのです。
誰かの同じ行為を見ても、あなたと他の人では感じ方が違うのです。
一方的に相手に責任があるのではなく、あなたの被害者側に立とうとする構えがそのように見せているのです。

そして、自分を被害者だと主張し続けるときに、まわりに集まってくるのは、同じく自分の被害を自慢していて、いつ加害者に転じてしまうかわからないような人ばかりになってしまうのです。
ひととき同じ仲間を見つけたと思ったとしても、すぐにそこはさらに悲惨な集まりであることを発見してしまいます。

自分と他者のどこを重視し、どこを受け流すかを見直してみるべきなのです。


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人間は人生から問われている存在である

『夜と霧』などで有名な精神科医のヴィクトール・フランクルは、このように述べています。


「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない」

人生の意義 - Wikipedia ヴィクトール・フランクルの見解



「人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている」のだと言います。

私たちが「人生の意味は何か」と問いかけるのは、自分が日頃やっていることに対して、これでいいのだろうか、こんなことをやっていて意味があるのだろうかと疑問を持った時でしょう。

そしてそれは、何か自分の知らない意味が、どこかに隠されているのではないかと思っているからなのでしょう。

しかし、それではただ好奇心からそんな問いを発するかといえば、そうではないような気がします。
そこには、問いを発したくなるような今の生活への不満や、不安があり、それを何とかしたいという要求が生まれたからではないでしょうか。

考えるウサギ


かつて日本の戦後の高度経済成長期においては、国民も国も一体となって成長することを目指していました。
個人の願いは国の成長とも利益が一致し、努力し生産性を上げることが社会のためでもあり、個人の利益でもあったわけです。
そのような時代には、私たちは「人生の意味は何か」と問いかけたくなることは少なかったのかもしれません。

しかし、高度経済成長が終わり、外側に目標がいつもあった時代が変化すると、私たちは働くばかりの戦士ではなく個人の生活を重視するようになってきます。
社会のためと言うよりも、自己実現ということに重点を移そうとしました。

ところが、自己実現とは何かと考えたとき、「私のやりたいこととは何か」がわからなくなってきます。
外側に何か具体的な目標があった時代と違って、今は欲しいものはすぐに手に入る時代です。
何かものを手に入れるということを目標にするのは、現代でも同じでしょうが、かつてほどそれは大きな動機にはならなくなってきています。

「自分の人生は自分で選択する」と宣言したものの、やりたいこととは何なのか、なりたいものとは何なのかが見えなくなっている時代なのです。

そんな中で、フランクルは「人間は人生から問われている存在である」それに答えるのが私たちの役目だと180度方向転換した見方を訴えます。


ところで、「私のやりたいことは何なのか」が答えられないのは、元々そんなものは存在しないからだと考えることも出来ます。

そもそも「私の○○」とはどこから生まれてきたのでしょうか。

私たちは、生まれたときから「私」を知っているように思ってしまいますが、「私」が他の人やまわりの存在とは別の存在であると知ったのは、生まれてからしばらく経ってからなのです。

そして、「私」と他の存在を区別するようになってから後、「私の○○」という言葉で表現される私の所有や、私の属性が生まれてくるのです。

それらは、自分が生まれてから、後付で意味を持たせたものであり、その多くは自分の育った環境や社会の影響を受けた偏ったものであるはずです。

ひとりひとりが、その偏り方は異なっているし「私の○○」で表されるものは、ほとんどが私が「それ故に私であると」感じられるようなものではありません。

別に私でなくてもそれを所有したり、行ったりできる人はいるわけで、私だけにできること、私にしかできないことというのは、そんな借り物の「私」をいくら探してもなかなか見つかっては来ないのです。

たまたま今所有しているものや、今の自分の欲しがるものをいくら寄せ集めても、これこそが「私」の存在であると言えるものなど見つかるものでしょうか。

そこで視点を変えて見れば、今の「私」のほとんどは、後からどこかから借りてきたイメージに過ぎず、本来の私といえるものは、それ以前の自分の存在の中に最初から持っているものであると考えることも出来ます。

動物と果実

そもそも私が「私」を知る以前の存在だったときに、自分を生かしていたものとは何であるのかということです。
「自分がどう生きるべきか」その答えを知らなければ生きていけないかのように考えるのではなく、それ以前に自分を生かしてくれているものの存在があったと考えることも出来るわけです。

そんな「生」のはたらき、「生」の発現というものがあると考えるなら、それらを動かしている何かがあるのだろうと感じられます。
また人間だけが生きているのではなく、自然の中の存在の一つとして私たちも生きているのであり、それらを動かしている共通の働きというものがあるのではないかと思えてくるのです。

そんな「共通の働き」「生」の働きかけに対して君はどう答えるのか?
それが、フランクルのいう「人間は人生から問われている存在である」ということなのではないでしょうか。

その問いに答えるには、どこかで身につけた「私」にこだわっていたのでは無理でしょう。
そんな「私」という名前にとらわれない何かを見ようとしなければなりません。

名前をつけても、それにとらわれすぎないことです。
名前をつけるだけならいいのですが、それが単なる名前を超えて実存するものに見えて来ると、新しい災いが発生するのです。

始めて制して名有り
名も亦た既に有れば
夫れ亦た将に止まるを知らんとす
止るを知れば殆うからざる所以なり

一度名前がつくと他の物との区別が生じます。
それを推し進めると、やがて差別や偏見を生み出し、いろんなやっかいな問題を発生させます。
だから名前にこだわりすぎるのは程ほどにしなければならない。
程ほどにしておけばやっかいなことが生じる心配が無いのです。

老死道徳経 第三十二章



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自分の人との関わり方を知ろう

このブログではよく自分の内部を見てみようということを言っています。
実際外側に自分の求めるものがあると思って探し回っていては、肝心なポイントはなかなか見えてこないものです。

しかし、そうはいわれても、
「自分の中をいくら覗いてみても何も見えてこないよ。」
「まるで禅問答でもやっているみたいでさっぱりわからない。」
といった印象を持たれるかもしれません。

たしかに手がかりがまるでないと、いくら自分をのぞき込んでも、どこから手をつけていいのかわからないということもあるでしょう。

そういった場合、自分を見つけるには、自分の人との関わり方(交流の仕方)を眺めてみるのが取っつきやすいかもしれません。

「眺めてみる」という表現を使ったのは、解釈を入れずに、主観的にならずに、自分が他の人とどんな関係を作って交流しているかを見てみることです。

「私はいつも人とは○○な立場で接することにしています。」

これは、自分のあるべき姿の説明ですが、問題は実際に自分が何を語り、何を感じているのかという点にあるのです。
極端に言えば、自分のスローガンとか、どうしようと思っているかはどうでもいいのです。
実際に自分が何を言っているのか、何を感じているのかに意味があるのです。

話し合い1


心理学が現在のような発展を遂げるために欠かせなかったこととして、主観にたよって心を調べるのではなく、その人がどう行動しているかを調べることでその心理を捉まえようとした点が挙げられます。
「自分はこう思ってやっているつもりです」と言っっていたとしても、実際の行動を見てみるとまったく違う事をやっている場合もあるわけです。

ですから、実際に自分が人に対して何を言っているのか、そしてその時何を感じているのかを第三者的に観察してみることです。

自分の使っている言葉を見て誰をどうしようとしているのかを調べて見るのです。
また、言葉の意味にとらわれずに、その時自分は何を感じているかを観察してみましょう。

たとえば、「人は他人にもっと親切にするべきである」と怖い顔をして語っている人は、道徳のあり方を訴えたいのでしょうか?
実際に感じているのは、意外にも「どうしてみんな私に親切にしてくれないんだろう?」という嘆きなのかもしれません。

言葉の字面通りの意味ではなく、何を感じているかを感じ取りましょう。

それから、「私はいつも人とは○○な立場で接することにしています。」という方針を持っている人は、自分はいつも、誰に対しても同じ接し方をしていると思い込んでいます。

しかし実際には、人は相手次第で感じ方はどんどん変化しています。



目の前の上司の言葉に脅えていた人も、上司がいなくなって仲間うちだけになった途端に、表情も話し方もころっと変わったりするものです。
自分の人との関わり方についても、一瞬の間に変化する自分のこころの動きを見逃さずに注意してみましょう。

その時何が起きたのか。
目の前に誰か新しい人が登場したのか、誰かがいなくなったのか。

あるいは、今まで平気だったのに急に不安や落ち込みを感じたとしたら、なにかきっかけになる特定の言葉がなかっただろうか。

そんな変化に気づくようにしようと心がけていれば、手がかりになる変化にパターンがあることが見えて来るでしょう。

家族団らん


では最後に、そんなパターンの一つをご紹介しましょう。
自分の人との関わりをチェックするのに、きっと役立つ点が見つかると思います。

それは以前にも書いたことがある「カープマンのドラマの三角図」に登場する3つの役割です。

迫害者(P)(私はあなたより優れている、あなたは劣っている)
救助者(R)(私はあなたより知っている、あなたは不適格だ)
犠牲者(V)(私は無力だ、あなたは私より優れている)

あなたは、他の人と話すとき、どの役割をとりやすいでしょうか?
あるいは、自分がまわりに集めようとするのは、どの役割の人でしょうか?

その役割をとったとき、あなたの気分はどのように変化するでしょうか?
あなたの毎日出会う人は、どの役割をとりやすいでしょうか?

あなたは、実際に誰と誰の交流に入り込んでいることが多いですか。
たとえば、いつもあなたが救助者で、相手は犠牲者でしょうか。
特定の人が登場した途端に、あなたが役割を変化させるのはどんなときでしょうか。

あなたは、どの役割にいるときに、一番いごこちがいいでしょうか?


ところで、このような三つの役割は、どれかが絶対的にいいとか、悪いとかではありません。
どれが必要で、どれは排除すべきだというものでもありません。

肝心なのは、現実にどれかが採用されている事実にあります。
それに気づいて、いまやっているのが不自然な交流だと気がついたら、もっと自然な交流の仕方に切り替えられないだろうかと考え直してみることです。

ひとりでいる間は誰かを救ってあげようと考えていたのに、誰かがそこに現れた途端に自分が「犠牲者」になったと感じるかもしれません。
そんなとき、どちらが自分のとりやすい立場なのだろうと考えて見て下さい。

自分がどんな方針を持っているかではなく、実際に自分が感じていることに注目しましょう。
どう考えているかではなく、どう行動しているかを調べるのです。

一つ発見すれば、一つ自分を解放できるのです。
解放された感情は、それまで思っていたような恐ろしいものでも、隠すべきものでもないのがわかってきます。
今まで何を脅えていたんだろうとばかばかしくなるでしょう。

逆に発見されない感情、つまりは解放されない感情は、いつまでもアイドリングを繰り返しているようなもので、「いつか出番を」と待ち構える、やっかいな感情になってしまうのです。

自分の交流の仕方の傾向を知りましょう。
きっと役に立つ時が来ます。


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言葉で説明出来ないものを見直す

あざやかな説明を聞かされると、うーんなるほどと感心して、きっとそれは真実に違いないと思ってしまうのは誰しも経験することでしょう。

たしかに説明は首尾一貫していて、説得力を持っていましたが、それはひとつの解釈でしかないことを忘れてはなりません。

たとえば、科学的に証明されているという言葉を使われると、私たちのほとんどは無条件に信じてしまいたくなります。

しかし、科学もその前提や論理があってこそ成り立つものであり、そこで説明されているのは現実の一側面でしかないことを忘れてはなりません。

そして、もっと重要なのは、見事な説明が成り立つのは、説明出来ないことを切り捨てているからかも知れないという事実に注意することです。

言葉で説明出来ることは、説明出来ないで残されていることのごく一部でしかないこと、言葉に含まれないでいることの中にこそ、もっと重要なことが隠れている可能性を忘れてはいけないのです。

医師の説明と老人


言葉で説明していない部分がいかに重要かということを示す例として、何かを買い物する場合を考えて見ましょう。

あなたは、なにか関心のある商品を実際に見てみようと思ってお店に行ってみます。
あったこれだ、と言ってそれをあれこれと見ていると店員さんがやってきます。

いくつかやりとりするうちに、あなたはその気になってそれを購入します。

「なぜこれを買ったのですか?」と聞かれると、あなたはその商品の優れた点や値段が割安だったからといった理由を説明します。
「それと、店員さんが感じよかったから」と軽く付け加えるかもしれません。

しかし、その論理的な説明の多くは「あとずけ」といったものであって、実際は最後にぼそっと付け加えた「店員さんが感じよかったから」と言う理由が最も大きな理由だったかもしれないのです。

慣れていない販売員は、マニュアル通りに隅から隅まで説明しようとします。
しかしお客さんからすると、自分の関心のないことはそんな説明はいいよ、面倒だなと感じてしまうのです。そんなことより、もっと自分が迷っていることについて、新しいことを教えてくれないかなあと思っているわけです。

これに対して、ベテランの販売員であれば、お客さんが何に関心を示しているかに注目して、その注目を発展させられるように手を貸すことを考えます。
説明を初めても、お客さんの関心がそこにないと見れば、すぐに説明を打ち切ってどこに関心があるかを探ろうとするでしょう。
そしてある所に来ると、頃合いを見てそこまででお客さんが示してきた関心事や、迷っている点を解消できるポイントを整理して最後の一押しをしてあげようとします。
いわゆるクロージングというものですね。

店員(洋服)


お客さんもある程度は購入を検討して店に足を運んでいるわけですから、あとは迷っている気持ちをスッキリさせて決断への一歩を踏み出したいという気持ちがあるわけです。
そういうお客さんにとっては、自分を決断させてくれる説得が必要なのです。
自分が、購入するのももっともだと納得させられるだけの説明や、決断への一押しを欲しがっているのです。
あるいは、この商品を自分が欲しがっているのは、こんな理由があったのかと気づかされたりすれば、販売員に感謝したくなるかもしれません。

それを見抜けない店員が出てきてしまうと、せっかく購入しようと思っていたお客さんも、見当外れの説明をされて、余計に混乱し「今日はやめておこう」と思ってしまうかも知れません。

お客さんは「説明してください」と言うかもしれませんが、それを真に受けて延々と無駄な説明をしたのでは退屈させてしまうだけです。
本当に欲しいのはそんな言葉の説明ではなくて、言葉にはならない決断に向けての後押しなのです。

少し話が販売の方に偏ってしまいましたが、話を最初に戻しましょう。

言葉で説明出来ることは、説明出来ないで残されていることのごく一部でしかないこと、言葉に含まれないでいることの中にこそ、もっと重要なことが隠れている可能性を忘れてはいけないのです。

それは、誰か他の人に説明する場合だけではありません。
もしかすると、それよりも重要かもしれないのは、自分自身への働きかけです。

たとえば、自分の苦手なことや、人に見せたくないと思っている部分は、それらを自分の「欠点」とか「弱点」、あるいは「汚点」という名前で捉えているかもしれません。

そのような言葉を使っていると、それらは自分の中から排除されるべきものという認識になってしまいます。

自分の中から、そのような「悪いもの」が消えてなくなれば、自分は強くなり、胸を張って生きていけるようになるのだと考えるかもしれません。

しかし実際には、そんな試みはまず成功した人はいないでしょう。

ひとつには、自分の一部分として出来上がってきたものは、「消してしまおう」と思ったからといって簡単に消えてなくなるものではありません。

そして、2つ目としては、「欠点」という言葉で表現しているのは、その性質を一面から見て評価しているだけだということです。

「欠点」とか「短所」と呼んでいるから、その悪い方向からの見方だけになってしまうのです。
ですが、実際にはその「欠点」である働きが、表現される場面が異なれば「長所」にもなりうるのだということを見落としています。

このあたりは、「短所を見なおしてみよう」などをご覧下さい。

そして説明がつけられている自分など、自分のごく一部に過ぎないことを思い出して下さい。

自分が最初に、自分を表現するその言葉を使ったとき、とても説明がつけられないと思うような、あいまいな自己というものを、無理やりその言葉にあてはめて、それに合わないことは切り捨ててしまったのではないでしょうか。

ふとしたときに思う、説明出来ない自分もいっぱいあるんだと言う思いを大切にすることです。
そうすれば、一部の言葉にとらわれて、自分を限定して考えてしまうことも防げます。

ガッツポーズをする女性


「自分はこういう人間だから」と軽々しく宣言しないことです。

そして自分に対する見方を変えてみましょう。

自分の見えている部分なんて、ほんの一部に過ぎない、もっと気がついていない自分が表に出たがっていないか探ってみよう。
自分はこういう人間だと決めつけて、諦めていたことを見直してみよう。
変わった後の自分から見たら、人生はどのように映るだろうか?


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反省すれども後悔せず

反省すれども後悔せず 源信 往生要集



この言葉はこの世の中はどう転ぶかわからない、思うにまかせぬものだから、起きたことに振り回されない様に生きようということを言っています。

そして反省なら意味があるが、後悔は意味のないことだから断ち切ることだと言っているようです。
ところで、この反省と後悔とは、どう違うのでしょうか。

反省とは、起きたことに対して今後に生かせる点を経験として取り入れて、同じ失敗をしないように役立てるということで、それは今に生かせる振り返りなのでしょう。

それに対して、後悔の方は、起きてしまったことに対して、もしこうしていれば別の結果が得られたのにといって思い悩むことです。
それは、変えられないことを変えられたらいいのにと、無理なことを思い続けることだから意味がないのだということになります。

泣いている高校生


しかしこれだけに留めずに、もう少しこの後悔という心理を考えて見たいのです。

そこでこのようなことを考えて見ましょう。
過去の状況を変えられたら、いまもっと楽でいられたのにと嘆く人に、このような問いかけをします。

「それでは、あなたのその過去に連れ帰ってあげましょう。
あなたのやり直したいと思っている出来事が起こる前の時点に戻してあげましょう。
そうすれば、あなたの願いから考えて、あなたの思い通りの今を作り直せるはずですよね。
では過去に戻りますか?」

この質問にあなたは即座にイエスと答えられるでしょうか?

後悔に浸り込んで、あの過去さえ変わってくれればと願い続けているとすれば、まよわずイエスと答えるようにも思います。

しかしよく考えて下さい。
「やり直したら必ずうまくいきますか?」という点で、あなたは確信が持てるでしょうか?

結果の非難


実はこの質問は、「過去さえ変えられたらうまくいく」という強い思いに覆い隠されている、もう一つの気づきを引き出すのではないでしょうか。

それは、これから先に起こることに対しても、やはりあなたは確信など持っていないということなのです。

具体的な問題の発生した過去の時点を考えるのであれば、少なくとも原因がわかっている問題については変えられるかもしれません。
その部分は、過去の事実だから部分的にせよ変えられると確信しているのでしょう。

しかし、過去のその時点に戻ってやり直しなさい、とまで言われるとどうでしょう?
明らかに対処できると思っていたけれど、その出来事についても、そのまわりにはいろいろわかっていないことが存在するだろうということを思い出します。
はたして、やり直したらうまくいくと言い切れるだろうかと不安になってきます。

そして問題は、過去にだけあったのではなくて、今の自分についてもこれから起こることに不安も持っているのであり、それを認めて受け入れない限り、いくら過去を変えても問題は消えないだろうという点に気づくのです。

逆に考えれば、後悔という心理に浸って過去を見ていれば、今の自分の不安に目を向けないでいられるのです。
そして後悔していれば、もしそれが変わっていれば今のような自分はいないのだからといって、今の自分を慰めることも出来るのです。

これは、裏返せば、「今の自分は、そのままではとても受け入れられない」と言っているのではないでしょうか。

もし「今の自分だって、将来への不安があるんだよ」ということを認めるなら、たとえ変えたい過去に戻れたとしてもやはり不安は存在していることに気づけるでしょう。

そして、その過去さえ変えられたなら、自分は今の苦しさから逃れられると信じていることにも疑問を持ち始めます。

その時の出来事は残念だったけれど、それなりにその時の自分は、精一杯やってそういう結果になったのだということを認めるようになるでしょう。

そのときも、今と同じように、すべてが予測可能なことではなかったのだし、他のやり方をしていればすべて思い通りになったかどうかなんて、わかるものではなかったんだと気がつくのです。

後悔という心理状態も、決して過去を変えれば済むという問題ではないのです。
あるのは、だだひとつ、いま現在の自分の存在でありそのあり方なのです。


今の不安を消す方法を探すのではなく、先のことどう転ぶかわからないのであって、思うにまかせぬものだと認めて、それを受け入れることです。
「どうなるかわからないのは不満だから認めない」とか「何か方法があるはずだ」といって受け入れを拒否している限り、不安は残り続けるのです。

いままでもどう転ぶかはわからないままやってきたのだし、これからもそれしかないのだと認めれば、それは「ただそうであるに過ぎない」ということに気づけるのです。


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問題の本質を捉える/語りかけてくるものそのものに目を向けましょう

いま何か悩んでいる問題があるとします。
いままでもその問題には、何度も取り組んできたつもりなのに、いつもあいかわらず進展しないと感じていないでしょうか。

それは、おそらく取り組んでいるつもりでも、問題の本質をとらえていないのではないでしょうか。

問題に取り組むには、「語りかけてくるもの、そのものに目を向けましょう」。
そして「それが主張して指し示している方向には目を向けない」ということを考えて見て下さい。

たとえば、このような問題を考えて見ましょう。

親の問題:わたしはもっと決めたことをきちんと実行しなければならないのです。
でもついついいい加減になって、やり残してしまうのです。

子どもの問題:うちの子は宿題をよく忘れると先生に言われます。ときどき遅刻もしているようなんです。
なんとか、ちゃんとやる子になるように、私がもっときちんと言わないといけないのでしょうが。

喧嘩する親子


親の問題では、「もっとこういうふうにならなければいけない」という理想を指し示す自分がいます。
そして、その声にしたがって自分がもっと努力すれば、いつか問題は解決するのだと考えています。

しかし、単にやるべきことをやれなかっただけで、やる気になれば出来るはずというのが正しいのであれば、いつまでもそれに失敗するという事態を繰り返すというのは変ですね。

そこでは、「わたしはもっと決めたことをきちんと実行しなければならないのです」と主張している自分の裏側にある、ありのままの自分の感情を見直してみる必要があります。

何が問題であるかは、それこそ人の数だけ要因は考えられるでしょうが、肝心なのは「こうあるべきだ」という声が正しいと信じて突っ走ってしまわないで、そこで一度ストップして見ることです。
そして理想をすべて外してみたとき、そこに見えて来る自分を感じ取ってみることです。

たとえば親から「きちんとしなさい」と言われて「うん、やるよ」と答えながら実行を先延ばしにしてきた自分はいないでしょうか?

あるいは、出来ない理由を作り出すのが得意な自分はいませんか?

もしそういう傾向があるとしたら、自分が本当にしたいことは何なのでしょうか?

それとも、いつも出来ないほどの課題を抱えて、悲鳴を上げながら取り組むことで、少なくとも自分は何かを努力しているんだと納得しようとしている人はいませんか?

そのとき、もし実行可能な量に課題を減らしてみたら、どんな感じがするでしょうか?
決めたことが終わらないままでいるのに慣れていると、たまに時間通りに終わったりしても何か足りないことがないかを探してみたりするのです。
そこにあるのは、何を求めている自分なのでしょうか?

ためいき3


子どもの問題に目を移してみましょう。
宿題をよく忘れる。
私がもっと、きちんと目を光らせていれば、そんなことはなくなるだろうと親は思っています。

確かにそういう場合もないとは言えないでしょう。

たとえば、子どもは学校から帰ると一直線にテレビゲームに向かいます。
ごはんだよと声を掛けても、いい加減な返事ばかりでなかなか食事に出てきません。
あんまりしつこいと、今度こそゲーム禁止令を出さなければと思いながら、つい忙しいので目の前のことに気をとられてしまいます。
ほおっておくと、子どもは寝る直前までゲームをやっているようで、夜更かししてもいるようです。
これでは、宿題は出来ません。時々遅刻するのも原因は明らかでしょう。
子どものゲームの時間を減らすのがまずは先決です。

しかし、そんな極端な原因が見られないのに、なぜか宿題を忘れたり、遅刻したりという子どももいるものです。
そういう子は見ていると、そんなに好き放題に自分のやりたいことをやっているようには見えません。
宿題をやれと言うと、しかたなく取りかかる様子も見ています。
それなのに、なぜ見ていないと宿題を忘れてしまうのでしょう?
わけがわからない。

どうも、親の監督のしかたの問題ではなさそうです。
子どもは実際に何を表現しているのでしょうか?

こどもは、親の「言っている」ことにはしたがわずに、親が実際に「やっている」ことをまねるものです。

「また宿題を忘れたんだって?」「うーん、ちょっとね」
このような、やり損ねては罰せられるパターンが繰り返されるとすれば、そのパターンこそが子どもが無意識に実行していることなのかもしれません。

親がこどもに普段見せている姿はどのようなものでしょう。

たとえば、いつも「いそがしい、いそがしい」と悲鳴を上げている。
「けっきょく今日も終わらなかったわ。どうしてこんなにいそがしいの(フーとため息)」
「生きていくことは、たいへんなのよ!」

こどもは、親のやっていることを取り込むのです。
終わらない作業、大変なのが人生、ため息。

ためいき2


「どうして宿題を忘れるの? いやなことでもやらないといけにこともあるのよ。」
こどもは、親の行動から何となく感じとって、次のようなことを取り込んでいるのかもしれません。

「宿題をやるのは大変なことなんだ。だから、他にも忘れてくる子がいるんだな。
大変なことだから、ため息をつきながら、時には今日も終わらなかったと嘆きながらやるのが人生というものだ。」

しかし、そんなことは子どもには、言葉ではよく表現できません。
「おかあさんも、よくやっているじゃないか」とでも言いたいのですが、言葉で言っているのと実際の親の行動は違っているので、何と表現していいのかわからないのです。

親の裏面的な交流がこのような訴えをしているとすれば、子どもが「もう宿題終わったよ。ゲームやっていいでしょ!」と言ったとしても、親は素直に喜べない反応をするかもしれません。

そこで子どもは思います。
「やれ、やれっていいながら、出来たら出来たで喜んでくれないようだ。やっぱり、大変なことは簡単に終わらしてはいけないのかなあ。」

これは、ひとつの例にすぎませんが、それこそ人の数ほど要因はあるはずです。

問題に取り組むには、「語りかけてくるもの、そのものに目を向けましょう」。
正直に、建前を取り払って自分を見てみることです。
即座に反応して動き出そうとするのを、一度ストップして本音を聞いてみましょう。

言葉が指し示すことではなく、そのものになりきって、本当に感じていることをつかまない限り、
いつものごまかしや建前に騙されて突っ走ってしまうのですから。


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親声/いらだちを誘うひと言

親の親切きわまりない問いかけに対し、子どもがいらだちの返事を返す。
よく見かける光景ではないかと思います。

カウンセラーの伊藤友宜先生は、「親声」という言葉を提案されています。
「親声」とは、語尾に?がついたように音程が上がる言い方です。

たとえば、

「亮太。↑ ごはんできてるよ。↑ 食べる?↑ いらないの?↑ 返事ぐらいしなさいよ。どう?↑」


と言った具合です。
親としては、親切にもYES/NOだけで答えられる質問をしているつもりです。
しかしそこには、親の意向に従って「はい」と答えなさいという強制が潜んでいるのです。

こどもは、意識してか無意識でかはわかりませんが、このような親から型にはめられてしまうことに反発して、ついいらだった答えを返さざるをえません。

「うっせえなぁ。ごはんなんかどうでもいいよ」


このような子どもを誘導してしまおうとする問いかけは、その多くは無意識のうちに行われ、こんなに気を使って言ってるのに、なんでこんな答えしかできないのかしら?と思ってしまうのです。

喧嘩する親子


先日の「質問という名の押しつけ(http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-472.html)」と同じようなことをしていて、そこに「親声」を使ってさらにいらだちを誘うことになるのです。

伊藤先生は、これに対して語尾を平板に、あるいは少し下がるくらいに伝えられれば、そこに親の意向を感じられずに伝達のみが行えるのであって、こどもも不要ないら立ちを引き起こさずに済むのだということを言われています。
つまり、こんなようにです。

「亮太↓。ごはんができた↓。おつゆ、さめないうちにおあがり↓」


子どもがすぐにいらだつようなときは、「親声」を排除して、クールに感情を交えずに伝えると言うことです。

親が断定したり、考えにしたがわせることは、もちろん子どもの年齢によっても対応が変わってくることでしょう。

子どもが自分で考えられないうちは、親の方でやってはいけないこと、やるべきことを強制的にでも教え込む必要があるでしょう。

しかし、子どもが自分で考える年齢になったとき、同じように親が代わりに考え、代わりに答えを出し続ければ、子どもはそれにしたがうことに抵抗を始めます。
だまってしたがうことは、自分を無くしてしまい、呑み込まれてしまうような危機感を抱くようになってくるわけです。

そこでは、どう反論していいかはっきりわからないいらだちを感じながらも、とりあえず反発しておかないと身を守れないと感じてしまうのです。
もしそれを感じないまま大人になるのでは、後々別の問題を抱えることになってしまいます。

親子会話

実は、こうあるべきだと子どもに言い聞かせようとする親自身も、その内容に自信がないのかもしれません。
それは、答のないことに対して、無理やり答えがある筈だと決めて、信じようとしているからです。

なにか理想の完成像があって、そこに向けて努力したり成長するのが、人のあるべき姿だという信念があります。

私自身はそのようなものに根拠が在るとは考えない方ですが、あいかわらずそのような成功哲学とでもいうものは強い人気と信仰が存在するようです。

そのようなものが存在するのかどうかはともかく、誰であろうとそのような強い確信が維持できない時はあるはずです。
もっといえば、答えのでないことに無理やり答えを仮定しているのですから、いつまで経っても不安の消えない葛藤を続けるしかないわけです。

親はそのような自分のいらだちを、子どもにぶつけるようなことはしてはならないでしょう。

子どもが「なんでそんなことがはっきり言い切れるんだ!」と反論したとき、親は答えられないなら、それを正直に認めるべきだと思います。

何ものかになること、ひとかどの人になることを、親も理想とし、子どもにもそうなって欲しいと思うのはいいとしても、答えられないことは答えられないと認めなければなりません。

子どもが、そんな疑問を考える年になったのなら、答えを強要するやり方をやめて、おなじ対等な人間として子どもと一緒にその問題を考えてみる。
そんな親子関係が出来ればと思うのです。

それには、親自身が自分のことを知らなければなりません。
自分に対して、あるべきだと信じる答えを、強要し続けるのをやめることがまず必要になるでしょう。

それは、おそらく終わりのない問いかけになるかもしれません。
答えがないことが不安で、それを否定したくなるでしょう。
しかしあるべきだと信じたいことを無理やり抱えこんだ結果、すぐに破綻しては、また葛藤を繰り返すようなやり方よりは、ずっと実りの期待できるものだと思うのです。

親自身が自信の持てないことを強要しようとするときほど、「親声」をもたらしてしまうような気がするのです。

参考
プロカウンセラーが明かす 子どもの個性を伸ばす魔法の聞き方
伊藤 友宣 青春出版社 / 2003-12-10





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勝ち犬と負け犬

ゲシュタルト・セラピーのパールズは自己の中にいる勝ち犬(topdog)と負け犬(underdog)ということを言っています。

勝ち犬というのは「正当づけ」です。ときに、それは正しさを示すこともありますが、正当づけです。
この勝ち犬は、自分が正しいということを示すために、当然のことのように彼に胸を張るべきだと告げるのです。
勝ち犬はいつも、「お前は?すべきだ」、そして、「そうしなかったらそのときは?」と威すのです。しかしながら、勝ち犬は見事なくらい単刀直入なのです。
一方、負け犬は、「はい」とか、「約束する」「賛成する」とか、「いつか、そのうちに」「できれば」と言うのです。
ですから、負け犬は、欲求不満を起こさせる名人です。
勝ち犬は、勿論、そうはさせまいとし、鞭打つわけです。そこで自虐的になって喜ぶゲーム、あるいは自己改善に励むゲームなどと名付けられるものが始まり、それは何年にも渡って、しかも年がら年中続けられることになるのです。でも、変化とか効果は何も起きないのです。

ゲシュタルト療法―その理論と実際 フレデリック・S. パールズ ナカニシヤ出版 / 1990-07


勝ち犬と負け犬の間で葛藤が起きるとき、勝ちを収めるのは、たいていは正当で強そうな勝ち犬ではなく、負け犬の方であるというのが注目すべき点です。

正しさを主張してくる勝ち犬に対して、のらりくらりと、言い訳をしながら先延ばしなどして何とか逃げてしまおうとする負け犬がいて争います。
このような争いは、2人の人間の間で起こった場合でも負け犬が逃げ切ってしまうことはよくあるのではないでしょうか。

負け犬は、しかしその名前が思わせるような不要な存在というわけではありません。
むしろ一見強く見える勝ち犬が建前の部分であるのに対して、負け犬の主張は本音の部分を含んでいることが多いと言えます。

いくら理屈では正しさを納得しても、なぜか実行しようとすると躊躇したり邪魔が入ったりするのは、負け犬が納得していないためかもしれません。

いばるブルドッグ     お辞儀犬


普段過小評価されたり、注意を向けられない自己、「牛過窓櫺(ごかそうれい)」で登場する「しっぽ」の部分こそが負け犬だと言えるかもしれません。

見えない「しっぽ」を自分のものに出来ない間は、何度でも「しっぽ=負け犬」に悩まされることになるでしょう。

学校の夏休みも終わりに近づき、宿題が終わっていない子どもの苦悩が気になってくる頃です。

「今年こそは早めに終わらせようと思ったんだ。どうしていつもこうなってしまうんだろう?」

「やらなければいけないのはわかっているんだ。答えはわかっているんだ。でもいつも実行しないんだ。」というのが典型的な争いの終結なのです。

勝ち犬はいつも正しい計画を立てて、やるべきことをやろうと宣言します。
しかしそこには、本当は「宿題なんかやりたくない」と主張している負け犬が存在します。

この存在を無視していれば、計画を立てる所までは勢いがあるのですが、いつのまにかのらりくらりと身をかわす負け犬のペースにはまって日にちが過ぎてしまうといったことが起きてしまうのです。

自分の中の負け犬がなんと言っているかを聞いてみることです。
自分の「しっぽ」の存在を見つけてみることです。

それは勝ち犬から見れば、あってはならないと見られている存在かもしれません。
勝ち犬の自分にとらわれすぎていれば、なかなか見えてこないでしょう。
しかし、負け犬を無視すれば、たいてい失敗してしまうのです。


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屈することですべてを失わない/曲則全

この人は争わないので、
だれも議論をふっかけない。
古に言われるように
「自分を曲げて屈する人は、すべてを残して失わない」
まったくそうじゃないですか?
そのような人が自分のすべてを全うして帰って行けるのです。

Because he is not contentious,
Hence no one under heaven can contend with him.
What the ancients say: "Bent, thus preserved whole,"
Are these empty words?
Be preserved whole and return.

老子道徳経第二十二章
The Tao Te Ching: A New Translation With Commentary
Ellen M. Chen Paragon House / 1989-07



議論することは、言葉の中に、論理の中に自分を無理やり閉じ込めてしまいます。

議論に参加すれば、自分の全体性は置き去りにされて、その狭い言葉の世界であらそうことになるわけです。

言葉は自分を表す一部に過ぎないし、相手の言葉はまた相手の人の世界を反映したものでしかありません。
しかしそんな限定だらけの世界に入り込むとき、人はつい自分の全体性を忘れて、言葉に反射的に反応することになります。

言い争い

論理は結論を出します。
誰かが議論に勝って、誰かが負けます。
そして、議論が終わって、どちらも満足出来ないまま、自分の世界にも戻らなければなりません。
そこでは、言葉にならなかった自分の全体性との折り合いをつけなければなりません。

議論に勝とうとすることは、自分の全体性をさらに犠牲にすることにもなりかねません。
ロジックを突き進めれば、それだけ元の自分をさらに限定する方向に進むことになるからです。

自分の全体性を失いたくなければ、議論には屈して参加しないことです。
議論に勝って自分のトータルなバランスを崩すのは割に合いません。

議論好きが進めば、ますます自分を狭めていき元に戻れなくなります。
そうなれば、さらなる議論で刺激を求めつづけることで、自分を維持しなければならなくなります。

言葉で自分を規定すれば、自分の全体性から離れていきます。
自分の全体性を維持するには、言葉にとらわれてしまわないことです。

その意味では、議論というのは、議論のために自分の言葉を堅持させることになるため有害だと言えるのです。
心にもないことを言ったために、前言を翻せなくなるのがいかに自分を苦しい立場に追い込むかを考えればわかるでしょう。
それはまさに、自分の中でも争いを引き起こすのです。

トータルな自分に戻れるように、誘惑に負けずに自分を曲げて屈する人でいること。
これもひとつのあり方でしょう。

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選択することと受容すること

「選択しない」というと意志を示さない、消極的な行動であるという印象を持たれるかも知れません。

たしかに自分の本心からの選択を躊躇し避けるのは問題があります。
しかし、自分には決断力があると示そうとしてむやみに選択しようとするのも考えものです。
それから、今の自分を受け入れないからという理由で、むやみに何かを別のものを選択するのは避けた方がいいでしょう。

選択するとは、何かを選んで、他を捨てるということです。
私はこちらを選んで、あちらを捨てる。
いかにも自分の意志を発揮したように感じて、自我は高揚します。
しかし、そこでは何かを捨てるという犠牲を払っているのです。
捨てようとしたものは、自分にとって大事なものだったかもしれないのです。

人為的に作り出した品物なら、どんどん捨ててもかまわないでしょう。
やたらと物を集めれば、それが余計なやっかいごとを作り出すからです。
しかし自分の内側にあるものは、何かと引き替えにむやみに捨てたりしないことです。

選ぶ1


時にはあえて「選択しない」方がいい場合もあります。

ひとつは、自分の持っているものを受け入れられないからという理由で、外側のなにかを選択しようとする場合です。そうではなく、自分の持っているものを受容することを考えた方がいいでしょう。

もう一つは、外側からの挑発に対する選択の場合です。

ところで、先日このようなメッセージを頂きました。

会社の上下関係の中で、ある人が部下が上司に評価されたのを嫉妬して、よからぬ噂を流してしまったというものです。

このようなゴタゴタに巻き込まれないためには、関わらないのが一番です。

あえて避けようと行動するのは、一つの選択です。
避けるなら、関わらないことです。
避けることを選択するのではなく、ただそんなものはないつもりで関わらない。
消極的で、受動的に見えても、それが一番いいこともあります。

避けること。
関わらないこと。
相手の挑発に乗らないこと。

どんなに理不尽な挑発があっても、反発しないこと。
挑発に乗らないでただ関わらないことです。

まず挑発する側も、相手がゲームに参加してこなければ何も出来ません。
なんとか巻き込もうとするでしょうが、こちらが反応しなければ何も出来ません。
それ以上その人には何も出来ません。

そして、挑発に乗らないで通せたら、自分が参加しなければ誰も自分を動かすことはできないものだとわかります。
自分の独立は、自分で守れるという自信がもてます。
次からは、同じようなことがあっても対処できる自信がつきます。
そして、不思議なもので、誰も挑発してくる人はいなくなるものです。

なにかしら、自分の側に挑発を欲しがっている要素が残っているから、また同様の人が登場するようになるわけです。

そしてこのようなとき、自分で関わらない「選択をしよう」と構えていると、相手の存在を作り出してしまうのです。
「私は今その人と戦っている!」という姿勢が敵対する相手を存続させるのです。

選択しないで、ただ関わらないことです。
微妙な違いですが、伝わったでしょうか。

ぬいぐるみ・おもちゃ


話を最初の話題に戻します。

選択すること。
私の選択。
私の選んだなにものか。
これらは、魅力的に聞こえますが、本物ではないことも多いものです。

選択することが自我を満足させるからと行って、やたらと選択しないことです。
選択することが自分の存在価値を証明することだと考えるのは、自我を増長させようとする試みかもしれません。

それに「私の選択」は「私の敵」を作り出す元になるかもしれません。
「私の敵」を作り出すとき、自分の中の何かも一緒に敵にしてしまいます。
そして自分の中にそんなものは存在しないかのように抑圧してしまうことになるのです。

選択、選択ととなえて、エゴを増大させずに、自分の持っているものを受け入れることを選ぶとき、やっかいごとが消えて心が落ち着くものです。
夏休み、「こんな楽しい施設がありますよ!」という誘いを拒否して、家でゆっくりしていようと心を決めれば、今までにない休みが満喫できるかもしれません。

退屈だからといってやっかいごとを自分の中に取り込まないことです。
その退屈さは、実は自分の受け入れていない部分からのうったえから、気をそらすための要求なのかもしれません。

つまらない「おもちゃ」をいくら沢山集めても、むなしいだけです。
それを自分の意志だとか、選択だとか思い込まないことです。

気をそらすための「おもちゃ」など、いくら集めても満足しないばかりか、自分を嫌いになってしまうでしょう。
またそういうものを集めているときのあなたは、外側に求めるものがあるという錯覚も持ちやすいものです。

集めて集めて、結局どれも欲しいものでないとわかったら、自分の内側に目を向けてみましょう。
たったひとつの内側の求めを見つけるだけで、「おもちゃ」集めのばかばかしさに目を覚ますことになります。

「選択する」ということは時として「受け入れる」ことを邪魔するのです。
自分の持つ何かを受け入れられないと言う理由で、外側にあるものを選択しようとしないことです。
「選択の旅にでよう」という高揚した自我の試みは、挫折し帰宅して自分の家に必要なものを見つけるまで癒されないのです。


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後悔しないよう思いっきりやりましょう

わたしは初心者だから、
わたしはまだそこまでマスターしていないから、
だから完成するところまでやり遂げられるはずはない。

まだそこまで到達していないから、この程度出来れば充分じゃないかと言う思い込みがあります。
だから出来るはずのことまでやり逃してしまうのです。

いつかその時がきたら、いつか充分な機が熟したら、その時は私にも出来るときがくる。
この思いが、今完結することを先延ばしにします。

その気になれば、初めてやり始めたことがそのまま最後まで到達するかもしれないのに、そんなことは端から考えもしないのです。

たぶん「心の準備が出来ていない」というような言い訳がどこかに潜んでいるのでしょう。
あるいは、「完璧にやってしまったら、その後何をすればいいのかわからない」と思っているのかも知れません。

元気男子


これが「おもしろきこともなき世を、おもしろく」ないまま、だらだら過ごすことにつながるのです。
じつは、重大な変化を恐れているのかもしれません。
その時はまだ来ないと、今日はまだその時ではないと先延ばしし続けます。

「今日は子どもを叱りつけるのをやめよう」と思うのに、また今日も気がつくと子どもを叱ってしまいます。
ちょっと最近叱りすぎかもしれないと、抑えている親の気持ちとは裏腹に子どもは容赦なく叱ってくれとばかりの余計なことをしでかします。
親は試されているのでしょうか。

怒る気持ちが気になるくらいなら、それは充分に怒っていないのでしょう。
本気で怒ってしまったら、子どもを傷つけてしまうのではないかとか、自分を抑えられなくなるのではと恐れているのです。
しかし、まさにその中途半端さが、またしても子どもの怒りたくなる行動を見せられることにつながります。
こんなことなら、しっかり納得するまで叱っておけばよかったと後悔しないことです。

自分の怒る姿を思い浮かべて悪いことでもしている様に思わないことです。
あなたが怒っているのは本物の感情であることを認めて、余裕のある親の振りなどしないで、真剣に取り組むことです。

中途半端な自分の怒りは、後悔を生みます。
何か手抜きをしていることが、真剣に取り組まないことが、またいい加減になってしまったという後悔を生むのです。

真剣に怒っていないなと見れば、子どもはそれを見抜きます。
へたをすれば、それを無関心さと受け取るかも知れません。
子どもが親の行動を軽く見てしまうのは、そんな真剣さのないトータルでない関わり方かも知れません。
「中途半端にねちねちしかられるくらいなら、手抜きしないでしかってくれよ!」

叱る母親


「二の矢をもつことなかれ、後の矢を頼みて初の矢になおざりの心あり。 徒然草」
という言葉がありますが、今できることを精一杯やらないで後に残そうと思うのも考えものです。

いい仕事ができた、まとまったものが出来上がった。
これを少しずつ切り崩してしばらく楽をしていようかなどと考えないことです。

せっかく乗ってきたのに、なんでそれをやめてしまうのでしょう。
ようやく充実してきた勢いなのに、やめてしまえばそれを取り戻すのにもう一度一からスタートすることになりかねません。

不思議なもので、出し惜しみしないで使い切ったとき、もっといいものが続けて出てくるものです。
省エネは物だけにしておきましょう。

後悔しない仕事を目一杯やって、休むときは思い切って休みましょう。
やらずに後悔するより、思いっきりやったら失敗も怖くないというものです。


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質問という名の押しつけ

「なぜ?」という質問は、時として相手をコントロールしてしまおうとする問いかけになってしまうことがあります。

たとえば、母親が学校の先生から連絡を受けて、子どもが宿題を提出していないことを知ります。
「先生から連絡があったよ。なぜ宿題を忘れたの?」

子どもにしてみれば、宿題を出せなかったことで罪悪感を感じていますから、質問と言うより尋問や叱責の前触れと思って構えてしまいます。

いっそのこと「宿題を出さなかったそうね、お母さんはあなたに宿題をちゃんとやるようになってもらいたいの。」とでも言ってもらった方がスッキリするでしょう。

「なぜ宿題を忘れたの?」と聞かれて、素直に宿題が出来なかった理由をいっても、結局「そんなんじゃダメじゃない!」と返されることがわかってくると、子どもは何と答えていいのか困ってしまうのです。

喧嘩する親子


また問いかけと言う形を使いながら、相手をコントロールして自分の都合のいい答えを引き出そうとするのは、「質問という名の押しつけ」になってしまうかも知れません。

「今日は何時から勉強するの?」

こどもは今日は勉強する気などなかったかもしれませんが、このような質問をされては、最初から勉強しないという選択肢を排除されてしまうことになります。

「どうせお母さんのせいだよね?」

よく意味がわからない言い方ですが、こんな言い方をされては、母親の意見に従っておかないと何を言われるかわかりません(笑)。
あまり多用したのでは、子どもは自分の意志を表現しなくなってしまうかもしれません。


「なぜそんなやり方をしてるの?」
「こんなことをして、どういうつもりなの?」

こんな質問のしかたでは、受け取る側は罪悪感を感じなくてはなりません。
もっと具体的に自分の考えを伝えてもらう方がお互いやりやすいはずですよね。

「わたしはそのやりかたはちょっと嫌いなの。他のやり方ではだめ? たとえば...」
というように、自分の考えをはっきり示してくれる方が一般的には受け入れ易いものでしょう。

意見を交わすビジネスマン

ところで、このような表現をする人は、相手に喧嘩を売っているように勘違いされるかもしれませんが、実際には自分を受容したり自信が持てないため、気持ちや意見をはっきり表すのをためらった結果、このような質問形式で意志を表そうとしている人もいるのです。

自分の考えをはっきり表現することに抵抗を持っている人は、そのせいで曖昧な表現になったり、相手にあずけるような質問形式をとってしまうのですが、皮肉なことに相手はそれを押しつけだと感じたり、はっきりしないことに対してイライラしてしまったりするわけです。

そのような傾向がある人は、「自分も相手も大切にする」方向で表現することを意識した方がいいかもしれません。

自分の意見を最初から否定してしまわないで、素直に表現すれば他の人の意見と同様あなたの意見も価値があり受け入れられるものだと発見できるはずです。

そして相手に誤解されやすいあいまいな表現は避けた方が、他の人とのコミュニケーションも円滑になっていくものだということにも気づいていくものです。

普段はそのような表現はしない人でも、自分の弱い部分に関しては遠回しになったり、あいまいに相手任せで逃げる表現をしてしまうかもしれません。

しかし、素直に自分の意見を表す方が、結局は円滑に意見交換できる場合の方が多いはずです。
ちょっと意識してみてはいかがでしょうか。


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人はわが祈りの為とて/明恵上人

明恵上人(みょうえしょうにん)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧です。
京都の栂尾(とがのお)にある有名な高山寺(こうざんじ)というお寺は、明恵上人が再興して、その後半生を過ごしたお寺です。ここから「栂尾の明恵上人」と呼ばれたりします。
ところで同時代には法然がいます。
法然は浄土宗の開祖であり、絶対他力の専修念仏を主張したのに対し、明恵はあくまで自力による修行が重要であることを主張し法然を激しく批判することになります。
しかしこのあたりについては、本題ではないので、次の「人は我祈りの為とて」で始まる明恵の文章に入りたいと思います。

人は自分の願いを叶える為にと、経典や陀羅尼[だらに]の一巻でも読誦[どくじゅ]する。(しかし、)焼香や礼拝を一度でもしなくとも、心と身体の行いを正しくして、「あるべきよう」にさえ生活していれば、すべての諸天善神もその人を守護してくれるのである。願いも自然に叶い、望みも容易に遂げることができるのだ。(自分の願いをなんとかして叶えられぬものかと)うるさく、せめたてるように(あれこれと)するよりも、(そのようなことなど)なにもしないで、ただ(自分の日々の生活、心身を)正しくしてあるべきなのである。心が、(何事か自分の触手を動かすような)モノを見聞きすれば、(それをどうにかしようと)人をだまし惑わすようなことをなし、欲深で、身の振る舞いは、いつも、粗暴で、節度なく勝手気ままであっては、悟りにいたって阿羅漢となった聖僧に依頼して、百万巻の経典を読誦させたり、一千億体の仏像を造ってみたとしても、口汚く経典を読む者に罰があたるようなものである。心が穢れていながら祈る者は、ますます悪い状況になっていくことはあっても、願いが叶うことなど、まったくありえない。にもかかわらず愚かな者は、(自分の)心をこそ正しもせず、己の自分勝手な欲望にのみ踊らされて、「祈りはきっと通じるだろう」(「念ずれば花開く」「信じ祈ることこそ尊い」など)と、やたらと願を掛け、愚かで道理のわからぬ強欲な僧侶を請じて、心を悩まし、苦心惨憺して、(なんとか)祈りを叶えようとするが、(それは)地獄へ堕ちる業となるに過ぎないのであって、(私にはそのような愚かな振る舞いが)とても哀れに思えてならない。

明恵上人遺訓『阿留辺幾夜宇和?あるべきようわ?』を読む * 真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺



仏陀


「念ずれば花開く」というように、祈りによって自分の望みを叶えようとすることにだけ目がいってしまう、信者や当時の仏教への警告、批判がこの文章の主題です。

明恵がこのような文章を書いた背景には、当時の仏教の偏った状態があったと考えられます。
それは明恵の考える仏陀の教えとは、かけ離れていくように感じたのでしょう。
願掛けや祈祷など祈りによって願いを叶えてもらうことが、仏教の役割ででもあると勘違いした信者たちの行動は、仏陀の教えそのものに目を向ける明恵にとっては仏の教えなどではないと映ったことでしょう。

そもそも本来の仏教には、祈りというものもなければ、もちろん神というものも存在しません。
神様もいないのに誰に祈るのでしょうか。
そもそも御利益を願うこと自体が、本来の仏陀の教えとは方向がずれてしまっています。

何かを求めることに問題があるとは言いませんが、求めることとそれが実現するかどうかとは別のことです。
しかし、自分が求めてしまうと、本来出来ないはずの期待を作り出してしまうのが人間の心理というものでしょう。
そこに、何らかの儀式を行えば願いが叶うと誘われると、それを信じたくなるというものです。

自分が何かを求めたとき、ひとはその目的に向けてエネルギーや注意を集中させます。
当然無関心でいるよりは、それが実現する可能性は高くなります。
しかしそこまでであって、それ以上のことは期待はできないのです。

「こんなに願っているのだから、叶えてくれてもいいじゃないか。」
そんなふうに、願いに人情を含ませるとき、本来期待できないことまで叶うことを期待してしまいます。
この訴えに異を唱えるのは、非人情だと感じるかも知れませんが、それでもやはり問題はあるのです。

そのくらいいいではないかと思われるかも知れませんが、それが叶っている間はよくても、思いの丈を込めた願いが実現しないとき、それは絶望や恨みを生み出すわけです。

仏教でいう「苦しみ」とは思うようにならない不満のことです。
「願い」が「苦しみ」の元を作り出し、叶わなければそれが「恨み」へと転じます。

拝む


「こんなに願っているのに、なんで叶えてくれないのか!」と思うとき、その原因を誰かに対する恨みに発展させてしまいます。
それが自分に向こうが、他人に向こうが、あるいは神なる存在に向けようが、一転して本来期待できなかったことを願ったことへのしわ寄せが襲ってくるわけです。

願いが強かったほど、その恨みなどの感情は大きなものになります。
願いに人情をかぶせた分だけ、かなわなかった時の被害は大きいのです。
時にそれは悲惨な事件を生んでしまいます。

そもそもなぜ願ったことは叶うべきだと決めてしまうのでしょうか。
そこから問い直す必要があるでしょう。

何かを願ってそれに応じた行動を起こしたとき、その行為そのものが目的でありゴールでもあるのです。
その後の結果は、私たちがすべてをコントロール出来るものではなく、期待できることではありません。
願いから結果までをひと塊につなげてしまって、それを自分の責任として抱え込んだり、あるいは御利益を期待する祈りに変えてしまうとき、自分では制御できないことを願うという重荷を背負い込んでしまうのです。

そんなものを抱えていては、とても軽々とした開放感は得られません。
結果がどうなるかを心配したり、祈願成就を願うことが実際の活動をすることと入れ替わってしまうのです。

私たちは、ゲームのコマではありません。
それが架空のゲームであれば、欲しいだけ役割や達成すべきものを積み込んでしまっても眺めていられるでしょうが、現実の自分にそんなものを背負わせるのはどんなものだろう、ということなのです。

思いの丈を込めた願いは、容易に怨念へと変化してしまいかねません。
それがどんなに地獄であるか、明恵は訴えているのでしょう。

「心を悩まし、苦心惨憺して、(なんとか)祈りを叶えようとするが、(それは)地獄へ堕ちる業となるに過ぎないのであって、(私にはそのような愚かな振る舞いが)とても哀れに思えてならない。」

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牛過窓櫺(ごかそうれい)/ 無門関

牛過窓櫺(ごかそうれい)

「うしそうれいをすぐ」とは、禅の公案集「無門関」の第三十八則に出てくる公案です。

たとえば牛が通り過ぎるのを窓の格子ごしに見ているとする。
頭が通り過ぎ、続いて角が、前脚、後脚と通り過ぎる。
ところが、しっぽの部分だけがいつまでたっても通り過ぎないのだ。
これはどういうことだろう?


禅の公案ですから、これが正解というものがあるわけではありません。
解釈の仕方は、人の数だけあってもいいわけですし、考えるという行為自体に意味があるとも言えるものです。


牛3


しかしそんなことを言われても、手がかりもわからないのに考えようがないでしょうし、禅の修行をやろうというわけではないので一つの考えを書いてみたいと思います。

「しっぽの部分」とは何か?
「通り過ぎる」とはどういうことか?
これらをどう捉えるかがポイントになりそうですね。

私とはこういう人間です。
といってすらすら答えられる部分が、頭であり角であり、前脚、後脚なのです。
ところがそこまで答えて、後が続かないのが「しっぽ」というもの。

「しっぽ」とは、見せられないもの、欠点や隠された欲望、あるいは自分でも見えなくなっている部分を象徴しているのだと捉えるのが一つの解釈です。

つまり頭や脚といった私自身と同一視している自我に対して、外には見せようとしないし自分でも押し込めている抑圧された自分が「しっぽ」なのです。

「私(自我)」は、平然と窓外を通り過ぎることが出来ますが、「しっぽ」は例外で自分で思うように扱えないので動けなくなっているのです。

あるいは、「私(自我)はもう通り過ぎた」と言っていても、なにかを置き去りにしてしまった気がしている。
忘れ去られた、「私」と認められないでいる自分を扱いかねて戸惑っている姿こそが「しっぽ」で止まっている牛の姿なのです。

もう私は通り過ぎた、残ってなどいないと言い続けながら、何度も何度もその窓の所へ戻ってしまう。
これを解決するには、やはり私の「しっぽ」と向き合うしかありません。

しかし「明確な自分」と「曖昧でとらえどころのない自分」というように、私を対立させて捉えようとしてもかえって難しいものです(向き合うことが不要といういうわけではありませんよ)。

そうではなく、同じように対等に自分を離れた所から眺めてみるというのが、むしろやりやすいのかもしれません。

窓の外を牛が通り過ぎていくのを眺めるように、自分の思考が通り過ぎていくのを眺めてみる。

頭を見て「これは私だ」とか、尻尾を見た途端に「こんなのは私じゃない」とか反応しないことです。
ムキになって否定しようとしている「しっぽ」を見かけたら、これも私の一員だと認めて、今まで邪険にして悪かったと和解することです。

力まずに、ただ流れていくのを眺めるように扱ってやれば、対立は起こらない。

いつものように即座に否定しようとする「私」が登場してくる様子も、劇でも見ているように窓のこちら側から眺めているのです。

牛の尻尾


「暴力的な私」が見えるかもしれません。
「残酷な私」が見えるかもしれません。

しかし、それを認めたら、自分がとんでもないことをするのではないかと恐れることはありません。
暴力的な行為がもし起こるとすれば、それは自分で気づかないまま無意識に起こってしまうでしょう。
存在に気づいているからこそ、そんなことは実際には起こらないのです。

心の安定はその存在を調べて認めているときに得られます。
その存在を否定したり、避けている限りいつまでも「しっぽ」のまま存在することになるのです。

「しっぽ」と和解しましょう。
そしていっしょに通り過ぎましょう。


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変わらないこととは和解しましょう


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バランスを保ったままでいること

濁った水はどうすればきれいにできますか。
じっと動かさずに、ゆったりとそのままにしておくことで、
やがて徐々に水は澄んで綺麗になっていきます。
ゆったりと、いつ動いているかわからないようでいて
気がついたら何かを生み出しているのです。

タオに従う人は、めいっぱいに満たそうとしない。
どちらか一方にいっぱいになるまで突き進むから、
やがて消耗してダメになってしまう。
そうではなく、片方ばかりいっぱいにしないから、
反対側とバランスをとって、
くたびれてしまわないうちに
新しいものに生まれ変わる事が出来るのです。

老子道徳経 第十五章後半




意見の違う人が集まっているのが社会というものです。
右側と左側、急進派と保守派、いろんなものが混ざり合った中で、
どちらか片方に推し進めようとしても、濁った水をかき混ぜるようなもの。
余計に水は混濁を深めてしまいます。

「君の考えは何かおかしいようだね。気がつかないかね。これが正解だというのを教えてあげよう。」
こんな言い方をされても、反対派の人は自分の意見を強固にして反発してくるだけです。

私が濁った世界を綺麗にしてあげようといって、かき混ぜてしまわないことです。
濁った水はどうすればきれいにできますか。
じっと動かさずに、ゆったりとそのままにしておくことです。

何もしないでおくこと。
綺麗にしようとして動かしたりしないこと。

そうでないとあなたは、よけいにいっそう濁らせてしまうでしょう。
何も手を加えないことが、一番早く濁りをきれいに取り除いてくれます。

コップの水      水辺の風景


片方の端にいて強力な論拠を持てば、反対側の意見を持つ人を助けてあげようと思ってしまう。
しかしそれは助けるなどといったことではなくて、あなたと同意見にしてしまいたいという欲求ではないのでしょうか。
「私の側の考え」が正しいのだから、君たちは悔い改めなさいといいたいのです。

穏やかな状態を保つためには、どちらか一方だけに突き進まないことです。
つねに反対側とのバランスを忘れないことです。
バランスを忘れなければ、片方にいっぱいまで振れてしまわないうちに、反転が起こって反対側へと戻される。

バランスを崩して突き進んだとき、一見順調に見えたとしても最後は無理が生じてダメになってしまうものです。

1つの論理を突き進めるとき、それは非常に説得力があり、魅力的に聞こえます。
論理的であるとは、説得力そのものです。
「これのどこが間違っているというんだ?」と言われたら、前提が違う事を指摘しない限り、論理で反発することは出来ません。

しかし一面だけを捉えて、これで新しい世界に到達出来るはずだと推し進めたとき、いつも行き着く前に破綻を生じてしまうのです。

綱渡り


1つの論理とは、トータルな性質の中の一面を取り出したに過ぎないわけで、それとバランスをとるべきものを削り落としてしまうのです。

1つの論理、1つの方向だけで進めば、それが順調なほど破綻に向かってまっしぐらと言うこともあるわけです。

トータルに生きていれば、そのようなバランスを欠いたやり方では支障をきたし、説明は正しいがそんなやり方ではイヤだと反発を起こしてきます。

めいっぱいに満たそうとしないこと。

反対の極とのバランスをどこかで取り戻しつつ、新しく再生を繰り返すことです。
行き過ぎに気づいたら、論理を手放して反対側とのバランスを取り戻すことです。
論理は常に正しいけれど、1面の真理だけに従うのは、再生を繰り返すという「生きること」とはそぐわないことなのです。


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すっぽかしてみる

私が見張っていないと、ものごとが立ちゆかなくなってしまうと思っている人もいるものです。

毎日スケジュール通りに仕事をこなして、気がつくと休む暇もないままその日が終わってしまいます。
たまには1日休んでみようと思うのですが、休んでいても何か悪いことでもしているようで、うしろめたい気になって1日が過ぎる前に元通りの生活に戻ってしまうです。
いつもスケジュールに負われながらも、あなたが頑張っていないと全部ダメになるような気がするのです。

あるいは自分が家族のみんなの面倒をみなければ、誰も彼もとんでもないことを始めてしまうのではないかと心配になる人もいます。
あなたが全員の行動をチェックして、だれもミスがないように見張っていないといけません。
あなたはあなたで、家族のためにこなさなければならない作業が山積みです。
あなたが休もうものなら、家中しっちゃかめっちゃかになってしまうだろうと不安で1日も休む日がありません。

スケジュール確認     叱る母親

今のやり方をちょっとでも手を抜いたら台無しになると言う思い込みがあるのなら、視点を変えてもっと全体を見てみたらどうでしょうか。

休む暇のないスケジュールを見直してみましょう。
やるべきことをリストアップして、自分の使える時間の中に割り振り直してみるのです。
それも直近の1日とか1週間という短い範囲でなく、あなたがやりたい大きな目的を果たすためにもっと長いスパンで捉え直してみることです。

今日一日分作業に穴が開いたところで、長期的に見れば大した問題など生じていないことを確認してみるのです。
それよりも無理しないで継続していけることの方が、より重要であることに注意を向けてみましょう。

あるいはあなたひとりで仕事をしているのでなければ、あなたひとりがちょっと休んだ所で、全体から見れば流れはちっとも滞ってなどいないのだと思い直してみましょう。

あなたのまわりの人達は、あなたが面倒を見なければ何も出来ないなどと思うのをやめましょう。
ひとりひとりが自分の行動に責任があるのです。

あなたが管理する前も、あなたがそれから手を引いた後も、その人たちはやはり同じように自分のやり方で行動していくのです。

あなたが面倒を見るのをやめたから、その人たちに問題が発生すると責任を感じる必要はありません。

今までの人生のある時期に、そんなふうに思わないといけない何かがあったのかもしれません。
あるいは、そうするしかやり方を知らなかったのかもしれません。
しかし、あなたはあなたの生き方にだけ責任を持てばいいのです。
まわりの人の行動まで、あなたの考えで左右されてしまうという思い込みを手放しましょう。

あなたが先取りして面倒を見てしまうから、まわりの人もそれにあわせてしまうということもあるでしょう。
「今日で面倒を見るのはやめにします」と宣言している自分を想像してみましょう。
それを実行したらどんなことが起きて、まわりの人達に何が起こると思えてくるでしょうか?
そしてこれが一番肝心なことですが、そのときあなた自身が何かをなくしてしまうと感じるでしょうか?それはどんなことでしょうか?
もしかすると、自分は犠牲になっていると感じながらも、どこかで自分で何も出来ないまわりのひとたちを支配していたかったのかもしれません。

鳩にえさ


「たまには今日の予定をすっぽかしてみる」

魅力的に思えませんか?

全体の中の一員としてあなたがあり、そのながれの中であなたが一部分にかかわっている。
あなたがその一部分の切り離された存在だと考える時、あなたは孤独ですべての責任を背負っていることになります。

しかしあなたはまた、その全体そのものでもあると思うことが出来ます。
全体の中で自分だと意識しているあなたもその部分にすぎず、あなたが全体のながれそのものだと感じ取ってみたらどうでしょう。
あなたが必死で制御しようとしていたことも、その部分的な働きに過ぎないのだと思えてきます。

川の流れの中で、なぜかあなたはひとかたまりのものを、バラバラにならないように抱え込んでいます。
それを離したら全部バラバラになって、みんな消えてしまうと思っているのです。

しかしあなたが手を離しても、多少は分かれていったとしても、すべては川の流れに沿って一緒に流れていきます。
それらが、時には近づき、時には離れて流れていく様子を思い浮かべて下さい。

あなたの一生懸命になっていたことは、その流れの中の一つのイベントに過ぎなかったのです。
あなたが全体の流れそのものになったとき、部分で孤立していたあなたのがんばりも違った目で見られるのではないでしょうか。

全体でもあり、部分でもあるあなたという存在を、偏らずに時には切り替えて眺めてみることです。

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自然のままで十分?
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老荘思想のコラム連載(7)

『COCORiLA (ココリラ) ?癒しのポータルサイト?』様
にて老荘思想のコラムを連載中です。

【今月のコラム】

「現代社会と老荘思想(7)」 [2010/08/14]

学ぶと知識は毎日増えてくるが、道を修めるなら、逆に毎日知識が減っていくのだ。

減らして減らして、ついに無為の境地にまで行き着く。
そうやって無為にまかせておけば、全てのことが見事に成し遂げられるのだ。

天下を取るのも、特別なことをしなくても、自然にまかせることで得られることなのだ。
なまじっか自分で特別なことをしようとすると、かえって天下は取れないんだよ。

(老子道徳経 第四十八章)



自分が活動するべき時と、非活動でいるべき時のバランスを取ることです。

それには、全てのことを自分でコントロールしようと思わないことです。

なんでも自分でコントロールしようとしてきた自分の、空回りの多い行動を振り返って見ましょう。


ビジネスマン     ハンモック


【今までの連載記事】

「現代社会と老荘思想(1)」 [2010/02/15]

「現代社会と老荘思想(2)」 [2010/03/06]

「現代社会と老荘思想(3)」 [2010/04/10]

「現代社会と老荘思想(4)」 [2010/05/02]

「現代社会と老荘思想(5)」 [2010/06/06]

「現代社会と老荘思想(6)」 [2010/07/11]



以下のサイトで連載しています

癒しのポータルサイト:COCORiLA (ココリラ)




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ひとりぼっちが寂しいのですか?それとも孤独を恐れているのですか?

あなたはひとりっきりでいると寂しいと感じ、自分の孤独さに苦痛を感じるとおもうかもしれません。

しかしひとりぼっちでいることは、それほど不都合なことでしょうか。

ひとりでいても、それを楽しめるなら別に問題はありません。
ひとりっきりなら、ひとりでいることでの楽しみを見いだせばいいのだし、あるいは誰かがここにいたら別の楽しみ方が出来るだろうと考えればいいだけです。

しかし、ひとりぼっちであることを嫌がり「孤独な自分」という言葉を恐れるとき、あなたは別の問題を一緒にしてしまうのです。

あなたがひとりぼっちを楽しめないのは、自分自身とそのまま向き合うことに何か問題を感じて、それを避けているからです。
ですがそのものと向き合う前に、まず他人との関係性においての「孤独な自分」が問題であると考えてしまいます。

「孤独」という言葉を使い出したとき、あなたは自分が他の人との関係で孤立してしまっているという関係性を問題にしているのです。
それは、たとえば他の人が自分を受け入れてくれるかどうかを悩んでいるのと同類の問題であるといえます。

泣いている女の子


あなたがひとりぼっちでいるときに、ただその事実を受け入れるなら、孤独への恐れをそこに持ち出す必要はないことがわかるでしょう。

ひとりぼっちを避けて他の人を探すのは、自分の空虚さと向き合うことを避けているのかもしれません。
自分で自分のことを受け入れられていないから、なんとか他の人がその空虚さを埋めてくれないかと考え、探す方向を外側に向けてしまうために、本来取り組むべき問題は解決しないままになってしまいます。

しかし自分でありのままの自分と向き合って、そのままを受け入れることをしなければ、他の人がそれを埋めてくれることはかなわない望みです。

お互いに自分を受け入れられず、その空虚さを相手の力で何とかしようと思っているとしたら、そのような関係でなにか進展はあるものでしょうか?
あなたがひとりでいるときの自分の恐れているとしたら、相手の人にもそれを解決することなど出来ないでしょう。
遅かれ早かれ相手はそれに気づいて嫌気がさしてきます。
それに自分の側の空虚さも満たされようがないだろうということにも、いずれ気がつくでしょう。

孤独な自分を嘆いて、誰かにそれを満たしてもらおうとするのは方向が違うのです。
自分の空虚さがどこから来ているのかを、自分の内部に探す気になれば、自分のまわりに人がいてくれるかどうかなど関係のない問題であることがわかってくるはずです。

そうすれば、孤独を恐れることから解放され、自分自身と向き合ってみる事が出来ます。
ひとりでいるときの自分を相手にしても、楽しめることはあるのだと気づきます。
自分の感じていることに向き合ってみるのも、やりがいのあることだと感じるようになります。

今まわりに人がいないことも、単に今はそういう時間なのだから、また今度誰かが周りにいるときにはその関係を通じて楽しめばいいのだと考えることが出来ます。

孤独1


以上のことをまとめれば、大きく考えて二つの点が理解できずに苦しんでいたのでしょう。

まず、ひとりぼっちでいる人間は人気がないとか、価値のない人間だと考えを持っていて、孤独になることを必要以上に恐れていたのではないでしょうか。

もうひとつは、自分自身と向き合うことを避けているから、自分が中身がない人間に思え、それから目をそらそうと、いつも誰かが自分の周りにいないと不安になっていたのです。


そしてそれらが相まって、ひとりきりになることは耐えられない時間を向かえることになると感じてします。
必死になってひとりきりを避け、人を求めて動き回りたくなる衝動に走らせていたのです。

自分自身を受け入れる事がなんでもなくなれば、ひとりぼっちの時間もそれなりに楽しめるでしょう。
また、他の人を利用してその空虚さを埋めないといけないという考えもなくなります。

他の人に「何とかして、この寂しさを!」と乞い求める衝動もなくなります。

そんなあなたならまわりの人達も重苦しさを感じないで接することができるでしょうし、あなたの側でも孤独を恐れて駆け回っていたときとは違って、他の人が遠い存在に見えることもなくなるでしょう。

自分の空虚さを埋める目的のもの同士の関係など、すぐに破綻してしまうことがわかってきますから、そのような関係に自分を置いて誤魔化そうとも思わなくなります。

同じ問題を抱えている人と接するときも、相手が自分自身を受け入れられるようになることが第一であるとわかりますから、相手の求めるままに無責任な受け入れをすることなくなるでしょう。

ひとりぼっちでいること自体は困ったことでも、恐ろしいことでもありません。
孤独になることが恐ろしいと感じるなら、他の人を探さずに、まずは自分と向き合ってみることです。


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自分の重要性を認めているでしょうか?

自分の重要性を自分自身で認め、信じられているでしょうか?

こう質問されても、なかなか自分では気がつきにくいものだと思います。
中には、直接「自分の重要性を感じられない」と感じている人もいるかも知れませんが、そうでない人でも、それよりも分かりやすいのは、自分のふだんの行動や考えを振り返って見ることです。

自分の重要性を低く感じている人は、自分の状態のことよりも、他の人の言動が重要だと感じていて、それに注目することが自然になっています。

まず口火を切るのは他の人だと思っていて、自分から率先して意見を言うことがありません。
そんなことは、誰か他の人がやることだと思っているのです。

自分の言動について気にすることは、他の人に対して迷惑をかけていないだろうかという点です。
そして、そのために自分はどのように変わらないといけないかという課題を常に持っています。
その課題を克服しないと、自分は意見を言うことなど出来ない存在であるかのように思っています。
課題を抱えていることは、それを気にしていることで、背景にある自己への重要感の低さに直面することを微妙に避けてしまいます。

集団の中にいる場合、誰かがリードして何かを始めてくれたときに、それをいかにフォローするかが自分の役割だと考えますから、自分から重要な意見を出すことはまずありません。

したがって「皆さんの意見を教えて下さい」というように、メンバーを対等に扱われると、かえって居心地の悪さを感じてしまいます。

感情1


自分の重要さを認めた上でフォロー役に回るというのならいいのですが、そうではなく背景に自己の重要性を認められないということが潜んでいるなら、そんな自分を変えてみれば、いつもやっていることにもっと充実感を感じられるようになると考えて見て下さい。

自分の重要性をどのように扱うようになったか、理由はひとりずつ違っているでしょうが、その原型は多くの場合、子どもの頃の家族の中での位置に見られるでしょう。

両親のどちらかが、いつも家庭の決定権を支配していたとか、あるいは兄弟姉妹の関係で特定の誰かの意見が採用されることが多かったとか、さまざまな力関係の中自分はどのような立場にいたのでしょうか。

最初は自分の意見が通らないのを不満に思ったとしても、徐々に自分の位置が固定されてくるにしたがって、その位置にいて振る舞うことになれてきます。
あえて自分の意見を前面に打ち出すよりも、誰かの意見に従っている方が楽になっていたかもしれません。

しかし、いずれにしても自分の意見を表明できないことは、不本意で苦痛を伴うことです。
そのままでは、程度の差はあってもいつも不満の残る人間関係であることは確かです。

子どもの頃の関係は、社会に出ていろんな人と接するようになっても、同じような役割関係を再現しがちです。

自分で変えようという気がなければ、初対面では対等であっても、わずかの間にいつもの定位置にいる自分を発見することでしょう。

自己を主張したがる人にとっては、このようなタイプはすぐに自分と補い合う関係の人間であることを見破ります。
無意識にそういう位置関係になることもあれば、このタイプには自分の意見を通せると判断して強引に向こうからリードしてくる場合もあるでしょう。

一方で相手の意見を聞いてみたいと思っている人には、このタイプの人は意見がハッキリしないので物足りなさを感じたり、すぐに相手にまかせようとする部分がイライラを生み出すかもしれません。

相手の人は、もっと自分の意見に自信を持つように励ましてくれるかもしれませんが、それ以上のことは出来ません。
自分自身で変わろうと決心して、自分の考えや選択が重要であることを認め、それを自分で選択するという力を取り戻す必要があります。

感情の変化


今まではそこが自分のポジションだと当たり前のように信じていたことを、いったんリセットして自分の正直な考えを採用する可能性を想像してみましょう。

それは単に役割を演じているだけだと言い聞かせていたかもしれませんが、自分の重要性を低めている行為だったのかもしれないと考え直してみましょう。

いつも誰かの考えを採用していたのをやめて、自分の考えを打ち出してみたらどのように感じられるだろうか想像の中で試して見るのです。

現在の人間関係の中でも良いし、子どもの頃の家庭環境を思い浮かべた方が分かりやすいかもしれません。
どちらでも自分のやりやすい方で、自分のポジションを変えてみて、自分自身への価値や重要度への印象がどのように変わるかを感じてみて下さい。

何も自分が意見を控える立場にいる必要はないと感じられたら、自分の選択次第でそれは変えられるものだという実感が持てるようになれます。

自分の選択で決めると言うことが、自分をどれだけ重要だと感じられるかということと連動してくるのがわかってくると思います。
そして、自分の価値を低めていたのは、他人ではなく自分自身の役割選択であったこともわかってきます。

その発見は、他人のせいで犠牲になっているという救いがたい立場から、自分の選択次第でいくらでも変えられるという180度転回した見方を生み出すことにもつながるでしょう。

「とても自分には、あんなに自分の意見を自信を持って言えない」と感じていた人も、結局は自分で自分の考えを選択することを自分に許しているだけであることがわかってきます。
そうなれば、自分にもそんな選択は充分可能であることがわかってくるのです。
自分が選択する人、リードする人にもなれるし、自分は他の人にとっても、とても重要な人間であることも感じられてくることでしょう。


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変化の中に留まる/流れの一員になりましょう

「私はどうやったところで、こなしきれないほどのたくさんのことがあるので戸惑っています。」

そうです、何かをやると次のことが現れる。
やってもやっても次の課題が登場します。

「これでこの方面は片が付くだろう。」とか、「この分野はこれでマスターしたぞ」と思っても終わりは結局来ないのです。
願いはどこまで行っても尽きません。

ところで同じように、どれだけ願いを叶えても、それは達成され続けます。
願いが次々現れるのに気をとられて、達成してきたことは気にとめません。
しかし、それらは毎回結果を出してきているのです。

結果の積み重ねが、今のあなたを作り出しています。
あなたは、自分で区切った位置でだけ願いが叶ったかどうかを判定しようとするから、自分が得てきたものを喜ぶことが出来なくなってしまうのです。

悩むサラリーマン


さて、「こなしきれないほどのたくさんのことがあるので」今どこにいて、次に何をすればいいのかに迷っています。

しかし「こなしきれないほどのたくさんのこと」も、実はあなたが適当に区切った尺度で数えたものに過ぎません。
存在するものは、あなたが分けて数えなければ右から左まで無数に存在するのです。
そんな連続の中の、適当な位置を取り出して、あなたは名前をつけているだけに過ぎません。

「こなしきれないほどのたくさんのこと」を全部自分で処理しようなどと思わないことです。
分ければ分けただけそれらは増殖を続けます。

つまり右から左へ移動する通過点のどれか一つを取り上げて、問題にするのでなく、その連続のどこか途中に自分がいると考えるだけで充分なのです。

あなたが怒りの側の端にいたとしても、それはやがてその対象を許して受け入れる側の端に向けて戻っていきます。
あなたは誰かの意見に賛成し、これこそ我が意を得たりと思うのですが、その人があなたの納得できないことを言い出すと途端に反対側の極に移動したくなるのです。

自分でその途上に名前をつけて外側に取り出そうとしないことです。
「半分許したけど、半分怒っている」と表現することに何か意味があるでしょうか。
「誰かに全面的に賛成する」という言葉の無意味さを考えて見て下さい。

その途上のどこかにいて、外側へ取り出すことをやめれば、それはそのままでしかるべき位置を移動します。

あなたがこころの状態に名前をつけて取り出そうとするとき、自然な変化はそこで無理やり切り離されてしまうのです。
切り離されて分割されたあなたは、再び怒りのひとに逆戻りしてみたり、自分自身をあれこれ評価し始めて悩みだすことになります。

言葉は連続したものを無理やり途中で切り離し、その言葉や思考によって実際の現実とは別の解釈を作り出してしまいます。
包帯を巻いた傷口を何度もほどいて確認して、まだダメだまだダメだといっているようなものです。
傷は自然に身体が直してくれるのを待っているしかないのです。

イライラするサラリーマン


「こなしきれないほどのたくさんのこと」とは、言葉の通りあなたが直接関わってはいけないことだと告げているのです。
こんなに多くのことを背負いきれませんと悲鳴を上げ、警告しているのです。

あなたは素直に関わることをやめて、その中の今いる場所に留まっていればいいのです。
それは自然に傷が癒えていくように、なるべくして変化を続けていきます。

変化するものを、言葉や論理で切り出して問題にするから、手に負えないものに化けてしまうのです。
論理は固定したものしか扱えません。
変化する状況を捉えようとすれば、どこかの時点で動きが止まったと仮定して扱うことしかできないのです。
それを使うのは、固定した死んだ現実を仮定できるときだけです。
生きた現実は、流れの中でしか捉えられません。

あなたは昨日まで平気だったのが、今日は「こなしきれないほどのたくさんのこと」が出現してしまったと考えます。
しかし、変化は少しずつ連続して起こっています。
突然出現したと思うのは、あなたがどこかを切り取って、その前とその後を比較した解釈でしかないのです。
連続した変化を見える視点から見れば、それは必然的な変化だったのでしょう。

そのような外側に切り出してみるやり方で動揺していないで、もともとの流れの中に戻るのです。

連続の中にいる一員として、しかるべき位置に一緒に留まれば、あなたが思考を働かせて悩むこともなしに変化は起きていきます。
あなたのやるべきことは、中にいる流れの一員でいることだけです。


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区切りがついたらさっさと身を引く

「いくら容量があっても、いつまでもそれをいっぱいにし続けることは出来ない。
器で言うなら、中身がいっぱいになったら、それでお終いにしないといけない。
鍛えた鋭い刃先も、いつまでも鋭利なままではいられない。
家中を財産でいっぱいにしても、いつまでもそれを守り続ける事は出来ない。
財産や地位を得ても、いばっているうちに、自ら破滅してしまう。
なにもかもぎりぎりまでやらずに、自分の役目が果たせたら、さっさと引退する。
これが天の道に沿うことだ。」

(老子道徳経 第九章)



「区切りがついたらさっさと身を引く」
これがタオの生き方だと老子は言います。

ところが、私たちは気がつくと前の出来事に引きずられる生き方をしてしまいがちです。

やっている仕事が一段落ついて「完了!」と叫んで終わらせる。
これが出来ているうちはいいですが、毎日同じ仕事をしていれば徐々にやり残しが気になって、気分的に完結しないままでいるようになってしまいます。

だって毎回、一から始めるのは効率がよくないから。
次の日もすぐに仕事に入れるように予定を立てておいた方がいいんだ。

そういう見方もあるかもしれませんが、毎日やることなら、なおさら区切りをつけて毎回新鮮な気持ちで取りかかる方がいいと思わないでしょうか。

疲れたサラリーマン


そうしないと、家ににまで会社を引きずって帰ることになりかねません。
一回一回は大したことがなくても、毎日目が覚めると昨日の繰り返しが待っていて、「また今日もあれか!」とうんざりする生活になってしまうのです。

このような退屈で変化のない生活が続けば、気がつかないうちに憂鬱な気分を引き起こすことになるかもしれません。

自然に生きている動物は、獲物を見つけたら興奮して戦闘態勢に入りますが、目的を果たせばさっさとその場を立ち去ります。
いつまでもぐずぐず同じ場所にいたら、他の敵に襲われるかもしれません。

人間から見ると「そんなに怖がってすぐに逃げ出さなくても大丈夫だよ」とでも声をかけたくなるかもしれませんが、彼らは身を引くべき時をわきまえています。

ところが、私たちがこんな動物や狩猟生活の名残を留めていたとしても、現代の生活では戦闘態勢に入ることは何度も強化するのですが、終わったら身を引くという方は置き去りになっていくような気がします。

これではメリハリというものがなく、不自然で緊張する方ばかりに偏ったやり方は、やがて不具合をもたらすでしょう。

何かの出来事が起こったらその中に入り込んで身体全体で体験する。
それが終わったら、引き延ばさないで「完了!」をさけぶ。
これが、次の新しいイベントへ新鮮に取りかかれる区切りを生み出します。

だらだら前の出来事を引き延ばすのは、徐々に生活全体を変化のない退屈なものに変えてしまいます。
退屈な毎日を嘆く前に、自分がそのように変えてしまっていないかを振り返って見た方がいいかもしれません。
社会や仕事がそのようにさせていると責任転嫁していると、どんな仕事に変わろうと、また同じ退屈な生活を繰り返すことになります。

楽しい子ども


退屈さを抜け出すには、新しい未知なものに飛び込む勇気が必要になります。
前の続きをダラダラ引きずっていけば、このような変化を避けることが出来ます。
このあたりのリフレッシュしたいという気持ちと、慣れた状態でそのまま留まりたいというせめぎ合いは、ついつい変化のない方へなびいてしまいます。

こういったやり方が、すぐにやり切れない退屈な毎日を作り出してしまうのです。

「鍛えた鋭い刃先も、いつまでも鋭利なままではいられない。」

どんなに優れた道具を手に入れても、やがてそれは古くなり、今のやり方にあわないものにかわってしまいます。それにいつまでもしがみつかないことです。

過去の栄光にしがみついて無能レベルに達するまで同じ場所に居続けようとしないで、さっさと誰かに道を譲って、自分は新しいものを見つけることに目を転じてみる。
そうすれば、いつまでも新鮮な気力を生み出すことが出来ます。

終わったらさっさと身を引くこと。

ドラマを見終わったら、次回の予告など気にせずにその感動をそこで完結させましょう。
楽しみを引き延ばさないで、新しい楽しみを見つけること。

その方が新鮮で魅力的だと思いませんか。



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要領が悪いと言われる

「要領が悪い」とか「のろま」などと言われるのを気にしている人もいるかと思います。。

あるいは「気がきかない」「融通が利かない」「がんこ」などがそれに続きます。
こう言ったタイプにもいくつかあるのでしょうが、1つには「他人のことを先に考える」という特徴があります。

相手がどう思うかをまず気にしてしまうので、自分の考えで自由に動けなかったり、「いや」と言うことに強い抵抗を感じるのです。

また家族などから見ると、そういった人は「外見はよく見せるのです」と言われたりします。
これは時として、ふだんの他人に合わせることの反発から急に変化したりするのを見ている人からの印象なのでしょう。

悩む女の子


このようなタイプは、自分の考えに合わないことでも、何とか相手の意見を受け入れるようにふだんから無理をしているわけです。
それは本人にとって疲れることですが、それ以上に他人から嫌われてしまうことを恐れているので、仕方なくそうせざるを得ない状態なのです。

しかしいったん我慢していた感情が抑えられなくなると、堰を切ったように感情が爆発して止められないといったこともあるようです。

もちろんそのような出来事の後は、本人にとって一番恐れている他人から嫌われる行動をとってしまったわけですから非常に落ち込んでしまいます。
そのために余計にまわりに気を使わないといけない状態を強化してしまいます。

相手に合わせなければという気持ちが強いので、自分が動こうとしても、相手の気を悪くするようなことをしていないかがまず気になります。

その結果、態度がぎこちなくなったり、臨機応変に対応することが苦手になりますから、人から見ると「のろま」とか「気がきかない」といった悪い評価をまねいてしまうことにもなります。

泣いている女の子


一方で相手のことを気にしているので、自分ひとりで動くことも避けるためいつも相手にくっついていようとしたがります。
相手から見ればその人が何をやりたいのかがよく見えないまま、なんとなく近づいてこられるので、時としてイライラしてくるかもしれません。

ハッキリ自分のやりたいことを表明してくれればいいのにと思ったり、あるいは要領よくこちらの態度に反応して欲しいのに、なにかハッキリしない行動をとるのがイライラしてしまうのです。

本人からすると、何とか相手のペースに合わせようとするのですが、それが余計に相手にとってはわからない行動に映るという悪循環にもなりかねません。

そのような相手を一方的に受け入れるやり方は、苦しい中で無理を重ねているわけなので、素直に相手の言うことを聞いていたと思ったら、急に自己主張に切り替わり、人が変わったようにいら立ちを相手にぶつけるような行動に発展します。

そのあたりが理解できていないと(普通わかりませんよね)、相手の人は突然の変化に驚いて理解に苦しむことになります。


「相手に合わせなければ」という気持ちは、誰しも持っているものですが、普通はあまりこじれさせない程度に相手に合わせることで、適度に相手につき合っていくものです。

ところが、このようなタイプの人は、「相手に合わせなければ」という気持ちが強すぎて、相手に嫌われることを極端に恐れてしまうのです。
これを緩和するには、相手に合わせなければいけないという絶対命令を解かなければなりません。

まず誰しも他の人の気に入る対応ばかりが出来るものではないし、それが出来ないからといって相手はそうそう気を悪くするものではないことを、少しずつ実験して体験していくことが必要かと思います。

頭で理解したとしても、すぐに今までの反応をしてしまうものですから、少しずつ相手に気をとられずに、自分のペースで動くというのを試していきます。

ただ、このタイプの人はいままでずっと相手の希望に添うことを優先してきたために、自分のやり方というのがわからなくなっているものです。
どうするかを決めるのは相手だという思いがあるので、自分で考えることを禁止しているのです。

出来るだけ自分の今の素直な感情に気がついてもOKであると言い聞かせながら、そのような感情を受け入れることに慣れていく必要があります。

機嫌の悪い女の子


それから、「相手に合わせなければ」という思い込みを打ち破るために、こんな考え方も知っておくといいでしょう。

それは、ほとんどの人は自分のやり方で動きたいと思っていながらも、誰かリードしてくれる人が
現れるのを待っているものだということです。

自分のこだわりを超えない範囲であれば、誰かに「こんなやり方がありますよ」というのを見せてもらいたい気持ちがあります。
それほど誰しも自分のやり方に自信があるわけではないのです。

あなたが何かで独自のやり方をしても、まわりの人はそれを批判しようと見ている人ばかりいるわけでなく、逆に他の人にとって参考になって喜ばれるものである可能性が高いのです。

そして、そんなやり方を隠しているよりも、表に出して見せてもらった方が安心してあなたと付き合えると思うものです。
あなたがおもっているほど、他の人は自分に合わせて欲しいと思っているわけではないのです。

相手にとってもあまり無理して合わせてもらっても、かえって窮屈に感じるものです。

自分のペースで動くことを取り戻していけば、「気がきかない」とか「融通が利かない」とか「要領が悪い」と思われることも少なくなっていくでしょう。
自分の思うように動かなかったから、ぎこちなくしか動けなかっただけですから。



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心のむだ遣い

「心のむだ遣い」とでも言うのでしょうか、神経を使ったり我慢してやっているにも関わらず、結果的にぎこちなくなり、受け取る相手もなにか緊張を感じてしまうような気の使い方があります。

本人はよかれと思ってやっている(あるいはそうあるべきだと思っている)のですが、その結果本人もまわりも何となく疲れてしまうのです。

たとえば母親が子どもを心配するあまり、「こんな言葉を使っては反発するだろうか」とか「このように動くとよくないかも」とか、子どもの反応を自分で勝手に先取りしてあれこれ考えすぎてしまうと、気がつくと自分自身を見失って、自分の判断に自信が持てず自然に振る舞うことが出来なくなってしまいます。

またそんなふうに誰かの反応ばかり気にして行動すると、なんとなくその力みが伝わってしまい、相手の人もなにか緊張してリラックス出来なくなってしまいます。

傍から見ていると、よく出来た人とか我慢強い人にも見えるのですが、ふだんその人と接している家族は何かわからないけれど居心地が悪いと感じているかも知れません。

自分の方も自由に反応できないと感じてしまうので、うまく本音が伝えられずに我慢しなければならなくなってしまうのです。

親子会話2


つまり、その人の我慢や不自然さがまわりにも感染してしまうわけですね。

「我慢」という言葉は、昨今は簡単に諦めてしまう風潮へのアンチテーゼとして、もっと我慢することを強調するきらいがありますが、もともと無理な状態を自分に強いる行為でもあるわけで、そこに問題が無いとは言えないわけです。

誰かが疲れたので思いっきりリラックスしたい、少しやりたい放題やってストレス解消したいと感じたとしても、そのまわりに何かをじっと我慢して耐えていると感じさせる人がいては、ちょっと今はまずいかなとか遠慮してしまうことになります。

そんな状態がいつも続くようだと、その家族全体が重苦しい雰囲気の方に引きずられてしまいがちです。
例えば子どもの心配をしていた母親の思いが逆に子どもを身動き出来ない状態にしてしまうかもしれないのです。

「こうあるべきだ」というこだわりを手放して、少しずつ本当にしたいことに正直にしたがってみれば、肩の力が抜けていきます。

自分の緊張感が抜けるにつれて、相手の視線も柔らかく感じられるようになってきます。
思い切った冗談さえも言えるようになってくるでしょう。

親子会話


作られた安定は、表現されている言葉はもっともですが、どこか不自然で何かがちがうぞという感じを持つものです。

そもそも常に変化するのが、生きているということだと振り返って見れば、無理な安定や完全さはつくりものでしかないことがわかってきます。

「考えて」「考えて」「見極めた」行動ばかりでは、自分もまわりも息が詰まります。
よくできた完璧な人は、感心はしても自分がそれに付き合うのはちょっと遠慮したくなるものです。

どこか抜けている所があるくらいの方が、長期的に見れば無理を感じさせず、その結果安心感をもたらすのではないでしょうか。

「天網恢々、疎にして而も失わず。」

天の網というのは、とても大きなもので、
その網の目は隙間だらけのように見えるけれど、
肝心なことは、決して逃さないように出来ている。

(老子道徳経 第七十三章)



「心のむだ遣い」とは、自分も消耗させ、まわりの人も巻き込んでしまうという間違った気の使い方です。
隙間だらけでも肝心なことは逃さない、そんな余裕を持った心の使い方が出来ればいいですね。


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悩ましいもの/人からの評価

バッター子ども        女の子帽子

ルーシーがバッターボックスでボールを見送る。
「ストライクスリー」
チャーリー・ブラウン:
「いまのホントに ストライクだったの ルーシー?どうして抗議しないのさ?」
ルーシー:
「なんだか すっごく ほめられちゃったの」
チャーリー・ブラウン:
「ほめられた?」
ルーシー:
「私のストライクゾーンは とっても かわいいんだって!」

いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント
エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02



あからさまなおべっかには騙されない人でも、人からおだてられると多少なりともその後の行動は変化してしまうものです。

自分にいい影響を与えてくれる人なら、長所を認めて褒めてくれることで自信のなかった自己評価を高めてくれるものです。
しかし、それはあくまで手助けにはなっても、そのあと自分で自己評価を維持できなければ元の木阿弥になってしまいます。

賞賛する言葉をかけられると、人は意識していなくても相手の評価で自分の不安が和らいだことを感謝しています。
「自分がどんな人間であるかを代わりに言ってもらえて感謝します。そうやって言葉に出してもらえるまで自分では自信がなく不安に思っていたのです。」といった具合です。

そしてその場では自分は一時的に高揚感を持つのですが、その後でひとりになってしまえば、またいつもの空虚感が忍び寄ってきます。

ここでまた元通りにいつもの憂鬱な気分に戻ってしまうのか、あるいは問題の原因が人の評価に依存して自分の価値を決めるというやり方にあることに気づいて何とか変えて見ようと考えるか、それがその後のあなたの独立した安定感に重大な影響を及ぼすのです。

ところで、人の評価に左右されるということは、自分の側でも自分に固定したレッテルを貼っていることを意味しています。

自分で自分とはどういう人間かを決めているから、それを評価されれば安心したり自信を取り戻すのですが、それを批判されたり無視されると一気に自信を失ってしまうのです。

他人からの評価に一喜一憂したくないのなら、まずは自分自身をこういう人間だと決めつけてしまわないことです。

機嫌の悪い女の子


これなら自分に出来るこれは出来ない、これは好きでこれは絶対嫌いだというように、安易にその時々の気分で自分を規定した「つけ」は、あとあと自分の自由を奪うことになります。

子どもの頃に失敗して絶対こういうことには自分は手を出さないと決めてしまうと、その人の将来にわたって楽しめない分野をつくってしまうのです。

どんなレッテルも貼らないでおこうと決めて、起きてきた新しい展開を楽しめば人生はずっと豊かになるはずです。
そして、その時には同時に他の人の評価を求めてさまよう必要もなくなるのです。

極端に人から評価されないでいると自分の存在価値がないように感じてしまう。
その結果常に何かをいってくれる人を捜し求めて、自分はいろんな人とつながりがあるんだと言い聞かせている。
しかしひとりになると、そのような幻想はたちまち消えて、いつもの孤独感と不安に落ち込む。
それをまぎらわそうと、なにかと電話をかけまくったりして一瞬の高揚感を作り出す。

こんな悪循環を断ち切る必要があります。

自分は何ものでもないことを維持すること。

「無為にまかせればすべては為し遂げられる」と老子が言うのはこういったことも指しているのかもしれません。
人為的に決まりを作り出して、うまくいけば喜び、失敗すれば嘆いて自信を無くしたり、それをごまかすために他人のせいにして誰かを攻撃する。
こんな馬鹿げたことをやめて、本来の無為の人生を楽しみましょうと。


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T2V「執着・ねたみ・やきもち」

以前の記事「執着・ねたみ・やきもち」をT2VPlayerを使って動画ファイルにしてみました。

記事をすでに読まれた方も気分を変えてご覧になってみて下さい。

元記事はこちらです。
執着・ねたみ・やきもち



音声がだんだん遅れてくるので三分割で作成して後で連結してみました。
音声の遅れ対策があれば知りたいです。
FILスクリプトを使うと対応できたりするんでしょうか?
詳しい方いらしたらアドバイス下さるとありがたいです。




「YOUTUBE」にアップロードした画像はこちらです。

T2V「タオに生きる 執着・ねたみ・やきもち」.wmv
http://www.youtube.com/watch?v=XO-Cs1djfoY







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他人から独立している生きる

「他人にコントロールされずに生きる」ではこのように書きました。

あなたが他人の目を気にしたり他人から悪く思われるのを恐れていれば、あなたをコントロールする人は自分自身ではなくなってしまいます。
あなたは、誰か特定の個人か、あるいは社会という名の存在にコントロールされて行くことになります。

たとえば、自分が社会的に望ましい人間であるという自己イメージを抱いていれば、常に周りの常識に気を配り、非難されるような考えや行動をとらないことに注意しなければなりません。
またそれと並行して、あなたの望んでいる自己イメージをおだててくれる人に反応して、その人から嫌われないように行動し、結果的にその人にコントロールを握られてしまうのです。



自己イメージが自分自身だと混同することがなくなれば、他人の反応に一喜一憂することもなくなり平和を取り戻せます。

つまり「他の人から認められたいという焦る気持ち」がないことが、あなたに平和と満足をもたらします。

これはまた、外部的な人生の成功や失敗がすべてだと思い込まないことにも関係しています。
社会が認める成功した人のイメージをそのまま信じて、それに合わせることがすべてだと思い込めば、社会があなたの主人でありあなたはその奴隷の様な存在になってしまうわけです。

しかし、外面的な成功をおさめても自己の内部では何も満足していないという人は沢山いるでしょう。
「仕事だから割り切ってやっている、本当はこんなことに従いたくない」というようにハッキリ意識できていれば、まだ被害は少ないでしょうが、なかには自己の存在と社会の評価を同一してしまっている人も多いようです。

苦痛メンタル


そうなると、何で自分が追い詰められたように感じているのか、何が不満なのかが自分でもはっきりわからないという状況を生み出します。

なにか今目の前の課題を片づければ、それが解消されると思い込んでいますが、それが片付いても相変わらず心は晴れません。

そもそも外部的な評価に自分の価値を売り渡してしまったことに問題があるわけです。

安易な満足を求めるなら、目の前に明らかに表示されている社会の要求に従えばいいのでしょう。
しかし、それがあなたの内的な不満を置き去りにして無理やりやっている行動だと認識する必要があります。

いまの直近の課題を解決するために内面の自分が痛みを感じるなら、それを拒否してしまうのが正解であるはずです。

社会に従うことは一見確実に見えるものですが、複数の人間の同意で仕方なく出来上がっているシステムに確実さなど元々ないのです。

そして不確実であることを恐れないことです。
なぜ怖がっているかと言えば、それは今自分の信じている言葉にしたがって確実でありたいと願っているからです。

ハンモック


本来確実でないことも言葉にしてしまえばもっともらしく思えるものです。
そこに自分が確実なものを信じたいという気持ちが合わさってしまうと、人は容易にそれが確実なものに違いないと信じてしまいます。

しかしもともと常に変化していくのが現実であり、自分では一貫していると信じている自分も常に変化している存在だという現実を直視するなら、確実なものを求めるということが幻想であることはわかるはずです。

確実なものを信じたいという思いから、本来何の保証もないことを確実なものだと偽って信じている。
それで今の自分を安心させようと思っているから常に不安がつきまとうことになるのです。

実は本心では確実さなど嘘だと見抜いているから、嘘がばれないように脅えているだけなのです。

不確実で常に変化していくのが現実だといったん認めてしまえば、そんな脅えは消えてしまいます。
信じられないことを無理に信じるのをやめることで、変化と共に生きていける自分を取り戻せるのです。

他人から独立して自分の内面を信じることなど、そんな変化する現実の一つに過ぎないことがわかれば、いかににばかばかしいことに自分がとらわれていたのかがわかってスッキリするでしょう。

確実でもないことを、信じたいからという理由でこじつけないこと。
「常に変化するのが生きているということだと認める」
ただこれだけのことなのです。


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自分らしさに戸惑う人に

自分らしいとは、どういうことかわからない。

そんなふうに思って悩む人がいるかも知れません。
その一方で、「自分はこういう人です」というのを、立て板に水で紹介できるような人もいるものです。

しかし、そのような違いというのは、ほとんど、どんな家庭環境で育ってきたかで大きく左右されるわけです。

家族のだれもが自分の意見を表現することを賞賛する環境にいれば、自分とはどういう人間かを言葉で表現する機会も多くなるわけだし、そのストックを取り出して人に示すことも簡単です。

逆に、下手なことを言ってしまうと、咎められたり、笑われたりするのを気にしながら育ってきた人は、自分について表現するのが難しく、思い浮かべるだけでも困難を感じるかもしれません。

家族団らん


また、それでは自分を言葉で表現するのが上手な人が、自分のことをよくわかっているかと言えばそうとは限りません。

じつは、表現できる自分というのは、自己の一部を無理やり言葉の枠に収めたようなものでしかないからです。
ですから、かえって自分を決めつけて規定しすぎてしまう可能性もあるわけです。
あくまで可能性を残して、自分を規定しすぎないようにしていれば、思っても見なかった自分を発見するチャンスも増えてくるものです。

「自分らしくある」というのは、その状態で「いる」ことはできても、それがどんなものかを「知る」ことはできないものです。

あなたが「自分らしさ」を知ったと思ったとき、あなたは「知る人」と「知られる人」に別れてしまいます。
そして「知る人」こそが本来のあなた自身であり、「知られる人」とは説明出来るように言葉にあてはめられた象徴でしかありません。
どこまでも「知る人」の側が存在し、すべてを「知られる人」にしてしまうことは出来ません。
できるのは、ただあなた自身である状態を体験することだけなのです。

本当に自分らしくしているとき、あなたはそれをいまその時に知ることはないのです。
後から振り返って、自分らしかったと説明するかもしれませんが、そんなことはどっちでもいいことだと、ただその状態を経験するのが本来の自分らしさなのでしょう。

元気男子


自分らしさに入り込んでいるとき、自分が何をしてるかなど振り返らないし、それを説明しなければいけないとも思わないものです。

谷神は死なず、それは神秘なる女性と呼ばれる。
神秘なる女性の扉、そこが天地の根源である。
それは綿々と続いて、いくら汲んでも枯れない。

老子道徳経 第六章



渓谷1


谷とは空間です。
山は形のあるものですが、谷はくぼんだ空間であり、それ自体形のあるものではありません。
老子は、空間こそが源であると言います。
空っぽだから役に立つ、そこからすべてのものが生まれてきて、いくら取り出しても尽きない源であると。
それに対して形のあるものは、源から取り出して表現された結果です。
形をとったものは、もはや他のものに変えることはできない。
それはまた、形をとった時から、いつか破壊される時が来るものです。

自分らしさも、知ることの出来ない空であってこそ、限定されず破壊されることのない可能性を秘めた存在になれます。
「自分とはだれか」、「自分らしさはこれだ」、そう決めてしまうのは可能性を限定する行為です。
それはまた、その規格にあわない自分を封印したり抑圧する原因となります。
それが、のちのち自分らしさを取り戻したいと、何度もあなたを苦しめる原因となります。

空であること、知られざる存在であるとき、可能性は無限となります。
「あなたは誰か説明しなさい」といわれて、あなたを限定してしまう必要などないのです。

他人との関係を取り繕うために、自分を安売りする必要はありません。
あるいは社会的な圧力に負けて、自分を枠にはめてしまう必要もありません。
あなた自身がそれを許さない限り、誰も強制できる人は存在しません。
もちろん自分で自分の可能性を限定して、「私は所詮こういう人間よ」と決めるのも馬鹿げています。

「からっぽ」であることは、不安だとか不便だとかと言う理由で「自分を誰かに仕立てる」とき、あなたの分裂が始まります。
それを許している限り、あなたはいくつもの自分を作り出して、これは自分じゃないと思っても拒否できなくなるのです。
それに、すぐにどれが本物の自分かもわからなくなってしまうのです。

自分らしさなど、人に説明しようと思わないことです。
それは説明しなくても相手に伝わるものであり、自分そのものであるとき、それは自分自身が一番わかっているものです。
説明しようと思わないでも平気でいられるときこそ、自分らしい自分でいると言えるのではないでしょうか。


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