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至道無難(しいどうぶなん)? 私の悩みの元は?

  至道無難・・ 至道(しいどう)は無難なり

  唯嫌揀択・・ 唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う

  纔無憎愛・・ 纔(わずか)に憎愛無くんば

  洞然明白・・ 洞然として明白(めいばく)

一般的に悟りを開くということは、大変な修行を伴い苦修錬行があって容易に得られるものではないと云う受け止め方をされるが、仏祖の大道と云うのは何の難きものではないのだ。

唯、物事を対立的に見て、選り好みをし、取捨選択の思慮分別をして執着をするところに迷いが在るのだ。その揀択がいけないのだ。

わずかでも、憎愛の念ならば揀択に堕ち迷い差別の世界に陥るだろう。

だが、いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対明白の悟りの世界である。

今まで妙法といい、如来の真実義は百千万劫に遭い難しなどと云われ、その仏道には深遠な哲理があり、至難な実践がなされなければならないという思い込みがあった。

だが、そんな既成の観念を打ち砕き、何にも難しく考えることはいらないよ、悟りに至るのは実は簡単なことなんだよと一蹴してしまう言葉が「至道無難」である。

禅語に親しむ より



ところで江戸時代初期の禅僧であり、至道無難(しどうぶなん)を名乗った人がいました。

無難は師である愚堂禅師から「人間本来無一物」の公案を授かります。

無難は、この公案に30年間取り組んだ末、47歳の時、無一物を徹底できたと回顧しています。

そしてその時に出家するのですが、そこで愚堂から授けられた号が至道無難であったということです。

その無難の説いた言葉に次のようなものがあります。

  凡夫めら あまりに物な欲しがりぞ
   我が身さえ我が物ならぬぞよ
  殺せ殺せ我が身を殺せ殺し果てて
   何もなき時 人の師となれ
  身の業の尽き果てぬならば何も無し
   仮に仏というばかりなり
  何もなき心を常に守る人は
   身の災いは消えはつるなり

至道無難 より



無難は「無一物」を徹底した、言い換えれば人間にとって悩みの根源が欲であることを見抜いていました。

「殺せ殺せ我が身を殺せ殺し果てて」でいっているのは、私(エゴ)を無くせということです。

私たちは、いつも「私(エゴ)がやったこと」が自分の生きた証しだと思っています。

自分の力でやり遂げてこそ生きがいを感じるのだ。
自分の選択こそが、私の存在する意義だと思っています。

確かに、結果を振り返った場合には、そのように見えることもあるでしょう。

しかし「私(エゴ)がやったこと」にとらわれることが、私たちの悩みの根源でもあるのです。

結果的にあなたが人の役に立てることや、為し遂げたことを振り返るのはいいとしても、行動しているときには「私」がやっているのだと思わない方がいいのです。

一度「私(エゴ)がやったこと」とは何かを振り返って見るといいでしょう。

私がやったと思っていても、実は周りの人達に支えられて初めて出来ていることに気づいているでしょうか。

今日一日を振り返って見て、どれだけ本当に「私の力」でやり遂げたことが見つかるでしょうか。

このところ話題は「iPad」ですが、あなたが発売初日に何時間も並んで苦労した末でiPadを手に入れたとします。

やっと苦労して私は「iPad」を手に入れたといいます。
これこそ私の行為だと思うのです。

しかし「iPad」は、あなたが作ったわけではありません。
またメーカーが「iPad」を作り出すためには、それが生まれるだけの時代の背景が必要でした。

そしてあなたが「iPad」を欲しいと思ったこと自体、いろんな情報に影響を受けて思ったことです。

このように見たとき、私の意志など、どれほどかかわっているのでしょうか?

選ぶ1


なにも、このような豊かな時代に生きていて、その恩恵にあずかるなということをいっているわけではありません。

別に私は禅僧になるつもりはないから関係ないよ、と思わずに考えてみて下さい。

時代がどうであろうと、やはり「私(エゴ)がやったこと」にとらわれることが、私たちの悩みの根源なのです。

「私」を捨てて、我が身を殺したときに悩みのない世界が開けるということです。

あなたは「私」を捨てられた分だけ悩みから解放されるのです。

・「私」が結果を左右できると信じていることが、あなたをやきもきさせるのです。

・「私」が大事にしているものが、なくしてしまうことへのの恐れを作ります。

・「私」の主義を守るために、反対する人間を攻撃したくなるのです。

・「私」の会社を悪く言われると腹が立ち、その会社が私を大事にしてくれないことでまた悩むのです。

・「私」の意見を批判されるのを恐れ、その一方で意見を主張できない自分を責めるのです。

・「私」が嫌われることを恐れて、自分の正直な行動を差し控えます。
ちょっとしたことでもやって大丈夫だろうかと気になるし、やらずじまいに終わったら、それでまた自分を責めたくなるのです。

・「私」の思ったことを気軽にやると失敗するのではないかと恐れ、軽くやってのける人をみると人生の辛さを知らないんだと批判して自分を正当化したくなります。

・「私」は人に与えているばかりだと思い込み、人から受け取っていることがなかなか見えてきません。

・「私」の生き方を変えるのが怖いので、これしかないとしがみつきます。


もっとも「その煩わしさに生きがいがあるんだ」と仰るなら、それもまた生き方ですし、それはそれで正しいことなのでしょうが。



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過去とどう付き合うか

「『あたしO型だから、済んだことは気にすることができないの』って、言い方をすると面白いよな」
「何それ」美紗ちゃんが訊いた。神経衰弱ははじまったばかりで余裕があった。
「だから、アイデンティティなんてものは『私は何々だ。だから私には何々ができる』っていう肯定に働くものじゃなくて、『私は何々だ。そういう何々でしかない』っていう否定的な限定だっていう認識があると面白いっていうことだよ」

季節の記憶 (中公文庫) 保坂 和志 / 中央公論新社 / 1999-09 /



「あのとき、あんなことがなかったなら……こんなことにはならなかった」
過去を振り返っては、私たちはよくこのようなことをつぶやいているのではないでしょうか。

残念な過去というのは誰にでもあります。
中には「これさえなければ、俺の人生も変わっていたはずだ」と叫びたくなるようなものもあるかも知れません。

しかし過去を非難し、否定することで現在の不都合の理由付けをするというのは、現在をありのままに生きることを妨げます。

そこで、いいことでも悪いことでも「あのとき、あんなことがあったからこそ、今の自分があるのだから」と認識すれば、過去も肯定することが出来るという考え方があります。

たしかにもっともだと思える考え方ですが、私にはどこかこじつけめいた感じが残る気がするのです。

最初の言い方は、過去を否定することで何とか現在の自分を釈明しようとしています。

後の方の言い方だと、過去と現在の流れをいまに持ち込まなければなりません。
なんとか、いまだけで処理できないものでしょうか。

選ぶ1


ところで、冒頭に引用した文章は何なのかと、気にされている方もいらっしゃるでしょう。

少し視点を変えて、「私は何々だ」ということを考えてみましょう。

冒頭の文章は、血液型で人の性格を規定するということに関しての会話の一部です。

『あたしO型だから、何でも直感で判断するの』
『あたしO型だから、済んだことは気にすることができないの』

血液型はともかく、私たちはこのように自分のアイデンティティというものを、肯定表現と否定表現の集まりとして認識しているのかも知れません。

だから、なにかが話題になると「私は○○系だとか」「私は◇◇はだめ」とか分類したくなります。
そのように考えたくなるのは、自分を分別することで、何かのメリットを感じているからだと考えられます。

ここで話が少し変わりますが、私たちは何かを見て対象を認識するときに何を行っているのでしょうか。

たとえばリンゴを見たとき、私たちは大ざっぱに丸い形、赤い色、大体の大きさ、ヘタの部分の特徴などから、これはリンゴだと認識します。

細かいことまでチェックせずに、非常に大ざっぱなとらえ方をしています。
しかし実用的にはこれくらいのとらえ方が丁度いいのです。

リンゴをいくつか並べてみれば、今いったような共通点は見いだせても、一つ一つを比較すれば細かい部分で非常に多くの相違点があるわけです。

しかし、色の濃さや斑点の付き方や、微妙な形の違いを細かく見ることは、必要がなければ行いません。
先程いったように、実用的にはこれくらいのとらえ方が丁度いいのです。

また、いちいち細かい部分まで平等に見ていたのでは、それが何であるかを判定するのが困難になってしまうから、そのように特徴をつかんだとらえ方を身につけているとも言えます。

たとえば、実際にリンゴを見ていないで誰かが説明する特徴を聞いて、何であるかを当てようとしているならどうでしょう。

ポイントをつかんだ説明を受ければ、すぐにリンゴを思い浮かべますが、事細かに見える部分を順番に説明されたら苦労してしまうでしょう。

動物と果実

これから類推すれば、私たちが自分のアイデンティティをとらえる場合にも、白黒ハッキリしていた方が都合がいいことがあるのだろうと考えられます。

なにかの行動を起こそうとするときに、自分の方針があった方が動きやすいのかも知れません。

ものを分類することが役に立つと分かった私たちは、人を分類することも同様に始めます。

それは、同時に自分自身を分類することでもあります。

キャラクターのハッキリしない人物が登場する小説は、呼んでいても状況が分からず面白くありません。

キャラクターがつかめてくると私たちは安心します。

この人は、自分とこういう所が似ているみたいとか、あるいはこの人は鬼のような悪人だとか、イメージをつかめてくると理解できるのです。

そして自分の過去というのも、自分に役立てるためには分類しなければなりません。

自分が思い描いている過去というのは、先程のリンゴと同じように、自分の役に立つ情報で成り立っています。

けっして、過去の事実を忠実に思い浮かべるわけではありません。

わたしたちは、どんなときに過去を思い出すのでしょうか。

まず思い出そうとしなくても、急に思い出される反射的な気分や曖昧な情景といったもの、これは何ともコントロール出来ないもののようです。

何かの恐怖症であれば、即座に反応してしまうわけで簡単には制御できません。

しかし、それとは質の違った過去の思い出し方があります。

それは、私たちが過去を必要とする場合に思い出すということです。

目の前にあるクソいまいましい現実、いまの自分の責任じゃない、そう考えたくなるときも、私たちはその原因となった過去に登場願いたくなるのです。

「あのとき、あんなことがなかったなら」、いまの自分はいないのだから、いまの現実は違っているはずだから、だからいまの自分には責任はないと考えたいのです。

「起きたことは仕方がない」、「過去は変えられない」と納得しましょうと言い聞かせようとしてみても、本当に納得するのは簡単でないことは経験からお解りかと思います。

雨とカエル


ところで、一方で私たちは普段から、変えられないことでもあっさり受け入れることだってやっているのです。

たとえば、朝起きたら雨が降っていた。

一時的にいやな気分になる人もいるでしょうが、雨は自分に都合が悪いからあってはならない事だと、いつまでも主張し続ける人がいるでしょうか。

天候はどうにもならないからとあきらめる事は、それほど難しいことではないでしょう。

受け入れが難しいのは、いったいなにが違うのでしょうか?

A.出来事が受け入れられないほど、いやなこと悲惨なことだった。
あるいは、
B.もしかしたら、変えられると思うからいつまでも過去が気になる。

このような、系統の違う要因がありそうに思えます。

AとBでは随分事情が違います。

Aは変えようがないと諦めていても気になるのであるし、
Bはまだ変えられると思っていたり、やり残している感じがあるから気になるのです。

なんとか対処できる過去の出来事もあれば、手を出しようのない過去もあるのでしょう。

猫1


話があれこれ飛びましたが、この辺で新しい見方を考えましょう。

それは、ひたすら現在に取り組むということ、これは過去に何があったとしても出来ることです。

いまの問題はいまの時点で何とかしようと決めて、過去に戻ることをやめることならなんとか出来そうです。

いまが充実していれば、過去のせいにしたくなることもなくなってくるでしょう。
いまがうまくいかないから、つい習慣で過去を引き合いに出したくなる自分を見つけてみましょう。

次に、どんなメリットから出来事に善し悪しをつけようとしているのかを考えることは、「そのまま受け入れることもできる」という新しい見方をもたらしてくれるかも知れません。

ものごとは、それ自体が良いわけでも悪いわけでもありません。
自分にとっての関心ごとが、価値を決めているだけです。

価値を決めるかどうかは、難しい場合はあるにせよ自分でも何とかなることです。
「どうしてそうあって欲しいのだろう?」という問いかけをしてみましょう。

「少々都合が悪いことがあってもいいから、大ざっぱに何でも受け入れてしまおう」と宣言して、細かいことをチェックするのをやめてみれば、どれほどスッキリするでしょう。
是非一度試して見て下さい。

思っているほど、現実は悪いものではありません。

小さな後悔で時間を費やしているほど、人生は長くありません。

振り返らなければ、ただ過ぎていくことに、自分からわざわざ手を出さなければいいのです。

『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 良寛』


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いやな気分を粉砕する(論理療法2)

前回に続いて論理療法のご紹介と、最後に子どもの叱り方の例文を挙げておきます。
例文については「ずっと、何だって、僕が悪いんだ(論理療法1)」も参照して下さい。


まずセリグマン等がABC思考法と呼んでいる、論理療法の基本理論を見てみましょう。

人の悩みは出来事そのものではなく出来事の受け取り方によって生み出されるものであり、受け取り方を変えれば悩みはなくなるというのが基本的なスタンスである。そして、それはABC理論とイラショナル・ビリーフに集約される。
ABC理論

A:Activating event(出来事)
B:Belief(信念、固定観念)
C:Consequence(結果)

出来事があって、結果があるのではなく、間にビリーフによる解釈があるという考え方である。とくに不合理な考えによる解釈をイラショナル・ビリーフと呼び、それを粉砕することを目的とする。

D:Dispute(論駁)
E:Effect(効果)

ABCのあとにの二つを加えて、ABCDE理論と呼ぶこともある。

イラショナル・ビリーフ

「失敗してはならない」「すべての人に愛されなければならない」「世の中は公正でなければならない」などという思いを持っていると、それらが満たされなかったときに悩むことになる。イラショナル・ビリーフは以下のような特徴がある。

* 事実に基づいていない
* 論理的必然性がない
* 気持ちを惨めにさせる

イラショナル・ビリーフは願望(?ねばならない、?であって欲しい)と事実を混同することから起こっている。このような混同を論理的に否定し、ラショナル・ビリーフ(合理的信条)へと変えてゆくのが論理療法の役割である(「文章記述を書き換える」という表現をする)。ラショナルビリーフは

* 事実に基づいている
* 論理性がある
* 人生を幸福にする

ラショナル・ビリーフの例は「失敗しないほうがいいが人間だから失敗することもある。失敗から学ぶべきである」「人に愛される・愛されないとは関係なしに具体的になにかをするべきである。その結果人が愛してくれればありがたいし、愛されなくとももともとである」などである。

端的に言ってしまえば、「?ねばらならない(must)」ではなく、よりマイルドであると言われる「?であるにこしたことはない(should)」という文章記述の書き換えである。

論理療法 - Wikipedia



次に具体的なABCDEの例として、セリグマンが「大人のための悲観志向撃退の練習」で取り上げているものを見てみましょう。

【A(うまくいかない状況)】
新任教師の私は、中学二年生のクラスを農場に連れて行って農業を学ばせようと、ずいぶん時間をかけて準備をした。反対するベテラン教師もいたけど、私は子どもたちに何か特別なことをしてあげたかった。農場に到着すると、生徒たちはてんでに勝手なふるまいを始めた。牛にチューインガムをやろうとした子もいたし、干し草の山にかくれて女の子が二人、たばこを吸っているところを見つけた。もう少しで火事になるところだったわ。男の子たちのグループは卵を盗もうとしていた。

【B(考えや思い)】
なんてひどい状況でしょう!私ったら、本当にばかな世間知らずなんだわ。校長はきっとカンカンに怒るでしょう。これからは規則どおりにやるわ。今後はこのような”青空教室”はナシよ。

【C(結果)】
私はとてもきまりが悪かった。月曜日になっても学校へ行きたくなかった。心のなかで、最悪の事態が次から次へと起こることを想像するのをとめることができなかった。

【D(反論)】
私は大げさに考えすぎている。確かに、何人かの生徒にはお手上げだったわ。でも、ほとんどの生徒たちはちゃんとしていたし、とっても楽しんで、たくさんのことを学んだじゃない。あの実地見学を計画したのは、私に創造性があったからよ(代わりの考え方)。
やってみるのはばかげたことではなかったわ。私のような若い教師こそが、ちがいを生み出すことになるのよ(代わりの考え方)。それに、なぜ校長が怒らなきゃいけないの?私は大きな問題になる前に、すべてを抑えることができたじゃない(証拠)。校長は、次回はお目付役をもっとたくさん連れていきなさいというかもしれないけど、それだけの話だわ(脱破局化)。今回の件についての短いメモを書いて、次回はこのようにやり方を変えます、と校長に伝えようかしら(対応計画)。

【E(元気づけ)】
気分がだいぶ明るくなった。学校へ行って、その見学旅行について話すことも恐ろしくなくなった。確かに、もっとスムーズにいかなかったのはがっかりだったけれども、だからといって、恐れて新しいチャレンジをやめることはなかった。



遠足2


セリグマンはこの後、自分自身の例で練習してみましょうということで、反論の質問ポイントを上げています。

1.その考えが正しいという証拠は何か? それが正しくないという証拠は何か?
2.この状況を別の見方で見るとどのようになるだろうか?
3.起こりうる最悪のことは何だろうか? その確率は?
4.起こりうる最善のことは何だろうか? その確率は?
5.最も起こるであろう結果は何だろうか?
6.自分の対応計画はどのようなものか? とくに最も起こりうる結果に対しての計画は?


以上引用が多くなりましたが、「論理療法」という心理療法は、現在よく用いられている「認知行動療法」の先駆けとなる流れを作りました。

この療法は、それまでの時間のかかる精神分析から、短期間で効果を挙げたいと工夫された背景もあり、理論も単純ですぐに理解でき個人で利用することでも充分役に立つ思考方法を提供してくれます。

どう考えていいか分からなくなったときなど、自分の考えを整理してみるのに利用すれば、非常に効果的だと思います。

特に、自分のB(おもいこみ)に気づくことは、どういう考え方を取るにせよ重要であると考えられます。

また、気分に浸ること、考えること、行動することはそれぞれが密接に結びついていて、実際にはどれかが単独で行われるものではないということに気づかせてくれる理論でもあります。

ただBをどのように扱うかは、いろいろ意見の分かれる所でしょう。
エリスの著作をみると、やはりエリス(あるいは文化的な背景)の影響がないとは言えないでしょう。
非論理的(イラショナル)な思考から脱却したあと、どこに行き着くかも重要であり、そのあたりは論理療法では多分にプラグマティックというか実用的な利益を重視するものです。

もちろん論理療法にしたがって方向転換することが、どうにもならない落ち込みから救ってくれることは充分考えられます。
必要に応じてうまく使っていけば、普段の生活にもすぐに生かせる思考方法となるでしょう。



最後に前回の続きとして、子どもを叱る場合に悲観的な見方に導かない着眼点を載せておきます。

叱る母親


《就学前の子どもを叱る》
◎永続的な叱り方(悲観的)
「トミー、どうしたっていうのよ?あんたは本当にいやな子なんだから」
◎変えられる叱り方(楽観的)
「トミー、きょうのあなたの行動は本当によくなかったわね」

◎永続的な叱り方(悲観的)
「私が留守の間、あなたは泣きっぱなしだったとお姉ちゃんがいっていたわ。本当に神経質な子どもなんだから」
◎変えられる叱り方(楽観的)
「私が留守の間、あなたは泣きっぱなしだったとお姉ちゃんがいっていたわ。私からはなれているのがとってもつらいのね」

◎永続的な叱り方(悲観的)
「おもちゃを片づけなさいといったでしょ。どうしていつも、私のいうことを聞かないの?」
◎変えられる叱り方(楽観的)
「おもちゃを片づけなさいといったでしょ。なぜいわれたことをしなかったの?」


◎全面的な叱り方(悲観的)
「あなたは悪い子ね」
◎限定的な叱り方(楽観的)
「あなたは妹をいじめすぎるわよ」

◎全面的な叱り方(悲観的)
「あなた、スポーツに関してはお母さんの血をうけついでいるのね。私はスポーツ、まるでだめなのよ」
◎限定的な叱り方(楽観的)
「ボールから目をはなさないようにしなくちゃ」

◎全面的な叱り方(悲観的)
「彼女はほかの子どもと遊びたがったことが一度もないの。とても恥ずかしがりやでね」
◎限定的な叱り方(楽観的)
「彼女は、子どもたちのグループに入っていくのに苦労するんです」


◎内へ向かわせる全面的な叱り方
「あなたは運動、だめね」
◎内へ向かわせる限定的な叱り方
「もっとボールを見なくちゃ」

◎内へ向かわせる全面的な叱り方
「あなたたちって、本当に自分勝手なんだから」
◎内へ向かわせる限定的な叱り方
「あなたたちは、もっとみんなで使うようにしなくちゃいけません」

◎内へ向かわせる全面的な叱り方
「この部屋はまるで豚小屋じゃないの!本当にだらしないんだから!」
◎内へ向かわせる限定的な叱り方
「この部屋はまるで豚小屋じゃないの!散らかしたら片づけなくてはいけません」



「引用」
「つよい子を育てるこころのワクチン―メゲない、キレない、ウツにならないABC思考法」
マーティン セリグマン他 ダイヤモンド社 / 2003-09



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ずっと、何だって、僕が悪いんだ(論理療法1)

チャーリー・ブラウン:
ボクに妹ができたら、人生がすっかり変わるかもしれないって思ったけど、やっぱり、変わらなかった。

チャーリー・ブラウン:
みんなボクをきらってる...だれもボクのことを本当に好いてはくれない。
相変わらずそのことで落ち込むんだ...

ライナス:
かわいそうなチャーリー・ブラウン...

ライナス:
世界中のすべてのチャーリー・ブラウンのなかで、
彼こそ最もチャーリー・ブラウン的だな!

「いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント」
エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02


いつも自己否定から落ち込む習慣のあるチャーリー・ブラウンですが、「本当にボクが悪いの?」という問いかけをしなければなりません。

すべてが「ボクが悪い」のだと考え続ければ、ウツへ一直線に突き進むことになります。

男の子悩む


ゆとり教育の弊害が話題に上る日本ですが、似たようなことはアメリカでもあったようです。
A.エリス等が始めた論理療法という心理療法がありますが、この考えに基づいて子どものウツなどの治療にあたっているマーティン セリグマン等の著書から引用してみます。 

また、以下では子ども達向けの例文を示していますので、お子さんのいらっしゃる方は一緒になって考えてあげたらいいかも知れません。

 アメリカではずっと前から「子どもに自尊心をもたせる運動」ともいえるものがつづいています。教室には「あなたは特別な子どもです」というスローガンが満ちあふれ、多くの教師や親たちが、子どもの自尊心を高めようと努力をしているのです。「自尊心こそ、すべての行動の基礎である」と考えているからです。
 そのために能力別クラス編成は廃止されました。下のレベルにいる子どもたちが自尊心を失うといけないからです。IQテストも中止です。得点の低い子が自信を失うと困るからです。みんながいい成績になりました。悪い成績をつけられた子どもは、いい気持ちがしないでしょうから。教室でも、習熟度の低い子どもたちに合わせて教えることになりました。学ぶのに時間がかかる子どもたちを傷つけないためです。競争はよくないものとなりました。
 しかし実際には、アメリカの子どもたちはかつてないほど、抑うつ的になり、悲観志向を強めています。うつ病はいまではまるで風邪のように、どこにでも見られるものとなり、中学生にも広がっているのです。

中略

 うつとは無力感と挫折の病気です。自分は無力で目標を達成できないと思うと、うつに陥ります。「自分」こそが大切なのだと信じるほど、「自分」の目標や成功、楽しみこそが重要なのだと思うほど、失敗したときの打撃は手痛いものになります。
 本来、自尊心をもつということは、課題を克服したり、努力が実ったり、フラストレーションや退屈に負けなかったり、勝利を収めることの結果や、副次効果として出てくるものなのです。現実世界のなかで「うまくやる」ことをとび越えて、自尊心をもてというのは、手段と目的を取りちがえていることにほかなりません。
「自尊心をもてる、もてない」ということは、成功と失敗の”原因”ではなく、”結果”なのだとすれば、自尊心をただもちなさいといいつづけても意味のないことです。必要なのは「うまくやる」方法を教えることなのです。


セリグマン等は、「非理性的な思い込み」が悲観的な感情による結論に導いてしまうのだとして、注意すべき3つの要素を挙げています。

それらは、「時間的広がり」「影響がおよぶ範囲」「自分化」の3つです。
この3つを分かりやすく言えば、タイトルにあるように「ずっと、何だって、僕が悪いんだ」ということなのです。

順番に見ていきましょう。

◆「時間的広がり」(一時的かずっとか?)

ウツになりがちな人は、うまくいかない状況が起きたときに、それが永遠に続くものだと考えがちです。

「いつもこういうことが起きてしまうに決まっているんだ。」
「この困ったことは、これからずっと続いて行くに違いない」

永続的に続くという考えを「今回限りの一時的な出来事に過ぎない」と切り替えて考えられるようになれば、ウツになるのを防止できるといえます。

《うまくいかない状況》
◎永続的(悲観的)「この学校で、私と友だちになってくれる人はひとりもいないだろう」

◎一時的(楽観的)「新しい学校に転校したんだから、友だちができるまでには時間がかかるもの」

◎永続的(悲観的)「うちの母親ほど意地の悪い親は、世界にいない」

◎一時的(楽観的)「お母さんはこれまでになくきげんが悪い」


◎永続的(悲観的)「トニーは私を大きらいになって、もう二度と私とは出かけないだろう」

◎一時的(楽観的)「きょうはトニーは私にカンカンに怒っているから、私とは出かけないだろう」


また逆に、いいことが起きたときには、その原因を今回限りだと考えてしまうことはウツにつながりやすく、ウツになりにくい人は原因は「永続的」なものだととらえるようです。

《いい状況》

◎一時的(悲観的)「今回は一生懸命勉強したから、このテストで一番になれた」

◎永続的(楽観的)「一番になれたのは、僕が努力家で、この教科をよく勉強しているからだ」


◎一時的(悲観的)「安全パトロールのキャプテンに選出されたのは、みんなが僕によくしてやろうと思ったからだ」

◎永続的(楽観的)「安全パトロールのキャプテンに選出されたのは、みんなが僕のことを好きだからだ」


◎一時的(悲観的)「パパが私といっしょにいてくれたのは、最近、パパのきげんがいいからだ」

◎永続的(楽観的)「パパは私といっしょにいるのが大好きなんだ」


自分の成功が「永続的」な原因だと考えられる人は、一度うまくいけば次回からもずっとうまくいくだろうと考えることが出来るのです。

それに対して、いいことは「一時的」と思ってしまう人はうまくいったのはまぐれかなんかだと思ってしまいがちなのです。

父親と娘1


◆「影響がおよぶ範囲」(限定的か全面的か)

なにかできごとが起きたときに、その影響が自分の人生のあらゆる所に影響してしまうだろうと考えてしまうのが、全面的ということです。

起きたことは、その事柄だけに言えることだと考えられれば、限定的に考えていることになります。

《悪いできごと》
◎全面的(悲観的)「教師なんて不公平なものだ」

◎限定的(楽観的)「カーマイン先生は不公平だ」


◎全面的(悲観的)「僕は、スポーツはすべて苦手だ」

◎限定的(楽観的)「僕は、フットボールは苦手だ」


◎全面的(悲観的)「だれも私を好きじゃない」

◎限定的(楽観的)「ジョンは私を好きではない」


《うれしいできごと》
◎限定的(悲観的)「僕は、数学はできる」

◎全面的(楽観的)「僕は頭がいい」


◎限定的(悲観的)「エリカがパーティに招いてくれたのは、彼女が僕のことを好きだからだ」

◎全面的(楽観的)「エリカがパーティに招いてくれたのは、僕がみんなに好かれているからだ」


◎限定的(悲観的)「僕は歌がじょうずだから、主役を演じることになった」

◎全面的(楽観的)「僕にはいろいろな才能があるから、主役を演じることになった」



泣いている女の子

◆「自分化」(「何のせい」と考えるか)

うまくいかない状況の時に、自分を責めるか、他人や状況を責めるかという二通りがあります。

失敗するたびに自分のせいにしてしまう人は、自分に対してあまり自信を持てず、やましさや恥ずかしい感情を抱きがちです。

責任回避はいけませんが、自動的に自分が悪いと判断してしまう習慣がある場合は、自分を正確に見ることを覚える必要があります。

いったん自分のせいでないと判断したなら、憂鬱にならずに自分は堂々としていればいいわけです。

もし自分にも責任があると考えられるなら、自分を全面的に責めるのではなく、一時的で限定的な非難、つまり自分の行動を責めるという切り分けをすることも出来るのです。


◎自分のすべてを非難する(悲観的?永続的、全面的、内へ向かう)
「テストで40点を取ったのは、僕がばかだからだ」

◎自分の行動を非難する(楽天的?一時的、限定的、内へ向かう)
「テストで40点を取ったのは、一生懸命に勉強しなかったからだ」


◎自分のすべてを非難する(悲観的?永続的、全面的、内へ向かう)
「体育のサッカーのチーム分けで、また最後までのこってしまった。だれも僕を好きではないんだ」

◎自分の行動を非難する(楽天的?一時的、限定的、内へ向かう)
「体育のサッカーのチーム分けで、また最後までのこってしまった。僕はサッカーはへただからなあ!」


◎自分のすべてを非難する(悲観的?永続的、全面的、内へ向かう)
「僕は悪い子だから、自宅謹慎になってしまった」

◎自分の行動を非難する(楽天的?一時的、限定的、内へ向かう)
「僕は人をぶったから、自宅謹慎になってしまった」



結果の非難

子どもを叱る場合にも、このような点を踏まえて批判の仕方を考えればいいでしょう。
子どもは、批判された対象だけではなく、もちろんその批判の仕方も自分のものとして吸収してしまいます。

「きょうは一生懸命やらなかったね」と言えば、一時的で子どものすべてを否定することにはつながりませんが、「おまえは怠け者だ」と言ってしまうと永続的に自分はダメな子どもだと考えるようになってしまいます。


まずは、自分自身に対して「永続的な」「全面的な」「自分のすべて」への非難をしていないかをチェックしてみることです。

やってしまう前に防止するのは、最初はなかなか難しいものです。

自分が憂鬱になったり、怒りや悲しい感じになったりしているのに気づいたら、その前に何を考えていたかを思い出してみましょう。

どんな文章を自分に使っていたでしょうか?

「いつだってこうなんだ」「これが運命なんだ」「いつもこんな気分になるものなんだ」

「何をやってもダメなんだよ」「みんなそう思っているんだ」「ずっといいことなんか起こらないよ」

「僕は悪い子なんだ」「なまけ者だからついサボってしまうに決まっている」「だれも私なんか気にかけてくれないに決まっている」

「いまはうまくいっていても、きっと悪いことが待っているんだ」

そして、そのような思い込みに反論してみましょう。
「一時的な」「限定的な」「自分の行為」に対する問題に過ぎないんだということをです。

そんなことで、気分が変わるだろうかと疑わずに、騙されたと思ってやってみましょう。

慢性的なゆううつを引きずらないという機会を、少しずつ積み重ねていけば、これは避けようのないことだと思い込んでいたことも、実は今までの習慣に過ぎなかったんだと発見できる日も遠くないでしょう。

最後に付け加えますが、意外と見落としがちなのは、相手が自分と違う意見を主張したから、ここは訂正しておくべきだと考えて、自分の考えを認めさせようとしてしまうことです。

この結果、お互いが水掛け論になってしまって、結果的に話し合う前より落ち込んだ気分になってしまうというのもありがちなのです。

ときには、いまは議論しないで時期を待とうと考えてみる選択も考えられるのです。
これは、事態の先送りではありません。

自分がいつも嫌な気分に陥ると経験で知りながら、無意識にそのような行動を習慣的に繰り返していることもあるのです。

こんな時、表面的には「人はいつでも理解し合っているべきだ」といった理由を思い浮かべているのですが、話し合っても物別れになることを予想しているのです。

いってみれば、いつも自分へ言い聞かせている文章を、相手を巻き込んで証明してしまうことになるのです。

もちろん、ちゃんと分かっていて、自分の折れる所は折れるから相手との関係を改善しようと思っているのなら話は別ですよ。


「引用」
「つよい子を育てるこころのワクチン―メゲない、キレない、ウツにならないABC思考法」
マーティン セリグマン他 ダイヤモンド社 / 2003-09




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自灯明・法灯明

お釈迦様が死の直前に弟子のアーナンダに残したといわれるのが、後に「自灯明・法灯明」と呼ばれる言葉でした。

自分が死んだ後に、弟子達が何を頼りにしていけばいいかということを言っている言葉です。

「自灯明」とは、自分自身を拠り所にして、それを灯明として闇を照らしなさいということであり、「法灯明」の方は、お釈迦様が教えた真理を拠り所にして灯明にしなさいという意味です。

ここで「法灯明」ではなく「自灯明」が先に来ていることが、どちらを優先すべきであるかを表していると言われます。

お釈迦様は、彼が説いた法ばかりを頼らないで、まず自分自身を拠り所にしなさいといいたいわけです。

「法」を頼りにすることは、外部の決まりごとに従えということです。

弟子達が、そのように法に従うことにのみ忠実になってしまって、法の奴隷になってしまうことを心配しての配慮であるということでしょう。

仏陀イメージ


外部に基準を持たずに自分自身を信頼せよという考えは、東洋の哲学や宗教の特徴なのかも知れません。

老子は、全く違った観点から「道(タオ)」を説いています。

老子の場合は、人が作った法というのをもっと手厳しく否定しています。
そんなものに頼ることが、タオから外れるのだという言い方をします。

ですから、老荘思想にはもちろん「法」というものはありません。
あるのは、老子の言葉と「タオとの調和」ということぐらいです。

人は自分から何かをしようとせずに、タオと調和するように無為でありなさいというわけですから、命令や務めというものはありません。

タオを信じたら救いがありますとも言わないし、従わないと罰が当たりますとも言いません。

これとは対照的なのは、律法に忠実に従って特定の神を信じれば救われるとする、西洋の契約による宗教です。

他の神を信じることを禁じたり、律法を犯さないこと、破れば罰を受けると脅す神様です。

こちらは、言ってみれば「法灯明」のみを打ち出しているわけです。

もっともユダヤ教徒であるキリストが現れて、律法からの解放を説くようになってからは少し様変わりしていきますが、このあたりの話はこれぐらいにして「自灯明」に戻りたいと思います。

寝そべる


自分を拠り所にしなさいと言われると、法に従えとうるさく言われないわけだから楽じゃないか、といえるかというとそういうわけでもありません。

実は自分で判断しなさいといわれるのは、それほど簡単ではないのです。

外側には自信を持った教えというものが沢山存在します。

それに頼らずに自分で考えなさいと言われても、外部の自信ありげな教えは魅力的に映りますし、それに比べて自分の考えの方はなかなか自信が持てないのです。

これに従えば結果は保証しますといわれると、それならば自分で考えずに誰かを信じていた方が楽じゃないかと、ついつい頼りたくなるわけです。

そういった傾向は、宗教に限ったことではなく、最近になってどんどん進んでいるような気がしてなりません。

現代社会では情報は捌き切れないほど豊富に利用出来ますから、これがだめなら次の情報といった感じで、しがみつくものには事欠かない時代です。

誰かに付いて行きますと言って「法灯明」で生きていけば何とかなるんじゃないか。
そんな風に考えてしまうのも無理ないところもあるのでしょう。

しかし、問題はそれで人は幸せを感じられるかと言うことです。

外部に依存することが日に日に不満を蓄積していくのを感じないでしょうか。

なんで自分の好きなようにしないんだと、不満をもらす自分がそこにはいないでしょうか。

依存すればするほど、個性は失われていき、自分に対する信頼が欠如していきます。

まるでずっと親の監視つきで、宿題でもやらされているようなものです。

そんな状態では、なんとかここから抜け出したいという子どもの欲求が、麻痺して無抵抗になってしまわないよう祈るのみです。

鎖から解放


なんとかこのような、がんじがらめの状態から解放する事を考えていかないと、自分では常に目的をもって行動しているつもりでいても、結局どこにも行き着けない状態に陥ってしまいます。

外に依存していると、不満を感じる対象も外にあると思いがちです。

社会が悪いのだから仕方がない、自分はこんなに頑張っているのにといって愚痴をこぼしているしか能のない人間になってしまいます。

いかに不安に思えても、自分に頼ることを諦めるべきではありません。

権威など見せかけです、そんなものを信じないで自分が主導権を握るようにしましょう。
人の人生を生きるのはごめんだと宣言しましょう。

シンプルに考えれば、「好きでもないことばかりしている」ならさっさと抜け出せばいいと気がつくはずです。

人に意見を聞かれても、自分がわからないと思うことなら「わかりません」と答えましょう。

わかったフリをして、無理やり納得してもいない考えを自分の意見にしてしまうから、自分の中で葛藤が起きてしまうのです。

ますます自分の考えに自信を持てなくなってしまいます。

そういうことを続けていると、簡単なことをやるにも「これで正しいのだろうか」と考えないといけなくなるのです。

「私は無知である事を知っている」と言ったソクラテスのように、自分が何も知らないことを認めてしまえば、自由を取り戻せます。

ドラマなどで何も知らない主人公が、知らない強みで権威に従わずに暴れまくるのを見て痛快に感じることがあるでしょう。

それを見て共感するのは、自分の中にもそんな思いがあるからでしょう。
有害な知識なら無知であるほうがずっとましです。

実際には無いものをあると考えるのが、仏教でいう「無明」です。
外部の自信ありげな考えも、自分にとって真実でなければ自分の闇は照らしてはくれません。

「じゃあ、結局どうすればいいの?」と聞きたくなるのは、まだ外部に頼ろうとしています。

喜ぶ男の子


信じてもいないことを自分のものにしないで、自分で本当に納得できることを頼りにしようと決心すれば、法の奴隷にならずに自由を取り戻します。

そしてなによりも、自分への信頼や勇気を取り戻すことができます。

自分を信頼して起こることに任せて行動すれば、思っても見なかったすばらしい経験が待っているものです。



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身のほどをわきまえる

身のほどをわきまえないと

 貧しい人は、財宝をお礼としたがり、老人は力仕事をお礼としたがるが、これは身のほどをわきまえないことからくるまちがいね。

よく自分のことを知って、できないことはすぐやめるのがかしこいやり方だ。

相手がそれをだめだというのなら相手がまちがっている。

身のほどをしらずに、ただいっしょうけんめいはげむっていうのは、考え方があやまっているんだよ。

 貧しい者が身のほどをしらずにいると、物をぬすむようになり、体力の弱い者が身のほどをしらずにいれば病気になるんだ。

徒然草 第百三十一段
徒然草・方丈記 (少年少女古典文学館) 嵐山 光三郎 三木 卓 講談社 / 1992-04-09




がんばれば夢がかなうという風潮が強いですが、がんばってもどうにもならないことも実際には多いものです。

少しくらい無理をしてでも、自分も出来るようになりたいと思う場合があるかと思います。

しかしそんな中でも、冷静に考えればやめておいた方がいいと判断できることも多いのです。

これには、自分の欠点は目につきやすいという心理が関係しているのかも知れません。

実は、基本的に自分を信頼している度合いが高い人は、少々自分の苦手な部分があっても、平気でいられるし、他の人にそれを見せることも怖がらないものです。

しかしそれとは逆に、自分に自信が持てない人ほど、まずは自分の欠点を何とかしないと先に進めないような気になってしまうのです。

自分の能力のなさを他人に知られてしまうと、嫌われてしまうという恐れが働きますから、何とか知られないうちに克服したいと思うわけです。

結果の非難


しかし、上記のように、中には自分には向いていないからやめた方がいいということもありますし、それよりも自分の得意なこと、向いていることを伸ばすことにエネルギーを使った方が得策だという場合も多いのです。

もちろん子どものうちなら、まだどのような才能が潜んでいるか分かりませんから、あまり早々と方向を決めてしまわない方がいいと思います。

しかし、何度もやってきて自分には向いてないし、他の人から見てもそう見えることなら、見切りをつけて自分の得意なことを伸ばす方に切り替えた方がいいのです。

それは能力がないから諦めろと言うよりも、自分の得意なことを伸ばす方がその人にとってもいいことだからです。

諦めきれないとしたら、自分に本当に可能性を感じている場合には、頑張って続けてもいいでしょう。
しかし、それが社会や周りが期待することだからという理由でしがみつくのは、あまり得策ではないように思います。

それよりも、あなたの得意なことを生かせる方向で努力すれば、あなたも無理しなくていいし結果も伴ってくるでしょうから、充実感も持てるわけです。

それに誰もが望んでいる能力というのは、競争の激しい分野であるのが普通です。

本当にその競争に参加して勝ち抜きたいのか、それよりも自分ならではの能力を生かす方向に力を入れた方がいいのか、よく考えてみた方がいいと思います。

テスト100点


自分の能力に挑戦したいと思って、自分と競争することはいいと思いますが、ただ利益を目指しての他人と競争するというのはさまざまな悪影響をもたらします。

競争で勝ち残るのはごく一部の人だけですから、当然無理をしても負けてしまう確率の方が高いのです。

もちろん弱気になれとか言っているわけではなくて、自分に自信があるのならチャレンジしてみて初めて出来る経験もあるわけですから、どんどんやればいいと思います。

また中には競争した方がより能力を発揮出来るタイプの人もいるでしょう。
要するに自分に合っているかどうかの見極めが大事と言うことですね。

他人との競争というのは、欲と同じできりがないものです。
いったん競争に入り込むと、一回で終わりというわけに行かなくなります。
そこまでやる価値があるかどうかは、冷静に考えた方がいいでしょう。

バランスはかり


「誰でも頑張れば出来るはず」とか「出来ないのは努力が足りないせいだ」といった言葉は、使う場面によっては、無責任で有害な言葉になりかねません。

それに答えて自分まで中途半端に「はい、がんばります」と答え続けていると、いつまでも無理な関係を続けることになります。

兼好も言っている様に「相手がそれをだめだというのなら相手がまちがっている」のです。

いっそ「自分にはこれしかできません」と宣言してしまえば、自分を搾取しようとする人も周りから消えていきます。

それでも残るのは、あなたがそのままでいいと認めてくれる人です。
無理しないで生きたいと思う人には、願ってもない環境です。

自分の役割をわきまえてそれを充分果たすことが、結局は全体の役に立つことにもなるのです。

いつまでも勢いや根性だけで乗り切れるものでもありません。
長く頑張ってきたと思うのなら、ここらで方針を変えてみるのもいいかもしれません。

強くてこわばったもの下にいて根っこになり、
弱くて柔らかいものは上にいて花を咲かせる。

老子道徳経 第七六章




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おもうがままにならない

仏教的な意味での「苦」というのは、自分にとって不満であるという気持ち、つまり自分の思い通りにならないと言うことです。

漠然と「苦しい」と感じているのと比べれば、「おもうがままにならない」ことが苦しいのであると分かれば対象がしぼりやすいというものです。

苦しさが嫌なら「おもうがまま」にしようとしていることを見つけて、おもうがままにしようとするのをやめればいいだけです。

いいかえれば、「おもうがまま」の代わりに「あるがまま」を受け入れるということです。

ことは非常に単純なのです。

ですが単純ではあっても、こんなことを言われても、聞いた次の瞬間には忘れてしまうのが実状でしょう。

まさに、右から左へ抜けて言ってしまいます。

そのくらい「おもうがまま」にしたいという欲求は強いのです。

「おもうがままにしたいと思って何が悪い、自分の願いがかなわなくて何が楽しいのだ」と考えてしまうのが普通だからです。

ためいき3


またもう一方では「あるがまま」など退屈で何が楽しいんだという思い込みがあります。

「あるがまま」とは現状維持であり、「おもうがまま」にしたいと思うから生きがいもあるし、進歩があるんだとでも言いたいわけです。

ですが、「あるがまま」というのは、実は「無常」である世界です。
「無常」であるとは、常に変化して同じ状態でいることはないという意味です。

ですから、実際は常に変化していて退屈するほど変化しないわけではないのですが、私たちはもっと刺激的な変化を求めてしまうのです。

自分の望むような変化が、向こうからやってきてくれれば嬉しいと思うわけです。

「あるがまま」など退屈であるというのは、多分に思い込みもあるのでしょう。

現実はよく見ていれば、そんなに退屈なものではありません。

変化をしっかりと見ようとしないで、刺激的な変化ばかり予想しているから期待が外れてしまうのです。

刺激的な変化ばかりに反応していると、自分の内面や身体の反応に対して鈍感になってしまいます。
どんどん毎日の繰り返しの中で起きている変化に気づかなくなっていきます。

もっと強い刺激がないと、満足しなくなってしまう結果、外側に刺激を見つけることしか方法を見いださなくなってしまうのです。

電話集中で混乱


またそれとは逆に、私たちは時には平穏な日々をのんびりと生きたいと願ったりします。

しかしその気になればいくらでもその機会はあるのに、他の事で忙しく動き回ってそれを台無しにしているのです。

空白の時間が出来ると、すぐにスケジュールを組み込んで、ゆったりした時間を消し去ってしまいます。

何もない時間があると自分と向き合うことになるのが嫌で、それを避けてしまうのかもしれません。

いつも通りに、次は何をする時間だと決まっていないと不安になったりするのです。

鳩にえさ

このあたりは、習慣ですから、自分と向き合う何もしない時間を作ろうと思えば出来るはずです。

そうすれば、「あるがまま」は刺激的ではないにしても常に変化していることがわかるし、見るつもりになれば今まで経験しなかったような充実した時間をもたらしてくれるのがわかります。

作られた刺激など退屈なものでしかないというのは、実は私たちも承知しているのです。
だから常に新しい、もっと刺激的なものを求め続けるという悪循環に陥るのです。

静かに自分と向き合う時間を作れば、お仕着せの楽しみで過ごした時間と比べてみて、どちらがあとから充実感を感じるかが分かるでしょう。

ところで先程の「おもうがままにしたいと思って何が悪い、自分の願いがかなわなくて何が楽しいのだ」という点に戻って考えてみましょう。

その願いが実現可能なものであるなら、願いがかなって欲しいと思うこと自体は問題ありません。

しかし、「おもうがままにしたい」ということと「願いをかなえたい」と言うことを一緒くたにするのは、あまりにも荒っぽいすり替えです。

「必要なものを望みなさい、しかし欲しいものを望んではいけない」という言葉があります。

本当に必要なことを願うのはいいのですが、欲しいと思ったからそれが「私の願い」だと安易に考えると、欲望のとりこ状態になってしまいます。

欲望のとりこになると、何かを手に入れるたびに、次の新しいものが欲しいという悪循環になってしまいます。
欲を満たしたいという思いを維持するための新しい欲がつくられ続けるのです。

このような「欲しい」と「必要である」は区別しなければなりません。

その欲しいものが手にはいらないと何が起きるのでしょうか?
この質問を出発点までたどっていって現実的に判断すれば、その違いは見えてくるでしょう。

次に「おもうがまま」にしたいといっても、自分の側ですべて解決できるわけではありません。
他の人や状況までをコントロールすることは出来ません。

自分で出来ることは「おもうがまま」やればいいですが、自分で変えられないことは受け入れるしかありません。

例えば、嫌いな人に会いたくないのなら、会わない選択をすればいいのです。
他の人がそうしているからという理由で、自分まで付き合う必要はありません。

しかし、たとえば仕事の都合で会うしかないとなれば、もう抵抗するのをきっぱりやめてしまうことです。

いくら嫌いな人でも、ひとつぐらいはいいことが見つかるだろうとか、焦点をチョットずらしてただ会うことにすればいいのです。
あとは起きるにまかせることです。

男の子悩む


ものごとの価値は相対的なものです。
絶対的にマイナスなことやプラスなことはありません。

それに嫌だと思っていても、会ってみれば思わぬいいことが見つかるかも知れないのです。

実は避けるための可能性を探すことは、期待を持ってしまう分出来なかったときのダメージがより大きくなります。

だから、いつまでも考えてないで、きっぱり諦めた方がまだましなのです。

たとえ後から回避策を発見したとしてもいいじゃないですか。
そんなことより、さっさと済ませた方が問題はややこしくならないのです。

避けるための可能性を探しつづけていることは、現実逃避です。
「一生懸命になっていることで、少なくとも努力はしているんだ」というごまかしをやらないことです。
断念することも積極的な選択です。

現実は怖いものではないのです。
逃げ道のあるときだけ恐怖が存在します。

苦から解放されるために「おもうがまま」にこだわらずに「あるがまま」にしたがってみましょう。


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決断すること

「わたしは決断するのに時間がかかる」「決断することに自信が持てない」と悩んでいる人は意外と多いかもしれません。

あの人は決断力がなくてなかなか決められないとか、自分は決断が遅いので悩んでいるとか言った具合です。

社会的には、決断が早いことは、決断できないより望ましいと考える場合が多いでしょう。

では決断に自信が持てないとはどういうことでしょうか?

あるいは、決断とは実際何をしていることなのでしょうか。

決断という一つの言葉で表される現象(あえて行為と言わずに)には、大きく言えば2つに別れます。

(A)これから決断しようと構えてから、決定すること。
(B)結果的に何かを選んでいたことに気づき、それを自分が選んだのだと説明すること。

クラブを選ぶ


一般には、Aのことを決断だと考えていますが、Bについても他の人に訊かれれば自分の決断であると言わざるを得なくなります。

このような事情があるなかで、「(C)自分が決断したことに責任を持つ」という考えを取り入れようとすると、実は混乱や困惑が発生してくるのです。

Cを認めることは、Bによって選んだことも自分の責任であると認めなければなりません。

しかし、結果的に自分が選んだことになるけれど、それに責任を持てと言われても困る場合もあるでしょう。

自分としては、大して理由もなく選んだことに対して、「それを選んだ理由は何ですか?」と訊かれても困るというものです。

四六時中、自分の責任を突きつけられたのでは、堪ったものではありません。

一方で、「自分は決断力がある」、「自分は決断が早い」ことを自己イメージにしていて、中にはそれを誇っているという人もいるでしょう。

それを見て決断がなかなか出来ない人は、「自分もあんな風に決断力をあったら」と悩む人もいるのです。

ところで、「決断とは実際何をしていることなのでしょうか」という点に戻りましょう。

その状況に置かれたあなたは、あれかこれかを選択します。

これがあなたが出来るすべてです。

その後の結果は、あなたの思ったとおりになるかも知れませんし、そうでないかも知れません。

結果や、他の人の行動までコントロールすることは出来ません。

また自分の考えですら、いつもあなたの思うとおりではないでしょう。
「何でこんなことをしてしまったんだろう」これこそが、後悔という言葉の意味です。

あなたは、さまざまな環境からの条件付けによって、自分の選択すら左右されています。

そんな不完全な自由意志の中で、「私の決断」が行われているわけです。

そのように考えれば、AかBかは、それほど明確なものではないことが分かると思います。

また「私が自分で決断した」という言葉は、100%あなたの意志であるとは言い難いのです。

決断とはそういうものでしかないと考えれば、あれこれどちらにするか迷うことはあまり意味がないことに思えます。

迷っているという状態もまた、あなた次第で起きていることなのです。

あなたが迷うことをやめようと考えを修正すれば、途中まで考えたら後は起きるにまかせようとあずけてしまうことも出来る様になります。

考える博士


どのような言葉で表現しようと、決断が早い人が行っているのはそういうことです。
決断の早い人だけ、特別に未来が見通せたり、コントロール出来ることが違っているわけではありません。

いつまで考え続けても、100%結果を保証する方法は見つかりません。

自分なりに、ここで考えはストップと決めてしまうきっかけになるものを見つけてみるのです。

それは言葉では表しにくいことかもしれません。

この程度の予想がついたら、あとはおまかせにする習慣を作り出してみるのです。

ところで、最近は「自己責任」という言葉がよく使われます。

「自分で選択する自由を与えます、だから責任も自分でとりなさい」ということです。

一見非常に妥当な考えに思えます。

しかしそれには、誰であろうと同じだけの決定能力に恵まれていることが前提になります。

また、自分で判断しやすいこと、自信のないことは人それぞれ違います。
それでも、「自己責任」という言葉は、それを考慮してくれません。

「自主性にまかせて、とことんやらせてみる」
これが正しい場合もあるでしょうが、いつでも正しいとまでは言えません。

この考えが進みすぎると、結果が出るまで口出ししないでおこうという考え方になります。

しかし、それは時に両者にとって不快感で終わらせる交流を生み出します。

叱る母親


エリック・バーンが「さあ、つかまえたぞこの野郎」と呼んだゲームの交流です。

この原型は、このようなものです。
子どもが母親にわざとしかられるような行動をとって挑発します。
母親は挑発されているのを半分気づきながら我慢を続け、最後は「さあ、つかまえたぞこの野郎」と怒鳴るに至るのです。

口出しするのはよくない、すべて「自己責任」だというもっともな考えに後押しされて、相手が失敗しそうな気配を感じながらも、おせっかいをやかずに待ち続ける。

結果が失敗に終わると、「やっぱりダメじゃないか」と非難する側に廻るのです。

最近はこのようなことをやって、結局誰もいい思いをしないという社会になっていないだろうかと思ってしまいます。

おせっかいだと言われようと、相手が失敗する前に口をはさむような人が、以前より少なくなっているのではないかと感じるのです。

「やっぱりダメじゃないか」と後から指摘しても、誰もハッピーにはならないのです。

そして、そんな社会だと人は自分で決断することがだんだん困難になります。
その結果、外部に決断の拠り所を探したくなるのです。

情報だけは、とんでもなく豊富になりましたが、余計に自分の拠り所は見つけるのが難しくなります。
自分に頼ることを思い出さないと、情報の渦に巻き込まれてしまいます。


ちょっと話がそれてしまいましたが、決断することとは、言葉が表すほど自由な決定力は誰も持っていないのです。

やってみないと分からないのが現実です。
自分ならそれが分かるというような人に惑わされずに、現実を自分で見ることです。

どこで考えるのをストップして行動するか、すこし違った見方で考えてみてはいかがでしょうか。



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時間って、どういうの?(無分別智)

僕が仕事をはじめるとさっき昼寝についたはずの息子がニンジャの格好で部屋に入ってきて、
「ねえ、パパ、時間って、どういうの?」
と言ったのだが、僕は書きかけの分の残りの数語を書ききるまで答えなかった。
--------
「時間っていうのもね、はじめは小さな種だったんだ。
小さな小さな種だったのが、だんだんだんだん大きくなって、もっともっと大きくなって、気がつくとものすごく大きくなってて、その中にクイちゃんもパパも美紗ちゃんもおばあちゃんも、みーんな入っちゃってて??」
--------
「その小さい小さい種がだんだんだんだん大きくなっていって、そのうちに中で地球やアンドロメダができて、ポルトガルやニューカレドニアができて、クイちゃんのおばあちゃんのおばあちゃんが生まれて、パパや美紗ちゃんが生まれて、はじめは赤ちゃんだったのが大きくなって、クイちゃんが生まれて、今のクイちゃんやパパや美紗ちゃんになって、これからもどんどんどんどんみんながこの中で大きくなっていく------っていう、これはそういうものなんだ。
 これが、さっきクイちゃんがパパに訊いた時間なんだ。この中でクイちゃんの知ってるものがぜーんぶ生まれて、育って、大きくなっていくの。時間っていうのは、そういうものなんだよ」
 と、ここまで説明するともう息子はパナンパやピナンパにはこだわらないはずだった。自分の考えていたのはただの大きさのことで、今パパである僕がしゃべっているのはそれが”生まれ育つ”ことだということが、どうも次元の違うことなんだということが感じられれば自分の発明にこだわらなくなるもので、息子は、
「見えるの?」
と言った。
「風は見えないだろ?
気持ちも見えないだろ?
あっても見えないものって、たくさんあるだろ?
時間もみえない---」
「わかった」と言って息子は立ち上がった。
「またどっか行くのか?」
「うん」

季節の記憶 (中公文庫) 保坂 和志 / 中央公論新社 / 1999-09


このクイちゃんと父親の会話は、保坂和志さんの「季節の記憶」の冒頭部分から抜粋したものです。

この作品の中に、これから書く内容が出てくるわけではないのですが、こどもが自分の知らない次元を理解しようとするところからヒントを得て、思いついたことを書いてみようと思います。

なお、作品では省略した部分で、パナンパやピナンパについてのおもしろい会話が出てくるのですが、長くなるので割愛させていただきました。

そのなかで、クイちゃんは美紗ちゃんとの大きいもの言いっこゲームで、ピナンパという何よりも大きいものを考え出します。

パパに世界のすべて入ったパナンパの絵を描かせ、それの周りを囲むことで一番大きいものを作り出そうとします。

ガッツポーズ男の子


クイちゃんは、縦と横に広がる平面の世界で、一番大きいものを考えますが、その中には「時間」は含まれていません。

時間は、別の次元、言ってみれば垂直の軸を考えないといけません。
縦と横に、限りなく広げても、時間は表せません。

平面的にはそれ以上広がらない世界の限界は、時間という次元を取り入れることで、平面的には変わらないまま、"生まれ育つ"という別の次元での変化をみることが出来ます。

現状に行き詰まって、これ以上どうしようもなくなったとき、新しい垂直軸をとりいれることで世界は変えられます。

平面的には、何も変わらなくて、もうこれ以上何も出来ないとき、ただ何もせず待つことで育つという働きが生まれます。

何もしないでいいのです、そして何もできず、ただ変化するのを受け入れます。

こどもは、いくら考えてもわからなくなると、お父さんやお母さんに訊いてみようと思うかも知れません。

お父さんなら、自分の知らない世界を見せてくれるだろうと考えるのです。

それは、自分の平面しか知らない世界から、垂直軸を取り入れるようなものです。

そして、そこには自分の知らない世界を誰かに教わろうとする素直さがあることが必要です。

自分の知らない、次元の異なる解決です。

親子会話


私たちも、いくら考えてもわからず、これ以上打つ手がなくなったとき、思考の平面の世界から別の次元の解決を期待したくなるのです。

しかしそれには、思考がもたらした「分別智」の世界では、もうどうしようもないとあきらめることが必要です。

諦めないうちは、何か思いつけば、また「分別智」を再開して解決しようとし始めるからです。

どうにもならないと諦めて、次元の違う「無分別智」にあずけようと考えられたとき、初めて「分別智」を手放すことが出来るのかも知れません。

「そうだこの発想に変えれば、新しい打開策が生まれるかも知れない」、そう考えている間は、次元の違う解決は望めません。

「でも他に考えようがないじゃないか」というのはまだ「分別智」にこだわっています。

それを諦めて、お手上げだと認めるまで抜け出すことが出来ません。

「分別智」からの判断者でいることをやめられないのが、思考というものの仕組みなのです。

クイちゃんがパパに「時間って、どういうの?」と別次元の知恵を期待したように、素直にまかせる気になったとき、新しい次元が見えてくるものかも知れません。


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こころのゆとりとは

毎日何時間もパソコンに向かって作業しています。

検索エンジンを利用すれば、目的の情報はおもしろいように手に入ります。
必要な情報のみを取り出して、さらに調べていくことも出来ます。
実に効率のいい世の中になったものです。

しかし、目的を追求することは、目的に合わないものを容赦なく切り捨てていくことです。
ときどき、そのようなやり方に、余裕のなさを感じて、関係ないことを調べて見たくなります。

少し前に、パソコンソフトの講習を行うための講座を受けたことがあります。
有名なソフトを使いこなすやり方を教えるのですが、やはりそこにはそのソフトの検定試験というものがあるわけです。

そのような講座を受講する人の中には、当然ながら検定試験を目指すという人が、多く含まれます。

検定試験は、そのソフトを使いこなすことが目的に作られていますが、そこでは最短の手順で、一番効率よく使えることが正解になります。

試験というものの宿命かも知れませんが、個性的なソフトの使い方など評価されず、ソフトの構造に忠実に従って、最も効率のいい模範的な手順を覚えないといけないのです。

「どうして、誰かの考えたメニュー階層に従って使わないといけないんだ!」
わたしは、こんな反発を感じてしまいました。
ソフトの開発をやっていた人間だからの偏見があるのかも知れませんが。

しかも、バージョンアップするたびに、気まぐれにメニューの構成が変わったりするのです。
そのたびに、お金を払って試験を受けて、お金を儲けるそのソフト会社に忠誠を誓わないといけない仕組みなのです。

最短の手順で効率よく目的を達成する、もちろんその意義は認めますが、なにか釈然としないものを感じてしまいます。

別にソフトなど、自分のやり方で使いこなせばいいだろうと思ってしまうのですが。

おそらく、ここで感じる反発とは、「自分のやり方」に価値がなく「模範解答」が正解というところや、目的へ最短距離が価値があるというところにあるのだと思います。

桜の花


徒然草にこんな話があります。

 こういういなか者が賀茂の祭を見るときはみっともないね、「行列がおくれている。くるまでは桟敷にいることはないぞ。」といって、奥の間で食べたり酒を飲みながら囲碁・双六の遊びにふけり、桟敷には見張りをおいて、「行列がきた。」ときくと、大さわぎで先をあらそって桟敷へ上がり、落ちそうになるまですだれを押しだして、おしあいへしあい、すべてを見落とすまいと見物し、「ああだ、こうだ。」と批評して、行列が終われば、「またつぎの行列がくるまでおくにいよう。」とひっこんでしまう。
 こういう連中は行列そのものだけを見ようとし、その前後の雰囲気をあじわおうとしない。

徒然草 第百三十七段より



兼好は、無粋な人間は、いなか者と見なしていたのは、おもしろいですね。

「目的だけをゲットしたい」、少なくとも兼好はこういう風情のなさを嫌ったわけですし、目的の合間にあるものに価値を見いだしていたようです。

「目標まで最短距離」を売り文句にしたがる社会ですが、そんな中に生きる私たちも、いなか者になってしまいたくないと思うのです。

そして、目的の合間に潜む大事なものをなくしてしまいたくないものです。


最後に口直しに、同じ段から引用してみましょう。

夢見る女性2


 すべてのことは、まっさかりよりも、始めと終わりがいいんだね。男女の恋も、その恋がうまくいくことだけがいいのではない。恋がうまくいかないつらさを味わい、長続きしなかった恋をなげいたり、長い秋をひとりさびしく過ごしたりさ、遠くはなれている恋人を恋しく思ったり、あるいは草がしげり荒れはてた家で、むかしあった恋人のことを思いだしたりね、そういうことのほうがしみじみといいんですよ。

徒然草 第百三十七段より



「引用」
徒然草・方丈記 (少年少女古典文学館) 嵐山 光三郎 三木 卓 講談社 / 1992-04-09




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偽霊能力者カルロス(人は信じたいものを信じる)

「『偽霊能力者カルロス』オーストラリア国民が信じた究極のヤラセ番組!」という番組がありました。(ザ・ベストハウス123

1988年にオーストラリアで放送された「やらせ番組」ですが、番組プロデューサーが仕掛けを最後まで明かさず、国民全部を騙すという大がかりなものだったようです。

長年続いている信頼のある報道番組が、この嘘番組を放送したものですから、国民はすっかり騙されてしまいました。
霊能力者カルロスは本物だとみんなが信じ込みました。

番組では「サクラ」を仕込んでいるので、初めてあった人間の誰も知らない秘密を、カルロスが霊能力で読み取ったと信じ込みます。

「カルロスは本物だ!私は身体でそう感じたよ!」と言い出す人が続々と現れます。

仮面2


番組ではまた「脈を止める」というテクニックを使ったりします。
サクラではない本物の看護士に脈をとらせて、本当に脈が止まるのを確認させるのです。
これは、実はやり方を知っていれば、簡単にできてしまうテクニックなんだそうです。

最後の仕上げでは、他番組のプロデューサーに、カルロスが偽者だと追及させる「やらせ番組」企画をするようにけしかけます。
カルロスとマネジャーが、偽物扱いされて、ついにキレてコップの水を司会者に引っかけて、スタジオを引き揚げる場面を作りあげました。

これは、逆にカルロスを本物だと信じてやまない人と、疑う人を対立させ、議論を盛りあげてしまいます。
もはや、ただ偽物扱いしたぐらいでは、信じるのをやめない人達を生み出します。

そして最後は番組で、オーストラリアの国民にたいして、これまで番組でやってきたことはすべてトリックであったと告白します。

番組へは当然、非難が集中しますが、「すぐにわかるウソばかりであって、騙されたマスコミこそ非難されるべきでは?」と反論しかわします。

実は、この番組でカルロスを信じた人の中には、番組がインチキだと知らされても、「いやカルロスは本物だ」と信じるのをやめない人がいたそうです。

この番組が明らかにしてくれた、人間の心理というものを考えてみましょう。

なぜ「カルロスを信じたかった」のでしょう。

私たちは、毎日不満こそいっぱいあるのに、退屈きわまりない日常に飽き飽きしています。

こんな時、偽物ばかりの霊能力者を見慣れてうんざりしているところに、「今回は本物かも知れない」という期待を見せられると、冷静な判断など重要なことではなくなって飛びついてしまうのです。

うんざりした日常に、新しい世界の可能性を見せてくれたのですから、この楽しみを奪おうとする反対者などは邪魔者なんです。

つまり「信じたい」という密かな欲求があるとき、刺激的な情報に対して、人は容易に冷静さをなくして信じたいものを信じてしまうのです。

つまらない日常に逆戻りするよりは、ついに期待するものが現れたと信じる方が、その人にとっては利益があるのです。

これを信じていれば、少しはワクワクしながら日々を送れるというわけなのです。

このことからも解るように、私たちは、決して「ありのまま」にものごとを見ているわけではなく、私が信じたいように世界を作りあげています。

夢見る女性


私の世界とは、見たとおりではなくて、私の期待や必要性によって歪められた世界なのです。

何か新しい現実を見せられると、自分の世界にそれを配置します。

自分の世界の中で、配置しようとする場所が狭い場合は、現実の方を小さく縮めて配置します。

自分の関心の高いものは、より前景に配置され、関心や必要度の低いものは遠くの方に押し込めてしまいます。

ただこれは、判断が間違っているから歪められるというよりも、それなりの必要もあってやっていることなのでしょう。

つまり、私たちは現実に生活していく中で、何か新しいものに出会っても、じっくり、ありのままに見ながら時間をかけて取り入れている時間はないのです。

すぐに判定して、どう行動するかを決める必要がでてくるわけですね。

ですから過去の経験から似通ったものを思い出して、それと同類だと判断する方が、現実的で実用的であるという事情が、そこにはあるわけです。

言ってみれば、バカだから騙されるのではなく、人間の心理とはそういうものなのです。

だからこそ、時には「ありのまま」にものごとをみるという「修正」を行う習慣を付けた方がいいと言えます。

ところで、インターネットの時代になったことも大きく関係しているのでしょうが、今や具体的な物ではなく、情報そのものが販売される時代になってきています。

具体的な製造物が商品だった時代には、先に物があって、それを売るというのが常識でした。

それは、いくら必要が出てきても、何かを作るにはそれを作り出す環境(工場とか)も必要だし、だれでも作れるというわけには、いかなかったからです。

しかし、商品が情報となったとき、事情は大きく変わります。

物が先にあって、それを販売するのではなく、先にどんな情報が必要かを調べて、それを売り出すという順序も可能になります。

あるいは、情報を操作することで、「あなたに今必要なのはこの情報です」というように、受容を簡単に作り出すことが可能になってしまいます。

具体的な製品でも、もちろん需要を作り出す操作はあるでしょうが、それでも自分が実際に使うかどうかは、まだ判断しやすいわけです。

ところが、情報が商品になってしまうと本当に必要なものなのかどうかは、考えてもわからない、という場合も少なくありません。

多くの人がそれを使っていると聞かされると、自分だけ乗り遅れては大変と考えてしまうのも、仕方がない面もあるのです。

夢見る男性


ですから、あなたが現実よりも、信じたいと思うものを追求し続けていると、周りの情報に惑わされて、現実離れしたところに連れて行かれる可能性があるのです。

やっと私の信じたいと思っていたことがかなう時代になったと喜んでいても、実際にはあなたの信じたい気持ちが先なのか、そのように信じ込まされたのかは判断が難しいのです。

信じたい人が多いから製品が生まれるのか、製品を仕掛ける人がいるから需要が作り出されるのか、どちらが先とも言えなくなります。

私が本当に必要なものは何か、しっかり自分で捉えておかないと、ますます自分がわからなくなってしまうのです。

私にとって信じたいのは、私の世界と現実が一致してくれることにあるのです。
ですから実は、私の世界と結びつかないのなら、そのもの自体には価値はないのです。

人はいったん「私の○○」と言い出してしまうと、道理は引っ込むわけです。

そんな私の世界にとらわれてばかりいると、本当に必要なものが見えなくなってしまいます。

外にばかり情報を求めずに、自分の内面を振り返ることが、ますます必要な時代であると言えるのです。

作られた需要に惑わされないで、あなたの空腹感は、あなた自身で感じることが必要なのです。

どこかに自分の知らない秘密があるなどと信じないことです。
あなたの正直に感じること以上に重要なことなどないはずです。


人の意見にばかり従っていると、いつのまにか「自分の判断は大したことがないんだ」と思い込むようになってしまいます。

自分の欲しいものを、他の人の口から言わせないと決めて行動してみましょう。

そうすれば、あなたにとっての、本当に欲しいものが見つかるでしょう。


そして、必要のないものは手放そうという決心もつくようになります。



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自分に許可を与える

チャーリー・ブラウン

「朝、今日もマヌケなことを、絶対やりそうだって思いながら、目が覚めることってあるよね」

「そこで、朝ごはんを食べに、キッチンへ行って...」

「パンケーキを食べてるんじゃないってことをうっかり忘れて、コーンフレークにパンケーキのシロップをかけちゃうんだ...」

「とにかくマヌケなことが、ひとつ終了すれば、一応ホッとする!」



お手上げの子供


チャーリー・ブラウンとは逆に、自分になにか素晴らしいことが起きそうな期待がある、そう思った瞬間、ついついそれを躊躇してしまっていることはないでしょうか。

「あまりいいことが起こると、そのあと悪いことが待っているんじゃないか」とか、妙に疑いを感じてみたりします。

あるいは、そこまで行かなくても、チャーリー・ブラウンのように、間抜けな失敗をしてしまうことで、何かこんなものだと落ち着いてしまう。

あまりいい気分になると、悪いことが起きる様な気がしてしまう。

これらは、別に根拠があってそのように考えているわけではなく、自分の気分の習性といったものがもたらすものです。

例えば、子どもの頃、家の中で夢中になってはしゃいでいると、「うるさい!」だとか「危ないから、やめなさい!」など突然、親から叱られることを経験していないでしょうか。

親の様子を見ていて、「これ以上やると叱られそうだな」と予想している場合はいいのですが、親の気分はこどもには責任を持てませんから、突然カミナリを落とされたりしてしまうのは、防御しようがありません。

このような、状況と気分、感情がセットになっていて、それが呼び覚まされると、大人になってからも、こんなにうまくいって喜んでいると、何か起こるのではないかと思わせてしまうのです。

このような、子どもの頃に身につけてしまった、おなじみの感情(その多くは不快な感情である)は、ふとしたきっかけで蘇って、いまここでの現実をそのまま見るかわりに、その感情とセットとなっている状況を再現しようとします。

エリック・バーンは、このような感情をラケットと呼んで、その状況を作り出すような、現実の替わりに行う人とのやりとりをゲームと呼んでいます。
ここでは、それについては、深く触れませんが、興味のある方は、「交流分析」、「ゲーム」などを調べて見るといいでしょう。

次にラケットとは、「今?ここ」を考えるA(Adult)の思考よりも、子供のころに形成した脚本による行動である。そしてこの行動は、ラケット感情(幼い頃に感じ慣れた感情)を体験し、現状起こっていることを内部的に正当化するために、(1)実際の問題の解決というより、脚本に行動をあわせるために環境を操作する、(2)埋め込まれているゴールは、問題を解決するためにはさほど良く働かない、といえる。

ラケットは、子供の頃に経験した感情による行動を取り、一般的に、それらは苦しいと感じているにも関わらず、意識の外で起こるものであり、また誰かのせいで発生したと思われている。そして、その報酬は、子供の頃からの脚本である「人々はいつもボクを失望させる」という証明になり続け、いっそうその考えを強くしていくのである。 つまりラケットとゲームとは、ある環境で得たラケット感情を正当化するために使われる装置であり、結果、子供の頃の脚本はより強固なものになるといえる。
交流分析 - Wikipedia


要するに、私たちは、いまここでの、変わりつつある現実を、ありのままに見て反応する普通の行動以外にも、過去の記憶に縛られて、おなじみの感情と状況を再現してしまうような行動を、無意識のうちに行ってしまうのです。

その結果、待っている現実は、「やっぱり私は○○な状況に陥ってしまうんだ」ということを証明することになり、慣れ親しんだいやな感情に浸ることになってしまいます。

チャーリー・ブラウンは、このことを意識していたようですが、「とにかくマヌケなことが、ひとつ終了すれば、一応ホッとする!」という結末を向かえるのです。

うつむく


しかし、肝心なことは、脚本にしろ、過去の記憶にしろ、今存在するものではないので、これらにとらわれずに、現在の出来事に沿って行動することを取り戻した方がいいわけです。

それには、このような自動的な感情のセットに自分で気づくことが、必要になります。

その気になれば、「自分がどういう感情でいることが多いか」を知るのは難しくないはずです。

現実でなく、代理の偽物の交流を選ぶのをやめて、自分の今の判断を信じてもいいのだという許可を与えることで、本物の感情や行動を取り戻せます。

「今日もマヌケなことを、絶対やりそう」というのは、過去の筋書きであって、自分はもうそれに従う必要はないと宣言することです。

それから、注意したいのは、このような「許し」は、楽しい気持ちが似合っています。

深刻に、「過去の亡霊を退治する」というように振りかぶってしまうと、逆に罠にはまってしまいます。

悩むことの悪循環の原因、そのひとつは、深刻なまま解決を探してしまうことです。

深刻さは、悩みの原因のメンバーですらあります。

気楽な気持ちで、「なんだ、過去のパターンに引きずられただけじゃないか!」という感じで軽く扱うのが、うまく脱出するコツではないかと思います。

また、「自分には過去のトラウマがあるから、うまくいかないんだ」とか、「自分には特別な事情があるんだ」などと言い訳するのは、逆効果でしかありません。
大事なのは、いまの自分の決意なのです。

ルーシー(大声でさけぶ):
「ワァーン!」
バイオレット:
「ルーシー、いったいどうしたの?私に何かできて?」
ルーシー:
「いいの、バイオレット...シクシク。あなたには、どうしようもないわ...」
ルーシー(得意げに):
「私の問題は、根が深いの!」



女の子思案


ルーシーの最後の言葉は、「何もやっても自分の深刻な心の問題は解決できない」と宣言することにより、自分の生き方を変えることの不安や感情に向き合うことを避けることが出来るのです。
自分が変わろうと決心しない限り、ルーシーは変化を避け続けることになります。


おなじみの感情には、耳を貸さずに、有無を言わせず却下してしまうことです。
自分自身に、選択する許可を与えましょう。

「こんな気分なのに、そんなこと出来ないよ」と思わないことです。

決断するのに、1秒もかかりませんし、時間をかけてはいけません。
スイッチオフで終わり、それ以上でもそれ以下でもありません。

美しい夕陽など見ている暇はないと思うなら、
考え直してほしい。

夕陽を一番見なければならないのは、
その暇がないときだ。


『今日が楽しくなる魔法の言葉』
アーニー・J・ゼリンスキー / ダイヤモンド社 / 2003-09-20




「参考」
『いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント』
エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02



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莫妄想(まくもうぞう)

禅でいわれる「莫妄想(まくもうぞう)」とは、「妄想(もうぞう)する莫(な)かれ」ということです。

さてこの「妄想(もうぞう)」ですが、一般に言う妄想とは、読み方も違いますが、その意味合いも異なります。

一般に言う妄想とは「根拠もなくあれこれと想像すること」といった意味で、主観的に根拠のないことを真実であるかのように思い込む状態や、その想像している内容のことを言いますね。

禅語でいう「妄想(もうぞう)」の方は、相対的で2元対立すること、たとえば善と悪とか、正しいと間違いのようなことに対して、片方にとらわれてしまうことを言うようです。

つまり、私は正しいと思い込むとか、自分は善人で、あの人は悪人だとか思ってとらわれてしまうことです。

僕が正しい


私たちはこの妄想から自由とはいいがたいものですが、しかしだからといって、いつでも妄想にとらわれているわけではありません。

そのように思い込んでいるかも知れませんが、「私は正しい」と思っている人も、一日中その様な状態に入り込んでいるわけではありません。

おそらく調べて見れば、そんなことにとらわれずに、ニュートラルに何も考えずに行動している時間の方が多いのではないでしょうか。

「わたしはダメな人間だ」とか「私は悪い人間だ」と思い込んでしまう人がいますが、そのような場合も、実際にそのように感じるのは、自分がその妄想に入り込んで意識して生きている時間だけなのです。

その他の時間には、そんな妄想とはかかわりなく、ただ生きていることには気がつかないので、自分はすべてダメなことをしているように思い込んでしまいます。

そもそも妄想以外の時間には、それに当てはまらない行動をとっていることも、忘れているのです。

逆に「わたしはいつでも正しい」と自信ありげに主張する人も、自分が気づいていないときには、そんなルールで生きているわけではありません。

自分は正しいことだけやっていると思い込んでいると、他の人から矛盾を指摘されて、初めてそれに気づいて、慌てふためいてしまうのです。

雨とカエル


妄想に入り込むのをやめて、どうせすべてを自分のルール通りには生きていないのだから、と割り切ってしまえば、自己矛盾に悩むこともなくなります。

そんな無責任なことは出来ないと、言いたくなる人は、自分がすべて自分で決めたとおりに行動していると、妄想の中に入り込んでいるのです。

社会的な責任が絡む場合は別として、なにもかも自分で仕切っていこうなどと考えない方がいいでしょう。
どうせ、出来ていませんから。

「莫妄想」ということを、普段からちょっと思い起こすようにすれば、自己欺瞞に陥らないでいられます。

「妄想」に走りすぎる人というのは、どちらにしてもまわりの人は扱いに困ってしまいます。

大事なのは、妄想していない時間、おそらくそちらの方が自分を生きている時間なのだから。


望みどおりにならなくても、
失望してはならない。
叶えられなかったすべての望み以上に、
良いことが起きているはずだ。

それが何なのか、探してみるといい。


『今日が楽しくなる魔法の言葉』
アーニー・J・ゼリンスキー / ダイヤモンド社 / 2003-09-20




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入門 私のものとは

もうすぐこのブログを始めてから1年が経過しますが、焦点が曖昧なままスタートして、あまり基本的な部分は書いてこなかったような気がします。

自我だとかエゴだとか話題にして、一体何がおもしろいいの?と思う方もいらっしゃるかも知れませんし、「私には聖人君子の話は興味ないわ」という方もいらっしゃるでしょう。

そもそも自我とか無為を考えて、何のメリットがあるのでしょうか。

では、まず自我とはいつ生まれてくるのでしょうか。

自我とは、私が私であると自分でわかることです。

乳児期のこどもにとっては、自分も母親も、あるいは周りにあるものもすべて、自分と一体であって私というものはないのだろうと考えられます。

やがて、不快な感じがする自分の身体のことや、何か自分に心地いいものを与えてくれる存在がいるようだと区別し始めるます。

私が私であることは、他者の存在を抜きにしては存在できないのではないかと、考えられています。

ともかく、徐々に私というもの、私の身体というもの、身近な存在である母親や父親といった他者が存在することを認識し始めます。

すべてが自分そのものだった世界から、私と他者の分裂が始まります。

やがて、私は「私のおもちゃ」といった所有を始めることで、自我は拡大します。
「私のもの」は、他者に奪われると、嫌な気分になり泣き出します。

自分の依存する人(母親など)の存在も徐々に認識してきます。

赤ちゃん1


いつも側にいてくれると思っていた、依存する他者は、時には自分のそばにいなくなることを発見します。

その不快感から、泣き出せば、また依存する存在が身近に来てくれることを学びます。

依存する存在を、なんとか自分の側にキープしておきたいという欲求が生まれてきます。

兄弟姉妹がいる場合は、自分の依存する人を他の人に奪われないようにしたいと、兄弟と競争することも生まれてきます。

その競争は、嫉妬やねたみの感情を生まれさせます。

やがて、保育園、幼稚園から学校に進むにつれて、一対一の関係以外にも、自分と複数の他者の関係が存在することも経験していきます。

物質的な私の所有物以外にも、「私の考え」というような抽象的な「私のもの」も集め始めます。

他者がと褒めてくれた自分を大事にし、けなされた自分を隠そうとします。

こうして、「私のもの」は私(自我)の一部分となっていきます。

赤い花


あなたは、赤い花を見て感動します。

あなたはその赤い花をどうやって自分のものにするのかを考え出します。
切り取って持って帰るか、写真に撮って保存しようとか考えます。

あなたがキープしたいと考え出した時、ありのままの出来事は自我の思考に切り替わってしまいます。

実際あなたが自我を働かせはじめると、ありのままに見ることをしなくなります。
ちょっと先まで歩けば、黄色い花が咲き乱れていることに、目を向けなくなってしまいます。

今手に入れた赤い花へのあなたの思考が忙しくて、目の前のものを見る余裕はなくなります。

キープしようとした時、そこには恐怖が生まれます。
自分が手に入れたものを、壊さないように、なくさないようにしなければなりません。

手に入れたものは取られたくないという執着が生まれます。


ほしいものは単純に手に入れられるとは限りません。
AとBが欲しい時、どちらかをあきらめなければならないかも知れません。

Aが1つしかないものなら、あなたは他の人より先に手に入れなければなりません。

どうしてもAとBが欲しいのに同時にはかなえられないものかもしれません。

他の人があなたの欲しいものを持っていれば、あなたはそれをねたみます。
それが他者への依存であれば、あなたは「やきもち」をやきます。

きれいな花を観賞できて、今日は楽しかったと満足して帰ることが、本当はよかったのかも知れません。

そうすれば、あなたは何もキープする苦労はないのです。
無くしてしまう苦痛を、恐怖を感じなくて済むのです。

キープしようと思う時、そこには未来が登場します。

いまここでの感動から、私(自我)が入り込んできた時、そこにはじめて未来が作られます。
ですから未来というのは、思考が作り出すものです。

思考が生まれない時、未来もなく、恐怖も発生してきません。

あなたは、本当は未来のことなんか考えたくないのです。

ものを所有することが、つまりは未来を作り出すということが、やっかいなものを背負い込むことであることを、あなたはうすうす感づいているのです。

いま、ここの感動をわざわざ犠牲にしてまで、未来を考えさせるのは、何であるのかを理解しましょう。



老子は言います。

『学を為す者は、日に日に肥やされていき、
 道を修める者は、日に日に損なわれていく。』

何を増やしたり、なくしたりするのか、小賢しい知恵であり、「私のもの」への執着です。

「私のもの」をどんどん手放せば、無為の境地に至るといいます。

それは別に、赤ん坊の時点まで戻ることではありません。
蓄えたものは、消えることはありません。

しかし「私のもの」への執着を手放すことなら出来ます。
そして、「私のもの」への執着を手放せば、それが作り出す苦悩から解放されます。

「私のもの」への執着とは、これが私だという自我の主張です。
これを手放すと、私が壊れてしまうといって抵抗します。


たとえば、あなたはいま何をほしいと考えているのでしょう。
いま持っているものに、もう一つ付け加えたいと思うのでしょうか。

それが欲しいのは、いままでせっせと蓄えてきた私の執着ではないでしょうか。

その私は、もはやさらに追加しないと、満足しないのです。
しかし、さらにもう一つ手に入れても、満足は一瞬だけのもので、さらに次が必要になるのです。
その自我を満足させるものは、さらなる刺激しかありません。

どこまで行っても、満足することはありません。

他人の評価

あなたは、誰を変えたいと思うのでしょう。

社会や家庭の中での、あなたの地位を守ろうとするのでしょうか。

そのために、あなたの主張が必要なんだと、そういうまっただ中にいたのでは、あなたには他の選択はなくなります。

引くに引けなくなったあなたは、さらに求めるしか方法がないと思い込んでいるのです。
いまのあなたの主張がなければ、何が起こるのでしょうか。

それは、本来あなたに必要だったものですか、それともあなたの自我が必要だといっているだけなのでしょうか。

いまの自我を守ろうとする限り、自由はありません。

自我に縛られる限り、「私のもの」を守ろうとする限り、本当に必要なものを見分ける選択すら出来ないのです。

自我を守ろうとするのは、実は自分の本心を欺くことにつながります。

女の子:
「ねえ、チャーリー・ブラウン。こんど盛大なパーティをひらくの。隣近所の人たち1人残らず招待するの。あなたを除いてね!」
チャーリー:
「気にしないよ!ボクの気持ちも傷つきやしないさ!」
去っていく女の子

チャーリー大声で:
「聞こえたかい?ボクの気持ちは傷つかないっていったんだぜ!!!」
チャーリー:
「大声でウソついちゃった!」



それでは、どうやって自我から解放されるのか。

老子は「私は三宝を大事にしている」といいます。

「慈」(人を愛すること)
自分から人を愛することで、人への依存を他者次第にしないでいられます。
人から求められることを欲しがる自我の、孤独への恐れを防止できます。

「倹」(必要でないものを欲しがらない)
必要でないものを求めないことで、「もっと」欲しいと言う自我の暴走をストップします。
また持っているものを失う事からくる恐れを、なくすことが出来ます。

「人の先に立たない」
人と競争をしないことで、自分のペースを維持できます。
今の地位を失うのではないか、という恐れから自由になれます。

ジョギング

思い切って、今しがみついているものを、放っておきましょう。

困ったことが起きるでしょうか。

それとも身軽になったあなたでも、問題なくやっていけることを発見するでしょうか。


参考
いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント
エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02




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逆鱗(ゲキリン)と解放の可能性

油断して相手の逆鱗に触れたことで、いっきに機嫌を損ねてしまったという経験は、誰しもおありでしょう。

いったん逆鱗に触れてしまうと、相手はそれまでとは一変して、そこから先には入らせないように、徹底してガードを固め、守るために反撃してくる事態になってしまいます。

逆鱗

「故事」
龍は、飼い慣らせば乗る事も出来る。
しかし、喉の下に、一尺の逆鱗があり、
これに触る者は、必ず、殺されてしまう。
同様に、君主にも、逆鱗というものがある。
主の逆鱗に触れなければ、遊説家は成功する。

「成語」
逆鱗とは、自我の根底にあるもの。
逆鱗までは、誰であろうと遡れるが、
逆鱗以上には、誰であろうと逆えない。
この前提が崩されると、自我が壊される。
誰でも、自我を守るため、必死に抵抗する。

哲学之道 - 故事成語 - 韓非子 第十四章より
http://www.nurs.or.jp/~academy/koji/kanpi14.htm



赤い龍


他人の逆鱗には触れない方がいいし、それを何とかするのは相手の問題です。

しかし、それが自分の逆鱗であれば、事情は違ってきます。

他人が触れるのとは違って、自分で探ってみるなら怖くはないのです。
なにが、自分の弱点になっているかを知ることは、大いに意義のあることです。

逆鱗は、それを非難されると自我を守りきれなくなるような、自我にとっては超えさせてはいけない砦です。

そこに踏み入ってしまうと、今の自分がすべて崩壊するのでは、と恐れてしまうわけです。

そのため、逆鱗は徐々にあなたの人格全体に影響を与えます。
その付近を避けて行動したり、思考したりするので、あなたの可能性を限定してしまうのです。

でもそれは、現在の自分が客観的に調べて見れば、どうってことのない場合が殆どです。

ただ、それは触れてはいけないもの、「パンドラの箱」だと思い込んで、封印して来ただけかも知れません。

他の人がさわるのでなく、あなた自身がそれを扱うなら、なんだこんなことだったのかと思うようなことが、その「おおもと」であったりするものです。

迷信を信じて怖がっていたのが、その始まりをたどってみれば、偶然や誰かの気まぐれに過ぎなかったというようなものです。

もし、その逆鱗をガードしなくていいとなれば、あなたには新しい選択ができるはずです。

こんなこと、自分には縁がないと思っていた世界が、そうか自分にも可能性があるんだと目の前に広がってきます。

いままで封印して来たジャンルにも、あなたは飛び込んでいけると信じられるようになります。

けが


けがをして傷が治らないうちに無茶をするのは感心しませんが、ある程度傷が癒えてきたなら、いつまでも腫れ物に触る様なことをしないで、自由に動くことが必要です。

リスクが低くなれば、自然と動き出すのが生きているということです。

いつまでも封印したままにしないで、自分の避けてきたことに向き合ってみましょう。

自分の逆鱗というのは、案外扱いやすいものです。
複雑に入り組んだコンプレックスではなく、シンプルな原因があなたを激昂させるとわかっているのですから、対象はハッキリしているわけです。

複雑な自分探しをするよりも、一気にあなたを変えてしまえる、効率のいいチャレンジではないでしょうか。

開けてみれば「パンドラの箱」ならぬ、黄金の宝石箱に変身するかもしれません。

しかしそれが出来るのは、他の誰でもなくあなた自身にしか出来ません。

逆鱗に触れると、泣きたい、怒りたい、腹が立つ、悲しい、悔しい、嬉しい、楽しい、いろんな感情が封印されているかも知れません。

私は、「いま、こう感じている」というのを知っていくことですね。

他の人にとって「いい人」ではなく、自分にとって「いい人」になれるように、素直に自分の感情が存在することを受け入れたら、触れてはいけない傷ではなく、だんだん治りかけた傷に変わっていくでしょう。

何年か先で振り返れば、あの頃はこんなことを気にして、人に見られてはいけない事だと隠していたんだなあ、そんな風に思い起こすのかも知れません。

それは、かつては「逆鱗」という恐ろしいものだったのに、仲良くなってしまえば、なくてはならない自分の一部分だったことに気づくのです。



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兎ぶつかれ、木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ。
 ある日、せっせこ、野良かせぎ、
 そこへ兎が飛んで出て、
 ころり、ころげた
 木のねっこ。

待ちぼうけ、待ちぼうけ。
 しめた。これから寝て待たうか。
 待てば獲(え)ものは駆けて来る。
 兎ぶつかれ、
 木のねっこ。

-----

『待ちぼうけ』 北原白秋



切り株     走るうさぎ


守株

「故事」
その昔、宋の人に田を耕す者が居た。
その田んぼの中には、切り株があって、
兎が走って来て、その切り株にぶつかり、
首を折って、死んだことが、過去にあった。

以来、彼は鋤を捨てて、切り株を見守り、
もう一度、兎を手に入れようと、していた。
しかし、二度と兎を手に入れることが出来ず、
彼は、宋の国の中で、笑い者となってしまった。

過去の聖王の政をして、現在の人民を治める。
今、こう考えるのは、まさに、この類いである。

哲学之道 - 故事成語 - 韓非子 第四章より
http://www.nurs.or.jp/~academy/koji/kanpi4.htm


この話は、偶然に手に入れた獲物を期待して、楽をしてはいけないという戒めと捉えられますが、それだけでなく、「過去の聖王の政をして、現在の人民を治める。」ようなことをしないようにしよう、ということも言っているわけです。

「守株」とは、「兎が切り株にぶつかる」映像イメージを、いつまでも思い出してしまう事です。

このイメージは、それに続く、「獲物を獲得できた」といううれしい感情の記憶と結びついています。

「守株」=「イメージ」+「感情」というセットが出来上がってしまうわけです。

寝そべる


私たちが何かをしているときに、ふとしたきっかけで「守株」を思い起こします。
そこで、「守株」のセットをすべて再生してしまえば、目の前の現実よりもセットの方が自分にとってはリアルなものに見えてしまうのです。

たとえば、あなたが誰かと会話しています。

あなたは、ふと「私の嫌いな人」というセットを思い浮かべます。

そこであなたが、セットごと再生してしまうと、目の前にいる人に対して「この人は私の嫌いな人だわ」と決めつけられてしまうのです。

この過程はほとんど無意識に、瞬時に起こってしまいます。

ですからあらかじめ、このような原理を意識していなければ、あなたは最初から、この人は私の嫌いな人だと知っていて話をしていたような、錯覚を起こしてしまいます。

しかし、あなたは、「私の嫌いな人」というセットを思い浮かべるまでは、そんなことは、思っていなかったのです。

ただ、「私の嫌いな人」というセットに近いような、それを思い出すようなきっかけになるイベントがあったので、それを意識の端に見つけたのです。

ここで、そのかすかな、きっかけを見たときに、セットの中に入り込まなければ、まだ「似たような事があったかも」と思うに止まれます。

しかし一旦セットの中に入り込んでしまうと、目の前の人は私の嫌いな人であり、その人の行動を見るたびに、「私の嫌いな行動」が目につくようになってしまいます。

それは、ニュートラルだった相手への感情が、不快な感情、いらだつ感情にどんどん置き換えられていくことになるのです。

この流れに入らないためには、
1.「いまここ」にある目の前の現実を、五感を働かせてしっかり見守っていることです。
そして、それとは逆の
2.「守株」=「イメージ」+「感情」のセットに入ってしまおうとする思考に、ストップを掛けるということが必要です。

そうすれば、「なんでこんな嫌な気分になってしまうんだろう」と、現実を呪うのではなく、自分がそのような選択をしたのだということに気づくことが出来ます。

過去の「セット」を安易に再生しないことが、ありのままの現実を歪めずに見ることにつながります。

ありのままの現実は、ニュートラルであって、あなたを「苦しめるもの」でも、あるいは「喜ばせてくれるもの」でもないのです。

「守株」に引っかかるのをやめよう、そのように決心して、現在に注意を向け続ければ、おなじみの嫌な感情を再現する必要も、だんだん少なくなってくるはずです。



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私の行為とは2 達人とは

「ムカデ君、そんなにいっぱい足があって、よく混乱しないね!」

ムカデは「ただ自然に動かしているだけだよ。」と言い終わると、
途端に足がもつれた。



ムカデ


夢中になって無意識に動いているときは、なぜかうまくいくものですね。

意識して自分が動いていると考えると、バランスが崩れて、ぎごちない動きになってしまうことはよくあることです。

プロ野球のピッチャーが、それまでパーフェクトなピッチングをしていたのに、勝ちを意識し出すと、突然崩れてしまうのもよく見かけますね。

自分の行為とは言っても、自分で意識してしまうと、うまくいかなくなるもののようです。

自分を信頼して、結果がどうなるかは自分のあずかり知らぬことと思ってしまえば、最高の力が発揮できるでしょう。

もちろん自分を信頼するためには、それなりの努力は必要です。

プロの選手は、普段のトレーニングを欠かしません。
これだけ、鍛錬したのだから勝ててあたりまえ、と思えるくらいに練習します。

しかし、こんなに頑張っているのに、なぜ結果が出ないんだろうと思うこともあるでしょう。

ここで順序を取り違えて「努力したから結果が出るべきだ」と言い張っても、あまりいいことはなさそうです。

努力は、結果を出すための必要条件ではあっても、十分条件ではないのでしょう。

やはり、結果はなるにまかせて、自分は自分の出来ることをやるだけだと割り切ることです。

とはいっても、うまく行き出すと、すぐに自分の力だと思いたくなるものです。

しかし、うまくできるようになる前も、できるようになった後でも、働いている原理は、同じものであると考えれるならば、とらえ方を変えるのは、間違っているのだとわかるでしょう。

わざわざ、自分で囚われのもとを生み出すようなことをしないことです。


前回の続きで、バガヴァット・ギーターから、引用してみます。

※グナとは、属性とか特質といった意味で「サットヴァ」「ラジャス」「タマス」の三種類に分けられます。サットヴァは存在や現実の意味で平衡の象徴、ラジャスは、運動、活動、エネルギー、タマスは暗さ、不活発、抑制の性質を意味します。

「アルジュナよ、自我に囚われている者は、
サットヴァ、ラジャス、タマスの動きを見て、
自分が為している、働いていると考えてしまう。」

「しかし、一方、自我に捕らわれない者は、
自分の行為は、三つのグナの作用と見とめて、
決して、自分の行為に、捕らわれることがない。」

「アルジュナよ、三つのグナに惑わされて、
迷わされた人々は、現象界の活動に捕われる。
この姿は、囚われると見えず、越えると見える。」

「囚われた者に、不安を与えてはならない。
アルジュナよ、すべての行為を真我に任せて、
自らの行為と捕らえることなく、勇ましく戦え。」

哲学之道 - ヴェーダ - バガヴァット・ギーター 第三章
http://www.nurs.or.jp/~academy/veda/veda.htm


どうしても成果を自分のものだと思いたければ、結果が出てからにすべきなのですが、いったん成果を手にすると、次からは、途中の経過にまで、自分の力を意識してしまいがちです。

それが「自分の行為に捕らわれる」ということを生み出します。

キャンバスに向かう2


ミケランジェロは「像を閉じ込めている大理石の中から、その像を解放するのだ」と言ったらしいですが、自分以外の力が働いていることを感じていたのでしょう。

そのような自分の行為に捕らわれることのない、達人と言われる人がいます。

実は達人とは、自分が達人だと忘れている人なのかも知れません。

荘子にこういう話があります。

『自由なことと忘れること』

ひとりの職工がいたそうだ。
この人はコンパスなしに完璧な円を描けたし、
定規なしにまっすぐな線を引けた。
なぜなら指はごく自然に動いて、円でも直線でも、すっと描く。
自分のしていることには何の不安も覚えないし、気持ちは自由でいる。
あれこれ意識しないでやるから、できるんだ。

同じように、靴がぴったり足に合っていれば足のことを忘れてるけど、
合わないと、足が気になって仕方ないだろ。
ベルトがいい具合に腰に合っていれば、腰のことは忘れちまうけど、
ベルトがきつすぎると、たまらなくなるだろ。

このように、心と頭がぴったり合った人は、
外の善悪にとらわれないし、
自分のなかの欲や衝動に駆られたりしないんだ。
ゆったりした自由な存在なんだよ。
だけどね、その人は、
自分が気軽に自由自在にできることさえ、忘れているんだ
-------だから自在でゆったりしてるのさ。

「荘子 ヒア・ナウ」 加島 祥造 / パルコエンタテインメント事業部 / 2006-09


ところで、達人かどうかはともかくとして、自分の力でやっていると思わなければ、なによりも、気楽に何にでも取り組むことができます。
「結果はおまかせ」でいきましょう。

こんな小難しい文献を読んだのですから、恩恵にもあずかりましょう。
このメリットを見逃す手はないと思うのですが、いかがでしょう。


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私の行為とは(バガヴァット・ギーター)

バガヴァット・ギーター 第1?2章

「どうして、王権の為に、大罪を犯せよう。
真剣を掲げた彼らが、王権を捨てた私を殺す。
それこそ、私が望むべき、相応しい結末である。」

それだけ言うと、戦いの最中、彼は座り込んだ。
      ??????
※戦いが始まった最中に座り込んだ、アルジュナに、
クリシュナが説得する場面、「行為」を語る。
      ??????
「以上は、理論に於ける、知性の話をした。
以下は、実践に於ける、知性の話しをしよう。
知性を磨き上げれば、君は行為の束縛を離れる。」

「知性は、多くのものに、分けようとして、
真の知性は、一つのものに、集めようとする。
その念の力を、真我に集めて、人々は解脱する。」

      ??????

「カルマとは、行為であり、結果ではない。
よって、行為の結果を、行為の動機とするな。
また、何もしないことに、囚われてはならない。」

「アルジュナよ、カルマを忠実に遂行せよ。
成否に捕らわれる、あらゆる余念を放棄せよ。
こうした、心の静寂を、ヨーガと呼ぶのである。」

「奉仕の精神で、行為の果報を期待しない。
一切の結果を、真我に委ねて、義務を果たせ。
報酬を期待するのは、雇われている人間である。」

「全智者に対して、自らを奉げた奉仕者は、
この世に於いて、自我を越えて善悪を離れる。
アルジュナよ、これこそが、行為の秘訣である。」

哲学之道 - ヴェーダ - バガヴァット・ギーター
http://www.nurs.or.jp/~academy/veda/veda.htm



カルマとは、行為であり、結果ではない。

カルマあるいは業というものは、単なる「私の行為」ではなく、流れの一部として私の果たす役目といった意味になるのでしょう。

私の行為のままに、ものごとがすべて進むわけではないことは、おわかりのことだと思います。
したがって、私の行為は結果と一致するわけではありません。

しかし、ついつい私の意志のとおりに、ものごとは運ぶべきだと考えてしまいます。
思った通りに事が運べば、自分の意志がそれを為し遂げたと考えます。

それが苦労して為し遂げた、「私の成果」であると思いたくなるのはわかりますが、そう考えるとき、私たちは、その筋道を逆にたどって、結果は私の意志や行為がすべての原因であると考えなければいけなくなります。

それは、予想通りにことが運んでいる場合には、問題を感じないでしょうが、結果がどうなるか不安な状況では、「私の行為」に全責任を感じてしまうことにもなります。

しかし結果を100%コントロールすることは出来ません。

できないことに責任を感じてしまう結果、私たちはストレスや恐怖を感じ、こころに重くのしかかる負担に苦しみます。

自らの成せる成果を喜ぶためには、裏側ではこうした負担を抱え込むことになります。

成果を上げているうちは、そのぐらい平気だと思うでしょうが、慢性的なストレスは、じわじわと私たちの心身を攻撃し続けます。

社会的には、引き受けたことの責任を果たさなければなりませんが、こころまでその論理に明け渡す必要はありません。

結果をすべて自分が作り出したというのは、慢心に過ぎず、100%コントロールする力は自分にはないことを認めることです。

メダル小学生


行為の結果を、行為の動機とするな。

結果を頼りにものごとを進めようとするときの、もう一つの問題は、うまくいかないと、結果に引きずられて自分の制御を失ってしまう点にあります。

自信を持ってやったことも、結果が予想に反して思わしくなかったりすれば、結果に左右されて方針を、右に左にフラフラさせてしまうことになるのです。

そうなると、自分の期待をかなえてくれるという考えを聞けば、すぐに飛びつきたくなります。

自信をなくしているときほど、騙されやすい人間はいません。

結果を頼る限り、迷いは常につきまといます。

結果が出るまで、心配で自信を持って行動できなくなります。

アルジュナよ、カルマを忠実に遂行せよ。
成否に捕らわれる、あらゆる余念を放棄せよ。
こうした、心の静寂を、ヨーガと呼ぶのである。


成否に捕らわれずに、カルマに忠実に遂行するとき、迷いは生じません。
流れに乗って、今やろうと思うことを淡々と進めることが出来るからです。

結果は、自分で関知しないと思えば、次の行動に移れます。

作業が先に進まないのは、効率の悪いやり方をしているから、と思い込んでいるかも知れませんが、自信のない行為は無意識のうちにブレーキになります。

無意識のうちに、結果をみてから動こうとしてしまうからです。

報酬を期待するのは、雇われている人間である。

そうはいっても、私たちは報酬を期待してしまいます。

うまくいった結果は、自力であり、私の成果だと思いたいのです。

そして、予想が難しい状況になると「人事を尽くして天命を待つ」と言うじゃないかと、他力を信じたくなるのです。

それでいて、一段落つけば、また性懲りもなく、「私の成果」を振り返りたくなります。

電話で謝るビジネスマン


「雇われている人間」は、利害の状況が変われば、関係も変わってしまいます。

自分自身に対しても、「雇われている私」に守られていたのでは、いつ裏切られるかわかりません。

「雇われている人間」ではなく、真の主体者となりたいと思えば、「大なる悲観は大なる楽観に通ずる」 でも書いたように、すべての責任を自分で引き受けるか、あるいはすべてをあずけて「成否に捕らわれる、あらゆる余念を放棄」することです。

状況次第で自力と他力を使い分けるという、今まで通りの生き方をするのも否定しませんが、他にも生き方はあるということです。

知性は、多くのものに、分けようとして、
真の知性は、一つのものに、集めようとする。
その念の力を、真我に集めて、人々は解脱する。


私の迷いを解決しようとして、いろいろな名前をつけて行為の意味づけをしたところで、なにも解決しません。

それは、悩んでいるフリをしている、ゴッコ遊びでしかありません。
自分がやるべきことは、本心では気づいているものです。
「あれをやるしかないんだ」というように。

「カルマを忠実に遂行する」決意は、迷いを捨てさり、後悔のない行為を生み出します。

この実践には、無駄もなく、後退もなく、
それゆえ、この道を、少しだけ進むだけでも、
大いなる輪廻の恐怖が、減っていくことになる。


「輪廻の恐怖が減る」とは、やるべきだと感じながら、やらなかったという「後悔する未完了の行為」を作り出さないことだと解釈できます。

いつも安心を求めて、落ち着かなかった心が、無駄もなく、後退もなく、心の静寂を取り戻します。


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A君と宿題と1週間(受相応)

月曜日、A君は、きょう学校で宿題を出されてしまった。
今週中に15ページの宿題をやらないといけない。
今までの経験から、1日で5ページが限度だろうと思う。

月曜日、A君は15ページの宿題のことを、考えるだけで憂鬱になり、「何でこんなにいっぱいやらないといけないんだ!」と嘆いて1日目が過ぎ去った。

火曜日、A君は怒っていた。「先生はこんなに宿題を出すべきではない。」「宿題なんか出さなくても、学校でだけ勉強すればいいじゃないか」「おかげで、今週はずっと憂鬱なままだろう。」「せっかく手に入った新しいゲームもやっている時間が無いではないか!」

おこる男の子2


水曜日、A君はなんとか宿題をやらずに済ませる方法はないかと考えた。自分でやらないとすれば、誰かにやってもらうしかない。そうだ、お父さんを何とか誤魔化してやってもらう事にしようと考えた。
A君は、お父さんが帰ってくると、機嫌が良さそうだったし、宿題がわからないのだと話した。
お父さんは、わからないのなら教えてやるが、どれがわからないのかと聞いてきた。
A君は、全部わからないと答えた。
お父さんは、A君が問題を見てもいないようなのに気づいて、まず1問目をやってから聞きなさいと答えた。
A君は、まだ1問もやりたくないと思っていたので、適当な答えを書いてお父さんに見せた。
お父さんは、A君がいい加減にやっていることにすぐに気づいたので、これをいつまでにやるのかと、質問を変えてきた。
今週いっぱいだと答えると、お父さんは、では明日から1日5問ずつやれば土曜日には終わるから、日曜日はゆっくり出来るだろうと答えた。

パソコン父子


木曜日、A君はゲームのことを考えると、やりたくて堪らなかったが、自分でやる以外に道はなさそうなので、お父さんに言われたように1日5問ずつやっていくことにした。
観念してやり出してみると、5問はすぐに終わってしまった。
こんなことなら、もっと早くやっておけばよかったと思いながら、あと2問をついでにやってしまった。

金曜日、A君は残りの宿題に取りかかった。
とりあえず5問だけやったら、休もうと考えてやりだすと、昨日同様すぐに5問も終わったので、あと2問も終わらせた。

土曜日、A君は残り1問だと思うと気が楽だった。
すぐに宿題を完成させると、なにかこの1週間で新しいことに気づいたような気がしていた。

日曜日、A君は今日は堂々とゲームがやれるぞ、と思ったのだが、なにか昨日思ったことが気にかかっていた。

ゲームを後回しにして、1週間を振り返ってみようと思った。

月曜日、自分の不幸を呪って、嘆いて1日を過ごした。

火曜日、他の人に怒ることで、なおさら怒りが増していったことを思い出した。

水曜日、なんとか宿題から逃げることを考えたが、逃げようとするたびに、自分に嘘をついていくことになるのを思い出し、情けなく思った。

そして木金土と、逃げることを諦めて、観念した途端に、苦しいと思っていた宿題もやってしまえば、どうってことがなかったことに気づいた。

ここまでを振り返ると、何か楽しくなってきた。
なんとなく、ゲームをやっているよりも楽しいことが、見つかったような気がしたのだった。

喜ぶ男の子

受相応 第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、ラージャグリハの、
カランダカニヴァーパに、止まっておられた。
そこに、比丘衆が集まると、このように説いた。

「比丘達よ、まだ、仏の法を認めない者は、
苦を感じると、声を上げ叫び、心を取り乱す。
彼らは、身で受けて感じて、心で受けて感じる。」

「あたかも、矢に打たれて、苦しむ人々を、
再び別の矢で射て、更に苦しめるようである。
彼らは、身で受けて苦しみ、心で受けて苦しむ。」

「同様に、苦しめられると、怒りが生じる。
その怒りで、苦しみが増えて、怒りが生じる。
彼らは、苦を感じて苦しみ、苦を怒って苦しむ。」

「同様に、苦しめられると、逃げが生じる。
その逃げで、苦しみが増えて、逃げが生じる。
彼らは、楽を求めて苦しみ、楽を失って苦しむ。」

「比丘達よ、また、仏の法を見とめる者は、
苦に怒ることもなく、苦を避けることもなく、
楽を求めず、楽を捨てて、苦を越えるのである。」

受相応(ヴェダナー・サンユッタ)
仏典 http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/ju1.htm より




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受け入れるという道
観察すること





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無分別2

前回(無分別)は、禅で使われている言葉から「無分別」ということを考えましたが、今回は老荘思想からこれを考えてみたいと思います。

まずは、この荘子の言葉をご覧下さい。

古代人の知識は完全だった。
なぜ完全だったかというと、ものの存在を知らなかったからだ。
これほど完全な知識があろうか。足りないものはなにひとつない。
それからやがてかれらはものの存在を知った。しかし区別はしなかった。
それからしばらくたって区別するようになった。だがそれぞれにいいとか悪いとか判断を下すことはなかった。
人間が判断を下すようになったとき、タオは崩壊した。
そしてタオの崩壊とともに個人の選り好みというものが始まったのである。

「タオは笑っている」 R・ M・スマリヤン 工作舎 / 1991-01



判断を下すこと、分別を持つことは、通常いいことであると考えられます。

現代の多くの国の社会では、自分の意見や主張を持つことが必要であり、大事な事であるというのが常識になっています。

自分を主張できることや、信念を貫くことが、価値があると見なす文化もあります。
しかし、その裏では、反対意見を叩くか、無視するかが必要になります。

もちろん、自分の考えを持つことが許されないような国には住みたくはありませんが、自分の意見や主張は貴いものではあっても、それを振り回せばいいと言うことにはならないわけです。

謙遜とは見かけの道徳ではなくて、自分の考えが間違っている可能性を忘れないためのものです。

荘子の言葉に戻ると、タオイズムでは、人為的な判断というものは、できるだけ捨てようと考えます。

それに頼らずに、本来のタオの働きに任せることで、人は何もしなくてもうまくいくのだと考えるわけです。

そこから「なぜ完全だったかというと、ものの存在を知らなかったからだ。」という言葉がでてくるわけです。

しかし現代社会においては、知らないでいることは不可能ですし、意見を求められれば答えないわけにはいきません。

政治家2


ではどうするかといえば、「わたしの考え」「わたしの意見」というものは、あくまで借り物であることを認識しておくことです。

「わたしのもの」という言葉は、私たちを盲目にしてしまいます。

いったん「わたしの」がついてしまうと、まるで自分の身体の一部であるかのように、守らなければならないものに変身してしまうのです。

「わたしの持ち物」になった途端に、態度は一変します。
それは、言葉を使って考えている以上、思考の持つ宿命なのかも知れません。

「間違えないように気をつけよう」ではなく、間違えてしまうものだと割り切って、他の手段を考えた方がいいでしょう。
運用ではなく、構造を変えなければ、事態は変わりません。

「わたしの考え」という場合も同じです。

実は、「わたしの考え」などというものは、もともと生まれつき持っていたわけではありません。
自分が生きてくる中で、どこかで拾ってきた考えに過ぎません。

そんな「借り物の考え」を、自分自身と同一視しないことです。

そして、そのような「借り物の考え」か自分自身だとか、判断の基準にしようとしないことが肝心です。

考えたいのなら、原点に戻って、対象をありのままに見ることから始めて見ることです。

現代のような社会に生きていれば、「借り物の考え」は、すごい勢いで飛び込んできます。

それをうまく取捨選択するのが、現代人だなどと思い込まない方がいいと思います。

モバイル通信


情報の処理はコンピュータに任せるべきです。

コンピュータなら、CPUの性能が上がれば処理能力も向上させられますが、人間の場合は限界があります。
遮断できないのなら、せめて受け入れを拒否することをしないと、本来の自分がわからなくなってしまいます。

これほどの情報のシャワーを浴びている時代は、今までだれも経験していません。
これがもたらす結果は未体験なのです。

CMやマスコミの意見に影響を受けて、反射的に判断を下しているのに、ふと気づくことがあるなら、もっと危機意識を持つ必要があると思います。

「保険は電話で申し込みますか?、ネットで申し込みますか?」という時代に生きていれば、保険がそもそも必要かどうかの判断が出来にくくなります。

「画面にアナログと表示されていませんか?」と脅かしてくる社会では、テレビはそもそも必要なものかどうかを考えなくなります。
テレビを捨てようかと思い出させてくれるのは、某放送局の集金だけです。

処理能力を上げれば、なんとかなるという考えは、行き詰まりを感じ始めています。
処理能力を上げる努力をするのではなく、処理しないことを選ぶ必要があります。

処理しないということは、言い換えれば「無分別」ということです。
「分別」に頼らないで、本来の知恵を信頼するということです。

分別処理をしないで、初めて対象を見るようにとらえないと、ものごとの本質は見えてきません。

情報は便利なものですが、情報に依存するとき、自分の主体のような曖昧なものは、扱いがやっかいだからと置き去りにされ、だんだん頼りにならないものだと思ってしまいます。

情報が曖昧でないのは、切り取られた一面でしかないからです。

マルクスは「資本は死せる労働である」と言いましたが、「情報は死せる判断」です。

過去の残骸では、いまを生きることは出来ません。



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ひそかな反発

何かを嫌がっている自分に気づくことがありますか。

自分の内面からの、ひそかな反発に気づいてあげることは、思っている以上に重要なことです。

そんな大したことじゃないから、と軽く扱っているかもしれませんが、いつまでも反発をやめない自分に気づいたら、何を訴えているかをじっくり検討してみましょう。

軽い気持ちで、見過ごしてきたことが、積もり積もって大きな結果となって現れることもあります。

悩む主婦


それは、仕事の失敗であったり、身体的な病気であったり、あるいはやる気のなさや、自分を罰したくなるような罪悪感となって現れる場合もあります。

何度も内面から訴えかけてくるものは、そのまま無視し続けていても解決しません。

その力は、思っている以上に強力です。

その由来は、もしかするとこども時代の経験から来るものかもしれません。

こどもは自発的な行動を自由にとれる場合もありますが、親と接する中で、苦痛を避ける方法と、承認を得るための方法を見つけ出していくことになります。

親から与えられる笑顔や、自分をうれしがらせれてくれる反応は、自分が正しいことをしていることや、承認されていることを意味するのだと受け取ることができるでしょう。

また、親の冷たい反応や、怒った表情からは、間違ったことをしたという苦痛と、失跡という観念を受け取ることになります。

こどもが「?ねばならない」を学んでいくのは、このように、ほめられたり叱られたりすることを通じてであるわけです。

適応の3パターン



常識的に考えても、親からの影響というのは、大きいものだとわかっていると思います。

それは自分が依存するしかなかった時期に身に付けた、非常に根源的なものであるだけに、大人になって身につけた行動習慣よりもずっと根深いのです。

その頃に身に付けた信念や反応のパターンは、理屈でおかしいと思っただけでは、なかなか解放されません。

拡声器ビジネスマン


たとえば、あなたが販売関係の仕事に携わるとしましょう。

資本主義の社会では、商品を販売すると言うことは、他のメーカーとの競争に勝たなければなりません。
そのためには、自社の商品のメリットを強調し、一方でデメリットは見せないようにしなければなりません。
時には、他社の商品をおとしめる必要が出てくるかもしれないのです。

もしあなたが、両親から「嘘をつかない」ことを言われ続けて、それが自分の内面に染みついているとしたらどうでしょうか。

あなたは、販売にかかわることとはいえ、事実をゆがめてアピールすることに抵抗を感じます。

仕事だから、ある程度は仕方がないと言い聞かせている大人のあなたがいる一方で、それに弱々しく反発を続ける自分を発見することでしょう。

あまり目立たないので、簡単に無視してしまうかもしれませんが、そのひそかな反発は、しかし毎回あなたに「何か間違っている」と訴え続けます。

その仕事を続けながら、あなたはなにか、仕事に嫌気を感じ始めます。
何かわからないけれど、やる気が出なかったり、嫌な気分になったりします。
もがいても、もがいても解決しないような夢をみるかもしれません。

仕事というのは、多かれ少なかれ、嫌なことがあるのは仕方がないと言い聞かせるかもしれませんが、いっこうに、あなたのこころは晴れないままです。

子どもの頃の思い込みに過ぎないと、軽く見ない方がいいかもしれません。

それがどの程度重大な影響を及ぼすかは、ひとりひとり違いますから、あなた自身にしかわからないことです。

ひょっとしたら、あなたが販売関係の部門から、別の業務に移って対外的なアピールにかかわらなくなったら、一気に元気を取り戻すかもしれません。

おこる男の子2


ひそかな反発は、日頃から観察する習慣をつけておくといいでしょう。

嫌々何かをやっているとき、何が反発しているのかを探してみましょう。

また、そのときの自分の身体の反応を、よく感じておきましょう。
おそらく、ゆったりとしている感じとは違いますね。

呼吸のスピードや深さはどうでしょうか、イライラする感じはどのように現れてきますか?

そのときよく思い浮か言葉や思考は何でしょうか?
なにか特定の信念やフレーズがあるでしょうか?

それを正しいと思っていますか?間違ったことだと言っている自分はいますか?
守るべきこと、あるいは逆に捨て去りたいと思っていますか?

小さな反発であっても、疎遠にならずに仲良くしておきましょう。
それが、とんでもなく大きなメリットをもたらしてくれるかもしれないのだから。

「善とはなにか、あとあじのよいことだ。悪とはなにか、あとあじの悪いことだ。」
 ヘミングウェイ




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他人の欠点

ルーシーが女の子にリストを渡して去っていく。

[チャーリー・ブラウン]
 またかよ!

[チャーリー・ブラウン]
 いったい、いつになったら 他人の欠点リストなんか 渡して歩くのをやめるんだ?

[ルーシー]
 私、崇高な理想をもっているのよ。チャーリー・ブラウン...

[ルーシー]
 この世の中を 自分にとって 住みやすいところにしたいの!

「いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント」
 エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02



お手上げの子供

最後のルーシーのセリフ「この世の中を 自分にとって 住みやすいところにしたいの!」。

「他の人の為を思って、欠点を教えてあげてるのよ!」ではなく、自分の為の行動という自覚がある分、まだ救いがある。崇高な理想なのだから(笑)。

しかし、どちらにしても、他人を変えてしまおうと考えている試みは、成功しそうにはない。
自分自身を変えるのも大変なことなのに、他人からお節介にも欠点を指摘されて、それで変わる人がいるとは思いにくい。

それはともかく、この2つのセリフについて、考えてみようと思う。

「他の人の為を思って、欠点を教えてあげてるのよ!」

こういう言葉を発した人が、本当に人がそれで変わると思っているのかは疑わしい。

口でそういっているのとは裏腹に、むしろ、他人の欠点を指摘することによって、何らかのメリットが自分にあると考えているという方が近いのだろう。

それは、普段から自分自身を批判していることを、他人に向けたくなったのかも知れない。
あるいは、他人をおとしめることで、自分の惨めさを緩和したくなったのかも知れない。

いわれた相手に目を向ければ、欠点を指摘されたときの反応は、3種類ぐらいに分かれるだろう。

まず最初は、最も多い反応かと思うのだが、批判じみた気配を感じただけで、身構えて反撃体勢をとろうとするというもの。

いきなり批判されれば、反射的に反発するのが普通であり、途中で相手の意見などまともに聞かなくなってしまうだろう。

反撃するか、失礼な人間だから無視しようとするか、あるいは聞くに値しないと判断して、まともにかかわろうとはしない。

2つ目の反応は、「また自分のダメな所を見透かされてしまった」と思ってしまうというもの。

これは、普段から自分に対する評価が低いため、批判めいた言葉を聞いただけで、きっとあたっているに違いないと思い込んでしまう。

例えそれが、客観的に見れば問題にならない程度のことであっても、自信のなさから自分の至らなさを悔いてしまうことになる。

もっとも被害を受けることになるタイプである。
しかし、実はこのタイプが逆に批評家側も演じやすいとも言えるのだが。

もう一つの反応は、冷静にその指摘を受けとるというもの。

しかし、これが出来るためには、その人は自分自身に対する信頼を持っていなければならないだろう。

少しぐらい批判を受けても、自分の大部分は大丈夫であるという信頼感を、自分に対して持っている。

だから、他の人からの批判も、余裕を持って妥当性を検討するだけの余裕が持てるのだ。

これはしかし、自分が正しいという確信とは、違うものだろう。

正しさを頼ったり、自分が正しいと言って欲しい気持ちがあるうちは、正しさの基準を崩されると、自己への信頼そのものも崩壊してしまう。

外部に依存しない、内面からの無条件の信頼のような気がする。

ところで、このような3つの反応は、ある人がどれかひとつの反応だけをするわけではなくて、その人がとりやすい反応の傾向はあっても、対象によってどの反応になるかは変わってくるものである。

自分が普段から、触れられたくなかったり、隠しておきたい部分に触れられれば、ネガティブな反応が飛び出してきやすいものだろう。

女の子腕組み

「この世の中を 自分にとって 住みやすいところにしたいの!」

ルーシーが「願う」ような、ほかの人達の「悔い改め」が本当に起きたとしたら、ルーシーは住みやすくなるのだろうか?

おそらく、それはいつまでたっても叶わない望みである。

なぜなら、他の人がルーシーの望む人間になってしまっても、ルーシーの不満は解消されず、「本気で変わると思わなかったわ。でもね、あなたには、まだこういう問題があるの! そっちも変えないと、まだだめよ。」とでも言ってしまうことだろう。

問題はルーシーの内部にあるからである。

ルーシーに見えてくる他の人の欠点とは、ほとんどはルーシー自身の問題に他ならないからである。

そして、自分の中に適応するパターンを見つけたとき、多くの場合、そのペアとなる親の側の感じ方、行動の仕方も取り入れていると言われます。

親の行動を嫌って、決して自分はそうはならないと決心しながら、気がつくと親と同じ態度を、こどもや他人にとっている自分に気づくこともあるのではないでしょうか。

これは自分の内部でも、この親子ペアがやりとりを繰り返していることも意味しています。

適応の3パターン


いずれにしても、他の人の欠点を指摘して廻るのは、むなしい試みに終わってしまう。

他の人はまず変わらないものだし、そのとき気分がよくなったように感じても、自分自身は、だませないわけだから、そのようなダブルスタンダードは、自分自身を複雑なやりきれなさに追い込んでしまうことになる。

他人を変えたいという執着があるのなら、何よりも先に捨ててしまうことをお勧めする。

1つ捨てれば、10くらい自分が軽くなるだろう。
9つ得をする。



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実はよく知らない人

自分の実の両親というのは、他の人ほど客観的に見ることは出来ない、ある意味でいつまでも知らないでいる存在かも知れません。

こどものころの自分は、親に対して依存的な立場に置かれていますから、そのころ親を客観的に見ることはほとんど不可能に近いでしょう。

大人になってからでも、人によっては親は超現実的な存在に見え続け、親といっても実際には欠点や弱点を持つ普通の人間であると、認めるのは難しい場合があります。

こうした人達は、往々にして親に対して悪感情を持つことを裏切りだと感じたり、親に対する怒りや傷つけられたという感情を抑圧しようとします。

多くの人が、自分の親を偏ったフィルターを通して見たり、ゆがめられた両親像を描いてしまうものです。

お母さんとこども

本当はどんな人間であったかという実像を見ることは、ほとんどなくて、自分のこども時代の関わり方の対象として見続けようとします。

しかし、いつか自分の親の現実の姿に気づくと、多くの場合まずは批判的になってしまいます。

そして親のことを裁いたり、あるいは嫌悪することにもなりますが、時間が経つにつれ、親を人間として理解し、受け入れ、許すことも学びます。

しかしいつまでも、封印してしまおうとする人もいるでしょう。

親子2

ところで、実際の親の姿とは別に、自分の子どもの頃の親像としては、自分の中で残り続けます。

直接親の姿を発見するよりも、それを他の人の中に見るということ、つまり自分の投射を見ることで、多くの自分の中に存在する親の姿を見るかも知れません。

例えば、自分が嫌いな人を思い浮かべてみます。

・その人が嫌いなのはどんな点でしょうか。
・その人に似た人が思い浮かびますか。その人もまた嫌いでしょうか。
・その性格や特徴を自分が持っていることは、想像できるでしょうか。
・その人がやっている気に障る行為を、自分がやっているところを想像してみます。

自分自身が、そのような嫌いな点を持っている人間である、そういう可能性はあるでしょうか。

親子1

同じように、自分が賞賛したり、尊敬する人で試して見ましょう。

自分自身が、そのような人の尊敬する行動をとれる可能性があると、見えてくるでしょうか。

そして、それらは自分が思い描いた両親像と、どのような関係があるでしょうか。

このような投射を見てみることは、あなたの両親像の新しい面を発見するかも知れません。

他の人から見ると、頑固だと思われているこだわりの由来を発見するかも知れません。

誰でも、このくらいは他人のことを面倒みようとするものだ、と思っていることも、あなたならではのことかもしれません。

また、自分自身の嫌いな面や、好きな面、価値があると思っていること、馬鹿にしていることに対して、見方が変わってくるかも知れません。


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ストレスは発散するしかないのか

こんなストレスの多い社会に済んでいるんだから、ストレスがたまるのはしかたがない。
ストレスは、気晴らしなどで、思いっきり発散するのが一番。

こんな風に考えてしまうのも、しかたのない面もありますが、一気に結論に飛びつかないで、普段の思考の働かせ方を見直してみるのもいいかもしれません。

ストレスの原因となる出来事に対して、自分はどのように反応し、どのように思考を使っているでしょうか。

すぐに怒りを感じて、情動的に反応することが多いでしょうか。
あるいは、怒りを内側にため込んで、抑圧してしまう方でしょうか。

おこる男の子     おこる男の子2


怒りを表現したり、あるいは愚痴を言ったりするのも、同じく発散する方向に向かう行為です。

これは、その時はストレスの解消になった気になるかも知れませんが、怒りを発散することは、さらに怒りを助長して大きくしてしまう可能性があります。

怒りを表現して、何かそれで完結したと感じられる場合はそれがよかったのかも知れません。

しかし、発散した後、余計にいら立ちが残ってしまうような場合は、そこに思考が絡んできています。
その出来事に対してあってはならないという思いが、強くそこには残っています。

このような場合、ちょっとした刺激で、その思考は繰り返し頭をもたげてきます。

思考というのは、より強い刺激を求め続けるものですから、次の時にはもっと強い怒りを感じてしまうことにもなりかねません。

実は、思考がそれに関係してこない場合は、なにかの事態が起きても、それが終わってしまえばいつまでも尾を引くことはないわけです。

執着してしまう思考が、いつまでもネガティブ思考に燃料を与え続けてしまうわけです。

これは、だんだん思考という過程を簡略化して、自動的な反応のようなものになってしまいます。

感情的になりやすいという人も、実はもとを探せば、このような思考過程が存在しているものです。

女の子思案


一方で、怒りをなかったものにしようとして抑圧するというやり方ですが、これも経験的に考えればうまくいかないことは、おわかりかと思います。

押さえつけても、何かの折に表に出てこようとしますし、押さえつけるためには、自分の他の感情を犠牲にしているわけですから、そちらの問題も重なってより屈折した感情を抱え込むことになってしまいます。

そう考えると、「ストレスを発散したい」と感じるのは、抑圧した感情を一気に発散へ持っていこうとする衝動のようですね。

しかし、この2つのやり方ではなく、第3の道というものがあります。

それは、起きた出来事を、思考を使わずに「ありのまま」に見るということです。

じつは、私たちは先程の2つの方法で、出来事に対処してきていますから、新しい出来事に対しても、すでに作られてしまった構えが出来上がっているのです。

そのため、起きたことをそのまま観察する間もなく、すぐに自動的に思考を働かせて、出来上がった古ぼけた反応が真っ先に出てきてしまうわけです。

このような自動的な反応は、「いまここ」で起きていることを正常に把握する妨げになります。

出来事をそのまま見ることも、相手が言っていることを正確に聞き取ろうとする余裕も失っています。

それだけでなく、「いまここ」に留まっていないために、周りで起きていることもすでにベールがかかった状態になっていて、過去の自動反応が起こるに任せてしまうわけです。

当然、いま起きていることを、そのまま受け取ることが出来なくなってしまいます。

相手がいくらも話さないうちに、待ち構えていたように反応をし始めるのですから、ありのままをみるような余裕をなくしてしまっているのです。

注意して偏見をはさまずに聴いていれば、自分の気に入らないことを、相手が話そうとしているわけではないかもしれないのです。

相談1


これは、思考という働きのもつ性質ですから、そのようになってしまう自分を責める必要はありません。

自己の評価に結びつける必要もありません。

単に、やり方を変えればいいだけです。

思考を止めて、見えてくるもの、聞こえてくるものを、ありのままにいったん受け入れてみることです。

自動的に喚起されるような、思考や反応を制御するには、普段から自分の思考を見守っていることが必要です。

最初のうちは一瞬で反応してしまうために、手が出せないかも知れませんが、観察する習慣がついてくれば、一度反応してしまってからでも、それを振り返って「いま、こういう思考が働いたのだ」と思い返すことが出来るようになります。

そうなれば、最初から思考を停止して、見たり、聞いたりすることも徐々に出来るようになってきます。

・ありのままに見る時、余計な怒りを感じなくて済むようになります。

相手の話を思考をはさまずに、そのまま聴くなら、今まで相手が自分を攻撃すると感じていたことのほとんどが、自分の構えから来るものであったことに気づきます。

ストレッサーは相手の人ではなく、自分の思考にあったことがわかってきます。

・ありのままに見る時、過去の嫌な感情が自動的に支配するのをストップすることが出来ます。

これは、慢性的なやる気のなさや、不安感の原因である可能性が高いのです。

何かを思い出した途端に、その後ずっと憂鬱な気分が続くようなら、原因となった思考を突きとめるのは薬を飲むよりも役に立つかも知れません。

・ありのままに見る時、思考がもとめる「もっともっと」刺激が欲しいという暴走をストップさせることができます。

今までもっと必要だと感じてきた刺激は、実は思考が作り出していたもので、本来の自分は必要以上に欲しがってなどいなかったことが解るようになります。

いらないものを求めることも少なくなります。
我慢しようと思わなくても、欲しくなくなるのです。
これは経済的なメリットを生み出すかも知れません。

・ありのままに見る時、「いまここ」に生きることが出来ます。

そうでないときは、思考が五感を制限してベールを掛けてしまっているので、現実感をなくしています。

いまここで起きていることと、接点をなくしてしまうのです。

たとえば、過去にどこかに旅行に行ったことを思い出してみて下さい。
よく覚えていたり、印象に強く残っていることはどういうことでしょうか。
それは、計画された旅行プランがもたらした経験ではなく、ふとしたことでありのままに感じたり、過ごせた時間ではなかったでしょうか。

「ありのまま」とは、地味で平凡で刺激がないつまらないものだと思いがちですが、それは思考が「もっともっと」と刺激を求めることに慣らされているためです。

実は「ありのまま」感じられた体験の方が、ずっと満足感をもたらすことが多いのではないでしょうか。
それは思考が作りあげた脚本に基づく世界ではなく、もっとリアルな世界だからです。

「ストレスは発散すべきもの」という常識も、これによって見方が変わってくるのではないでしょうか。

「抑圧」は、より複雑な感情を作り出すので避けるべきですが、だからといって、一足飛びに「発散」を選ぶ必要はかならずしもないということですね。

思考が作りあげる欲求は、多分に押し売りであり、それほど、「なくてはならないもの」ではなかったことがわかってきます。




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大なる悲観は大なる楽観に通ずる

正反対に思えることも、極限を過ぎると反転するというパラドックスがあります。

こんなことを考えてみました。

【自分が責任をもつ】

あなたは何かを見て欲しくなりそれを手に入れます。
自分が欲しいと思ったということで、新しいイベントが起きます。
あなたがそれを作り出しました。

あなたは、友達が迷っているのを見て、こちらの方がいいと思うとアドバイスしました。
あなたは、誰かの行動を後押して推進しました。

あなたは、友達が誘ってきたので映画に行くことにしました。
そんなに行きたくはなかったのですが、友達が誘うのをあえて断るほど嫌いでもありませんでした。
あなたは、自分が映画にいくことを選択することを許しました。

すべては、あなたが選択した結果です。
たとえ、全部は自分が積極的に賛成したわけではないにしろ、あなたは自分で選択をしました。

だから、あなたの選択に対して、あなたは責任を持とうと考えます。

結局、考えてみれば、自分のかかわることは、すべて自分が選択した結果だから、その責任をすべて自分で背負ってもいいと思いました。

ひとがいくら勧めてこようと、いくら脅しをかけてこようと、最後に決断したのは自分だからです。

あなたは、誰の犠牲者でもありません。
あなたのかかわることは、すべてあなたがコントロールすると決心します。

結果がどうであれ、あなたの選択の結果です。
あなたは、すべて自分の意志で動いているのだから、何が起きてもあなたが受け入れれば、それでいいと思います。

人がどうかかわろうと、あなたの結果には影響を及ぼしません。
結果がどうであろうと、すべてはあなたの選択がもたらしたことで、責任はあなたが受け入れます。

あなたの責任や結果を考えずに、あなたの思うことをやればいいわけです。
だから、あなたに出来ることは、自分が思うように最善を尽くすだけです。

選ぶ1


【自分は責任をもたない】

すべてのことは、起こるべくして起こります。

あなたが何を選択しようと、あなたが意図した結果になることも、そうでないこともあります。

あなたの意図と、ものごとの最終結果には、直接の関係がありません。

あなたは、どのような結果になろうと、そういうものだったんだと、それを受け入れます。
あなたは、結果には自分の責任を感じません。

自分が行動を起こすまでは、あなたが選択しますが、その後の結果はあなたの思うこととは関係がありません。

同様に、他の人がどうかかわってくるかも、あなたが選択できることではありません。
もちろん他の人がどう動くかは、あなたにはすべてを予測できませんが、予測したとしてもそれが、思った通りになるかどうかは、あなたには決定できません。

あなたは、結果がどうなるかに責任を感じないので、自由に動けます。

あなたの責任や結果を考えずに、あなたの思うことをやればいいわけです。
だから、あなたに出来ることは、自分が思うように最善を尽くすだけです。

キャンバスに向かう1


このように、責任をどう考えるかにかかわらず、両極端に見える2つの考え方とも、同じ結論に達しました。

あなたの責任や結果を考えずに、あなたの思うことをやればいいわけです。
だから、あなたに出来ることは、自分が思うように最善を尽くすだけです。


無理やりそうなるように、解釈したのではと言われるかも知れませんが、突き詰めていけば、同じ結論に達するのではないかという予想は、やはり感じます。

すべて引き受けるか、すべて預けるか、徹底してやれば同じになるように思うのです。
それは「すべて」という言葉は、ある所まで行けば論理を超えるからです。

それに、最初から他の人の責任にはしない点は、両者一致しているわけです。

肝心なことは、あなたが特定の倫理観や信念にとらわれずに、あなたの独自性を発揮することではないかと思います。

そのためには、あなたがこだわっているやり方で、それを制限してしまわないことです。
どのように考えようと自由ですが、結果的に制約するなら、その正しさは拒否すべきかも知れません。

しかし制限しないとは、単にアクセルに対するブレーキを外す事ではなく、ドライバーの総合的な判断のようなものでしょう。

そもそも暴走するような外し方は、どこかバランスがとれていないということです。




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痛みによって得ているもの

痛みは嫌なもので、それを避けようといろいろなことをします。

しかし一方で、心身共に痛みを感じることであっても、ネガティブな行為をやり続けるという、矛盾したことをやるのも人間の心理のようです。

自分に対する価値評価が低い場合、自分が無価値であることを証明するかのような行動を取るということが、指摘されています。

それは、かつては結果的に、自分の無価値さを感じさせた出来事だったのかも知れません。

しかし、それによってネガティブであっても他者との接触が得られることを覚え、その行動パターンを自分で取り入れたということがありそうです。

そこでは、やっぱり自分には価値がないんだ、ということを確認してしまうのです。

注射を待つこども達


しかしこの自己評価の低さ以外にも、なにかしら見返りを感じさせるもののために、自分を傷つける様な行動を取る場合があります。

・「けがや病気をすれば、ひとは自分のことを気づかってくれ、同情してくれる

愛情を獲得するために、けがや病気を引き起こすこどもがいます。
これは必ずしも意識的な選択ではありません。
ずる休みのための病気のフリではなく、愛情が欲しいときに本当に病気になったり、けがをしたりするのです。
このやり方が定着すれば、一生続くパターンになります。

・「かんしゃくをおこすことで、わがままを通す

思うようにならないと、怒り狂うことでわがままを通すことを覚えます。
これは、おとなでも怒りを表すことで、物事が自分の都合のいい方に変えられると考えたりします。
これも、病気やけがではないですが、代償は支払うことになります。

・「悪いことをして、注意を引こうとする

注意されたり、非難されたりすることであっても、全く無視されるよりはましだというわけです。
人の目を引くためには、問題を起こし続けます。

おこる男の子     病気のこども


本当に必要なものは、人から受け取る愛情ですが、それを得る手段がわからないうちは、不完全で傷つきながらでも何もないよりはいいのです。

その見返りとは、注目、同情、保護、受容、承認であり、あるいは逃避の手段や口実です。

また、それによって他人を支配したり、操作できることや、自分の中に閉じこもることであったりします。

大人になって巧妙になってくると、責任逃れや、危険を冒さないためのいいわけ、自分を正当化する手段であったり、自分に価値があると見せかけることに利用したりもします。

方向が間違っているとしても、少なくとも「それに対して一生懸命取り組んでいる」と無理に納得しようとします。

「苦しさが自分を成長させる」ということをいいわけにするかもしれません。

このようなネガティブな行動は、当然苦痛を伴うものであり、だからといって本当に求めている愛情や承認が得られるわけではありません。

正直に考えて、本当に望むものを得たいなら、まわりの人に対して、直接愛情や承認を求める行動を取るしかありません。
それは、単に「こんにちは」とか「よろしく」と自分から言うことから始まったりします。

あいさつ

それが、しかし難しく思えるのは、リスクを伴うからです。
相手は、意図的であるか、他の理由からであるかはわかりませんが、あなたの働きかけを拒絶したり、無視する可能性はあるわけです。

いままで、直接求めても得られないと疑心暗鬼になっていますから、それよりはゆがんだ形でも今まで慣れ親しんだ方法をとろうとするわけです。

まずは、自分が傷つきながらそういう行動を取っていることを、自分で認めて、認識しないといけません。

「苦しさが自分を成長させる」などと言っていると、傷は大きくなっていきます。

それはいつか、取り戻せないところまで、被害を大きくしてしまいます。

いままでの経験を信じようとするのかも知れませんが、そう思いながらも、どこかにやり方が違うのではないかと感じている部分があるはずです。

自分を傷つける行動をしていることを、正面から直視することがどうしても必要になります。

そして、自分が欲しがっているものは、直接的な注目や同情、愛情であることを正直に認める必要があります。

直接得られる愛情は受け入れていいのだということ、ゆがめられた注目はもとめないということ、これを決断する必要があります。

この2つを見分けることを続けていれば、にせものの承認は必要ないことがわかりますし、直接的な承認以外なら、なくても充分満たされることがわかってきて、いままでの思い込みを溶かしてくれます。

気づかないまま、以前のパターンを繰り返すこともあるでしょうが、にせものは受け取らないと決心すれば、それにつれて真性の親密さというものも増えて来るものです。

ちょうど、意地を張ってすねていたこどもが、徐々に仲間に溶け込んでいくようなものです。





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すきなものノート
適応の3パターン





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適応の3パターン

こどものころの適応パターンというのは、大人になってからも気づかずに使っていることが多いものです。

こどもは自発的な行動を自由にとれる場合もありますが、親と接する中で、苦痛を避ける方法と、承認を得るための方法を見つけ出していくことになります。

親から与えられる笑顔や、自分をうれしがらしてくれる反応は、自分が正しいことをしていることや、承認されていることを意味するのだと受け取ることができるでしょう。

また、親の冷たい反応や、怒った表情からは、間違ったことをしたという苦痛と、失跡という観念を受け取ることになります。

こどもが「?ねばならない」を学んでいくのは、このように、ほめられたり叱られたりすることを通じてであるわけです。

そして、このような自分を適応させる必要を感じたときの反応の仕方に、3つのパターンがあるという考え方を、交流分析を参考に書いてみようと思います。

こどもたちは、うまく合理的に適応した場合には、ものや感情を分け合う、順番を待つ、礼儀正しくするなどの社交性を身につけることに成功します。

またそれが、同時に自分の要求を満たすための方法にもなることを学ぶわけです。

ガッツポーズ男の子

しかし、必要以上に禁止的であったり、混乱してしまうメッセージを受け取れば、自分の衝動は抑えてしまわざるを得ないと感じてしまいます。
そして、いろいろな親からのメッセージは、必ずしもうまくいく適応方法に導いてくれるとはかぎりません。

適応の3つのパターンとは、以下のようなものです。

・服従する。
・自分の殻にとじこもる。
・ぐずぐずと引き延ばし工作をする。


・服従する
聞き返すこともせずに、黙って服従することは、その方が簡単でもあるし、自分の考えを主張して喧嘩になるよりは、ずっと平和にことを終わらせることが出来ると発見するわけです。

しかし、これは必ずしも快く承諾して、したがっているわけではない場合が多いので、これにともなってすねることを覚えたり、したがった後で他人を責めているという場合も多いわけです。

いったんは服従しながらも、あとあと不機嫌になり、すね続けるというパターンです。

・自分の殻にとじこもる。
恐怖心などから、自閉的になってしまうこどももいます。
どう考えても自分の周りの世界は、自分の手には負えないと感じたこどもは、引きこもることでしか適応できないと判断してしまうわけです。

病気になることで、ほかの人達から離れていようとしたり、自分の部屋に閉じこもって自分の中の空想の世界に逃避しようとするかも知れません。

物語やアニメのヒーローを空想して、いつか助けに来てくれると考えたり、自分がいつかそうなることを願っているかもしれません。

先日の「すきなものノート」の女の子(日本テレビ ドラマ「Mother」)は、
「きらいなもののことを考えちゃだめなの。すきなもののことをずっとずっと考えるの。」
といいます。

また、現実の母親の虐待の仕打ちを他人には何もないように隠しながら、すきなものノートには、
「石けんのコマーシャルのおかあさん。」
と書いてあります。

Mother(日テレサイト)

・ぐずぐずと引き延ばし工作をする。
あえてやらないでいることで、何とか切り抜けられた体験を持つこどもは、「引き延ばし」を行うことが適応のパターンとなります。

「ちょっと待ってね」と調子よく答えることは、面と向かって反抗しているわけではないし、すぐにやらないことへのいいわけで、時間稼ぎが出来るわけです。
うまくいけば、親は言ったことを忘れてしまうか、自分でやってしまうかもしれません。

「このテレビが終わったらやるよ。」と答えた後、次に見に行くと、「もう一つだけ」「次のCMまで」といったように、のらりくらりとかわそうとします。

先延ばしを使いたくなる状況には、次のような理由が有るかも知れません。
・親からの命令が沢山ありすぎる。
・さっさとやってしまうと、次の用事を言い渡される。
・あまり完璧にやってのけると、友達や兄弟から嫉妬されるかもしれない。
・いくらやっても、親が満足してくれない。
・いつまでもぐずぐずやっていれば、誰かがしびれを切らしてやってくれるかもしれない。

父親と娘1     父親と娘2

大人になってからも、このような適応パターンは繰り返されます。

大人になれば、もっと言葉は流ちょうになり、洗練され、また政治的な言い回しにもなるので、一見どのパターンなのかわからないかも知れません。

しかし、最終的にどこに行き着こうとしているかを見てみれば、結局どれかのパターンを用いていることがわかるでしょう。

こどものころには、
・自分はすぐに同意して従っていただろうか?
・自分の中に引きこもってしまっただろうか?
・引き延ばし工作を使うことがよくあっただろうか?
・自分がどのパターンを使うことが多かったかを思いだしてみる。
・大人になった今でも使っていると感じるものはあるだろうか?

それを使うことが、どのような感情や行動と結びついていたかは、人によって異なります。

・それは自分の役に立っているか?
・それを使うと自分が混乱してしまうと感じるか?
・それを使うと自分の能力を抑圧してしまうように感じるか?
・それを使うことは、自分や他人に破壊的に働くだろうか?

自分のよく使うパターンが発見されたら、その反対の行動を取るとどう感じるかを想像してみます。

・もし他の人の意見にすぐに同意するようなら、それを断ったとしたら何が起こるだろうか?
・もし自分から他の人を避けていることが多いようなら、自分から出て行って、みんなの中に入ってみたらどう感じるだろうか?
・もし引き延ばしをよく使うとわかったら、それをやめて、さっさと決心して行動することを何度か試して見たら、どうなるだろうか?

そして、自分の中に適応するパターンを見つけたとき、多くの場合、そのペアとなる親の側の感じ方、行動の仕方も取り入れていると言われます。

親の行動を嫌って、決して自分はそうはならないと決心しながら、気がつくと親と同じ態度を、こどもや他人にとっている自分に気づくこともあるのではないでしょうか。

これは自分の内部でも、この親子ペアがやりとりを繰り返していることも意味しています。

客観的に見て、問題を多く生み出すようなパターンが自分の中にあると感じたら、それはパターンをやめる大きなきっかけにも出来るでしょう。

また他の人の中にそれを見いだすことが(おそらくこちらの方が易しい)、自分への発見につながるかもしれません。

意見を交わすビジネスマン

あまり簡単に承諾する相手には、安心せずに、よく確認した方がいいかもしれません。
引き延ばしを無意識に使う人には、「なんで最初からできないと言ってくれないんだ」と思わされるかも知れません。

しかし、多くの場合、これらは大人対大人のやりとりになっていないためであって、相手はわざとそうしているとは限らないとのです。

参考:
「自己実現への道―交流分析(TA)の理論と応用」
ミュリエル・ジェイムズ / D.ジョングウォード / 社会思想社 / 1976-01



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すきなものノート

先日ドラマ(Mother 日本テレビ)を見ていて、小学生の女の子が、先生に「すきなものノート」というのを見せる場面があったが、何かいろいろ考えさせられるものがあったので書いてみたい。

小学生の怜南が、教諭を引き受けたばかりの鈴原奈緒(松雪泰子)に、「すきなものノート」を見せる場面だが、

「先生にいいもの見せてあげる。わたしの宝物。」

「すきなものノート。」

「回る椅子。・・・ネコと目が合うこと。・・・雪をふんずける音。・・・クリームソーダ。」

「石けんのコマーシャルのおかあさん。」

「すきなものを書くの。きらいなものを書いちゃだめだよ。」

「きらいなもののことを考えちゃだめなの。すきなもののことをずっとずっと考えるの。」


ランドセル女の子


怜南は、小学生といっても、どこか現実的な、さめた言動をしたり、無理に笑顔を作って大人びた態度を見せるなど、周りの子ども達や先生からも「不思議な子」と認識されている。

父親が早くに亡くなって母子家庭で育っていて、少し変わった所があると聞かされていた鈴原奈緒は、怜南が母親から虐待されていることを知り、その後ドラマとしては思わぬ展開を見せていくのだが、そのあたりの話はここまでで止めておく。

母親からは虐待されているが、周りの先生などにはそれを隠し、お母さんは大好きだよと言って何も問題などないように振る舞う。

栄養失調で発育が遅れていることなども明らかになる。

実はうちに帰ると、母親が同棲している男性がいるのだが、母親は、子どもが邪魔になると500円玉を渡すのが合図になっていて、怜南は家を出て1人で食事をしに行く。

そこで出会った鈴原奈緒との会話のひとつが、先程の会話である。

怜南の「きらいなもののことを考えちゃだめなの。すきなもののことをずっとずっと考えるの。」という言葉。

自分が生きていくためには、抵抗できない現実には目を向けずに、かろうじて「すきなもののことをずっとずっと考える」ことで自分を保っているかのようである。

「すきなもの」は考えてもいいが、「きらいなもの」や「ほしいもの」は考えてはいけないとでもいった感じであろう。

母親や同居する男性からは虐待を受け、他人にはそれを隠さなければ生きられないという、どうしようもない環境にありながらも、この子の救いは「きらいなもののことを考えちゃだめなの。すきなもののことをずっとずっと考えるの。」という言葉である。

「すきなものノート」を読みかえすことである。

本を読む女の子


これが「ほしいものノート」では、とても耐えられない。

「すきなものノート」と「ほしいものノート」を比べたとき、今の世の中では「ほしいものノート」を作って、何かを追い求めることにこそ生きがいがあるかのようである。

しかし、何かを追い求めて、持っていないものを手に入れないと満足しないものなのだろうか。

今持っているもので満足するというのは、それではあまり価値を感じないとでも言うようである。

実は、欲しいものというのは、まだ手の中にはない。
手に入るかどうかは、まだわからない。

今好きなものは、すでに手の中にある。

未来は、魅力的ではあるが、あてにならない友達である。
過去は、色あせてはいるが、堅実な友達である。
そして今いない友達とは、話すことは出来ない。


希望を持っていてこそ生きがいがあるとも言えるが、
「すきなものノート」と「ほしいものノート」、
こうして2つを比べてみれば、どちらが幸せにしてくれるかという、見方が変わってこないだろうか。

いま持っていないものをあこがれずに、「すきなものノート」でいまの楽しみを充分に味わうことは、決してそれほど捨てたものではないはずである。
そして、それしかないときには、一番頼りになるものである。

「あてにならない未来が実現したら、その時は」という思いは、目の前の現実を見えなくしてしまう。

「回る椅子。・・・ネコと目が合うこと。・・・雪をふんずける音。・・・クリームソーダ。」
そんな楽しみを、いま自分は味わっているだろうか。

「すきなものノート」を読み返してみる時間がとれているだろうか。


Mother(日テレサイト)

※写真は、日本テレビ ドラマ「Mother」とは関係ありません。


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老荘思想のコラム連載(4)

COCORiLA (ココリラ) ?癒しのポータルサイト?』様にて老荘思想のコラムを連載中です。

無為(wu-wei)
老子の思想の中でも、特に有名でありながら、その意味がとりわけ難解なのが、この無為という言葉ではないでしょうか。
老子は言います。
「そこで私は行動を起こさないことの恩恵を知る。言葉なき教えに従えば、行為しないことはこの世に比べるものがないほど有益なものである。」
日本語では無を為すとも読めますが、英語で「no-action」あるいは「do nothing」では何もしないという否定になります。
無為という言葉で、老子は何を言おうとしたのでしょうか。
言葉通り何もしないと解釈したのでは、訳がわかりません。
ここはやはり、無為とは作為を否定するという、老子によくある逆説的な意味合いに受け取るのがよさそうです。
老子は、作為的なもの、人為的な決まりごとを嫌い、タオに任せるのがいいのだと説きます。


続きは、以下のサイトで

「現代社会と老荘思想(4)」 2010/05/02

渓谷雪



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すぐにYES・NOを決めない

世間では、自分の考えをハッキリ示せることを、評価する傾向があるかと思います。

たしかに、むやみに優柔不断なのも考えものですが、だからといって、何に対しても即座に自分の考えを、どちらか一方に決めないといけないと考えすぎない方がいいでしょう。

意見を示せと言うのは、社会の側の都合であって、何にでも自分の考えがハッキリ決まっているわけではありません。

というよりも、考えたことのないことには、どちらか決めかねることの方が多いでしょうから、保留するという選択も、あって当然なわけです。

何を言いたいかというと、安易に周りや社会の傾向に合わせて、自分の意見を決めてしまわないということです。

インターネット情報


とくに最近は、ドッグイヤーよりも、さらにどんどん加速している感じがします。

1年前には予期しなかったことが、起きてくるといっても過言ではありません。

それに加えて、ネット社会になってくると、情報量はどんどん増えていきます。

とても、その都度、すぐに判断を下せるような情報量ではありません。

情報を遮断するというのも、ひとつの方法ですが、そうではなく、積極的に判断を保留するというやり方もありではないかと思います。

なんでもすぐに決断すると決めていては、社会の流れにそのまま乗っかってしまうしかありません。

せっかく多様な選択が出来る時代に生きているなら、本当に自分に合ったことを選んでみたいものです。

そして、当然それ以外は、捨ててしまうことです。

全部受け入れている時間はありません。

自分で選びたいなら、何を捨てるかを決めると共に、選ぶことにはじっくり時間を掛けましょう。

それは偏った親切さを持つ情報が多いからです。

個々の情報については親切に教えてくれても、何を選ぶかということについては、親切でもないし、それがわかっている人が、いるのかどうかも怪しいものです。

自分で選択するように注意していないと、すぐに大勢に流されてしまいます。

選ぶ1


そこで最初に言ったように、何に対しても即座に自分の考えを、どちらか一方に決めないといけないと考えすぎない方がいいでしょう、という話になったわけです。

積極的に態度を保留するのも必要ではないかと思っています。

KY(空気が読めない)という言葉がはやっている時代です。

この言葉も、それが必要な場面はあるのでしょうが、むやみに使われると、少し心配になってきます。

「空気が読めないと、言われないようにしよう」というのは、大勢に合わせようと言うことにほ他なりません。

みんなでKYを避けていたら、どこに行くことになるのでしょうか。

考えようによっては、非常に怖いです。

空気が読めないと言われようとも、自分の判断を大切にした方がいいでしょう。

すぐに賛成か反対かを決めることもないでしょう。

だれも、急がす人はいません。あなたがそれを許さないかぎり。


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