« ホーム »

今日はいい日だった

A.チャーリー・ブラウン
今日はいい日だったな・・・バカなことはひとつもしなかった・・・」
B.ルーシー
「じゃあ、何か気のきいたことはしたの?」
A.B.
「・・・沈黙・・・」

わたしたちの普段の暮らしでは、Aのように悪いことが起こらなかったことを喜ぶか、Bのように役に立つ働きをできたかどうかの反省が、メインテーマになりやすいようです。

片方によかった出来事、反対側に悪い出来事をおいた軸上で、今日の自分を評価しているかのようです。

しかし、よかった、悪かったと感じる評価はいろいろな要素が入り交じっていると考えられます。

  男の子オー          女の子ベンチ


仮に、客観的な出来事の評価軸(現実の軸)、あなたが考えた評価軸(思考の軸)、あなたが感じた評価軸(感情の軸)というものを想定してみましょう。

現実の軸 よかった <----------------|------------------> 悪かった

思考の軸 よかった <----------------|------------------> 悪かった

感情の軸 よかった <----------------|------------------> 悪かった

現実の軸は、あなたがどう考えていたかや、どんな気分でいたかに関係なく、現実に起きたことを評価します。

思考の軸では、あなたの考える物事の評価軸です。
これはあなたの普段の思考パターンに大きく影響されます。

思考パターンは人それぞれ無数に存在するでしょう。
チャーリー・ブラウンのように失敗をまず思い出して悲観的に物事を捉えやすい。
自分の努力の度合いで物事の結果も決定されるという信念を持っている。
自分の考えたことが現実を左右すると信じるひとである。
自分の考えを持ってはいけないと信じ込んでいる。
などなど。

感情の軸は、あなたが感じる出来事の善し悪しを軸にしたものです。
これはあなたが普段抱きやすい感情傾向に大きく左右されます。
基準になる感情の位置は、ひとによって異なります。
基準が悪い方に偏っているひとは、まん中くらいの出来事であっても、いつもよりよく感じられるかもしれないといった感じですね。

3つとも仮想の軸ですが、特に思考と感情の軸は、お互いに影響しあうものですから、独立した軸としてみるのは難しいかも知れません。
思考が感情を生み出しますし、逆に思考は感情に影響されてしまうからです。

さて、わたしたちが1日を振り返ったとき、いい日だったと感じるかどうかは、どのように決まるのでしょう。

思考は、もともと物事の問題を解決する方向で働くものです。
現実の軸で結果がまん中だったとすると、思考は出番がないので退屈します。

退屈なので、なにか問題を作り出そうとするかもしれません。
いつも気になっていることを思い出して、特に必要も無いのに、今日も考えておくことで満足しようとします。

あるいは、他の人との関係において、おなじみの感情を味わうというゲームを演じたくなるかも知れません。これはあなたの感情の軸に影響されます。
感情の軸からみて、刺激が足りないと思えば何かイベントを発生させようとするのです。

あなたの思考パターンからして、ほどよい出来事が起きると、リアルに感じ適度な満足感を得られます。今日は安心して眠れると感じるかも知れません。

あなたの思考パターンでは手に負えないような出来事が起きると、あなたはどう考えていいのかわからなくなり、いつもの思考パターンが役に立たないという事実に直面します。
あなたは、新しい思考の拠り所をさがす必要を感じることになります。

そんな場合には、現実の軸と比べて大きく偏った思考の軸を作りあげるかも知れません。
たとえば、これは見かけほど重大な問題ではないと過小評価しようとする適応の仕方をするのです。
逆に大した問題が無いと、いつもは無視しているような小さな問題が、格上げされて考えるべき問題になったりします。

以上書いただけでも結構入り組んできましたが、今日がいい日だったかどうかは、実は現実の出来事で決まるような単純なものではないだろうと想像できます。

それでは、どうやって混乱しないで、自分とつきあっていけばいいのかというのが問題ですね。

まず、「現実の軸」にできるだけ忠実であればいいかというと、そんなに簡単ではないのです。

それは、思考や感情というのも、あなたにとっては現実であるからです。
出来事からどんなに遊離していようと、いまのあなたにとっては、あなたの思考や感情がリアルなものなのです。

それらをむりやり変えてしまっても、見せかけの自分と本心からの自分を、分離させてしまうだけです。

まずは、あなたの思い込んでいる「わたし」がどんなものかに気づくことです。
それには、これこそがリアルな自分だと思えたとしても、いまの「わたし」とは誰かと問いかけてみることです。

ほとんどの「わたし」とは、あなたが両親や兄弟、身近な人達から取り込んだ信念から出来上がっています。

あまり「これは、わたし独自の考えだ」というような幻想を持たない方が、柔軟に対処できると思います。

思い込みや信念を見分けるには、それに対する反論に対して自分がどのように反応するかが目安になるでしょう。

他の人からの反対の気配を感じただけで、動揺し始める自分を感じたら、その正しさを守ろうとする防衛が働いているということです。

それがどれほど強いかで、あなたの思い込みも発見できるのではないでしょうか。

混乱の原因である、あなたが作りだした「守るべき自分」を無くしていくということです。

守ろうとする自己を抱えることは、あなたにそれを維持するためのエネルギーを使わせ、価値観にはゆがみを作り出します。

柔軟な発想ができるほど、あなたの思い込みは取り除かれてきていると言えるでしょう。

参考
いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント
エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02




気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
客観視できる自分
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-90.html
プライドを捨てよう
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-98.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







ジョハリの窓

ジョハリの窓」というのを聞かれたことがあるでしょうか。

まずはウィキペディアからの紹介です。

ジョハリの窓とは、自分をどのように公開し、隠蔽するか、コミュニケーションにおける自己の公開とコミュニケーションの円滑な勧め方を考えるために提案されたモデル。

1955年夏にアメリカで開催された「グループ成長のためのラボラトリートレーニング」席上で、サンフランシスコ州立大学の心理学者ジョセフ・ルフト (Joseph Luft) とハリー・インガム (Harry Ingham) が発表した「対人関係における気づきのグラフモデル」のことを後に「ジョハリの窓」と呼ぶようになった。 ジョハリ (Johari) は提案した2人の名前を組み合わせたもので、ジョハリという人物がいる訳ではない。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



ジョハリの窓」は、自分とはどういう人間であるかを、「自分で気づいている自分」と「他人から知られている自分」という2つの軸で4つの窓に分類したものです。

ジョハリの窓


[A]開放の窓「公開された自己」(open self)
この窓は、自分も他人も知っている自己です。

これは他の人から見れば、この人はこういう人だと分かる部分ですから、これが占める割合が大きいとコミュニケーションしやすい人だと映るでしょう。

自他共に認める部分ですから、後で述べる点を除けば、これが問題になることはあまりないでしょう。
そして課題というか、可能性を秘めているのは、この後に続く隠された自分であるわけです。

[B]盲点の窓「自分は気づいていないが、他人からは知られている自己」(blind self)

この窓は、他の人からは、この人はこういう面があるとわかっているのですが、自分ではそうだと気づいていない自分を表しています。

「へー、わたしはそんな風に見られているのか」と人から聞かされて気づく面ですね。

あなたが「自分はこういう人間だと見てもらいたい」と思っている自己がある一方で、それに気を取られて、自分では置き去りにしてしまっている自分なのかも知れません。

それは、社会から見た場合、いい面であるかもしれないし、悪い面であるかもしれません。

しかし、良くても悪くても気づいていない自分を発見して、その上でどうしたいのかを考えればいいわけで、知らないままよりは気づくことが大事だといえるでしょう。

もし「自分はこういう人間だと見てもらいたい」と思っている面が強すぎると、存在を認められない自分が表に出ようとして、問題を生じる可能性があります。

「そんな風に見られているのか」に気づくことで、新しい自分を発見して可能性を広げることが望ましいと言えるでしょう。

[C]秘密の窓「隠された自己」(hidden self)

この窓は、自分は存在を知っていますが、他の人には知られていない自己です。

先程の「自分はこういう人間だと見てもらいたい」という理由から、あえて他の人に見せないようにしている自分かもしれません。

あるいは、他の人からは目立たないけれど、自分では当たり前の自分だという場合もあります。

それは、自己主張しようとしないために、人から知られていない自分であるのかもしれません。

Bの場合と同じように、それが他の人にとっても、知ってもらった方がいい可能性もあるわけです。
つまり、他の人から見れば、「そんな才能を隠していたのか、もっと見せればいいのに」と思われるかも知れないわけです。

[D]未知の窓「誰からも知られていない自己」(unknown self)

この窓は、自分も他人も知らない自分です。

誰も知らないのですから、未知の部分であり、存在するかどうかは可能性でしかないかも知れません。

手がかりがないので、いきなりこの自己を探すことはできませんが、別の自分を発見することで、この窓の自分が発見される可能性はあります。


ただ、以上で扱われている自分や他人に知られている自己というのは、必ずしも「ありのままの自己」であるとは限りません。

どちらかと言えば、社会的な自己といえるものです。

自他共に認める特性であっても、実は無理をして見せている自分であるかも知れません。

自己の探求は、思い込みをさけて、現れたものを評価せずに観るという姿勢が必要です。

社会的な自己とは、別の自分があるという可能性を忘れないようにしたいと思うのです。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
自分の中の天使と悪魔
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-198.html
批判したくなる相手にあなたを発見する
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-202.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







誰も振り向いてくれない

チャーリー・ブラウンが木の後ろにかくれて、赤毛の女の子の家を観察しています。

「赤毛の女のコが住んでいる家を見ているのさ...でも運悪く彼女はぼくという人間の存在に気がつかないんだ」

ドラマの世界であれば、ここで何か事件が起こり、二人が知り合いになる機会が生まれるかも知れません。

しかし現実にはそんなことはまず起こらないのです。

ところが、このような張り込み?は、何らかの努力をしているという気にさせる働きがあるのです。それが、現実的には何もしないのと同じであっても。

その幻想は、やがて現実とのギャップに向き合わざるを得なくなり、やっぱり「誰も私を振り向いてくれない」という思い込みに発展していきます。

自分の現実の行動がもたらしている、必然的な結果であるとはわからなくなってしまうのです。

男の子悩む               女の子笑う


自分の性格とか行動傾向というのは、タイプの違う人が見ると一目でわかることでも、自分ではなかなか気がつきにくいものです。

あなたの行動では期待した結果をもたらさないよ、と人から指摘されても、自分のことは自分の方がよく解っているつもりになったりします。

人との出会いは、待っているだけで、向こうから誘いが来る場合もありますが、普段から同じように自分の側からの働きかけを、行っているのが普通です。

しかし往々にして、出会いのなさを嘆く人には、声をかけたいなら向こうから来るべきだ、と期待している人がいたりします。

世の中には、いろいろな人がいますから、自分から声をかけてもうまくいかないことも当然あります。

極端に排他的で、あまり知らない人間に対しては、警戒心が強い人もいます。
そういう人には、気軽に話しかけても「なんて厚かましい人だ」という顔をされて、追い返されるかも知れません。

しかし、そのような例ばかり気にしていたのでは、「誰も振り向いてくれない」という確信を強めるだけです。

そのようなケースはむしろ例外であり、こちらの呼びかけに喜んで答えてくれる人の方が、普通にいるものだと信じられるかどうかです。

「自分が心をさらけ出したのに、もし相手が受け入れてくれなかったどうしよう」という恐怖がそこにあるのかも知れません。

しかし「卵が先か、鶏が先か」ではありませんが、傷ついた経験が自分を臆病にしてしまったのかも知れませんが、自分からの接触を避けている行動パターンが、いろいろな人がいることを確認する機会を奪っているということもあるのです。

バケツいっぱいの魚を欲しいと思っていても、網も釣り竿ももたず、容器もコーヒーカップ程度では希望は叶いません。
さらには、そのコーヒーカップもフタをしたままかも知れません。

お節介なルーシーが助けてくれるとは限らないのです。

参考
いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント
エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02




気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
与えることと受け取ること
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-182.html
まわりの人はあなたに与えたがっている
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-186.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 幸せになる考え方
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







どっこい生きてる

チャーリー・ブラウンとルーシー、「ピーナッツ」に出てくる登場人物ですね。
スヌーピーの漫画と言った方がわかりやすいでしょうか。

チャーリー・ブラウンは毎回、失敗を繰り返しては自己を否定的に見るというのが、パターンになっているようです。

一方でルーシーは、対照的に自分のことを最高だと思いたがっている独善家です。
しかし実際にはヘマをすることも多いのですが、いいわけと毒舌で相手を言いくるめようとします。

しかし、2人とも失敗にもめげずに、毎回何もなかったように復活してきます。

けんかする子ども2


漫画の主人公だから、当たり前かも知れませんが、チャーリー・ブラウンのように毎回、自分を否定していたら、まわりの人から見てどう扱っていいかわからないような、悲観的な人物になってしまってもおかしくないのです。

それは、自己否定しているのが、社会的な自己だと割り切れているからかも知れません。

現実には、社会的な自己のイメージが否定されると、わたしたちは自分の存在そのものが否定されたように感じてしまうものです。

しかしチャーリー・ブラウンは、遊びやスポーツで失敗してみたり、女の子に振られたり、仲間から馬鹿にされたりするのですが、それでも社会を離れた自己への肯定は揺るがないのかな。

社会的な自分という存在をどう評価するかは、時代や済む地域によっても、自分への影響の度合いは異なってくるものだと思います。

都会に住むのと、人口の少ない地域に住むのとでは、個人の匿名性は大きく変わるものでしょう。
隣に住む住人でも、都会ではほとんど接触がありませんが、田舎では道を歩いただけで声をかけられるかも知れません。

どちらが、住みやすいと感じるかは、その人のタイプによって変わってくるでしょう。

ネットの社会になってくると、全くあったことのない人とやりとりすることも、当たり前になってきます。
おそらく、1日に接触する人数もネットをやっていれば格段に増えて来るでしょう。

ますます、社会的な自己への評価をうまく処理できないと、自分の自己評価の管理も難しくなってきます。

社会を離れた自分への肯定感、信頼感を維持できることは、より必要になってくるでしょう。

社会で否定されても、「どっこい生きてる」といえる人生観を持ちたいものです。

労働者


映画「どっこい生きてる」(今井正監督1951年)では、敗戦まもない頃の、ニコヨン(日給240円)の日雇いの労働者が主人公です。

大家から立ち退きを迫られて、妻子を田舎に送り、主人公は自分ひとりで木賃宿に泊まって仕事を始めるのですが、色々あって主人公一家は一家心中まで追い込まれていきます。

社会的な評価どころか、その日の食べるものに困る生活になったとき、人はどうやって生きる希望を取り戻せるのでしょう。

その時にものを言うのは、社会的な自己などではなく、自己の存在自体に対する、無条件の価値観でしょう。

誰がなんと言おうと、社会からどう見られようと、最後に生きる気力を持てるかどうかです。

社会的な評価に一喜一憂するのも、それだけの余裕があるからできることです。

無条件の自己への肯定は、残念ながら生育環境にも大きく左右されるような気がします。

何が起きても、自分を認めてくれる人間がいることを信じられること。
それは、考えただけで得られるものではないでしょう。

もし不充分だと思ったら、無条件の自己への評価を取り戻すこと(元々なかったわけではないでしょう)。
社会的な自己が自分の全てではないことを再確認すること。

これらは、真剣に取り組む価値のあることだと思います。

なにがあっても、「どっこい生きてる」。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
無条件に自分をOKだと言えるかどうか
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-38.html
無条件に自分をOKだと言えるかどうか(2)
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-39.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







時間にとらわれること

 瞑想は経験を継続したり拡張したりすることではない。経験には必ずその目撃者がおり、彼は常に過去に縛られている。それに対して瞑想は、あらゆる経験に終止符を打つことにほかならない全的な無行為である。経験的行為は過去に根ざしており、常に時間に縛られている。そこからは混乱の原因となるような行為が生まれるだけである。瞑想とは、過去に惑わされることなくあるがままの現実を見るような精神から生まれる、全的な無行為である。そのような行為は外部からの働きかけや問いかけに対する反応ではなく、働きかけと一体であり、それゆえ二元性がない。

クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔
J. Krishnamurti サンマーク出版 / 1998-09



時間にとらわれているとき、いま現在の目の前の働きかけと一体になれません。

ここでいう時間とはどういうものでしょう。

過去の経験は、現在のあなたにどのように影響を与えるのでしょうか。

過去の記憶とは、ビデオやDVDといったメディアに記録されたような、情報そのものの集まりではないだろうというのが、脳の働きから考えた場合の最近の考え方のようです。

それは、静的に蓄積された情報ではなく、動的に想起される手がかりから、いま現在において毎回作り出される思考のようなものです。

ですから、あなたがいま過去を描き直さないかぎり、突然思い出されるようなものではないのかも知れません。

そして未来というのも、思考によって作り出されたものです。
未来に不安を感じるという言い方をしますが、まだ起きていない未来自体には、不安を作り出す要素はありません。

それは、未来を想定したときに喚起される、過去の経験からの不安でしかないのです。
ですからあなたが思考から解放されていれば、未来への不安は感じないということになります。

蝶々が蜜を求めて、花から花へ移り飛んで行くとき、蝶は今日は蜜が得られるだろうかという不安は持っていないでしょう。

蝶


わたしたち人類も、祖先はそのような生活だったかも知れません。
その日その日の食料が獲得できたら、それを消費する。

獲物がないときは、飢餓状態に耐えなければなりません。
それは、食料がないことと苦しさを結びつけることを生み出したかも知れません。

飢餓状態に備えて、食べられるときにできるだけ食べて、体脂肪などの形でエネルギーを蓄えようとする身体が作られます。

そのうち、身体だけではなく、食料自体を外部に蓄積することを考え出します。
その日の獲物を、その日に消費するのでなく、後日のために保存する工夫を考え出すわけです。

動物と果実


食料が目の前に多く蓄積できたことは、より長く飢餓状態から解放される日が続くことに気づきます。
そして、食料の量を比較、計量することを考え出すことになります。

それは、裏返せば食料の少ないときは、多いときより嬉しくないという感情を生み出したかも知れません。
さらには、貯蓄の少なさに、未来への不安を感じることへとつながってきます。

このように考えれば、目の前の現実だけにかかわっているとき、問題になる思考はかかわってこないことも想像できます。

瞑想とは、過去に惑わされることなくあるがままの現実を見るような精神から生まれる、全的な無行為である。


「瞑想」という言葉が使われていますが、これは「瞑想」という名の修行の様な行為を指しているのではなく、生き方そのものの意味で使われています。

ここでいう「全的な無行為」とは、いいかえれば思考に影響されない、見ることと行動することが一体となった行為ということでしょう。

そしてまた、「全的な無行為」とは、時間にとらわれない生き方にほかなりません。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
恐怖心はどこから来るのか
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-93.html
なぜ混乱してしまうのでしょう
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-144.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







問題を作り出しているのは誰でしょう

「変わらないこととは和解しましょう」では起きてしまったことに対する対処を書きました。

変えられないことに抵抗することは2つの点で問題があります。
1つは解決しないから時間の無駄であること。
もう一つはさらに無駄なことに、それが問題を強化してしまうことです。

たとえば、あなたは過去の自分が許せない。
あれはそうであるべきではなかった。
もっと別のことが起きていれば良かったのにと思います。

しかし起きたことは変えようがありません。
過去を変えてしまう魔法はありません。

過去はあなたの心の中にあります。
心の問題なのですから、そのまま受け入れるしかありません。
過去を認めて和解しましょう。

あなたはどう考えたところで、過去にそういう人間であったのです。
それは今でもあなたの一部なのです。
和解して共存するしかありません。


今回は、新しい問題を作りださない方法を考えましょう。

それは、問題を作り出しているのが誰かを探ることです。

あなたが不安や恐怖を感じているとき、それが誰であるかを探るのです。
不安や恐怖は、あなたが何かに依存するときに生まれてきます。
なにかが無いと困ると思っている、そのあなたは誰でしょうか?

あなたが「ねたみ」や「やきもち」を感じるとき、それが誰であるかを探るのです。
他の人があなたの欲しいものを持っていれば、あなたはそれをねたみます。
それが他人への依存であれば、あなたは「やきもち」をやきます。
それを欲しがっている自分とは誰でしょうか?

          考える若者

それがたとえ重大な問題であろうと、些細な問題であろうと、原理は同じです。
あなたの期待が、その裏返しとして問題の感情を作り出すのです。

欲しがっている「わたしの想念」を見つけてそれを受け入れるとき、あなたの本来の自己が顔を出します。

問題は、「わたしの想念」が作り出していたことに気づきます。
本来の自己には、何も問題が無いことに気づきます。

あなたが見つけた「わたし」が存在しないとき、問題はもともと存在しなかったことを発見するのです。

しかし、あなたが本心から本来の自己を探求しないとき、それは根本的な解決にはつながりません。

あなたが、いま目の前の問題を消し去るためだけに、「わたし」を見つけようとするとき、それは、新しい「正しいわたし」と「間違ったわたし」を定義し直すだけだからです。

このときあなたは、この「わたし」をあきらめることにする、ただし「これだけは譲れないけどね!」という別の「わたしの想念」を行為者として堅持し続けるのです。

どんな条件もなしに、手放した後の平安を感じられるなら、それが条件付けられていない本来の自己だとわかります。

まだ不安が残るのは、まだ手放せない「わたしの想念」が残っているということです。

もともと持っていない自分を作ろうとしているなら、それは本来の自己ではありません。
それは、かならず新しい別の問題を作り出します。
それでは、堂々巡りになるだけです。

疑うわたしとその源泉を見つけ出せば、その疑いはやむでしょう。
その源泉をたどっていけば、何も疑わない本来の自己にたどり着くことになるでしょう。

自分で作り出さないかぎり、本来何も疑いはなく、無条件の平安が存在することに気がつけます。

時として、あなたのまわりの文化は、これはどうしようもない問題だと教え手放すことに不安を植え付けます。

しかし、あなたが源泉まで遡って問題がないと確信すれば、それにしがみついている必要はありません。

あなたは、ダイエットやメタボ対策といった健康管理には気を配るけれど、あなたを苦しめる信念には無頓着なのかも知れないのです。

それは、作られたものではなく、本来あなたが感じていた自己であり、時として日常にも顔を出していたあなたそのものです。

それを取り戻すのは、あなたの正直さとあなたの真剣さにかかっているのです。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
恐怖心はどこから来るのか
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-93.html
執着・ねたみ・やきもち
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-142.html
変わらないこととは和解しましょう
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-129.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 幸せになる考え方
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







ドリームブッククラブ作品公開中

前回はアルファポリス「エッセイ・ブログ大賞」で皆様から応援いただきありがとうございました。
現在アルファポリスドリームブッククラブ」にて作品を公開中です。
『タオに生きる?もっとこころを穏やかにする3ステップ』
今回は携帯投票などの支援方法になっています。「エッセイ・ブログ大賞」の時と異なりますが、ご覧になってみてよかったら応援して下さい。

作品のご感想など書き込みできます↓↓
アルファポリス作品の掲示板

ドリームブッククラブ掲載内容

「もっとこころを穏やかに暮らしたい」と願うなら、いままでの常識にとらわれたままでは、心からの解放は難しいのです。それはあなたの今の常識そのものが、あなたの束縛をもたらす原因でもあるからです。

今までのブログ記事を「こころを穏やかにする3ステップ」として編集、加筆しまとめてみました。

ブログと違ってカテゴリーごとに、またステップを踏んで読んでいただければ、新しい発見があるかも知れません。
少し、いままでの常識にとらわれずに心の冒険をしてみませんか。

タオに生きる
もっとこころを穏やかにする3ステップ

 
【心理編】
  まずは本来のあなたを取り戻しましょう
  誰が主人公か?
  誰が主人公か?(2)
  もったいない
  ストレスに強い人は
  短所を見なおしてみよう
  グレーの領域
  寂しいのは自分がここにいないから
  次は対人関係を見直します
  他人の中に見る自分のこころ
  他人の中に見る自分のこころ(2)
  他人から批判されたら
  なにが期待できるかを知ること
  無条件に自分をOKだと言えるかどうか
  無条件に自分をOKだと言えるかどうか(2)
  素直な人はやわらかい
  他人に認めてもらいたいんだけど
  嫌いな人とのつきあい方
  相手に嫌われまいとすることの誤解
  批判を恐れる心理
  共依存(共生関係)とは
  共依存から脱却するには
  こんどは今のあなたの財産を見直し
  これで充分
  今の自分に満足することからはじめ
  いつでもいまが最高
  自由は自分の内から
  楽しいことは当事者意識で
【老荘思想編】
  手放すのが唯一の解決
  あとはおまかせ
  まかせること(あずけること)
  荒木のままでいる
  「何とかしなければ」から「どうし
  恐怖心はどこから来るのか
  あなたの理想はなんでしょう
  プライドを捨てよう
  競争に疲れ果てたと感じる人へ
  笑い飛ばすこと
  絶望はあなたを解放する
  老子の道はあたりまえの道
  結果を目指さずトータルに生きる
  準備された行動のもたらすもの
  シュレディンガーの猫
  何も出来ないことは放っておきまし
  混沌王の死
【さらなる解放を求める方へ】
  行為者になろうとしないこと
  行為者になろうとしないこと2
  行為者になろうとしないこと3
  それは誰の世界ですか?
  自然のままで十分?
  牛をさばく料理人
  私が致していることはタオに従うこ
  明け渡すということ
  観察すること
 



ドリームブッククラブにて作品を公開中です。↓↓
『タオに生きる?もっとこころを穏やかにする3ステップ』

→携帯からの投票はこれをクリック←

作品のご感想など書き込みできます↓↓
アルファポリス作品の掲示板

気に入っていただけたらポチット応援お願いします ↓↓


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 幸せになる考え方
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







ゴープラムの彫刻

例えば、ゴープラム(寺院の塔)の土台に彫刻された像は、あたかも塔の重みをその肩に乗せているかのように見える。その姿はたいへんな努力で塔の重みに耐えているような印象を与えている。
だが、考えてもみなさい。塔は地面の上に建てられ、その土台の上に立っている。そして彫刻の像は塔の一部にすぎず、ただ塔の重量に耐えているように見えるだけなのだ。
おかしくはないかね?
自分が行為をしていると感じる人もまた同じことである。

あるがままにラマナ・マハルシの教え
ナチュラルスピリット / 2005-12


わたしたちは、ふつう自分が行為者であると信じて何かをやり遂げようとします。

自分の意志でものごとを動かしていくのが、当たり前のことだと疑いません。

たとえ、うまくいかないことがあっても、何かが足りなかったのであって、意志を貫けばいずれ解決するものだと思います。

しかしこのように考えるには、全ては自分でコントロール出来るものだ、という前提を信じなければなりません。

これは必ずしも当たり前とは言えないのです。

少し考えれば、あなたも自分の思ったとおりには、運ばないことがあると認めているはずなのです。

自分が行為者であるという信念、一度見直してみることは、あなたに新しい視点をもたらすかもしれません。

自分がコントロールできると考える度合いというのは、おそらく人によって違うものでしょう。
それはまた、時代や文化によっても違ってくるでしょう。

ある人は、全て自分の意志で行うことにのみ、価値を見いだします。
自分が思ってやったことだけが、価値があると考えるのです。

しかし、なぜそう考えるのでしょう。

偶然起きることには、価値がないのでしょうか。
また、自分の意志によらないことには、価値がないのでしょうか。
あなたの身体が、無意識のうちに活動していることには価値がないのでしょうか。

そして、自分の意志と結果に一致が見られることが、それほど唯一の素晴らしいことなのでしょうか。

自分の目指したことが、それに対して努力してきたことが、最後に達成できたとき、それは確かに歓びをもたらします。

しかし、全て自分の意志であったかどうかは、それについての必要条件なのでしょうか。

何かを一生懸命やり遂げたとき、それが誰の成果であるかにかかわらず、歓びを感じるものではないでしょうか。

実は自分が行為者かどうかは、二次的なものに過ぎないのかも知れないと考えてみて下さい。

オリンピックで、選手がメダルを獲得する。
そのことについての、歓び方は人によって異なるでしょう。

しかし自分がその選手との関係性が深いか、浅いかにかかわらず、誰かの努力が報われたことに対して無条件に喜ぶ感情というものがあると思うのです。

どれだけうまくできたかに対する感じ方も、人それぞれです。

10勝0敗でないと満足出来ない人、6勝4敗ならよしとする人、1勝でも価値があると思う人がいます。それから、0勝10敗は意味がないことなのでしょうか。

考えてみれば、自分が行為者であることにこだわるのは、そのように信じ込んできた文化的なものがほとんどではないかと思うのです。

アジアの寺院1


そして、文頭で紹介したラマナ・マハルシは、自分が行為者ではないと認めることが、あなたを不幸から救うのだと言います。

自分が行為者で在ることを全面的に放棄することが、あなたを解放すると言うのです。

このような宗教を信じましょうと言っているわけではありません。
しかし、少なくともこのような考え方は、あなたの信念を大きく変えてくれる視点をもたらさないでしょうか。

あなたが行為者でないとき、あなたに起きることは、あなたの行為によるものではありません。
あなたの失敗は、あなたの責任ではないのです。
あなたの成功は、あなたの責任ではないのです。

そんな無責任な話は通用しない、といわれるでしょうか。
何をやっても、自分には責任がないと逃げてしまうことを許すのか、そんなばかばかしい話は論外であると、あなたは主張します。

しかし、そう考えるあなたは、行為者で無いからといって、実際にはそんな無責任なことはしないのです。

行為者であることを信じるにしても、放棄するにしても、あなたはあなたなりの責任感から行動するのです。

また「そんな話はばかばかしい」と考えることも、あなたがその考えの行為者ではないのです。

あなたは、あなたの思うとおり、行動すればいいのです。
そして同時に、あなたは行為者ではないと信じることもできるのです。

ゴープラムの彫刻であるあなたは、塔の柱の一部です。

あなたが、塔の柱の一部として、力を抜かずにがんばり続けようと、手を離してしまおうと、あなたは塔を支え続けている事に変わりはないのです。

そう思って、塔の一部になりきるとき、あなたには塔の重みに耐える必要はなくなるのです。
あなたは悠然と塔の一部に溶け込むのです。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
明け渡すということ
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-208.html
行為者になろうとしないこと2
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-212.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







私の方が正しい

思考自体が永続しないものであり、絶えず変化するものであって、それゆえ思考が不滅なものとして捻出するものは、それ自体と同様に、永続性がない。

クリシュナムルティ krishnamurtibotより



わたしたちの記憶というのは、身体のどこかに、そのまま記録されているようなものではないそうです。
DVDやハードディスクに記録した情報のように、固定した記録がどこかに残っているわけではないのです。

それは、わたしたちの身体が、日々作り替えられているものであることに起因するようです。

記憶の在りかは、まだ正確には突き止められていないようですが、常に代謝を繰り返している細胞からできたわたしたち身体は、ほとんどは作り替えられることを繰り返している訳で、特定の場所にそのまま記録されているようなものでは無いのです。

記憶とは、それを思い出すときに、手がかりを頼りにして、新たに刻み直しているようなものなのかも知れません。

そんな曖昧さを伴う記憶を頼りにした思考というのも、当然記録された文章のように正確なものでは無く、終始一貫したものではないと言った方がいいでしょう。

一貫しているように見えるとすれば、それは毎回修正し直しているからなのでしょう。

動物と果実


生きている身体は、常に作り替えられて維持されています。
生きていることは、常に変化しながら流れていくものです。

これに対して、思考というのは、固定した言葉を使って行う行為ですから、常に変化する現実の流れから分離したものになりかねません。

自分の考えは終始一貫していると主張することは、生きていることの流れに逆らって、変化しないものを作り出そうとしているのことなのです。

私の正しさを主張し続けるには、ときとして変化しつつある本来のわたしと、決別しなければいけなくなるのです。

社会は、あなたに一貫性を期待します。一貫した言動を要求します。
ときには、一貫しないことをとがめて、法律で罰するかも知れません。

社会は作られたもの、固定したものですが、一方で本来のあなたは、日々変化する存在です。

生きることは、流れていくことです。
一貫した自分を作りあげることは、流れに逆らうことです。
そこに、あなたの苦しさの原因が潜んでいるのです。

固定した思考の作りあげた世界は、生きている本来のあなたとは分離して、独立して存在し続けようとします。

あなたが、自分はこういう人間だと決めてしまうことは、分裂を作り出し、生きている流れに逆らうことが苦しさを作り出すのです。

誰かの言ったことを、矛盾していると指摘して、その言質をとらえて批判することは、このような見方からすれば、むなしいものに思えてこないでしょうか。

生きていくことが、常に変化する流れであると考えれば、首尾一貫することはそぐわない。
論理は固定した思考であって、変化しようとするあなたを束縛することにもつながります。

融通を利かせることは、肯定的、否定的、両方の意味合いでとらえられますが、生きていくものにとっては、こちらの方が自然なあり方なのかも知れません。

言葉にすれば、一貫して見えることも、無数とも言える因果関係をかいくぐって、かろうじて起きているのかも知れません。

科学的なアプローチは正しい、その一方で文学や詩や宗教というものも、科学では説明できなくても存在し続けます。

それは、固定した思考が、いま述べてきたような、「生きること」とそぐわない面を持つからかも知れません。

いずれ片方がもう一方を凌駕すると考えるのではなく、どちらも必要だから存在するのであり、現実に生きているわたしたちを、置き去りにするようなものであっては意味がないと考えるべきでしょう。

子どもの頃、コウモリの寓話を聞いた記憶があります。
コウモリは、鳥の仲間に対しては自分が鳥であると主張し、獣の仲間に対しては自分が獣であることを主張します。
結末ははっきり覚えていませんが、あまり好意的なものではなかったような気がします。

ですが、生きることは、どこかコウモリのようなあり方も要求するのかも知れません。
一冊の本に書かれたとおりに単純に進むようなものではなく、常に変化する優柔不断な面も受け入れて、呑み込まなくてはいけないものだと思うのです。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
あの人のいうことは理解できない2
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-223.html
泥縄式時間
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-196.html
プラス思考は何を見ている?
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-194.html



ACR WEBブログパーツ

テーマ : 幸せになる考え方
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







いまここでの不安とは2

前回の「いまここでの不安とは」でコメントをいただいて答えている中で、すこし飛躍しすぎて不親切だったかなと思い直して、新たに書き直してみることにしました。

まず「いまここでの不安とは」というタイトルについてです。

「いまここ」にとどまるとき、わたしたちは不安を感じず、問題もありません。しかし実際には「いまここ」にとどまることは難しく、すぐにいまを離れて不安を作り出してしまうのです。

そこで「いまここ」で不安を作り出してしまうのはどういうことなのだろう、というのがタイトルの意味です。

前回はラマナマハルシを引用しながら、前半はそれとは別の視点からの書き方をしたのですが、今回はマハルシの考えに沿って書いてみることにします。

まず自我、真我という言葉などの予備知識を最初に説明します。

自我(個人的自己)とは、こころが生み出した作りごとで、真我の真の体験を覆い隠す、実質的には存在しない個人的自己のこと。

真我(真の私)は、個人の体験ではなく、非個人的な、全てを包括する覚醒。源。

真我は常に存在して、常に体験されているものなのだが、その本来のあるがままの姿に気づけるのは、個人的な自己による心の自己限定が無くなったときだけである。

         象の家族


マハルシは、この真我を実現するための修練の方法には二つ在ると言います。

一つめは真我探求。
何かの想念がわき上がってきたとき、それをやろうとしているのは、誰であるかを問いかける。
それが源である真我でないときには、つまり作り出された自我であれば、そのことを突き止めれば真我に融合されてそれは消えさる。
そうやって、自我を消し去っていくことで、真我だけが働いている状態を目指すというもの。

二つめは明け渡し
行為したり、欲望を持つ「私」という個人は存在しないこと、ただ真我のみが存在し、真我を離れて自分で行動するような行為者はどこにもいないと認めること。そしてこのことを、絶えず気づいているようにする。
いつでも「私は欲しい」とか「私がこれをおこなっている」といった個人的な行為や思考への責任を感じたら、直ちにこれを明け渡して、真我の中に留まるようにする。そしてすべては真我から起こってくるわけで、そのままそれを受け入れるということ。

二つの方法は、どちらにしても、自我は存在しないことを確信するための方法なのです。
私という想念を放棄すること、自己放棄するということです。
そしてそれらの方法で、最終的には、真我にたどり着き、その状態を維持できるようにするのがゴールなのです。

自分の無力さを認めて、至高の力に救いを求めるか、あるいは不幸の原因を探って、その源を遡って真我のなかに溶け去るかのどちらかだというのです。

ただし、これは、私の意志というのは無くなるということです。
自我は死んでしまうということを意味します。

ですから、個人的に「私はこれが欲しい」と思わないし、「私の成し遂げたてがら」というものもなくなるのです。

これは、裏返せば「私が欲しがる」ことが苦しさを作りだし、「誰のてがら」かが人間関係に問題を持ち込む原因ともなることは、お解りかと思います。

一面から見れば「自分の責任が無くなって、全部は神頼みなら楽だな」とか思われるかも知れません。
一方で「わたし自身の欲望がなくなってしまうのだと、それじゃ何にもならないじゃない」と思われるかも知れません。

それはお気に召すまま。

結論としては、真我の状態にあれば、「いまここ」には何も問題はなく、至福を感じられるのだということです。それを壊すものは個人的な自己、私という想念なのです。

このことを踏まえて、もう一度マハルシの言葉を掲載しておきます。

この場所にある感覚が至福だろうか? 
この場所を離れると不幸せになるとあなたは言う。
つまり、この平和は永久的なものではなく、他の場所で感じられた不幸せを併せもっている。
それゆえ、場所のなかや限られた時間のなかに至福を見いだすことはできないのだ。
その平和が永久的なものでないかぎり、あなたにとっては何の益もない。
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。

あるがままにラマナマハルシの教え
ナチュラルスピリット / 2005-12



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
明け渡すということ
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-208.html
行為者になろうとしないこと2
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-212.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







老荘思想のコラム連載開始

このたび『COCORiLA (ココリラ) ?癒しのポータルサイト?』様
にて老荘思想コラム連載することになりました。

「現代社会と老荘思想(1)」 2010/02/15

難しそうなタイトルですが、わかりやすく書いたつもりですので是非ご覧下さい。

『COCORiLA (ココリラ) ?癒しのポータルサイト?』様は、このようなサイトです。

  COCORiLA.jpg

癒しの情報専門のポータルサイトです!
スクールやワークショップ、カウンセリング、ヒーリンググッズなど..。
気になる商品の情報やクチコミはもちろん癒しの最新情報が気軽に楽しくチェックできます。


レバナ・シェル・ブドラ、足立幸子さんなどの書籍も購入できます。
この機会にぜひサイトを覗いてみて下さい。
COCORiLA (ココリラ) ?癒しのポータルサイト?


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 



ACR WEBブログパーツ

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







いまここでの不安とは

いまここ」にとどまるとき、わたしたちは不安を感じず、問題もありません。

しかし、それは今までの習慣から、すぐに将来への不安が登場してくるのです。
すぐに、過去の後悔を思いだして、いやな気分に浸ろうとするのです。

そこで、「いまここにとどまりなさい」という教えが登場します。

しかし、これはすぐに「そのようにがんばります」というゲームに置き換えられてしまいます。
それは、「いまここ」を外れた自分を発見してダメを言うという、今までと変わらないゲームになってしまうのです。

あるいは、「いつか理解できたらやってみます」というゲームに姿を変えるかもしれません。

どちらにしても、やっていることは、いままでと全く変わりません。

食事を取らない子

「やりなさい」といわれた子どもが、「がんばります」と答えてできない理由を考え出すのです。

それは、「身体にいいから食べてごらん」といわれても、嫌いなものは食べられない、見知らぬものには手を出したくないという状態です。

これを解決するには、実際に食べてみて、自分でそのおいしさを実感することです。

自分が至福を感じるときとは、未来にも、他の場所にも存在せず、いま感じているのが至福そのものであることを感じ取らないかぎり、ゲームに陥ることは避けられないのです。

わざわざ、問題を探しに、いまここを離れようとするのは、「そんなにいいことがあっていいのだろうか」という不安感に決別するところから始めないといけないのです。


かけっこ


この場所にある感覚が至福だろうか?
この場所を離れると不幸せになるとあなたは言う。
つまり、この平和は永久的なものではなく、他の場所で感じられた不幸せを併せもっている。
それゆえ、場所のなかや限られた時間のなかに至福を見いだすことはできないのだ。
その平和が永久的なものでないかぎり、あなたにとっては何の益もない。
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。

あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ナチュラルスピリット / 2005-12



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
いまここでの体験
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-126.html
起きてくる出来事
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-134.html
スケジュール病
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-143.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







地獄でアメン

今日の文章は、書こうかどうか迷ったのですが、気になる文章なので残しておこうと思い書くことにしました。

他の方の文章の引用が中心で、いつも書いているような文章にはならないと思います。

しかも、引用する文章は決して読みやすいものではなく、一二度読んでも、文章の意味自体を理解しにくいかも知れません。

その文章は、保坂和志さんの作品の「小実昌さんのこと」という文章からの引用です。
小実昌さんというのは、ご存じの方も多いと思いますが、作家の田中小実昌さんのことです。

小実昌さんが亡くなった後、保坂さんが小実昌さんの思い出を綴っている文章ですが、保坂さんによればこれは小説であると言うことです。

それから引用するのは、保坂さんの文章の中の、小実昌さんの作品の引用部分になります。
ややこしいので、小実昌さんの文章だけ引用して、保坂さんの文章は私の説明として書いていきます。

この文章は小実昌さんが、キリスト教の牧師だったお父さんの影響でキリスト教徒となるのですが、お父さんの信仰は「かなり特殊な」ものだったようで、そのキリスト教の信仰についてかかれた、「地獄でアメン」という文章からのものです。

 受(三)五 受けにおいて、はじめて救いの根本義にふれる。救いは、救われる願いに発する信仰を本意とせぬ。たとえ救うものが摂取するという信仰型でもおなじことである。この摂取信仰型では内的に信受という言葉を使っている。
受では信仰の「信」を許さぬのである。なぜなら中(ちゅう)する事実によって営まれる宗教では、信ずることによっておこる(もの)は、なにもないからである。もしここに絶対他力があるとすれば、そこには念仏はおろか信さえもいらぬはずである。このことは事実受けにおいて明らかになる重要点である。
 この重要点に気づけば、宗教とは神が神することで、人間が願望満足のために迫ったり、信受しようとするものではないことを、だいいちに知らされるのである。
 受けの救いは、神の中(ちゅう)、すなわち神の行するところに摂取され、ひとつ動きにあずかることで、人間の救い願望の成功所ではない。ましてや(神と人間との)相関性ではないから、こちらの信と先方の救い願望とが合致することでもない。
 受けの救は空(くう)せられつつゆく救いで、そこには神が神する事実にあれば、人が仏となることを前提としたものではない。たとえ自らを否定し高次の恵みに救われると仮定しても、そこはそのまま人にかえって、神と関係せぬのである。(以下略)


※ここまでは、お父さんの文章かと思われ、このあと小実昌さんの文章が続きます。

 中(ちゅう)と空(くう)のルビをふった。カッコのなかのことも、ぼくが書き添えた。中(ちゅう)となにか。なにかではなく、父の言い方によれば、中は中する事実だろう。中なんて言葉は聖書のなかにはあるまい。でも、中とは、神が神すること、イエスがイエスであること、イエスの十字架がつらぬきとおすこと、といったところか。
 父は事実ということを、よく言った。宗教はなによりも事実だ、とくりかえした。もちろん理性判断ではない。理性判断的なドグマ、教義みたいなことからキリスト教をきりはなしたとして、久布白直勝牧師はカントをほめている。
 世間の考えでは、宗教ぐらい事実から遠いものはないだろうに、父には、これこそが事実だったらしい。
 受けの救は空(くう)せられつつゆく救いで、の空も説明できないが、イエスを受けて救われても、ああ救われたと意識や自覚、ましてや心境にならないで、そこが空になり、空せられていくということだろうか。空なんてことも聖書にはあるまいが、空も中も、父はイエスにおそわったのだろう。



保坂さんの説明によれば、「受(三)五」というのは、整理番号のようなもので、お父さんが教会のパンフレットとして作成したもののからの引用だということです。

キリスト教というのは接点は多いのですが、どこかよその国の教えのような感じが消えないのですが、おそらくそれも教義にとらわれてしまうからかも知れません。

だからといって仏教なら親しみがあるかというと、その人の書き方次第で教義が目にはいってしまって、なにか違和感を感じたりするのです。

やはり言葉というものは、その人の思いを全て伝えるわけにはいかない限界があります。

まず言葉を使う人が、自分の思いの一部分だけを言葉に置き換え、それを受け取る側もその人の言葉のとらえ方から自分の思いに結びつけます。
両方で、ディスカウントとしてしまうわけで、伝わるものは、共通の了解らしきものだけになってしまいます。

閻魔大王顔


さて、この小実昌さんの文章ですが、まず引っかかってしまうのは、受、信、中、空とか神が神するとかいった言い回しでしょう。

単なる私の解釈で、間違っているかも知れませんが、このように読んでみました。

「受」:受け入れること、自己を明け渡すこと。

「信」:信じることですが、どこか教義に従うという表面的な意味合いでいっているのでは。

「中する、神する」:わたしたちがあずかり知らないところで、物事の起こっていく現れ。キリスト教の場合で言えば、神の意志による行い。

「空」:自分の側の願望や救われたという感覚もなくなり、また神が何かをしてくれたという関係もなくなることか。

保坂さんも書かれているのですが、
「これについて、ぼくがとやかくつけ加えるよりも、一読してわからなかったら、二度でも三度でも読んで下さい。」

ということで、何か感じられた方は、読み直してみて下さい。


「生きる歓び」 保坂 和志 新潮社 / 2003-08



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
無為
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-127.html
起きてくる出来事
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-134.html
まかせること(あずけること)
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-73.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







自然(じねん)

自然(じねん)というは、自はおのずからという、行者のはからいにあらず。
然というは、しからしむという言葉なり。
しからしむというは、行者のはからいにあらず。

親鸞


親鸞のいう自然(じねん)とは、まさに老子の「無為」と同じことを言っているように思います。

「おのずから、しからしむ」とは、ものごとが起きて来るのを、手を出さずに起こるまま起こらせると言うことです。

「起こらせる」といっても、自分の外側で起きることだけではありません。
自分の行動そのものも、同じように起こらせればいいのです。

手を出さないとは、いいかえれば、あれこれ頭で考えないことです。

「こうした方がうまくいくはずだ」、とか「うまくいくだろうか、心配だ」とかいった思いを働かせないことです。

思考を働かせ出すと、自然ではなくなってしまうのです。

達磨1


このようにいうと何か難しく聞こえますが、普段からわたしたちは、何も考えずに物事を処理し続けているのです。

それらは、普段からいつも当たり前にやっているので、あえて自分でやろうと思ってやっていないだけなのです。

そのことを忘れていると、わたしたちは、何でも自分で指示を出して物事を行っていると錯覚するのです。

しかし、むしろ意識してやっていることの方が、実際は少ないのかも知れません。

意識した指示(言葉や思考によるもの)を行わないまでも、わたしたちは、五感などを通じた刺激によって、ひとりでに物事を処理しているものです。

たとえば、朝起きて目の前に洗面台を見たとき、自動的に洗顔を行うようなことですね。
そこでは、意識した命令は介在しないままではないでしょうか。

では、意識せずにやっている自然の行動がある一方で、思考してからでないと行動できないのはどういう場合でしょうか。

それは、考えてやらないとうまくいかないと、自分で信じ込んでいる場合ではないでしょうか。

多くの場合、わたしちは「仕事」という名の場で、思考を働かせようとします。
それは、もちろん普段やり慣れていない、新しい作業だからかも知れません。

電話集中で混乱


初めてやることは、手放しでやれるわけはないでしょう。
しかし、何度かやっていくうちに、それも自ずから為されることに変わっていきます。

もし、必要以上に仕事に対することに緊張やストレスを感じるとしたら、自分からうまくいかないかも知れないという思考を、野放しにしているせいかもしれません。

やれることをやったら、自分で左右できないことについては、任せるしかありません。

なかには、それについて心配することが、何かの役に立つと考える人がいます。

気持ちはわかりますが、充分心配すれば、何とかなるように感じるのは、何もできないことへの代償行為でしかないでしょう。

そんなことをするくらいなら、やれることを充分やったかどうか確認する方が、意味があるでしょう。

そうはいっても、結果は気になってしまうものですが、それは何か祈るということと、混同しているのかも知れません。

祈りという行為が効果があると感じる方もいらっしゃると思います。

しかし、祈るとは、「自分にできることはすべててやったので、あとはおまかせします」と宣言することではないかと思います。

それは、むやみに心配して自らを苦しめたり、これだけ苦しんだんだから、神様も答えてくれるはずだと考えるのことではないのです。

自然「おのずから、しからしむ」にまかせられるようになれる、その分だけ、わたしたちのこころは、自由で平穏になれるように思うのです。

参考:人生の問題がすっと解決する 名僧の一言 (知的生きかた文庫) 中野 東禅 / 三笠書房




気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
無為
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-127.html
起きてくる出来事
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-134.html
まかせること(あずけること)
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-73.html



ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







世界を止めてみる

プラス思考という言葉は、いまでは当たり前のように、わたしたちも使うようになりました。

しかし、おそらくアメリカから輸入された言葉でしょうが、わたしたち日本人にはどこか、戸惑いを感じたり、借り物に聞こえるような気がするのです。

そんなプラス思考について、本場アメリカでの批判記事です。

Newsweeks誌の『安っぽいプラス思考』と題した記事より

広く世界を見るとヨーロッパの人達、特にイタリアの人達は幸福度が増している。アメリカこそが毎日プラス思考だ、繁栄理論だ、企業研修だとやっているのにその国の人達が幸せにならないのはどうしてであろうか。

バーバラ・エレンリーチは彼女の本の”Bright-Sided”の中で、プラス思考はとんでもない幻想であると言っている。常に湧き起こる問題を無視して、失敗をすれば自分を追及する手法は、不平等、無能、愚考に盲目になる訓練に等しいと主張している。

彼女の説によれば、プラス思考は陰気なカルビン主義への反発と、病気、不安への安直な慰めとして現れた。しかし、時間が経つにつれて次第に盲目的な楽天信仰になってしまった。プラス思考の中心には病気も、昇進も、金持ちも、強い意思で望めば何でもかなうの信仰があるであろう。しかし、実際は人がより快活を装うようになっただけのことだ。80年代、90年代を通して企業が人員整理をするようになると、プラス信仰、企業研修コンサルタントが繁茂した。そして国の富が急騰する一方で貧富の差は急拡大した。

「安っぽいプラス思考」
By Julia Baird | NEWSWEEK 2009年9月25日版 
http://mui-therapy.org/newfinding/happiness-isnt-everything.html



プラス思考は「目標達成=成功」に向けて、むりやり自分の期待にあった思考だけを採用しようとします。

そこから抜け落ちる思考や感情は無視され、ありのままの自分を見つめることから遠ざかってしまいます。

たとえ達成されても、「成功」の後の、つかのま味わう達成の喜びがあるだけです。

そのためには、そこに至るまでに、どこか本物でないという感じを押し隠しながら、自分を騙し続ける必要があるのです。

片方で、人生には成功することも、失敗することもあると認めながら、一方で成功だけが得られる方法を信じようという、ねじ曲げられた思考方法はうまくいくわけがありません。

結果の非難

プラス思考を信じれば、そうでない場合よりもメリットがあるはずだという信仰は、いい加減にやめた方がいいでしょう。

一見うまくいったように見えても、そんなことは、どちらにしても起こりえた程度の確率でしかないのです。

それよりも、プラス思考の弊害は、ありのままの事実をゆがめてしまうことにあります。

自分の信じたい夢の世界にいて、その世界にとって受け入れられることだけを信じることになります。
そのためには、無意識に自分自身に嘘をつく必要があるのです。

嘘で固めた夢の世界から抜け出すには、そのような思考に乗っかっている自分を振り返ってみる時間が必要です。

そのような世界をいったん止めて、その思考の世界を疑ってみる必要があります。

世界を止めるとは、解釈したくなる思考をストップして、ただ感じてみることです。

考える若者

いまの自分の夢の世界が、本物に思えるかどうかを感じてみることです。

そこに自分を騙している嘘くささが、感じられないか確認してみましょう。

全てを合理的に分析しようとすると、実際に起きていることを認識する能力を妨げてしまいます。

脳の働きという面からみれば、自分では意識して言葉にできないが、意識にのぼらないまま働いている脳が存在するのです。

そのような働きは、時にはプラス思考の助けとして働くかもしれませんし、時にはその逆の働きをするのです。

世界を止めてみることで、思考をストップして、いいことばかりは起こらないが、本物と感じられるありのままの世界を取り戻すのです。

先程のNewsweeks誌の筆者はこう締めくくります。

最も示唆に富む人達とは、自分の幸せばかりを追求するのでなく、自信を持って地球を歩き、創造し、変化を起こし、生命から欲するものをひねり出す人達だ。エレーナ・ルーズベルトによれば、”幸せとは到達点ではなくて副産物である”と言うが私もそう思う。



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
プラス思考は何を見ている?
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-194.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 幸せになる考え方
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







これは自分の感情?相手の感情?

目の前の相手が不機嫌そうにしているのも見たとき、あなたはどのように感じるでしょうか?

自分がなにか相手に負い目があるのなら別ですが、普通なら相手のほうに何かよくない出来事があったんだろうと考えるでしょう。

しかし「共依存」と呼ばれる傾向がある人たちは、それを見たとき、すぐに自分が相手に何か不都合なことをしてしまったのではないか、と気になってしまいます。

また、それが引き金になって、自分に何か問題があるのではないかと不安になってきたりするのです。

考えるウサギ

一時的に自分に対する評価が低くなっていただけの場合もありますが、共依存の場合には、相手の感情を自分の感情と同じように見てしまう傾向があるといわれます。
お互いが自分と相手の感情を分かち持っているように感じてしまうのです。

そのほか、共依存では自分の感情を素直に表現できず、抑制する傾向があります。

あるいは、他者からの非難を極端に恐れたり、自分のせいではないことを必要以上に強調したりします。

そして、さらに共依存に特徴的なのは、相手を支配しようとする傾向なのです。

支配するというのは、「これだけ自分が相手のために貢献しているのだから、相手は自分のことを感謝し、また自分に服従するのが当然である」と思うわけです。

日本の社会は、欧米などと比べれば、「共依存」の傾向が強い社会であると言われます。

ですから、わたしたち日本人にとっては、当たり前のように思っている人間関係も、共依存の傾向が影響しているかもしれません。

「つくす女」が愛情豊かな女性であるように描かれるドラマが、普通に受け入れられるのもそんなところにあるのかも知れません。

2つの感情

しかし、健全な人間関係では、このような不安や支配欲というものから自由であるはずです。

一時的には、そのような状態が生じるにしても、それがいつも続いている関係であるとすれば、共依存の関係が疑われるわけです。

別れた相手との関係に、いつまでも未練を感じたり、怨みを引きずるのは、相手への依存関係があるからです。

自分の感情に素直であるということは、「寂しさ」や「怒り」といった否定的な感情にも、敏感であるということです。
ですから、相手にも否定的な感情であっても、それをぶつけられる関係を求めます。

しかし、そのような関係を求めることはあっても、相手をそれで支配しようとするつもりはないし、拒絶されれば、関係を終わらせる自由さも持ち合わせているわけです。

悩む2人

依存的な関係であるかどうかは、それがあるか、ないかの二つにひとつではなく、依存の度合いの問題です。

少しは傾向があっとしても、それが自分や相手を縛り付けて、お互いが依存しあわないとやっていけないという問題が生じなければいいわけです。

ですが、そのような傾向も時と共に変化するものですから、もし今の自分がこれらの問題を抱えているように感じられるのなら、他者に対する依存傾向が存在しないかチェックしてみることが必要かも知れません。

そのようなチェックが必要であるのは、依存関係の中に入ってしまうと、苦しさを感じながらも、どうしていいのかわからなくなってしまうからです。

そのわからなさとは、こういうところにあります。

共依存の関係では、相手との関係の中に、愛情面で自分を満たしてくれるものも存在するわけです。ですから、その関係を崩してしまうことに恐れを感じるのです。

一方でその関係そのものに、息苦しさを感じている自分も存在するのですが、その関係を維持するためには、自分自身の感情を素直に感じ取ることを、犠牲にしなければならなくなるのです。

見かけの親密さを装った依存関係は、それを続けていく中で、抑うつ傾向を示し始めることにつながります。

依存性が強いと感じたら、勇気を出して今の関係を見直してみることも必要かも知れません。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
共依存(共生関係)とは
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-80.html
共依存から脱却するには
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-81.html
寂しいのは自分がここにいないから
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-59.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 幸せになる考え方
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







自由にお入り下さい

入り口に「自由にお入り下さい」と書いてある画廊があります。

素直に見に入るかと言えばそうでもないですね。

へたに入って絵画を勧められたらこまってしまう。
中がよく見えないので、入るのを躊躇する。
絵なんて見ても自分にはわからないし、才能もないから関係ないよ。
自由には入れなんて、なにかあるに決まっている。怪しいものには近づかない。

このような反応の中にも、自己を主張することへの自信のなさや、見えないものへの恐怖、不安が見え隠れします。
また、自分にはそんな値打ちがないと行った、自己評価の低さが顕れていたり、自由さを奪うことと引き替えの自分を守るための信念が顕れているのです。

子どもならどうするでしょうね。

「自由に」ってかいてあるから、入っていいんだよ。入ろうよ。
あの絵がおもしろそうだから見に行こう。

興味の赴くままに行動するかも知れません。

美術館


こんな素直さは、大人の警戒心に隠されてしまうのです。

ところで、わたしたちには「自由にお入り下さい」といわれても、入れずに入り口をうろうろしている所があります。

それは、自分のこころの中です。

自由に入り込めるとは、自由に表にも出せるし、存在を認めることができると言うことです。

しかし、実際にはわたしたちの内部には、表に出すのを怖がっている自分が存在します。
「そんなこと考えるなんて!そんな「わたし」はいません。」と存在を否定されてしまった自分が潜んでいるのです。

上であげたような中に入れない理由というのは、どれも当たり前に思える理由です。
ですが、実はそんな当たり前に思う理由だからこそ、わたしたちはあっさりと自分を制限してしまうのです。

それは、いいかえれば自由に出入りするようになるのも、そんなに難しいことではないということです。

何も考えずに、画廊に入ってみる。

自分の関心の赴くままに、ただそれだけのことです。

ちょっと考えるのをやめて、ただ動いてみる。
「見る前に飛ぶ」という勇気。

どうぞご自由に


もしあなたが、不安で動けなくなっているとしたら、「不安がなくなる方法」を外に求めることは、一番間違ったやり方かも知れません。

思い切ってやってみないと、新しいことには取り組めません。
新しいことを避けていると、いつもの古ぼけた思考とつきあって、機会をどんどん捨てているようなものです。

新しいことを始めるには、言葉は悪いですが、相手をなめてかかるくらいの部分も必要です。
完璧なスタートを切ろうという人は、いつまでもスタートできません。

パソコンの上達が早い人というのは、何よりも怖がらずにあれこれいじってみることができる人のようです。

だから、恐れを知らない子どもの上達というのは、すごいですね。
見たままを、まねてみる素直さにかなうものはありません。

「無為自然」とは牡蠣のように殻の中でじっとしていることではなくて、自然の大胆さを見習うことかもしれません。

畳の上の水練では泳げるようにはなりません。

動かないところに、バランス感覚は生まれません。

そこで生まれたバランス感覚が、「あなたらしさ」を作ります。

バランスさえ忘れなければ、他の事はなるようになっていくものです。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
なぜ?と考える病気
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-173.html
受け入れるという道
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-174.html
期待はストレスを生み出す
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-183.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







同じことの繰り返し

囲碁では同じ手が繰り返されるような石の取り合いを、コウといって禁じ手としているそうです。将棋で言う千日手と同じようなものでしょうか。

ルールの決まったゲームの世界では、決まった繰り返しをしていても詰まりませんから、意味がないこととして扱うわけですね。

しかし、わたしたち人間やあらゆる生命にとって、生存することは同じこと繰り返しがその中心にあります。

植物は、根から水分や養分を吸収し、葉からは太陽の恵みをうけて、全体にそれを送り続けます。

それは毎日同じこと繰り返しです。
それをやめたら、枯れてしまうしかありません。

しかし短い時間で見れば、同じこと繰り返しに見える働きも、そこには徐々に変化が現れます。
芽を出し、双葉を出し、茎が伸び、蔓を這わせ、やがて花が咲き、実を実らせるわけです。

同じ繰り返しに見えても、そこには気がつかないほどのものであっても、筋道に従って微妙な変化が存在しているのです。

双葉


このように生命活動の基本は、繰り返しの中にあるのですが、どういう訳か、わたしたちはしばしば、繰り返しを嫌ってしまうようです。

「また同じことの繰り返しか」となげいて、変化を求めてしまうのです。

「毎日同じことをやっていて、これでいいのだろうか?」といまの自分を否定したくなるのです。

自己否定にもつながりかねない、このような現状への不満はどこから来るのでしょうか。

そこには、わたしたち人間がことばを道具として使用することに、原因が潜んでいるのかも知れません。

わたしたちは、ものを考える時に「ことば」を手がかりにします。

しかし「ことば」というのは、それができたときに、ものごとの枝葉をばっさり切り取ってしまいまい、そのエッセンスだけが残ったものになるのです。

「ことば」は、いま目の前にあるできごとも、昨日のできごとも同じように扱います。
あなたにとっての特別なできごとも、他の人全てと同じものとして、同じことばで表現されるです。

あなたがことばを使って何かを考える時、ことばはいつのまにか、あなたにとって特別だった意味合いが失われて、決まり切ったパターンの思考に陥ってしまうのです。

現実に毎日起きていることには、決して同じ繰り返しはありません。

夕日1


きょう見る夕日は、昨日と同じではありません。

出来事は変化し、あなた自身も絶えず変化し続けています。

「また同じことの繰り返しか」と思うのは、実際に起きていることを、ことばを通して捉えてしまうために、それをおおざっぱにしか捉えなくなるのが原因かも知れません。

同じではない毎日の出来事も、それを見るあなたの見方が、おおざっぱで荒くなってしまうことで同じものにしか見えなくなってしまうのです。

外側に変化や刺激を求め続ければ、あなたは自分の中の微妙な変化が、見えなくなってしまいます。

あなたが世の中の流れに飲み込まれてしまえば、いつも外側から変化が起こって自分を満足してくれることを求めてしまうのです。

新製品


商業主義は、人々が目新しいものを欲しがると考えれば、新しい商品をどんどん送り出すものです。
しかしそれに乗って、わたしたちが自分の中に目を向けることをしなければ、さらなる目新しさを外側に求め続けるしかなくなります。

その結果、だんだん刺激にも鈍感になり、すべて、たいくつな同じようなものが転がっている世界に見えてしまうのです。

もっと丁寧に自分の中の変化を見ようと目を向けるなら、毎日起こる出来事は、退屈でも同じことの繰り返しでもないことがわかってきます。

同じに見える繰り返しも、一期一会の精神で見るなら二度と同じ「いま」は巡ってきません。

昨日と同じ繰り返しに見えるのは、ありのままに見ることをせず、思考を使ってそれを捉えてしまおうとするからなのです。

もっと細かく、丁寧にあなたのまわりに起こっていることを見ようとするとき、そこには二度とは繰り返されない貴重な体験が存在するのです。

それは、たいくつでも、同じことの繰り返しではありません。

そして、それを見ようとしない限り、あなたはいつまでも、外側に対する不満につきまとわれることになるのです。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
なぜ?と考える病気
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-173.html
受け入れるという道
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-174.html
観察すること
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-220.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







空っぽの舟

わたしたちは、いくらありのままの自分でいようと思っていても、いざ他の人と言葉を交わせば、無意識のうちに社会的な自分というものに切り替えてしまうものです。

朝起きて、家族と顔を合わせた途端に、何かの構えを作りあげています。
一歩外に出れば、出会う人ごとに自分の在り方を演じることになります。

正確には、実際に顔を合わせるまでもなく、相手を思い浮かべただけで何らかの変化が生じているのでしょう。

これらは長年にわたって作りあげてきた自分自身の一部ですから、そんなに簡単に変えられるものではありませんし、それらを軽視することは自己否定へと繋がります。

しかし、そのような社会的な自分というのは、日頃から繰り返し演じることによって強化され続けるわけですから、その習慣を変えてしまうことはできるかも知れません。

つまり、あなたが「相手とうまくやろう」と考えることが、それを強化し続けているのです。

「うまくやろうとする」というのは、あなたが考える理想的な自己像を維持しようと言うことです。

そのような、理想の自己像にあわせようと、あなたはそのように振る舞う努力をします。
また理想から外れてしまった自分の行動を後悔したり、責めたりし始めるのです。

2つの感情


その一方で、あなたはどうすれば「人とうまくつきあえるか」というテーマで、モデルを探し求める努力を続けています。

それは、自分の持っている基準を、外から取り入れたもので修正し続ける努力です。

外から取り入れたやり方を、何重にも重ね合わせていくので、そのような理想の自己像はどんどん太りつづけ、融通の利かないものになっていくのです。

意識した自分を演じきれるという幻想が、あなたから自然な振る舞いをどんどん無くしてしまうのです。

外側にペンキを塗り直し続けても、すぐにはげ落ちてしまうのです。

作りあげた自己像による関係は、容易に崩壊します。

たとえば、あなたが知らない人の不道徳をみて非難の言葉を浴びせたとします。
そして振り返った相手が自分の知っている人だとわかった途端、あなたの理想の自己は制御不能なものになってしまうのです。

余計なペンキは、きれいに剥がしてしまいましょう。
その下に隠れている、あなた本来の自分は、実は作られた自己像よりも、人と心を通じ合わせられるものです。
ただ、あなたが「そんなものを見せてはまずいことになる」と信じ込んでいるだけなのです。

ボート


荘子にでてくるおはなし「空っぽの舟

---------
たとえば、君が川を渡ろうとする。
すると向こうから、空っぽの舟が流れてきて、
君の舟にぶつかったとする。
でも君は、その舟に向かって、
カッとなって怒鳴りつけたりはしないだろう?
もし、その舟に人が乗っていたとすれば、
君はきっと、その人に向かって「気をつけろよ」と言うだろう。
もし相手が知らんぷりしていたら、君はもう一回
「おい、気を付けろ」と言うだろう。
それでも相手が知らんぷりしていたら、
君はきっと大声で怒鳴り始めるよ。
---------
君が自分という舟を空っぽにして人生を漕いでいったら、
ぶつかった人は、怒鳴ったりしないのだよ。

空っぽの舟(山木篇)
荘子 ヒア・ナウ 加島祥造 PARCO出版



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
短所を見なおしてみよう
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-57.html
プライドを捨てよう
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-98.html
ほんものの自己
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-209.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







落とし穴から抜け出す

わたしたちは、解決できない問題を抱えて、身動きがとれない状態になってしまうことがあります。

いくら頑張っても、結果はよくならず、解決の見込みが見えてこないのです。

悪循環、堂々巡りを繰り返し、どうやっても落とし穴から抜け出せないと感じるのです。

このような堂々巡りを繰り返す場合の問題点とは何でしょうか。

こういった場合に多く見られる原因として、次の点を疑ってみましょう。

あなたは、今までに成功したことのある古いやり方に固執しているのです。

それは、かつてうまく働き、問題によっては今も有効な手段です。
しかし、そのやり方は、今の問題を解決するのには適していないのです。

あなたは、これしか方法はないかのように、その方法にしがみついていて、方法を考えるよりも少しでも動くことで現状を変えようとしているのです。

しかし、いま目の前の問題にとっては、そのやり方を取っていること自体が、問題を解決できない原因になってしまっているのです。

悪循環に陥った場合、わたしたちは方法を変えようと言う発想に切り替えることが難しくなります。

その結果、上で述べたように問題は行動や努力が足りないことにあると考えて、がむしゃらに突き進もうとしてしまうのです。

そんなとき、あなたは計画を見直すことが20、作業に取り組むことが80になってしまうのですが、そういうときこそ、この数字を逆転させて勇気を出して計画を見直す必要があるのです。

悩むサラリーマン


蟻地獄のような落とし穴は、抜け出そうと外に向かってよじ登ることで、砂が崩れて余計に深みにはまってしまうのです。

そこで必要なことは、以前にはうまくいった、いまのやり方そのものに問題があることを認めなければなりません。

そして、がむしゃらに行動を起こして動き回るのではなく、冷静になって作戦を立て直す時間を持たなければなりません。

たとえば、あなたの問題が、いつも作業が多すぎて時間が足りないことにあるとします。

あなたは、A,B,Cという3つのプロジェクトを抱えています。

Aは、作業の見通しは立っているが、それを終わらせるには時間を取られることがわかっています。
Bは、1回の作業量はそれほどでもありませんが、間をおかずに繰り返し作業を続けなければなりません。
Cは、A,Bの中間で、作業間隔はBほどではありませんが、放っておけるほどの余裕はなく、作業量もAとBの中間くらいです。

あなたは、どのような優先順位でこれらをこなせばいいか悩んでしまうのです。

どの順序でやろうと、余裕を感じられるスケジュールにはならず、結局あなたは片っ端から作業をこなすのが一番だという信念を持つに至ります。

「考えていても自体は解決しない、考えるより行動だ。」という戦略にでます。

もちろん、このやり方が正しい場面はあるでしょうし、かつてはそれでうまくいった場合もあるのでしょう。

しかし、あなたは一向に余裕が持てない、今の作業まみれのやり方に疲れ切っているのです。

ひらめきOL


1.いまのやり方そのものに問題がある

どのように作業をこなしても、時間的な余裕をもたらす解決はない。
これを認めなければなりません。

2.作戦を立て直す時間を持つ

まず問題はあなたの努力の仕方ではなく、作業の見積もりにあることに気づくことです。

そして、何でそのような無理な見積もりを立てることになったかの原因をつきとめることです。

たとえば、このようなことを検討してみることです。

それぞれの期限は、動かせないものですか?
A、B、Cの3つは、どうしても平行してやらないといけないのでしょうか?

原因がどこにあるのかは、さまざまでしょうが、無理なスケジュールを強行しようとするのには、なにかの心理的な原因が潜んでいるのかも知れません。

たとえば、「いつでも目の前の課題は最短時間でこなすべきである。」というような信念があるとしたらどうでしょう。

そういう考えが支配的であると、実は余裕を持ってもいいときでも、最短期間で作業しようと考えるかも知れないのです。

このような信念は、多くの場合強迫観念となっています。

かつてそうしないといけない時があったのかも知れませんが、いまでもそれを破ることが、あなたに恐怖や不安をもたらすのです。

それから、問題の解決はその時の問題に特有の解決方法を考えるよりも、その後も再現可能な解決方法を見つけることです。

その場だけの対処療法は、往々にしてあなたの古いやり方の繰り返しを採用することにつながるのです。

そしてそのようなやり方では、また問題を繰り返すことになる場合が多いのです。

根本的な原因が、あなたのなにかの信念にあったとしたら、それに取り組まないかぎりスッキリした解決法は望めないということです。

また原因がはっきりとわかった解決法は、次の機会にも利用可能なものになるのです。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
ダンゴムシと迷路
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-31.html
あなたが見たくないところに答えがある
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-154.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







混沌王の死

荘子の応帝王篇に「混沌王の死」という話が出てきます。

こんなお話です。

混沌の中から、天と地が生まれました。
天と地の王様は、もと住んでいた混沌の王様をときどき訪ねては、王からもてなされていました。
いつも混沌王にもてなされるので、お返しをしようと思い立った天と地の王様たちは、
混沌王には目も耳も鼻も口もない、これらがあれば、もっと楽しめるはずだと考えます。
そして人間と同じように七つの穴を開けてあげようとします。
七日間かけて、七つの穴を開け終わったあと、
次の日に混沌王を尋ねてみると、混沌王は死んでいました。


悩む王様

このはなしは、「人為が自然を壊す」という意味合いに解釈されることが多いようです。

七つの穴に象徴される人間の知覚は、まわりのものごとを観察します。
人間はそれに意味をみつけ、さらにそれらを説明しようと試みます。
ちょうど、ギリシャの自然哲学者達がやってきたようにです。

しかし混沌とは、説明がつかないから混沌です。

わたしたちは、混沌とした状態を嫌います。
そこに秩序を求めたがります。

説明がつかない状態をみると、なんとか自分が納得できる理由をさがしだそうとします。

なんとか理由を説明できると、なぜかほっとするのです。
しかしまわりのものごとは、なにも変わったわけではありません。

小さなこどもには、自分のまわりに起こることを説明する充分な知識がありません。
しかし、説明できないことについて、それほど不安を感じているようには見えません。

混沌のままあることにも、そのままで楽しんでいるようにも見えます。
それよりも、いま目の前にあることに夢中になっています。
いまかかわっていることを楽しむことだけを考えられるようです。

大人になると、なかなかそうはいきません。
それは、他の人に説明を求められることから来るのかも知れません。

「わたしは、説明できなくても平気です」というのは、他の人が許してくれません。

「あなたは、なぜそれをやったのですか?」と聞かれると、納得のいく説明をしなければならないのです。
自分のことを説明できることが、責任のある大人というものだからです。

学者風トラ


しかし、社会が許さないとしても、あなたのすべてがそれに従う必要はありません。

説明がつかないことに対して、無理矢理自分を納得させる必要はありません。
説明は、時と場所、時代や文化で変化していくものです。

説明をつけることに慣れきってしまうと、曖昧な状態に止まる耐性を無くしてしまうようです。

それも、時代が進むにつれて、だんだん加速してすぐに回答を欲しがる人ばかりが増えてきます。

どんなことでも、専門家を探せば、回答を見つけられるという思い込みが強くなります。
インターネットは、それをさらに加速して来たのかも知れません。

日本に住んでいると、未開の地などもはや無くなったかのようです。
なんでも、説明がつくのがあたりまえだという信念が定着してきます。

こころの問題ですら、説明してくれるものにすぐに飛びついてしまいます。

混沌のもたらす不安から逃れるために、何かを信じたいという思いは、もっともらしい説明があれば、すぐに信じてしまうのも無理からぬことです。

すぐに回答が探せる社会にあっては、自分のことも説明をつけてしまいたくなるのです。
しかし安易に説明を信じないで、曖昧な状態に止まる耐性を持っていることも必要ではないでしょうか。

それは、ことばによる説明というのは、ものごとの一面をあらすものに過ぎないという限界があるからです。

あなたのこころのなかには、説明されていないが、捨てられてはいけないものが、沢山存在するはずなのです。

それらを殺してしまうこと、それが「混沌王の死」ということかもしれません。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
自然哲学者1
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-184.html
自然哲学者2
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-185.html
観察すること
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-220.html
あせること、イライラすること
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-222.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







sidetitle最新記事sidetitle
《最近7日間の人気順位》
~ランキング全体をみる~
~ランキング全体をみる~

sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle全記事表示リンクsidetitle
過去の記事はこちらから↓

全ての記事を表示する

sidetitleブログ紹介sidetitle
☆~新刊⌒☆
☆ちゃん見るシリーズ☆


好評発売中


アルファポリス
第2回エッセイ・ブログ大賞
特別賞『タオに生きる』 pao
WebコンテンツPickUP!タオに生きる
【 エッセイ・日記・blog > blog 】
老子の教えに学ぶ
老子のいう「タオに生きる」ということはどういうことなのか。さまざまなアプローチから、自らの考えや学んだこと、思ったことが綴られています。心をやすめ、身体をやすめ、穏やかで落ち着いた生活をしたい……そう願う人たちにとって、ヒントに溢れたブログです。


ez-HTML





PRR
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleカレンダーsidetitle
01 | 2010/02 | 03
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 - - - - - -
sidetitleにほんブログ村sidetitle
sidetitleお世話になってますsidetitle
※FC2ブログのリンクですが、なるべくblogpeopleのリンクをお願いしています(右サイドのお友達リンク)
このブログをリンクに追加する
sidetitleスポンサード リンクsidetitle
sidetitleアクセス情報sidetitle
sidetitleジャンル・ランキングsidetitle
[ジャンルランキング]
心と身体
48位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
スピリチュアル
16位
アクセスランキングを見る>>

sidetitle検索フォームsidetitle


もう一つの「タオに生きる」カテゴリー別
Screen Shot_30p ※徐々に更新しています
タオに生きる(人間関係)
タオに生きる(アドバイタ関連)
タオに生きる(YouTube#1)
タオに生きる(YouTube#2)


[上位タグ20]
感情、莊子、思考、怒り、罪悪感、老子、いまここ、人間関係、バイロン・ケイティ、交流分析、タオ、エックハルト・トール、ありのまま、許す、YouTube、老荘思想のコラム連載、不安、過去、無為、OSHO

sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleアクセスランキングsidetitle
訪問いただいているサイト
(週間 木曜日リセット)
※こちらでタイトルを入れさせてもらっていますが、出したくないとか変更したいという方はご連絡下さい。

sidetitleカテゴリsidetitle
カテゴリーを追加し整理しました。 バイロン・ケイティ、エックハルト・トール、ガンガジ、ムージ、OSHO
sidetitleQRコードsidetitle
QRコード
sidetitleお友達リンクsidetitle
FX