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罪悪感に取り組む

前回の「非難感情に取り組む」では相手のある感情でしたが、今回の罪悪感は自分自身を相手にした苦しいやりとりで、非難感情と同じようにやはり実りのないゲームです。

目の前の現実に対して寛大な見方ができないために攻撃が自分に向けられてしまいます。

柔軟な発想に切り替える余裕がなく、ひとつの思い込みだけを信じてしまう結果、自分をいじめてしまうことになるのです。

罪悪感とは自分自身に向けられた怒りの感情です。

自分はこうすべきなのにしていない、あるいはやるべきでなかったことをやってしまったということで自分に対して腹を立てているのです。

この感情も繰り返すたびに自分の中にため込まれていきます。

同じ失敗を繰り返してしまう自分に対して、イライラはどんどんひどくなり、わかっているのにできない自分が腹立たしいのです。

また同じ失敗をしてしまわないかと怖くなり、今度失敗したら自分で自分をひどく傷つけてしまうに違いないと思って不安になってきます。

自分の怒りでありながらどうにも出来ない自分をさらに責めてみたり、自分の無力感を強めてしまいます。

また、まわりの人への八つ当たりとして表す人もいるでしょう。

否定的な感情のサイクルは、自分を憎む感情に変わったり、心身共に自分を痛めつけるストレスのもとになってしまいます。

ためいき3


このように罪悪感は何もいい結果をもたらさないものなのに、なぜ人はこのような感情を繰り返して抱いてしまうのでしょうか。

それは、自分でその感情の働きに気づかないうちに、自分を非難する感情や反応のセットを心の中で蘇らせているからなのです。

自分で重苦しい感情に気づいた時には、何か理由があって自分の失敗を悔いているのだと無理やり納得させているかもしれません。

非難感情と同じように罪悪感もまったく不必要なものです。

そのような感情は、起源をたどれば小さい頃に「自分は?することを守るいい子です」と自分に刻み込んだ信念や期待感なのです。

大人になってからであれば、強迫的な「?でないといけない」という信念に縛られることはないでしょうが、まだ小さかった自分には親や教師などの指示することは受け入れるしかなかったわけです。

もちろん大人になってから、そんな考えはもはや必要ないと切り捨てたものもあるでしょう。

しかしその多くは、ぼんやりとした感情や身体反応がセットになった形であなたの心の中に潜んでいます。

ちょっとした禁止事項をあなたが破ってしまうと、あなたは意識しないうちに過去の状況を思い起こしその状態に入り込んでしまいます。

ためいき1


あるいは疲れていたりして気力がないときには、落ち込み気味の気分に誘発されて罪悪感に入り込むかもしれません。

意識してやっているわけではないので、気がついたときには何か後悔するようなことをやってしまったような気分になっているわけです。

油断していると、天候や部屋の明るさなどにまで影響されてしまいます。

「自分は?することを守るいい子です」という決まりから、?できなかったあなたは悪い人間で、罰せられるべきだというのが罪悪感を呼び起こす図式です。

もちろん悪いことをしたと感じる場合でも、そのやったことがあなたや他人を傷つけるような行為であったとしたら、何も感じないのではそれもまた困ったことになります。

しかしそのような反応は、現在起きた出来事に対する正常な反応であり、ここでいう罪悪感とは別のものです。

ところで罪悪感というのは、単純に決まりを破って悪いことをしてしまった後悔だけでなく、それを変形させた他のゲームをやっている可能性があります。

「自分は?することを守るいい子です」という決まりは、もし私が「?することを守らなかったら」罪悪感を感じるべきだというパターンを作るでしょう。

そして実際の罰ではなく、罪悪感を感じるという代償を払うことで、自分は決まりを守ろうという気はあるのだと言い訳できるのです。

真っ向から自分の中に染みついた遵守しなければならない決まりを破ることはしませんが、ときにやり損ねておいてから罪悪感を感じることで「まだ決まりを忘れてはいないぞ」と開き直ります。

こういう逃げ道を覚えてしまえば、決まりを守ろうとする正しい自分を維持しながらも、時としてそれが出来ないダメな自分を演じ、その後で罪悪感を使うというゲームを作り上げてしまいます。

いきなり自分自身を極端に罰してしまわないためには、罪悪感は必要悪のような存在にも成りますが、やはりそのようなやり方はあなたに本当の満足感をもたらしません。

指を指す主婦


それでは罪悪感を解決するために、2つの対策を取り上げてみましょう。

◆1つは、罪悪感をゲームに使うやり方をやめて、自分は時には決まりを守れないことがあることを認めることです。

非難感情のところで出てきた「そうでないこともある」という言葉をつけてみるテクニックを思い出して下さい。

非難感情の場合は、相手がいつも期待通りではないことを思い出すために使いましたが、同じように自分自身もいつもいつも正しいわけではないと認めるためにこれを使って見るのです。

私はいつもは?を守っていますが、時として「そうでないこともある」のを認めるのです。

そしていつもなら罪悪感に入り込んでいる習慣を阻止して、正直に失敗を認めることです。
ハッキリと失敗を認める方が、ズルズルと失敗を繰り返す習慣を打ち切ることが出来るのです。

◆もう一つは、自分が罪悪感からいやな気分に入り込んでいることに気づいたら、「いまここ」に意識を集中し直してみます。

いま現在進行している出来事にだけ意識を向けて、何となく感じるいやな気分は現在のものではないことを確認します。

もし何かの失敗をしたのなら、いまここで出来ることをすべてやってしまいましょう。
それが終わったら、もうそのことは完結したのだと宣言することです。

そして、いま目の前のことに意識を集中させます。
次に何をしようとしているか、目の前にある物をよく観察してみましょう。

ぼんやりとした罪悪感には耳を貸さないことです。
そうすれば、今と関係ない物は徐々に姿を消していきます。

いまここに関わっている自分だけが実在するのだとハッキリ意識するのです。

最初からスパッと切り捨てることは出来ないかもしれませんが、フリ戻されそうになったらすぐに「いまここ」へ意識を戻すようにして下さい。

その他以下の様なことも試して下さい。

◆必要ならば身体を動かす作業を始めるのもいいでしょう。
身体を動かしながらだと、いやな気分にいつまでも浸ってはいられなくなります。

◆しつこい罪悪感には、全面降伏してしまいましょう。
「私がすべて悪かったごめんなさい、罰が必要なら与えてください」と宣言すればいいのです。

「部分的には私は間違っていなかった」というような逃げ口上が今までの習慣に引き戻していたのだと認識することです。

◆あなたは「正しい」自分になりたいですか、何を犠牲にしてでも?
この問いかけは、あなたの本当に求めているのが何かを思い出させてくれるでしょう。

「正しさ」がなにをあなたにもたらしてくれますか?


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非難感情に取り組む

非難感情は自分自身と他人を巻き込んだ実りのないゲームです。

相手に対して正直に、現実的で寛大な見方ができないことが引き起してしまう面倒な感情です。

それはあなたの側の一方的な思い込みが原因で独り相撲をとっている場合が多いのです。

非難は事実の指摘ではなく、相手に向けられた怒りの感情です。

人がこうすべきなのにしていない、あるいはやってはいけないのにやっているということに対して腹を立てているのです。

この感情は毎回ポイントのようにため込まれていきます。

同じことが繰り返されるたびに、腹立ちはどんどんひどくなって、どうしてこの人は気がつかないのだろうといらだってきます。

そのうち、この腹立ちをいつか爆発させてしまうのではないかという恐れの感情が生まれてきます。
次にまたこのような状況になったら、自分が抑えられなくなると、自分自身の怒りを恐れます。

そのため自由に動いて予想外の行動をとってしまうのを避けるようになったりしますが、それがまた自分への非難や後悔につながったりします。

このような相手への非難に始まった否定的な感情のサイクルは、自由な人間関係を損ね発展するのを妨げます。

また感情の制御がもたらす不自由さは、自分にも相手にもうまく働きかけられない自分の無力感を生み出し、一方で憎悪の感情が心身に多大なストレスを与え続けます。

まさに人を呪わば穴二つといった状況を作り出してしまうのです。

ここでため込んだ腹立ちをはき出してしまえばスッキリすると思うかも知れませんが、もともとあなたの一方的な要求だったわけですから、相手がそれで納得することはないでしょう。

事態はいい方向には向かわないでしょうし、ストレスを発散するつもりのあなたも、結果によってはさらに相手への非難を強め余計に苦しい状況に追い込まれます。

非難の対象は特定の人とは限りません。
それは、社会であったり物であったりします。
毎日TVで見かける人やCMであるかもしれません。

イライラ女性


このように非難感情は何もいい結果をもたらさないものなのに、なぜ人はこのような感情を繰り返して抱いてしまうのでしょうか。

それは、「非難感情」というものが、あなたの自己イメージに周りが合わせてくれることを期待するあなたの思い込みから発生するものだからです。

あなたのことをまるで知らない画面の向こうの人物に対しても、あなたは非難感情を持ったりするわけですから、それがあなたが一方的に作り出したものであることがわかるでしょう。

そこでは、相手には(もちろん物の場合も)あなたから非難されるような必然性があるわけではないのです。

あなたの価値観、あなたの自己イメージが、相手の存在をあるべき姿でないと言っているだけなのです。

本当に引っ込めるべきなのは、あなたのイメージの方なのです。

いやこの相手の場合は特別だと思いたいかも知れませんが、例外はないと考えるのが現実的です。

今までもいろんな文脈でいっているように、自己イメージを守ることは自分の存在価値を守ることと同じだと考えてしまうため、イメージを変更するよりも相手が自分の基準に合わないことを非難する方が楽なのです。

皮肉にも、怒りをため込んでも、爆発させても被害を受けるのは自分自身だという事実を忘れてはなりません。

憎悪がもたらす被害は甚大です。
それがいやなら、諦めて自己イメージの方を変えてしまうことです。

他人の行動をあなたの都合で変えることは出来ません、もちろん物や画面の向こうの人に対してはなおさらです。

方法はひとつイメージを書き換えることであり、さらに怒りを増大させるような燃料を追加しないようにすることです。

大人女性1


ところで、非難感情を不用意に作り出さないために役立つテクニックがあります。

決めつける前に「そうでないこともある」という言葉をつけてみることです。

目の前の人は普段はとても親切ですが、時として「親切にできないこともある」と認めることです。

以前はとても公平にあなたを扱ってくれた誰か(店員、サービスマン、先生、医者、役所の人)も、時として「公平にできないこともある」ことを承知しておくことです。

「そうでないこともある」のは、もちろんあなた自身にも当てはまりますよね。


子供吹き出し

あなたは自分はきわめて公平な人間だから、自分の思い込みで判断したりしないというかもしれません。

しかし「公平な人間」というのは言葉では存在しても、現実には存在しそうにありません。

なぜならどんな利害関係も持たない人間などいないからです。

あなたがどのような人間関係の中で生きているか、そのことがすでに利害関係を作り出しているものです。

利害関係を持っている以上、あなたがどれだけ公平を主張しようとあなたの自己イメージはその利害関係に基づくものです。

そのような不可能に近い公平さを無理に持ち出すより、どうやってもあなたの立場からみるのと、他の人の考えとは一致しないと考える方が現実的です。

つまり他の人は誰であろうと、あなたにとって非難すべきものを持つ可能性があると認めることです。

そのような現実的な認識があれば、非難感情は発散すればなくなると考えて遠回りするよりも、最初から非難感情を相手にしない方向を考えた方がいいとわかってくるはずです。

あなたが相手の非難すべき点を問題にするのを諦めれば、それはもはや問題として存在しなくなるのです。

あなたは隣にいる人がその人自身何も問題を感じていないことに対して、あなたが問題を感じるからという理由で非難する必要は何もないのです。

あなたはそんなことに時間を使うよりも、自分の楽しみのことを考えた方がいいに決まっているのですから。「そんなに暇人じゃないよ」とでも自分に言い聞かせて終わりにすることにしましょう。

あなたの非難感情が、相手に向けられたものではなく、相手の行動に対するあなた自身の反応に対するものに変われば、一歩前進です。

自分の反応の問題だとわかれば、もはや自分以外のものを変えてしまおうという不可能に挑戦しなくて済むわけですから。


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完全主義では取り組めない

新しいことに取り組もうと思う時に障壁になるのは、うまくできるだろうかという不安や、とんでもない失敗をして笑われるのではないかという恐れなどですが、これらのひとつの表れが「完全主義(完璧主義)」というものです。

完全主義というのは、本人の理想は高いのでしょうが全体としてみれば、結果的に生産性が低くなったり、完成までに時間がかかるという弊害の方が目立つようになるものです。

時間がかかるのは「完璧にできるまで人前で見せたくない」という思いから、最初の一歩を踏み出すことが出来ないせいですが、それと共に気軽に取り組んでいれば経験を積んで自然に上達する技術も行動の鈍さから結果的にのばせないままになってしまうのです。

綺麗なお風呂


単純な仕事を黙々とこなすのは苦痛にならないのですが、臨機応変の反応で変化が要求される仕事になると難しくなります。

完全主義にとらわれるあまり、融通性を欠いてしまうのが問題です。

問題の本質は、完璧にやろうとする度合いの問題だけではなく他にもありそうです。

たとえば、完全主義の人がそばをゆでるとします。
完全主義ゆえに1本、1本のそばが完全にゆであがることを期待すれば、最後の1本がゆであがったときには、その他のそばはゆですぎになったりして全体としては残念な結果になってしまうのです。

このときの問題とは何でしょうか。

たしかにゆで上がりの確認の仕方に問題有りなのですが、その本質は全体としてのバランスの欠如なのです。

そばをゆでることの目的が、全体としてのそばが適度に仕上がることにあることを見失って、部分的な完全さにとらわれてしまうのが問題なのです。

優先すべきなのは全体としての仕上がりにあるという観点に、目を向けられないことが問題なのですから、目的のとらえ方こそが問題点なのです。


ところで完全主義は何でも完璧にやろうとするのがいけないのだから、もっと大ざっぱに出来る性格になればいいという考えもありますが、はたしてそれで改善するものでしょうか。

仕事の中には、たとえ小さな部分であっても完全でなくてもいいとは言えない場合もあるものです。

部分的なミスでも全体に関わってくる性格の仕事であったなら、細かいことは大ざっぱでいいという考えはNGです。

そのような場合は、経験を積んだり、訓練を繰り返すことでその制度を向上させるというのが望ましい対応なのです。

その意味で、完全主義の人のやり方は細部にこだわって先に進めない結果、全体の経験が積めなくなるわけで、先程の要求から逆行しているわけです。

水泳


完全主義者のやり方は、最初の一歩であろうと準備段階の作業であろうとすべてが最終的な水準になければいけないという要求を課すことに問題があります。

これが結果的に何も先に進めないという皮肉な結果を生み出すのです。
最初から完全な水準を目指すのでなく、訓練を積んで徐々に精度を上げるという発想に転換することが必要なのです。

それと仕事を離れた日常生活でも、完全主義はその弊害をもたらします。

先程の精度を要求されような仕事でもないのに、何であっても完璧にやり遂げないといけないという傾向が普段の生活にまでトラブルをもたらしますのです。

ですから常にやまない完全さの要求はストレスを積み重ねて容易に鬱傾向にまで結びついてしまいます。

そこでの問題は、完璧さを要求されることと、大ざっぱでもいいことを区別することを忘れてしまっていることにあります。

いわば、仕事の完全要求が、日常生活の完全さの必要のないことにまで及んで汚染してしまっているということです。

日常の生活では、毎日繰り返しているたわいない作業は、毎回同じやり方である必要もないし、昨日と今日でその丁寧さが変化したところでまったく問題ないものである、そういう当たり前のことを当たり前に思えるように認識を修正する必要があるのです。

このように幾つか挙げてきた観点の修正ができてこそ、「もっと力を抜きなさい、大まかでもいいですよ」というアドバイスが生きてくるのではないかと思います。

「失敗を楽しむようになりましょう」というアドバイスも同様ですね。

練習をつんで徐々に精度を上げればいいのだという見方が出来ないと、失敗など許されることではなくなってしまうからです。

もう一度、完全主義の傾向がある人の観点を変えてみたいポイントをまとめてみましょう。

◆全体としてのバランスを見通すことと、とりあえずでも完了させることが目的であることを忘れないこと。細部から全体に目を向け直しましょう。

◆完璧さが必要なことと、おおまかでもかまわないことがあること思い出して、それらを見分けるようにしようと思うこと。

◆より完全さが求められることは、経験や訓練によって徐々に精度を上げるしかないことを認識すること。いきなり完璧な成果を求めるのは誰がやっても不可能です。



融通が利かないのは、特定の思考にこだわってとらわれてしまうからに他なりません。

とらわれてしまう思考方法から解放されるためにも、上記の観点の変更を試して見ましょう。

そして、このやり方なら不完全な結果から自分を責めてしまう傾向も緩和されてくるはずです。


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つじつまが合わない自分を卒業する

私たちは「自分らしく生きよう」とは思うのですが、その一方で自分のやっている行動が自分自身で理解できないことがあります。

自分自身でもなぜそうしているのかわからなかったり、つじつまの合わない行動をしながらどうしてそうなってしまうのだろうと混乱しているのです。

客観的な理由はわからないのに、なぜだかこわくて話しかけられない人がいるかと思えば、いくらでも話し続けていたいと思う人がいたりします。

自分では全然やりたくないと思っていながら、なぜか気がつくと引き受けてしまっている自分を発見しますが、すぐにそんな自分に無理やり理由を付けて納得させようとするのです。

嫌いな人と行きたくもない場所に行かざるを得なくなり、次は絶対に行かないと決心しながらなぜか同じことを繰り返します。

この人には自分を認めて欲しいと思って、やたらと気をつけて接していながら、ときどきそんな自分や相手に腹を立てている自分に気がつきます。

もう言いなりにはならないと思っていたのに、その人にあった途端に自分のペースを奪われて、相手のいいなりになっている自分をどうにも出来ません。

他人のほんの一言で、ほんの一瞬のうちに自分のコントロールが奪われてしまうのがなぜなのか、自分でも解りません。

飲み会


このようなつじつまの合わない不合理な行動は、なぜ起こるのでしょう。

自分の側に何か原因があるのでしょうか、あるとすれば何がいけないのでしょうか。

それは、自分では偽りのない本心だと信じながら、実は作為に基づいた自己イメージを作り上げてそれが自分だと信じ込んでいるからです。

その自己イメージから行動している限り、同じパターンは繰り返されます。

あなたはやりたくないことを自分からやっていながら、自分を納得させるときには、それは相手から無理強いされた行動だと思い込んでいるわけです。

つまり、あなたは相手が自分のことをどう感じているかを心配して、それに合わせた行動をしているのです。

しかし、自分は主体的に動いていると信じたいので、相手が強要したから仕方なくとってしまった行動だと説明しているのです。

他人の目に映る自分の姿を意識することが、あなたの自分を生きようとする行動を制限しています。

あなたは他の人がいい評価をしてくれるほど、自分がいい気分になれることを知ってからそれに頼るようになります。

しかし、それは同時に逆に悪い評価を受けたときにあなたを落ち込ませるものだということは、わかっていてもあまり考えようとしません。

ですが、それらは裏表ですから片方に頼れば、同じだけあなたを苦しめる方にも働きます。

まわりの人達が、みんなあなたを悪く言い出したら大変なことになると恐れるから、いろいろな行動パターンの中で相手を喜ばせる方法を取り入れて行きます。

しかしそんな風に相手次第で、自分の存在が左右されてしまうことに対して不満を感じているあなたは、時としてそれを強要してくる(とあなたが思い込んでいる)相手が憎らしくなり怒りを感じるわけです。

小さい頃に親からどこかに置き去りにされたらどうしようという恐れたのと同じように、今もまわりの他人をつなぎ止めておくことが、あなたの存在を維持するための必要不可欠なものだと信じ込んでいます。

それがなくなってしまうと自分は生きていけないという恐れが、あなたの行動を気づかないうちに修正して書き換えてしまうのです。

不安


このような恐れがあること自体は別に異常でもないし誰にでもあることです。

ですが、他人の評価に依存すればするほど、自分らしい生き方をしているという感じがなくなっていくということには気づく必要があります。

自分でつじつまの合わない行動をしていると思っている間は、対象のよく解らない恐れから自分らしい行動は制限されてしまいます。

漠然とした恐れを抱いていては、どう対処していいか自分でもわからなくなります。

だれでも気力が充実していれば、他の人も恐れの対象と思いにくいのですが、落ち込んだり疲れていると理由のわからない他人への恐れは巨大なものに映ります。

それが強くなりすぎれば、わけもなく人に会うことすらイヤになってしまいます。

まずはそんな訳のわからない恐れが、他人に認めてもらおうとすることから来ていたり、孤独になってしまうことへの恐れにあることに気づくことです。

そして、その行動を正しいと思いたいために自分に言い訳している自分に気づいて、それに味方するのをやめて本当の理由を認めることです。

まわりの人が力を持っていて強くて怖い存在に見えるのは、自分の不安や孤独の恐れを認めようとしないために本当の実態が見えてこないだけなのです。

「まわりの人達」というのは個人の集まりであって実体のあるものではありません。
実際に存在するのは個人と個人の関係だけです。

あなたの漠然とした不安が、それを巨大なおばけに見せているだけです。

自分の方が弱い存在であると思い込みにだまされてきただけなのです。
そしてだましているのは相手ではなく、あなた自身なのです。

動物と仲良し


ひとつでもこのような自分の弱さの思い込みを発見すれば、その分他人への恐れはやわらぎます。
また、ひとつの発見は、同類の恐れを発見するのに役立ちます。

恐れがやわらいでいくにつれて、向き合うことを恐れていた自分の不安の存在を認めることも容易になってきます。

恐れを隠そうとして、正しさを主張していた自分を見つけることが出来るでしょう。

他人に手の内を握られていた哀れな存在から、自分の決めた世界に生きることを取り戻しましょう。

その訓練を続けていけば、だれかにいやな顔をされようと、相手のいらついた様子を目にしようと、脅し文句を聞かされようと、そんなものにわずらわされないあなたを作り上げることが出来ます。

そんな相手にあなたが反応してくよくよしたり、脅えたり、カッとなったりする必要などないことがわかってきます。

「相手の状態は相手の人が責任を持つことだ」と言い切れないのは、あなたの側の恐れがまだ影響を与えているのです。

「自分勝手だ」とか「人の痛みがわからない」などという脅し文句を聞くと、自分の方に落ち度があると思わされて自分の負けを認め続けてきたのです。

ですが、それに反応して乗せられてしまうのはあなたの方の問題です。
それを相手のせいにして怒りをため込んでいたのが、今までのやり方だったのです。

自分でそのような無意識の反応をいち早く発見して、これからはその手には乗らないと宣言することです。

自分の世界は自分で作り上げると決心すれば、外側のお化けはいなくなります。
そうすれば、徐々に人と接するのに準備も力みもなくなって来ている自分を発見するでしょう。

そして自分の内面でも、自分でもわけがわからないような行動は、どんどんなくなっていくのに気づくはずです。

まずは、いまここでそんな不安をひとつ見つけてみましょう。
今日の自分を振り返って、なにか発見するのです。


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成功も失敗もたんなる観念である

成功とか失敗という感情はわたしたちの内部にだけ存在するものです。

勝利や敗北の感情も私がそれを認めるときにだけ意味を持つものです。

これらの感情がそれ自体で意味を持つわけではなく、私たちがそれに意味を持たせ自分自身に言い聞かせているだけなのです。

たとえば、あなたが植物など育てたことがなくプロになる気もなければれば、初めて花の種をまいてたとき、芽が出ただけでも感動するかもしれません。

たとえあまり大きく育たなくても、あるいは花が少ししか咲かなくても、やったことに失敗したという感情は持たずに満足出来るのではないでしょうか。

園芸家にとっては失敗にあたる結果も、あなたにとっては大成功かもしれないし、専門家から「それじゃあ失敗だよ」といわれても落ち込むことはないでしょう。

園芸1


成功か失敗かを判断し、それと自分自身への評価と結びつけているのはあなたをおいて他にはいません。

他の人が失敗だとかあなたの負けだよ言ったとしても、あなたが敗北を認めない限りそれは意味を持たないわけです。

他人の評価をあなたが受け入れることを許さない限り、だれもあなたを裁ける人はいません。

出来事や状況は、他の人がそれを気にするかどうかと関係なく、あなたが受け取らない限りあなたを煩わすことは出来ません。

そして「失敗」とか「敗北」といった言葉は、それ自体言葉に過ぎないわけで、あなたが「失敗=あなた」だと考えない限り、あなた自身には何の影響も与えないのです。

あなたが結果を見てこれは自分の失敗だ、だから私はダメな人間だといった評価をしない限り、言葉も他人も出来事もあなたを痛めつけることはありません。

このように言われると、そんなことは当たり前だと思えるのです。
しかしこの文章を読み終わって、あなたが誰かと話でもしているうちに、次の瞬間にも自分を評価して憂鬱になってしまうかもしれません。

理屈を理解すれば終わりではなく、実際に自分にそれを適用しようと思うなら絶えず自分を観察し注意する練習が必要です。

なぜ人は成功や失敗をそれほど気にするのでしょうか?

これは逆から考えてみれば、あなたが一番恐れているのは、自分がまったく役に立たない無価値な人間であると評価されることだと思うからではないでしょうか。

だから何かにつけて、自分のやったことが成功だったと証明し、人からそのように評価されることを期待し続けるのです。

しかし、根底にあるものが「自分が無価値な人間である」ことへの恐れに起因している以上いくら成功や勝利を獲得してもその恐れ自体はなくならないのです。

褒める父子


恐れも時には役に立つという意見もあるかもしれません。

「劣等感をバネにしたから何かを為し遂げることができた」というのは、社会的には美談かもしれませんが、肝心なのはその人が囚われから脱出できたかどうかだけです。

社会は役に立つ人間が養成できれば、どんなアメでもムチでも使ってもかまわないかもしれませんが、あなたは不本意な脅しには乗らず、無理な要求には断固拒否すべきなのです。

つまり「自分の価値観を外側には決めさせない」という原則を守り抜くべきなのです。

話を戻すと、恐れがそのまま残っている限りいくら努力して成功や勝利を積み重ねても、社会には役だったとしても、あなたには何も解決をもたらさないことは知っておくべきです。

失敗や成功は観念に過ぎないこと、自分の評価とは関係ないことを認識して、自分の評価を自分の手中に取り戻すために、観念に過ぎないものに踊らされないようにしようと考えることです。

何かをうまくやり遂げたいなら、そのことに集中して自己評価とは切り離すことです。

この切り離しによって、失敗への恐れから何かをやろうとすることに躊躇してしまうことがなくなります。

ただ自分が関心を持ったからやってみたい、そういう理由だけで行動に移せるからあなたの行動範囲も広がります。

失敗の可能性を気にしてずっとやることを断念していたことにも、挑戦しようという気持ちが湧き上がってきます。

失敗や敗北の感情は、私たちがどんな人間で何をやるべきかという作られた不自然な観念にとらわれるときにだけ存在します。

あなたが、自分の成功や達成したことを自らの評価と結びつけて自惚れる度合いが大きいほど、同じ原理で状況が悪くなったときの苦しみも大きくなるわけです。

ゴルフファン


自分がどれほど他者の評価に依存しているかを振り返って見ましょう。

他の人たちがあなたに注目してくれたり、惹きつけられるときあなたは喜びます。
それがあなたの気分を良くするからです。

つまりその時あなたの気分は、他の人の反応によって左右されているのです。

それが高じると何が起きるでしょう。

あなたは相手が一定の評価を続けてくれることを期待します。
「今日は期待した反応を返してくれた、明日からも同じようでいて欲しい。」と願うのです。

相手の気分が良くて、あなたをとてもいい気分にさせてくれると、あなたは何かおかえしをしたくなります。

しかし、次の日には相手はおざなりの反応しかしてくれない。
あなたは動揺します。何が起こったのだろう、自分の何がいけなかったのだろうと。

他の人の評価など気にしないと豪語する人でも、気がつけば他人の気まぐれで踊らされている可能性があるのです。

だからといって自分を誰からも影響を受けないような孤立した存在にすればいいというのかと言われるかも知れません。

そんなことで孤独になるのはごめんだと。

しかしそれでも、他人に振り向いてもらえない恐れから行動していても、何の解決にもなっていないことをいい加減気づかないとなりません。

それには、そこに横たわっている根本的な問題が何かに気づくことです。

あなたは、まわりの人から評価されたり、気づかってもらう事が、唯一の自分の孤独を癒す手段だと思い込んでいるということです。

それがいくら他の人の気分次第で踊らされるという、奴隷状態になっていたとしてもです。

これに対する解決は、やはり今まで言ってきたように、ありのままに自分を見ることにあります。

ありのままに見るために、誰も自分を見てくれないと落ち込んでいる自分を、もうひとりの自分の目で観察することです。

他の人に見せようとか説明しようとかいう見方ではなく、あなただけが見ているのですから正直にそのままの自分を観察しましょう。

そうした見方で、誰かに振り向いたり声をかけて欲しがっている自分をありのままに見るのです。

ただそれだけでOKです。

これによって、あなたは落ち込んでいる自分があなたのすべてでなかったことを発見します。

それを眺めているもうひとりの本来の自分が存在することに気づくことで、「あなた」=「落ち込みそのもの」ではないことを実感します。

それはたんなる自分の気分のひとつであったこと、そしてそれもやがて消えていくのを見るのです。

ただ受動的に、次にどうなるかなど考えずに、その気分を観察していればいいのです。

そうすれば、他の人の評価がないと恐ろしいことが起こると思っていたのも、ひとつの感情に過ぎなかったことが解ってきて、今までのようにとらわれ続けることもなくなるでしょう。

そのような見方が出来たとき、成功や失敗という言葉があなたにもたらす反応は変わってきます。

それらがたんなる観念に過ぎないということが実感として解ってくるでしょう。

失敗を恐れて、手を出さずにいたことも、やらずにいるのはもったいないと思えてくるのです。

他の人の気分次第で自分が喜んだり落ち込んだりすることから、主導権を自分の手に取り戻すことも可能になってくるのです。


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空想は現実との接点を失う

木陰で話すマーシーとチャーリー・ブラウン

木陰の男女

マーシー「あなたのことを心配してんのよチャック」

チャーリー「ボクのこと?」

マーシー「そうよ。あなたがあまりにも過去にこだわり過ぎているんじゃないかってね...一年以上もあの赤毛の女の子と会っていないのに、まだ彼女のこと話してるもん」

チャーリー「たぶん、ボクは未来に生きていると思うんだ...つまり、それが希望というものだろ...でなきゃ、ボクは煮えきらない性格だから、彼女を忘れられないのかも...」

マーシー「よくわからないけど、チャック...私はね過去にだけ生きているあなたを見るのがイヤなの... もちろん、未来にだけ生きるっていうのもイヤだけど...」

マーシー「たぶん、よくいわれるように 現実はどこか中間のあたりにあるってことなのかな...」

チャーリー「現実ってヤツはボクとおなじくらい煮えきらないんだな!」

「いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント」
エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02



マーシーはチャーリー・ブラウンに恋しているようです。

いつも自分の気持ちをチャーリーに伝えようとしますが、チャーリーの方は幻想の世界で「赤毛の女の子」に実らぬ恋を夢見ています。

空想の世界に住むのは簡単です。

何を想像しようと、これから起きることなら何だって可能性があります。

過去に見かけた?「赤毛の女の子」は、チャーリーの空想の中ではどんどん理想の存在に書き換えられていくでしょう。

しかしあるがままの現実は、チャーリー・ブラウンにとってはマーシーであることを見ないといけないのですが、幻想は彼に現実との接点を遠ざけてしまうのです。

あるがままを受け入れられない人には、現実はあまりにもつまらない世界であり、物足りないのです。

そういう人は、自分がこうあるべきだと現実の代わりに作り上げた幻想を持っています。

その幻想が、現実の世界ではいっこうに現実化しないことに不満を持っています。

その人にとっては、幻想こそが不満な現実の替わりになる働きをしているのです。

空想の世界にいれば、夢のような世界が広がっているので、いつかそれが実現するのを待ち続ければいいのです。
しかしおそらく永遠に来ないだろう未来ですが。

今の状況に空想を持ち込むほど、現状は色を失い、いっそうつまらない世界に見えてきます。

それはますます現実に不満を抱かせ、さらに理想的な空想をふくらませて興奮してみることで、現実との接触で得られるものの代理にしようとします。

空想は「つまらない」とレッテルを貼った現実をよく見ようとするのを妨げ、ますます現実との接点を遠ざけます。

ありのままに見るなら、どんなに面白い展開が待っているかもしれないのに、現実はつまらない不満なものと決めつけて素通りするものになってしまうのです。

チャーリーにとっては、マーシーは恋愛の対象でなく、また親身に話を聞いてくれたり、あるいは彼をへこませてくれる他の仲間達も、彼の空想の世界に関わる部分でしか現実ではないのです。

空想


しかしいいかげん空想や理想のファンタジーは手放しましょう。

いまここにある現実との接点を取り戻して、そこから得られる楽しみを取り戻すのです。

現実から遊離した空想の世界に住んでいれば、いずれ身動きがとれなくなって先に進めなくなります。

夢を捨てようというわけではありませんが、夢は少なくとも現実との接点を持っていないといけません。

現実面で何かが進行しているのであれば、それがいかに壮大な夢であっても、人から無謀だと言われても突き進めばいいと思います。

しかし、すべてが空想の世界にある夢というのは、文字通り目覚めたら何もなくなってしまう夢でしかないのです。

ありのままの現実をよく見て掘り起こしてみれば、思っても見ない発見があるものです。

チャーリーが言うように「煮え切らない」現実かもしれませんが、未来や過去と決定的に違うのはそれが唯一実際に存在するものだからです。


レシピを見ているだけでは料理は現実のものになりません。

どうせ材料が手に入らないと次のレシピに目移りしているとき、あなたがやっているのは単なる読書であり、料理という現実にとっては空想の世界です。

料理を現実のものにするためには、まずは材料の買い出しに出かけましょう。
それこそが現実との接点です。


献立を考える


新しい発見が見つからないのは、自分には関係ないというレッテルを貼ってしまい素通りする存在になっていたからに他なりません。

新しい見方で、ありのままの現実を調べ直してみましょう。
そこには、見捨てられていた可能性や、視野に入っていなかった貴重な人間関係が隠れていないでしょうか。


何年かたって今の時点を振り返って見たとき、後悔するとしたらどんなことでしょう?
少なくとも、空想の中だけで生きてきて、現実には何も行動しなかった、そんな後悔はしたくないと思いませんか。


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嫉妬は誰に向けられるのか

「嫉妬」という感情は、自分の幸せをだれか他の人の存在によって左右され決定づけてしまいます

「嫉妬」は自分自身でどうにも出来ないと思い込んでいますから、同然不快な痛みをもたらす感情です。

対象のはっきりわかっている「怒り」などよりも、かえってやっかいな感情であると言えるでしょう。

嫉妬からもたらされる感情は、実に様々なものが含まれています。

・相手次第であるという依存心
・傷つけられた気持ち
・相手に対する怒りや、自分でどうにもならないという怒り
・拒絶されたと感じる痛み
・相手を手に入れたいという切羽詰まった気持ち
・相手を求めながら自分には受け取る資格がないと責める気持ち
・相手を失うことへの恐怖

泣いている女の子


また日本語では、似たような感情表現として、僻み(ひがみ)、妬み(ねたみ)、嫉み(そねみ)、やっかみ、やきもちなど多彩な表現のある感情です。

このようないろんな要素が自分を悩ませるわけですから、自分を冷静にコントロールすることを諦めてしまいたくなるのです。

しかしだからこそ、嫉妬の感情からは自由になる方法を知っておく必要があります。

ところで、嫉妬を抱く相手については、能力的に自分と近いレベルにある人に対して多く見られるものと、自分とは距離がある人達への嫉妬や非難(有名人へのバッシングなど)というのがあるようです。

このなかでも私たちを直接悩ませる感情は、前者の方に多く見られるのではないでしょうか。

その多くは、もしかしたら自分の方が勝っていたかもしれないのに、相手がわずかに上回ったことへの僻み(ひがみ)や妬み(ねたみ)の感情です。

この事からも解るように、そこには能力をめぐっての、あるいは誰かをめぐっての競争がからんでいて、自分が「負けた」と感じているときに起きてくる感情なのです。

嫉妬の感情は、相手に対してはほとんどの場合影響を与えず、自分自身だけが苦しんでしまうので、被害を受けるは自分自身だけです。

他の人にも影響を与える場合は、間接的な脅迫のかたちをとります。
相手が自分の側の気持ちに気づいていようがいまいが、その自分の不快な感情を使って人を思い通りにコントロールしようとしてしまう場合です。

しかしそのような不快な感情はあなたが抱いているだけなので、ほとんどの場合あなたのひとり相撲に終わってしまいます。

悩む男女


嫉妬から自分を解放するには、他の人の存在によって自分の価値をはかろうとするのをやめることです。
つまり自分の存在価値を他の人との比較によって決定しないようにすることです。

そのためには、勝ち負けと自分の価値とは関係ないと切り離して考えることです。

またそれと共に、自分の出来ることを狭い範囲に限定してしまわないことも重要です。

これしか自分には道がないと強く思い込んでいては、負けてしまったときの衝撃が大きくなりすぎます。
ヘタをすれば、立ち直れないような失意に落ち込んでしまいます。

自分の生かせることはいろいろあることを知って、自分の能力を決めつけないことです。
そうすれば、1つのことで負けても他のことで勝負できると思い直すことも出来ます。

また自分のできることを限定してしまうと、自分の負けを認めることが難しくなります。

少しでも状況が異なっていれば、自分の方が勝っていたかもしれないとぐずぐず考えてしまうから、いつまでも嫉妬が繰り返されることになるわけです。

負けたことを全面的に認めてこそ、次の新しい行動に結びつけることが出来ます。

握手男の子

それから、嫉妬心は独りよがりの思い込みになっている場合も多いものです。

相手は別にあなたと勝負しようと思っていなくても、あなたがかってに戦っているのかもしれません。

他の人の存在や行動と自分の存在や価値は切り離してしまうこと、また特定の出来事や能力に執着しないことです。

人との関係において、相手を嫉妬の目で見て接していたのでは、とても自然な関係は望めません。
さっさと勝ち負けのこだわりを捨てて、自然な関係を持てるように切り替えてしまいましょう。

これぐらい多くの出来事のひとつに過ぎないのだし、自分の存在価値にはまったく関係ないと考えることです。

それから、ずっとあなたが苦手だと思っていた人についても、実はあなたの側の独りよがりな嫉妬心だけが原因なのかもしれません。

自分でそれを発見して切り離してみれば、あなたの特別な友人が生まれるかもしれないのです。


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苦痛から抜け出すために/向き合うこと

苦痛に出会ったとき、私たちがとるやり方はいくつかあります。

1.苦痛から目をそらすことを探し求める。
2.苦痛の責任が誰にあるのかを決めつけて、それを攻撃することで苦痛を忘れようとする。
3.苦痛などないかのように振る舞う。
そしてもう一つは、
4.苦痛そのものに向き合ってそれを体感する。

最初の3つのやり方では、苦痛そのものがなくなることはないのですが、私たちはそれでも4つ目の方法は出来るだけ避けて一時的な回避策を試みてしまいます。

しかし苦痛をごまかすやり方に上手になってはいけません。
それは将来のやっかいごとの元凶を育てているようなものです。

起きてきた出来事が直接苦痛を含んでいるとは限りません。

起きた出来事によって、あなたが見たくないと思ってしまい込んでいたものが暴露され、あなたの苦痛や対象への憎悪を引き出すかもしれないのです。

実は苦痛を持続させるのは、現実ではなく1から3のような条件付けられた思考によってもたらされます。

ですが私たちはこのような見当外れの思考をやめることを恐れます。

人は間違ったことをするのをやめることを恐れているのです。
それは、それしか逃れる方法がないと思い込んでいるからです。

苦痛に満ちた事態が発生すると、すかさず条件付けされた思考パターンを働かせ、その心を追いかけ続けていないとすべてが崩壊してしまうと誤解するのです。

ハロウィン


しかし苦痛を抜け出すには、これとまったく逆のやりかたが必要です。

条件付けられた思考をストップさせれば、本当の解決が見えてきます。

苦痛を直接体験することはそれを避けるのと比べれば、即座の回避はもたらさないかもしれません。

苦痛を避けないでいれば何が起こってそれが解決するのか、その答えがすぐに見えないからといって回避策に逃げ込まないことです。

不安感や答えが見つからないいら立ちは確かに辛いものですが、本当の解決が欲しいのなら、また将来に問題を持ち越したくないのなら、そこで解決してしまうのが一番いいのです。

痛みから自由になるには、痛みを感じ尽くさなければなりません。

熱があるからといってすぐに解熱剤を使うと、本来の身体の治癒しようとする力を阻害してしまうことがあります。

同じように痛みには抵抗せず、上記の回避策のように怒りや憎悪を作り出したり、現実を無視するやり方をとらないでいれば、その痛みは苦痛の原因を完全に取り除く方法に導いてくれます。

虫眼鏡探偵


まずは、あなたの問題を充分に意識して見てみましょう。

すぐに目を背けたくなるのを防ぐために、当事者として見ることを少しやめて、客観的に問題を問いてみようという好奇心の目で問題を扱ってみましょう。
あなたが誰かの相談にのっているつもりで問題に接してみるのです。

それがいかにあなたを苦しめているか、感じたくないことを感じさせるかをみてみるのです。
これは、いつもはあなたが見ないようにしてきたことですが、それを見てみることでどんな反応があなたに現れるのかを注意して見守りましょう。

充分に苦痛そのものを見つめたら、今度はそれに反抗してみましょう。

反抗といっても苦痛をもたらす原因や人に対しての反抗ではなく、その苦痛の現れてくるあなたの内部に対して反抗してみるのです。

いままでは、存在を充分に認めなかった苦悩に対して、「もうこんな苦しいことは充分だ。充分我慢してきたからこれ以上我慢しない。これで終わりにする。」と宣言してみます。

これまでは反抗どころか最初から手をつけかねてきた苦悩に対して、自分が決別することを選択すると本気になって宣言します。

見るのがいやなほど、どうしようもないと思って諦めていたことも、正面から取り組む気になれば他の選択も出来るものだというのが徐々に解ってきます。

他の人の問題ならアドバイスできたように、あなた自身の問題にも可能性を除外し続けてきた選択肢が存在することが見えてくるでしょう。

今までそれが出来なかったのは、最初から除外して考えてしまう条件付けされた思考が原因なのです。

正面から取り組めばどんな苦痛にも解決はあるものです。
習慣的に苦痛のストック場所へ放り込んできたことに、今度からは本気で向き合ってみることです。


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目標達成という脚本

人生脚本 - 交流分析」ではエリックバーンの脚本を紹介しましたが、現代人が多かれ少なかれ共通に抱いてしまっているのが「目標達成」という脚本です。

この脚本は、まず目標が決められ、あとはそれに向けていまの自分はどうであろうとも、将来の目標達成に役に立つことに専念しなさいというものです。

ここでは「いま」という時や、「いま」の自分は重要ではなく、すべては将来の目標というゴールに行き着くための布石でしかありません。

あなたの幸せはゴールに到達するまで先延ばしにされ、しかもゴールに至って初めて成功か失敗かがわかるという過酷なものです。

「目標をしっかり立てておけば、あとはそこに至る為のサブの目標を達成していけばいいので、失敗がなくゴールに到達するまでその過程を楽しんでいればいいのです。」

こんな言い方をされると、いかにももっともだと思えてしまいます。

またこのような考え方が、知らず知らずのうちに私たちの常識的な考え方として染み込んでいっているようです。

しかしこの脚本は批判的に見れば、大きな問題がいくつも含まれることに気づくでしょう。

・結果が出るのは先のことであり、それもいい結果であるとは限らない。
・いまを犠牲にすることを強要する。
・ゴールに至るまでの自分の行動は布石でしかなく、いまを充実させるという考えを持ちにくい。

売り上げ成績


短い期間であれば、これも効率的な戦略であると言えるでしょうが、ゴールを素晴らしい物だと見せつけて「いま」を犠牲にする生き方を強要するやり方は、いずれ途中で不満を募らせることになるのは明らかです。

目標達成型の脚本を信じる人は、いまを充実させることに懐疑的であり、ストイックに目標に向けて自分を律することが正しい生き方だと信じたがります。

いまが良ければいいとするのは、刹那的な生き方で望ましくないと考えます。

ところで先程の問題点の他にも、別の視点を追加するともっと別の問題があります。

それは、先のことは分からないものであり、不確定な要素は必ず存在するものであるという事実の扱い方です。

目標達成型の脚本では、不確定な要素はどうにもならないから、そんなものは見てもしょうがないといって避けているように思えます。

「いまできることは予測に基づいた計画を進めることがすべてである。他に出来ることはない。」
これのどこが間違っているのだと主張しながら、不確定な要素には取り組む余地がないと逃げています。

不確定な要素の影をみるたびに、さらに計画を練り直し充実させることで、それを消せるとでもいうように。

しかし、不確定な要素は一定の割合で存在します。

そこには計算外の事態が起きたときにそれを積極的に受け入れる姿勢や、計算外のハプニングを楽しむといったことが無視されているのです。

かけっこ1


それでは新しい観点「いまがゴールでありそれ自体が目標である」ということを考えてみましょう。

最初から目標を立てることを諦めてしまえば、目標に縛られて無理することもなく、いまここで起きていることが目標でありゴールとなるわけです。

そこで起きることは、もはや想定内でも想定外でもありません。

起きることを予め選ぶことをしない代わりに、予定外のことも起きてきません。

今回も計画通りに進まなかった、目標を達成できなかった、明日までに目標に到達出来るだろうかと思い悩むくらいなら、目標など立てない方がいいとも考えられるのです。

そもそも、なぜ未来に結果をあずけるような考え方が主流になり、それに疑問を持たなくなっているのでしょうか。

最初は計画的に実行することが効率がいいと経験から学んだり、そうしなさいと教えられたわけでしょう。

そして確かにそれが功を奏することも多いのかもしれません。

しかしそこには密かに「世界を予測出来ることばかりにしてしまいたい」という願望も潜んでいます。

それは、予定外の事態を恐れるという余計なことを作り出してしまうのです。

なんにしても私たちは予定を立てることがいい結果を生むことも、余計な心配を作り出すことも経験的に知っているものです。

その上でどれだけ「目標達成」の脚本に従うか、あるいは「いま」の自分が主役であるとして生きてみるかを自分で選択することが出来ます。

「いまがゴールでありそれ自体が目標である」という新しい視点。

そこに自由さと開放感を感じないでしょうか。

偶然起きることを楽しめるかもしれないというワクワクする感じがしないでしょうか。

普段から「目標達成」の脚本にどこまで縛られていたかが見えてこないでしょうか。

「世界を予測出来ることばかりにしてしまいたいという願望」があることや、それにまつわる不安を感じとるでしょうか。

予定外の出来事に対する不安と期待の両方を感じられないでしょうか。

そしてなにより、「目標達成」という考えが後から付け足された考えであり、本来いまがゴールも目的もないすべてであったことを思い出さないでしょうか。

いまのあなたは過去の目標だったかもしれませんが、いつだろうといま現在の視点から見ればそれは目標でもありゴールでもあるのです。


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自分の求めるままと人生の求めるまま

「自分の求めるまま」と「人生の求めるまま」を区別してみましょう。

自分の求めるままに生きようとすれば、どこかで限界に突き当たったり、たえず抵抗や敵に出会って不安やイライラから逃れることが出来ません。

自分の求めるままに行動するときの問題の代表は「右肩上がり」の信仰です。

なにごとも短い期間を取り上げてみれば、確かに右肩上がりでものごとが進行する場合があるものです。

しかしその短期間のサンプルから、この後もずっと永遠に右肩上がりで進んでいくと信じ込むとき罠にはまります。

一部分の傾向から汎用的な法則を予測するのは、多くの場合間違えやすいものです。

たとえば、この話は聞かれたことがあるかと思いますが、ピサの斜塔から鉄球と綿の固まりを同時に落とすとどちらが早く落ちるかという問題。

実際には空気抵抗の影響を考えないといけませんが、それがないとすれば重い鉄球が先に地面に達するということはなく、どちらも同時に地面に到達します。

ピサの斜塔


この重い方が下に向かいやすいという発想(スピードについては重力加速度の問題ですが)をさらに間違えると、より軽い物質を探し続ければ、そのうち重さがなくなって上に向かって飛んでいくのではないかと考えたくなります。

しかし、残念ながらいくら軽量の物質が存在しても、重力の影響を受ける限り、重さは0になることもマイナスになることもありません。

軽すぎて空に向かって飛んでいってしまった、というような反重力の物質は地球上に存在しません。

「いくら軽くなっても重さは0にはならない」

このように、思い込みを勝手に広い範囲に押し広げると、とんでもない間違いをしてしまいますが、何となく思い込んでいるものごとの傾向の中にも、このような間違いが多く見られるのではないでしょうか。

部分的には拡大傾向が見られても、どこかに方向が変わる時点や、値が収束するところが存在するものです。

いま進行している仕事が右肩上がりでうまくいっているからと言って、この後も同じように上昇を続けるとは限りません。

仕事に役に立つモデルもあなたの生き方のモデルとしてはふさわしくないかもしれません。

子供の時に「もっともっと何かがほしい」と思ったことも、大人になったらそれほど本質的なことに思えなくなるかもしれません。

また「右肩上がり」は生命にとってはそぐわないモデルのようです。

どのような生物も永久に成長し続けることはありません。
ある所まで上昇したあと、下降線をたどるのが自然のありかたです。

老子は「堅くなったものは下にいて根っこになり、柔らかいものは上にいて花を咲かせる」のが自然に沿った世の中のあり方であると言います。

年齢にあった生き方を無視するのも考えものです。

梅の木


一時的な傾向を捉えて、このやり方を推し進めればずっとうまくいくと信じたいのもわかるのですが、それを「自分の求めるまま」に据えてしまうと状況が変わってもそのやり方にしがみついてしまうのです。

「自分の求めるまま」に世界が合わせてくれると思い込むと、そこら中で抵抗に遭い、トラブルの絶えない生き方になっていくのです。

不安やイライラを感じるのは、「自分の求めるまま」に生きようとしている兆候であるといえるかもしれません。

その兆候とは例えばこういうことです。

・いつも自分の計画通りに進んでいないのではないかと不安になり、イライラしてしまう。

・自分の中で反発が起きていても決めたことを押し通そうとするので、自己矛盾に苦しむことになる。

・自分がいったん手に入れようと決めると、状況がどんなに不自然でも状況が自分に合わせるべきだと考えて不快になる。

・いつも次の計画に向けて作戦を考え続けている。計画外のことは楽しむ余裕もないし邪魔者ですらある。

・計画の邪魔になることに、神経質になり腹を立てやすい。

・いつも戦っているような気がする。油断すると自分の計画がダメになると考えてしまうから。

・新しい目標が見つからないと不安になる。

・世の中がいつも競争の対象に見えてしまう。

・心がゆったり出来るときがない。

・自分の成果は自分の分身であり、批判や脅威に脅えている。

・どれだけ成果が上がったかが自分の幸福度のバロメータになってしまうので、外の世界しだいで自分が振り回されてしまう。

象の家族


世の中を「自分の求めるまま」に動かそうとしないで、「人生の求めるまま」に切り替えてみましょう。

・起きてきたこと次第で自分の心の状態が影響されなくなります。

・計画に縛られていないので、どのような状況でも静かに落ち着いていられます。

・外界がもたらすことによって、怒りや不安を感じる必要がなくなります。

・いつか将来満足するのではないので、いまここが自分の居場所だと感じることが出来ます。

・やり忘れたことがないかと常に駆り立てられている状態を抜け出せます。

・通り過ぎていくものを自分の側に抱えようとしないので、失う事への恐れがなくなります。

・計画外の事態が発生しないので、いつも起きることは自分の受け入れるままと感じていられます。

・競争や闘いから無縁なのでいつも穏やかでいられます。


もちろん仕事や会社経営は計画通りでないと困るかもしれません。

計画どおりにものごとを進めるというのは、あまりにも常識的な考え方ですから、自分の中にも根強く息づいているかもしれません。

しかし、自分個人の生き方そのものは「人生の求めるまま」に合わせることは可能なはずです。

計画通り行かないことや、思った成果が得られないことから来る苦痛や欲求不満は、本来の自分の求めることとは無関係であると切り離してみることです。

その感情は大げさに取り合わなければ、別になくてはならないものではなかったことがわかってきます。

いい天気で青空が広がっていると強気になっていっぱい計画を背負い込み、曇り空の暗さや憂鬱な雨の音に影響されてとてもこんな計画は実現しないと弱気になって投げ出してしまう。

こんな不安定な生き方から自由になることです。

晴れの日は晴れを楽しみ、雨の日はその憂鬱さと一緒になっておとなしくしたっていいわけですから。



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999mの山 - 偏見を捨てよう

ありのままを受け入れるには、何よりも素直さが必要です。

受け入れを拒否するのは、どこかで拾ってきて自分の信念に組み込んでしまった偏見や傲慢な思い込みです。

科学は自然を観察し、測定し、分類することによって自然の法則を見つけ出してきました。

自然の法則を知ってそれを利用することで、私たちは科学の恩恵を受けてきました。

しかし、法則を手に入れたのをいいことに、今度は法則を自分の好きなように書き換えてしまおうと考え出すと、今度は自分の思い描いた法則に自然が従うべきだと考えるようになってしまいます。

自分では法則に従おうとしているつもりでも、いつの間にかあなたの偏見が法則を自分の思いたいものに書き換えている可能性があるのです。

素直さに立ち返れば、そのような偏見を主張する自分の不自然さは、自ずと見えてくるのですが、固くなった頭はそれをなんとか力でねじ伏せようとします。

パソコン子供


素直に言われたとおりにまねてみる子供は、パソコンを習得するのが大人よりも明らかに早いように思います。

大人になるほど、自分の今までの経験則に照らして、こうあるべきだと思うやり方を変えようとしないから、簡単な操作を覚えるのにも抵抗があるのです。

コンピュータというものが間違っていると思いたい人には、素直に受け入れるという謙虚さがありません。
操作を覚えるのに、コンピュータの善し悪しを語っても意味がないのです。

素直に受け入れるとは、しばらく批判を脇に置いて、そのままを受け入れることを試そうとする態度です。

新しい考え方を聞いても、「これは○○の考えと似たようなものだな」というように受け取ったのでは、ただあなたの知識のライブラリにストックを追加するだけで、あなたは何も変わろうとしません。

まったく初めて聞いた気持ちを持って、そこで感じたなにかを素直に受け取って分類や批判をストップする態度をもたないと、融通の利かない信念をますます強固にしてしまうだけです。

批判することが意味のある場所では批判することも必要ですが、そのまま受容することが必要な場所では批判を捨てて素直に受け取る必要があるのです。

あなたはいつでも論客である必要はないのです。
時には子供のように素直に教えを受け入れることが必要なのです。

「これこそが自分自身だと信じるなにかを守ろうとする」、この態度がその信念を脅かすものから身を守ろうとして、使うべきは批判的な思考だという流れになってしまうのです

素直に受け入れるという選択肢は、登場する機会を失ってしまうのです。

頑固な信念は、自然を観察しそれに従うことの恩恵を受けられなくしてしまいます。

算数授業


たとえば、私は「引き算」は嫌いだから「足し算」だけを使うのだという偏見を持つ人がいるとします。

ここに1000mの山と1mの高さの絵があります。
これを使って999mの山の高さを表して下さい。

「引き算」を使えば1000mの山の頂上から1m降りた位置を求めれば一発で999mの高さを求めることが出来ます。

しかし私は「足し算」しか使わないと主張する人は、1mの高さを999個重ね合わせないといけないことになるわけです。

「引き算」すること、つまり量を減らしてみればどうなるかという考えを拒絶して、ただひたすら増やすことだけを考えるから、このような無駄な行為が必要となってしまうのです。

新しい考え方や別の考え方を取り入れるのを拒むのは柔軟さの欠如ですが、もとをたどれば「こうでないといけない」という思い込みが受容することを拒否するのが原因です。

あなたはミツバチで、赤い花や黄色い花といったきれいな色の花から蜜を集めることにしています。
あなたの求めるものは、色鮮やかな色彩に飾られた華やかなものに含まれると思い込んでいるのです。

しかしあるとき嵐で強風にあおられて知らない地域に飛ばされてしまいます。
気がつくとそこは、一面白い花が広がるクローバー畑でした。

花畑


蜜を求めて飛び回りますが、あなたは色鮮やかな花がないことに気づいて途方に暮れます。

おそるおそる近寄った白い花でしたが、本物の蜜がそこにあることにようやく気づいて考えを変えることができました。

あなたが本当に必要としているのが、花の色ではなくそこにある蜜であったことに気づくことが必要です。

色の鮮やかさで判断することが間違っているとわかって素直に訂正できれば問題は生じません。

そこに抵抗があるとすれば、それは間違っていたことが問題ではなくて、いまのあなた自身の立場を弁護しようとするところに問題があるのです。

あなたの思いたい真実ではなく、ありのままの真実を受け入れるとき抵抗も問題も起こりません。

あなたが真実を選択するとき、真実もあなたを選択します。


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受け入れるという道


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新しい実験 - 不可能を手放そう

所有すること、執着することはあなたに一時的な快感を与えます。
しかしそれは、ねたみや苦痛を生まない限りにおいて有効です。

持つことから失うことへ、持ちたいのに持てないことへの苦痛が生じた時、はじめてそこに問題があることに気づきます。

交友関係を捨てようとか、財産や所有物を捨てようということではなくて、それらとあなたが自己同一化してしまうことが問題なのです。

別の言い方をするなら、人とのつきあいや自分の獲得した物が生み出す刺激的な興奮は、それを経験したときのわずかな時間に感じるものであって、いつまでも持続する物ではありません。
ところが、あなたはそれをいつまでも持っていたいと思ってしまう、そのような執着が問題を生み出すのです。

対象が自分自身の一部だと感じてしまうその感覚が捨てられたとき、あなたはその対象と自分を切り離す必要を感じない無関心な状態にいつでも戻ることが出来ます。

そのときあなたは、たんなる刺激的興奮は、自分の前を通りすぎていくものだと見ることが出来るので、自分自身に対してなにもプラスするものではないとして扱うことが出来ます。

あるいは、興奮や高揚する感情は、その対立するものとしての痛みの感情に対する反作用でしかないことも理解できるようになります。

食事男の子


大好物を目の前にして、食べたいけれど「これを食べてなくなってしまった後どうしようか」と考えていたのでは、それを思い切り楽しむことは出来ません。

人びとや所有物に関して、興奮することからも苦痛を感じることから自由になれたとき、あなたはそれを失うかもしれないという恐れから解放され、本当の意味でその瞬間を喜んで受け入れることが出来るわけです。


iPhoneのアプリに「マジックキット?不可能な予言?」というのがあるそうです。
これは相手の思ったカードをズバリiPhoneの画面に表示して見せるというマジックだそうです。

このようなタネのあるマジックであれば不可能に見えることも実現可能です。

しかし、私たちは普段からタネのない不可能なことを行おうとして、常に失敗と欲求不満を引き起こし続けているのです。

不可能なこととは、他人からの賞賛や承認を常に受け取っていたいと思うことであり、その欲求をなくてはならないものだと思い続けることです。

あなたの内面の世界では、本来のあなた自身の望むことであればそれはかなえられますが、外界をあなたの思うとおりに変えることはできません。

あなたの内面があなたの目の前に現れる外界を変化させることはあっても、外界を先に変えてしまおうとするのは順序が違うのです。

外界をあなたの思うとおりに変えたいという不可能なことを、いつかかなうと信じて繰り返し続けることは、果てしない欲求不満をあなたにもたらし続けます。

あなたが変えようとトライするなら、それはあなたの内面に対してでなければなりません。

あなたが不可能を行おうとする間違いを理解すれば、羨望や嫉妬といった同じ間違いを繰り返さなくなっている自分を発見するでしょう。

古いやり方を使わなくてもいい新しい視点を見つけられたら、欲求不満が待っているとわかっている方法をそれ以上使わなくてもいいことに気づけるのです。

化学実験


しかしこれを実感するためには、最初は実験を重ねるのがいいかもしれません。

あなたが世の中が不公平で、少しでも自分が有利になる方法を探し求めていないと満足する生き方は出来ないと信じているとします。

そうなると、あなたはなんとかその不具合を避けるようにと自分の生き方に終始注意を払わないといけなくなります。
油断したが最後、とんでもないことが起きてしまうと不安なのです。

もしそのような気遣いを手放して、生きるにまかせたときどんな気分に慣れるだろうか?
これを試して見るのです。


幸福になりたい、いい評判を受けていたい、賢くなりたいと努めるのをやめて行動してみたら何が起きるかを試して見るのです。

予想しても仕方がありません。あなたの今までの生き方の範囲を超えた予想は出来ないからです。

予想するのではなく、ただ淡々と実験してみることです。

今まで絶えず軌道修正していたやり方を一切忘れて、ただ起きるにまかせたとき何が起きるかを見るのです。

いきなりやろうと行っても難しければ、今日一日試してみる、あるいはプライベートな時間だけでもいいから始めてみるのです。

あなたの絶え間ない軌道修正は、実際どれだけ功を奏しているのか、あるいはどれだけ余計なことを引き起こしてきたのかを観察してみるのです。

あなたが心配しているような、他人からの否定的な反応が本当に起こるかどうかを見てみるのです。

少々間違えたぐらいでは大した問題など起こらないことを確認して、びくびくしている自分の構えを解きましょう。

当然最初は落ち着かないでしょうが、かまわず続ければひとりでいるときと、他人と一緒のときとの区別がだんだん不要になってくるでしょう。

そうなれば、いわば「非人情の天地に逍遥」することが見えてきます。

そして不可能な望みへの渇望も徐々に薄れてきます。

わざわざ欲求不満を繰り返すような不可能への挑戦が、段々ばかばかしいものに思えてくるでしょう。

実験は次第にあなたの普段の行動として身についてくるでしょう。

その時に感じられる世界は、いまの制約に満ちた果てしない欲求不満の繰り返しではないはずです。



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人生脚本 - 交流分析

交流分析でいう脚本(Script)とは、幼い頃に外的な出来事にどうのように反応し解釈したかを元にして、結論づけてしまった個人の人生プランのことを言います。

このような脚本が作られるのは、子供は非常に幼く、何が起こっているかを理解する判断力が充分でなかったり、両親の影響をきわめて強くまともに受け取ってしまう立場にあるためです。

執筆女性


エリック・バーンは人が従いやすい脚本パターンとして以下のようなものをあげています。

1.「決して(?してはいけない)」
この脚本パターンを持つ人は、普通のことは行えても、自分が一番望んでいることは決して行ったり思ったりしてはいけないと考えてしまいます。
自分の一番の望みは無意識に考えることさえ避けてしまいます。

こどもにとって自分が一番やりたいことを禁じられた経験が強く刻まれてしまったのかもしれません(例えそれが危険なことだから親が禁止したとしても)。
あるいは、親自身が自分を自由に表現することを禁止されて育ったことが関係するかもしれません。

2.「いつも(?していなさい)」
この脚本は1とは正反対に、いつも同じことをやり続けなければならないというものです。
いつでも働いていないといけない、一ヶ所に落ち着かずにいつも引っ越しをしてしまうなど、同じことを繰り返してしまうパターンです。

3.「?までは」「?の前に」
「宿題を終わらせたら遊んでいいよ」といわれた子供のように、特定の時期が来るまでは報酬が得られないとか、何かを終わらせるまではお預けという脚本です。

このような人は、仕事熱心な人かもしれません。
しかしひとつの区切りが来ると、ほっとする暇もなく次のゴールが目の前に立ちふさがるのです。

4.「?の後では」
この脚本は、特定の出来事やその区切りが付いたときに、後にやっかいなことが待っているというものです。
特定の年齢になったら、後はいいことが待っていないと思い込んだり、楽しんだ後には苦労が待っていると信じてしまいます。

結婚するまではハッピーだが、結婚後はつらい人生が待っていると信じる人もいるでしょう。

5.「繰り返し繰り返し」「ほとんどもうちょっとで(できたのに)」
この脚本では、けっして成功したり、完結することがありません。
仕事が終わろうとしていると何故か追加の作業が発生するのです。

「成功」というゴール寸前で自分から積み上げたものを壊してしまうかも知れません。

6.「終わりのない」
この脚本では、ある時期が過ぎた後に何が待っているのかがわかりません。
そのかわり、先が知らされないのに、後になってこれはもっと早くやっておくべきだったと後悔しなければならないのです。

子育てが終わって子供が家を出てしまってから、自分がこれから先どうすればいいか焦り出したり、定年退職後の人生で何をしていいのかわからないといった場合もあるかもしれません。。


「決して(?してはいけない)」や「終わりのない」という脚本は、常に「もっと努力する」ことを要求されます。

脚本は自主的に選択を許さないところに問題はありますが、表面的にはメリットがないわけではありません。

このような脚本はワーカホリックを生み出すかもしれませんが、一方でそのような脚本を持たない人から見れば、仕事の区切りがつくやいなや次の仕事のことを考えているその態度を尊敬の目で見るかも知れません。

問題は、常に駆り立てられて潰されてしまわないように、その人が自分を解放出来るかどうかにかかっています。
「これだけやったらOK」という許可を自分に与えられるようにすることが必要です。

「いつも(?していなさい)」や「?までは」の脚本では、「完全であれ」ということが要求されがちです。
「完全であれ」という要求は、何をやっても満足出来ず、自分の判断に常に疑いを持つことになってしまいます。

このような要求には、「自分自身であってもいい」という許可を与えられることが必要です。

「?の後では」や「ほとんど」の脚本では、自分自身のことを考えずに相手を「喜ばせろ」という要求が伴いがちです。

このような要求に対しては、自分自身のことを考えて、自分を大切にしてもいいという許可を与えられることが必要です。

「いつも(?していなさい)」の脚本は、いつも「強くあれ」とか「急げ」という要求が含まれるかもしれません。

「強くあれ」という要求は、自分の弱さや自分らしさを表現することを押さえつけます。
また、自分自身の欲求を素直に満たすことに困難を感じるものです。
自分をオープンにしたり、自分の欲求を満たしてもいいよという許可が必要です。

OKお母さん


いつも仕事がある程度のところまで進んでいながら、もう一歩で何故かそこから立ち去ろうとしている自分に気づいたら、自分に「成功する」ことを禁じているのかもしれません。

何故そんな不合理な行動が無意識に行われてしまうのか、それに気づかせるという意味では、このような「人生脚本」という考え方が新しい視点を与えてくれるかもしれません。

しかし、どのような脚本を持っていたとしても、肝心なのは本来の自分は脚本にかかわらず存在することに気づくこと、そして自分自身を取り戻す決心をすることです。

人は非合理的な行動をするものであることを認識して、そのような強制に従わずに、あくまで本来の自分の存在と接点を保とうとすることです。

また「存在すること」「自分の感覚をもち、それに気づくこと」「感じること」「考えること」「自分自身であること」「成功すること」などを自分に許すことが、こうした脚本や何となく聞こえてくる強制的な要求に対抗するための手がかりになります。

またついでに付け加えると、このような知識も、自分は脚本にはめられているとか、自分は犠牲者だからという姿勢をとってしまうのでは逆効果です。

それは新たに「犠牲者」のゲームを演じることであり、あなたを解放するためには足かせになりかねないということに注意する必要があります。


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高揚した気分に騙されないように

TVのCMは、あなたの心をおどらせるような新しい世界へ連れて行きますと訴えてきます。

あるいは、油断しているととんでもないことになりますよと脅され、この商品があなたをそこから救い出しますと親切にも申し出てくれます。

あなたは、恐ろしい病気入院への対処の必要性を聞かされ、とんでもない高額の医療費で驚かされ、最後に夢のような低額の保険料に気持ちを揺り動かされるのです。

新しいお酒はあなたを別世界に誘い、新しい化粧品はあなたに勝ち組を約束します。

心を高揚させることを研究しつくしたキャッチコピーは、あなたの心をはずませ、約束された新しい世界に住んでいる自分を思い浮かべて我を忘れます。

夢見る女性


しかし心の高ぶりのあまり自分を見失っては、あなたの行こうとしている道からそれてしまいます。

心の高揚、興奮、わくわく感は、実は非常に見落としがちな落とし穴にもなります。

「こんなに心がうきうきしているんだから、これはきっといいことに違いない」
これが、冷静な判断を鈍らせるのです。

「今までの私はこんな経験をしてこなかったのに、新しい経験に踏み出したのだ」
この高揚感は、あなたにとってグッドニュースである場合もバッドニュースである場合もあります。

センセーショナルな出来事は、あなたにとって画期的ではありますが、それがあなたにプラスであるという保証はないのです。

実は、高揚感の正体とは、案外「もしかすると掘り出し物に出会ったかもしれない」という感覚でしかないのです。

新製品を一番乗りで購入した感激や、最後のひとつのお買い得品を獲得できた喜びと同じようなものかもしれないのです。

そこには、心を高鳴らせるものがあるにしても、あなたにとって「良い」ことかどうかを保証するものではないことを認識しなければ成りません。

興奮して金切り声で叫んでいるとき、自分はこれぞ生きている快感と思うかも知れませんが、興奮が収まって素に戻ったときに何が残されているかが問題なのです。

子供拒否


これを選んだのは、一時的な興奮からではないかとチェックしてみることです。

社会はあなたが興奮から商品を購入してくれることを期待します。
しかしあなたは自分の欲しいものを求めないといけません。

あなたの欲しいものを社会やマスコミやCMに乗っ取られないことです。

資本主義の経済活動において、企業はあなたの幸せを願って商品を作ってくれるわけではありません。
需要のある商品が作られ、売れる商品はますますいい面を強調されますが、それがあなたにとっていい商品であるとは限りません。

アジテーションに乗らないこと。

自分の望みを他人に決めさせてたまるかと思ってみましょう。


高揚感は、時に非常に巧みにあなたの目をくらませるものです。

「こんなに心がうきうきしているんだから、これはきっといいことに違いない」
これが、冷静な判断を鈍らせるのです。


「これは社会の役に立つこと、社会が期待していることだから、きっといいことに違いない」
これも同様ですね。

社会はあなたを機械にしようとする存在です。

最初は誰かかが考えたものであっても、社会という機構に組み込まれるともはや顔のない存在になってしまいます。
誰が作ったものかいつの間にかわからなくなった存在が、あなたを従わせようとしているのです。

正しいとは、社会やあなたの観念にとって正しいことではなく、あなたにとって正しいことでなければなりません。

本当のあなたを歓喜させてくれるものだけを選ぶようにしたいですね。

たとえみんながまちがったことをしていたとしても、
自分だけは正しいことをすることだ。

100万人が馬鹿げたことをしていても、
馬鹿げたことは馬鹿げたことにすぎない。

『今日が楽しくなる魔法の言葉』
アーニー・J・ゼリンスキー / ダイヤモンド社 / 2003-09-20



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クリアステージにとどまりますか?

TVゲームにはいろんな種類がありますが、その多くはステージをクリアしていくタイプですね。

やはり新しいステージをクリアしていくところに、そのおもしろさがあるものだと思います。

一方で以前にクリアしたステージはもう一度やっても、たいてい楽に攻略できるようになっていきます。

ゲームとはいえ初めて知らないステージに立つことは緊張が伴うものですし、何が起きるかわからないことは不安でもありますが、それがおもしろさでもあるわけです。

その意味ではクリアしたステージを何度も何度もやり直すことは、飽きてしまって退屈なものになってしまうでしょう。

ところが私たちは、人生のステージに対しては、新しい見知らぬステージに立つことを恐れて、何とか先にクリアするガイドを欲しがってしまいます。

また、一度クリアしたステージにとどまって、ぐずぐずと先延ばしをしてしまうかもしれません。

テレビゲーム


同じステージにとどまるとき、少しずつ人生はつまらない繰り返しに見えてきます。

クリアしたステージも、かつては未知の世界に飛び込んで夢中で隅々まで歩き回ったことを思い出さなくてはなりません。

そして、攻略法を求めずに新しいステージに挑まない限り、毎日のうんざりするような繰り返しからは脱出できません。

攻略法に頼ることは、記憶された過去のデータを現在に持ち込んで、いまここを既知の世界にしてしまおうという不安から逃れるための回避策です。

過去の経験が不要だと言っているのではないのですが、経験とは自然に生かされてくるものです。

それに対して過去のデータで現在にとどまることの不安を解消しようとすることは、まさにいまという瞬間に存在することを妨げるのです。

「これから何が起きるのだろう」という問いかけに対して、無理やり過去のデータで現在を書き換えようとせずに、この問いかけをそのままにこの瞬間にとどまっていること、そうすれば答えはいつのまにか必要なくなります。

用意された答えでいまをだいなしにしないように注意することです。

実はこのような用意された答えを使おうとする、条件付けられた心こそが問題を作り出しているのだと気づくことです。

いまここで新しく起きる事態には、条件付けられた心には、正しい答えなどだせないことを認めることです。

魔法のランプ2


答えが先にわからないことにイライラするでしょう。

実は私たちの悩みのほとんどは、このような未来への答えが見つからないということです。

しかし、これは出来ない相談です。

「未来」という言葉を使ってしまうために、わからない先のことを予測出来ると勘違いしてしまうのです。
実際には「未来」という言葉が表すような実在はないのです。

サイコロを転がして何の目が出るかわからないのと同じように、先に何が待っているのかはわかりません。

この単純明快な事実をねじ曲げてわかろうとするから、出来ないことをやろうとして挫折してしまうのです。

わからないことは知ろうとするのを諦めて、いまここの瞬間に集中するときに、このような未来への不安は存在しないのです。

「いまここ」にとどまるとき、ストレスも緊張もありません。

人生においても、新しいゲームステージに夢中で取り組んでいる、その状態を思い出してみるのです。

すでにクリアしたステージにとどまれたら安全だろうとあこがれても、すぐにそんな世界は求めているものでないことに気づきます。

「これから何が起きるのだろう」という問いかけに、現実が答をだしていくのにまかせて、ワクワクしながらいまにとどまるようにしましょう。

思い切って攻略法を持たないで生きてみることです。

攻略法に頼るとどういうことになるでしょう。

・自分の計画通りにいかないのではないかと、つねにいらいらし不安になります。
・つねに次のステージに向けて何らかの計画を練っていないといけません。
・だれかが自分の計画をじゃまするとすぐに腹を立てます。
・計画されたゴールのみが自分の人生であり、それ以外のものは価値のないものと見なすしかなくなります。
・もともと完璧に計画通りにはいきませんから、いつも現実とのずれに対して「望み通りのものを手に入れた」「これで満足なのだ」と自分を納得させようとします。

リラックス2


思い切って攻略法を捨てたときの、その身軽さを自分の生活に取り込みましょう。
筋書きのないステージを楽しむという新しい(忘れていた)やり方をとりいれましょう。


退屈しているなら、その原因を考えてみてほしい。
その原因はただひとつしかない。
ゼリンスキー

「”何か”が私をうんざりさせている。
その”何か”とは私のことだと思う。」
?ディラン・トマス?

『今日が楽しくなる魔法の言葉』
アーニー・J・ゼリンスキー / ダイヤモンド社 / 2003-09-20



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そろそろ恐れの原因を突きとめましょう

恐怖感を克服すると称する本をいくら読んでも、その時は解決したようにみえても、しばらくすると元の木阿弥といったことはないでしょうか。

それは、恐怖感をそらす方法を試しているだけで、原因を突きとめることをしないからかもしれません。

恐れは緊張を生みます。

あなたはコンビニでパンやおにぎりを買うときに緊張したりしませんね。
ただ機械的にレジでお金を払って品物を受け取ります。
そこにいちいち緊張感を感じたりはしません。

しかし、ことが人間関係や心理的な要因がからんでくると、とたんにあなたは神経質になり緊張感に満ちて言葉を選ばなければいけなくなります。

あなたの一言で相手に嫌われては困るからです。
相手にNOを言われると困るし、自分の評価が世間で低くなってしまうと困るのです。

そこで、あなたはどのように人を説得したり、人に好かれるかの方法を研究しようとします。
そのやり方さえうまくなれば、恐れは消え去るものだと信じているのです。

クラス替え


しかし本当にそうでしょうか?

人間関係の緊張感は、あなたが相手から何か、安心感とか自分への賛成や承認などを期待するために起きてきます。

そこでは、他人が自分の希望をかなえてくれるもの、自分の幸福を左右してしまう主導権を持ったものとして映っているのです。

しかしもし自分の望みは自分で達成できると考えていれば、他の人の賛成や態度はあなたに絶対に必要なものではなくなるわけです。

賛成してくれる人がいれば、多少は楽かもしれないくらいの態度で接することが出来ますから、誰が相手でも気安く接することが出来ます。

言い損なって、失敗して自己イメージがガタガタになってしまうのではという恐怖感を持たなくていいわけです。

愛情や安心感と言った心理的なものは、私たちの存在自体から離れて外にあるものでも、他人が与えてくれるものでもないとわかれば緊張や恐れはなくなります。

また、うまくできているもので、あなたが自己を信頼して他人に依存しないとき、他の人はあなたのごまかしのない安定したあり方に信頼感を抱きます。

ふだんから自分が他人の評価を恐れてびくびくしているのを感じていますから、それから自由でいられるあなたを見て自分もそうなりたいと思い好感を持ちます。

嫌われるのではないかという心配も、望まなくても解決されるもののようです。

リレー


世の中を支配しているのは競争原理です。
だれもが、他のだれよりも多くを手に入れようと必死になっています。

競争には常にいつ負けるかわからないという不安と焦燥がつきまといます。

そのような不安から葛藤が生じ、葛藤を別の葛藤で紛らわすと言ったことが苦し紛れに行われます。

自分が神経質になっているから気をそらすために、他人に要求を突きつけてイライラを消そうとします。

自分が敵意を感じやすいことを隠す為に、せっせと外面的に親切な人間関係を育て続けることで、自分の敵意という感情が消えていくのではないかと期待するのです。

しかし、こんなやり方では、根本的な恐れの原因は残ったままです。

それどころか、自分のやりたくもないことを無理に続けることは、いやな感情をそのたびに繰り返して思い起こすのでどんどん強化されていくのです。

恐れと戦うことは、余計に恐怖を増大させます。
戦うという行動自体が、恐れがそこに存在することをより鮮明に訴え続けるからです。

対象である恐れがなくなれば、戦う必要も無くなるわけですが、順序としてはまずは抵抗することをやめて、恐怖のもとを正面から見て理解することです。

戦うのではなく理解することです。

よく見ないで未知のままにしてしまうから恐れの対象になってしまうのです。

・自分には無くしては困るという恐れがあり、そのために駆り立てられていることを認めること。

・それをもたらすのものは、外側にあるわけではないので、探している場所が間違っていたことを認めること。

・外側の世界が競争に満ちているからといって、自分が求めているものが競争しないと手に入らないなどと信じないことです。

外側の世界の競争と混同して、あなたの内側の世界まで競争が必要だと騙されないように。

あなたが、自分自身を認めたり受け入れたりすることには、何の代価も他人も必要ありません。
自分が受けとると、他の人の分け前がなくなるわけではなりません。

メンタル


しかし、依然としてあなたのまわりには、今まで通り競争原理を信じる人がいます。

あなたの生き方はそのような人には気に入らないかもしれませんが、そんなことは気にしないことです。

そのような人が、あなたのやり方では大事なものを無くしてしまうといっても耳を貸さないことです。

そのひとがアピールして無くすまいとしがみついているのは、前述のように実は何とかしたいと密かに悩みの種として抱え込んでいることだからです。

本当に大切なものであれば、あなたに押しつける必要もありませんし、あなたが賛成しなくても平気なはずですから、それがどちらかはすぐにわかるでしょう。

そんなことよりも、あなた自身のいら立ちのない穏やかな安心感を信じて維持しましょう。

いままでのように外側に依存するのをやめるとき、恐れの原因も存在しなくなることをよく見ることです。

外部世界からの脅威を感じるのは、あなたが外部から自分が利益を受け取っていると信じていることの裏返しに過ぎません。

自分で自分に祝福を与えるなら、脅威も自分で与えないかぎり受け取ることはありません。

いつも恐れの対象があったのが急になくなってしまうと勝手が違うかもしれませんが、もともとそんなものはなかったことを思い出すのです。

自分が外に要求しなければ反対に出会うこともないし、それでフラストレーションを感じる必要もなくなるのです。

作られた欲求や不満を外に向けているときの、どこか幼稚な感触や、同時に含まれている自己処罰の感覚を見抜きましょう。
なにかおかしいと感じたら、本来の自分の感覚を取り戻せばいいのです。

恐れがあるのは仕方がないことだと勝手に信じ込まないことです。


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自信について考えてみよう

「自信」ということについての認識をもう一度見直してみましょう。

あなたは自信があることやりたいと思い、自信のないことからは逃げ出したいと思うでしょうか。
そして、この自信とはもともと生まれつきのもので、どうにもならないと思っているでしょうか。

「本来のあなたは、そのままで自信そのものである」という新しい見方を考えてみましょう。

草木が一粒の種から生長して花を咲かせたり、大きな木に成長したりするのをみれば、種の中に埋め込まれた青写真によって、何もしなくても本来の目的に沿って成長するものであることを想像できると思います。

道ばたで見かけた雑草も、根っこから水分を吸い上げることを坦々と続けます。
自信がないからやめようなどと考えるのは人間だけのようです。

わたしたちも、同様に自分の生来の本性を実現しようとするのに、人の思惑がないと何も出来ないはずはありません。

むしろ、人間の思考が、本来の成長を邪魔する働きをする場合が多いと考えた方がいいでしょう。

もちろん人間の思考は、別の観点から見れば成長を助けるものとして役に立っていると言えますが、生来の本性が自由に発揮されることを邪魔している場合も多いのです。

種と双葉自然樹木


自信がないという言葉もそのひとつです。

私たちがもともとの能力を世界に開花させようとするとき、邪魔するものは持っていなかったはずです。その為の動きには躊躇などないはずなのです。

たとえば、今日は自信がないから心臓の鼓動を休みますなどということは起きないのです。
働きは、確実に躊躇なく実行されるのです。

のどが渇けば、あなたは躊躇しないで水をごくごく飲むでしょう。
その自信など関係のない本来の働きを忘れないことです。

自信があるとかないとかではなく、本来働き自体は自信そのものなのです。
自分で「自信がない」と表現してその働きを制限しようとしなければいいだけなのです。

しかし、それでも「自信がない」と感じることがあるのも事実ですね。
それは何故なんでしょう。

A.自分から生来の働きを制限してしまう

こどもがお父さんと相撲を取るとします。

こどもは、本来のエネルギーを発揮して、全力で正面からぶつかっていきます。
しかし、お父さんがそれを横にかわしてしまえば、こどもは無残にも投げられてしまうでしょう。

お父さんは子どもに対して「そんなやり方では勝てないよ」といいます。
お父さんは正面からぶつかるだけではだめで、他のやり方も覚えようと言うつもりで言ったわけですが、こどもは全力を出したのに負けてしまうことから自分は相撲には向いていないんだと思ってしまいます。

まあこんな単純ではないでしょうが、やり方を覚えれば自分にも可能性があるんだということに思いが至らないとすれば、こどもは自分から諦めてしまう可能性があるのです。

お父さんの教え方が悪いからだと言われるかも知れませんが、人が生きていく中でいつでもベストな指導が受けられるわけではありません。
たまたま不運な結果を招くことがあるのは仕方のないことです。

いずれにしても、ちょっとした誤解から自分の本来の能力を自分自身で封じ込めてしまうことはあるわけです。

ですが、そのような誤解は、本来は自分にも力が備わっていることを思い起こせば解決できることです。
ベストの手順や準備が揃っていなかったから、やり直せない理由など何もないのです。

ボール遊び


B.他人との比較でやる気をなくす

これについては、多くを語らなくてもおわかりかと思います。

自分では自信を持っているつもりであっても、世の中にはもっと能力の高い人もいるものです。

自分の能力が比較によって大したことがないとわかったとき、どういう態度をとるかは人によって異なります。

ですが、それによって自分の自信をなくして、もうそれ以上やりたくないと思ってしまう可能性はいつも存在します。

しかし、この場合の自信喪失は比較によるものですから、本来の自分の可能性を否定することとは別の問題であることに注意しないといけません。

優秀な成果をあげる人だけが、それをやる資格があるわけではありません。
もちろん仕事として契約の下に働いている場合はそういうことはあるものですが。

以上のようにもともと自信とは、あるとかないという問題ではなくて、自分で働きを制限しているだけだということを常に思い起こす必要があります。

本来のあなた自身は自信そのものであったし、いまでも生来の自分を表現しようとするときにはそのまま自信そのものであるのです。

そして、他人との比較が原因で自信をなくしているのなら、それは本来の自信とは関係のないものと考えるべきです。

他人との比較が気になるようなら、次の2つの選択について思い起こしてみましょう。

◆自信があるか、ないかとは別に、人にはそれぞれ得手不得手というものがあります。

自分でやってもそれほどうまくないので、得意な人の力を借りてみようと思うのなら、積極的にそれを利用しましょう。

もちろん普段から私たちは、人が作ってくれたもの、メーカーが作ってくれたものを利用することで便利な生活を送っているわけです。

何でも自分が専門家にならなくても、必要なときにそのような人やサービスを利用することで自分だけでは出来ないようなことまで自分が手に入れることが出来るのです。

◆成果よりも自分でやることに意義があるときは自分の手ででやってみよう。

自分よりもうまくそれをやってのける人がいると知っていても、それを自分の手でやってみたいと思うこともあるでしょう。

そんなときは、自信がどうのこうの言っていないで迷わず自分でやってみることです。

あまりにも、世界は細分化されてしまっているので、自分ではなにもやらずに提供してくれる人を探すだけで用は足りるという考え方もあるでしょう。

あるいは、自分でやっても他の人のように見事な成果が期待できないからやりたくないと思っていないでしょうか。

しかしそれでも、自分の手でやってみるということを放棄するべきではありません。

うまくできるかどうかではなく、自分でやってみることに意義があると感じることは自分で積極的にトライしてみましょう。

ただ自分でやることに意味があるし、そうしないではいられないのが本来のありかたです。

また成果の善し悪しが誰がやるかを決めるものではないということを思い起こしましょう。


魔法のランプ


ドラえもんのポケット※のように何でも欲しいものが手に入るとなれば、あなたはいずれ生きる気力を無くしてしまうかもしれません。

最初は夢のようだと感じても、そのうちにあなたは自分で働きかけないことに耐えられなくなるでしょう。

そもそも外側のものに頼って自信がついたというのは、ごまかしでしかありません。
あなたの自分への信頼感が変化するわけではないからです。

同様にあなた自身の力を見直そうとしないやり方では、いつになっても自信を回復することは出来ないでしょう。

そんなことにならないよう、自然にあなたは自分から自分の手で働きかけることを求めるようになってきます。

それを邪魔するようなごまかしで繕おうとしなければ、自信を取り戻すというのが言葉の上でしかなく、本来の自分の力を使う選択をすればいいだけだとわかってくるでしょう。

いろいろ書いてきましたが、あなたの中には自信そのものである自分がいることを忘れないことです。

あなたが誤って「成らなくてはいけない」と思っているものに分裂してしまわなければ、自信をなくしてしまうような自分とも決別することが出来るでしょう。

言い換えれば、作られた自己イメージの中にいてどんなごまかしを繰り返しても、本物の自信を持つことはないということです。


※『ドラえもん百科』(方倉陽二著)においては、正式名称は「ロボット専用四次元空間内蔵秘密道具格納ポケット(四次元空間使用許可管理局承認番号D7E1293)」とされている。
四次元ポケット - Wikipedia




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猫5

アリス チェシアのにゃんにゃん、教えてちょうだい。ここからどちらに行った方がよくて?
チェシア猫 そいつはお前の行きたいところ次第だにゃ。
アリス 別にどこでもよくってよ。
チェシア猫 ならどこへにゃりとも行けばいい。
アリス ちゃんとたどり着きたいの。
チェシア猫 そりゃどこかへは着く。それにゃりに歩けば。
アリス このあたりにはどんな人がお住み?
チェシア猫 向こうにゃ帽子屋が住んでいる。あっちには弥生ウサギだ。好きにゃ方に行け――どっちも変にゃやつだ。
アリス でも変な人のところにいくのはごめんだわ。
チェシア猫 まあ仕方のにゃいこと。ここじゃみんな変にゃ。にゃあも、お前も。
アリス あたくしが変? どうして?
チェシア猫 お前は変にゃ。でにゃきゃ、こんにゃとこにゃ来にゃい。
アリス じゃあ、あなたが変っていうのは?
チェシア猫 まず犬は変じゃにゃい、これはいいにゃ?
アリス まあそうね。
チェシア猫 にゃらわかるにゃ。犬は怒るとうにゃって、うれしいと尻尾を振る。にゃのにおいらはうれしいとうにゃるし、腹が立つと尻尾を振る。だからおいらは変。
アリス のどを鳴らすの間違いじゃにゃくて?
チェシア猫 ご指摘はご自由に。どうもそれはわざわざ。


不思議の国のアリス ミュージカル版 ALICE IN WONDERLAND: DREAM-PLAY
ルイス・キャロル&ヘンリ・サヴィル・クラーク Lewis Carroll & Henry Savile Clarke
大久保ゆう訳 青空文庫



不思議の国のチェシア猫は、うれしいとうなるし、腹が立つと尻尾を振るといっています。

不思議の国では、すべてが普通の世界とは異なっているようですからそれでもいいのかもしれませんが、私たちが「うれしいとうなるし、腹が立つと尻尾を振る」というのは問題がありそうです。

私たちは自分にとって都合のいい偽物の自己イメージを壊すまいとして、いつまでもしがみついていれば、いずれ手痛い目にあって転機を迎えることになります。

自己欺瞞で固めた自分の生き方が危機を迎えたときに、それを契機に今までの自分を正面から振り返り、これ以上うそを続けないと決心できるかどうかが重要です。

とらえ方次第で人生の転機は自分の味方にもなるし、今まで以上の苦境に追い込むことにもなります。

たとえば自分は愛情に満ちた優しい人間だというイメージを持ち続けていた人が、ふとしたときに自分の辛辣さや冷たさを発見し動揺します。
自分の今までの優しさの多くが、親切な人間だと思われたいが為のものだったと気づくのです。
今までの自己イメージにとっての危機を迎えたわけです。

それまでの偽の自己イメージは自分を維持するために、その苦しさを外に向けます。
誰かのせいでこんなことになったと思い、そのような自分に直面させる契機となった人を恨むのです。

非難を外に向けておけば、事態は何も解決していないにもかかわらず、苦しさを別の感情で覆い隠してわからなくしてしまうのです。

このような逃げ道を常套手段にしている限り、状況は一時的なごまかしの後、忘れた頃にまた同じ状況を呼び起こし続けることになります。

ピンチが苦痛のまま解決しないのは、このような抵抗をしているからですが、危機を転機にかえる決心をして今までの自分の欺瞞を直視するなら、新しい道が開けます。

繰り返される苦しみを終わらせるためには、いままでの自分のやり方を間違っていたと認め、自分が本当は自信も力も持っていなかったことを認めなければなりません。

このとき一時的な苦しさではありますが、新たな葛藤を経験することを避けるわけにはいきません。
これを嫌がって、一時的なごまかしで危機を隠せたと思えると、すぐにまた今までの自己イメージの立て直しをはかろうとするからいつまでたっても自分は変わらないわけです。

自分が大丈夫なふりをするのをやめて、ちっとも大丈夫でないし、もうこれ以上どうしていいのかわからないことを正直に認めたとき、現実的な新しい解決も初めて見えてくるものです。

腹案があるフリはやめることです。
それまでの自分を満足させる為にはフリをする必要があると信じ込まされてきたことをすべて放り出してしまいましょう。

一時的には惨めさを感じるかも知れませんが、それで本来の自分を取り戻せば、一からやり直そうという新しい自分を感じることが出来ます。

自分への正直さを取り戻すことは、どうしても必要なのです。

子ども喧嘩


子どものいじめ問題がなかなか解決しない原因のひとつは、被害者自身がそれを正直に認めようとしないところにあるのかもしれません。

先日何かのドラマで、いじめを問いただされた生徒が「いじめゴッコの遊びをしていただけだよ」と答える場面がありました。

子どもの側からこのような隠蔽を行われると、教師も子どもをどう扱っていいのか苦慮するに違いありません。

教師なんだから子どものごまかしを見抜けと言うのは簡単ですが、四六時中子どもと接しているわけでもありませんし、生徒のすべてを把握することなど容易なことではないのです。

そんな名探偵のような教師を期待することよりも、子どもが正直にいじめを認められなくなる社会の方が問題ではないかと思うのです。

ウソで固められた大人の社会を垣間見て、子どもはそれをまねてみようとします。
ウソを突き通してごまかした人間を、どこか褒めそやすような言動を見せられるとき、こどもはよく解らないまま形だけまねるかもしれません。

そもそも大人自体が、正直さがすべてを解決すると主張していいのかどうかが、わからなくなっているのかもしれません。

話がそれましたが、自分が知っているフリをやめて、これ以上どうしていいのかわからないことを正直に認めたとき、現実的な新しい解決に向けて動き出すことが出来ます。

猫6


偽の自己イメージではなく、本来の自分を取り戻すとき自分のいきたい所がわかってきます。

アリス 別にどこでもよくってよ。
チェシア猫 ならどこへにゃりとも行けばいい。
アリス ちゃんとたどり着きたいの。
チェシア猫 そりゃどこかへは着く。それにゃりに歩けば。

アリスはどこでもいいといいながら、ちゃんとたどり着くことを求めます。
なにか現代社会を象徴しているようでもあります。

役割を演じることで自分のイメージを作りあげているとき、自分でどこに行きたいのかを誰が答えるのでしょうか。

役割が示してくれるのを期待するしかありませんね。
しかし、それは本来の自分の考えを封じ込めることでもあります。

「役割は忠実にやりますから指図して下さい、でもきちんと成果をあげないとみっともないわ。」といっているわけです。

役割はあってももっとそれが緩やかだった頃は、それなりに個性を発揮する余地も残されていたわけです。

しかし、現代のようにどんどん効率を求めながら役割を追求してしまえば、自分で行き先を決める余地がなくなってしまうということも起こりうるわけです。

誰が主役かを忘れて、与えられた役割に忠実になりすぎるとき自分を見失ってしまうのです。

取り戻せるような本来の自分が存在することを信じて、偽の自己イメージと決別するとき、危機は新しい自分を取り戻す味方になってるチャンスでもあるわけです。

それに困った状況が起きてこないと、作られた自分の中に生きることを強固に定着させてしまうわけで、その意味では危機的な状況はラッキーな契機にも思えてくるのではないでしょうか。



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パワーゲームにとりこまれないこと

パワーゲームに取り込まれて抜け出せなくならないようにしましょう。

パワーゲームとは、簡単に言えば主導権を握りたいとして行う駆け引きです。

大きなものは国家間のパワーゲームであり、小さなものは家庭の中での夫妻や親子の関係です。

会社に行けば、上司と部下、そしてまたその上司と部下、それから会社と会社の間のパワーゲームが存在します。

このようなパワーゲームに自分が取り込まれてしまうと、いつのまにか罠にはまり込んでしまいます。
しかしそれに気づき始めたときには抜けるのも地獄、抜けないでいるのも地獄ということになりかねません。

その罠とは、誰もが自分が信じている権力者が本当に力を持っていると信じていることです。

おにごっこ


なぜこれが罠なのか?

それぞれの人が権力者と信じている人もまた自分の前提としている権力者を持っています。

自分の信じる権力者はパワーを持つと信じていますが、実際にはその権力者もまたその人の信じる権力者をあてにしているのです。

それは自分のパワーゲームが成り立つために絶対必要な前提なのです。
自分の権力者を信じられるという前提を元に、自分は下部構造のパワーゲームを受け持っているわけです。

ところが、この前提にしている権力者、大もとになるパワーが実はどこにも存在しないという恐ろしい事実に気づかずにいるのです。

これだけ複雑になったパワーゲームでは、もはや誰もパワーの大もとを発見することが出来なくなっています。

しかし、それはパワーゲームを維持するためには絶対に必要な前提です。

そんなものは「いつの間にかどこに行ったか分からなくなっている」という重大な事実は、うすうす感じてはいても恐ろしくて直視する気になれません。

自分の信じる権威者は、絶対に正しくて存在していないと困るのです。

パワーなど外側のどこにも、誰にも存在しないなどと言われても、そんな意見は封じ込めてしまうのです。

かくして、バブルのパワーを求めて、抜けるのも地獄、抜けないのも地獄に入り込んでしまうのです。

もはや信じると言うよりも、抜け出すのが怖くてそれにしがみつくしかない状態に陥ってしまいます。
そんなものはないという意見など、論破しなければなりません。

名声がパワーの元であり、名声があれば他人を威嚇して勝利を得ることができると信じていますが、名声で従ってくる人はそれがなくなったときに消えてしまうことに気づきません。

名声で自己評価を維持していた人は、無くした後に何も頼るもの残らなくなってしまいます。
外側に頼りを求めたために罠に入り込んでしまうのです。

内側を信じて自主独立することも、外側のパワーを信じる人には価値がわかりません。
人間関係でパワーを握ればすべてが片づくと思っていますが、自分を信じられてこそ他人から頼られるパワーを持てることがわからないのです。

揺れ動く自分の内面はあてにならないと思い、具体的に成果が得られる関係こそがすべてだと信じるから、ますます外側に依存する傾向が強くならざるを得ないのです。

自分自身を騙して人からいくら尊敬されても、いつまでも空しさがつきまとうことに気づいているのですが、罠から抜け出す方法が見つからないから、外からの評価で自分を慰めるしかなくなっているのです。

子象の頃から杭につながれていた象のように、もはや自分の力を使うことを諦めてしまいます。

象と飼育係


罠から抜け出すためには、これを断ち切って自分自身を信じることで力を取り戻しましょう。

・自分の外側に力を求めないこと。
外側に力を求めるのは、内面の弱さに直面することを避けているだけです。
たとえ「あなたを救います」という人が現れても、その人を頼りきってはいけません。
河を渡り終わったら、小舟は捨てていくのです。

・人間関係が大事なのは確かですが、自分の内面を信じてこその他人との関係であることを忘れないこと。
自分の代わりに力をくれる人を探すこととは、依存関係を作り出すだけです。

・今までの弱さを解決できる新しい力が外側にあるなどと信じないこと。
自分の内面を理解しない限り、それと置き換えられる力などありません。
内側を探して持っているものを理解してこそ自分の力が見つかります。

・外側のパワーゲームに巻き込まれたら、必ず自分より力のあるものの下にいなければなりません。
自分の力を発揮出来ない関係の住人になってしまうと、自分の力を使うことを忘れてしまいます。いかにパワー関係にうまく取り入るかが自分の仕事だと思うようになります。
そんなものがいくらうまくなっても、自分自身は瞞せないことに気づくべきです。

・外側に力を求めている間は、自分自身の中に力があることに気づきません。
ですからいつまでも外側を探し続け、探すべきは内側だということに気づけないのです。

金銭授受


・権力とは人間の弱さを誤魔化すものでしかないとわかれば、そんなものは欲しくないことがわかるでしょう。
そんなものから決別した人には、巧みに自分の力をちらつかせる「権力者」の行動が、子どもだましのごまかしのようにはっきり見えてきて笑ってしまうでしょう。
反論された「権力者」のうろたえや、権力に力を感じない人を相手にしてあせっている「権力者」を見ていれば、そこに本物の力などないことがハッキリわかってきて、そんなものに魅力を感じなくなるはずです。

「外側の誰かの承認や支持が最初にないと自分では何も出来ない」
こういう思い込みをいつまでも信じないことです。

唯一信じられるものは真の自立にしかないと信じることです。

あなたが本当に求めているのは、自分自身の力を取り戻すことです。
外側からの承認は、その後でもし得られたらラッキーだくらいに思えばOK。


なによりも自分の力で生きているのは、もう元には戻りたくないほど自由で楽しいものです。
権力に売り渡したりせず、一刻も早く自分の力を取り戻しましょう。




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大事なこと - 自分を説明しようと思わないこと

「大事なことをなしとげようと思ったら」

 大事なことをなしとげよう、とする人は、いま心にひっかかっていることをかたずけてからとりかかろうとせずに、雑事はすべて捨ててしまうべきですね。
「もうしばらく待とう。これが終わってから。」とか、「まず、あのことを処理してから。」とか、「このことはちゃんとしておかないと他人にわらわれるだろう。」とか、「いまやっていることを処理してもそう長くはかからないだろう。時を待とう。」と、あれこれ考えているうちに、雑事はますますふえて、つきることがなく、大事はなしとげられないんだ。世間を見わたすと、大事なことをなしとげようという気はあるんだけれど、ただ心づもりだけで、なんにもできずに一生を終わってしまう人が多い。

 火事のときに逃げる人は、「しばらく待ってみよう。」なんていわない。自分の命を助けたければ、恥ずかしいなんて思わないで、家財道具は放ったまま逃げますよ。
 命はかぎりあるものだから人の気持ちなんて待ってくれない。死は、水や火が人間におそいかかるのよりも早く、死ぬときになって、親や子や主君の恩のことをぐだぐだ考えることなんてできませんよ。

(徒然草 第五十九段)

徒然草・方丈記 (少年少女古典文学館) 嵐山 光三郎 三木 卓 講談社 / 1992-04-09



大事なことが何かを知るには、まず雑事を捨ててしまうことを考えた方がいいようです。

雑事は、さも大事なことのように見せかけて、私たちを騙すのが得意です。

雑事とは、重要でなくどちらでもいいことの筈ですが、どうして私たちは大事なことに取り組んでいるように思ってしまうのでしょうか。

その時私たちに大事なことだと思わせるのは、実は作られた自己が関与しているのです。

作られた、見せかけの自己は、ひたすら自己の重要性をアピールしようとします。

自分の考えていることこそが大事なことなのだと言いたいわけです。

そうしないと、見せかけの自己は存在する理由がなくなるからです。

不安


しかし、残念なことに説明しなければならないものがあるとき、私たちは不安を抱えてしまいます。

心が平安であるためには、証明しようとする自分を持たないことです。

あなたは、自分の何かを人に説明しようとしてうまくいかないと動揺してしまいます。

このような自己がないと思ったらどういう行動を取るでしょうか。

これこそが自分だと思い込んでいたものが、実は記憶が作り出した経験を繰り返しているだけだとしたら。

あなたは、失敗しない自分を証明しようと神経をすり減らす必要がなくなります。

あなたは、前に宣言した自分と矛盾しないように気を使うこともなくなります。

あなたは、誰よりもいい人のフリをしなくてもいいので自由になれます。

あなたは、忠実な部下や優等生の教え子を演じなくてもよくなります。

なによりも、あなたはそこでは本当の平和を感じることが出来るでしょう。

気取らなくても、誰もおかしいなどと指摘しない人達に囲まれているとき、あなたは自分を満喫できると思うでしょう。

それが出来ないのは、まわりの人が期待してくるせいだと思い込んでいます。
しかし、それは目の前の人に強要されているわけではなく、あなたの作りあげた自己があなた自身に命令しているに過ぎません。

そのような命令する自己には、しばらく引っ込んでもらいましょう。
作られた命令でなければ、本来のあなたが自分に苦痛を与えることをわざわざするでしょうか。

拒否OL


他の人と比較される必要がないとわかれば、そのような自己はおとなしくなり、あなた本来の働きが生まれます。

勝たねばならない相手がいると信じなければ、戦わずしてあなたは自分自身でありつづけるという勝利を獲得します。

人為的になることを警戒して、それを拒否するのです。

いつも何か手を打たないとじっとしていられないのは、本来の自分が望んでいることではないと見分けが付いたら、何もしないで起こることを見守りましょう。

どうぞご自由に


作られた自己に頼らなくても、あなたの経験はあなたの望むように動いてくれるものです。

常にチェックしながらおそるおそる動くのをやめて、思うままに動いてみましょう。

気がつけば、今までのような硬さのとれたあなたにまかせれば、その為し遂げた成果に驚くに違いありません。

説明はいらないから動いてみよう、それが本来のあなたの解放です。

偽物は捨ててしまって、自然の流れに干渉しなければ本当の平和がそこにはあります。




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やりたいことからやってみましょう - 使い方に正しいも間違いもありません

いまなにかと話題のiPadですが、TVCMを見ながらこんなことを訴えているように思いました。

それはタイトルにあるように、
やりたいことからやってみましょう - 使い方に正しいも間違いもありません
ということです。

この見方は、私たちが生きる上でも非常に示唆に富んでいるように思います。

iPadという製品は、ポータブルなPCのようなもので、さらに電子書籍の閲覧というような特徴的な使い方を想定したものです。

内部的にはパソコンと同様の操作を含むわけですから、その中に詰まっているものは非常に多岐にわたるわけで、下手な説明をすればいくらでも複雑になるわけです。

しかしそれをあっさりと「使いたいように使って見ましょう」と言い切ってしまうのです。

たった一枚の説明書、すべては見て触ったとおりのWYSIWYG(うぃじうぃぐ What You See Is What You Get. )に徹しています。

非常にうまい説明だと思います。
iPhoneのCMでは、「あれも出来ます、これも出来ます」という感じなのと対照的に、「あなたの使いたいように使いましょう」と訴えます。

選ぶ1


これと同様に、私たちもあれこれ考え込まずに、自分のやりたいことに絞ってそこに集中したいものだと思います。

あれもこれもと気を散らさずに、あなたのやってみたいことからやってみるのです。

今の自分にとっては必要のないガラクタは、きっぱり捨ててしまって自分の関心のあることにすべての力を集中させるのです。

ガラクタを捨てるのが難しいといっている人は、例えば個別にひとつずつ「これは捨てていいかどうか」を悩んでいないでしょうか。

何事も100%不要というものはないでしょうから、そのように個別に考えてしまうと当然手放さない方がいい理由も出てきてしまいます。

そうではなくて、カテゴリーに分けてみたらどうでしょうか。

自分の関心のあることを正直に振り返って、「いまやりたいこと」に大胆にしぼって考えましょう。

それによって、いまの自分には当面必要のないことがらは、まとめて不要というカテゴリーにまとめてしまうのです。

一旦不要なカテゴリーを決めたら、そこに含まれることは思い切って手放すことを断行します。


人間関係についても同様に考えて、あなたが本当に関係を保ちたいと思う人達に絞ってみるのがいいのではないかと思います。

自分は顔が広いなどといって、やたら関わりを広げても自分自身が何が望みなのかわかっていなければ意味がありません。

また限られた時間でそれだけの関わりを処理できるわけがありませんから、それは単なる自己満足にしかならないでしょう。

自分では正直なところ、つきあっていてもマイナスでしかないと思う関係は、躊躇しないで遠ざかるのが正解だといえます。

誰とでも仲良くしたいなどと、現実離れしたことは考えないように。

完全主義に陥ると、人間関係においても「誰にとってもいい人でありたい」と考えてしまうようになります。
ちょっとした拒絶までもが許せなくなり気にしてしまうのです。

完全主義では、実は今の状態が完璧であるほど崩れることへの恐れが強くなります。
しかし思い切って崩してしまえば、実は崩れてしまっている方が現実なんだいうことが見えてきますから、崩れることへの恐れも自然に消えていくのです。


積み木


上の方からちょっとつついてやれば、ブロックは自然に崩れていきます。
何なら自分でさっさと崩してしまいましょう。

「誰とも仲良くしなければならない」という考え方をしていると、あなたにとって重要でも何でもない人からイヤなことを言われても、同じように悩んでしまわないといけなくなります。

誰にとってもOKである人は存在しないし、別に相手があなたを嫌っているとも限りません。

多くの場合、ひどいことをいった人は、あなたが相手だからそう言ったわけではありません。

役割上いやなことでも割り切って言わないといけない場合もあります。
あるいは、相手が誰であろうと、イヤミを言わずにいられない人というのもいるものです。
単にタイミングが悪くて、きつい言い方をされるという、とばっちりだったのかもしれません。

もう一つ可能性があるのは、嫌がっているあなた自身の側の問題である場合です。
相手は「普通これくらいの言い方で人は傷つかない」と考えて、ついそういう言い方をしただけなのに、あなたの側ではそこが触れてはならない傷口だったという場合です。

この場合、他の文章でも書きましたように、自分がそのような弱みを抱えていることを素直に認めるところから出発して、はやく傷口を治してしまうことです。

そのままだと、何回も同じような場面を繰り返すことになります。
簡単だと言うつもりはありませんが、他の方法に逃げてもいいことはないでしょう。

話が少しそれてしまいましたが、人間関係もシンプルに自分の関心のあることに焦点を絞ってみることです。

そして、不要なカテゴリーに入ることには、時間を使わずにやりたいことに力を集中しましょう。

力を分散してしまった上に、さらにはいやな感情ばかり思い出して時間を使うなど2重に無駄なことです。

100%正しい選択などありません。
51%以上正しければそちらを選びましょう。


やりたいことからやってみましょう!
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窮屈な人間関係から抜け出すには

「あの人のやり方は間違っているから何とか変えてあげたい」

あなたはこう思って相手のためにアドバイスしたくなるかも知れません。

しかしこんな当たり前のように思える考えにも「わな」が潜んでいます。

相手があなたが保護すべき人ならば、このような考えは正当なものと言えるでしょう。
たとえば、相手が子どもで毒になるものを口に入れようとしていたら...

あなたが相手にやめさせようとするのは当然のことでしょうし、相手の意志だから好きなようにさせようと思う人はまずいないと思います。

しかし、いま問題にしているのはそのような関係ではなく、一般的な独立した大人の関係についてです。

では問題を作り出しそうなポイントを考えてみましょう。

「間違っているから」とか「変えてあげたい」というのは、あなたの意見なのです。
たとえどんなにあなたの意見が正しそうに見えても、相手は自分の選んだことをする権利があります。

相手の反応しだいではありますが、2つの問題が発生します。

A.あなたの意見とは違う考えを持っている場合。

相手にもよりますが、どちらが正しいかをあなたと議論することになる可能性が高いでしょう。
そして、議論が終わっても、お互い自分の方が正しいという確信をより強めて意地になる可能性が高いのです。

当然このあとはお互い気分が良くありません。

B.相手が自分の意見に自信がない場合。

あなたの説得によって、表面的にはあなたの意見に従って行動を変えるかも知れません。

しかし、そのあと相手は徐々に問題を感じ始めます。
自信を持って自分の考えを決められなかったことに惨めさや劣等感を抱きます。
そして、相手に従わされたやり方に満足出来なくなってくると、こんな気分になるのは無理に従わせたあなたが原因なのだと思い始めるのです。
このようなタイプに人は、自分の考えを主張せずにいて、後から従わせた相手を責めるというおなじみのパターンを繰り返すのです。

実はあなたの方も、自分のやり方にそれほど自信があるわけではないのです。
もしかしたら、相手に指示しなかった方が良かったのではと後悔を始めたり、あなたの考えに威圧的に従わせた自分に嫌気がさしたりするのです。
結局相手を自分に従わせたとしても、本来のあなたはいっこうに満足感を感じられないのです。

あまり極端な結果にならないまでも、相手が間違っているから相手を変えようとするやり方は、多くの場合あなたに満足感をもたらすことはないでしょう。

2つの感情


では、どう考えればお互いが間違わなくて済むのでしょうか。

それは、「他人の誤りから自分を守るには、自分の誤りから自由になるしかない」ということです。

つまりあなたが巻き込まれる他人とのトラブルは、あなたが抱えている誤りに呼応するものに他ならないのです。

あなたが自分を「正しい人間」と見なそうとする誤ったイメージにとらわれていれば、それに反応する相手を引き寄せてしまいます。

とはいっても、誰しも自分が「正しい人間」であると信じたいわけですから、自己イメージを壊されることは不快をもたらすショックであり、なかなか認めることが出来ません。

それでも自分を解放したいのなら、なぜ自分が特定のイメージにしがみつこうとするのかに気づくのが第一歩であるといえます。

実はあなたが本当に望んでいるのは、本来のあなたを自由に表現できることではないですか。

相手を自分に従わせることなど、どこかで拾ってきたいい結果をもたらすと思い込んでいる習慣でしかなくて、ちっともあなた自身を満足させるものではないのです。

人と関わるうちに、あなたはその関係性の中で自分のイメージを作りあげていきます。

「あなた」と「わたし」は独立した存在と言うよりも、「わたし」が作り出した対象が「あなた」であり、それは「わたし」にたいする対照的な関係を持つ存在であるということなのです。

「あなた」とは「わたし」の友だちであったり、敵であったり、助けてくれる存在であったり、守るべき存在であったりするのです。

そのような関係が作り出したのが、人と関わるときの作られたあなたのイメージなのです。
社会的な「わたし」とは「あなた」とどのように関わる存在であるかを規定したイメージなのです。

一見対立する存在に見えますが、じつはあなた自身が自分を好きな部分は、相手の中にあっても好きな部分であり、あなた自身が自分を拒んでいる部分は、それを持つ相手も拒むことになります。

ですからもとになっているのは、相手ではなく、あなた自身の持っているもの次第ということなのです。

それらが交互に入れ替わることで、お互い引かれ合ったり拒み合ったりする関係なのに、あなたは一方的に相手がその感情を引き起こしているのだと感じるのです。

ですから、このような関係を見るとき、どちらが感情の持ち主であるかを決めるのは、ほとんど意味がないことなのです。

真実の口


それよりも、自分自身の感じていることを正直に自分でとらえることが、唯一間違いのない拠り所になるのです。

社会的な作られた「わたし」を本当の自分だと同一視しなければ、本来の自分とそうでないものを見分けることが出来るようになってきます。

本来の自分でないものを自分自身と切り離せば切り離すほど、あなたは他人が仕掛けてくる作られた関係に巻き込まれることがなくなり、自由に離れた所から見ることが出来るようになります。

そうなれば目の前の相手が誰でも、あなたは平然と自分自身でいることに恐怖を感じなくなり、本来の自分自身を表現することに後ろめたさを感じなくても良くなるのです。

こんなことを言っても大丈夫だろうかと、毎回躊躇したり、言ってしまった後に後悔や罪悪感を感じることがなくなってきます。

あなたが自分自身でいてもいいのは、同時に相手もそうであっていいと認めることであり、相手を自分の考えに従わせたいという強迫感からも解放されるわけです。

目の前の相手とは、「受け入れるか/拒むか」という二元的な選択をする必要のない存在になってきます。

そして見せかけの自己イメージを持たなくなったかどうかは、あなた自身が自分の中で自己矛盾を感じなくなったかどうかを調べれば判断できるでしょう。

それは、人に見せかける自己と本来の自己を区別する必要を感じなくなるからです。


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予定した未来はなぜ色あせてしまうのか

こんなことを考えたことがないでしょうか。

計画しているときにはあんなに輝く未来に思えたのに、実際にその場になってしまうとなにやら
以前にも見たようなありふれた現実に見えてしまう。

これはひとえに「いま」起きていることを見ないで、思考の世界に生きているからです。

私たちは今までの経験を元にして、これから起きることを予想しようとします。
もちろん経験を生かさず、毎回同じ場所で躓くことは賢明だとは言えません。

しかし、過去を振り返ったり、未来を予測することは、「いま」の現実を見ないで思考の作り出す「過去」「未来」の中に入り込んでしまうことです。

今の行動の参考にするために思考を使うのはいいとしても、すべてが思考の時間の中に生きていることに置き換わってしまったのでは困るのです。

料理コック


たとえば料理を作るのは、本来それを味わうという目的のために行うわけです。

しかし「過去」と「未来」だけに浸り込んでしまうのは、料理を完璧に作れるようにと未来のために準備して、出来上がったらもはや関心を失って、次の料理の準備に取りかかる様なものです。

料理の研究家ならともかく、それを味わうという「いま」という肝心な経験を置き去りにして、思考だけに浸っているのは何かがおかしいと思わないでしょうか。

このようにして作られた未来とは、過去の経験から導き出された「限られた選択」によって作られます。
そこでは、過去に経験していないという理由で、実際に起きていることを歪めて知っている現実に書き換えられてしまう可能性があります。

だからこそ、予測が可能な未来を描けるわけです。

予測が可能な未来とは、過去によって作られた、色あせた繰り返しでしかないのです。

しかし、それでも思考を常に使い続けると、思考が主導権を握っているので「予測可能」ということが至上命令になってしまいます。

「予測できないこと」は、思考の働きで扱えないためです。

「これは予測できない」というのは思考の働きで扱えますが、扱えないものは除外される運命にあるのです。

こうして思考の世界に慣れきってしまえば、仮想的な未来である「予測可能な未来」こそが安心をもたらすものになってしまいます。

思考の世界に生きているから、「冒険は遠慮します」になってしまうのです。

これが、慢性的に予想外の事態を怖がる習慣を作り出します。

商店街の抽選会なら予測できないことも楽しむかも知れませんが、生活に直結することとなると予測出来ないことが起こりはしないかと恐怖の種になっていきます。

いわゆる「冒険」と表現されるような、「いま」の予測出来ない変化に身を置かないと、すべての世界は記憶が作り出す世界になり「期待」と「不安」を感じることだけが生きていることだと錯覚するようになってしまいます。

「いま」に生きることを取り戻さないと、仮想世界で生きているのと変わらなくなってしまいます。

思考は予測出来ない「いま」にあることは居心地が良くないのです。

計算された予測可能な「過去→未来」の思考時間の中にいたいのです。

ですから、思考はすべて世界は予測出来て、制御可能なものだと信じたいのです。

ヨガ・ピラティス


ですが、私たちはすべてのことを意識して制御しているわけではありません。

身近な所では、私たちは自分たちの身体、特に内臓などの働きを直接制御しているわけではありません。

心臓の鼓動を、胃や腸の運動を自分でコントロールしているという人は聞いたことがありません。

例外的に呼吸については、ヨガや禅やスポーツなどいろんなジャンルで自分で呼吸をコントロールすることが研究されています。

しかし、それにしてもいつも意識しているわけではありませんね。
眠っているときまで、呼吸を管理しないといけないのでは、おちおち寝てもいられません。

すべてを自分で予測したとおりには出来ないとわかれば、無駄な努力をしていることに気がつかないでしょうか。

あなたが思考によってコントロールしていることなど、全体から見ればごく一部なのです。

予測可能な未来を描かないと不安だという思い込みを捨てて、「いまここ」で目を見開いて生きてみましょう。

実際には、いまここで、純粋にリハーサルなしで起きる現実をとおして時間が存在します。
思考を使わない生物は、その中でそのままの現実を受け入れます。

人間だけが、その代わりに思考の世界で生きられるという理由でもあるのでしょうか。

実際にそのようなことが起きているのは、単なる習慣でしかないと考えるのが妥当でしょう。


いつでも自分が「いま」にいるかどうか気にしても仕方ありません。

何か居心地の悪さを感じて、目の前のことに集中していないと思ったら、「いま」に自分を引き戻せばいいのです。

強い感情に支配されているときは、普段以上に「いま」に引き戻すことが必要です。

その過去に起きた強い不快な感情は、思考によって今もあるかのように再現して再生されるのです。
その繰り返しを止めるのは、「いま」に意識を戻すことです。

過去のいやな出来事を思い出して、それに結びついた感情が蘇ったとき、それを否定してもますます再生は強くなります。

そんなことは起きていない「いまここ」に自分をいち早く呼び戻すことです。

「いま」に戻るのは、「自分がいまここから離れていた」と気づくだけで充分です。
そして目の前に見える物をありのままに見て、いま聞こえる音を聞いて、今に戻った状態で、その再生されたものも観察してみるのです。

そうすれば、いやな感情も、「いま思い出した」ことによる感情でしかないことがわかり、他のいま対峙している出来事のひとつでしかないとわかります。

笑う赤ちゃん


こういう話を聞いたら「いまに生きるとどんないいことがあるのですか」と聞きたくなるでしょう。

しかし、先程からお話ししているように、メリットを予測することは思考時間に生きていることからの問いかけなのです。

いまにあることが何をもたらすかは、そのひとの実存の問題です。
しかしたとえば、かつて赤ん坊だった頃、自分の二本の足で立ち上がれた経験は思考によって作られたものではありません。

何の予測も方針もなくそれは起きたのです。
予測しない変化もなくてはならないものなのです。

けし粒ほどの種から成長して花が開くのです。

あらかじめ、これがメリットだと示せるようなものではないでしょう。

ただ消極的な表現ではありますが、あえてあげるとすれば、「予測された今を新鮮さのないまま生き続けることをストップできる」という点が挙げられるでしょう。

いまや義務と化してしまった、決まりきった繰り返しをやめて、新鮮な体験を取り戻せるのです。
それが、いやな思いを伴うものであれば、それだけでも充分なメリットです。

また、もうひとつは、常に「予測」しようとしてしまうが故に、予定が狂うのではないかと心配するという二重の意味での無駄なエネルギーが不要になるということです。

予測しなくて良ければ、即座に動けます。
動こうとするのを羽交い締めにしようとする不安に耳を傾けないでただ聞き流すのです。

点検なしで自分にゴーサインを出してみることです。

予測できない出来事も、不安な未来というものも、あるべき場所にそっとしておけば、放っておいても巡ってくるものです。

「嵐の中でも時はどんどん過ぎていく」(「マクベス」 シェークスピア)

「いま、この瞬間」に生きることをもう一度取り戻してみましょう。



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感情はあなた自身ではない

「自分は自分でいいんだ」と認められることは、言葉で言うのは簡単でもなかなか難しいようです。
それは、比較によって自分の存在価値を決めるというやり方が、いつの間にか自己評価そのものに直結するものになっているからでしょう。

そして、自分にとって心地いい評価はあなたの気分を高揚させ、思ったような評価を受けられなかったり無視されることは、時にハッキリと落胆させ、また時にはじわじわとあなたの自信を蝕んでいきます。

「他からの評価」=「あなたの感情」=「自分の存在価値」

こういった3つのことが同一視されて、「あなたの生きがいとはいい感情を持てること」であるかのようになっていくのです。

競争などがもたらすまわりの評価や社会環境は、子ども達を昔よりも追い詰めているようです。

以下に引用したのは、学びの場.com に寄せられたアグネス・チャンさんの「子どもの存在を丸ごと受け入れよう」というご意見です。

子どもの存在を丸ごと受け入れよう

学びの場.com(以下学びの場) 今、日本の学校現場では、子どもたちのセルフ・エスティーム(自尊感情)が低く、自分に自信の持てない子どもが多くなっていると聞きます。教育学の専門家でいらっしゃるアグネスさんから見て、いかがでしょう?
アグネス・チャン

アグネス・チャン(以下、アグネス) そうですね。我が子に対し普通に愛情を持って、他の子どもと比べずに育てていれば、その子はセルフ・エスティームを持てるものです。しかし今は、人と比べられたり、競争させられたりという場面が社会全体に増えているので、子どもたちは無言のプレッシャーをかけられているのかもしれません。

学びの場 セルフ・エスティームを持っている子どもにはどんな特徴があるのでしょう。

アグネス 「自分は自分でいいんだ」という安定した自信があるので、人と自分をやたらと比べません。このため心に余裕があり、他人にも優しくなれます。

 逆に、セルフ・エスティームが低い子は、人より上位に立つことで、自分の存在価値を確かめようとします。そのため、弱い者いじめをしたり、相手の困った顔を見て優越感を得ようとしたりするのです。でもそうして得られた自尊感情は長続きしませんし、そんなことをしている自分を好きになれないので、自分の中で葛藤が生まれ、素直に伸びていくことができなくなってしまいます。

学びの場 どうすればセルフ・エスティームを持った子どもに育てられるのでしょう。

アグネス まずは親が、その子の存在を丸ごと受け入れることです。「君のそのままのすべてが好き」って言ってあげるのです。

学びの場 小さい頃からですか?

アグネス そうです。まだ言葉が分からない、生まれたばかりのときから私は言い続けていました。これは、親が自分自身に言い聞かせるためでもあります。親は他の子を見るとついわが子と比べてしまいがちですから。

 よく大人になって恋をすると「私みたいな者でも好きになってくれる人がいるんだ」と自信が湧き、そして幸せを感じ、ふたりでいることで力が2倍以上になる、と言いますよね。子どもにとって最初の恋人は親。「あなたは最高よ」という親の思いが、子どもの自信につながるのです。

アグネス・チャン 教育学博士、そして母として語る?子どもは自信を持てば、どんどん伸びていきます。 - 学びの場.com 



親子会話2

このように「存在を丸ごと受け入れること」は親が子どもに対してしてあげるべきことですが、あなたが自分自身に対しても同じように接することも同じように必要なのです。

「存在を受け入れる」とは、いい感情の時のあなたも、悪い感情の時のあなたも同様に受け入れるということです。

快不快などのあらゆる感情が、あなたの中を通り過ぎていくことはあっても、その感情の浮き沈みで乱されることのないあなた自身に気づくことです。

本当に条件なしにあなた自身を喜べる状態は、あなたが感じていることではなくて、「あなた自身である」ことによってもたらされるからです。

よく表面的な状態を海の波に例えますが、感情の海が荒らしであっても、あるいは凪の状態であってもあなたの本質は海そのものであると確信することです。

あなたは喜びを感じれば、それがいつまでも続いて欲しいと願いますが、そのときあなたは自分はその喜びの感情そのものだと思いたがっているのです。

ですが喜びの状態がずっと続くわけではありません。
もっとも、ずっと続いたのでは、喜びも色あせて当たり前の状態としか思わなくなるでしょう。
逆の状態があるからこそ、喜びも感じられるものです。

テレビドラマでは、普通主人公がいくら悲惨な状況に追い込まれても、時期が来ると状況が逆転するように作られています。

視聴者がこれ以上は見たくないと見放してしまう寸前まで困難な状況を作り出し、その後にもたらされるハッピーな状況をより感動的なものに仕上げていきます。

しかし、現実の人生ではこのような作家の采配は行われません。
その人にとっては、もうこれ以上悲惨な状況はごめんだと思っても、いい具合に状況が変わるとは限りません。

感情がすなわち自分自身であれば、もはや耐えられないと感じれば人生を悲観するか、あるいは何らかの方法で「悲惨さなど実際にはない」と無理やり「否認」することに逃げ込もうとします。

感情は結果としてもたらされる体感であってあなたそのものではありません。

物語のストーリー、つまり感情の変化の現れ方を自分で書き換えられないことを認めるなら、

「他からの評価」=「あなたの感情」=「自分の存在価値」

という図式を切り離して、あなたの存在自体に喜びを感じることを選ぶべきなのです。

あなたの嬉しい感情が薄れてきたとき、苦しさが浮上しないようにすかさず新しい快楽を追い求めるという繰り返しが悪循環を作り出します。

うまく行かないときの人生を否認して存在しない時間のように扱っていると、感情は鈍磨して喜ばしいときが巡ってきてもそれを充分に感じられなくなります。

表面的な浮き沈みを超えた所に喜びを探さないと、本当の安定は感じられないでしょう。

女の子2人

タオは自然(ネーチャー)を通して
われわれに語りかける。
その語るところに従う人は
何をしても、跡を残さない。
その人の言葉は、ひとを傷つけない。
ひと廻り大きな計算だから、
ソロバンも計算機も入らない。
もっと大きな力の開け閉めに任すんで
鍵なんか使わない。
たとえば母と子の関係のように
縄で縛りもしないのに、
結び目はほどけない。

-------

こういう大きな関係を学ばないで
ただ実利や知識ばかり追う人ってのは
霧に迷っちまってるのさ。
その霧の向うに
タオの秘密(シークレット)が潜んでいるのさ。


老子道徳経 第二七章
『タオ―老子』 加島 祥造 ちくま文庫 (2006/10)



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まわりに振り回されないために - 5つの問いかけ

私たちはまわりの意見に振り回されていて、ややもするとなにが自分の考えなのかわからなくなり、迷子になった子どものように感じてしまいます。

自分の中心を見失ってしまうと、絶えず不安を感じながら世間の動向に脅えつつ生きていくことになるのです。

問題は自分が誰よりも正しいと思えることでは解決しません。

誰よりも正しいことを望むことは、他の人との比較を作り出し、それがまた別の問題を作り出してしまいます。どこまで行ってもどちらが正しいかという不安がつきまといます。

表面的な正しさにとらわれずに、自分の中心を取り戻さない限り迷子状態から抜け出せません。

不安


それでは、迷子にならずに本来の自分を取り戻すために、何を気をつければいいのかを考えてみましょう。

1.「なぜ私のまわりには、自分をイライラさせる人が登場するのでしょうか?」

あなたは「人はこうあるべきだ」という信念を抱えています。
そこであなたのまわりにその基準に反する人を見つけてしまうと、目の前にあなたをいらつかせる人が誕生するわけです。

あなたは、あなたの考えとは全く関係なくその人が現れたと信じています。
そこで、よりによって自分の前にそういう人がいることが許せなくなるのです。

それは、あなたの基準にまわりが合わせるべきだという無理な思考に基づいていますが、あなたがまずは他の人をあるがままにみて、自分の判断を後に回すなら、不要な苦しさを生み出さなくても済むわけです。

あなたの「人はこうあるべきだ」という信念にしたって、しょせんは外から取り入れたものなのですから。

2.「こんな大変な世の中でどうやって自分を守ればいいのか?」

どうやって守るかではなく、自分の何を守ろうとしているのかを問いかけることです。

あなたが「今までのやり方のままで困難を解決できるべきだ」と信じているから、今までのやり方に固執しないといけなくなるのです。
どこかで身につけたやり方が唯一の対策だと信じないことです。
そして決まった対処法で処理するのではなく、本来の自分の臨機応変な対応力を信じることです。

あらかじめ解決方法が分かっていないと不安だと思っている限り、毎回不安がつきまといます。
初めて取り組んだときのやり方を思い出しましょう。自信はなくても迷いもなかったはずです。

どう動くかが分かっていなくても、今までも何とかしてきたわけですし、これからも解決できると信じることです。

3.「どのやり方が正しいのか分からなくなってしまった。」

あなたは、外側の解決方法を次から次へと取り入れるために、なにが正解なのか分からなくなってしまいます。

一度借り物のガラクタを整理して、自分自身で考えてみる力を取り戻しましょう。
そうしないと簡単な判断をすることまで自信を無くして自分で決められなくなってしまいます。

4.「今のやり方でこれからも大丈夫だろうか?」

そもそも「あらかじめ方法が分かっていないと不安である」と思い悩むことが必要なことかどうかを考え直してみましょう。

新しいことに取り組むときには、わからないまま進むしかありません。
わからないことをわかったフリをしてやり方を固定してしまうから、現実と合わなくて悩んでしまうのです。

5.「なぜあの人はあんな行動を取るのだろう?」

その人がどう行動するかは、その人が決めることです。
あなたがそれが気にしているのは、なぜなのかを考えることです。

たとえば、あなたの気に入らないやり方を取る「あの人」が正しいと、あなたが間違っていることになると思っていないでしょうか。

表面的な正しさなど、しょせん相対的なものです。
誰かにあなたの方が正しいと言ってもらえたとしても、一時的な安心でしかありません。

あなたの気にする「あの人」の方が本当は正しいのかも知れないと思うから、あなたの自信がぐらついているのです。

そんなあてにならない確信を欲しがるのをやめれば疑心暗鬼を断ち切ることが出来ます。



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野の花の装い - 苦しめるのは誰でしょう

6:28 あなた方はなぜ衣服のことで思い煩うのか。野のユリがどのように育つかをよく考えなさい。労したり,紡いだりしない。 6:29 だが,あなた方に告げるが,栄光を極めたときのソロモンでさえ,それらの一つほどにも装っていなかった。 6:30 では,神が,今日生えていて明日かまどに投げ込まれる野の草にこのように衣服を与えておられるのであれば,あなた方にはなおのこと衣服を与えてくださらないだろうか,信仰の少ない者たちよ。

6:31 「だから,『何を食べようか』,『何を飲もうか』,『何を着ようか』と言って思い煩ってはいけない。 6:32 こうしたものすべては,異邦人たちが追い求めているものだからだ。あなた方の天の父は,あなた方がこうしたものすべてを必要としていることをご存じなのだ。 6:33 むしろ,神の王国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば,こうしたものすべてもあなた方に与えられるだろう。 6:34 だから,明日のことで思い煩ってはいけない。明日のことは明日が思い煩うからだ。その日の悪いことだけで十分だ。

マタイによる福音書六章

書籍名:新約聖書 マタイによる福音書 訳者名:CozoH
『電網聖書』ホームページ



自然は努力せずとも、その生命を開花させます。
自然環境が劣悪でも、それなりに出来る限り自分を表現し尽くしているように思います。

なのになぜ、私たちはこんなにいつも悩んでいるのでしょうか。

自然に考えれば、私たちが余計なことをしているからと考えるのが妥当だと思えてきます。

ギリシャの哲学者達は、神話の世界から人間中心の世界を作りあげました。
アリストテレスは、自然を分類し分類し、今日の科学的な思考方法の基礎を築きました。

科学は私たちに、わからないもの、不思議なものを消し去るかに思えました。

しかし、心の問題に関しては、残念ながら古代からほとんど本質的に進歩していないようです。

いくら科学的な思考方法を使える人でも、自分のこころの問題となると、思い込みから自由にはなれないようです。

物理的な世界では、「なぜ」とか「どうやって」という問いかけが有効で重要なことです。

しかし、私たちの心の問題となると、理由を知ったり説明できたりすることが必ずしも解決をもたらしません。

頭で考える限り、理解できないものは恐ろしいものになってしまいます。

頭で考える限り、答えを求め続けないと解決は望めないと思い込みます。

頭で考える限り、過去の経験が道しるべであり、未来がどうなるかを耐えず気にすることになります。

頭で考える限り、自分の正しさが自分を支えると思い込み、間違いを認めることを怖がります。

このように「なぜ」と「どうやって」で生きることをやめて、理由を考えずに今のありのままを受け入れないかぎり解決しないことがあるものです。

昔から賢人達は、分からないものをそのまま受け入れることを説いてきました。

老子はタオは人間にはわからないものだがそれに従うのだと言い切ります。
仏陀はすべては空と見抜き、はかないものにしがみつくことの愚かさを説きました。
かつては日本人は、もののあわれやはかなさを尊び、無粋な扱いを嫌いました。
イエスは、前掲のように頭で思い煩うことが無駄であることを教えました。

説明のつかないことを恐れずに、ありのままを受け入れること、まかせてしまうことが私たちに自由を取り戻します。

古い思い込みを捨てて、手放してしまうことです。

自分の力では、自分自身から自由にはなれないとあきらめることです。

ユリの花


まわりの世界は誰にとっても平等です、
それが苦痛に満ちていると思うのは、あなた自身が苦痛を作り出しているにすぎません。

・自分の正しさを主張したいがために苦痛を作り出さないこと。
あなたの正しさが否定されてもあなた自身が否定されるわけではありません。

・他人への思いやりのために自分が苦しいのは、何かが間違っています。
あなた自身への思いやりを忘れていないでしょうか。

・こんなことを考えたらきっと反対するだろうと、反対者を自分で作り出さないこと。
人に話せば反対される確率はせいぜい5分5分、黙っていれば0です。

・他人はケチではありません。あなたがハッキリ欲しいと言っていないだけです。
自分の望みをたいしたことじゃないなどと思わずに大事にしましょう。

・責任感という名の下に自分を苦しめないことです。
「責任」とは言葉であって、それに従う限りどこまでもあなたを許してはくれません。
それは実は外側にあるものではないのです。

・苦しいのは自分が「高尚な人間」だからだと思わないこと。
苦しまない「ただの人」になりましょう。

・恐怖は逃げ道のあるときだけ存在します。
回避策がないと認めれば新しい見方が出来る様になります。

・まわりが敵ばかりに見えるのは、あなたが自分自身と敵対しているからです。
自分自身を許せば、敵もいつの間にかいなくなります。

・まわりの人が間違っていると思うのは、自分の正しさへしがみついていることの現れです。
あなたも間違えることはあると認めれば、ゆったりした生活が戻ってきます。

・自分はこういう人間だと説明しようと思わないこと。次の瞬間にも自分は変わるかも知れないと認めてしまえばいいのです。わかっている人はそんなあなたを責めたりしません。

・苦しいのが当たり前と思い込まないこと。たんに苦しさのない世界になじみがないので恐れているだけです。苦痛の終わりは自分の終わりだと勘違いしないこと。


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意地悪な人 - エゴグラム

意地悪な人というか、他人の弱点を突くのが得意で、相手に痛手を与えてしまう人がいるものです。

もちろんそんなタイプにもいろいろあるでしょうが、典型的なパターンと標的にされる人との関係などを見てみたいと思います。

ジョン・M・デュセイ「エゴグラム―ひと目でわかる性格の自己診断」のゼストの症例をベースに書かせてもらいます。

「エゴグラム―ひと目でわかる性格の自己診断」 ジョン・M・デュセイ / 創元社 / 1983 /



内容に入る前に「エゴグラム」や「交流分析」について、必要な知識を紹介しておきます。

エゴグラム - Wikipedia


エゴグラムとは、エリック・バーンの交流分析をもとに弟子のジョン.M.デュセイが考案した分析法である。

バーンの交流分析では親らしさのP(Parent)、大人らしさのA(Adult)、子供らしさのC(Child) の3要素が用いられたが、デュセイはPをさらに批評的な親であるCP(Critical Parent)と養育的な親であるNP(Nurturing Parent)に、Cをさらに自由奔放な子供であるFC/NC(Free Child/Natural Child)と従順な子供であるAC(Adapted Child)に細分化し5つの要素で分析する(後述)。

それぞれの要素は必ずしも高いほうがよく低いほうがよいというわけではなく、あくまでもその人の性格や人との関わり方などを表したものであり人の優劣を表すものではないが、一般にそれぞれの要素が中庸または強くかつバランスがよいのが理想的であるとされる。

日本では東大式エゴグラム(TEG)によりグラフで表示することが考案されたことで自己分析法として広く一般に知られることとなったが、国際的には 3要素で分析することが今でも一般的である。

5つの自我状態

* 親の心(P)は親などの影響を受けて形成され、CPとNPに分けられる。

CP(厳格な親の心)・・・信念に従って行動しようとする父親のような心。自分の価値観や考え方を譲らず、批判的である。
NP(保護的な親の心)・・・思いやりをもって他者のために世話をする母親のような心。優しく、受容的である。

* 大人の心(A)は科学的な思考・行動の自我状態。

A(合理的な大人の心)・・・事実に基づいて検討・判断する大人の心。冷静で客観的である。

* 子供の心は(C)子供の自由な感情・環境へ反応の自我状態で、FCとACに分けられる。

FC(自由な子供の心)・・・自分の欲求・感情に従って行動する自由な子供のような心。明るく、無邪気である。
(NC)(自然な子供の心)・・・FC(フリーチャイルド)の別名、ナチュラルチャイルド=自然のままの子どもの意。
AC(従順な子供の心)・・・自分の感情を抑えて他人に良く思われようとする従順な子供の心。

エゴグラムを用いた自己分析

自己分析方法としては東大式エゴグラム(TEG)やその応用が有名である。質問紙法で、50程度の質問に答えていき最後にそれを集計し点数化したものをCP、NP、A、FC、ACの順に点数を基に点を打っていき、グラフにする。グラフから各自我状態の強弱・性格の傾向を知ることができる。点数が高い自我状態はその自我状態の傾向が強いということであり、低いものはその傾向が弱いということである。(例えばNPが高い場合は優しくて思いやりが強い、低い場合は思いやりに欠け、冷たいというように判断できる。)

普通、子供の頃はCPやNPが低くFCやACが高いため右上がりになり、年を重ねるとCPやNPが高くなりFCやACが低くなるため次第に右下がりとなる。

一般に、日本人ではNPが最も高い山型でCPA>FC>ACとなるへの字型が最も多くかつ理想的とされ、欧米では Aが最も高い山型が最も多くかつ理想的であるとされる。



それではデュセイが紹介している「ゼスト」の症例に入ります。

ゼストの問題は、孤独であり不幸や絶望感を漂わせていて、ひとりぼっちになると飲み過ぎ、ひとりアパートで飲み過ごすけれど誰ひとり彼のアパートには訪ねてきません。

エゴグラム(ゼスト)自我状態

ゼストのエゴグラムは、FC(自由な子供)が最も高く、次にAC(従順な子供)が続きます。
その次に来るのはCP(厳格な親)とA(合理的な大人)であり、他と比べてNP(保護的な親)が非常に低くなっています。

ゼストの幼少期の家庭環境は、父親はゼストが幼い頃に家庭を捨てて出て行ってしまい、母親は彼女自身の問題から人との親密さを持つことに問題を持ちます。

機会あるごとにゼストは妹をいじめていて、彼女の叫び声やかんしゃくを楽しんでいました。

母親との関係では普段親しさを見せない彼女に対し、ゼストが悪ふざけをしているときには注目を集められることを知ってそれを利用していました。

ゼストはグループセラピーの場では、参加者の何人かに意地悪を見せます。
ターゲットになった他の患者は、痛い所を突かれて逃げ出したり、パニックになってしまいます。

いじめゲーム

ゼストの「いじめゲーム」は、表面的には他の人も認める様な客観的な事実を指摘する、A(合理的な大人)同士の会話を取っていますが、その裏側での実質的な交流は、彼のFC(自由な子供)から相手のAC(従順な子供)へ向かいます。

つまり、子どもの直感的ないじわるさで、相手の怖がっている部分を責め立てるというものです。

グループセラピーの他のメンバーは、ターゲットになった人達の弱点を含む問題点には気づいていましたが、まだそれを指摘して直面させるのは時期尚早と感じていたわけです。

その点で、ゼストは極端に低いNP(保護的な親)ゆえに、相手に対する思いやりや保護しようとする心が乏しいわけで、容赦なく相手を責め立てていくわけです。

表向きは「だって本当のことじゃないか」とAの会話に見せかけるわけです。

ところで、ターゲットにされたいじめられる側の弱みは、主にAC(従順な子供)にあります。

暴かれたくない弱みを隠して、発見されることを恐れていますが、子どもの直感的ないじわるさでゼストはいち早くそれを見抜いて、自分の得意な「いじめゲーム」を始めてしまうわけです。

「いじめゲーム」を行う人は相手のの特徴を探し出すよりも弱点を見つけ出すことに長け、それに固執します。

それが、ゼストが望んでいる孤独から解放されること、つまり親密な関係を結ぶことから遠ざけてしまっているわけです。

治療では、ゼストはNP(保護的な親)を強めることになりますが、彼の高いFC(自由な子供)(自由な子供)はがんこに意地悪行為を繰り返します。

しかし、病棟の患者や職員からの慰めや保証を受けている自分に気づくようになるにつれ、自分自身で他の自我状態を前面に打ち出せることや、FC(自由な子供)を制御できることを見いだしていきます。

「意地悪な人」は別に彼のようなパターンだけとは限らないでしょうが、子どもの直感的ないじわるさがその一端にあることが多いのかも知れません。

それに加えて、相手を気づかうNP(保護的な親)の欠如は、容赦のない暴き立てを生み出すわけです。

おこる男の子3     泣いている女の子


一方で、いじめの標的にされる人は、主にAC(従順な子供)に弱点を抱えています。
その弱点である自分の肯定できない部分を、いじわるな人は容赦なく責めてきます。

そのような人にとっては、このグループの場合のように、まだ直面できる段階にないとして時期が来るまで保護されることが必要な場合もあります。

隠したり、あるいは意識的、無意識的に直面することを避けることで自分が壊れるのを防いでいるのかも知れません。

しかし、そのままでは自分を肯定できないままの状態ですから、いずれにしてもその人は自分の弱点に直面するときが必要になります。

そうしないで、自分の弱点を隠している限り、誰かに暴かれてパニックを起こす危険を持ち続けることになるわけです。

いったん自分の弱みを認めてしまえば、「私はいまはこのような弱点を抱えていますが、徐々に克服するつもりです。あなたの指摘は正しいかも知れませんが、今は充分には対応できていませんから、必要以上に指摘されることを拒否します。」という態度を取ることも可能になってきます。

そして、本人が弱点を認めてしまうと、意地悪な子どもはもはや相手がうろたえないと分かって、急に興味を失います。

いじめ甲斐がないと分かれば、つまらなくなって標的にすることをやめてしまうわけで、いじめの対象になっていた人はその意味でも解放されることになるのです。


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非人情の天地に逍遥

私たちは安らぎを手に入れようとして、かえって苦しさを作り出すことに躍起になってしまうことが多いようです。

やろうとしていることが、自分を救ってくれて、楽になれると思い込んで動いているので、効果が得られなかったり余計苦しくなっても、それは努力が足りないせいだと思って余計動き回ってしまうのです。

つまり、間違った方向に努力しているから、やればやるほど泥沼にはまり込んでしまうのです。

間違った方向は、一見自分を幸せにしてくれる道に見えて、結果的に苦しさをもたらしてしまうという、実は自分を欺くものでしかないのです。

では間違った方向とはどういうものでしょうか。

私たちは技術を磨いたりや仕事を改善したりしようとして、いろいろ努力しようとします。
それらについては、確かに努力というものが結果をもたらしてくれます。

しかし、あなたが安らぎを手に入れたいのなら努力をしてはいけないのです。

なぜなら、その時のあなたの努力とは、あなたが幸せを作り出そうと考えているプランを実行するという努力だからです。

プランを実行しようとすることは、ありのままの現実を受け入れようとしないで、自分が思い込んでいる通りに現実を変えたいということなのです。

あなたのプランに基づいて現実を見るなら、ゆがんだ現実しか見えず、当然あなたのプランと現実はだんだんと別れ、離れ、遠ざかっていくのです。

それでもあなたの思い込みは、現実があなたのプランに合わせてくれるべきだと思っているのです。
そのときあなたは「あなたの思い込み」と一体になって、それこそが本当の自分だと思っていますから、それに反する事実はあなたへの攻撃であり脅威となってしまうのです。

ですから、あなたがそれに努力すればするほど、苦しい状況を作り出します。

しかし、逆にあなたがプランを諦め放り出したとき、あなたは初めてありのままの現実をみる余裕が出来てくるのです。

あなたのプラン、固定観念さえなければ、現実はあなたをわざわざ不幸にはしないのです。

幸せは自分で作り出せるものではないと認識して、何もしないと決めたとき、あなたの予想に反して不幸が作り出されることもストップするのです。

ペアのカップ


「しあわせは、あなたが生きていることそのものの中にあるのであって、作り出すものではない」
これが分かれば、それ以上無駄な努力をしようとは思わなくなるでしょう。

幸せは探しても見つかりません、またそれは努力してストックできるようなものでもありません。
他の財産と同じようにため込もうとする努力は意味がありません。

ではあなたが偽の「幸せプラン」を実行しようとする行動をどうやって見分ければいいでしょう。

まずはあなたが「これが幸せをもたらす」と考えていることを一旦離れた所から見てみることです。

そして効果がない、あるいは有害であるやり方を放棄することです。
あなたの望んでいるものは、考えても作り出せないとわかれば、プランを持ち続けること自体が問題であるとわかってきます。

持ち続けることが、それに執着する自分を強化し続けるのです。

自分の思い込みをチェックして、1つずつ手放していけばいいのです。

しかし最初から1つずつチェックするのも気が重いでしょうから、1つ面白いアイデアがあるのでそれを紹介してみましょう。

まずは、すこし横道にそれますが、夏目漱石の「草枕」について少し触れたいと思います。

「草枕」では30歳の洋画家である主人公は『非人情の天地に逍遥』することによって、『とかくに住みにくい』人の世を生きてみようとします。

この場合の『非人情』とは、人情に巻き込まれない第三者的な生き方を言っているようです。

このような一節があります。

余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺《じい》さんも婆《ばあ》さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似《まね》をするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探《さ》ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤《じんじかっとう》の詮議立《せんぎだ》てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差《さ》し支《つかえ》ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳《わけ》に行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐《ふところ》には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画《え》の前へ立って、画中の人物が画面の中《うち》をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間《あいだ》三尺も隔《へだ》てていれば落ちついて見られる。あぶな気《げ》なしに見られる。言《ことば》を換《か》えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙《あ》げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識《かんしき》する事が出来る。

青空文庫 図書カード:草枕



ここでは、自分の周りの現実を平面的な絵の世界だと思ってみようと言っています。

「ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。」

「動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。」

絵に描かれた人物のように、相手を平面上に存在するものとして見て、相手はたとえ動いても、平面からは出てこないつもりで接しようと言っています。

そして「遠き上から見物する」、「人情の電気」が起こらないように、巻き込まれないでいようとします。

このように、相手との人情を切り離して世界を見てみることを「非人情の天地に逍遥」することだと言っているようです。

画家


それではこの世界観を踏まえて本題に戻りましょう。

「草枕」の主人公の場合は「芸術的観点」から世界を見ようとしているわけですが、これを応用して世界を見るとき、私たちは不幸を自分で作り出すような努力を切り離してしまった世界を見ることが出来ます。

「非人情の天地に逍遥」を思考実験として体験して見れば、一つ一つの自分の関わりをまとめてリセットしてみることが出来ます。

人情を切り離した関係の世界を体験してみれば、どこで人情というこだわりに自分を駆り立てようとしているかが見えてきます。

衝動的に巻き込まれる人情の世界を切り離して、たとえば「迫害者」「犠牲者」「救助者」のドラマを作り出すのを阻止してみるのです。

そうすることで、あなたは偽物の自己(エゴ)の働きが、本物の自分ではないことを発見することが出来ます。

あなたに恐怖をもたらすのが、偽物の自己(エゴ)が作り出している一時的な状況に過ぎず、決して永続的な恐怖にはなり得ないことも見えてきます。
それは、あなたが自分から関わらない限り存在しないのです。

あなたが努力しないと不幸になると思って駆り立てられ、不安を感じていたのは、本当のあなたではなく、自分だと思っていた偽の自己の働きであったことに気づきます。

そんな中に滞在して、あなたがどうしても本心から人情でかかわろうと思うことだけに参加すればいいわけです。

あなたが主体的にかかわらなければ、世界の出来事はあなたの身には降りかかっては来ません。

まわりの世界が原因で、それに自分が巻き込まれるという思い込みから、自分がかかわらなければ実は何も起こらないことを発見するのです。

違和感のある駆り立てられるような他の人への関わり方は、本当の自分の反応ではありません。

しかしあなたがそれを自分自身だと信じてしまうと、そのような偽物の自己はあなたの一部として存在を主張し続けることになります。
その偽の自己は、自分に従わないと大変なことになるとあなたを説得しようとするのです。

しかしそれに従うことは、結果的に傷ついて終わる偽物の交流を作り出します。
その傷は「誰かや何かが自分を傷つけた」というものです。

誰かや何かがあなたを傷つけることはできません。

自分が自分を傷つけることを許さない限り自分は傷つかないと承知していれば、それは偽物の傷にすぎないことが分かってきます。

わざわざ自分を傷つける行動を取るのは、賢明なやり方とは言えません。

「人情の電気」が起こらないように「遠き上から見物する」とき、偽物を見分けることが出来るのです。
「非人情に逍遙」してみることで、本当の関わりだけを選ぶ体験を選択することが出来ます。

旅1


知らない土地に旅行してみたとき、あなたはいつもより開放感を感じないでしょうか。
その開放感とはどこから来るのでしょう。

知っている人がいない開放感です。
知っている人は、あなたがいつもの人情に巻き込まれる存在です。

そこでは、あなたは自分を見せたい存在であるように着飾っていなければならないのです。
その人達は、努力している自分を証明して見せないといけない相手なのです。

だから知らない人ばかりの住む土地では、証明する必要を感じずに済むのでその分開放感が得られるのです。

知らない土地に行ったときと同じように、今の周りの世界を「非人情の天地」と見なしてみましょう。

「まわりの人物は平面上の人物であり、あなたがかかわろうとしなければ人情の電気は起こらないのです。」

自分の本物の人情を見つけるために、たまには「非人情に逍遙」する実験を試してみるのです。

「なぜいつもこのような目にあうのだろう?」ではなく、
「私の中のなにがこの状況を引き寄せているのか?」を問いかけてみることです。


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他は是れ吾にあらず - 心理的なお話

前回は「他は是れ吾にあらず」の道元禅師の体験談を踏まえて、いっそこの老典座の心境になってみましょうかという話をしました。

・「私がこの作務を通して修行をしているんだ」、誰の役割かは問題ではない。
・そのうち担当者がやるだろうからではなく、「今でなくて一体いつやるのか」と言ってみたとしたらどうだろう。

そしてもしこのようなやり方をして「自分が犠牲になったんだぞ」と思ってしまうなら、その人は別の問題を考えてみた方がいいから、その心理について今回お話しするということでした。

そこで今回の話ですが、前回のように禅の話ではなくて、主に交流分析から見た役割の話になります。「他は是れ吾にあらず」から離れた話になるかも知れませんがご容赦下さい。

まず「カープマンのドラマの三角図」についての話から始めます。

ドラマ(ゲーム)の三角図の基本的な役割は、次の3つです。
迫害者(P)(私はあなたより優れている、あなたは劣っている)
救助者(R)(私はあなたより知っている、あなたは不適格だ)
犠牲者(V)(私は無力だ、あなたは私より優れている)

私たちは、それぞれ自分のなじみなある役割を演じがちで、相手としてそれを補ってくれる人を見つけているものです。

A「最近の政治家はだめだね!」(迫害者)
B「困ったものだね、誰がやってもだめなのかな」(迫害者)

A「また失敗したんだな!」(迫害者)
B「次はうまくやるようにします」(犠牲者)

A「また失敗してしまった、ダメな人間だ」(犠牲者)
B「悲観することないよ、精一杯やったんだから」(救助者)

なおカープマンの言うドラマやゲームというものは、程度の差はあれ最後に「いやな感情」をもたらして終わるところに問題があります。
その結末は、軽い程度のものから、最悪絞首台に導くものまで様々です。

そしてそこには、メンバーの能力を発揮出来なくさせる「値引き(ディスカウント)」が見られます。

それらは、かつて子どもの頃に身につけたやりとりで、親から見放されたり、無視されるよりはましだからと苦痛を伴いながらも交流を作り出そうとした手段であったのです。

また、相手がこのままではドラマの役割を続けてくれないと感じると、相手をけしかけてゲームを仕掛けます。
それは役割を逆転させるものであったりします。

例えば自分の人生は辛く苦しいものだとか、自分はなんてダメなんだと泣いたり嘆いたりしている「犠牲者」は、相手が同情的な聞き役である「救助者」を演じてくれている間は、この交流を続ける事が出来ます。

しかし相手がそれに飽きて愛想をつかしてしまうと、相手をひきとめるために「犠牲者」役から「やっぱり自分のことなんか心配してくれないんだ」と「迫害者」に切り替えてゲームに巻き込もうとします。

これで相手が乗っかってくれれば、新しい交流を維持できるというわけです。


叱られる1


前回の話の例に戻しますと、「私がこの作務を通して修行をしているんだ」という心境であればいいのですが、人の代わりにやらされていると感じているとすれば、ドラマが作り出されることになります。

A「これは私の仕事ではないけど、忙しそうだから手伝うわ。(あなたのかわりにやってるのよ)」(犠牲者)
B「ごめんね、私も手一杯なの。何とかお願い、助け合っていくしかないのよ」(迫害者)

TVドラマなどでは、最後にこのような犠牲者が救われる状況が発生することでカタルシスを得られるように作られているものですが、現実はAがいつか「切れて」しまうことでドラマが進展します。

そのとき、役割は入れ替わり逆転するかもしれません。
しかしその新しい役割もまた、ドラマの筋書きなのです。

A「こんなに犠牲になってやってるのに、何でわかってくれないの」(迫害者)
B「そんなに大変だとは知らなかったのよ、それならもっとはやく言ってくれればいいのよ」(迫害者)

A「いつもいつも、同じ失敗ばかり何考えてるんだよ!」(迫害者)
B「ごめんなさい。努力はしているんですが...」(犠牲者)

このままやっていると、いつか自分は不満で爆発してしまうと感じるなら、最初から引き受けない方法を選ぶべきなのです。


ところで犠牲になる農民がいて、迫害するお代官、それを最後に救助するヒーロー、おなじみの時代劇のパターンに私たち日本人はなじみがあります。

現在も人気のあるTVドラマ「水戸黄門」今回のシリーズ(TBS「水戸黄門 第41部」)で助さん役の原田龍二さん、格さん役の合田雅吏さん、お娟役の由美かおるさんのレギュラーが交代になるそうです。

代官から厳しい取り立てを受けたり、一部の商人の犠牲になる農民や町人がいて、迫害するお代官やらそれと結託する越後屋的な商人、それを助けようとする「救助者」の黄門一行。

毎回起きる事件は、マンネリ化していながらも人気があるのは、犠牲者が救われるシーンにカタルシスを感じるという日本人のお好みの感性があるのかも知れません。

しかしこれは、作られたドラマであるから、ハッピーエンドの結末が約束されますが、現実のドラマは必ずしもそうとはいえません。

日本人が好きなのは、勧善懲悪なのか敵討ちなのかよく解らない所もありますね。

忠臣蔵などに代表される「敵討ち」も、決して結末はハッピーとは言えないでしょう。
本懐を遂げたら腹を切るという部分は、現実のドラマでは想定していないのです。

また敵討ちを生きがいとしてきたとき、その後はどうなるのだろうということですね。

我慢していた不満をぶつけて表向き立場を逆転させますが、一時的にはスッキリしても、その後は決していい関係を取り戻せるとは言えないのです。


相談1


また「共依存」のドラマというものもあります。

A「どうしたらいいんだろう、自分だけではうまくいかないよ」(犠牲者)
B「やっぱり私がいないとだめね」(救助者)

AとBは無意識のうちに、相手を探し表面的には相手が必要だという救助のゲームを演じます。

しかし、一旦Aが独立を宣言すると、Bはなんとか現状に戻したいと抵抗します。

A「これからは、ひとりでやっていこうと思う」
B「いままでこんなに助けてあげてるのになんてことを言うの!」(迫害者)
B「誰のために、こんなに尽くしてきたと思ってるの。かわいそうな私」(犠牲者)

心理的なドラマは、犠牲者の悲しみや混乱、迫害者の怒りや勝利感、救助者の心配やあわれみなど様々な感情を伴います。

問題は正面からの感情のやりとりではなく、表向きの会話の裏に隠された交流が最後の結末を導いてしまうところにあります。

裏面的な交流は、その人自身や相手の能力をディスカウントしています。
共依存は「あなたは私がいないとやっていけないのよ」という相手の能力を封じ込める所に問題があるわけです。

また、救助者側も、自分自身に向き合うことに恐怖感があります。相手のために動いていることでダメな自分に正面から向き合うことを避けているのです。
だからこそ、相手が独立してしまうことに痛みを感じ、困り果ててしまうのです

なぜ心理的なドラマではいけないのか、それは本心から納得していないからです。
そして自分自身への信頼感を育てることが出来ません。
お互いが能力を値引きすることで成り立つ関係は、両者の自尊心をダメにするのです。

相手方がいないと空虚な自分を感じてしまうために、常に相手を探していなければならない。
そしていずれ、不満が噴き出してくることになり、その結末は時として悲惨なものになるのです。

心理的なドラマは、最後の結末が自分で見えるようになれば、そこに入り込むことを阻止できます。
いままで慣れ親しんだ、どこか居心地のよさもある交流ですが、それを断ち切っても本物の交流の方が大切であることを認めないといけないのです。


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他は是れ吾にあらず - 禅的なお話

他是不有吾 (典座教訓) 他は是れ吾にあらず

この禅語は、簡単に言えば「他人は私ではない」ということですが、まずはこの言葉の元になった道元のエピソードをご覧下さい。


曹洞宗を日本に伝えた道元禅師が、中国に渡り天童山の如浄のもとで修行を始めたばかりの時の体験談として語った中での言葉。

ある夏の日中、見るからに年老いた典座(てんぞ=禅宗の修行道場の台所を預かりる役目の僧のこと)が灼熱のもと、敷き瓦の上で、汗だくになりながら、椎茸をひろげ干しているのを見た道元は

「どうしてあなたの様なお年を取られた方が、こんな熱い中でのきつい作務をされるのですか?なぜ若い人にやらせないのですか?」と問えば、

その老典座は「他は是れ吾に非ず」と
〈他の人は私ではない、私がこの作務を通して修行をしているんだ、人にやらせたのでは自分の修行にならない〉 

さらに道元は「でもなぜこんな暑い中にやるのですか?」と問えば、

老典座は「更に何れの時をか待たん」と。
〈今でなくて一体いつやるのか〉 

これに対し道元は二の句がつげなかったという。

道元の若かりし時のことである。
老典座のしていた作業を、修行とは別のことと見ていたのが大きな誤りであることに気づく。

禅語に親しむ<今月の禅語> ?朝日カルチャー「禅語教室」より?



座禅


この言葉を裏返してみるなら、気づかぬうちに、私たちの不満の多くを作り出しているものが見えてこないでしょうか。

「これは私の仕事(役割)ではない」という言葉で自他を納得させていることは、日常そこら中で出会う場面です。

そして一度「それは私の仕事ではない」と言ってしまえば、それをしてくれない他人がいることで腹が立つのです。

私は、いまそれを自分が引き受ける時間があり、やり方も分かっていてやるのは難しくない、けれど私の仕事ではないからやらない。

理由は、このように「私の仕事ではないから」です。

私の仕事ではないことを何でもかんでも私が引き受けていたら、大変なことになってしまう。
他の人の仕事を代わりにやっても自分が損するだけだし、その分他の人が楽をするのだから、そんなことは許せない。
あるいは、自分でやらせないと相手のためにならないのだから。

確かにその通りでしょうし、そういったからと言って自分が責められることもないでしょう。

何も問題はないから、それでいいと終わらしてもいいのですが、先程の「それをしてくれない他人がいれば腹が立つ」という点はどうなるのでしょう。

いくら自分が正しくても、それで腹を立てるのなら、そうならない方法はないものかと考えることも出来ます。

「自分でやらない不届きものを罰すれば済むことだ」という解決もあるでしょうが、何でもかんでもそれで片づけるられるものでしょうか。

他人を罰すれば、自分も傷つきます。できればそれもなしで解決できないでしょうか。

いっそこの老典座の心境になってみましょうか。

「私がこの作務を通して修行をしているんだ」、誰の役割かは問題ではない。

そのうち担当者がやるだろうからではなく、「今でなくて一体いつやるのか」と言ってみたとしたら。

もし自分に余裕があるなら、代わりにやってみてもいいではないですか。
それでチーム全体がうまくいけばいいではないかという心境です。

もちろん、ケースバイケースですから、代わりにやってしまわない方がいい場合もあるでしょう。

ただ、あまり自分の担当にこだわらないことがもたらす自由さを感じてみたり、いつもいつも最も楽な方法、最も合理的な方法を追い求めないでやってみてはどうでしょう

これらは私たちに新しい視点をもたらしてはくれないでしょうか。

損だ得だと細かいことを気にせずに、「私がやってしまおう!」と言い切ってみたらスッキリしないでしょうか。

少しくらい多く動いたって別にいいじゃないか、その分自分の経験も積めるし、やらない人間の批判などしていると気分がふさぐだけだ、と考えることも出来ます。

これでスッキリいい気分になれるなら、たまにはやってみようか。

何時いつまで待ったら動こうかとウダウダ考えてるより「今でなくて一体いつやるのか」でやってしまおうか。

「他は是れ吾に非ず」
「更に何れの時をか待たん」



ただ、この文章を書きながら、ちょっと気になったことがありいます。

それは、もしこのようなやり方をして「自分が犠牲になったんだぞ」と強く言ってみたくなるなら、その人は別の問題を考えてみた方がいいということです。

長くなりすぎるので、この「自分が犠牲になったんだぞ」という思い、その心理については次回「他は是れ吾にあらず - 心理的なお話」で続きを書くことにしたいと思います。
では今回はこの辺で。



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