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そこに静かにしようとする誰もいないとき、完全な沈黙があります~非二元の解釈の試み

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時々、私はみなさんに言っています。
『静けさのままいなさい』と、しかし、エゴイックなアイデンティティが落ちたなら、あなたは『静けさのままいなさい』というこのアドバイスさえ、意味がなくなることに気づくでしょう。
静かにしているべき誰も、いません。
そこに誰かが静かにしていようとしているときには、雑音があります。
そこに静かにしようとしている誰もいないとき、完全な沈黙があります。
~ムージ(oceanandwaveを通して)

Sometimes I say to people, 'Keep quiet,' but once the egoic identity drops away, you will come to see that even this advice to 'keep quiet' becomes meaningless.
There is nobody left to keep quiet.
When there is somebody there to keep quiet, there is noise.
When there is nobody left to keep quiet, there is unbroken Silence.
- Mooji (via oceanandwave)



そこに誰かが静かにしていようとしているときには、雑音があります。
そこに静かにしようとしている誰もいないとき、完全な沈黙があります。

この2つの違いは、そこに行為者がいるかどうかですが、誰もいないとはどういうことなのか、普通に考えても想像できませんね。
それは少なくとも、私はいつもここにいて、私が関知していることは「私がそれを行ったり、考えたりしている」ことが当たり前になっているからです。

「我を忘れて」という言葉がありますが、しかし私たちが「私」がいない時間を過ごすことは非常に少ないと思います。それは絶えず「思考」が入り込んできて、私の不在を避けようとするからです。

言い換えれば、「私がいなくなる」ことを私たちは恐れています。
いつも「私」の監督下にいないと、不安で落ち着かないのです。
非二元の教えで言われるような「私はいない」とか「誰もいない」とか言われても、なんの冗談かと思われるでしょう。

しかし、この世界で他とは分離した「私」というものが本当に存在するのでしょうか?
あるいは、私たちの苦しさとは、「私」を存在させるために、生み出されているといったことについて考えてみましょう。
「私が消えてしまうというなら、本末転倒、そんなのゴメンだ」と思う人のために、なぜ非二元の教えはそのような奇妙なことを言い出すのか、すこし考えを遊ばせてみましょう。

さてようやくここから、本題に入ります。

まず、私たちの思っている世界を考えてみましょう。
まわりに見える世界があって、その中で暮らす複数の人間がいて、その中のひとりとして私がいます。そしてそれぞれの人間は、外の世界とも他の人間とも切り離された、分離した存在であると思っています。
私とは、この身体を持ち、その中のどこか(脳など)が考えることで、身体を動かしたり、いろんなことを考えたりします。
私の考えとは、私がいてそれを考えたのであり、また何を考え、何を行うかは、全て私が決定する意思を持った存在です。

しかし、私が独立した存在、他とは分離した存在であることは、どうやって確信しているのでしょう。

一言で言えば、そう見えているからではないですか?

そして、そう見えるようになったのは、物心ついてからそのように教えられ、身体でそのことを叩き込んできたから、今の世界がそれが当たり前のように見えるわけです。

ではこういった考えはどうでしょう?

まず起きることが起きる、そしてあなたは説明せずにいられないかもしれないが タオに生きる

あなたが考えたことや、あなたの決意や、あなたの意思も、現実の方はそのとおりには運ばせてくれないでしょう。
そしてあなたは、演じる前と現実に起きたことをすりあわせて、なんとかストーリーを仕上げます。現実と自分の思惑とのギャップを最小限にとどめるような、自分を納得させられるような説明をつくり上げるのです。

8割がた思った通りにことが運べば、あなたは「ほら、いつもこうして結局は思った通りになるんだ。私の意思、私の計画が世界を変えていくのだ」と宣言するのですが、実際は現実がまずあり、あなたがそれを都合よく説明しているだけなのではないですか?

いっそのこと、計画や、思惑や、意思など忘れて、まず起きることが起きるのに任せてみましょう。
あなたが何もしなくても、起きることが絶え間なく起き続けています。

そのあと、あなたは今までどおり、それを「私」と関連づけて説明したくなります。
「私」がどのように関わって、現実を変えていったかの説明です。
それをどうしてもしたいのなら、そうしてもいいでしょう。


つまり実際には、私が世界に働きかけ、世界を変えているのではなく、ただ起きることが起こり、私はそれに反応し、従い、そのあと急いで、「私」が考えたとおりにものごとが起きたという説明をつけているだけです.

「私」とは、主人公でも、主体者でも、意思を持った存在でもなく、起きることに反応している思考の集まりに過ぎません。

実際には、分離した存在など誰もおらず、全ては一元であるのがこの世界であり、その中に、私たちの身体や、思考が登場しては、現れを見せているだけだとしたら?

さきほど、「一言で言えば、そう見えているからです」と言いましたが、見えているのは、そのように慣らされてきたからです。

起きることがただ起きているのなら、そして、その因果関係など私達にわかっていないのだとすれば、なぜ世界は、今のように整然として存在できているのか?
そのような疑問を持つかもしれません。

例えば、植物の成長を見ていると、種から芽が出て、茎が伸び成長し、養分を吸収したり、太陽の光を浴びて光合成を行って、そしてやがて花を咲かせ、実がなって・・・という経過をたどっていると見えるでしょう。

これらのことは、その順序どおりに起こらないとならない。一つでも順序が変わったら、成長することに失敗するだろう。しかし、実際には期待した通りの成長を成し遂げている。ただ起きることが、起きていて、その順序も私たちは知らないのなら、どうしてそんなことが可能なのか?それでは、世界はデタラメになってしまうはずではないか?
と言った具合です。

しかし、それはこの世界に教えこまれてきた記憶と思考をもつ存在の言い分です。

もし他の世界から来た存在が私たちの世界を見としたら、まるで意味不明の抽象画に見えるかもしれません。

つまり、こういうことです。
整然とした世界が存在するのだから、起きることも秩序だって起きているはずと考えることも出来ます。
一方で、起きることがただ起きていて、その状態をなんとか意味を持つように認識できるように、われわれの認知の仕方を作り上げてきた。その結果として我々の目には整然と見えているだけであると考えてもおかしくはないわけです。

なぜこういう話を展開しているかといえば、もし起きることが我々のあずかり知らないところで起きていて、我々が考えていると思っていることは、それをあとづけで説明しているだけだとすれば?
もしそれが本来のわれわれの世界であれば、今とは、まったく違った生き方をしてもいいことになると言いたいからです。

つまり慎重に考えて行動しないと痛い目にあうというのが、単なる思い込み、思考習慣に過ぎず、考えてから行動するという順序は、見かけにすぎないとしたら?
まず起きることが起きて、それに対処するのが全てであって、それに説明をつけることは、本質的なことではないとしたら?

生きることは、思考がもたらす意思や努力が先行するのではなく、まず事が起こり、それに反応するだけで良いことになります。
そこでは、意思も努力も意味は無いことになります。
我々が世界に働きかけるのではなく、世界に反応する存在としての生き方です。

それでは我々は単なる操り人形で、随分受動的でしかない存在ではないかと思われるかもしれませんが、そう思うのは我々の意思が世界を動かしているという前提があるからそう思うわけです。

言ってみれば、我々は脚本を見せられずに、いきなり劇に参加して役者を演じろと言われているようなものです。全てはアドリブで演じなくてはなりません。しかし、それでいて、なぜか劇は意味のあるストーリーに仕上がっていきます。
慣れてくれば、それが当たり前の世界だと信じていくことになるでしょう。

今われわれが信じている世界も、自分の意思やストーリーで生きていると信じことをやめたとしたら、脚本のない劇に参加しているといっても、そう外れてはいません。実際、次に何が起きるかわからないのです。

もし我々に自由意思というものがあって、自分の思うとおりに行動していいよと言われているとして、実際にそのように行動しているでしょうか?

自分の行動を振り返ってみてください。
「なんのつながりもなく、自分が思いついたので、ある行動を起こそうと考えて行動した。」このようなことが、本当に起きていると確信できますか?
どれをとってみても、その前のつながりで行動している、というのが本当のところだとは言えないでしょうか?

それと結びついていますが、なぜ私たちは、自分の考えで起こした行動を、偶然によるものより意味があると考えたがるのでしょう?

それは、「私」というエゴを大事にするように思考を積み上げてきたからです。
エゴが何かを成し遂げることが、この思い込みを維持するために、どうしても必要なのです。

自分が意思を持ち、責任を取りさえすれば、自由に行動でき、競争には勝てばいいと考える今の世界は、本当にまともなのでしょうか?

自分になんの責任もなく起きたことに、責任を取れと強要され、自分もそう思って自分を痛めつける世界とは、正常だと思えるでしょうか?

起こることに任せると、世界はでたらめになるという根拠は何でしょう?
犯罪を犯す人間は、規則で縛らないからでしょうか?犯罪者の心理とは、その思考が異常に偏ってしまったからと考えるほうが自然です。思考だけが暴走したからです。

自然は、そんな異常な偏りは起こしません。人間の思考から見れば、理不尽なことも、全体から見れば必要があって起きているのです。

もう一度引用します。

肝心なことは、まず起きるままに起きることに溶け込みましょう。説明も「私」もどうでもいいのです。あらかじめ予定を立てたり、自分が現実を動かそうなどと何も考えずに、起きることに参加してみましょう。

それを繰り返すうちに、あなたはだんだんそのからくりに気がつくようになるでしょう。
あなたが考え、あなたの意思で現実を動かしていると説明付けて来たことが、現実だなんて、いかにペテンであったかを認めざるを得ません。

最初はショックかもしれません。そんな事実は見たくないでしょう。
あなたが動かしていると思っていた「あなたの世界」は、現実そのものではなかったのです。私のエゴは猛反発するでしょう。「そんなたわごとを信じるんじゃない!私がいなければ何も起こせないのだ。私を大切に扱いなさい!」
「考えずに動くなんて、そんな無謀なことをしてはいけない。」

まず起こることを起こらせましょう。あなたは何も気にせず、やりたくなったことに任せて動いていればいいのです。あるいは、何もしていることに気がつかないまま終わってから気がつくかもしれません。

結果は何も変わらないことを、正直に認められた時、あなたは無駄な神経をすり減らしてきたことが無駄だったことに驚き、しかし解放されたことに気がつくのです。


「私が消えてしまうなんて許せない。そんなことなら今のままでいい。」
そう思うのも問題はありません。これからもそう思っていて不都合はないでしょう。

しかし時には、『「私」も「あなた」も誰も実際にはいない。ただ一元(非二元)の世界があるだけだとしたら、私ならどう生きたいだろう?』
「起きることが、ただ起きては過ぎ去っていく」世界なら、あなたならどう生きるだろう?と考えてみるのも、悪くはありません。

どちらにせよ、「私」もいずれはいなくなります。
それまで、出来る限り「私」の演技を極めるのも一つの生き方です。
しかし「私」などいない、他に誰もいない世界を、起こるままに遊んでみることも一つです。本当に消え去るまで、毎瞬、毎瞬を生まれては消え去る波のように、思いっきり存在を示し切るのです。

「そこに静かにしようとする誰もいないとき、完全な沈黙があります」
完全な沈黙とは「私」の沈黙であり、同時にあらゆるものが活動する場でも在るのです。


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