« ホーム »

シンプルに生きましょう!(redux)

m020639.jpg


こういう言葉がある。
「今やっていることをやり続ければ、
今と同じものを手にするだろう」

だから、うまくいっているなら、続けることだ。
うまくいっていないなら、やめることだ。
人生はそれほどシンプルなのだ。

アーニー・J・ゼリンスキー


うまくいっているのに、もっといい方法を探そうなどとしないこと。

うまくいっているのに、「もうすぐダメになるかもしれない」と思ってはいけない。

うまくいっているのに、「何かの間違いだ」と思ってはいけない。

うまくいっているのに、「誰かがいるおかげ、ひとりになったら。。。」と思ってはいけない。

うまくいっているのに、罪悪感を持ち込んではいけない。


うまくいっていないのに、次こそはと熱くなってはならない。

うまくいっていないのに、「何かの間違いだ」と思ってはいけない

うまくいっていないのに、「誰かがいなければ、こんなことにはならなかった」と思ってはいけない。

つまり、うまくいっていないなら、うまくいかないやり方をしていると認めるのが一番ということだ。

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







無分別2

前回(無分別)は、禅で使われている言葉から「無分別」ということを考えましたが、今回は老荘思想からこれを考えてみたいと思います。

まずは、この荘子の言葉をご覧下さい。

古代人の知識は完全だった。
なぜ完全だったかというと、ものの存在を知らなかったからだ。
これほど完全な知識があろうか。足りないものはなにひとつない。
それからやがてかれらはものの存在を知った。しかし区別はしなかった。
それからしばらくたって区別するようになった。だがそれぞれにいいとか悪いとか判断を下すことはなかった。
人間が判断を下すようになったとき、タオは崩壊した。
そしてタオの崩壊とともに個人の選り好みというものが始まったのである。

「タオは笑っている」 R・ M・スマリヤン 工作舎 / 1991-01



判断を下すこと、分別を持つことは、通常いいことであると考えられます。

現代の多くの国の社会では、自分の意見や主張を持つことが必要であり、大事な事であるというのが常識になっています。

自分を主張できることや、信念を貫くことが、価値があると見なす文化もあります。
しかし、その裏では、反対意見を叩くか、無視するかが必要になります。

もちろん、自分の考えを持つことが許されないような国には住みたくはありませんが、自分の意見や主張は貴いものではあっても、それを振り回せばいいと言うことにはならないわけです。

謙遜とは見かけの道徳ではなくて、自分の考えが間違っている可能性を忘れないためのものです。

荘子の言葉に戻ると、タオイズムでは、人為的な判断というものは、できるだけ捨てようと考えます。

それに頼らずに、本来のタオの働きに任せることで、人は何もしなくてもうまくいくのだと考えるわけです。

そこから「なぜ完全だったかというと、ものの存在を知らなかったからだ。」という言葉がでてくるわけです。

しかし現代社会においては、知らないでいることは不可能ですし、意見を求められれば答えないわけにはいきません。

政治家2


ではどうするかといえば、「わたしの考え」「わたしの意見」というものは、あくまで借り物であることを認識しておくことです。

「わたしのもの」という言葉は、私たちを盲目にしてしまいます。

いったん「わたしの」がついてしまうと、まるで自分の身体の一部であるかのように、守らなければならないものに変身してしまうのです。

「わたしの持ち物」になった途端に、態度は一変します。
それは、言葉を使って考えている以上、思考の持つ宿命なのかも知れません。

「間違えないように気をつけよう」ではなく、間違えてしまうものだと割り切って、他の手段を考えた方がいいでしょう。
運用ではなく、構造を変えなければ、事態は変わりません。

「わたしの考え」という場合も同じです。

実は、「わたしの考え」などというものは、もともと生まれつき持っていたわけではありません。
自分が生きてくる中で、どこかで拾ってきた考えに過ぎません。

そんな「借り物の考え」を、自分自身と同一視しないことです。

そして、そのような「借り物の考え」か自分自身だとか、判断の基準にしようとしないことが肝心です。

考えたいのなら、原点に戻って、対象をありのままに見ることから始めて見ることです。

現代のような社会に生きていれば、「借り物の考え」は、すごい勢いで飛び込んできます。

それをうまく取捨選択するのが、現代人だなどと思い込まない方がいいと思います。

モバイル通信


情報の処理はコンピュータに任せるべきです。

コンピュータなら、CPUの性能が上がれば処理能力も向上させられますが、人間の場合は限界があります。
遮断できないのなら、せめて受け入れを拒否することをしないと、本来の自分がわからなくなってしまいます。

これほどの情報のシャワーを浴びている時代は、今までだれも経験していません。
これがもたらす結果は未体験なのです。

CMやマスコミの意見に影響を受けて、反射的に判断を下しているのに、ふと気づくことがあるなら、もっと危機意識を持つ必要があると思います。

「保険は電話で申し込みますか?、ネットで申し込みますか?」という時代に生きていれば、保険がそもそも必要かどうかの判断が出来にくくなります。

「画面にアナログと表示されていませんか?」と脅かしてくる社会では、テレビはそもそも必要なものかどうかを考えなくなります。
テレビを捨てようかと思い出させてくれるのは、某放送局の集金だけです。

処理能力を上げれば、なんとかなるという考えは、行き詰まりを感じ始めています。
処理能力を上げる努力をするのではなく、処理しないことを選ぶ必要があります。

処理しないということは、言い換えれば「無分別」ということです。
「分別」に頼らないで、本来の知恵を信頼するということです。

分別処理をしないで、初めて対象を見るようにとらえないと、ものごとの本質は見えてきません。

情報は便利なものですが、情報に依存するとき、自分の主体のような曖昧なものは、扱いがやっかいだからと置き去りにされ、だんだん頼りにならないものだと思ってしまいます。

情報が曖昧でないのは、切り取られた一面でしかないからです。

マルクスは「資本は死せる労働である」と言いましたが、「情報は死せる判断」です。

過去の残骸では、いまを生きることは出来ません。



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
観察すること
無分別




ACR WEBブログパーツ

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







務めとしては行わない

わたしはなにごとも務めとしては行なわない

他人が務めとして行なうことを

わたしは生の衝動として行なう

ホイットマン



ものごと務めとして行うと、何事も色あせてきて、つまらなくなってしまう。

つまらないとは、このようなことである。

・たいくつであり、新鮮さを感じない。
・やらされていると感じ、やりがいを感じない。
・だから適当にやりたくなるが、それが余計つまらなくしてしまう。
・自分を生きている気がしない。
・人生とはこんなつまらないことの繰り返しなのかと、悲観する気持ちになる。

つまらなくする生き方はごめんだと、拒否しよう。

赤い龍

これは後から作られた話という説が有力だが、孔子が老子を捜し当ててて、訪ねていくのだが、こっぴどく批判されて逃げ帰ってくるという話がある。

老子が孔子に言ったことは、大体このような内容である。

美徳とか義務とかの話を延々と説かれると、聞いている方はうんざりする。
欠点をほじくり返すような話は、気力をなくし、イライラするだけだ。

それよりも、自然は、そのような決まりを説かなくても、きちんとそれぞれの役割を果たし、
同じことを正確に繰り返していくのは何故かを考えた方がいい。

そして人も自分の内なる力に身を委ね、自然の道を歩むようになれば、
おまえさん(孔子)のように、必死に道徳や務めを宣伝してまわらなくて済むだろう。

孔子や儒教では仁義礼智信のような、守るべき決まり事を説くわけだが、そういうことを聞いて最初はやってみようとするかも知れないが、いずれ窮屈でやってられないと感じることになるだろう。

結果としては、そのようなことが出来ればいいのかも知れないが、これを実行しなさいと言われても現実の行動に結びつけることは難しい。

それ以前に、さきほどの「つまらない」生き方に嫌気がさすことになってしまうだろう。

だから、規範が先にあるのでは、どうにも行動できなくなるようなのだ。

そこで老子の言うように、自分の内なる力に身を委ね、自然の道を歩むようにするという考えが自然であるように思えてくる。

自分の内なる力に身を委ねとは、自分の内面の訴えを信じること、またその裏付けとして、神でもタオでも宇宙でもいいが、なにか任せられるものの存在を前提にする必要が出てくるのだろうと思う。

正と不正が対立すると見れば、規範を必要とする考えに導くが、それとは反対に信頼できるものが存在することを前提にするということである。

後者の立場を取るなら、規範を探すのではなく、内面の訴えを信じるということになる。

飛び跳ねる女の子160x240

それが、ホイットマンの詩の意味なのだろう。

いい加減決まり事にうんざりしたら、
そして「つまらない」生活に生きがいをなくしそうなら、

「務めとしては行なわない」と言ってみよう。

「生の衝動として行なう」と宣言してみよう。

参考
『タオは笑っている』 R・ M・スマリヤン 工作舎 / 1991-01




気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
自然のままで十分?



ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







ひたすら待つこと

今回の話は具体性に乏しく、概念的なものになるかも知れないですが、少し辛抱して読んでみて下さい。

いまパソコンなどでこの文章を読まれている方が多いかと思いますが、パソコンを使っていると、たとえばIDなどの入力待ちの画面に出くわすことが多いかと思います。

この状態の画面というのは、何もしないで止まっている様に見えますが、実はひたすら入力を待つという処理が動作しているのです。

ユーザー(あなた)がIDをキーボードで入力するか、あるいはOKボタンを押すのを待ち続けています。

ノートパソコン女性



この動作は、実は大きく言えば2つの処理から成り立っています。

1つは、入力があったかどうかを判定して、入力されたらその次の動作に飛ぶという「条件分岐」をおこなうという処理です。

2つ目は、ぐるぐる同じ所を回って、常にスタートに戻ってくるという「無限ループ」の処理です。

「条件分岐」というのは、条件がYESかNOかで、右に進むか左に進むかを決めるだけの処理です。

「無限ループ」はこれ自体何もしないで、ただし先に進まないで同じ所に戻ってくることを繰り返しているのです。

さきほどのキー入力待ちの状態というのは、実はこの「無限ループ」の中にキー入力の判定という「条件分岐」を追加したものなのです。

なぜぐるぐる回っている必要があるかと言えば、それがないとプログラムは、たまたまのその時の状態を見て次の命令に進んでしまうのです。

これでは、ユーザーがキーを入力するのを待つことができません。

ここでの処理は、ただひたすらキー入力を待っていて、キーが押されたら条件を判定して次の動作がどこに行くかを決めないと行けないわけです。

一見何もしていないように見えても、「無限ループ」というぐるぐる回って待っているという処理が必要なわけです。

ただ、目的を目指して進もうというやり方は、「条件分岐」だけを携えて一直線に進もうとするのに例えられるかも知れません。

その時の状態次第で右に行くか左に行くかを決定して、ひたすら先に進もうとします。

しかし、ここで「無限ループ」という待ちの処理と一緒に使ってやることで、無駄なく条件が変化するタイミングをとらえることができるわけです。

スタートを待つランナー



一方で、「無限ループ」という待ち状態も、条件分岐がないとただ同じ所をぐるぐる回っているだけになってしまいます。

よくパソコンはハングします。ウィンドウズでいえば、95の時ほどでないにしても相変わらず動かなくなることがあります。

このようなハングする原因のひとつは、実はこの無限ループによる暴走なのです。

つまり、何らかの原因で「無限ループ」から脱出する「条件分岐」が働かなくなってしまう状態が起きてしまったのです。

ぐるぐる回っているだけなら問題ないんじゃないの、と思われるかも知れませんが、条件分岐が起きないといっさい他の処理に移れなくなってしまうのです。

先程の例でいえば、何回OKボタンを押しても、まだダメまだダメを繰り返していて画面が変わらない状態になってしまうのです。

このように、脱出方法を失った「無限ループ」はシステム全体を止めてしまう危険な面を持っています。

これは決断を下せないで、同じ状態をズルズル引きずっている状態に例えられるでしょう。

「条件分岐」が働かないのは、なぜなのでしょうか。
それは一度も起こりえない条件を作り出してしまうからです。

現実のどのような変化に対しても、判定が下せないのは、判定の仕方が抽象的で複雑になりすぎているせいかもしれません。

その場合は、一度原点に戻って、自分のやりたいことを具体的な行動レベルまで落とし込むことが必要です。

言葉にとらわれているために、同じ所をぐるぐる回り続けてしまうのです。
一度、抽象的な言葉を捨てて、具体的な動きを表す言葉に置き換えて考えてみましょう。
「正しい」とか「べきだ」をすてて「?したい」で考えてみましょう。

抜け出せない待ち状態は困りますが、ガムシャラに一直線に進むだけでは機会をとらえる事が出来ません。

「無限ループ」自体は何の働きもできませんが、何もしないようでいて常にチャンスが来るのを待つという働きを生み出すことにも使えるのです。

実体は見えないけれど、必要な働きはしているのですというと、タオを思いうかべますが、
老子は、無限ループの中にいて、条件分岐は自然(タオ)に任せるのがいいと言っているのかも知れません。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
いつまでも建設中




ACR WEBブログパーツ

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







失望とは解放

期待通りに物事が運ばなかったとき、私たちは失望します。

他の感情と同様に、それを充分味わうことを途中でやめてしまうと、失意のタネをひとつ蓄積してしまうだけになってしまいます

慢性的な期待の欠如は、人生そのものに失望してしまうかも知れません。

失望も理屈で処理してしまわないで、そこに隠れていた自分の欲求と、それを受け入れない現実があることを認めれば、かなわない自分の欲求を手放そうという選択も考えられるようになります。

それは無理にその欲求を持ち続けていたのでは得られない解放をもたらします。

むなしさも、変えられないこととして受け入れるなら、別のものに置き換える選択が生まれてきます。

耐えられないものとして断固拒否すれば、破壊的な結果になりかねません。

細かい内容は忘れましたが、フレデリック・ブラウンの小説に、こんな話がありました。

∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝
印刷機が自我を持ち始めて、処理した原稿の内容を自分のものにしていくようになります。

さまざまな思想、哲学を身に付けて、だんだん手がつけられなくなり、人間にとって脅威の存在になっていきます。

本  仏陀イメージ


なんとか、阻止しようとして、一冊の本を印刷機に読ませます。

次の日、静かになった印刷機は自殺していました。

一冊の本とは、仏陀の本でした。
∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝∝

ブラウンが仏教をそういうものだと思っていたのか、あるいはストーリーの構成上そういうものに仕立てたのかはわかりません。

人生の空しさを感じたとき、東洋思想的にそれを受け入れるのか、意義を追求するあまり絶望してしまうかは別れるところでしょう。

失望をそこに含まれる欲求への解放につなげるか、そのまま失意を蓄積するかで展開は違ってきます。

人生は「不可解」ですが、「不可解」であってはいけない理由もないでしょう。


明治36年(1903 年)5月、一人の18歳(満16歳10か月)の
旧制一高生の死が、若者たちをはじめ社会の人々に大きな衝撃を与えた。
彼の名は、藤村操。巌頭の大きなミズナラの樹肌を削って
書き残した文言が、次の「巌頭之感」である。

      巌 頭 之 感

悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

                (明治36年5月22日)


資料2 藤村操の「巌頭之感」




気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
自然(じねん)
地獄でアメン


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







あちらの時間

今日はいつもと違う文体で書いてみようと思う。

あちらの時間」と題したが、「あちら」とはよくあるスピリチュアルな世界の話ではない。

まずは、「二つの時間」という記事の引用から見てもらいたい。

「風の旅人 編集便り」「二つの時間」 という記事から

このテーマの狙いは、ざっくらばんに言うと、私たちが、「あちら」と「こちら」の二つの間を同時に生きていることの前景化。

現代社会は、「こちら」のバイアスが強すぎる。それゆえ、「こちら」(現実)からの逃避としての「あちら」(非日常)が、ディスニ―ランドのように設定されるが、それは、「こちら」の視点で作られたものにすぎない。
 そのように「こちら」からの逃避先としての「あちら」を設定する必要はなく、「あちら」も「こちら」も、ごく日常的に自分の中を流れていて、それをどう感知するかだけの問題だろう。
ーーーーー
 現代人が、「こちら」と信じこんでいるものは、実は、近代合理主義に適った言語で指し示すことの可能な範囲ということにすぎない。

「それがいったい何の役に立つか?」とか、「その仕組みはどうなっているか?」とか、「こういう理由だから、こうなる」とか、「相手がこうくるから、こう対応する」とか。これらは、論理に置き換えやすいので非常に説得力があり、この種の思考の得意な人が、社会的に優位な立場に立ち、こうした思考の癖を蔓延させていく。
 しかし、実のところ整然たる論理で計れるモノゴトは、私たちが生きている全時間の10分の1にも満たないかもしれない。にもかかわらず、人生の節目においてモノゴトを判断して決定していく際に、近代合理主義言語で指し示すことが可能なものを、より重要視してしまう傾向にある。また、多くの人が、そうした判断を重視するがゆえに、社会全体のシステムがそうなっていく。
 そして、社会人になると、モノゴトを考えるために脳のスイッチを入れるたびに、「何の役に立つのか?」いう思考言語が作動するようになってしまう(子供の頃から、そのスイッチを強引に刷りこまれる)。
 結果として、私たちの人生全体の10分の1にも満たないかもしれない近代合理主義に染まった社会的意味が、そこから外れる時間を「無意味化」し、浸食していく。
 理屈ではわからなくても身体がそれに抗うので、時々、息抜きと称して、「あちら側」(非日常)で遊びたくなるわけだが、「こちら」からわざわざ出かけていくものとして設定される「あちら」は、実のところ、「こちら」の忠実な僕をつくるための、ガス抜き装置でしかない。
ーーーーー
 現代社会は、私たちの物の見方を揃えるように一貫した教育を行い、全ての人が共有できるように時間を標準化し、規格化された檻のなかで人間を管理しようとする。

 そうした便宜上の規格を、いつのまにか普遍の基準であるかのように錯覚し、その枠組みから外れられないという強迫観念によって、人の生と、人が構成する社会に歪みが生じている。

 枠組みを管理したい権威組織は、枠組みから外れるものを見下し、嘲笑し、時には憎悪し、躍起になって偏狭な視点を押し付けてくるが、そうした暴力を軽くかわせる視野の広さと心の柔軟性を確保しておくことが、健やかに生きるためには不可欠だろう。
ーーーーー
この”違和感覚”は、私でもなんとなくわかる。どんな表現も、それじたいが目的なのではなく手段にすぎない。その手段を通じて実現していくものこそが自分にとって大切であり、手段がそれに相応しいものかどうか常に自分自身に確認しながら、違和を感じたならば執着せずに、新しいスタイルを模索していくことも 必要だろう。もちろん、中途半端な取り組みだと何も見えてこないので、一度決めたからには、ある期間、無我夢中でやることも大事だが。
ーーーーー
「境の旅人」は、自分が関わっているものに対する頑迷なる執着はない。それが無くなれば自分の全てが無くなってしまうという自己執心が活動の動機にはならず、この世界を生きていく上で、自分にできる大切なことを探し求めて、暖簾のようにユラユラと揺れ続けることになる。



「こちら」の世界は、非常に説得力がある。

それは現代社会が「こちら」の世界こそが全てであるように作られてきたからだろう。

そこから外れた「あちら」の世界は、そんなものは気のせいだとばかり無視され、忘れようとしてしまう。

社会がそのように作られたというのがひとつだが、それにつれて言語というのも「こちら」の世界を説明するのに適当なものばかりが優位になってくる。

そのような言葉で考え続ければ、「あちら」の世界は言語で表現できず、「なにか言いたいのだがうまく表現できない」というもどかしいものになってしまう。

「こちら」の世界が主張するものが優位で説得力を持つのは、このような事情から仕方がないことだが、だからといって「わたし」にだけ見える「あちら」の世界をあきらめて捨て去ってもいいと言うことではない。

「あちら」の時間に滞在してきたいと思いながら、それをうまく捉えられないあまり、「こちら」の世界を探し求めて、いつか見つかるだろうと探求しても失敗するだろう。

   ハンモック   鳩にえさ


「それがいったい何の役に立つか?」という発想からは、行為自体が目的であるという世界は見えてこない。

役に立つ」「何がより重要」「優先するべきこと」に追い立てられて生きていると、「いまここ」で思いついた、何かをやりたいという衝動は、より優先すべきことに強引に横はいりされて抹殺されてしまうのだ。

それは、せっかくの「あちら」の世界への勧誘を退けてしまう。

また「あちら」の時間への欲求が満たされないまま、でも具体的には何をなくしたのかわからない(表現できない)まま不満を残して「こちら」の時間に浸りきることになる。

言語は、時代や社会を反映してどんどん変化していくものだが、それによって特に「こちら」の世界は容易に変化する事になる。

老子の「無為」という言葉が理解しにくいのも、「あちら」の世界を指しているからかも知れない。

 そこで私は行動を起こさないことの恩恵を知る。
 言葉無き教えに従えば、
 行為しないことはこの世に比べるものがないほど有益なものである。



「あなたの意見はどうなんですか」と強要される「こちら」の世界では、「こちら」の言語に自分を押し込めて表現しないと答えることができない。

「あちら」の世界の行為は、「こちら」の世界では無目的な行為とみなされて、それに従うかぎり主張できない後ろめたいことにされてしまうかも知れない。

「こちら」の論理に対抗するには、思考を止めて「あちら」の時間へシフトしてしまうことだ。
思考で納得してからでは「あちら」へはシフトできない。

そして「あちら」の時間に浸ることを習慣化していきたい。
そうしないとこの社会では「あちら」の世界は「主張」に当たる手段を持たないからだ。

「境の旅人」は、自分が関わっているものに対する頑迷なる執着はない。それが無くなれば自分の全てが無くなってしまうという自己執心が活動の動機にはならず、この世界を生きていく上で、自分にできる大切なことを探し求めて、暖簾のようにユラユラと揺れ続けることになる。




気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
無為
自然(じねん)
無分別


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







パッと手放すのが一番

迷ったときは、パッと手放すのが一番である。

これは、ほとんどの場合正解だろうと思います。

右か左かはっきり決めることです。

その中間のどこかで自分はここがいい、動きたくないとしがみつかないことです。

しがみついて、離そうとしないのは、そのこと自体にエネルギーを取られるということで、どちらかに決めることで得られる体験を放棄していることに他なりません。

     逃げる鶏

あなたが、首だけを地面に突っ込んで、見えないフリをしていても他に何も出来なくなるのです。

何かにしがみつく時、誰かがあなたをそこから引き剥がそうとしているようにかんじるのでしょうか?

それはあなたが自分で作り出した、仮想の人物でしか在りません。
さらに言えば、あなたの中に潜むあなた自身の一部が反対しているということでしょう。

だれもやめろなんて言ってるひとはいません。

あなたは自分の作り上げた敵と戦おうとします。
自分自身と戦うのは自滅を招きます。

「いままで、ずっと間違っていたなどと言っても信じないぞ!」と意固地にならないことです。

やはりスムーズにパッと手放すのが一番楽だし、問題をこじれさせることがありません。

今の位置にしがみつくのは、変化すべき流れを感じている自分を無視して怖がっているだけです。

怖がっているのは、どちらに転ぶかわからない未来を予想しようとするからです。

できないことをやろうとしても、混乱するだけです。

唯一の解決は予想しないことです。

自分がいま
ここに在る
そのことに
驚くとき
君は生きているのだ
『LIFE』 加島 祥造 PARCO出版 (2007/12)



     植物との共生

いまここに、あなたが生きていることは驚きであり、奇跡です。

あなたが考えたから、今生きられているわけではない。

その驚きを思えば、いまの迷いなどあなたが関知することではないと思えないでしょうか。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
自然(じねん)
明け渡すということ


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







無分別

禅では「無分別」という言葉が使われます。

「分別(ふんべつ)」とは「道理をよくわきまえていること」というのが一般的な意味ですが、「ものごとを識別するこころの働き」という意味でもあります。

ゴミの分別の方は「ブンベツ」と読みますが、これも識別することですね。

禅で言われる分別は、言葉などで言い表されるような、人が考えて決めたことについての判断力の意味合いで使われるようです。

では「無分別」は「分別」がないので識別する能力がないと言うことかというと、そうではありません。

     女の子思案

「分別」が人の決めたことや目に見える物事についての判断力なのに対して、「無分別」の方はもっと根源にある、意識できなかったり言葉で言い表せないようなレベルからの判断する力ということのようです。

そしてその「無分別」は、頭を使って論理的に考えた知恵「分別」よりも、はるかに素晴らしい知恵であると考えられているようです。

では「無分別」はどうすれば得られるのかというと、まず「分別」を行わないことのようです。

「分別」を行わないとは、頭で考えないこと、目先の損得などに気を取られた判断をしない所から出発しないといけないようです。

     目を隠すクマ

これはいいかえれば、自我を捨てると言うことです。

まず自我を捨てる訓練をしていくと、それにとらわれない、もっと根源から判断というか知恵が働き出すということのようです。

自我を捨てる」と言葉で言うのは簡単ですが、実際には簡単にできることではありません。

そのために禅の修行というものが、行われているわけでしょうしね。

しかし、だからといって修行僧でないと「無分別智」など縁がないかと言えば、そういうわけでもないでしょう。

禅宗では、「自我など捨ててしまえ」という言い方をするのは、自我が物事に対する執着を持つ原因であるからです。

執着があるところでは、物事を公平に見ることができません。
目先にとらわれて、大局的な判断もできにくいわけです。

そういう意味では、いま目の前の利益に目がいくと都合の悪いやり方に見えても、全体を考えればもっと別なやり方がふさわしいというような判断は、わたしたちも普段から行う場合があるでしょう。

このばあいは、目先にこだわる自我を捨てて考えていると言えるでしょう。

このようなことから自我を捨てるという経験を積むことはできます。

また自我を捨てることで、自我のもたらす執着が、いかにわたしたちの苦しさを作り出す原因になっているかも見えるようになってきます。

     リラックス1

自我を捨ててしまったときのスッキリした感覚というのは、わたしたちも時折経験しているのではないでしょうか。

それをもっと極めていこうというのが禅の考え方なのでしょう。

自我にとらわれない、純粋な知恵としての「無分別」を働かせてみたいものです。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
無為
自然のままで十分?
観察すること


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







不落因果 不昧因果

禅のことばに「不落因果 不昧因果(ふらくいんが ふまいいんが)」というのがあります。

これは「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」という公案に出てくる言葉です。

あるとき百丈和尚のもとへ不思議な老人が会いに来ます。
老人の話を聞いてみると、
「私は昔この寺の住職でしたが、尋ねてきた修行者にある答えをしたことで、五百回生まれ変わる間、野狐の身に堕とされていました。なんとか正しい答えを教えて下さい。」
ということでした。

この老人が、かつて修行者に言ったことはこういうことでした。
「悟りを開いた人間は因果律の影響を受けないものでしょうか」と修行者がたずねるので、
不落因果――因果の制約を受けない』と答えたのです。

それがもとで野狐に変えられてしまった私ですが、それが間違っているのなら、修行を積んだ人間もやはり因果からは逃れられないものなのか、正しい見解を教えて欲しいというわけです。

これに対して百丈和尚は、即座に「不昧因果――因果の制約を昧まさない」と答えます。

これを聞いた老人はすぐに悟りを得ます。
そして、ようやく野狐の身から逃れることができたという話なのです。

    野狐


不落因果不昧因果の意味を考える前に、仏教で言う因果や縁といった言葉を復習しておきましょう。

「因」と「果」は文字通り、原因である「因」とその結果である「果」です。
「縁」とは因から果が生まれるときに影響を与える条件のことを言います。
普段の会話でも「良縁」に恵まれると言ったりしますが、同じ因でも縁に恵まれれば、いい結果を生み出すかも知れないというわけです。
そして結果である「果」というのは、実は次の「因」ともなるわけですから、このような因果の連鎖を因果律というように言います。

不落因果――因果の制約を受けない』はそのままでわかると思います。
「修行を積んで悟りを開けば因果律から自由になれるんだ」と言ってしまったばかりに、老人は野狐に変えられてしまったのです。

そうではなく、「不昧因果――因果の制約を昧まさない(くらまさない)」だと百丈和尚は答えたので、老人はやっと悟ることができました。

因果の制約を昧まさないとは、誤魔化さないでそのままを受け入れるということです。

「今のままの自分や環境はイヤだ、他の自分に変わりたい」と思うのではなく、今のままの自分である因果をそのまま受け入れて、その中でそれを生かしていこうと考えるということです。

さて、以上が「不落因果 不昧因果」の意味です。

しかし仏教にしても、老子にしても、あるいは主だった宗教は、すべて「そのままを受け入れる」ということを説きます。

それはなぜなのでしょうか。
どうして、自分の頭で考えた理想の世界を目指そうとするのをダメだというのでしょうか。

おそらくいろいろな人間の心理や生き様を知っていく中で、先人は自分をそのまま受け入れることが、最も自分を生かして生きていける方策である、と見いだしてきたのではないでしょうか。

では理想を描いてそれに向かって自分を変えていこうというのは、どこに問題が潜むと考えたのでしょう。
その大きな要因として、次の二点が挙げられるのではないかと私は思います。

(1)人が思いつくことは、現在の自分を超えることはできない。
(2)絶対的な正しさを見つけることは、誰にも、そしていつまでもできないことである。

(1)は、いくら自分が新しい理想を描いても、それはいまの自分をベースにしたものでしかないということです。

もし、いまの自分を裏返しにしたものを理想だと考えるなら、それはいまの自分を否定し消し去らないとなりません。ですが、それはできません。

人がロボットやコンピュータなら、基本のソフトを入れ替えてしまえば、全く別の人格に入れ替えることもできます。

    男性とロボット

しかし人は、そんなわけにはいかないのです。
なぜならいまの自分を書き換えるわけにはいかないからです。

仮に今の自分を書き換えできたとしたら、そこにはもはや理想を描いた元の自分もいないことになります。
それでは全く別の人が生まれるだけで、望んでいた本人がいなくなったのでは、元も子もないというわけですね。

あなたが素直にあこがれる理想とは、あくまでもいまのあなたを反映したものなのです。

強引にいまの自分を無視して作りあげた理想像は、いまのあなたをないがしろにしたものであって、例えそんな自分になることに成功しても、こころから満足することはないのです。

(2)は「いくら考えてもわかり得ないことがある」と認めるということです。

考え続ければいつかはわかると信じて、頑張り続けるのも一つの生き方かも知れませんが、そのうちわかることもあれば、いつまでたってもわからないこともあるだろう、と考えるのが妥当な線ではないでしょうか。

そして、いつまでも絶対的な正しさがわからないのなら、無理矢理正しさを仮定してそれに合わせようと考えるのは無理があります。

また、それよりも「考えてもわからないことがある」といったん認めれば、わからないことは、わからないまま、それを抱えて生きていこうという考えが生まれてきます。

わかるまで待つのでもなく、わかったフリをするのでもなく、わからないとあきらめて受け入れるとき、抵抗していたのでは得られない安心感というのが生まれてくるものではないでしょうか。

「あきらめること」は、「明らしめること」だという人もいます。

抵抗をやめて、自分を明け渡さないかぎり見えてこないものもあるのです。

    白鳥

役者やオペラ歌手を目指していたが、なかなか芽が出なかったアンデルセンは、「みにくいアヒルの子」を書きました。

カワイイ新米さんと呼びかけられ、驚いたアヒルの子は、ふと水に映る自分の姿に目を落とします。
そこに映っていたのは、もうみにくいアヒルの子ではありませんでした。
まっ白に光りかがやく、白鳥だったのです。

参考
禅語「不落因果 不昧因果」(無門関)




気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
役に立つこと
一切皆苦



ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







粗忽長屋(そこつながや)

常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。
Einstein_ja アインシュタイン名言集


この言葉を考える時、「私とは誰か」という認識は非常に危ういものでしかないことを思います。

だれもが、今の自分が考えている自己イメージこそが自分だと信じていますが、それが状況が変化したときにも一貫して持ち続けられるものだとはとても思えません。

テレビドラマでよくあるパターンですが、エリートとして仕事やお金こそが信じられる唯一のものだと信じている人物が登場します。
彼は、能力のない人を負け犬だと罵って、今の自分以外の価値観を否定します。
しかしある日突然、脳梗塞かなにかでで突然倒れて、自分が障害の残る身体になってしまう。

    書類を持って電話

その事態にたいして、今まで思っていた自分が本物なら、今の自分は負け犬でもはや生きる価値がないことになると知ります。

今までの社会的な自分がもはや通用しないものになったとき、彼は問いかけなければなりません。
今の自分を受け入れるには、「自分とはなにものか」それをどう考えればいいのだろう。

今の「わたし」だと思っているものは、まさにこのような問いかけから、どこかの時点で作りあげた自己イメージにすぎません。

明確に知っていると思い込んでいた自己イメージも「見知らぬもの、汝の名はわたし」であることに気がつきます。

粗忽長屋という落語があります。

「粗忽」とは、あわてん坊のこと。落語の世界でしか聞きませんがね。

長屋住まいの八五郎と熊五郎は似た者同士で、
兄弟同様に仲がいい。

八五郎は不精でそそっかしく、
熊五郎はチョコチョコしていてそそっかしいという具合で、
二人とも粗忽さでは、
番付がもしあれば大関を争うほど。

八の方は信心はまめで、
毎朝浅草の観音様にお参りに行く。

ある日、
いつもの通り雷門を抜け、
広小路にさしかかると、
黒山の人だかり。

行き倒れだという。

    雷門

強引に死体を見せてもらうと、
そいつは借りでもあって具合が悪いのか、
横を向いて死んでいる。

恐ろしく長っ細い顔だが、
こいつはどこかで見たような。

「こいつはおまえさんの兄弟分かい」
「ああ、今朝ね、どうも心持ちが悪くていけねえなんてね。
当人はここで死んでるのを忘れてんだよ」
「当人? 
おまえさん、兄弟分が浅ましい最期をとげたんで、
取りのぼせたね。
いいかい、しっかりしなさいよ」
「うるせえ。のぼせたもクソもあるもんけえ。うそじゃねえ明かしに、
おっ死んだ当人をここへ連れて来らァ」

    あわてて走る

八五郎、脱兎のごとく長屋へ駆け込むや、
熊をたたき起こし、
「てめえ、浅草の広小路で死んだのも知らねえで、
よくもそんなにのうのうと寝てられるな」
と息巻く。

「まだ起きたばかりで死んだ心持ちはしねえ」
と熊。

昨夜どうしていたか
と聞くと、
本所の親類のところへ遊びに行き、
しこたまのんで、吉原をヒヤカした後、
田町でまた五合ばかり。
その後ははっきりしない
という。

「そーれ見ねえ。
つまらねえものをのみ食いしやがるから、
田町から虫の息で仲見世あたりにふらついてきて、
それでてめえ、お陀仏になっちまったんだ」

そう言われると、熊も急に心配になった。

「兄貴、どうしよう」
「どうもこうもねえ。死んじまったものはしょうがねえから、
これからてめえの死骸を引き取りにいくんだ」
というわけで、
連れ立ってまた広小路へ。

「あらら、また来たよ。
あのね、しっかりしなさいよ。しょうがない。
本人という人、死骸をよくごらん」

コモをまくると、いやにのっぺりした顔。

当人、止めるのも聞かず、死体をさすって、
「トホホ、これが俺か。なんてまあ浅ましい姿に……
こうと知ったらもっとうめえものを食っときゃよかった。
でも兄貴、何だかわからなくなっちまった」
「何が」
「抱かれてるのは確かに俺だが、
抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう

粗忽長屋(そこつながや): 落語あらすじ事典 千字寄席


「その後ははっきりしない」という熊さんの行動は、夢で見た内容と何も変わりはないのです。
事実酔っぱらって記憶をなくしているのですから、誰かそれを見た人でもいなければ、夢なのか現実なのかも定かでは在りません。

「抱かれてるのは確かに俺だが、」
今見えている姿形は、自己イメージそのものだと言います。

「抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう
行動している主体である「俺」は誰だかわからないのです。

    考えるウサギ2

わからない自己を拠り所にはできないというので、「自分とはなにものかそれをどう考えればいいのだろう。」と問いかけて急場しのぎで作りあげた自己イメージは、あたらしい社会的な自己を作りあげるだけです。

それは本当の自分と言うよりも、「自分を納得させるための自己イメージ」でしかありません。

状況に応じて着替えていく自分も、ある意味では自分そのものかも知れませんが、事態が変化すれば容易に切り捨てられてしまう自分に過ぎません。

そのような自分が信じている価値観もまた、なんとも危うい信念でしかありません。

いままでの自分が死んでしまったことに気づいて、ふと、そそっかしい自分を忘れて、我に返った熊さん、

「抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう

といっている主観とは誰のものなのでしょうか。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
ゴープラムの彫刻
役に立つこと
一切皆苦



ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







牡丹に唐獅子 竹に虎

上方落語の「つる」という噺では、ご隠居が竹藪の中にいる虎を説明するくだりがあります。

上方落語つる

喜ィさん へぃ、その字引やなぁ。えぇ、これ、いろんな絵がおまんなぁ。あぁ、一番こっちの端の、右の端の...棒杭に猫がつないだぁるて、おもろいなぁ、なんでんねん、これ
隠居 棒に猫がつないだぁるてな絵ェがあるかいな。これは、お前、竹に虎やがな
喜ィさん 竹にトラ猫
隠居 トラ猫やあれへんがな。竹に虎
喜ィさん 虎にしてはえらい可愛らしい顔してまんなぁ
隠居 ああ、竹薮の中にいてるときは、虎は穏やかやというな。虎というのは強い獣で、自分より強いのは、まあ象ぐらいなもんや。竹薮の中へまでは象も入ってけぇへんさかいに、竹の間で寝てるときの虎は一番穏やかな顔をしてるちゅうんで、穏やかに描くのやがな

東西落語特選  つる



  虎と竹      獅子s

天敵である象が入ってこない竹藪では、虎も猫と見間違う穏やかな顔をしているというのです。

このはなしは、どうやら「牡丹(ぽたん)に唐獅子(からじし) 竹に虎」という言葉から取ったもののようです。

牡丹(ぽたん)に唐獅子(からじし) 竹に虎

南禅寺―穏やかな東山の緑につつまれ、こけら葺きの方丈(ほうじょう)から、虎の児渡しで有名な庭園を望む広縁(ひろえん)の頭上に、左甚五郎(ひだりじんごろう)作の両面透彫(すかしぼり)の欄間(らんま)があります。
 その図柄は「牡丹に唐獅子竹に虎」という、古来より耳にし目にする絵図ではありますが、そこに彫り込まれているメッセージは、
  ・あなたの依所(よりどころ)は、何んですか。
  ・あなたが安心して身を寄せられる安住の地は、どこに在りますか。
透彫の小さな空間から、我々に発せられる問いであります。

中略(獅子の方の話は下記サイトをご覧下さい)

また、アジア大陸の広域に生存する虎も、猛獣ですが、その数5千頭から7千頭と、将来絶滅が心配されています。
 虎は、象には勝てません。
 群をなした象には、歯が立ちません。
 そこで逃げこむ処が竹薮の中です。
 巨体は竹薮に入られず、また、竹薮に入ると、象牙にヒビが入ります。
その昔、仙人(そまびと)は、象牙のパイプを竹薮へは持って入らなかったということです。
 青竹に象牙は禁物です。
 従って、虎には竹薮が何よりの安全地帯であり、依所であります。

日本の禅 臨済宗・黄檗宗の公式サイト 臨黄ネット



あなたが安心していられる拠り所があるとき、あなたは穏やかでいられます。

あなたが拠り所を忘れて、自分の考えに頼ろうとするとき、あなたは竹藪を出て象の住む世界にさまよい出るのです。

あなたが安住の地では満足せずに、もっと素晴らしい世界を夢見るとき、あなたは穏やかな猫の顔ではいられなくなるのです。

イー     機嫌が悪い男の子

子ども達がけんかをします。

ひとりの子どもが意地を張って、もう君たちとは遊ばないといじけています。
他の友達の様子をうかがいながら、絶対口なんか聞いてやらないとふくれています。

その子は、だんだん他の友達がまた仲良く遊び始めたのを見て、自分だけひとりぼっちになるかと不安になります。

その子が素直に仲間の所に戻れば、自分もまた一緒に遊べるとわかっていますが、意地を張りたくもあるのです。

あなたが、素直に安住に地に戻ろうと思うなら、様子をうかがっていないで、友達の所に戻っていけばいいのです。

ためいき3   すねる

象など怖くないと竹藪を飛び出した虎は、本当は危険だと知っている象に出くわさないかとおびえながら生きなければなりません。

猫の表情に戻って穏やかに暮らしたいいという思いがよぎります。

そうしたければ、素直に竹藪に戻ればいいだけです。

おごれる自我を手放して素直になれば、仲間はいつもそこに待っていてくれるのです。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
自然(じねん)
神を信じよ。だがラクダをつなぐのを忘れるな。



ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







意志は幻想?

「鳥は、飛べると思うから飛ぶのだ」 ベルギリウス(古代ローマの詩人)


    羽ばたく鳥Elipse

この言葉、いつも失敗をするのではと心配で一歩が踏み出せない人には、勇気を与える言葉であるでしょう。
敗北主義でいじけていたのでは仕方ないからです。

しかし、前向き、プラス思考、情熱というものには、「意志の強さ」というのがついて回るように思います。

信念を貫く、一貫して何かをやり遂げた人を世間では尊敬しほめ称えます。

しかし、その対象になっている人達は、本当に一貫して同じ意志を持ち続けたのでしょうか。

それは本人に聞いてみなければわからないことです。

そして、何かの結果がでてから振り返る時、だれでも一貫した意志を持っていたように思えるものです。
あとづけの解釈である可能性もあるのです。

これを逆転して考えると、アファーメーション(肯定的な宣言)をとなえると物事がかなうという発想も生まれてくるのでしょう。
「逆もまた真なり」なのでしょうか。

たしかに何もしないよりは、何らかの影響を与えるかも知れませんが、他の要因が働くせいでそうなるだけかも知れません。

       やるぞ


まあ、その因果関係はとりあえず置いておくとしても、「意志」というのはどういうものなのでしょうか。

「意志」とは、自分が「やるべきこと」と考えていることを優先してやり、それ以外のことに惑わされず排除できる能力とでもいったものでしょう。

つまり、そこには前提として「やるべきこと」が存在するのです。

そうなると「意志が強い」とはこういうことかもしれません。

「やるべきこと」をやり遂げたいというモチベーションを、いつまでも維持できる方法を身につけている。
「やるべきこと」は、気分や感情を排除しても優先的にやるべきだ、という考え方と行動習慣を身につけている。

こう考えてくると、この前提になる「やるべきこと」とはどこからでてくるのでしょう、というのが気になります。

「やるべきこと」があらかじめ外部から与えられる会社組織においては、意志の強い人は望ましい社員なのかも知れません。

しかし個人の「やるべきこと」とは、どこからきて、どうやって決まるのでしょうか。

これは、「あなたはなぜその職業を選んだのでしょう」と尋ねたときの答えのようなもので、その人なりの理由を答えるひともいれば、よく解らないけどそうなっていたというひともいるでしょう。

いずれにしても、明確な理由をきいても、どこかに偶然の要素が感じられてきます。
すくなくとも、最初に意志ありきで、「やるべきこと」を決めたというようなことではないのでしょう。

ちょっと話が書きたいと思っていることからずれてきたので方向を変えます。

意志を貫くことは、そのひとがやりたいことであれば大いにやればいいと思います。
ただ、上で述べてきたように、どこかで決めてしまった「やるべきこと」をなにがなんでもやり抜くというのはどんなものかと思うのです。

意志の強さには、副作用があります。

それは「やるべきこと」がいまここでの体験を阻害するということです。

あなたが、いまを生きていて心地よく思っているときに、「やるべきこと」はギャングのように割り込んできてそれを台無しにします。

一期一会の二度と無い出会いも、やるべき時刻があなたを引き離してしまいます。

ここちよい夢見は、意志という目覚ましでむりやり葬り去られるのです。

意志への信仰は、あなたの意志によらない幸運を、そのまま素直に受け入れられなくしてしまいます。

また意志の強さは、新しい方向の可能性を見つけたとしても、その弱々しい説得力では却下され芽を摘まれてしまうのです。

ari.jpg


道具や機械は、やるべきことを忠実にやり遂げてくれるほど優秀です。

しかし人間にとっては、意志は必要なのでしょうか。

いいかえれば、くりかえし「やるべきこと」を「わたし」がいいきかせることは、本当に必要なのでしょうか。

意志とは幻想なのかもしれない。

そんなものを持たなくても、あなたは生きていけると考えたことはないでしょうか。

実際、あなたの生きてきた経験から、どれだけ自分の意志が結果を作りあげたと言えるのでしょう。

もちろん、自然はあなたの意志では左右されません。
明日の天気をあなたの意志でコントロールすることはできません。

そして、あなたの意志で成し遂げたと思っていることも、同じかも知れません。

自分の意志でないというなら、「こんなに努力してやり遂げたことを、自分の手柄だと言ってはいけないのか」と言いたくなるでしょう。

もちろんそれはあなたの手柄です。ですが「意志があった故」かどうかはわからないかも知れないと言っているのです。

そして、あなたの意志を忘れないことが成果を生むのなら、あなたはこれからも自分を強い続けなければなりません。

意志を強く持たなくても、「あなたはやるべきことは、やるべきときにやっているのではないですか」と問いかけてみたらどうかと言っているのです。

意志が幻想なら、あなたはいろんな気苦労から開放されますよね。

優先順位、見積もり、締め切りなど、一度見ておけば済むことです。
行為しながら振り返る必要はありません。

それはやってみればわかります。

やっているときは、あなたは自分の意志で行動していると思います。
しかしその日の終わりに結果をみれば、それはあなたの意志、あなたのコントロールがもたらしたものではないとわかるのです。

「意志など幻想だ、気にせずやりたいことをやろう!」

「幻なのだ空の花、そんなものを捉まえようとするな、損得善悪、一気に放り出せ」
幻化空花、不勞把捉、得失是非、一時放卻  『臨済録』



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
行為者になろうとしないこと
行為者になろうとしないこと2
行為者になろうとしないこと3



ACR WEBブログパーツ

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







口論と形而上学

形而上学という言葉を聞かれたことがあるでしょう。

しかし形而上学ってどういう意味かは、なんとなく曖昧にしかわからないのではないでしょうか。

そもそもこの「形而」というのがよくわからない言葉で、形而上、形而下という場合以外に見かけない言葉なのです。

形而上学は英語では「metaphysics(メタフィジックス)」といいます。
metaは「上」の意味を表す接頭語で、physicsは「物理学」の意味です。

metaは、他にも「メタ○○」という呼び方で「○○を超えた」という意味合いで使われます。

形而上学という場合には、物理学と言うよりも、目に見える物、形がある物を超えた、その背景にあるものを考えようという意味になります。

つまり、形のないものに対しての哲学的、精神的なものを考える学問領域ということです。

虫眼鏡で観察

物理学なら、今目の前にある物体が存在するという前提で、そのものの性質などを調べていきますね。
しかし形而上学では、例えば目に見えているものは絶対的に存在するのだろうかとか、その存在そのものを考えるわけです。

こうしてこの文章を読んでいる「わたし」という存在も、本当に「わたし」なるものが存在するのか、その属性を除いたときに残るものは何か、とか考えたりするわけです。

以前にこのブログでも、プラトンアリストテレスについての哲学史の記事を書きましたが、ブラトンのいう「イデア」というのは形而上のことを扱ったものでした。

プラトンは、わたしたちは「馬」という動物を見て知っているが、この現象として存在する馬には、その理想の型になるものがあってそれがイデアの世界にある「馬のイデア」であると考えたのでした。
実際の馬には、個体ごとに違いがありますが、「馬のイデア」はその大元になる理想の型であって、個々の馬はそれが現象として現れた物であるから細かい違いが生じるというのです。

馬1

プラトンのイデアはともかくとして、実際に見える物を研究する「形而下学」に対して、形の見えない概念的なことを扱うのが「形而上学」です。

さて「形而上学」なんてわたしたちには縁がないし、興味ないと思われるかも知れません。
しかし、わたしたちも目に見えないことを扱わないわけではありませんよね。

たとえば、愛とか友情とかいったことは目に見えない形而上の概念です。

形而上のことを会話で持ち出すときには、その意味をお互いに了解している必要があります。

しかし実際の会話では「ひとというのは、そんなことはしないものだよ。」とか「そんなことをして人間として恥ずかしくないの」とかいう非難を受けることがあるかも知れません。

この場合の「人間として」あるべき姿というのは形而上の問題ですね。

こんな非難を受けたとき、あなたならどう感じるでしょうか。

「やっぱりわたしは人間ができていないんだ。非難されるような未熟な人間なんだ。」と自分を責める人もいるでしょう。

あるいは「人間としてなんて言われても、そんなこと誰が決めたんだよ!」と反論したくなるかも知れません。

男の子悩む  けんか夫婦1


そもそもこんな強引な非難は口論するつもりがないなら、避けるべきでしょう。

「人がどうあるべきか」というのは実は自明ではないことなのですが、何となく世間の常識とか文化によって、曖昧ながら共通の認識があるようなつもりになっています。

そのとき形而上のことなのに、あたかもみんなで共有している常識によって形而下のものごとのように錯覚してしまうのです。

しかし実際にはそれは、人それぞれ異なる認識を持っているわけで、共通の認識があるわけではありません。

形而上のことを持ち出すなら、あらかじめお互いの定義を確認しあって共通の認識からスタートしないといけないわけです。

それなしに、乱暴に形而上の概念を使っていては、すぐに話がかみ合わなくなってしまうのが見えているのですが、なぜかお互いが理解していると思い込んでしまうのですね。

日本人は欧米の人ほどハッキリした宗教観を持たない人が多いでしょう。
学校で宗教を教えるわけでもありませんから、家族が宗教に縁がなければずっと無宗教の人も多いのではないかと思います。

そして、それは宗教観だけでなく形而上のことについても、曖昧に共通の理解があるものとして扱おうとする傾向があるのではないでしょうか。

それでうまく機能している分には、それもひとつのあり方かもしれませんが、現代のように価値観が多様化してくる時代には、曖昧なままでは問題が生じる可能性もあります。

言葉は物そのものではありませんし、形而上のことがらについては、特に言葉で説明するのは限界があります。
同じ言葉を使ったからといって共通の認識は得られないと思った方がいいでしょう。

不毛な口論にならないようにするには、そのひとがどのような前提でその言葉を使うのかを理解しておく必要があるのです。

そして、曖昧な認識が他の人との口論を生み出すということは、あなた自身のなかでも同様に葛藤を生み出す可能性があるのです。

あなたの「わたしとはどういう人間である」かを問い直してみることも大切かも知れません。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
プラトン
アリストテレス


ACR WEBブログパーツ

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







もう充分だ

楽しいことも、あんまり毎日やっていてはすぐに飽きてきますね。

でもやってみるまでは、何とか自分でも経験してみたい、という思いでいっぱいになるのです。

そして実際に自分でやってみることで、それを充分味わって経験すれば、はじめて、もうこれぐらいにしておこうという発想も出てくるわけです。

これは、逆の場合、つまりつらい悪循環の場合にも同様のことが言えるはずだと思います。

悪循環に陥るのは、一方になんとか自分の思い通りにしたいという願いがあり、その一方で現実はあなたの思っているようには起きてこないという2つの要因が存在します。

あなたは、自分の思いで現実の方も変化していくものだと期待するわけですが、それに応えてくれる現実もあれば、そうではない現実もあるものです。

あなたが、自分の思いは必ず実現するものだと信じているかぎり、現実が変わらないのはあなたの努力が足りないか、他の何かが足りないか、ともかくやり方の問題であるとしか思えません。

テスト100点  男の子悩む

これが悪循環になるのは、あなたの思いという片方が正しくて、変わらない現実が間違いだと信じ込んでいるためです。

それは、公平な味方ではないと思いませんか。

さいわい、充分すぎるほどトライし続ければ、いつかは「もう充分だ」と思えるようになって、自分の側の「思い」の方を変えてみる可能性に気づくことができます。

しかし、その時が来るまでは、真剣に取り組みましょう。
いま目の前にあることを真剣にやらないで、次の手のために余力を残そうとするのでは、次はもう来ないかも知れません。

自分で納得しないうちに、やり方が間違っていることを知識で納得しようとしても、どっちつかずの不完全燃焼を起こすだけです。

自分の「思い」が断ち切れないのは、単に失敗の数が充分でないからかもしれません。

女の子笑う  お手上げの子供  男の子オー

そして、本気で充分試さないと、本当の「もう充分」という実感は生まれてきません。

もし「もう充分」と本当に感じ始めたら、その時は素直に自分の思い込みを見直すことも考えられるようになるでしょう。

知りて知らずとするは上なり。知らずして知るとするは病なり。夫れ唯だ病を病とす、是を以て病とす。(老子道徳経下篇第七十一章)
LaoZiBotより


つまり老子はここでは、何でも頭で知っているとする人は、病気のようなものだということを言っています。

わかったつもりになって信じ込むのは、悪循環に陥る、たちが悪い病気だといえるでしょう。

子どもが遊んでばかりいるのを制限してみたところで、隠れて遊ぶ方法を見つけるだけです。
もうこれ以上やりたくないと思うまでやれば、言われなくてもやるべきことをやりたくなって来るものです。

ひとつ自分の「思い」を譲る経験をすれば、次はもっと楽にこだわりを捨てられるようになります。

そしてそれは、必ずしも妥協することではありません。

それは新しい選択の可能性を獲得したということなのです。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
受け入れるという道

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







ヒーロー登場

ツイッターで流れていたので、このサイトを見てみました。

Make a thank you movie!

※最初movieがロードされるのを待っていると、パソコンからあなたの写真を選択する[BROWSE]ボタンと、Webカメラでの撮影を行う[START CAMERA]のボタンが表示されます。
どちらでもいいのですが、たとえばパソコンに入っているあなたの写真(別に何の画像でもいいです)を[BROWSE]ボタンで探し出して処理を続行します。
あとは、カウントダウンを待っていればmovieが開始されます。


内容は見てのお楽しみですが、何も信頼できるものが見つからない現代社会で、救世主のようなヒーローが登場します。

シルエット人物200


あなたはヒーローになり感謝される感動を味わうことでしょう。

そして、あなたはいま何も不満がないと言い聞かせていたとしても、ひそかにヒーローの登場を期待しているものだと言うことにも気がつきます。

また、ヒーローは作り出そうと思えば、いかに簡単に作られるものであるのかに、気づくかも知れません。

わたしたちは、外側にヒーローを探します。

あきらめていた人でも、何か今までと根本的に異なる存在を期待できると思えば、それを見ずにはいられなくなるのです。

しかし、自分の外側にヒーローを探すことは、根本的な解決にはならないでしょう。

それは自分以外のものに依存することを意味します。
そして、依存があるとき、その対象を失うことへの不安がかならずついてくるからです。

いつになっても確信が持てないわたしたちは、何度もヒーローを求め作り出してきました。

自分で自分自身を救う方法よりも、外に救いが欲しいのです。

なにものにも依存しない存在こそが、唯一独立した存在です。
そのようなものを、わたしたちは見つけられるのでしょうか。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
受け入れるという道
明け渡すということ
問題を作り出しているのは誰でしょう


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







時間にとらわれること

 瞑想は経験を継続したり拡張したりすることではない。経験には必ずその目撃者がおり、彼は常に過去に縛られている。それに対して瞑想は、あらゆる経験に終止符を打つことにほかならない全的な無行為である。経験的行為は過去に根ざしており、常に時間に縛られている。そこからは混乱の原因となるような行為が生まれるだけである。瞑想とは、過去に惑わされることなくあるがままの現実を見るような精神から生まれる、全的な無行為である。そのような行為は外部からの働きかけや問いかけに対する反応ではなく、働きかけと一体であり、それゆえ二元性がない。

クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔
J. Krishnamurti サンマーク出版 / 1998-09



時間にとらわれているとき、いま現在の目の前の働きかけと一体になれません。

ここでいう時間とはどういうものでしょう。

過去の経験は、現在のあなたにどのように影響を与えるのでしょうか。

過去の記憶とは、ビデオやDVDといったメディアに記録されたような、情報そのものの集まりではないだろうというのが、脳の働きから考えた場合の最近の考え方のようです。

それは、静的に蓄積された情報ではなく、動的に想起される手がかりから、いま現在において毎回作り出される思考のようなものです。

ですから、あなたがいま過去を描き直さないかぎり、突然思い出されるようなものではないのかも知れません。

そして未来というのも、思考によって作り出されたものです。
未来に不安を感じるという言い方をしますが、まだ起きていない未来自体には、不安を作り出す要素はありません。

それは、未来を想定したときに喚起される、過去の経験からの不安でしかないのです。
ですからあなたが思考から解放されていれば、未来への不安は感じないということになります。

蝶々が蜜を求めて、花から花へ移り飛んで行くとき、蝶は今日は蜜が得られるだろうかという不安は持っていないでしょう。

蝶


わたしたち人類も、祖先はそのような生活だったかも知れません。
その日その日の食料が獲得できたら、それを消費する。

獲物がないときは、飢餓状態に耐えなければなりません。
それは、食料がないことと苦しさを結びつけることを生み出したかも知れません。

飢餓状態に備えて、食べられるときにできるだけ食べて、体脂肪などの形でエネルギーを蓄えようとする身体が作られます。

そのうち、身体だけではなく、食料自体を外部に蓄積することを考え出します。
その日の獲物を、その日に消費するのでなく、後日のために保存する工夫を考え出すわけです。

動物と果実


食料が目の前に多く蓄積できたことは、より長く飢餓状態から解放される日が続くことに気づきます。
そして、食料の量を比較、計量することを考え出すことになります。

それは、裏返せば食料の少ないときは、多いときより嬉しくないという感情を生み出したかも知れません。
さらには、貯蓄の少なさに、未来への不安を感じることへとつながってきます。

このように考えれば、目の前の現実だけにかかわっているとき、問題になる思考はかかわってこないことも想像できます。

瞑想とは、過去に惑わされることなくあるがままの現実を見るような精神から生まれる、全的な無行為である。


「瞑想」という言葉が使われていますが、これは「瞑想」という名の修行の様な行為を指しているのではなく、生き方そのものの意味で使われています。

ここでいう「全的な無行為」とは、いいかえれば思考に影響されない、見ることと行動することが一体となった行為ということでしょう。

そしてまた、「全的な無行為」とは、時間にとらわれない生き方にほかなりません。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
恐怖心はどこから来るのか
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-93.html
なぜ混乱してしまうのでしょう
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-144.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







問題を作り出しているのは誰でしょう

「変わらないこととは和解しましょう」では起きてしまったことに対する対処を書きました。

変えられないことに抵抗することは2つの点で問題があります。
1つは解決しないから時間の無駄であること。
もう一つはさらに無駄なことに、それが問題を強化してしまうことです。

たとえば、あなたは過去の自分が許せない。
あれはそうであるべきではなかった。
もっと別のことが起きていれば良かったのにと思います。

しかし起きたことは変えようがありません。
過去を変えてしまう魔法はありません。

過去はあなたの心の中にあります。
心の問題なのですから、そのまま受け入れるしかありません。
過去を認めて和解しましょう。

あなたはどう考えたところで、過去にそういう人間であったのです。
それは今でもあなたの一部なのです。
和解して共存するしかありません。


今回は、新しい問題を作りださない方法を考えましょう。

それは、問題を作り出しているのが誰かを探ることです。

あなたが不安や恐怖を感じているとき、それが誰であるかを探るのです。
不安や恐怖は、あなたが何かに依存するときに生まれてきます。
なにかが無いと困ると思っている、そのあなたは誰でしょうか?

あなたが「ねたみ」や「やきもち」を感じるとき、それが誰であるかを探るのです。
他の人があなたの欲しいものを持っていれば、あなたはそれをねたみます。
それが他人への依存であれば、あなたは「やきもち」をやきます。
それを欲しがっている自分とは誰でしょうか?

          考える若者

それがたとえ重大な問題であろうと、些細な問題であろうと、原理は同じです。
あなたの期待が、その裏返しとして問題の感情を作り出すのです。

欲しがっている「わたしの想念」を見つけてそれを受け入れるとき、あなたの本来の自己が顔を出します。

問題は、「わたしの想念」が作り出していたことに気づきます。
本来の自己には、何も問題が無いことに気づきます。

あなたが見つけた「わたし」が存在しないとき、問題はもともと存在しなかったことを発見するのです。

しかし、あなたが本心から本来の自己を探求しないとき、それは根本的な解決にはつながりません。

あなたが、いま目の前の問題を消し去るためだけに、「わたし」を見つけようとするとき、それは、新しい「正しいわたし」と「間違ったわたし」を定義し直すだけだからです。

このときあなたは、この「わたし」をあきらめることにする、ただし「これだけは譲れないけどね!」という別の「わたしの想念」を行為者として堅持し続けるのです。

どんな条件もなしに、手放した後の平安を感じられるなら、それが条件付けられていない本来の自己だとわかります。

まだ不安が残るのは、まだ手放せない「わたしの想念」が残っているということです。

もともと持っていない自分を作ろうとしているなら、それは本来の自己ではありません。
それは、かならず新しい別の問題を作り出します。
それでは、堂々巡りになるだけです。

疑うわたしとその源泉を見つけ出せば、その疑いはやむでしょう。
その源泉をたどっていけば、何も疑わない本来の自己にたどり着くことになるでしょう。

自分で作り出さないかぎり、本来何も疑いはなく、無条件の平安が存在することに気がつけます。

時として、あなたのまわりの文化は、これはどうしようもない問題だと教え手放すことに不安を植え付けます。

しかし、あなたが源泉まで遡って問題がないと確信すれば、それにしがみついている必要はありません。

あなたは、ダイエットやメタボ対策といった健康管理には気を配るけれど、あなたを苦しめる信念には無頓着なのかも知れないのです。

それは、作られたものではなく、本来あなたが感じていた自己であり、時として日常にも顔を出していたあなたそのものです。

それを取り戻すのは、あなたの正直さとあなたの真剣さにかかっているのです。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
恐怖心はどこから来るのか
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-93.html
執着・ねたみ・やきもち
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-142.html
変わらないこととは和解しましょう
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-129.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 幸せになる考え方
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







ゴープラムの彫刻

例えば、ゴープラム(寺院の塔)の土台に彫刻された像は、あたかも塔の重みをその肩に乗せているかのように見える。その姿はたいへんな努力で塔の重みに耐えているような印象を与えている。
だが、考えてもみなさい。塔は地面の上に建てられ、その土台の上に立っている。そして彫刻の像は塔の一部にすぎず、ただ塔の重量に耐えているように見えるだけなのだ。
おかしくはないかね?
自分が行為をしていると感じる人もまた同じことである。

あるがままにラマナ・マハルシの教え
ナチュラルスピリット / 2005-12


わたしたちは、ふつう自分が行為者であると信じて何かをやり遂げようとします。

自分の意志でものごとを動かしていくのが、当たり前のことだと疑いません。

たとえ、うまくいかないことがあっても、何かが足りなかったのであって、意志を貫けばいずれ解決するものだと思います。

しかしこのように考えるには、全ては自分でコントロール出来るものだ、という前提を信じなければなりません。

これは必ずしも当たり前とは言えないのです。

少し考えれば、あなたも自分の思ったとおりには、運ばないことがあると認めているはずなのです。

自分が行為者であるという信念、一度見直してみることは、あなたに新しい視点をもたらすかもしれません。

自分がコントロールできると考える度合いというのは、おそらく人によって違うものでしょう。
それはまた、時代や文化によっても違ってくるでしょう。

ある人は、全て自分の意志で行うことにのみ、価値を見いだします。
自分が思ってやったことだけが、価値があると考えるのです。

しかし、なぜそう考えるのでしょう。

偶然起きることには、価値がないのでしょうか。
また、自分の意志によらないことには、価値がないのでしょうか。
あなたの身体が、無意識のうちに活動していることには価値がないのでしょうか。

そして、自分の意志と結果に一致が見られることが、それほど唯一の素晴らしいことなのでしょうか。

自分の目指したことが、それに対して努力してきたことが、最後に達成できたとき、それは確かに歓びをもたらします。

しかし、全て自分の意志であったかどうかは、それについての必要条件なのでしょうか。

何かを一生懸命やり遂げたとき、それが誰の成果であるかにかかわらず、歓びを感じるものではないでしょうか。

実は自分が行為者かどうかは、二次的なものに過ぎないのかも知れないと考えてみて下さい。

オリンピックで、選手がメダルを獲得する。
そのことについての、歓び方は人によって異なるでしょう。

しかし自分がその選手との関係性が深いか、浅いかにかかわらず、誰かの努力が報われたことに対して無条件に喜ぶ感情というものがあると思うのです。

どれだけうまくできたかに対する感じ方も、人それぞれです。

10勝0敗でないと満足出来ない人、6勝4敗ならよしとする人、1勝でも価値があると思う人がいます。それから、0勝10敗は意味がないことなのでしょうか。

考えてみれば、自分が行為者であることにこだわるのは、そのように信じ込んできた文化的なものがほとんどではないかと思うのです。

アジアの寺院1


そして、文頭で紹介したラマナ・マハルシは、自分が行為者ではないと認めることが、あなたを不幸から救うのだと言います。

自分が行為者で在ることを全面的に放棄することが、あなたを解放すると言うのです。

このような宗教を信じましょうと言っているわけではありません。
しかし、少なくともこのような考え方は、あなたの信念を大きく変えてくれる視点をもたらさないでしょうか。

あなたが行為者でないとき、あなたに起きることは、あなたの行為によるものではありません。
あなたの失敗は、あなたの責任ではないのです。
あなたの成功は、あなたの責任ではないのです。

そんな無責任な話は通用しない、といわれるでしょうか。
何をやっても、自分には責任がないと逃げてしまうことを許すのか、そんなばかばかしい話は論外であると、あなたは主張します。

しかし、そう考えるあなたは、行為者で無いからといって、実際にはそんな無責任なことはしないのです。

行為者であることを信じるにしても、放棄するにしても、あなたはあなたなりの責任感から行動するのです。

また「そんな話はばかばかしい」と考えることも、あなたがその考えの行為者ではないのです。

あなたは、あなたの思うとおり、行動すればいいのです。
そして同時に、あなたは行為者ではないと信じることもできるのです。

ゴープラムの彫刻であるあなたは、塔の柱の一部です。

あなたが、塔の柱の一部として、力を抜かずにがんばり続けようと、手を離してしまおうと、あなたは塔を支え続けている事に変わりはないのです。

そう思って、塔の一部になりきるとき、あなたには塔の重みに耐える必要はなくなるのです。
あなたは悠然と塔の一部に溶け込むのです。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
明け渡すということ
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-208.html
行為者になろうとしないこと2
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-212.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







いまここでの不安とは2

前回の「いまここでの不安とは」でコメントをいただいて答えている中で、すこし飛躍しすぎて不親切だったかなと思い直して、新たに書き直してみることにしました。

まず「いまここでの不安とは」というタイトルについてです。

「いまここ」にとどまるとき、わたしたちは不安を感じず、問題もありません。しかし実際には「いまここ」にとどまることは難しく、すぐにいまを離れて不安を作り出してしまうのです。

そこで「いまここ」で不安を作り出してしまうのはどういうことなのだろう、というのがタイトルの意味です。

前回はラマナマハルシを引用しながら、前半はそれとは別の視点からの書き方をしたのですが、今回はマハルシの考えに沿って書いてみることにします。

まず自我、真我という言葉などの予備知識を最初に説明します。

自我(個人的自己)とは、こころが生み出した作りごとで、真我の真の体験を覆い隠す、実質的には存在しない個人的自己のこと。

真我(真の私)は、個人の体験ではなく、非個人的な、全てを包括する覚醒。源。

真我は常に存在して、常に体験されているものなのだが、その本来のあるがままの姿に気づけるのは、個人的な自己による心の自己限定が無くなったときだけである。

         象の家族


マハルシは、この真我を実現するための修練の方法には二つ在ると言います。

一つめは真我探求。
何かの想念がわき上がってきたとき、それをやろうとしているのは、誰であるかを問いかける。
それが源である真我でないときには、つまり作り出された自我であれば、そのことを突き止めれば真我に融合されてそれは消えさる。
そうやって、自我を消し去っていくことで、真我だけが働いている状態を目指すというもの。

二つめは明け渡し
行為したり、欲望を持つ「私」という個人は存在しないこと、ただ真我のみが存在し、真我を離れて自分で行動するような行為者はどこにもいないと認めること。そしてこのことを、絶えず気づいているようにする。
いつでも「私は欲しい」とか「私がこれをおこなっている」といった個人的な行為や思考への責任を感じたら、直ちにこれを明け渡して、真我の中に留まるようにする。そしてすべては真我から起こってくるわけで、そのままそれを受け入れるということ。

二つの方法は、どちらにしても、自我は存在しないことを確信するための方法なのです。
私という想念を放棄すること、自己放棄するということです。
そしてそれらの方法で、最終的には、真我にたどり着き、その状態を維持できるようにするのがゴールなのです。

自分の無力さを認めて、至高の力に救いを求めるか、あるいは不幸の原因を探って、その源を遡って真我のなかに溶け去るかのどちらかだというのです。

ただし、これは、私の意志というのは無くなるということです。
自我は死んでしまうということを意味します。

ですから、個人的に「私はこれが欲しい」と思わないし、「私の成し遂げたてがら」というものもなくなるのです。

これは、裏返せば「私が欲しがる」ことが苦しさを作りだし、「誰のてがら」かが人間関係に問題を持ち込む原因ともなることは、お解りかと思います。

一面から見れば「自分の責任が無くなって、全部は神頼みなら楽だな」とか思われるかも知れません。
一方で「わたし自身の欲望がなくなってしまうのだと、それじゃ何にもならないじゃない」と思われるかも知れません。

それはお気に召すまま。

結論としては、真我の状態にあれば、「いまここ」には何も問題はなく、至福を感じられるのだということです。それを壊すものは個人的な自己、私という想念なのです。

このことを踏まえて、もう一度マハルシの言葉を掲載しておきます。

この場所にある感覚が至福だろうか? 
この場所を離れると不幸せになるとあなたは言う。
つまり、この平和は永久的なものではなく、他の場所で感じられた不幸せを併せもっている。
それゆえ、場所のなかや限られた時間のなかに至福を見いだすことはできないのだ。
その平和が永久的なものでないかぎり、あなたにとっては何の益もない。
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。

あるがままにラマナマハルシの教え
ナチュラルスピリット / 2005-12



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
明け渡すということ
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-208.html
行為者になろうとしないこと2
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-212.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







いまここでの不安とは

いまここ」にとどまるとき、わたしたちは不安を感じず、問題もありません。

しかし、それは今までの習慣から、すぐに将来への不安が登場してくるのです。
すぐに、過去の後悔を思いだして、いやな気分に浸ろうとするのです。

そこで、「いまここにとどまりなさい」という教えが登場します。

しかし、これはすぐに「そのようにがんばります」というゲームに置き換えられてしまいます。
それは、「いまここ」を外れた自分を発見してダメを言うという、今までと変わらないゲームになってしまうのです。

あるいは、「いつか理解できたらやってみます」というゲームに姿を変えるかもしれません。

どちらにしても、やっていることは、いままでと全く変わりません。

食事を取らない子

「やりなさい」といわれた子どもが、「がんばります」と答えてできない理由を考え出すのです。

それは、「身体にいいから食べてごらん」といわれても、嫌いなものは食べられない、見知らぬものには手を出したくないという状態です。

これを解決するには、実際に食べてみて、自分でそのおいしさを実感することです。

自分が至福を感じるときとは、未来にも、他の場所にも存在せず、いま感じているのが至福そのものであることを感じ取らないかぎり、ゲームに陥ることは避けられないのです。

わざわざ、問題を探しに、いまここを離れようとするのは、「そんなにいいことがあっていいのだろうか」という不安感に決別するところから始めないといけないのです。


かけっこ


この場所にある感覚が至福だろうか?
この場所を離れると不幸せになるとあなたは言う。
つまり、この平和は永久的なものではなく、他の場所で感じられた不幸せを併せもっている。
それゆえ、場所のなかや限られた時間のなかに至福を見いだすことはできないのだ。
その平和が永久的なものでないかぎり、あなたにとっては何の益もない。
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。

あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
ナチュラルスピリット / 2005-12



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
いまここでの体験
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-126.html
起きてくる出来事
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-134.html
スケジュール病
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-143.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







地獄でアメン

今日の文章は、書こうかどうか迷ったのですが、気になる文章なので残しておこうと思い書くことにしました。

他の方の文章の引用が中心で、いつも書いているような文章にはならないと思います。

しかも、引用する文章は決して読みやすいものではなく、一二度読んでも、文章の意味自体を理解しにくいかも知れません。

その文章は、保坂和志さんの作品の「小実昌さんのこと」という文章からの引用です。
小実昌さんというのは、ご存じの方も多いと思いますが、作家の田中小実昌さんのことです。

小実昌さんが亡くなった後、保坂さんが小実昌さんの思い出を綴っている文章ですが、保坂さんによればこれは小説であると言うことです。

それから引用するのは、保坂さんの文章の中の、小実昌さんの作品の引用部分になります。
ややこしいので、小実昌さんの文章だけ引用して、保坂さんの文章は私の説明として書いていきます。

この文章は小実昌さんが、キリスト教の牧師だったお父さんの影響でキリスト教徒となるのですが、お父さんの信仰は「かなり特殊な」ものだったようで、そのキリスト教の信仰についてかかれた、「地獄でアメン」という文章からのものです。

 受(三)五 受けにおいて、はじめて救いの根本義にふれる。救いは、救われる願いに発する信仰を本意とせぬ。たとえ救うものが摂取するという信仰型でもおなじことである。この摂取信仰型では内的に信受という言葉を使っている。
受では信仰の「信」を許さぬのである。なぜなら中(ちゅう)する事実によって営まれる宗教では、信ずることによっておこる(もの)は、なにもないからである。もしここに絶対他力があるとすれば、そこには念仏はおろか信さえもいらぬはずである。このことは事実受けにおいて明らかになる重要点である。
 この重要点に気づけば、宗教とは神が神することで、人間が願望満足のために迫ったり、信受しようとするものではないことを、だいいちに知らされるのである。
 受けの救いは、神の中(ちゅう)、すなわち神の行するところに摂取され、ひとつ動きにあずかることで、人間の救い願望の成功所ではない。ましてや(神と人間との)相関性ではないから、こちらの信と先方の救い願望とが合致することでもない。
 受けの救は空(くう)せられつつゆく救いで、そこには神が神する事実にあれば、人が仏となることを前提としたものではない。たとえ自らを否定し高次の恵みに救われると仮定しても、そこはそのまま人にかえって、神と関係せぬのである。(以下略)


※ここまでは、お父さんの文章かと思われ、このあと小実昌さんの文章が続きます。

 中(ちゅう)と空(くう)のルビをふった。カッコのなかのことも、ぼくが書き添えた。中(ちゅう)となにか。なにかではなく、父の言い方によれば、中は中する事実だろう。中なんて言葉は聖書のなかにはあるまい。でも、中とは、神が神すること、イエスがイエスであること、イエスの十字架がつらぬきとおすこと、といったところか。
 父は事実ということを、よく言った。宗教はなによりも事実だ、とくりかえした。もちろん理性判断ではない。理性判断的なドグマ、教義みたいなことからキリスト教をきりはなしたとして、久布白直勝牧師はカントをほめている。
 世間の考えでは、宗教ぐらい事実から遠いものはないだろうに、父には、これこそが事実だったらしい。
 受けの救は空(くう)せられつつゆく救いで、の空も説明できないが、イエスを受けて救われても、ああ救われたと意識や自覚、ましてや心境にならないで、そこが空になり、空せられていくということだろうか。空なんてことも聖書にはあるまいが、空も中も、父はイエスにおそわったのだろう。



保坂さんの説明によれば、「受(三)五」というのは、整理番号のようなもので、お父さんが教会のパンフレットとして作成したもののからの引用だということです。

キリスト教というのは接点は多いのですが、どこかよその国の教えのような感じが消えないのですが、おそらくそれも教義にとらわれてしまうからかも知れません。

だからといって仏教なら親しみがあるかというと、その人の書き方次第で教義が目にはいってしまって、なにか違和感を感じたりするのです。

やはり言葉というものは、その人の思いを全て伝えるわけにはいかない限界があります。

まず言葉を使う人が、自分の思いの一部分だけを言葉に置き換え、それを受け取る側もその人の言葉のとらえ方から自分の思いに結びつけます。
両方で、ディスカウントとしてしまうわけで、伝わるものは、共通の了解らしきものだけになってしまいます。

閻魔大王顔


さて、この小実昌さんの文章ですが、まず引っかかってしまうのは、受、信、中、空とか神が神するとかいった言い回しでしょう。

単なる私の解釈で、間違っているかも知れませんが、このように読んでみました。

「受」:受け入れること、自己を明け渡すこと。

「信」:信じることですが、どこか教義に従うという表面的な意味合いでいっているのでは。

「中する、神する」:わたしたちがあずかり知らないところで、物事の起こっていく現れ。キリスト教の場合で言えば、神の意志による行い。

「空」:自分の側の願望や救われたという感覚もなくなり、また神が何かをしてくれたという関係もなくなることか。

保坂さんも書かれているのですが、
「これについて、ぼくがとやかくつけ加えるよりも、一読してわからなかったら、二度でも三度でも読んで下さい。」

ということで、何か感じられた方は、読み直してみて下さい。


「生きる歓び」 保坂 和志 新潮社 / 2003-08



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
無為
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-127.html
起きてくる出来事
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-134.html
まかせること(あずけること)
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-73.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







自然(じねん)

自然(じねん)というは、自はおのずからという、行者のはからいにあらず。
然というは、しからしむという言葉なり。
しからしむというは、行者のはからいにあらず。

親鸞


親鸞のいう自然(じねん)とは、まさに老子の「無為」と同じことを言っているように思います。

「おのずから、しからしむ」とは、ものごとが起きて来るのを、手を出さずに起こるまま起こらせると言うことです。

「起こらせる」といっても、自分の外側で起きることだけではありません。
自分の行動そのものも、同じように起こらせればいいのです。

手を出さないとは、いいかえれば、あれこれ頭で考えないことです。

「こうした方がうまくいくはずだ」、とか「うまくいくだろうか、心配だ」とかいった思いを働かせないことです。

思考を働かせ出すと、自然ではなくなってしまうのです。

達磨1


このようにいうと何か難しく聞こえますが、普段からわたしたちは、何も考えずに物事を処理し続けているのです。

それらは、普段からいつも当たり前にやっているので、あえて自分でやろうと思ってやっていないだけなのです。

そのことを忘れていると、わたしたちは、何でも自分で指示を出して物事を行っていると錯覚するのです。

しかし、むしろ意識してやっていることの方が、実際は少ないのかも知れません。

意識した指示(言葉や思考によるもの)を行わないまでも、わたしたちは、五感などを通じた刺激によって、ひとりでに物事を処理しているものです。

たとえば、朝起きて目の前に洗面台を見たとき、自動的に洗顔を行うようなことですね。
そこでは、意識した命令は介在しないままではないでしょうか。

では、意識せずにやっている自然の行動がある一方で、思考してからでないと行動できないのはどういう場合でしょうか。

それは、考えてやらないとうまくいかないと、自分で信じ込んでいる場合ではないでしょうか。

多くの場合、わたしちは「仕事」という名の場で、思考を働かせようとします。
それは、もちろん普段やり慣れていない、新しい作業だからかも知れません。

電話集中で混乱


初めてやることは、手放しでやれるわけはないでしょう。
しかし、何度かやっていくうちに、それも自ずから為されることに変わっていきます。

もし、必要以上に仕事に対することに緊張やストレスを感じるとしたら、自分からうまくいかないかも知れないという思考を、野放しにしているせいかもしれません。

やれることをやったら、自分で左右できないことについては、任せるしかありません。

なかには、それについて心配することが、何かの役に立つと考える人がいます。

気持ちはわかりますが、充分心配すれば、何とかなるように感じるのは、何もできないことへの代償行為でしかないでしょう。

そんなことをするくらいなら、やれることを充分やったかどうか確認する方が、意味があるでしょう。

そうはいっても、結果は気になってしまうものですが、それは何か祈るということと、混同しているのかも知れません。

祈りという行為が効果があると感じる方もいらっしゃると思います。

しかし、祈るとは、「自分にできることはすべててやったので、あとはおまかせします」と宣言することではないかと思います。

それは、むやみに心配して自らを苦しめたり、これだけ苦しんだんだから、神様も答えてくれるはずだと考えるのことではないのです。

自然「おのずから、しからしむ」にまかせられるようになれる、その分だけ、わたしたちのこころは、自由で平穏になれるように思うのです。

参考:人生の問題がすっと解決する 名僧の一言 (知的生きかた文庫) 中野 東禅 / 三笠書房




気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
無為
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-127.html
起きてくる出来事
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-134.html
まかせること(あずけること)
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-73.html



ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







世界を止めてみる

プラス思考という言葉は、いまでは当たり前のように、わたしたちも使うようになりました。

しかし、おそらくアメリカから輸入された言葉でしょうが、わたしたち日本人にはどこか、戸惑いを感じたり、借り物に聞こえるような気がするのです。

そんなプラス思考について、本場アメリカでの批判記事です。

Newsweeks誌の『安っぽいプラス思考』と題した記事より

広く世界を見るとヨーロッパの人達、特にイタリアの人達は幸福度が増している。アメリカこそが毎日プラス思考だ、繁栄理論だ、企業研修だとやっているのにその国の人達が幸せにならないのはどうしてであろうか。

バーバラ・エレンリーチは彼女の本の”Bright-Sided”の中で、プラス思考はとんでもない幻想であると言っている。常に湧き起こる問題を無視して、失敗をすれば自分を追及する手法は、不平等、無能、愚考に盲目になる訓練に等しいと主張している。

彼女の説によれば、プラス思考は陰気なカルビン主義への反発と、病気、不安への安直な慰めとして現れた。しかし、時間が経つにつれて次第に盲目的な楽天信仰になってしまった。プラス思考の中心には病気も、昇進も、金持ちも、強い意思で望めば何でもかなうの信仰があるであろう。しかし、実際は人がより快活を装うようになっただけのことだ。80年代、90年代を通して企業が人員整理をするようになると、プラス信仰、企業研修コンサルタントが繁茂した。そして国の富が急騰する一方で貧富の差は急拡大した。

「安っぽいプラス思考」
By Julia Baird | NEWSWEEK 2009年9月25日版 
http://mui-therapy.org/newfinding/happiness-isnt-everything.html



プラス思考は「目標達成=成功」に向けて、むりやり自分の期待にあった思考だけを採用しようとします。

そこから抜け落ちる思考や感情は無視され、ありのままの自分を見つめることから遠ざかってしまいます。

たとえ達成されても、「成功」の後の、つかのま味わう達成の喜びがあるだけです。

そのためには、そこに至るまでに、どこか本物でないという感じを押し隠しながら、自分を騙し続ける必要があるのです。

片方で、人生には成功することも、失敗することもあると認めながら、一方で成功だけが得られる方法を信じようという、ねじ曲げられた思考方法はうまくいくわけがありません。

結果の非難

プラス思考を信じれば、そうでない場合よりもメリットがあるはずだという信仰は、いい加減にやめた方がいいでしょう。

一見うまくいったように見えても、そんなことは、どちらにしても起こりえた程度の確率でしかないのです。

それよりも、プラス思考の弊害は、ありのままの事実をゆがめてしまうことにあります。

自分の信じたい夢の世界にいて、その世界にとって受け入れられることだけを信じることになります。
そのためには、無意識に自分自身に嘘をつく必要があるのです。

嘘で固めた夢の世界から抜け出すには、そのような思考に乗っかっている自分を振り返ってみる時間が必要です。

そのような世界をいったん止めて、その思考の世界を疑ってみる必要があります。

世界を止めるとは、解釈したくなる思考をストップして、ただ感じてみることです。

考える若者

いまの自分の夢の世界が、本物に思えるかどうかを感じてみることです。

そこに自分を騙している嘘くささが、感じられないか確認してみましょう。

全てを合理的に分析しようとすると、実際に起きていることを認識する能力を妨げてしまいます。

脳の働きという面からみれば、自分では意識して言葉にできないが、意識にのぼらないまま働いている脳が存在するのです。

そのような働きは、時にはプラス思考の助けとして働くかもしれませんし、時にはその逆の働きをするのです。

世界を止めてみることで、思考をストップして、いいことばかりは起こらないが、本物と感じられるありのままの世界を取り戻すのです。

先程のNewsweeks誌の筆者はこう締めくくります。

最も示唆に富む人達とは、自分の幸せばかりを追求するのでなく、自信を持って地球を歩き、創造し、変化を起こし、生命から欲するものをひねり出す人達だ。エレーナ・ルーズベルトによれば、”幸せとは到達点ではなくて副産物である”と言うが私もそう思う。



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
プラス思考は何を見ている?
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-194.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 幸せになる考え方
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







自由にお入り下さい

入り口に「自由にお入り下さい」と書いてある画廊があります。

素直に見に入るかと言えばそうでもないですね。

へたに入って絵画を勧められたらこまってしまう。
中がよく見えないので、入るのを躊躇する。
絵なんて見ても自分にはわからないし、才能もないから関係ないよ。
自由には入れなんて、なにかあるに決まっている。怪しいものには近づかない。

このような反応の中にも、自己を主張することへの自信のなさや、見えないものへの恐怖、不安が見え隠れします。
また、自分にはそんな値打ちがないと行った、自己評価の低さが顕れていたり、自由さを奪うことと引き替えの自分を守るための信念が顕れているのです。

子どもならどうするでしょうね。

「自由に」ってかいてあるから、入っていいんだよ。入ろうよ。
あの絵がおもしろそうだから見に行こう。

興味の赴くままに行動するかも知れません。

美術館


こんな素直さは、大人の警戒心に隠されてしまうのです。

ところで、わたしたちには「自由にお入り下さい」といわれても、入れずに入り口をうろうろしている所があります。

それは、自分のこころの中です。

自由に入り込めるとは、自由に表にも出せるし、存在を認めることができると言うことです。

しかし、実際にはわたしたちの内部には、表に出すのを怖がっている自分が存在します。
「そんなこと考えるなんて!そんな「わたし」はいません。」と存在を否定されてしまった自分が潜んでいるのです。

上であげたような中に入れない理由というのは、どれも当たり前に思える理由です。
ですが、実はそんな当たり前に思う理由だからこそ、わたしたちはあっさりと自分を制限してしまうのです。

それは、いいかえれば自由に出入りするようになるのも、そんなに難しいことではないということです。

何も考えずに、画廊に入ってみる。

自分の関心の赴くままに、ただそれだけのことです。

ちょっと考えるのをやめて、ただ動いてみる。
「見る前に飛ぶ」という勇気。

どうぞご自由に


もしあなたが、不安で動けなくなっているとしたら、「不安がなくなる方法」を外に求めることは、一番間違ったやり方かも知れません。

思い切ってやってみないと、新しいことには取り組めません。
新しいことを避けていると、いつもの古ぼけた思考とつきあって、機会をどんどん捨てているようなものです。

新しいことを始めるには、言葉は悪いですが、相手をなめてかかるくらいの部分も必要です。
完璧なスタートを切ろうという人は、いつまでもスタートできません。

パソコンの上達が早い人というのは、何よりも怖がらずにあれこれいじってみることができる人のようです。

だから、恐れを知らない子どもの上達というのは、すごいですね。
見たままを、まねてみる素直さにかなうものはありません。

「無為自然」とは牡蠣のように殻の中でじっとしていることではなくて、自然の大胆さを見習うことかもしれません。

畳の上の水練では泳げるようにはなりません。

動かないところに、バランス感覚は生まれません。

そこで生まれたバランス感覚が、「あなたらしさ」を作ります。

バランスさえ忘れなければ、他の事はなるようになっていくものです。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
なぜ?と考える病気
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-173.html
受け入れるという道
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-174.html
期待はストレスを生み出す
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-183.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







同じことの繰り返し

囲碁では同じ手が繰り返されるような石の取り合いを、コウといって禁じ手としているそうです。将棋で言う千日手と同じようなものでしょうか。

ルールの決まったゲームの世界では、決まった繰り返しをしていても詰まりませんから、意味がないこととして扱うわけですね。

しかし、わたしたち人間やあらゆる生命にとって、生存することは同じこと繰り返しがその中心にあります。

植物は、根から水分や養分を吸収し、葉からは太陽の恵みをうけて、全体にそれを送り続けます。

それは毎日同じこと繰り返しです。
それをやめたら、枯れてしまうしかありません。

しかし短い時間で見れば、同じこと繰り返しに見える働きも、そこには徐々に変化が現れます。
芽を出し、双葉を出し、茎が伸び、蔓を這わせ、やがて花が咲き、実を実らせるわけです。

同じ繰り返しに見えても、そこには気がつかないほどのものであっても、筋道に従って微妙な変化が存在しているのです。

双葉


このように生命活動の基本は、繰り返しの中にあるのですが、どういう訳か、わたしたちはしばしば、繰り返しを嫌ってしまうようです。

「また同じことの繰り返しか」となげいて、変化を求めてしまうのです。

「毎日同じことをやっていて、これでいいのだろうか?」といまの自分を否定したくなるのです。

自己否定にもつながりかねない、このような現状への不満はどこから来るのでしょうか。

そこには、わたしたち人間がことばを道具として使用することに、原因が潜んでいるのかも知れません。

わたしたちは、ものを考える時に「ことば」を手がかりにします。

しかし「ことば」というのは、それができたときに、ものごとの枝葉をばっさり切り取ってしまいまい、そのエッセンスだけが残ったものになるのです。

「ことば」は、いま目の前にあるできごとも、昨日のできごとも同じように扱います。
あなたにとっての特別なできごとも、他の人全てと同じものとして、同じことばで表現されるです。

あなたがことばを使って何かを考える時、ことばはいつのまにか、あなたにとって特別だった意味合いが失われて、決まり切ったパターンの思考に陥ってしまうのです。

現実に毎日起きていることには、決して同じ繰り返しはありません。

夕日1


きょう見る夕日は、昨日と同じではありません。

出来事は変化し、あなた自身も絶えず変化し続けています。

「また同じことの繰り返しか」と思うのは、実際に起きていることを、ことばを通して捉えてしまうために、それをおおざっぱにしか捉えなくなるのが原因かも知れません。

同じではない毎日の出来事も、それを見るあなたの見方が、おおざっぱで荒くなってしまうことで同じものにしか見えなくなってしまうのです。

外側に変化や刺激を求め続ければ、あなたは自分の中の微妙な変化が、見えなくなってしまいます。

あなたが世の中の流れに飲み込まれてしまえば、いつも外側から変化が起こって自分を満足してくれることを求めてしまうのです。

新製品


商業主義は、人々が目新しいものを欲しがると考えれば、新しい商品をどんどん送り出すものです。
しかしそれに乗って、わたしたちが自分の中に目を向けることをしなければ、さらなる目新しさを外側に求め続けるしかなくなります。

その結果、だんだん刺激にも鈍感になり、すべて、たいくつな同じようなものが転がっている世界に見えてしまうのです。

もっと丁寧に自分の中の変化を見ようと目を向けるなら、毎日起こる出来事は、退屈でも同じことの繰り返しでもないことがわかってきます。

同じに見える繰り返しも、一期一会の精神で見るなら二度と同じ「いま」は巡ってきません。

昨日と同じ繰り返しに見えるのは、ありのままに見ることをせず、思考を使ってそれを捉えてしまおうとするからなのです。

もっと細かく、丁寧にあなたのまわりに起こっていることを見ようとするとき、そこには二度とは繰り返されない貴重な体験が存在するのです。

それは、たいくつでも、同じことの繰り返しではありません。

そして、それを見ようとしない限り、あなたはいつまでも、外側に対する不満につきまとわれることになるのです。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
なぜ?と考える病気
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-173.html
受け入れるという道
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-174.html
観察すること
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-220.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







空っぽの舟

わたしたちは、いくらありのままの自分でいようと思っていても、いざ他の人と言葉を交わせば、無意識のうちに社会的な自分というものに切り替えてしまうものです。

朝起きて、家族と顔を合わせた途端に、何かの構えを作りあげています。
一歩外に出れば、出会う人ごとに自分の在り方を演じることになります。

正確には、実際に顔を合わせるまでもなく、相手を思い浮かべただけで何らかの変化が生じているのでしょう。

これらは長年にわたって作りあげてきた自分自身の一部ですから、そんなに簡単に変えられるものではありませんし、それらを軽視することは自己否定へと繋がります。

しかし、そのような社会的な自分というのは、日頃から繰り返し演じることによって強化され続けるわけですから、その習慣を変えてしまうことはできるかも知れません。

つまり、あなたが「相手とうまくやろう」と考えることが、それを強化し続けているのです。

「うまくやろうとする」というのは、あなたが考える理想的な自己像を維持しようと言うことです。

そのような、理想の自己像にあわせようと、あなたはそのように振る舞う努力をします。
また理想から外れてしまった自分の行動を後悔したり、責めたりし始めるのです。

2つの感情


その一方で、あなたはどうすれば「人とうまくつきあえるか」というテーマで、モデルを探し求める努力を続けています。

それは、自分の持っている基準を、外から取り入れたもので修正し続ける努力です。

外から取り入れたやり方を、何重にも重ね合わせていくので、そのような理想の自己像はどんどん太りつづけ、融通の利かないものになっていくのです。

意識した自分を演じきれるという幻想が、あなたから自然な振る舞いをどんどん無くしてしまうのです。

外側にペンキを塗り直し続けても、すぐにはげ落ちてしまうのです。

作りあげた自己像による関係は、容易に崩壊します。

たとえば、あなたが知らない人の不道徳をみて非難の言葉を浴びせたとします。
そして振り返った相手が自分の知っている人だとわかった途端、あなたの理想の自己は制御不能なものになってしまうのです。

余計なペンキは、きれいに剥がしてしまいましょう。
その下に隠れている、あなた本来の自分は、実は作られた自己像よりも、人と心を通じ合わせられるものです。
ただ、あなたが「そんなものを見せてはまずいことになる」と信じ込んでいるだけなのです。

ボート


荘子にでてくるおはなし「空っぽの舟

---------
たとえば、君が川を渡ろうとする。
すると向こうから、空っぽの舟が流れてきて、
君の舟にぶつかったとする。
でも君は、その舟に向かって、
カッとなって怒鳴りつけたりはしないだろう?
もし、その舟に人が乗っていたとすれば、
君はきっと、その人に向かって「気をつけろよ」と言うだろう。
もし相手が知らんぷりしていたら、君はもう一回
「おい、気を付けろ」と言うだろう。
それでも相手が知らんぷりしていたら、
君はきっと大声で怒鳴り始めるよ。
---------
君が自分という舟を空っぽにして人生を漕いでいったら、
ぶつかった人は、怒鳴ったりしないのだよ。

空っぽの舟(山木篇)
荘子 ヒア・ナウ 加島祥造 PARCO出版



気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
短所を見なおしてみよう
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-57.html
プライドを捨てよう
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-98.html
ほんものの自己
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-209.html


ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







混沌王の死

荘子の応帝王篇に「混沌王の死」という話が出てきます。

こんなお話です。

混沌の中から、天と地が生まれました。
天と地の王様は、もと住んでいた混沌の王様をときどき訪ねては、王からもてなされていました。
いつも混沌王にもてなされるので、お返しをしようと思い立った天と地の王様たちは、
混沌王には目も耳も鼻も口もない、これらがあれば、もっと楽しめるはずだと考えます。
そして人間と同じように七つの穴を開けてあげようとします。
七日間かけて、七つの穴を開け終わったあと、
次の日に混沌王を尋ねてみると、混沌王は死んでいました。


悩む王様

このはなしは、「人為が自然を壊す」という意味合いに解釈されることが多いようです。

七つの穴に象徴される人間の知覚は、まわりのものごとを観察します。
人間はそれに意味をみつけ、さらにそれらを説明しようと試みます。
ちょうど、ギリシャの自然哲学者達がやってきたようにです。

しかし混沌とは、説明がつかないから混沌です。

わたしたちは、混沌とした状態を嫌います。
そこに秩序を求めたがります。

説明がつかない状態をみると、なんとか自分が納得できる理由をさがしだそうとします。

なんとか理由を説明できると、なぜかほっとするのです。
しかしまわりのものごとは、なにも変わったわけではありません。

小さなこどもには、自分のまわりに起こることを説明する充分な知識がありません。
しかし、説明できないことについて、それほど不安を感じているようには見えません。

混沌のままあることにも、そのままで楽しんでいるようにも見えます。
それよりも、いま目の前にあることに夢中になっています。
いまかかわっていることを楽しむことだけを考えられるようです。

大人になると、なかなかそうはいきません。
それは、他の人に説明を求められることから来るのかも知れません。

「わたしは、説明できなくても平気です」というのは、他の人が許してくれません。

「あなたは、なぜそれをやったのですか?」と聞かれると、納得のいく説明をしなければならないのです。
自分のことを説明できることが、責任のある大人というものだからです。

学者風トラ


しかし、社会が許さないとしても、あなたのすべてがそれに従う必要はありません。

説明がつかないことに対して、無理矢理自分を納得させる必要はありません。
説明は、時と場所、時代や文化で変化していくものです。

説明をつけることに慣れきってしまうと、曖昧な状態に止まる耐性を無くしてしまうようです。

それも、時代が進むにつれて、だんだん加速してすぐに回答を欲しがる人ばかりが増えてきます。

どんなことでも、専門家を探せば、回答を見つけられるという思い込みが強くなります。
インターネットは、それをさらに加速して来たのかも知れません。

日本に住んでいると、未開の地などもはや無くなったかのようです。
なんでも、説明がつくのがあたりまえだという信念が定着してきます。

こころの問題ですら、説明してくれるものにすぐに飛びついてしまいます。

混沌のもたらす不安から逃れるために、何かを信じたいという思いは、もっともらしい説明があれば、すぐに信じてしまうのも無理からぬことです。

すぐに回答が探せる社会にあっては、自分のことも説明をつけてしまいたくなるのです。
しかし安易に説明を信じないで、曖昧な状態に止まる耐性を持っていることも必要ではないでしょうか。

それは、ことばによる説明というのは、ものごとの一面をあらすものに過ぎないという限界があるからです。

あなたのこころのなかには、説明されていないが、捨てられてはいけないものが、沢山存在するはずなのです。

それらを殺してしまうこと、それが「混沌王の死」ということかもしれません。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
自然哲学者1
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-184.html
自然哲学者2
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-185.html
観察すること
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-220.html
あせること、イライラすること
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-222.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







あせること、イライラすること

何かをあせってやろうとすると、かえって空回りばかりで、いつものようにうまくできない。

こんな経験、あなたにもあるのではないでしょうか。

こんなときあなたは、あなたの決めた時間でものごとが起こっていくのを期待しています。

しかし、ものごとは、まるでそれに特有のスピードを持っているかのように、あなたの思いなど関係なく起きるべくして起きていきます。

たとえば、あなたがせっかちな人だとします。

あなたの前には、時間など気にせずに、ものごとを非常にていねいに、自分の決めた手順に忠実に行おうとする人がいます。

あなたは、それをみているとだんだんイライラし始めるのです。

このように、人と人の関係では、せっかちな人もいれば、のんびりした人もいます。

そしてそのことを認めるのは抵抗を感じないのですが、そういう人でも、ものごとが自分の決めたスピードで進んでいかないと、あせったりイライラしたりし始めるのです。

ウサギとカメのゴルフ


ものごとが運んでいくスピードに、特有のスピードがあるものかどうかはわかりません。

しかし、単に見る側の心理的なスピードだけで、ものごとが起きていくわけではないでしょう。
それが起きるには、様々な原因が非常にからまって起きていくはずです。

ですから、あなたがいくら自分で「○○までに結果が出る」と決めたところで、そのように起きてくれるとは限りません。

そんなことをするから、あなたはあせったり、イライラしたりするということもできますね。

別の言い方をすれば、あなたはものごとに対する見方が荒くなっているのかも知れません。

落ち着いているときのあなたは、もっとこまやかにものごとを見ていられるのかもしれないのです。

あなたが、自分で時間をコントロールすることをやめて、ものごとが起きていくスピードに任せて見ていられるなら、あなたはイライラせずにゆったりと過ごすことができます。

さらに発想を飛躍させれば、あなたはものごとの結果についても、同じようにコントロールしようとしないという選択もできるわけです。

起きることに逆らわずに、それが起きるのに任せるということです。

「そんな受け身ばかりの生き方などごめんだ」といわれるかもしれません。

それに、ときにはあせったりイライラしたりするのが、逆に楽しみにつながることもあるでしょう。

たとえば、あなたがプロ野球やサッカーの試合を見ながら、ひいきのチームを応援するようなときです。

あなたが、いくら逆立ちしようと、あなた自身がピッチャーやバッターになれるものではありません。

ボールを取られて


しかし、あなたがどちらが勝とうがかまわないと思うのなら、興奮もしない代わりに、応援する楽しみもありません。

それは、もはや応援とは言えないでしょう。

不安とワクワクすることは紙一重です。

コントロールしたいという思いと、イライラすることは、お互いに切り離せない関係にあるのでしょう。

ですから、すべてあきらめようとか、すべてコントロールしようとか、片方だけに決めようとしないことです。

心配しなくても、あなたはイライラから完全に解放されることもないでしょうし、無理をして何事にも無気力になる必要もありません。

ただ、イライラしたり、あせったりすることが、必要以上にあなたにストレスをかけていないかをチェックすることは役に立つかも知れません。

ときには、ものごとが起きていくスピードや結果を、そのまま受け止めてみてはいかがでしょう。

それが、いかにあなたにとって重要で差し迫ったことでも、あなたにコントロール出来ない事なら手放しましょう。

あなたの力で、おきてくることをコントロールしようとおもうことが、結果に影響を与えるかどうかを冷静に考えてみましょう。

あなたのちからで成し遂げたから、価値があるというのは、ひとつの考え方でしかありません。

そして、あなたがコントロールして成し遂げたと思っていることも、単に起きるべくして起きているだけかも知れないのです。

「さからうのはやめた!」と思ったときの開放感、あなたにも経験があるのではないでしょうか。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
明け渡すということ
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-208.html
行為者になろうとしないこと
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-211.html
行為者になろうとしないこと2
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-212.html
行為者になろうとしないこと3
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-214.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







観察すること

観察は受容することにかかせない手段です。

観察とは普通、目でみることだけを意味しますが、ここでいう観察とは、あらゆる感覚を全て使っての行為のことです。

観察とは、何事にも執着しないで、また何かの結果を出そうという計らいの気持ちを持たずに、ただ感じることを受け入れることです。

何かに偏らず、その行為で結果を出そうと思わず、ただただ考えていること、感じていること、聞こえていることが過ぎて行くままにします。

やることは、ただ観察することです。感じてくるものが何であれ、「それとともに在る」ようにします。

あなたの頭が判断しようとしたり、価値の比較を始めようとしても、それに従わずにただそれを見守ります。

何かを変えようとせずに、ただ起きてくることを受けとります。
徹底して、受動的な姿勢を維持します。

植物との共生


ただ受け取っていると、そのうちあなたの感じとっていることが、考えているのか、感じ取っているのか、身体の感じることなのか、どれともわからない、別の印象を感じる様になるかも知れません。

そのように感じてきたとき、あなたがそれについて考えようとすると、それは思考に切り替わってしまいます。そうならないように、何もせずに受動的な姿勢を維持しましょう。

思考は、訳のわからない状態が続くことが苦手です。

そのような自分が管理できない状態が存在することが許せないのです。
だから、だんだん思考がコントロールをこちらに返せと訴え始め、あなたは落ち着かなくなってきます。

しかし、それでも何にもとらわれずに、受動的に感じることを受け流していきます。

おわかりかも知れませんが、「観察すること」とは、言い換えれば「瞑想する」ということです。

瞑想と言ってしまうと、難しくて手に負えないと感じるかも知れませんが、ここで言っているように、ただただ見ているだけの観察と考えればいいのです。

最初は、刺激を少なくするために、身体を動かさずにやった方がいいでしょうが、別にどのような姿勢でやろうと、あるいは散歩しながらやるのでもかまわないでしょう。

あなたの思考は、「もっといいことがあるよ」と訴えてくるかも知れません。

しばらく時間を使ったから、いつものように意味のあることに切り替えよう、時間の無駄だよ、と脅しをかけてくるかも知れません。

あるいは、足がしびれてきたとか、かゆくなってきたとか、身体が訴えを始めるかも知れません。

こんなの退屈だから耐えられない、もっと刺激のあることをしようと言う訴えも、全て受け流します。

それらに対して、価値判断を加えずに、ただ観察します。
批判的な思考も、そのまま受け入れます。


結果を期待せずに、あなたがこれで充分だと感じるまで観察を続けましょう。

最初は、何かの思考の力が強くて、あなたを思考に引きずり込んでしまうかも知れません。

その時はその時で、失敗を嘆くことはありません。

あなたを引っ張り込んだ思考こそは、あなたが普段もしばしば入り込んでいる、あなたにとって重要な思考である可能性が高いからです。

そのような思考に気づけただけでも、大きな収穫です。

思考を始めると、その前にあなたが何をやっていたのか忘れてしまう可能性もありますが、それでも「その思考が何であったか」だけでも覚えておこうと、言い聞かせておきましょう。

鎖から解放

先程も言いましたが、観察することを続けて、ひたすら受動的な受容に徹すると、イライラを感じ出すかも知れません。

今までなら、あなたはそれを感じると、思考に走ることでそれを回避しようとしてきた筈です。

しかし、観察を続けるあなたは、それらもそのまま受け取り、観察するのです。
今まで支配してきた、その不快感にたいして、何もせずに見ているという態度を崩さないことです。

うまく受容に徹することができれば、それだけであなたはそれをコントロールする側に回れるかも知れません。

問題には対策や行動で答える、という今までの発想を捨て去ります。
ただ何もせずに、観察するだけという解決を、あなたのレパートリーに追加するのです。

最初は、うまくいっているのか、だめなのかも解らないかも知れません。
しかし、繰り返すことで、ただ観察するということを身体で覚えるのです。

いつもなら、ここで思考に支配されてしまったのに、今日はただ何もせずにいられたという感覚を身につけることです。

やる前に、こんなことをして何になるかと考えても答えは出ません。

答えが出るようなら、それは単なるあなたの思考という行為でしかなかったのです。
あなたが、結果を期待して観察ごっこをしたために、期待した結果が導かれたということです。

そしてそれは、あなたがいままで何度もくりかえしてきた、解決に結びつかない思考ではないでしょうか。
そうなったから、こんなことは無駄だと投げ出さないで下さい。

観察によってもたらされる、新しい感覚はそのような予想できるものではありません。

思考ではなく「観察すること」を繰り返すことでそれをあなたのものにしましょう。

それが何をもたらしてくれるかは、あなた自身にしかわかりません。

「今までの結果を期待した思考ではもはや答えが出ない」、そうあなたがあきらめる気になったら、それが絶好のチャンスです。

ただ「観察する人」になってみましょう。

気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 





[関連記事]
なぜ?と考える病気
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-173.html
受け入れるという道
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-174.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 心と幸せ
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







一切皆苦

あなたは、ときどき今の状態を、苦しいと感じます。

そして、あなたが苦しいと感じるとき、なにか自分の外にある原因が、自分を苦しめているというイメージが強いのではないでしょうか。

「苦しさ」というのは、仏教ではこのように考えるようです。

一切皆苦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

一切皆苦(いっさいかいく)とは、仏教における四法印の一つである。

初期の経典に「色は苦なり」「受想行識も苦なり」としばしば説かれている。これを「一切皆苦」と言う。

「苦」の原語は、パーリ語のドゥッカ(dukkha)で、これは単に、日本語の「苦しい」という意味だけではなく、「空しい、不満、不安定」といった幅広い語義を持つ。 それゆえ、「一切皆苦」は「すべての存在は不完全であり、不満足なものである」と言いかえることもできる。不完全であるがゆえに、常に変化して止まることがない。永遠に存在するものはなく、ただ変化のみが続くので「空しい」というふうに、「苦」という一語で様々な現象が語られる。



「苦しみ」というのも、この仏教的な解釈から考えると、そこに自分にとって不満であるという気持ちが存在することがわかります。

あなたがどのように考えようと、苦しいという状況が存在するものかどうかは、わかりません。

しかし、わたしたちが、ふだん苦しさを感じるときというのは、自分の不満感から生じていることが多いのではないでしょうか。

「苦しい」のは、あたりまえだと、あなたは考えているかも知れません。

こんな「苦しい」状況なんだから、苦しいと感じるのは当然であるというわけですね。

しかし、この「あたりまえ」というのも、なかなかくせ者です。

「あたりまえ」だと決めているのは、あなた自身なのです。

あなたが、「あたりまえ」だと決めつけるのをやめて、それがあたりまえではないとしたら、それでもあなたは「苦しさ」を持ち続けるでしょうか。

こんなに「苦しい」けど、この状況は苦しくなっても仕方ない状況だと、「あたりまえ」だという信念を大事に抱え続けるでしょうかということです。

「あたりまえ」というのは、どこからくる信念なのでしょう。

わたしたちが、物事を考える時、ことばを使って考えます。

ことばは、いつか誰かが、何かの状況を説明するために作り出したものです。
ことばには、その背景があります。

ことばが作られたとき、そこには、その前提となる概念が存在するのです。

何も前提としないことばは存在しません。

ことばを使って考える以上、わたしたちが考えだす「あたりまえ」には、必ず前提があるのです。

数学教師


私が高校生の時、数学の授業で「ベクトルの内積」を習いました。

ベクトルというのは、方向と大きさという二つの要素をもつものですが、「ベクトルの内積」の定義は、大きさだけ(スカラー)になります。

わたしは、なぜベクトルをかけ算すると単なる大きさ(スカラー)だけになってしまうのかが、不思議で先生に質問しました。

先生は、「ちょっと考えさして」というような回答で、そのまま授業を続けながら、時間ができると考え込んでいるようでした。

授業が終わった後、先生が私の所へやってきて、「これは定義だからそうなるとしか言えない」というような説明をしてくれました。

私は、質問の内容よりも、先生が真剣に時間いっぱい考え続けてくれたことに、感激したことを今でも思い出します。

それと共に、何となくはわかっていましたが、当たり前に考えていることも、どこかで誰かが定義したことを前提にして成り立っているものだ、ということを意識しだしたきっかけであったように思います。

話がそれましたが、数学というのは、前提とする公理や定義があって成り立つものです。
必要があれば、不自然に思えても、定義を作り出すことも必要になります。

1足す1が2であるのは、何の前提もなしに「あたりまえ」ではないのです。

数学に限らず、言葉で構築されたことには、前提があるのです。
言い換えれば、思考とは前提を抜きには語れないと言うことです。

あなたが、「あたりまえ」と考えている事も、その前提にさかのぼって考えてみることも必要です。

「あたりまえ」で生きていることは、その「あたりまえ」の前提である世界観の中でしか生きられません。

話を最初の話題に戻します。

あなたが「苦しい」とき、あなたは何かを不満に思っています。

その不満は、あなたの考える「あたりまえ」の世界観から来るものです。

それは、今の苦しさを続けても、大事に抱えていくべき信念であるのかどうか、一度考えてみてはいかがでしょうか。


気に入っていただけたら応援お願いします ↓↓
 人気ブログランキングへ 




[関連記事]
なぜ?と考える病気
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-173.html
受け入れるという道
http://paostao.blog66.fc2.com/blog-entry-174.html

ACR WEBブログパーツ

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体


にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ


現実とあなた自身のずれがなくなるほど、あなたは無理している自分を発見できるでしょう・・・
思考と感情からの解放~そして現実のみを信じる3ステップ|ヒーリング・スピリチュアル | ココナラ

スポンサード リンク







sidetitle最新記事sidetitle
《最近7日間の人気順位》
~ランキング全体をみる~
~ランキング全体をみる~

sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle全記事表示リンクsidetitle
過去の記事はこちらから↓

全ての記事を表示する

sidetitleブログ紹介sidetitle
☆~新刊⌒☆
☆ちゃん見るシリーズ☆


好評発売中


アルファポリス
第2回エッセイ・ブログ大賞
特別賞『タオに生きる』 pao
WebコンテンツPickUP!タオに生きる
【 エッセイ・日記・blog > blog 】
老子の教えに学ぶ
老子のいう「タオに生きる」ということはどういうことなのか。さまざまなアプローチから、自らの考えや学んだこと、思ったことが綴られています。心をやすめ、身体をやすめ、穏やかで落ち着いた生活をしたい……そう願う人たちにとって、ヒントに溢れたブログです。


ez-HTML





PRR
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleカレンダーsidetitle
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
sidetitleにほんブログ村sidetitle
sidetitleスポンサード リンクsidetitle
sidetitleメール心理相談sidetitle
メールを利用して1,000円/週で心理相談を受け付けています。
詳しくは下記から「どういう内容か知りたい。」旨のメッセージをお送りください。





アクセスカウンター
アクセスカウンター
アクセスカウンター
ブランド買取優良店***word-2******word-3******word-4******word-5******word-6******word-7******word-8******word-9***


このエントリーをはてなブックマークに追加

sidetitleジャンル・ランキングsidetitle
[ジャンルランキング]
心と身体
60位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
スピリチュアル
18位
アクセスランキングを見る>>

sidetitle検索フォームsidetitle


もう一つの「タオに生きる」カテゴリー別
Screen Shot_30p ※徐々に更新しています
タオに生きる(人間関係)
タオに生きる(アドバイタ関連)
タオに生きる(YouTube#1)
タオに生きる(YouTube#2)


[上位タグ20]
感情、莊子、思考、怒り、罪悪感、老子、いまここ、人間関係、バイロン・ケイティ、交流分析、タオ、エックハルト・トール、ありのまま、許す、YouTube、老荘思想のコラム連載、不安、過去、無為、OSHO

sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleアクセスランキングsidetitle
訪問いただいているサイト
(週間 木曜日リセット)
※こちらでタイトルを入れさせてもらっていますが、出したくないとか変更したいという方はご連絡下さい。

sidetitleカテゴリsidetitle
カテゴリーを追加し整理しました。 バイロン・ケイティ、エックハルト・トール、ガンガジ、ムージ、OSHO
sidetitleQRコードsidetitle
QRコード
FX