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行きづまりと義務感

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行きづまっていると感じるとき、それは誰かとの関係だったり仕事だったりするかもしれませんが、

それに追い打ちを掛けるのは義務感です。

行きづまりを感じて停滞感や疲れを感じているときは、義務感をしばらく切り離してみましょう。

責任や義務という言葉にとらわれて、そもそもあなた個人で出来そうもないことを何とかしようとあせってはいませんか?

出来ていないことから焦りや疲れがあるときに、義務感で自分を奮い立たそうとするのは、無理をしてこじらせてしまう可能性があります。

そこで、そんなときは、しばらく義務感も焦りの対象も忘れてしまいましょう。
忘れられたら苦労はないといわれるかもしれませんが、だからといって何も出来ないのに、ただ自分を責めていても仕方ありません。

あなたの責任感の多くは、自分の恐怖感から必要以上に膨れ上がっているのです。
実際には存在しない人に責め立てられているように感じてしまうのです。

ただ忘れるのは難しくても、すこし視点をそらしてみることなら出来るでしょう。
これを片付けないと何も先に進めないと思い込むのを止めてみましょう。

そして、自分のできることや人に与えられることに焦点を当ててみましょう。

「自分は何を人に与えられるだろうか?」ということに、しばし心を遊ばせてみましょう。
今の状況とは関係なくです。

何か思いついたら、小さな事でも何でもいいから、それを実行してみるのです。
これなら自分がやってあげられるということに取り組んでみましょう。

行きづまりの状況とは何も関係ないことでもいいのです。

何かを人にやってあげることで、本来の自分を取り戻します。

いろんなことが出来る自分が見えてきます。

義務感で追い詰められていた自分から離れて、もともとの自分を思い返す余裕が出てきます。

結果として今の行きづまり状況も全く違った見方が出来るようになるでしょう。
そして状況も常に変化し続けているのです。

義務感でこじらせていたら決して見えてこないものが見えてくるでしょう。

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その時こそ、自問してみよう!

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他人の中に見える横柄さ、怒り、悪意、意地悪さ、混乱した状態に悩まされていると感じたら、その時こそ、自問してみよう。

「この私が気に入らない傾向は、私の中にも存在するだろうか?」

☆向ける方向を変えることで、「この人なんて人なの!!!」と100回も繰り返しては、イライラするのを阻止することができる。

繰り返すほど、怒りは強くなってしまうだけだ。

☆しかし本題はそこにあるわけではない。

「自分の中のいやな見たくない感情が、それを相手の中に見せているのだ」と気づくことは、最も役に立つ洞察につながる。

これを知識ではなく、腑に落ちるところまで確かめてみる。
いままでのどんな経験よりも、あなたを成長させてくれるだろう。

☆どうしてもこれがピンと来ない(自分の中に見当たらない)と思うのなら、時間をおくしかない。
わかったふりをしても、こじらせるだけだから。

いまはまだ、そこまで自分を素直に見られない意固地な部分が支配的なのだから。

しかしここで諦めなければ、次はもっとうまくいくだろう。
頑固な子どもも、なにか様子が変わってきていることを察するようになる。

頑固なときは、それ以上の報酬が見えてくるまで変わらない。
しかし、チラチラ気にしてみるようになってくれば、こわばりが溶け始めた証拠だ。

もう一息で変われる。解放は目の前まで来ている。

☆もちろん最初に戻って考えると、自分の中の頑固さが消えれば、横柄で挑発的な人などいなくなってくることに気がつくだろう。

もともといなかったのか、自分のせいでそう見えていたのか、それはどちらでも大した問題ではない。

それらが避けられない、根源的なものではないとわかる事こそが重要なのだから。


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受動的な観察者

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何かのきっかけで、いろいろな自分に気がついて驚いてしまうことも時にはありますね。

「自分はこういう人間だ」と言い聞かせていたことでは説明が出来ないと、そこで戸惑ってしまうのです。

むしろ、「自分はこういう人間だ」と決めつけていたことが、大ざっぱすぎたことに気がつかないといけないのです。

では、いろんな自分が現れてもてあますときどうすればいいでしょうか。

ここでは、交流分析などを中心に自分を知る方法を考えてみます。

まず、カープマンの提唱する3つの役割について。

私たちは普段から、「迫害者」「犠牲者」「救助者」のどれかの役割を演じようとしがちで、どれを使いやすいかという、その人の得意な役割を持っています。

この場合の役割とは、ドラマで役者が役になりきっているように、ほかの人からはその人そのものに映るのですが、実際は役割を演じているのです。

しかし、役者も役になりきっていると、それが自分そのものに思えてくるといわれますが、同じように役割を演じているときには、私たちもそれこそが「私」そのものだと感じているのです。

自分そのものだと思うわけですから、その役割を批判されたり攻撃されれば、自分を守ろうと必死になります。

荘子の話に出てくる王様に奴隷のように使われる男の話。

昼間の実際の生活では王様から奴隷のようにこき使われますが、夜眠った後は夢の中で自分が王様の役割に転じて王様をこき使おうとします。

現実の場面では男は「犠牲者」を演じていますが、彼の中にはまた「迫害者」としての自分も立派に存在しているのです。

現実を離れた夢の中では、その「迫害者」が自分そのものになります。

はたして、本当の自分はどちらなのかと悩むわけですが、どちらも自分だというのが正解なのでしょう。

自分はこういうタイプだと社会に向けて表明していても、決してそれだけが自分ではないことは、まわりの人も自分自身もうすうすわかっているものです。

しかし、いったんそれから外れた自分が現れると、どうしたらいいだろうと慌ててしまうのは、自分が思い描いた自分とあまりにも同化しているためです。

それは、自分の中の一部に過ぎないという見方が出来なくなってしまうのです。

さて、いろんな自分が出来上がってくる過程をごく大ざっぱに見てみましょう。

まだ幼い子どもは、親に保護されて生きるしかありません。

ここで親が果たす役割は、養育的に子どもを扱う親と、しつけなどで命令する立場の親の2つの面を持ちます。

子どもは、自然に反応する自分の他に、親の期待に応えないと生きていけないと思って親に合わせて適応しようとする自分が存在します。

親が子どもに命令するときというのは、ちゃんとした理由が有って子どもを守るために叱る場合もあれば、単に親の側が機嫌が悪くて、つい無関係に子どもを叱ることもあるでしょう。

しかし、子どもにすれば、そんな事情はわかりません。

理由はわからないけれど、自分は叱られていて、嫌な思いをすることもあるんだと受け入れるしかありません。

反発を感じて抵抗する子どももいれば、自分の中に押し込めてしまう子どももいます。いずれにしても、理屈抜きで反応するしかないパターンを作り上げていきます。

しかし、幼い時期には子どもと親の関係は一方的であるとはいえ、親の姿を見ている子どもはそれを自分にも取り込んで行きます。

「お母さん、またテレビつけたまま寝てたよ!ダメだねえ」と子どもが言うとき、子どもは親の立場から見ているのでしょう。

子どもの中の「親」もだんだん育っていきます。

大人になるにつれて、その占める割合も増えてくるでしょう。

ここまで見てきただけでも、自分と一口に言ってもいろんな役割の自分が蓄積されてきただろうことがわかります。

王様にこき使われる男は、仕方なく従う「子ども」としての役割の他に反発を感じている「子ども」も感じ取るでしょう。

そして夢の中で自由を取り戻したときには、自分の中にとりこまれた批判的な「親」を発動することになるわけです。

言語化されていない段階での反応ほど、反射的に現れてコントロールするのは難しいものです。

しかし、だから「いつも私はこうなってしまう」と決めつけてしまうのは早計です。

すぐに反応してしまうからと言って、それだけが自分だということにはなりませんし、他の反応は自分に出来ないと決めつけなければ、他の自分を発見できるのです。

表向き従順な子どもは、適応した「子ども」をまず表に出すこどもです。

しかし、他の自分もまた立派に存在しています。

ときには、反発する「子ども」が顔を出しますが、それは自分じゃないと押さえ込んでしまうのかもしれません。

従順な「子ども」とペアを組んでいるのは、威圧的な命令する「親」です。

当然、その親像は自分の中にも取り込まれています。

「親」と「子ども」の関係は他人との交流以外にも、自分自身の中での「親」と「子ども」の対話が存在します。

従順に仕方なく従う「子ども」を演じることが多ければ、ペアを組む批判的な「親」も自分の中で育てていきます。

「犠牲者」は追い詰められれば、一転して強力な「迫害者」に変身します。

「救助者」は相手が助けを拒むと、これまた一転して「迫害者」に変身します。

まわりの人は、自分のとりやすい役割を補完するの人に見えてくるのも仕方ないことです。

自分が反発を感じやすいほど、まわりの人は自分を怒らせるように見えてきます。

自分が隠そうとしている、不都合な自分を刺激するような人が目に入りがちなのです。

しかし、それは人間の心理の弱点というものです。

ですから、そういうものだと思って、罠にはまっても自分だけの責任を感じる必要も有りません。

素直に自分を見られるようにしておくことが、そういった罠にはまらない対策になるでしょうから、嘆いたり罪悪感を抱くくらいなら、それを見抜く観察眼を磨けばいいのです。

子ども達が5,6人集まって遊んでいるのを見ていると、すぐにこの子はいじめられそうとか、この子はガキ大将っぽいなとかいうのが見えてきませんか。

だれしも自分の得意な役割を、自然と表に発散しているのです。

そして、それを補完する役割の人が近づいてくるものなのです。

キックミーと叫んでいる子どもには、いじめっ子が近寄ってくるのです。



長くなりましたが、本題に戻しましょう。

「受動的な観察者」として自分を見るのです。

さまざまな自分が存在することを認めて、「どうせ私は~な人間」と決めつけないことです。

決めつけないでいることを続ければ、こんな自分はいないと切り捨てていた自分も、自分の存在を主張し始めます。

やがて自分が思い描いてきた自己像とは、実は社会的に望ましいとされる自分ばかりを積み上げたものだとわかってくるでしょう。

押し込められていた自分を見つけ出すに従って、自由を取り戻していきます。

そんな自分は自分ではないと無理に信じようとしたり、他人に見せかける為に使っていたエネルギーがいままで自分から自由を奪ってきたのです。

それが、なにかスッキリしない自分の原因で居続けてきたのです。

「受動的な観察者」というと、いつも冷静になって白けているような印象を持つかもしれませんが、必要なときには、自分自身に入り込めるという選択の自由をもつのは、普段からニュートラルでいられる自分があるからこそです。

いつも何かに入り込んで、力が入っている人は、他の事を頼めそうにありませんよね。

近寄れば、それに賛同しないわけにいかないと感じてしまいます。

何かをしきりに訴え続ける人をよくみていれば、なぜそんなにこだわるのか聞いてみたくなりませんか。

それしかない、それを逃したら自分がいなくなると必死な裏側が見えてくるのです。

「これこそが自分だ」と言い聞かせるやり方はどんなことを生みだすでしょうか。

・それを批判されると、死活問題のようにそれを守るのに必死になります。

・それ以外の自分を認めないでいることが、柔軟な切り替えを難しくして、選択肢を狭いものにしてしまいます。

・受け入れられるのは、自分に賛同してくれる人ばかりになってきます。

・自由を制限された思考からは、偏った考えしか生まれてきません。

解放するというのは、縛り付けてきたと思い込んでいる「外側の何か」に反旗を振りかざすことではありません。

解放とは、自分の中にある縛り付けている自分の解放しかないのです。

それには、先入観を無くして自分を観察する姿勢が一番なのです。

華やかな騒がしさで自分を誤魔化していても、パーティの後の寂しさを生み出すだけです。

そういう人は、いつも仲間がいないと不安になります。

やたらと能動的になる姿勢は、何かへの反発からくるものです。

そして反発する対象がなくなったら、すぐに力を無くしてしまいます。

相手が謝ってきているのに納得しない怒った子どものように、いつまでも怒り続けるために、別の反発する対象を探し続けることになってしまいます。

ありのままに見るには、受動的な観察が必要なのです。

相手ありきの反発を捨てて、自発的な姿勢を生み出すことが必要です。



だれかを悪者にしたいと思っているのなら、まだ認めていない自分がいるということです。

敵を想定しないといけないようでは、本当の改革は出来ません。



自分自身で考えるには、一人静かに自分を振り返る時間が必要なのです。

ありのままに、受容的にです。

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制限している自分を解放するには

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思い切って飛び込めば、新しい世界が開けそうな気がする。

だけど実際には動こうとしない。

入り口まで入ってみるのだけれど、知らないことばかりで尻込みして帰ってくる。

自分に正直に振り返って見ればこういう言い方もできるのですが、実際にはもっといろんな理由をつけてやらないことを正当化していることが多いでしょう。

大人になるほど、正当化はうまくなるものですから。


私たちは、自分の知らない世界を怖がります。

その傾向は、知っていることが増えるほど怖がる対象が増えるものかもそれません。

なまじっか知らない方が、怖いもの知らずでいられるということもあるからです。

子どもは知らないことが多いから、こんなにいっぱい自分は覚えられるだろうかと謙虚に思いますが、大人になるにつれ、いつしか自分はもうすべてわかったと思うようになります。

それは1つの経験が類似のことにも流用できるということがあるため、ある程度経験を積めばもう大体わかったことにしてしまうからかもしれません。

例えば算数で鶴亀算を習って苦労していた子どもが、魔法のxを使う方程式を覚えると、もう○○算など必要ない、これですべて解けるじゃないかと喜びます。

しかし汎用的なやり方を身につけるほど、柔軟な思考力は失われる傾向にあります。

数学のように前提がハッキリして閉じた世界では問題なくても、一般の世界をルール化することはそう簡単にはいきません。

どう解釈するかはいくつも考え方が存在するわけですし、どれもこれさえわかればOKというわけにはいきません。

ですが、思考の方はそんなことは無視して、自分の知っていることですべてを理解してしまいたいと願います。


そして、いつまでも純粋に原理を考えたりしないで、現実の問題に対処することだけを考える様になってきます。

やがて、世界をどう解釈するかは自分の中で固定したやり方が固まってしまうのです。

方程式を覚えた子どもが○○算に戻ろうとしないように、自分のやり方で世界を理解して押し通そうとします。

ですが、実際に経験し確かめてことでなければ、自分では説明がつくと思っていても、いざやろうとすると怖いのです。

そうやって、頭ではわかってはいるけど実際に飛び込むのは怖いということが増えて来ます。

そこには、自分が強引にわかったつもりになりたくて作り上げてしまった世界観があります。

しかし、実際に経験したことのない作り上げた世界観は、現実とは一致しないかもしれないわけで、もしそういうことが起きると自分の積み上げてきた世界が崩れ去ってしまうと思って怖くなるのです。

そんな制約を持たない子どもは、もっと大胆に知らないことにも挑んでいきます。

世界を説明出来るものにしようと思うことは、科学を発展させ、便利な世界を作り上げましたが、一方で説明のつかないことへの恐れもその裏側にくっつけて進化してしまったのです。

未知のことへの恐れは、知っていると思っていることが多いほど、それが崩れることの恐れが加わって臆病になります。


長々と引っ張ってきましたが、こういった意味の恐れを軽減して、未知のものに挑戦することをもっと易しくするには、知っていると思うことを一度リセットしてしまうのが早道です。

自分はちっとも知ってはいないこと、世界はいたるところ未知のものだと認めてしまえば、純粋に最初の踏み出しの勇気だけあれば新しいことに挑戦できるようになります。

その時の痛みは、自分で世界を作り上げてしまっているほど強いものになるでしょう。

世界を自分のよく知っているものに変えたいという欲求も充分わかります。

しかし、それが行き過ぎれば、未知のことに対して、小さなことも挑戦するのが怖くなってしまうのです。

時にはドンキホーテのように勝算のないものにも立ち向かう勇気が必要です。

考えてもわからないことは、文字通り無駄な行為ですが、考えればいつかわかるという思いが捨てきれないのです。

何にでも自分で答えを出したいというのは執着であり傲慢な姿勢です。

目をつぶって、他のわかることに取り組もうと思えば、今日のような青空が拡がってくるでしょう。


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王様と私~私の世界が変わるには

男女怒り

「荘子」に出てくる「王様と私」の話です。

ある男は普段から王様にこき使われています。
それこそ奴隷のように、言われるままに働かされ、
文句など言いようもありません。

しかしこの男は、夜眠ると、夢の中で自分が王様になり
立場が逆転して王様をいじめたり、命令したりしているのです。

どちらが本当の自分なのか、悩む男。

「胡蝶の夢」を思わせるこの話、いろんなことを感じとれますが、
ここでは、逆転する主従関係を取り上げてみたいと思います。

この男は、夢の中では「自分が主人でその主人は奴隷に命令する」ような人なのです。

その思いが、現実の生活では「人は私をこき使うだろう」という見方を生み出しているのです。

この男が自分は王様になっても奴隷をこき使うことはしないと思い始めれば、現実の生活でも自分を不当に扱う人がいなくなります。

「いなくなる」とは、もともと自分が作りだしていた幻想に過ぎないということを意味しているのです。

このような内容は何度も書いていますが、単なる気の持ちようではなく、実際に人の心理はそのように正確に働きます。

気休めではなく、真剣に取り組めば、まわりの人の見え方は確実に変わります。

また、逆にまわりの人が自分に脅威や不安を起こさせるとしたら、自分の中に存在する「命令する王様」を振り返って見ることです。

きっと、「まだ隠れていたか王様が」という発見があるはずです。

この程度のことと思わずに、真剣に取り組めば、やっただけ確実に周りの世界は変わり始めます。

ところで、「世界が変わる」という表現を使っていることについて、もう一言書き添えておきます。

こういった話を聞くと、なるほどおもしろい話だったとして、知識として蓄えようと思う方も多いのではないでしょうか。

つまり、アルバート・エリスの論理療法の理論で言えばこういうことです。
1.自分に脅威や不安を起こさせる人が存在する。[A:Activating event(出来事))]
2.相手の存在が自分の信念と合わず動揺する。[B:Belief(信念、固定観念)]
3.相手によって自分がイライラさせられる。[C:Consequence(結果)]
4.考え方を変えてみる。[D:Dispute(論駁)]
5.相手の見方が変わる。[E:Effect(効果)]

ここまではいいのですが、単に知識の収集で終われば、たまたま思い出したら、4,5を実践するが、大抵は今まで通り3で終わってしまうということになります。

そもそも2の段階から変えてしまおうという気にならなければ、世界が変わると言うところまで行きません。
ですが2の段階からかえてしまうことは、同時に今までの自分と対峙し、そこに付随するいろんな信念と対決しなければならないでしょう。

そこまでやろうとする人は、なかなかいないのです。
ですから、単なるおもしろい話や、ためになりましたで終わってしまうのです。
自分が変わることへの抵抗や不安は大きい。
それを超えてまで変わることのメリットは、誰も教えてくれないし、迷っているうちに、信念のシステムの方で自分の変化を拒絶してしまうのです。

世界が変わるとは、1の段階が変わるということであって、運が得よければ4が発動するということではないのです。


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あの時はつらかったね!

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あの時はつらかったね!

『あの時はつらかったね!』と誰かに言ってもらえたら、きっと救われたような気持ちになりますね。

でも誰かがそれを言ってくれるのを待つ必要はありません。
自分で自分に言ってあげましょう。

しかし、それを言えるためには、1つの前提があります。
時にはそれは、大きな壁となって立ちはだかるかもしれません。

その前提とは、「その出来事やその時のつらかった自分が存在したこと」を認めて受け入れることです。

それは簡単であるとは限りません。

なぜなら、自分の経験したことであっても、そのつらさからそれを打ち消してしまおうとする防衛規制が働くのが、人間の心理というものだからです。

そんなことは「なかったことにしよう」としたり、あったことを覚えてはいても、なんとか「正面から向き合うことを避けよう」としたりするものです。

「なかったことにしよう」パターン:

「私にそんなことがあるはずがない。私はそんなことなど平気な人間だから」と言ってしまいます。

そして、それを言ったために、本当に自分はそのような感情に対して、平気であることを装わなければならなくなります。

何かの感情を打ち消して感じなくしようとすれば、その感情だけでなく、いろいろな関係しそうな状態も否定しなければならなくなります。

その結果、特定の感情を避けるために、直接関係のない感情まで鈍磨させないといけない、と言う弊害が起きてくるのです。

つまり何事にも、あまり気軽に感情を表現できなくなります。
そのため、たとえそれが楽しい感情であってもも抑制がかかってしまいます。

ですが、このように装ったところで、隠している感情は消えて無くなるわけではありません。
否定しようとすることも働きかけであり、その力が逆方向の抵抗を作り出し、たえずその反勢力に対抗し悩まされることになるのです。

「正面から向き合うことを避けよう」パターン:

このパターンでは、自分につらいことがあったことは認めていますが、その本当の姿を見ることからは目をそらしているのです。本当に追体験することは避け続けなければなりません。

ですから、そのために様々な策略を労することになるのです。

たとえば、こんな感じです。
「私ってこんなひどい過去があるの。だからかわいそうだと思って。」
「こんなかわいそうな私が失敗したって誰が責められるというの。」

直接傷口には触れないまま、開き直ったり、同情をかったり、あるいは感情的になったり事態を混乱させて、追求されることを避けようとします。

こうして周りの人間に対してバリアーを張っておいて、触れたくない自分には、まわりからも自分からも、見えなくなるようにするわけです。

このような防衛のパターンは、個別に見れば実に様々なパターンがあるでしょうが、今はこの程度にして、次に進みましょう。

このような防衛する自分に気づいて、「避けていた感情の存在を受け入れること」が必要になるというところに戻りましょう。

しかし、自分で隠そうとしているときは、無意識に入り込んでいるから「自分で気づくなんて出来ないじゃない?」と思われるかもしれません。

しかしそれを言ってしまっては、気づけない自分をそのまま続けるだけです。
もしかすると、そのように思うこと自体が自我の防衛パターンの一部になっているかもしれません。

ここはひとつ、意を決して「自分の経験したことなんだから、自分でわからないはずはない」と宣言してしまいましょう。

それは実際事実であるし、回避に手を貸さなければ、やがて宣言だけでなく本当に実現することになるでしょう。

ですが、いざやろうとは思っても、どうやればそのような自分を見破ることが出来るのか戸惑うかもしれません。

しかし手がかりはあります。

そのような状態にあるとき、普段とは違い自分になっていますから、防衛規制が働き始めたときの変化をとらえてみましょう。

・落ち着かなくなる。
・話をそらしたくなる。
・早口になったり、多弁になったり、声が大きくなる。
・誰かを攻撃したくなる。
・開き直ろうとする。
・なんとなく悪いことをしているような後ろめたさがある。
・自然な感情が起きてくるのを警戒したり、特定の感情ばかり使おうとする。

パターンは人それぞれ特有のものになるでしょうが、そこにいつもと違うパターンが見られるはずです。

ひとつでもそんなパターンに気づけるようになれば、だんだん容易になってくるでしょう。あとは済し崩し的に征服できる可能性が高くなります。

つらい経験であった、あるいはそう思い続けてきたわけですから、直面するときはやはりそれなりの覚悟は必要です。
泣きたくもなるかもしれません。

ですが、それは隠し続けるよりはずっといい結果をもたらすと信じてがんばってみましょう。

つらい過去は誰でも思い出したくないもの。

しかし、一旦向き合ってみれば、いいことはたくさん巡ってきます。
そして、それを経験すれば、隠していることなどばかばかしいことだと思えるようになってくるでしょう。

正面から向き合った結果は楽しいものです。

・すっきりした気分になります。
・今までよりも軽くなれます。
・隠すために使っていたエネルギーが解放されます。
・いままで、ずっとやりたくても避けていたことが、うそのように気軽に出来るようになります。
・誰かのせいで犠牲になっているという思いが消えていきます。
・同じような思いで無理をしている人に気づくようになれますから、許容する心や思いやりをもてるようになります。

そして、自分に正直に向き合うことがどんどん容易になっていくでしょう。
その結果、こうありたい自分ではなく、ありのままの自分を好きになります。

今までと同じ環境にいても、そこから見える世界は、防衛が解けた自分を反映して自分に対して優しい人ばかりの世界に見えてくるでしょう。

『あの時はつらかったね!』と自分でも言えるし、そう言ってくれる人も現れることでしょう。




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自分の判断に不安を感じるのはなぜだろう

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誰かに対して自信ありげに見せている自分。

しかし、ひとりになってから自分だけと向き合って、それでも自信は揺らぎませんか?

ふとしたときに「これでいいのだろうか?」と不安になってくる。

これはどこからくるのでしょう?

そこで、実際には自分は何を頼っているのかを振り返ってみましょう。

◆自分の人生を生きるつもりなら、最後は内側から出てくる指針に従おう。

外側の方針に従ったら、どこまでも自分ひとりでは何も出来なくなってしまう。
決断を下す存在が外側にあるのでは、自分で判断するたびにストップがかかるのは当然である。

◆自分が自然に選択したことは、いちいち振り返らずに進んでいくもの。

正しいかどうか不安になるとしたら、なにかが自然の流れから外れている。
どこかが間違っていると思って他のやり方を考えよう。

◆自分でよくわかっていない権威に従うと、いつまで経ってもわからない存在に引きずられることになる。

自分で考える権利はいつになっても巡ってこないだろう。

◆そうではなく、自分を成長させればもっと視界が広がって自分で判断できるようになることを信じる。

いまの自分だけで判断して、自分では決められないと判断したり、誰かに頼ろうとするのはやめておこう。

◆社会の常識だからといって人を手助けしようとしないこと。

自分が本当に助けたいと思えることに限って、相手に親切にしてあげよう。
相手が自分で判断できるように手助けするのが、一番の親切だと忘れないこと。
またそれは、裏返しで自分も不必要に人に頼ることになるのを防げる。

◆「いまは、これなしでは生きられない」というものを作らない。

多少の不都合はあっても、依存と引き替えに何かを手に入れようとするのを極力避けたい。
そうしないといつまでも頼るものを作り出す生き方になってしまう。

◆弱気になっているのは、まだ外側の手近なものに頼ろうとしているから。

頼りにする何かを持つのをやめたら、不安や弱気は消えてしまうもの。
それは意志の力の強さでもないし、強がってみせることでもない。
それらを手放して自分の弱さを認めたときにあらわれてくるもの。

◆今の生き方で疲れを感じるとしたら、上記の何かをやっている兆しだと思って見よう。

「疲れた」とため息をついたら、何が原因かを探ってみよう。

◆自分の内側から来る自信だけが本物だと考える。

外側の何かに頼った自信はかんたんに崩れ去る一時的なものでしかない。

◆自分に頼って生きるのか、だましだまし何かに頼りながら生きるのか、どちらかはっきりさせよう。

いまの自分に自信が持てないという理由で後者を選べば、いつまでも充実感は得られない。



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このままでいいんだ?よ

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『このままでいいんだよ』と思ってほっとしていると、『アンチこのままでいいんだよ』派の自分が出てきて、こんなに出来てないことがあるじゃないかと言い出す。

だいたい「努力している自分」を見ていないと落ち着かなくなってくるという思いは、シロアリのように私達の土台に住み着いているようです。

『このままでいいんだよ』とか書いていると、時々向きになって反論してくる人がいます。
その人の言いたいことは何かを眺めていると、こんなことではないかというのが見えてきます。

私が今どれだけ無理してがんばっていると思っているんだ。「努力しないものは報われない」ということが成り立たないと、私のやっていることはバカみたいじゃないか。
だから、こんなことを書くやつは徹底的に叩いておかないといけないんだ。

その人が努力することでうまくいっているのなら、人の言うことを向きになって批判する必要など感じないはずだし、どこか無理しているから強迫的になってしまうのです。

こういった主張の最大の問題は、一言で言えば、二元論に陥っているということ。

努力する人と全くしない人の二種類しかないように思ってしまう。

必要なときにはがんばり、そうでないときは「なんにもしないよ」という融通を利かせるやり方が考えられないわけです。

また「このままでいい」という言葉に過剰に反応してしまうのでしょう。

そんな言葉を使っていると、人間怠惰になって、何もしないグータラ人間になってしまうと信じ込んでいるようです。

しかし放っておくとだめになるという根拠はどこから来るのでしょう。

自然を見てみれば、放っておいても必要なことは為されていき、そのものの本来の成長を遂げていくものです。

たとえば、まわりに生えている草花を見てください。
私は努力したくないからと言って枯れてしまう草花を見たことがありますか?

人間も素直に生きていれば、必要なときには努力し、必要なければ休むというのが当たり前の姿でしょう。
人間だけ怠けるものが登場するように見えるのは、別のことを勘違いしているだけです。

何もしなくなるというのも、本来の姿をゆがめて、人間ならではの余計な策略を使うからズボラやナマケモノが生まれてくる。

たとえば、ある人は自分は何をやってもだめな人間だからといじけて、積極的に行動することを自分に禁じてしまう。

あるいは、社会が悪いから自分は努力なんかしないんだと言い訳して、何もしない自分でいることで反発を表明しているつもりになっている。

他にも色々あるでしょうが、どれも不自然で作為の入った姿でしかないのです。

また「無理をする」ことと「努力する」ということをどこかで混同してしまっている人もよく見かけます。

本来まじめで強迫的に努力する人というのは、どこかこういう傾向を生じてしまうものです。

もともと頑張り屋さんなんだから、がんばるときと手を抜く時を使い分ければいいのですが、それがだんだん元に戻せなくなってしまう。

常に努力していつも向上し続けていると訴える人は、いつも変化しているように見えるかもしれませんが、こういう人ほど変化を拒否しているのです。

つまりいつもの「向上」というワンパターンを止めることを拒否し、同じやり方を続けようとする。
だから、がんばるときと、気を抜くときのメリハリが無くなってしまう。

変化を受け入れると言うことは、いまががんばるときという状況になれば、自然とがんばる自分に従えばいいし、その必要がなくなったと感じれば力を抜いてなんにもしない状態にも戻れるということじゃないですか。

そんなふうにに自然に従える自分なら「このままでいいんだよ」という言葉が、無抵抗に受け入れられるようになるでしょう。

◆「このままでいいんだよ」と言えるとき、楽に生きられます。

◆「このままでいいんだよ」と言ってあげられるとき、相手も楽になり元気になります。
「そのままのあなたがいいんです」といわれたらどう感じますか?

◆「このままでいいんだよ」と言えるとき、無理をしないから最適な自分が自由に発揮できます。

◆「このままでいいんだよ」と言えるとき、人のやり方に口出ししなくなります。
「このままではいけない」自分がいるときだけ、相手の中にも「このままではいけない」ものが見えてくるのです。

◆「このままでいいんだよ」と言えるとき、初めて今が最高だと感じることが出来る。
このままではいけない間は、今は将来の準備のために犠牲になってしまう。

◆「このままでいいんだよ」と言えるとき、初めてまわりの世界に感謝を感じられる。
このままではダメな自分やダメな相手に気を取られていては、いいことも見えてこないし、感謝するどころじゃありません(笑)。

そしてなによりも、
◆「このままでいいんだよ」と言えるとき、初めてありのままの自分をそのまま受け入れられるのです。
それが本当に望んでいることではないですか?


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最初から自分を否定する人はいない

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人はみな生まれたときは、生命感に満ちていてそれを否定するようなものは持ち合わせていません。

もちろん自分が嫌いなどという感情も、なんのことかわからないでしょう。

しかし徐々に大きくなるにつれ、まわりに他人が現れ、その関係性の中で生きていくうちに、自分の思う通りに世界は動かない事態に出会うようになります。

「そんなばかな。どうして私の思うのと違ったことが起こるのか?」

しかし、ばかなことではなく、現実にそれは起こり続けます。

それをどう解釈するか、いろんな情報を持たない幼い時ほど、その衝撃は大きく、ひねり出した結論も自分を痛めつけるものになりがちです。

つまり、「なぜかはわからないけれど、私の何かが悪かったからこれが起きたのだ。」ということです。

やがて自分の思い通りでないことが起きると、自分の何かが悪かったのだと結論づけるようになるのも、無理のない成り行きでしょう。

成長して、いろんなことを考え合わせることが出来るようになれば、そんな単純な直結の仕方をせずに、別の因果関係を考え出す力も生まれてくるでしょう。

ですが、それでも今までに積み上げてきた因果関係の影響は強いものがあります。
おそらく、言語化される前のそういった説明のつかない感情と出来事のセットは、考えても説明がつけにくいし、書き換えることは用意ではありません。

「この気分になったとき、いつもよくないことが待っている。」といった情緒的な因果関係で成り立っているからです。

急に憂鬱な気分になったとき、その原因を説明するのは難しくて、何も出来ないままその状態を我慢して過ごすしかないのです。

ですが、悲観することはありません。
原理は単純です。
あなたの積み重ねてきた記憶が、いまの「これこそが私だ」と思い浮かべるものの実体だからです。

書き換えれば「私」はいくらでも変えられるわけです。

ですが、原理が単純でも、実際に自分を変えるとは簡単ではないことは、今更言わなくても経験積みのことと思います。

その難しさは、変えようとしている主体が、その対象でもあるという関係にあることに起因します。
過去の記憶の蓄積が作り上げた「私」という存在を、自我と言う呼び方で扱っていきましょう。

自我はそれ自体が、主張し自分自身を変えられないように守ろうとします。

「こんな自分は嫌いだから変わりたい」とあなたが思っても、自我は抵抗します。

「いままでこの自分のおかげでやれてきたんじゃないか。今更それを変えるなんて、とんでもないことだ。
思い直そうよ。変わってしまったら、どんな恐ろしいことが待っているかわからないよ。」

とでも言うように、あなたを元の自分に引き戻すのです。

先日も書いたように、無理矢理、力わざで自己改造を試みることは、ほとんどの場合失敗したり、長続きしないものになってしまいます。

それは抵抗する側の自分が納得できていないから、いつまでも復活してきて、元に戻った方がいいと訴えてくるからです。

変わることは、いいことももたらすけれど、そればかりでなく、今まで考えずにやっていたことを否定する必要も出てきます。

それは居心地が悪く、不安を伴います。

そんな不安を感じると、「ほら、やっぱり今までのままがいいんだよ」となってしまうのです。

巧妙に変わらない方がいい事態を作り出しても、自我は抵抗します。

ですから言葉で表現できるような小手先のテクニックでは、変わることは難しい。

それには、いままで時間をかけて作り上げてきた自分を納得させるだけの、真摯さで取り組まなければなりません。

しかし真剣であることと、力んだり努力するということは別のことです。

あるがままの今の自分が、何をどう感じて作られているのかを、手を加えたりせずに観察することが必要です。

その過程では、解釈が入り込まないようにすることです。
解釈を入れた途端に、観察は、ありのままではなく作られた脚本に沿った見方に書き換えられてしまうからです。

それは今まであまりやったことのない経験になるでしょう。

解釈し、その結果方針を決めることが、自我に沿った今までの自分のあり方だったわけで、はからいのない、ただ受動的な観察などしたことがないからです。

ですが、何かの拍子で、気づくことはあったはずです。
これが本物の自分ではないかと、理由はわからないけれど思うのです。

それはおぼろげで、なんの筋道も見えてこない。
ふだんなら、そんな役に立たない戯言を考えてないで、現実的になろうと目をそらしてしまうからです。

ですが、もともと持って生まれた、生きる方向性とでもいうものをあなたも持っていたのです。

さまざまな、自我の構築がその方向を妨げてきました。
しかし消えてしまったわけではない。

解釈を加えずに自分を見つめることを続けるなら、やがてその道筋とそうでない作られた後付けの解釈の見分けがつくようになるでしょう。

ぼんやりしているからと言って諦めないことです。
自我の抵抗があるものと思って、諦めないで真剣にしかし力まないで取り組むことです。

そうすれば、根無し草ではない、ちゃんと地に足の着いた自分というものが、よみがえってきます。
それは目先の利益など、かすんでしまうほど、すばらしいものであるのを確信するでしょう。

失われた本来の自我を求めて、「妥協しないこと」です。

もうこれでいいdろうという時は、おそらく来ないでしょう。
変化も一緒に受け入れるのが、そのあり方であるはずだからです。

そしてその結果、ありのままの自分であることが、どんどん好きになってきます。
ぐらつきもどんどん無くなってくるでしょう。

どうしたらいいのか迷ったら、他人や社会にではなく、自分に聞けばいいと自然に思えるようになってきます。

失われていた本来の自我の復活の時です。
幼い頃、「何でこんなことが起こるの?!」というショックで、諦めてしまった自分を、否定せずにもう一度取り戻すのです。

まわりの世界は、「私」を否定するところではない。
そう思えるかどうかは、誰のせいでもなく「私」次第なのです。

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傷つけられた!

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誰かの言葉で傷つけられた!

そのときどう反応するでしょうか?

「あの人はひどい人だ。私がこんなに傷ついたのをみなさん見てください!
こんな人を許すわけにはいかない。ずっと覚えておいて、いつか復讐してやるんだ。」

このような考えが、すぐに浮かんでくるようなら、出来事が起こる前の自分の状態をチェックしてみるのもいいかもしれません。

もしかすると、主導権争いをしている自分がいて、もともと誰か来ないかと構えていたのかもしれません。

「ひどいことをいった人がいたから腹を立てただけだよ!」

こう思って、外的な要因でたまたま起きた出来事と思っても、それが恨みを作り出すのなら、たまたま起きて、たまたま消え去っていく出来事ではなくなるのです。

もし「傷つける人」を利用しているのかもしれないと思ったら、根本的な解決を考えないと、いくらでも傷つけるひどい人が増えてしまうでしょう。

もともと自分が動けない理由を、他人のせいにすることで自分と向き合うのを避けているということだからです。

それは、自分が成長して前進することを妨げるものでしかありません。
さらに、いつまでも誰かを恨むことはそれ自体あなたを傷つけ続けます。

仕事の効率を考えることよりも、このような自分の行動を妨げる要因に気づいて取り除く方が、何倍もあなたの行動を自由にし、結果として効率化もはかれます。

「あの人の言葉で、ムッとして怒りたくなったけど、自分でわざわざそれを大きくしてしまうことはないじゃないか。」

そう考えて聞き流してしまえば、その思いは時間と共に消え去っていきます。
「そう思えない何かが自分になかっただろうか?」が問題なのです。

それに、もしかするともともと相手に悪意などなかったのかもしれませんからね。
表現の仕方はひとそれぞれすごく違っています。

あるいは、皮肉った言い方をしたひと自体が、自分の中に同じように問題を抱えているから、外にそれを向けただけかもしれません。

その場合は、なおさら泥仕合に陥らないことが大切です。
「わたしの方が傷は深いのよ!」と言い合っても仕方ありませんからね。

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10人目の男

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10人の男たちが大きな河を渡って向こう岸までたどり着いた。

そのひとりがみんな無事だったのか確かめようと、男たちを数え始める。

「大変だ!9人しかいないぞ!」
「誰かがまだたどり着いていない、助けに行かないと!」

他の男が確認する。「1,2,3、...、9」

「ホントだ。ひとり足りないぞ!きっと溺れてしまったんだ。」

次々と男たちは数を数えるがひとり足りない。

「大変なことになってしまった!」

自分自身を忘れている男たちは、失ったひとりを見いだすまで、完全な世界を生きることが出来ない。

私自身がそこにいることを、なぜか無視してしまう。

ある人は、自分には存在する価値がないと思って、その存在を消してしまう。

別のひとは、世界は自分の中にあると思っているため、自分自身が見えなくなる。

そこに、旅人が通りかかった。
騒いでいる男たちに声をかける。

「何かあったんですか?」

「かわいそうに10人いたのに、ひとりがたどり着いていないんです。きっと河に呑まれてしまったんだ。悲しくてみんなで泣いているところです。」

「それは大変なことでした、...
しかし、あなたたちは全部で10人いるようですよ!」

「そんなはずはない、みんなで数えてみたんだ。誰が数えても9人しかいない」

「そちらの方から、番号を唱えてみてください。」

10人目の男が「10」と数えて、はじめて自分の存在を思い出した。

「そうだ、私がいたんだ!自分を忘れていたから、こんなに悲しい目に遭ってしまった。」


10人目の私を、本当に見つめているだろうか?

私自身が訴えている声をちゃんと聞けているだろうか?

なにか物足りないのは、私自身を忘れているからだ。

「そんなことは、他の9人は望んでいないだろう。だから私は消えてしまおう。」

そう思ってはいないだろうか?

「あの人が許せない。あの人がいなくならないと、耐えられない。だからそれまで、私は存在しないでいる。」

「望んだって、私の望みはいつも叶えられない。だから私は自分の願いは考えてはいけないのだ。」

10人目の私が生きられるときが来るまで、私は待っているんだ。

その時が来たら、私を生きよう。
その時が来たら、私は自分の望みを考えてもいいのだ。
その時が来るまで、私は自分であってはいけない。

私はいつまでも、自分自身でいてはいけない。
許されないことをしてしまったからだ。

私が人数に入らないのは、10人のひとりだと思えないからだ。
それは、自分だけは他の9人とは違うと思っているから起こる。

皮肉にも「私という存在も、10人の中のひとりに過ぎない。」と思えたとき、

私だけを特別扱いしないから、良くも悪くも自分をひとりとして認められるようになる。

作り上げた「私」という存在を消したとき、本当の私を表に出すことが出来るようになるのだ。

それまでは、自分の本当の思いは、「私」によって生存権を握られてしまう。

「私がそんなこと思うわけないじゃない。」
こう宣言する「私」に、自分を奪われてしまわないようにしよう。

私も10人の中のひとりに過ぎないと思えたとき、自分を人数に入れる事が出来る。

それほど私たちは自分への評価が低いことを、自分のまわりの人で観察してみればわかるだろう。

自己評価の低さが、本当の自分でない「私」をせっせと作らせているのだ。

ありのままの自分をそのまま見られたとき、それを受け入れたら、
作り上げてきた「私」は役割を終えることが出来る。

「いままでつらかったんだよ。わたしがここにいると言えなくて!」

「ときどき顔を出すことはあっても、すぐに先にやることがあると言って忘れられてしまった」

「私」が、つまりエゴが、消えたとき、
世界は穏やかになり、
本当に世界は、わたしのためにあると思える時が来るだろう。


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「どうすればいいでしょう?」という問いかけ

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どうすればいいでしょう?


『どうすればいいでしょう?』という質問があります。

これは、だれが答えても同じ答えが返るようなこと、つまりルールに従うかぎり答えがあるとき意味をもつものです。

しかし、この質問をあなた自身のこと、あなたの生き方に関して問うてはならない。

それはいろんな意味でバカげた質問になります。

まず、だれも正解など知らないということ。
たとえ自分に関することでも、はっきり答えるのは難しい。
ましてや、他人の生き方など答えられるものではないということです。

次に、この質問は自分にぶつけるものであって、人に聞くものではない。
上記の理由の他にも、決めるのはあなた自身だというもっと重要な理由があります。

自分で決めるという点については、
知らないふりをしているけれど、みんな本当は承知しているのです。

それが証拠に、聞かれたあなたがすばらしい回答をしたとしても、聞いた人は満足していない。

そのときは、「すばらしい」とか「これでわかりました」とか言っているけれど、うちに帰れば自分で一から考え直し始める。
そして、「やっぱりこれは自分で考えないとね」と思い直すのです。

そう思えることは非情に健全な印です。
答えてくれた人には悪いけれど、
「なんだよ、聞いたくせに」だけれど、
そもそも自分で考えなければ嘘になる。

人に聞いた答えなど、結局は満足しない。
あなたが健全なら、自分で考え直すことを選ぶでしょう。
聞いてみたくなったのは嘘ではないし、
もしかしたらと思っただろうし。

しかし、もし人の回答を鵜呑みにするようなら、
そちらの方が問題です。
あなたは自分で考えなければならない。
あなたは自分で選ばなければならない。

どんなにいろんな補償をつけますと言われても。
どんなにすばらしい未来を約束されても。
それを鵜呑みにすることは、あなた自身を放棄することになる。

あるいはあなたは自分で決めることが怖い。
怖いから人に聞いてみる。
そして受け入れたふりをして、その通りにやってみるけれど、
とても満足はしない。
怖さを消すためのごまかしでは、決して満足することはない。

あなたはいくら先延ばしにしようと、
その恐れと向き合わなければならない。
向き合って怖さを味わってみないと、その正体はわからない。

怖くてたまらないことかもしれないけれど、
あるいは、ちっとも怖くなかったと思えるかもしれないけれど、
そこを通過しないでどんな策略を練っても
いつまでも解決しないままで残ってしまう。

それともう一つの理由は、答えのない質問に対して、
『どうすればいいでしょう?』と問いかけるのは間違っている。

答えは1つではない。
強いて言えばあなたの決めたことが答えになる。
その答えが偏っていれば、いずれ反対側に戻されるだけです。

無理に1つの答えを出そうとしてはならない。
それは、二元対立するものの片方だけ正解だと言い張ることに過ぎない。

あなたは片側にじっとしてはいられなくなる。
それでも片方にこだわるなら、
あなたは一生を掛けて無駄な抵抗にエネルギーを使うことになる。

完璧な答えを出しても、
いくらも立たないうちに、流れは変わってくる。
流れが変わるたびに逆らっていては、
あなたはおぼれてしまう。

抵抗を続けることが、あなたを通すことだと錯覚しないことです。
それはあなたがどこかで作り上げた世界観を反映している。
反抗しないと負けだと思い、何でも反発する子どもが居座っている。

抵抗を強さだと見たり、逆らわないことを弱さだと見たり、
そんなことは言葉の遊びに過ぎない。

抵抗が生じるのは相手があるから。
世界と関わっていれば、いつも相手は存在する。
抵抗なしで進めるわけがない。
強いか弱いかの違いがあるだけ、
あるかないか、All or Nothingではない。

抵抗するかどうかは、時が決めること。
あなたが今までの知識でひねり出すような事じゃない。

そして最後に、つまりこういう事ですね、とまとめないで欲しい。
この矛盾に満ちた話を、さらにまとめるなんて、
おろし金を真っ平らにするようなものだから。

まとめることで、あなたは今まで持ち合わせたストックの
どれかにむりやり押し込めて終わるだけだから。
「そして今日も事もなし」にしてしまうから。

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悪いところと仲良くしよう

仮面2

あなたが面接で、自分自身のことをアピールして下さいと求められれば、取り上げるのは、あなたのいいことですね。
悪いことなんて、そんなものが在ることなど悟られてはいけないと思うでしょう。

なぜかと言えば、いいこととは、皆が勧めることであり、悪いことは禁止されることだからです。

しかし、あなたは「いいこと」がそんなに好きでもないのです。
むしろ、うんざりしていることも、多いのではないでしょうか。

仮面1

それと比べると、悪いことは魅力的だ。
悪いこととは、あなたが本心から避けていることではなく、皆が禁止するから、自分もやりませんと無理やり言わされていることだから。

むしろ、あなたは本当は悪いことをやってみたくて仕方がない。
そこには、自分がやってみたいことが、いっぱい詰まっているように見えるのです。

もし禁止などされなかったら、あるいは密かにやってみたら、たいしたことでもないなと思うかもしれないけれど、でも気になってしまう。

さて、あなたを満足させるものが、潜んでいるのはどっちなのだろう?
一方、あなたを混乱させるものが、潜んでいるのはどっちなのだろう?

少なくとも、あなたはいいことと、普段からおつきあいしています。
その結果が、あなたの今の物足りなさを作り出しているのです。

あなたの満たされないものは、普段から見ることを避けているところの、
いわゆる「悪いこと」の中に隠れている。

少なくとも、そこには、禁止されなければやりたいことが、一杯詰まっているのです。

さて、あなたは、自分を向上させようと思うと、「いいことがどれだけふえたかな?」と探すのです。
そして、悪いことは、ちらっとのぞいて、「よし、おとなしくしているな」と思うだけです。

あなたが本当に変わりたいのなら、あなたの「悪いこと」リストに、取り組まなくてはならない。

これを除外したまま、「いいこと」リストとだけ付き合っていては、昨日と同じあなたが待っているだけなのです。

今のうんざりし始めた自分を打ち破るには、今までと違うことを始めないとなりません。

「悪いこと」リストに取り組んでみましょう。

いったん今までの判断を捨てて、これは、なんでいけないことだと思っているのか?
いつからそう思い込ませられているのか?
そして実際のところどうなのか?を問い直してみる。

それは、別のリストを作ろうというのではありません。
「私が思う悪いことと言われているけれど実はいいことじゃないかと思うことリスト」を作ろうというのではありません。

ただ、その検討を始めるだけで、あなたは、気づかずに封じ込めている自分を発見するでしょう。

「あなたのやるべきこと」ではなく、「あなたのしたいこと」がそこに隠されているのです。

「あなたのしたいこと」-「悪いこと」=「あなたのやるべきこと」という公式を見直してみる。

「あなたのしたいこと」+「それをいいことに変える方法」=「あなたがしたいこと+認められもすること」

「あなたのしたいこと」+「悪いことが実はいいことだった発見」=「あなたがしたいこと+新しい情報」

どれも、可能性を秘めていますね。

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常識と名のつく束縛を摩滅してみる

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机や椅子の脚はほとんどが4本ですね。
ちょっと想像してみると、3本脚より4本脚だった方が、どの方向から力を加えてもより安定できるように思えます。

じゃあ、5本、6本と増やせばより安定するのだろうか?
長細いの机なら間に2本追加するとよさそうですが、大体4本が都合良さそうです。
なんとなく奇数の本数は安定性を欠くような気もしてきますね。

動物も4本脚が一般的、しかし尻尾を使って安定する動物もいますし、大きな尻尾でノシノシ歩く恐竜なども5本、長い尻尾とバランスをとるために首長になったとしたら、これも安定さを保つための6本目の脚かもしれません。

しかしいまの人間にとっては4本脚がちょうど良さそうだけれど、もしかするともっと小さなサイズの生き物には、そうでないかもしれない。

小人の国に行ったガリバー、その国民は常人の1/12程の身長しかない小人だったそうです。もしかすると小人の家具は3本足だったかもしれない。
鳥は電線に止まっていても平気です。電線は何本足だろう?

どうでもいいような話を書いて来ましたが、現代の私たちは、4本脚の机に安定しきって、更には5本、6本に増やせば、もっと安定できると考えているような印象を受けます。

ですが、その5本目、6本目の脚を増やすことが、余計に苦悩を増やしてしまうように思えます。
むしろ、足し算でなく引き算してみたらどうだろう。

3本脚は、すこし不安定差を増すかもしれないけれど、その危うさこそが本来の私たちを取り戻してくれるかもしれません。
安全ネットを張り巡らすほど、怖さと煩わしさが増えてくる。

1本減らして、それが当たり前になってしまえば、もともと私たちが日々変化し続けて、変わりながら安定している存在であることを思い出すかもしれません。

あなたのこれを手放したら大変だとしがみついている第4,第5の脚を取っ払ってみる。そうすれば、煩わしさは消えてしまいます。
もともと、変化に対応するのが当たり前の存在であることを思い出します。

安全性が何より大事で、それでいて、あるいはそれ故というべきでしょうか「想定外」などと言う言葉が連発される時代ほど、その常識は危ぶなっかしい。
疑うことを許せない人たちがそれだけ増えてしまっているということでしょう。

『して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅し
て、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。』
~草枕 夏目漱石

芸術家が人間らしさを取り戻してくれるのなら、そうでない人もやってみるのがいいかもしれない。
常識と名のつく束縛の脚を外してみよう。
もっと生き生き出来るに違いありません。

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これを忘れなければ、イライラの95%はなくなる

あたま冷やしてます


何度聞いても、つい忘れてしまう人間性の基本を確認してみましょう。
それは、「人は、いつでも自己関心で行動する」ということです。

★「自分が期待するとおりに、自分の希望を叶えてくれる人が誰か存在する」という幻想を捨てましょう。

自分の希望から人を見て、いつかそれに応えてくれる人が現れるだろうと思うのは、子供じみた無理な願いです。

人が行動するのは、その人の人間性にそって、その人の期待することを行うのだということを認める必要があります。

この事実を、自分でかってにねじ曲げて見てしまうやり方は現実的ではありませんし、いずれ期待が裏切られたことに気がついてどうしていいかわからなくなってしまいます。

自分がいま誰かに依存しているとしたら、自分が依存できているのは、相手がそれを許容している間だけ、と知らなければなりません。

今こんなに期待に応えてくれるか人だから、いつになろうとこの関係は変わらないのだと、勝手に決め込んではいけません。

人はその人の自己関心(利己心)に沿って行動することを思い起こしましょう。

たまたま、それがあなたの期待と方向が同じであれば、その人はあなたの期待以上に、あなたの為に動いてくれるかもしれません。
ですが、それは相手の関心があなたの関心と一致している間だけであることを忘れてはなりません。

★親切や慈善行為というものが、すべて思いやりから出ているものばかりだと勝手に決めつけないこと。

もちろん純粋にそういう気持ちで動いている場合もたくさんあるでしょうが、その中には自分が「いい人」だと思われたいという願望からの行動も含まれているということです。

純粋に親切心でやっていたその人が、途中から心変わりしてしまうことだってあるでしょうし、その逆の順序もあるでしょう。

このような人間性の事実は、別に冷徹であったり、人間を信頼しない見方ではありません。
いってみれば、「人は嘘をつく」という事実を受け入れるのと変わらない程度のものです。

なかには、このような見方をすることをためらったり、嫌ったり、あるいは後ろめたく感じる人もいるかもしれませんが、ありのままの人間性から目をそらすことは、現実的ではありません。

むしろ、このような人の傾向を認めた上で、相手に対する信頼感を持ててこそ、本当の信頼感だと言えるのではないでしょうか。

★天秤ばかりを思い浮かべよう

天秤ばかりで、左側に重さをはかるものを載せ、右側に分銅を少しずつ加えて重さをはかりますね。
分銅が少ない間は、いくら載せても秤は一向に動かないように思えます。
だいじょうぶ、大丈夫とばかり、調子に乗って載せていると、ある所で一気に傾きが逆転してしまったりします。

どんなに大丈夫に思えても、ものごとはバランスで成り立っていることを忘れないことです。いつまでも続く右肩上がりを現実だと錯覚しないこと。

わかっていても、親しい人ほど、つい忘れて過剰な期待を持ってしまうことはありがちです。
これがOKなら、もうひとつこれも大丈夫だろうと、自分勝手に相手の重さを決めてしまってはなりません。

ついつい相手に頼りすぎてしまうと、相手はこれ以上受け止められないと感じて打ち切ってしまうでしょう。

そして困ったことに、そのことで、あなたは相手に裏切られたと感じてしまうかもしれません。
相手にとっては当然の反応なのに、あなたの側では勝手な秤を使ってしまったのです。

このようなトラブルは、相手が悪気があって騙すような場合はむしろ少なくて、頼ろうとした側の過剰な期待や依存心が原因である場合が多いでしょう。

裏切られたと感じるのは期待する側にその要因があったということですし、それを相手が悪いのだと考えるのはちょっと見当違いです。

そして、基本的に相手は「自己関心」に沿って行動するものだと認識していることは、よりお互いの利益になる関係を築くためにも有効であるでしょう。

子どもっぽい依存心をいつまでも捨てられないで、誰に対しても頼ろうとするのは、どこかで断ち切る必要があります。

自分の期待で世の中が動くのではないことを思い出すなら、ありのままを受け入れるのが、結局一番いい方法であることが自然に受け入れられるでしょう。

人間性の事実と、バランスを常に忘れないこと。
イライラとは、あなたの期待が現実を飛び越えてしまった警告だと思いましょう。

秤の左側には見た目より重いものもあれば、軽いものもあります。
はかり間違えても、あわてることはありません。
相手の重さは変化していません。
あなたの期待という分銅を減らせばいいのです。


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2つのアプローチ~私とどうつきあうか

2つのアプローチ~私とどうつきあうか

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自分のこととはいっても、うまくつきあっていくことはなかなか難しいものです。

単純にいい部分と悪い部分を切り分けて、それらを強化するかや排除するかで扱うというようには簡単にいかないものです。

そんな自分の扱いについて、一見矛盾する2つのアプローチを考えてみます。

まず一つ目は、先ほど述べたように、単純に強化と排除では扱えないことを前提に考えます。

たとえば、何かの問題や悩みが生じて、その原因を探ってみたら、自分のある傾向がもたらすものらしいとわかったとします。

それらは、たとえば人見知りする、行動力に欠ける、飽きっぽい、慎重さに欠ける・・・等々の自分の性格傾向なのかもしれません。

そこで、たとえば自分は決断が遅くて、行動力に欠けるから、これからは決断に時間をかけないようになろうと思って自己改造を試みるとします。

ですが、たいては、三日坊主で終わってしまうでしょう。
そして、自己改造もうまくいかない自分を責めたり、だめな人間だと悲観してしまうかもしれません。

ですが、なにごとも両面があって、その片方だけが正しくて、反対側は間違いだと決められるようなものではありません。

「決断が遅い」と言うことは、別の面から見れば、じっくり熟慮できる性格であるとも言えるわけです。

そして、逆の傾向が強いタイプの人からすれば、「自分は思いつくとすぐに行動して失敗が多い」だからあんな風にじっくり考えるようになりたいと思っているかもしれない傾向でもあるのです。

先ほどのような強制的な自己改造とは、両面を見ないで片方のメリットだけを強調している点で問題があります。

また、もうおわかりでしょうが、「決断に時間をかけない」と決めることは出来ても、それは単独で変えられるといったものではありません。

もともと、じっくり考えて決めようとする自分が存在するのです。
その自分を消してしまうわけにはいかないのです。

自己改造をやろうと思ったその人自身も、始めるときにそのことにぼんやりとでも気がついたはずです。
「自分の一部が消されてしまう」という思いです。

その自分とは、いままでも自分のいろんな部分と絡み合って役に立ってもきたわけです。

思いつきで、君はもういらないと言われて消し去れるような簡単なものではないし、それだからこそ一貫した自己が維持されているとも言えます。

ですから、強制的な強化や排除というのは、消されかかった自分の抵抗にあって、いずれ失敗してしまうに決まっているのです。

いままで傾向の強かった自分も、これから変えたいと思った自分も、両方がしっかりと自己認識できている必要があります。
その上で、どちらを消すのでもなくつきあえるようになったとき、結果として自己改造というものがもたらされるわけです。

ですから、単純に自己認識もなしに強化や排除で自己改造することは、無謀な取り組みであること。
また、自己を全体として扱うアプローチ、2元的ではなく、両方の極のバランスを考慮したアプローチをとることが大事だと言えるでしょう。

さて、もう一つの方、一見今の話とは逆にもみえるアプローチの話に移ります。

これは一言で言えば「未練を断ち切る」ということです。

これがどうしても必要な場合があります。
それは、ゲームをやっている場合です。

典型的なのが、共依存と呼ばれる関係におけるゲームです。

親子の間での共依存の場合、親の多くは子供に対して「甘やかし」をします。
子供に依存した親は、子供が成長していくにつれ、だんだん自分がしてやれることが、少なくなってくることに不安を感じます。

そのために、子どもに自分でやらせた方が良いことまで、親の方から先に手伝ってやってしまおうとするのです。

一見子供を心配しての行動に見えますが、過度の干渉になってしまうのは、子供のためと言うよりも、親自身の不安から来る行動だと言えます。

一方で、子供の方は依存した親に育てられると、「自分でやるからいいよ」という一言がいえないまま、自分も親に依存するという関係を強いられることになります。

子どもからすれば、自分で考えて行動したいと思い、今度こそは自分の意見を通そうとします。

しかし「こんなにあなたのことを思っているのに、なんて親不孝なことを言うの!」といった一言で、子どもは罪悪感を感じ、反発しながらも自分の考えを諦めて親の言いなりになってしまうのです。

それがゲームになってしまうと、見かけ上は抵抗しているように見えても、結局は自分の考えをあきらめて親の意見に従うことになります。

そして、親の意見と自分の意見の間で葛藤をくすぶらせながら、いやな思いをする経験を繰り返してしまいます。

共依存の関係では、相手との関係の中に、愛情面で自分を満たしてくれるものも存在するわけです。ですから、その関係を崩してしまうことに恐れを感じるのです。

その一方で関係そのものに、息苦しさを感じている自分も存在するのですが、その関係を維持するためには、自分自身の感情を素直に感じ取ることを、犠牲にしなければならなくなるのです。

これを解決するには、先ほどのアプローチとは逆に、強制的にでもこの関係から脱出する必要があります。

もちろん相手は抵抗したり、何とか引き戻そうと工作し策略を使ってもくるでしょう。

しかし、引き戻されてしまっては、いつまでも解決しないのです。
「未練を断ち切る」と表現したのは、このことです。
この場合は、妥協はいい結果をもたらしません。

このように2つのアプローチを見てくると、どっちがいいのかとわからなくなるかもしれません。
しかし、どちらのアプローチにも共通していることがあります。

それは、方策などと言ったことよりも大事な根本姿勢ですが、正直に本当の自分を知るということです。

自己認識を伴わない策略は、意味がないし失敗に終わるのです。

正しい原因をつかまないで悪あがきしても、事態は悪化するばかりです。

砂時計になったパソコンで、余計なクリックや、やたらとキーを押すことは、やればやるほど復帰が遅くなりハングする原因にもなってしまいます。

悪あがきではなく、目先の策略ではなく、正しい原因をつかむことが何よりも大事です。

そして、探すところはひとつ、自分の心の中にあります。


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敵意/裏側の構造

男女怒り


敵意という言葉は、残念ながら、ほとんどの人が偏って理解しているのではないかと思います。
 
それは敵意とは、それを感じる相手側の問題によって生じていることで、自分の側はそれから自分を守ろうとしているのだ、というように思っているということです。
 
しかし、敵というものは「仮想敵国」という言葉があるように、自分の側の必要で作り出したものでもあるのです。
 
なぜ作り出すかと言えば、たとえば自分自身が直視したくない現実からなんとか目をそらすためのひとつの方策として使うためです。
 
自分が真剣に取り組んでも、現実はいつもそれに応えるような結果を返してくれるかどうかわかりません。
 
そんな事実を受け入れることがすぐには出来ないとき、たとえば「敵がいて、そのために障害があるからそれが出来ない」ということにしておけば事実に直面することをしばらく避けられるわけです。
 
敵のことを考えて、「いかに相手が理不尽で自分の行動を妨げるか」という状況を創作しておけば、自分が現実に正面から向き合わないもっともな理由が出来ます。
 
敵が強大であればあるほど、あなたは困難に立ち向かって努力しているフリをすることが出来るわけです。
 
しかしフリをすると言っても意識してやっているとは限りません。意識しているのは敵がいるということだけかも知れません。
 

 
しかしこのような敵意はごまかしで、先延ばしの役には立っても、あなた自身を守る役には立ちません。
 
自分で障壁を作ってそれが打ち破れないとわめいているだけで、あなたの真の問題とは向き合っていないのですから。
 
それだけでなく、敵意はあなた自身への攻撃にも容易に転換されますから、敵を攻撃するエネルギーで自分自身を痛めつけることにもなります。
 
敵意むき出しの表情に、あなたは真性な感情を感じるでしょうか。
敵を憎む感情の裏には、必死で何かから逃れようとしているものを感じたりしないでしょうか。
 
もっともこんな書き方をしたからといって、相手にまったくその要素がないといっているわけではありません。
 
相手もあなたが敵意を持つのと同じ理由で、あなたに敵意を抱く可能性はあるわけです。
 
お互いが敵意を持ったとき、それは相互に働き合って現実に敵対関係を成立させることになるでしょう。
 
関係性の面からとらえるなら、敵対関係にならないための唯一の解決は、敵意を作り出す必要のない状態があることにお互いが気づく必要があります。
 
少なくとも片方が敵意に乗っていかなければ、それが成立するのを防ぐことが出来ます。
 
そして相手も自分と同じように、その気になれば、その無駄な敵意が必要ないものだと気づける人であるとして扱うことです。
 
相手にとっては、敵意は必要で逃れようがないのだと考えてしまっては、いずれあなた自身もそう考えることになってしまいます。
 
実は「あなた」にとって正当であると認められることは、「わたし」にとっても正当なことになるわけです。
 
「あなた」のおろかさを嘲るとき、同時に「わたし」のおろかさを育てることにもなります。
 
ですから自分の迷いからあなたに敵意を高めるようにそそのかす人がいても、一緒になってあなたが乗せられたのではお互いにとって不幸なことです。
 

 
あなたが敵を作り出すことで、自分の問題から目をそらそうとしていたとしたら、相手の考えの表明は自分への挑戦と映るかもしれません。
 
相手は自分の考えを言っただけなのに、あなたへの非難を込めているように聞こえたり、あなたの考えを変えさせようとしていると感じるかも知れません。
 
それを敵意と受け取れば、あなたの側からの敵対心を作り出すことになります。
 
敵意をあなたの中でかってに育てれば、相手の知らない所であなたの敵意は増大し、相手があなたに攻撃を加える敵だと勝手に思い込むことになってしまいます。
 
また逆の方向からみれば、あなたが自分の考えを表明すれば、それを自分への敵対行動だと受け取る人がいる可能性があるということです。
 
しかし、あなたがそれを恐れて自分の考えを必要以上に差し控えてしまっては、あなたは相手との関係で自主的な行動をとれなくなってしまいます。
 
相手を挑発するような言い方をするのは、自ら敵意を作り出す行為ですが、相手に関わらずあなたの考えを堂々と表明することは必要です。
 
あなたがなんらかの防衛機制で敵意を作り出したくなるようなやり方をとらないと決意しておけば、自分の考えを普通に言い切ることに抵抗を感じることも自然となくなるでしょう。
 
そして、相手の過剰な反応に対しても、あなたの責任を感じてしまうことなく、相手の問題であると冷静に受け取ることも出来るのです。
 
少なくとも、敵意が外から降って湧いてくると考えていたのでは、このようなあなた自身の独立性は望めないわけです。
 
あなたが自分の内側の問題は自分で何とかするという態度を維持すれば、他の感情同様、敵意もやっかいでもてあます存在にしなくても済むのです。
 
敵意が実体のないもので、それに引きずられることがいかにばかばかしいかに気づけば、相手を「受け入れる」とか「拒む」とかということの意味もいままでと違って見えて来るはずなのです。
 
相手が悪いから拒むのか、自分の側の理由で拒もうとしているのか?
また逆も在ります。
相手を受け入れようという気が先にあると、相手の行動は自分の受け入れられるものに解釈しがちなのです。
 
もっと言えば、この相対性を充分認識するなら、真っ先に相手を敵や味方か見分けようとする自分の構えも、ずっと緩和できて穏やかになれるのです。


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こころの映像とシナリオ

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こころの中で現実だと思って描きだす映像は、現実をどのくらい忠実に反映しているものでしょうか。
 
それは実際に起きているできごと以上に、あなた自身の思いや偏りを反映したものになっています。
 
たとえば、あなたが誰かとのつきあいでひどく傷つくような経験をしたとします。
 
当然あなたは、そのあともそのことを繰り返してこころに思い浮かべるでしょう。
 
あなたが言ったこと、相手がどのように反応し行動したかという経験を、映像を見るかのように思い出しながら、「あなたが感じて思い描いた経験」を再現しようとします。
 
もしかすると現実の経験で足りなかったと思う行動を、あとから追加したくなるかもしれません。
 
そしてその経験が悲惨であるほど、何度もそれを繰り返して思い出さずにはいられないという場合があります。
 
思い出すことは苦痛であるとわかっていても、それをついつい思い起こしてしまう悪循環がそこにはあるのです。
 

 
この状態から抜け出すには、なによりもあなた自身がこの映像を映し出していることに気づくことです。
 
「かってに思い出してしまうんだ」と表現したいかもしれませんが、それでも自分がそれを選択しているんだと認めることです。
 
それは「やめようと思えばあなたが止めることが出来るのだ」と認めるということです。
 
たとえ、どういう理由からそうなるのかはわからなくても、あなたが苦痛と共になにかの欲求を満たそうとして呪縛に陥っているのだと信じましょう。
 
そして映像を上映するかどうかは、あなたがいつでも指示できると信じるのです。
 
いやな出来事が何度も繰り返されると感じていたのは幻想であって、あなたが中止を決めてみたらそこには何も残らないのですが、習慣化しているとなかなかそれを信じることができません。
 
実際には何も起きていないのに、なにか忘れてはいけないことがあるように感じてしまうのは、出かけるときに忘れ物はないかとチェックするような習慣に過ぎないのです。
 
自分で繰り返し思い浮かべてしまうのをやめて、何も考えないでいる状態を作ってみましょう。空白をすぐに埋めたくなる働きに抵抗してからっぽのままでいましょう(慣れないと大変ではありますが)。
 
そうすれば、現実や起きてしまったことは変えられなくても、あなたの幻想の方なら自分の選択で消し去ることが出来ると実感できるようになります。
 
呪縛はあなたの手で消し去ることが出来るとわかることは大きな前進です。
 
もはや拷問に堪え忍ぶ必要はないのです。
 

 
自分で作りだした映像は、たんなる出来事の客観的な描写ではなく、あなたのシナリオをもとに描かれているはずです。
 
その映像は、人はどうあるべきかといったあなたの信念や、それに反する誰かの行動に対する非難等の感情が描かれています。
 
そしてあなたが理不尽な行為だと思っていることへの確信を、さらにもう一度確認し強めようとする試みなのです。
 
たとえば他人に影響されまいと思っていても、「こんなひどい目にあったんだよ、頭に来ても当然じゃない?」「そうだ、そうだ、そう思うのはしかたないよ。」という他の人の声を聞いたとしたら、あなたも「そうだなあ、そういうものだよね」と納得したくなるものです。
ちょうどこのようなことを、自分の映像の中でも繰り返してしまうわけです。
 
怒っている人にであったとき、つられて自分でも怒ってしまうか、相手をなだめてなんとか怒りを抑えようと反射的に構えてしまうか、自動的な反応になってしまいがちです。
 
しかし自分の独立を保とうと思えば、そのようなまわりに影響された反応でなく、「なぜ他人の怒りが自分を反射的に反応させているのか」、「それに流されるだけでいいのか」と考えることもできます。
 
相手に合わせて自分も同様の反応を続けていれば、怒りの反応というものは,自分では制御できないものだと信じるしかなくなるでしょう。
 

 
しかし自分の反応を自分で制御すると決意し実行すれば、相手の怒りはその人の個人の問題としてだけ存在することになります。
 
あなたは他人の怒りで常に左右される必要はないですし、相手の怒りを解決するのは相手の問題であることを理解します。
 
いかに今まで自分が振り回されていたかに気づいて、それをやめようと決心できるのです。
 
そこら中で自分の感情が影響を受けて自分を失ってしまうことは、やっぱり世界はやっかいで不安定なものであるという信念を強めてしまいます。
 
さっきまで落ち着いていて、このままでいられそうだ思っていたあなたは、ちょっとした他人のひとことやふるまいでたちまち自分を憂鬱にしてしまうのです。
 
他人があなたを常に好きでいてくれることを期待したり、相手をあなたの見方に同意していて欲しいと思って行動するとき、あなたは自分の自由さを売り渡すことになります。
 
なぜなら、相手のちょっとした反対であなたの反応を計算しなければならないからです。
 
相手はそれに気づいたとき、意識してか無意識にかはわかりませんが、あなたの弱みを利用したくなるかもしれません。
 
このような姿勢からは、あなたは相手次第で自分が左右される存在であるという誤った確信を強めてしまいます。
 
あなたの側でも自分のしていることが、他人に嫌われることの恐れから行動なのか、自発的なあなたの反応なのか、区別がつかなくなり混乱します。
 
あなたの自分への信頼は、それらの分裂した自分によって、わけのわからないものになってしまうのです。
 
そもそもの原因は、自分の気分を周りに影響にあずけてしまうのを許した為に起きています。
 
自分で独立した自分の感情の選択を維持するか、今まで通りのまわりに振り回されることを繰り返すかを選択しなければなりません。
 
起きてくること次第で突然落ち込んでしまう不安定さを、まだ続けるのかどうかを選択するときなのです。
 
出来事自体はいつまでもあなたを憂鬱にするものではありません。
 
もしそれが続くなら、あなたのどの選択が原因かを探って、思い切ってそれを切り捨てることが可能ではないか考えて見ましょう。
多くの場合、それがあなたの悪夢の映像を繰り返す原因になっているのです。
 

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『行きづまりと義務感』

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行きづまっていると感じるとき、それは誰かとの関係だったり仕事だったりするかもしれませんが、それに追い打ちを掛けるのは義務感です。

行きづまりを感じて停滞感や疲れを感じているときは、義務感を少し切り離してみましょう。

出来ていないことから焦りや疲れがあるときに、義務感で自分を奮い立たそうとするのは、無理をしてこじらせてしまう可能性があります。

そんなときは、しばらく義務感も焦りの対象も忘れてしまいましょう。

そして、自分のできることや人に与えられることに焦点を当ててみましょう。

「自分は何を人に与えられるだろうか?」ということに、しばし心を遊ばせてみましょう。今の状況とは関係なくです。

何か思いついたら、小さな事でも何でもいいから、それを実行してみるのです。

行きづまりの状況とは何も関係ないことでもいいのです。

与えることで本来の自分のことがわかってきます。
いろんなことが出来る自分が見えてきます。

義務感で追い詰められていた自分から離れて自分を見られるようになってきます。

結果として今の行きづまり状況も全く違った見方が出来るようになるでしょう。

それは義務感でこじらせていたら決して見えてこないものでしょう。


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余裕とは何だったのかを思いだそう

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余裕を持つことについて書いてみます。
 
『牛をさばく料理人』(荘子 養生主篇)の話で、達人はこのように言います。
 
牛に向かって自然の摂理に逆らわないようにしていれば、骨や筋と肉のあいだの隙間がみつかります。その隙間にしたがって切り開いていけば、今のように鮮やかに肉と骨を切り裁くことが出来るのです。
 
その隙間をうまく見つけないとき、肉の中を切り裂いて骨に肉を残したり、硬い骨や筋を無理やり切ろうとすれば包丁はすぐにダメになってしまいます。
 

 
この隙間が「余地」というものです。
 
余地を残さない仕事は、無理な力が入って余裕のない動きになってしまいます。
 
また人と人との関係でも余地を考えないやりかたは、ギスギスしてぎごちないものになってしまうのです。
 
相手の逃げる「余地」を残さないで追い詰めることは、相手の必死の反撃をまねくのでよくないのだということは兵法でいわれることです。
「窮鼠猫を噛む」と表現されていることはよく知られていますね。
 
余地はまた、「遊び」という表現でも使われます。
 
操作を行う機械類には「遊び」が必要なものがありますね。
操作しても実際に機械の動作に反映されない余裕のようなものです。
 
例えば自転車のブレーキなども適当な遊びがないと、一気にブレーキが働いたのでは返って危険です。チェーンも少し遊びを持たせないと負荷がかかりすぎて切れやすくなります。
 
列車のレールのつなぎ目には、寒暖の差でレールが延び縮みすることを考慮して遊びを持たせるのはよく知られていますね。
 
 
思考というのは白黒をハッキリさせてしまう傾向があるので、どうしても余裕のないものになりがちです。
 
先程の例で言えば、ここまでは肉でここからは骨とハッキリ決めてしまうので、その隙間については考えようとしないのです。
 
仕事と余暇も思考に頼るとお互いに相容れない排他的なものに捉えてしまいます。
 
学校や仕事で会社に出かけて時間に縛られることになれている人は、休みの日になると何をしていいのかわからなくなることがありますね。
 
強制的に今は仕事の時間、今は休憩の時間と分けられてそれに慣らされてしまうために、外側の決まりに自分を合わせることが普通になってしまうのです。
 
そのため外側から拘束されない時間が出来てしまうと、今の自分が「仕事」にいるのか「余暇」にいるのかがわからず困ってしまうわけです。
 
極端になると、家にいてゆっくり出来るときまで、時間割を作って今は何をする時間かをハッキリさせないと気が済まなくなってしまいます。
 
そうなると無理やりいまは何もしなくていいとか、何かリラックスできることをしなければとか思ってしまうので、とても余裕とは言えないものになってしまうのです。
 

 
こうして、仕事とも余暇ともつかない時間を過ごす中途半端なものが休日の過ごし方になってしまいます。
 
じつは本来は時間に縛られることもなかったはずですし、仕事をする時間帯とか、休憩する時間帯という区別がもともとあるわけではありません。
 
外側から自分をしばることに慣らされた結果の作られた時間でしかないのです。
 
知識や思考がこのような論理的な区別で作られる傾向があるのに対し、余裕を持った生き方をもたらすものは知恵と呼べるかもしれません。
 
変化しない固定された知識とそれを操る思考に対して、融通の利く余裕を持った生き方は知恵に頼らなければいけないものなのでしょう。
 
知恵とは知識の蓄積は少なくても、経験の積み重ねから生み出されるものです。
 
思考が生み出す作られた余裕のないやりかたではなく、体験に基づいた自然の流れに逆らわないやり方です。
 
このような知恵の働きを取り戻すには、思考を止めることが必要です。
 
思考が働いている間は、固定された変化のない情報をこね回すばかりで、現実との接点を失ってしまいます。
 

 
知恵は古い習慣にとらわれずにものを観るやり方です。
 
古い問題を古いまま扱う思考に対して、新しい視点で問題を見直すのが知恵の働きです。
 
思考に流れてしまうのをストップしてみれば、曖昧な状態を取り戻せます。
 
思考が作りだした「いまは○○の時間」という時間の中に生きるのではなく、その時間と時間の「隙間」をとらえることで、本来の思考に左右されない生の流れを取り戻すことが出来ます。
 
余裕とはもともとは、時間やお金によってもたらされるものではなく、「隙間」とか「余地」を捉える能力を回復すればいつでも瞬時にもたらされるものだったはずです。
 
それは、いくら計画を立てても得られるものではないのです。
計画することは、思考の方を活性化して固定された領域からの結論しかもたらさないのです。
 
お仕着せのレジャーなどいくら計画しても何ら余裕を取り戻さないのは、こう言った理由からだと思えば納得できるのではないでしょうか。
それはまるで、義務的に何かの仕事をかたづけることと同じになってしまうのです。
 
思考の隙間にある自分を取り戻して余裕とは何かを思い出しましょう。
 
思考や計画に頼らないで答えを見つける能力を回復するのです。
それには知らず知らずに身につけてきた反応の習慣を書き換えるのです。
 
・計算しないで行動する機会を増やしましょう。
 
・やっていることが一区切りついたら、きれいに忘れてしまいましょう。
 
・またそのとき、すぐに次に何をするか考えようとするのをストップすることを意識してみましょう。
 
・今日が何曜日であろうと、今が何時であろうと、この時間を何に使うかはいまこの瞬間に決めてもいいのだと許可を与える習慣をつけましょう。
 
・どうしても譲れない予定はハッキリさせておいて、それ以外は好きにやってみようと決心します。
 
このような単純なことでも繰り返してやっていると、徐々に予定外のひらめきが増えて来ます。
それは、予定に縛られてきたことで、いままで抑圧してきた思いが復活し始めているのです。
 
そして、なんとなく開放感がないと感じながらも、どうしていいのかわからなかった状態から徐々に解き放たれてきますから、いつも重苦しく感じていた状態も改善してくるでしょう。
 
余裕があるとは、時間が余ることではなく、心がけ次第で自分で作り出せるものです。
 
それは習慣です。
 
余裕を持てない習慣をそのままにしていると、いくら状況が変わっても心の余裕は持てません。
逆に、いくら忙しい状況でも、余裕を見つける習慣を作ることも出来るのです。


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欲しいし、嫌だし、憎いし、でもそのままでいい

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遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)
 
このハンニャハラミツの
大海の底に深く沈んでいくと、
今まで自分をしばってきた、
今までリアルだった
日常世界のわずらいのすべてが、
まるで
夢かまぼろしのように
むなしいものに
思われてきます。
 
般若心経絵本 諸橋 精光 小学館 / 2005-09
 



般若心経絵本では、この前後で「無明」と「ハンニャハラミツ」は同じものだと言うことが語られています。
 
「無明」とは果てしない欲望をもたらす苦しみのもとであり、「ハンニャハラミツ」はさとりの世界です。
 
「無明」にこだわれば、それは苦しみの世界のままですが、「ハンニャハラミツ」に身をあずけてしまえばどうなるかがこの文章です。
 
 
まず、私たちは煩わしいものを自分から欲しがっているのです。
 
しかしその結果すぐに苦しい状況に入り込んだ事を思い出し後悔します。
 
自分でそのことに耐えられないから、何かに、誰かにその責任を負わせたくなります。
 
しかし、それでもまた次の煩わしいものを追い求めないではいられない。
 
これが「無明」ということですが、これもまた「ハンニャハラミツ」そのものでもあるというのです。
 
つまり、「欲しがるのがダメ」だとか、「苦しいことをどうこうしよう」だとか、「だれが悪い、いや自分が悪い」とかいくら頭で考えても仕方がない。
 
それがそのままさとりの世界でもあると受け入れれば、「無明」も当事者として参加するだけでなく、同時にそれを外から眺めている存在でもいられる。
 
したがって、欲望を否定するのでもなく、苦しさを見るのを避けるのでもなく、それがこの世界だと受け入れてしまえば、ただあるがままだということです。
 
そして受け入れを拒否することこそが、問題を作り出すのだと知ればいいのです。
 


欲しいし、嫌だし、憎いし、でもそのままでいい
 

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あなたがクリアしてあげよう~単純だけど難しいこの心の仕組み

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他の人からの接し方を見ていると、相手はみんなこちらを拒否しようとしている、と見えるかもしれない。

しかし、相手が拒絶しているように見えるものは、「私」に向けたものではなく、相手が自分自身の限界を感じて、それに反応しているだけなのだ。

「私」の望みや期待とは関係なく、相手は自分自身の貧しさに気がつき、嘆きたいのだが、どう表現していいのかわからない。

助けを求めたい気もしているのに、他人への警戒から素直にそれを表すことはしないだろう。

どうしようもなくなって、助けを求めだす人は、ほとんどが素直に自分の弱さを認められなくなっている。

自分の弱さを認められるなら、それ自体が救いになる。
それができるくらいなら、そもそも助けなど必要がなくなるからだ。

やるべきことは、自分の弱さや怖いと感じているものを認めて、それらを敵対視しなくなることにある。

彼らが敵対視している様子は、他人に対してそれを投射する様子を見ればすぐに見つかるだろう。

だから、そのような敵対視はあなたに向けられたものではない。

自分の中の恐れているもの、それもそれらを明らかにしようとしないで、敵対視しているやり方を、例えば目の前にいるあなたに向けてしまうのだ。

あなたがやるべきことは、そこから立ち去って、あなた自身の中に同じような恐れを作り出さないようにすることである。

私の中には、敵対視する他人も、敵対視するべき私自身もいないし、作り出しもしないと決心するだけでいい。

その準備ができてこそ、他の人の戸惑いにも対処してあげられるようになるだろう。

相手が拒否しているように見えたり、そのような言葉を発したとしても、本当はそれでも従わず、恐れなど必要ないことを信じさせてほしいと思っているのだ。

そういう相手にあなたがなってあげられるか、それともミラトリがミイラになるか、それが問題なのだ。



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あせること、イライラすること

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『何かをあせってやろうとすると、かえって空回りばかりで、いつものようにうまくできない。』
 
こんな経験、どなたにもあるのではないでしょうか。
 
こんなとき、あなたはあなたの決めた時間でものごとが起こっていくのを期待していませんか?
 
しかし、ものごとは、まるでそれに特有のスピードを持っているかのように、あなたの思いなど関係なく起きるべくして起きていきます。
 
たとえば、あなたがせっかちな人だとします。
 
そして、あなたの前には時間など気にせずに、自分の決めた手順が変わるのを嫌がってものごとを非常にていねいに行っている人がいます。
 
あなたは、それをみているとだんだんイライラし始めるのです。
 
人と人の関係では、せっかちな人もいれば、のんびりした人もいます。
 
そして、それはわかるけれど、ものごとが自分の決めたスピードで進んでいかないと、あせったりイライラしたりし始めるのです。
 
ものごとが運んでいくスピードに、特有のスピードがあるものかどうか、それはわかりません。
 
しかし、単に見る側の心理的なスピードだけで、ものごとが起きていくわけではないでしょう。
 
それが起きていくには、様々な無数の要員が非常にからまって進んでいくはずです。
 
ですから、あなたがいくら自分で「○○までに結果が出る」と決めたところで、期待通りに起きてくれるとは限りません。
 
植物の種をまいて、いっぱい水や肥料をやったんだから早く芽を出せと言っても仕方がありませんね。
 
またそんなことをするから、あなたはあせったり、イライラしたりするということもありそうです。
 
別の言い方をすれば、あなたはものごとに対する見方が「荒く」なっているのかも知れません。
 
落ち着いているときのあなたは、もっと「こまやかに」ものごとを見ていられるのかもしれないのです。
 
「荒く」見ているから、細かい変化が目に入らない、なんでこんなに変化しないんだということになる。
 
あなたが、自分で時間をコントロールすることをやめて、ものごとが起きていくスピードに任せて見ていられるなら、必要以上にイライラせずにゆったりと過ごすことができるでしょう。
 
さらに発想を広げれば、あなたはものごとの結果についても、同じよう「にコントロールしようとしない」という選択もできるわけです。
 
起きることに逆らわずに、それが起きるのに任せるということです。
 
「そんな受け身ばかりの生き方などごめんだ」といわれるかもしれません。
 
ときにはあせったりイライラしたりするのが、逆に楽しみにつながることもあるでしょう。
 
たとえば、あなたがプロ野球やサッカーの試合を見ながら、ひいきのチームを応援するようなときです。
 
あなたが、いくら逆立ちしようと、あなた自身がピッチャーやバッターになれるものではありません。
 
しかし、あなたがどちらが勝とうがかまわないと思うのなら、興奮もしない代わりに応援する楽しみもありません。
 
それは、もはや応援とは言えないでしょう。
 
不安とワクワクすることは紙一重です。
 
コントロールしたいという思いと、イライラすることは、お互いに切り離せない関係にあるのでしょう。
 
ですから、すべてあきらめようとか、すべてコントロールしようとか、2つに1つで片方だけに決めようとしないことです。
 
心配しなくても、あなたはイライラから完全に解放されることもないでしょうし、無理をして何事にも無気力になる必要もありません。
 
ただ、イライラしたり、あせったりすることが、必要以上にあなたにストレスをかけていないかをチェックすることは役に立つでしょう。
 
ときには、ものごとが起きていくスピードや結果を、そのまま受け止めてみてはいかがでしょう。
 
それが、いかにあなたにとって重要で差し迫ったことでも、あなたにコントロール出来ない事なら、手を出そうとせずにまかせてみましょう。
 
「あなたの力」で、おきてくることをコントロールしようとおもうことが、結果に影響を与えるかどうかを冷静に考えてみましょう。
 
「あなたの力」で、「あなたの意志」で成し遂げたから、だから価値があるというのは、ひとつの考え方でしかありません。
 
そして、あなたが自分でコントロールして成し遂げたと思っていることも、単に起きるべくして起きているだけかも知れないのです。
 
「さからうのはやめた!」と思ったときの開放感、あなたにも経験があるのではないでしょうか。
 
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やり直そうとする心理のわな

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間違えたり、失敗したことを「やり直し」しようと思うこと自体には問題はありません。
 
しかし、自分はやり直そうとしているつもりでも、どこかに失敗した事実を認めないで、もう一度やって失敗ではなかったと証明してやろうという気持ちが潜んでいる場合があります。
 
そういった場合、名誉挽回ならばいいのですが、前の失敗を認めきれない思いから何度も同じやり方をして、これまた同じ失敗を繰り返してしまうという悪循環に陥ってしまう危険性があるのです。
 
たとえば自転車で水たまりを避けるのに、出来るだけ水たまりのぎりぎりを通ってクリアしてやろうと、何度も失敗しているようなものですね。
 
大きめに迂回すれば失敗しようがないとわかりながら、なんどもうまく通れることを証明してやろうと、ぎりぎりを通ろうとする。
 
100m走での記録の壁を破ろうとする人の挑戦と似ているようですが、そこには前の失敗を認めて、充分にそれをかみしめているかどうかの違いがあるのです。
 
  
同じ失敗をする人は、「いや今度はうまくいくはずだ」とおもいながら、前回と同じ心理状態に陥ってしまいトラップにはまってしまいます。
 
これは、第三者が見ていれば、わりとすぐにわかり「何をやっているんだあの人は」と思えるのですが、当事者にはなかなか気がつきにくいところが、人間の心理の癖のようなものですね。
 
前回と似た状況になると、つい同じやり方を採ってしまう。
 
ちょうど、なんど痛い思いをしても、きまって同じ場所で足をぶつけてしまう様な感じなんです。
 
起きてしまった悪い状況から逃げ出そうとすると、かえってその状況を引きずってしまい、再出発ではなく過去をやり直そうとしてしまうのが問題なのです。
 
なんどやろうと、そのやり方は実を結ばないことがわかりながら、それを認めきれない自分に気がつかなければなりません。
 
失敗と縁を切るには、それに抵抗しないことです。
 
失敗したら、その失敗がもたらした結果を充分にそのまま起こらせてしまえば、スッキリあきらめも付くのです。
 
頭に何度もいやな感情が蘇ってくるようなら、それに抵抗しないでとことんくやしい感情を味わってしまいます。
 
予期しない困った出来事が起きたら、抵抗しないでそのままそれにふさわしい終わり方をさせてしまうのです。
 
つらい体験でも、抵抗しないで充分起こらせてしまったら、それを潔く手放すこと。
 
これが、失敗をいつまでも引きずらないベストな方法ではないでしょうか。
 
良いことも悪いことも、あなたに関係あることもないことも、起こってはやがてその終焉を迎えます。
嵐の中でも、時はどんどん過ぎていきます。
 
それが自然に終わらないのは、

あなたが、過去を不自然に生き延びさせてしまうから。
 
新しい生き方に向けての「やり直し」と、過去に縛り付けられたままの「やり直し」の違いを見分けないといけません。
 
それは、いつまでも失敗を繰り返していないかどうか確かめればわかるでしょう。
 
そのような時、同じようないやな感情がそこにくっついてきてはいませんか?
 

 
何か気が重い、何かやるきが出てこない、おっくうになってしまう。
 
このような感情が起きてくる原因はいろいろありますが、その一つが、いま言ったような過去をやり直させようという試みなのです。
 
今度こそうまくやろうというかけ声はいいのですが、それが失敗をなかなか認められないための悪循環になっていないだろうかとチェックしてみることです。
 
「そうか、過去への未練がこのいやな気分を作りだしていたんだ」と気がついたら、悪あがきしないで手放しましょう。
あれこれ理由をつけようとしないで、目をつぶって手を離すのです。
 
そして、いまここで起きていることに目を向ける。
 
驚くほど、急激に気分が良くなってくるでしょう。
 
このような手放しになれてくれば、「もしかするとこの気分の落ち込みは例のヤツかな?」と楽に気づけるようになってくるでしょう。
 
いつもあたらしい、柔らかい存在でいるのです。
 


柔らかい存在が、「いま」にはふさわしい。

硬くなった存在は、過去を向いています。
 
何度も生まれ変わる自分を、当然のことだと思えるようになればいいのです。
 
過去にしがみつくのは、同じ身体で居続けようとするようなもの。
 
新陳代謝で身体が刻々作り替えられているありがたさを忘れてはなりません。
 
意地を張らずに負けをきっぱり認めて生まれ変わりましょう。
 
そうすれば、眠れぬ夜ともさよならできるでしょう。
 



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報われない

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私はこんなに一生懸命頑張っている。
なのにちっとも報われない。
だから、何かが間違っているのだ!
 
私たちは、たまたま自分が生まれてきた時代の社会に生きています。
残念ながら、自分でそれを選ぶことは出来ません。
 
自分がある程度大人になってから、それを変えていこうと思うことは出来ますが、どんな社会に生まれつくかは運次第というか、自分ではどうにもならないものです。
 
社会はそんなに急激には変わりません。
したがって、今の自分が思う理想と社会が食い違っているとすれば、自分が出来ることは何であるのかを冷静に考えないとなりません。
 
少なくとも、「自分が報われないから社会が悪い。すぐに社会を何とかしろ!」という責任転嫁は、かなわない嘆きでしかないでしょう。
 
ここで出来ることとは、大きく考えれば幾つかに限られてきます。
 
1.社会を自分の思うものに変革していく。
2.自分を社会に合わせるように変革する。
3.社会がどうであろうと自分の生き方を追求する。
 
しかし、ここでひとつ忘れてはならないのは、社会と自己は独立して存在したり対立するものではなく、今の自己も社会の影響を受けて作られてきた存在であるということです。
また逆に今の自己が社会に影響を与え変えていくという関係にもあります。
 
自分が今の社会を嫌うとしても、その好き嫌いもまた、今の社会に生きてきたことで生まれてきた感情なのです。
時代が違えば考えもしなかった事なのかもしれません。
 
好きだった人がちょっとしたことで嫌いになったり、またその逆もおなじようにあるように、同じ要因が一気に反転したものに見えて来るということがあるわけです。
 
むしろ好き嫌いがどこかで反転することも、この世界のバランスを取ることに組み込まれた変化なのかもしれません。
少なくとも好き嫌いの心理というのは、それほど絶対的なものではないようです。
 
それがいつまでも変化しないのは、それを維持しようとし続けるからです。
 
「いや嫌いなものは、何があろうと嫌いだ」という心理は、そんな自然の変化を無理やり歪めて、「嫌い」という信念を消してなるものかと怨念に変えているだけかもしれません。
 
さて、話を最初の「報われない」という思いに戻しましょう。
 
「報われない」とは、
A.今の自分は十分評価される存在だし評価されていいことをやってきている。
B.それを評価しないのは社会が悪いからだ。
ということで成り立っています。
 
しかし先に書いたように、社会はあなたの思いによってすぐに変化するものではないのですから、この訴えはかなわない可能性が高いでしょう。
 
そもそもこのAの前提は正しいのでしょうか?
 
正当な評価が下されていることを前提にするなら、社会が評価しないのは、社会にとって有益でないからです。
 
自分では価値があると思っていても、それは今の社会では価値があると見なされていない可能性があります。
 
そう考えてしまうことはなかなか厳しい現実ですが、目をそらしていたのでは、いつまでもかなわない嘆きを続けることになります。
またそれだけではなく、他の可能性を考える余裕がないままいたのでは、いつか自分の存在そのものが価値がないと結論づけてしまうことにもなりかねません。
 
もしそれが事実なら、今の自分のやっていることを脇に置いて、社会の需要に合わせたことをするように自分を変えるか、逆に自分の才能を社会で必要だと認めさせるような働きかけをするしかありません。
 
もっともこれは「報われない」という思いを何とかするにはどうするかということへの返答ですが、それ以外にも、この「報われない」という不満を手放すという選択肢も残されています。
 
それが「3.社会がどうであろうと自分の生き方を追求する。」ということです。
 
何も今の社会に合わせるだけが生き方ではないはずです。
 
そもそも、あなたという人間が生きるということと、たまたま生きている社会を比べてどちらが重要であるかを考えてみることです。
 
何もあなたに許されたユニークな一生を、たまたま生まれついた社会のために犠牲にする必要もありません。
 
どこまで社会に係わって生きるのかは、それこそ無数に選択肢があるでしょう。
それを選ぶことは、誰も邪魔しない自分に任されたことです。
 
社会が悪いから自分がうまく生きられないなどという、人まかせなことを言っていないで自分でどうやって自分を生かすかを真剣に考えれば、「報われない」などという言葉でお茶を濁している暇などないと思えてこないでしょうか。
 
社会が何かをしてくれるという期待は、ますます薄らいでくるように感じる昨今です。
 
しかし自分が道を切り開く決心さえすれば、社会に不満を漏らして生きているよりもずっと積極的な生き方ができるし、自分以外を当てにすることによる不安定さを避けることが出来ます。
 

特定のしくみ、特定の人からだけ自分の生きる道があると思い込むとき、同時にそれをなくす事への恐怖を作り出します。
もしその方法が途絶えたらどうしよう、もしその人に嫌われたらどうしよう、そうなればもう終わりだと思い出すことになるからです。
 
今の社会でいかに要領よく生きるかということ以外にも、考えて見ることはいくらでもあるはずです。
自分で選択の幅を狭めなければ、それ以上の優先すべき事がいくらでも見えて来るでしょう。
 
「報われない」という言葉は、自分で切り開く可能性を放棄するものでしかありません。
 
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心得たと思うは、心得ぬなり

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心得たと思うは、心得ぬなり。

心得ぬと思うは、心得たるなり。

蓮如


 
 
世の中には、ずいぶん確信を持ってものごとを語る人がいますが、「絶対まちがいない」という言葉を多用する人はどうも信じたくなくなってしまいます。
 
もちろん状況によっては、曖昧な言い方ではなく、確信のある言葉を相手に言ってあげないといけないということもあるでしょうから、一概には言えないと思います。
 
しかし聞いていて特定の前提を絶対視していると感じたら、どんなに魅力的に聞こえても偏りがあると疑ったほうがいいかもしれません。
 
そんなに確信を持って言えることは世の中にないはずです。
 
過去にとらわれ、未来を予測することの出来ない人間にとって、確信を持って信じたいという願いがありますから、信じたいから信じてしまうということがあるわけです。
 
「心得たと思うは、心得ぬなり。」とは、自分はもうすべてわかったと言い切るような人は、実はわかっていないのだという意味です。
 
ものごとは深く知れば知るほど、最初に思っていたほど確信をもって断定できるものではないことがわかってきます。
 
何の分野の専門家でも、やっていくうちにわかることの限界ということが見えてきますから、そのあたりを心得ていて、不用意に断定する言葉は使わないものです。
 
それが「心得ぬと思うは、心得たるなり。」ということです。
 
なまじ聞きかじりの知識を持った人ほど、自分はわかったつもりになって断定的な物言いをしたがるものなのです。
 
私たちは、自分の詳しく知らないことについては、専門家が言うのだから正しいに違いないと思いがちですが、そこには、せめて専門家には確信を持ってもらいたいという願望が含まれているのかもしれません。
 
だいたい何かの分野を掘り下げたことがある人なら、わかることには限界があることが見えてくるわけですから、そこから類推して、他の分野であってもいくら専門家でも限界を持っているだろうと想像がつくわけです。
 
ところで、断定的な言い方をする人は、「心得たと思って心得ていない人」の場合もありますが、職業的な必要性から断定的に言わざるをえない人の2種類が考えられます。
 
例えば患者を安心させて気力を持たせるために「大丈夫ですよ」といってみせる医者のような立場の人が考えられますね。
 
あるいは、何かを販売するために「当社の商品なら絶対です」と言い切ってみせないといけない、という立場に置かれた人も考えられます。
 
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断定的な言葉や「約束します」が満載の本は、一見魅力的には見えますが、期待して読んでみると、薄っぺらで結局何も得るところがなかったということもあります。
 
中途半端な知識を得て、やたらと確信のある言い方を撒き散らす人には注意した方がいいでしょう。
 
それを見分けるには、相手が何を前提にしているかを見ぬくことです。
 
その前提を明らかにしていけば、たいていはそんなことを断定できるはずがないことが見えてきます。原子力の安全神話も、実は起こりうることも、起こるはずがないという前提にしていたことがばれてきました。
 
また「私はいろんな経験をしてきましたから、これは絶対大丈夫です」と言われる場合があります。
 
その人が実際に経験したと言われたら信じたくなってしまうものですが、その人の経験はあなた自身に全部当てはまるかどうかはわからないのです。
 
「未来は誰にもわからない」という弱みがありますから、人はそれを保証すると言われると、嘘でもいいから信じたくなるものです。
 
だからこそ、何かを信じる前に、それを信じるのは根拠があるからなのか、それとも信じたいからなのかを自分に問いかけるべきなのです。
 
確信がもてない状態を抜け出したくて、何かを信じたいという思いを持ちたいものですが、だからといって断定的な言い回しを簡単に信じてしまうのは注意した方がいいでしょう。
 
はっきりと騙されたと分かるような詐欺に引っかかることは、もちろん避けたいです。
 
しかし、その後の人生を苦しくしてしまうような信念、思い込みを植えつけてしまうことの方が、むしろ被害は大きいかもしれません。
 
すぐに不安を解決してくれると謳うものに飛びつかずに、不安なままの自分と向きあって、自分が本当は何を求めているのかを自分で見つけることが大事なのです。
 
そして、それが誰であろうと、「何の不安もなしに確信を持てるようなことは、そうそう世の中にはない」のだと知っておいたほうがいいでしょう。
 
知れば知るほど、絶対的な確信など持てないものであるということがわかってきます。
 
それと同時に、自分には知らないことがいっぱいある、ということをわからせてくれるものです。
 
それが「心得ぬと思うは、心得たるなり。」ということなのでしょう。


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つまり問題があるとは・・・

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『問題があるとき答えも同時に存在している』


つまり問題とは、

意識的にせよ無意識にせよ、答は既にわかっているのだけれど、

それを受け入れることに抵抗がある時の別名である。


「問題があるとき答えも同時に存在している」

という考え方を聞かれたことがあるでしょうか。
 
つまり答えは問題とセットでやってくるので、答えを見つけるのに時間を費やす必要はないというのです。
 
これは、私たちが普通考えるのとはずいぶん違った発想ですね。
 
私たちが普通に思い浮かべるのは、どこかから(外から)問題が突然起きてきて、それに対する答えを見つけだし、解決しなければならないというものです。
 
では、なぜ問題と答えは一緒に発生してくるというのでしょうか?
 
それは、答えが存在するから問題も存在するのだということなのです。
 
答えを受け入れるためには、問題を解かなければならないと言い換えてもいいでしょう。
 
最初に答えが存在します。
 
それは、私たちが欲しいと思うこと、願望から来るものなのでしょう。
 
しかし、それを手に入れたり、受け入れたりするためには、多かれ少なかれ抵抗があるのです。
 
その抵抗が問題という形で現れてくるのです。
 
抵抗がなければ、そのまますぐに答えを受け入れることが出来ます。
 
しかし、抵抗が今の自分にとって簡単に受け入れられないものであるとき、それを外的な問題が存在するためだと考えるのです。
 
ですから、実は抵抗は内面的なものなのです。
 
私たちは、問題を分析するというやり方で問題に取り組んでいるつもりになっていますが、それは解答をすぐに受け入れることへの抵抗なのです。
 
答えを受け入れる勇気さえあれば、すぐにでも答えは目の前に明らかになります。
 
それは直感やひらめきという形で現れるかもしれません。
 
しかし、答えを受け入れる準備が自分にできていないとき、私たちはそこに問題が存在してすぐには手に入らないと思ってしまうのです。
 
問題を解決しなければいけないと思っている時、自分がどのような事を思い浮かべるかを、ゆっくり確認してみましょう。
 
それらは、ひとつひとつが答えに対する抵抗を表していないでしょうか。
 
自分が抵抗しているのです、答えをすんなり受け入れることに対して。
 
ひととおり抵抗が出尽くしたら、今度は「本当の答え」を知り、受け入れたいと思ってみましょう。
 
問題とは、どれもあなた個人にとってユニークなものなのです。
 
あなたと関係なく、どこかから湧いて出てくるわけではないのです。
 
あなたの願望があるから、それに対する抵抗が問題というかたちで姿を現してくるのです。
 
それに取り組んで、抵抗する自分を受け入れる過程こそが、あなたの可能性を広げてくれるのです。
 
このように考えると、どこか知らないところから問題が振って湧いてくると考えるよりも、主体的に問題に取り組むことが出来ます。
 
 
そして、答えは、実は最初から自分の中にあるのです。
 
それを受け入れる自分の準備が整ったとき、答えがひらめきとして現れてきます。
 
それまでは、問題を分析して抵抗を受け入れようとしない自分と付き合わなくてはなりません。
 
答えから遠ざけるいろいろな思いが、そこにはあるからです。
 
その出来ないという思いは、もっともらしい客観的な事実のように思えます。
 
ですが、答えが見つかるかどうかは、ひとえに、あなたがそれを受け入れるかどうかにかかっているのです。
 
答えを受け入れる用意ができたら、抵抗として存在していた色々な思いはすっきりと整理されて消え去っていきます。
 
問題は外にあるのではありません。
 
すべてあなたという人に特有の問題なのです。
 
そして、その答えもそこにセットで存在するのです。
 
 

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二の矢を受けず~自ら悩みを作り出さない

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悩みを作り出し、重荷を背負う

それは二の矢を受けてしまうから。

痛い目にあった。

これは誰にでも起こる一の矢。

避けようと思っても避けられない。

この痛みはひどい、とんでもないことだと騒ぐ。

あるいは、再びこんな辛いことが起きるのではないかと想像する。

これが二の矢を受けるということです。


仏陀は「二の矢を受けず」といいました。


これは痛い目にあった場合だけではありません。

すごい幸運にであう。

そこまではいいのです。

やがてずっとこの幸運を手放したくないと思い出す。

幸運に出会という一の矢は問題ない。

それを自分のものにしたい、

ずっと継続したい

あれこれ考え出すのが二の矢というもの

それは、すぐに怖れにつながります。

「これを失ったら」「これが壊れたら」「この人がいなくなったら」

もはや幸運への喜びは、怖れの源に変わってしまう。

永久に持ち続けることはできない、喜びであっても痛みであっても。


一の矢は誰でも避けられない。

二の矢を受ければ執着を生み出す。

一の矢を充分味わう、痛みでも喜びでも。

そうしたら、そこから軽やかにと立ち去ろう。

それが重荷を作り出さない秘訣です。


しかし現代では、「一の矢は避けられない」ということも、簡単には受け入れない傾向にあります。

何でも防ぐ方法があるという信仰は昔より強くなっているでしょう。

また「保険」という考え方は、一の矢ですら瞬間的になかったものにしたいという思いにつながります。

どれだけ準備しても、予期できないことは起こりうることを信じたくない。

そのために一の矢を防ごうとして、起きてもいないことに「準備」することに気をとられて、気がついたら取り越し苦労で今を犠牲にしてしまいます。

余裕があるために、「備えあれば憂いなし」に偏りすぎてしまうわけです。

いったい今やっていることの、どれだけが「今この場で」起きていることなのか、チェックしてみるといいでしょう。

「保険」はそれ自体がどんどん増殖を続け、執着を巨大化します。

「保険」をかけなければ、どれだけ今を楽しめるか、考えたことはあるでしょうか?

「保険があったほうがいいよね?」と問いかければ、否定できない理由はいくらでも浮かんでくるでしょう。

それにまかせて、振り返らなければ、何のために今があるのかがわからなくなってしまうでしょう。

不安とは、容易に、今を犠牲にすることなど当たり前のように思わせてしまいます。

そして、いつか来る「今」というそのときは、永遠に先延ばしになってしまうでしょう。

どれだけ無駄な「保険」が今を台無しにしているか、振り返ってみれば驚くかもしれません。

なにが本当に必要な「保険」で、なにが今を台無しにしている「保険」であるのか、見分けなければなりません。

後から「こうすればよかった」と後悔することが多いと感じたら、無駄な保険をかけすぎていないか、不安をストップさせて思い通りに行動したら、何ができていたのかを考えて見ましょう。

不安を強化するひとつの要因は、それが他人へであっても、自分へであっても、批判する習慣です。

誰かを批判することで、自分の劣等感をごまかす習慣をつけてしまうと、回りまわって自分自身の不安を強化してしまうでしょう。

方向はどちらであっても、批判する習慣は、あなた自身の不安と容易に結びつきます。

不安を感じたときに、誰かがあなたを非難しているイメージが思い浮かんではいないでしょうか?

実は実態のわからない不安の起源は、そこにある恐れだったのかもしれません。

二の矢どころか、一の矢が起きる前にゼロやマイナス一の矢を作り出さないことです。



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何でもない、華やかな成果もない自分への勝利

何でもない、華やかな成果もない自分への勝利

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岡本太郎さんから。

甘えた「冒険」ではなく、格好をつけた変わったことをやってみるのではなく、日常生活の中で、この社会のどうしようもないシステムの中にがんじがらめにされ、まき込まれながら、しかし最後まで闘う。
それこそ、危機にみちた人生だ。
何でもないことに筋を通すことの方が、カッコいい冒険よりもはるかにむずかしいし、怖ろしい遊びなのだ。

--略--

しかしそれならば、、今さら「冒険」などと、カッコいい、安易な言葉を使う必要はないともいえる。
人間は、必ずしも成功することが喜びであり大事なのではない。
闘って、後にくずれる。その絶望と憤りの中に、強烈な人生が彩られることもある。

【引用文献】
自分の中に毒を持て―あなたは"常識人間"を捨てられるか (青春文庫)
岡本 太郎 青春出版社 / 1993-08

闘うことがお好きな岡本さんですが、「何でもないことに筋を通すことの方が」という部分に刺激されます。

筋を通すというのは、自分のルールを作るなどという軽々しいものではなくて、本当の自分を「生きる」という意味だと受け取りました。

何でもないことでも、自分を生きれば、何よりも満足感があります。

自分を生きなかったことは、いつまでも後悔を残し、それを言いつくろうことをやり出せば、道はどんどん迷路にはまり込みます。

素直にごめんと一言言えなかった子どものように、向こうで楽しそうに遊んでいる友達をうらやましく思い、自分を責めることになる。

たとえほんの小さなことでも、自分を生きられたら誇りに思えばいいと思います。

たとえ成果が出なくても、自分を生きられたら誇りに思えばいいと思います。

たとえ誰も賛成しなくても、自分を生きられたら誇りに思えばいいと思います。

たとえ嫌いだと言われても、自分を生きられたら誇りに思えばいいと思います。

その時に感じる悲しさや情けなさは、決して後を引かないし、妥協しなかった自分を信頼できるでしょう。

☆~⌒☆

もし、自分自身がなければ、自分を信頼できなければ、

あなたはすぐに誰かにだまされることになる。

そのだましてくる人たちもまた、自分自身を生きてはいない。

作られた自分を見かけは華やかに演じて見せているだけだから。

自分自身を持てば、すぐに相手が本物かどうかもわかってくるだろう。

相手が自分の言葉で語っているか?、借り物の言葉の弁護人でしかないか?を見てみればいい。

また批評家というのは、相手が存在しなければ何もいえない。「あなたはどう考えるのか?」と聞き返してみれば、相手が自分を持っているかどうかもすぐわかるだろう。






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手放すための秘訣

 
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生きている川は、やはりいつも流れていて、毎瞬、毎瞬入れ替わっているものです。
 
川を見ていると、中で流れてくるゴミをせき止めているところがありますね。
 
そこには、いろんなものが引っかかっては、蓄積したり、剥がれて流れていったりしています。
 
しかし、そこに留まっているものは見ていても美しくない腐敗した現実です。


 そのようなものを作り出すのは、「流れたくない」と抵抗してしがみついている思いにほかなりません。
 
流されてしまうことへの恐れ。
 
「しがみついて今の場所に留まっていれば、昨日と同じでいられる」
という恐れからの抵抗が、ガラクタをどんどんせき止めていきます。
 
そこにあるのは、いいかげん、うんざりしてきている現実なんです。
 
しかし、代わりにもっといいものがあることを信じられない、それだけのためにそこにしがみついているのです。
 
手を離しさえすれば、流れに乗って新しい可能性を見せてくれる場所に移動することが出来ます。
 
色あせた後悔や執着の山は、きれいに流されていきます。
 
あとには、いつも新鮮できれいな水が流れる、蘇った川の流れが出来あがってくるのです。
 
そのようなものを作り出すのは、「流れたくない」と抵抗してしがみついている思いにほかなりません。
 
流されてしまうことへの恐れ。
 
「しがみついて今の場所に留まっていれば、昨日と同じでいられる」
という恐れからの抵抗が、ガラクタをどんどんせき止めていきます。
 
そこにあるのは、いいかげん、うんざりしてきている現実なんです。
 
しかし、代わりにもっといいものがあることを信じられない、それだけのためにそこにしがみついているのです。
 
手を離しさえすれば、流れに乗って新しい可能性を見せてくれる場所に移動することが出来ます。
 
色あせた後悔や執着の山は、きれいに流されていきます。
 
あとには、いつも新鮮できれいな水が流れる、蘇った川の流れが出来あがってくるのです。

☆~⌒☆ 

YouTube - ガイ・フィンリー~『手放すための秘訣』 

ガイ・フィンリーはビデオで次のことを語っています。
 

~手放すための秘訣(ガイ・フィンリー)~
 
手放すための秘訣とは・・・
「人生は、あなたが手放さなくてはならないものより
もっともっと素晴らしいものをプレゼントしてくれる」
それをあなたが知ることです。
 
それをしっていることが
「手放すため」「恐れのない自分であるため」
「心穏やかな自分自身であるため」の秘訣です
 
人生とは、完全無欠な流れを持っていること
そこには一切矛盾がなく
人生に起こることには
ひとつも対立するものがないということに
私たちが気づいた時
 
私たちは、人間として
人生そのものの基盤を魂の出来事として
捉えることができるようになるのです
 
そこで・・・
人生には、なぜ望まないこと
抵抗していることが起こるのですか
と聞いてくる人がいるのですが
 
答えは簡単です
 
なぜなら私たちは、その嫌な出来事は
私たちから何かを奪おうとしているんだと
思い込んでいるからなのです
 
ある意味これは確かかもしれませんが
でも人生は、もっと素晴らしいものを与えることなく
ただ取り上げるなんていうことは決してないのです
 
そこで、私たちが手放すことを同意した時に
人生が与えてくれる
もっと素晴らしいものとは何なのかと言うと
 
それは・・・その時までにあなたが
自分が自分だと思い込んでいた自分というのは
花にとっての種のようなものだったんだ
ということへの気づきなのです

 
人生はそのようにやって来ては
私たちを動かし、駆り立てるのです
 
そうすれば、新しい可能性が
実現可能になるからなのです
 
でもそれも、私たちが
自分自身の高次の目的を認識することを通して
実現可能になってくるのです
 
それが毎瞬、毎瞬起こっているのです
それが「手放すための秘訣」です

 
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老子の教えに学ぶ
老子のいう「タオに生きる」ということはどういうことなのか。さまざまなアプローチから、自らの考えや学んだこと、思ったことが綴られています。心をやすめ、身体をやすめ、穏やかで落ち着いた生活をしたい……そう願う人たちにとって、ヒントに溢れたブログです。


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