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この図を思い浮かべよう!(太極図)

この図を思い浮かべよう!

太極図     phm23_0002-s.jpg


※太極図

あなたがいま最悪の状況にいるのなら、黒の先端にいることになる。
もうすでに白い領域に混じり合っている。

あなたがいま最高の状況にいるなら、すでに黒い領域に入り込んでいる。
初心に戻って、また冒険を楽しもう。

黒があるから白がある。
悲惨さがあるから歓喜が生まれる。
いつも灰色にじっとしていては、泣くこともないが笑う気にもなれない。

さあ、反転するのだ!
変化は外だけではない。
あなたの中でうごめき始めている。
それはいつでも始まっている。
それを大切にしよう。
逃せば、いつも灰色のままになってしまう。

痛みがなければ、正常であることを喜べない。
それどころか、退屈な事に不満を感じて、やらなくてもいいことをやってしまう。
変化を怖がるな。
変化こそが、生きる証。

退屈なのは冒険しないから。
冒険と言ってもたいしたことではない。
ほんのちょっとした踏み出しをやるかやらないかだ。

面倒だと思ってはいけない。
面倒だと感じるその自分が、まさに退屈さを作り出しているのだ。
娯楽に助けを求めない。
自分自身の冒険をやろう。そうすれば副作用はない。

今日も充分に生きたと言える日を送ろう。
どっちつかずは人生の無駄使いだ。
いつまでも次はない。
黒から白に、白から黒に、反転を促すのだ。
黒を怖がるものは、白でいることも怖くなる。
黒を楽しんでこそ、白が輝く。

今日はどちらにしても最良の日だ。
これはポジティブに考えるのとは違う。
ポジティブに考えようなどと言うこと自体、いまを否定していることになる。
どちらも大切、どちらも巡ってくる。ただそれだけだ。


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ブラックボックス的生き方#3

前回までの説明をふまえて、もう少し具体的な考え方を書いてみたいと思います。

あなたが誰か初対面の人と出会うとします。

通常あなたは相手がどんな人間であるかを、大急ぎで観察し自分なりに相手と自分の関係を作り上げようとするでしょう。

それは野生の動物が、何かの他の動物に出会ったとき、相手を値踏みして敵か味方を瞬時に判断しようとするのと同様です。

もし危険な相手なのにそれを判定出来なくて逃げ遅れたら、そのまま相手に殺されてしまうかもしれないのですから、まさに命がけで自分をフル動員して対処しようとするでしょう。

人間の場合は、普通は野生動物のように、ひとつ間違えばかみ殺されるような状況にはありません。

しかし、野生の動物にはない高度な思考という働きが、いろんな相手に対する情報を勝手に作りだしてしまうという不利な面も持っています。

思考によって作り出されたものは、その時の現実での経験よりも、大きな影響を及ぼすことも多いのです。

思考が作り上げた相手へのイメージは、あなた自身の今までの経験の記憶を無意識に再生し始め、目の前の人はその人のことを知らないにもかかわらず、あなたの知っている属性を持っているに違いないと考えてしまいます。

人の認知の仕方は、カメラなど機械が捉えるものとは異なり、いわば自分の都合のいいようにバイアスを掛けてものを見たり認識しようとします。

たとえば、相手の顔を写真のように正確に固定されたイメージで記憶していたのでは、相手がその時と異なる服装や髪型などに変わったら別人だと思ってしまうかも知れません。

実際には知っている人を見かけたとき、どこを認知しているのか自分でもよくわからないまま、全体としてそれが自分の知っている人だと気づくものですね。

そこでは、曖昧に相手を捉えることが、厳密さよりも役に立つのです。

ですからむやみに正確に細かく認知するのではなく、あえて曖昧さを許して認知するという認知の仕方が発達してきたのでしょう。

この事は、実生活においてはそのほうが都合が良い面も多いのですが、一方で似たような対象を同一視してしまうということにもつながります。

過去に似たような見かけの人を知っていると、その人の人柄や内面について何も知らないのに、過去に知っていた人と同じ属性を持っているように錯覚するということも起こってきます。

これは別に「面倒だからこの人も同類だと思ってしまおう」などと意識してやっているわけではありません(中にはわざとそうする場合もあるかもしれませんが)。

全く未知の人では不安だから、無意識に相手を自分の知っている人に作り上げたくなっているわけです。

一概にこの傾向がマイナスに働くとは限らないのは、先ほど述べたとおりです。

しかし、プラスの面の主なものは、毎回相手を観察し直さないとわからなくなったのでは効率がよくない、すぐに相手を認識できた方がいいだろうといった、あった方が便利である程度の働きが中心ではないでしょうか。

それに比べて、相手をありのままに見ないで、自分の都合のいい人物イメージに書き換えてしまうという働きの方は、人間関係のトラブルの原因を作りだすという、よりやっかいな事態の引き金ともなります。

たとえば、充分に相手の情報もないのに、見た目だけでイメージを作り上げて、この人は自分の苦手な人、近づかない方がいい人と思ってしまうと、せっかくの出会いの機会を閉ざしてしまうでしょう。

あるいは逆に、過去に好意を感じた人と似ているからといって、まだよく知らないうちから相手を信用しすぎて失敗してしまう、といったこともあるかも知れません。

ですから、ここで相手をブラックボックスとして観るということを思い出せばいいのです。

相手に一旦ブラックの箱をかぶせてしまいましょう。

そうすれば、実際には見えていなかったもの(思い込みで見えると錯覚していたもの)が姿を消します。

そして相手が実際に表現してくれた情報だけを、ありのままに認識することが出来るようになります。

相手についてまだ知らない面も、きちんとわかっていますから、必要であればその情報を自分で作ったりせずに、相手に確かめるという行動もとれるようになります。

人間関係で悩んでいる人の中には、相手の本当は見えていない部分を、勝手に自分で作りだしては、それを非難、攻撃している人がいます。

客観的に見ればこれは不可解な行動なのですが、本人は自分の思考の中で現実だと錯覚してそれを繰り返している場合が多いのです。

これなど、ありのままに相手を見て、知っていることと知らないことをしっかり認識すれば、簡単に避けられる過ちなのですが、放置すると非常にやっかいな問題に発展する可能性があります。

背伸びをする女の子

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ブラックボックス的生き方#2

前回は人間関係についてのブラックボックス的見方を書きましたが、人生の生き方についてもわかっているようで、実はあらかじめわかる人は誰もいません。

行き先がブラックでは、「お先真っ暗」みたいに聞こえますが、見えないものを見えたつもりになることも、行き過ぎると弊害をもたらします。

「出来るだけ方向を自分で定めて生きることが望ましい」というのが今の私たちの常識になっています。

しかし、そこでもブラックボックスをどう扱うかという問題は残るわけです。

「人生の価値基準」をもって、ぶれない一貫した生き方をするか、
そんなものを気にしないで勝手にやればいいと思うか、
そのどちらかだと思うのが、一般的な考え方でしょう。

「人生の価値基準」に忠実であるとどうなるか?
・決断が必要なときに迷わない。
・自分の目的の達成に向けて効率よく動ける。
・周りから一貫した人だと思われる。

だから基準を持ちましょうと言われるわけです。

ですが、何かを基準にすることは、それ以外を排除することです。
最初に基準を決めたその時点の自分の判断に、その後の生き方を賭けるということを意味するわけです。

「人生の価値基準」を持たない生き方は、刹那的でどこに行くかわからないという印象を持たれているでしょう。

しかし、現実に私たちが行うことは、その都度その瞬間の選択が出来るだけです。

「人生の価値基準」をもたないといっても、その都度その時の自分の信念で選択を行っているだけで、自分のプラスに成ると思う選択を行うという点では、同じことです。
そこには、自分の選択基準が一貫しているかどうかの違いがあるだけです。

ところでこの価値基準に従おうという生き方を「選択的理念」と呼んでおきます。

一方で前回もちらっと触れましたが、タオイズムなどでは、あえて自分で選択しない、動かないという生き方を説いています。

そこでこちらを「非選択的理念」と呼んでおきます。

「あえて自分で選択しないこと」をその都度行うわけですから、これも1つの人生理念には違いないからです。

しかし、だからといって両者を同じように「人生理念」という言葉で表現するのは混乱しそうですから、別の名前をつけてみたわけです。

クラブを選ぶ


さて前置きが長くなりましたが、では「非選択的理念」とはどういう生き方なのか。
それをタオイズムに沿って考えたいと思います。

タオイズムとは、ものごとの流れを作り出すもとが道(タオ)であり、タオとは人間が言葉で表現できるようなものではなく、人間も含めた世界全体の流れを作りだしている大きなエネルギーのようなものだと説明されてます。

それなら、タオイズムとはタオとは何かを追求する考え方のことかと思われるでしょう。

しかし最初から言葉で言い表せないようなものを想定しているわけですから、タオを理解したら方向がわかる様になるとか、モノサシになると言う方をすると少し違うような気がします。

むしろ、タオイズムとは、「タオに沿って生きることを選びながら、タオとは何かを気にせずにそれに任せて生きること。」という表現の方があたっていると思います。

ですからモノサシをタオに置き換えるという「選択的理念」ではなく、「非選択的理念」なのです。

さて、ここでようやくこの文章の本題にたどり着いたわけですが、「非選択的理念」とは、人生もブラックボックス的に渡っていこうということです。

すなわち、このような手がかりで考えて見ましょう。

・あらかじめモノサシを用意しない。
・ブラック(ボックス)をホワイト(ボックス)にかってに置き換えない。
・自分の選択すらも大きな流れの一部だと捉える。
・自分の選択とは、すなわち自我(エゴ)のことである。

しかし、それでは自分の意志とは、主体性とはどこに行ってしまうのかと心配になる方もいらっしゃるでしょう。

そういうものが本来存在するのであれば、何があろうと残るだろうし、もともとないものなら消えていくだけです。

子どもの頃、自分で決めなさいといわれて、そうか自分で決めればいいのかとすぐに納得したでしょうか。

基準をどこかで身につけていれば、自分で決められるし、自分の意志という意味もわかるでしょう。
しかし、そのようなものをまだ身につけていない段階で、自分で決めろと言われることは、わからないことを無理にやれと強要されているわけです。

そういうやり方をとる拠り所は、子どもは徐々に周りから基準を獲得していくものだから、そう言っておけば、そのうち自分で基準を持つようになるだろうということなのです。

ですから、自分で決められるはずだと言われても、いくら考えてもわからなくて、仕方なく周りのやり方に合わせてわかったフリをすることになります。

自分の意志とか言っても、起源をたどればそんなものなのです。

機械を使って選択


基準がなければ、意志すらも存在しないブラックボックスなのが本来の世界です。

基準を持っていないとと困ると思うのは、社会がそれを要求してくるからです。
ですから、社会と係わる上では、仮の基準を持っておけばいいのです。

そこで、ブラックボックス的生き方とは何でしょうか、という中心課題に移りましょう

それは、中身はいつまでも全貌が見えないままの相手に付き合っていくということです。

そこでは、ブラックな(見えない)ものを、勝手に見えた気にならないことです。

またブラックボックスは中身がわからないと言っても、その中身は一貫した働きをするものであることを了解していることです。

だからまかせることはまかしてしまう。
見えないことは、無理に見ようとしないであずけてしまえばいいわけです。

そうすれば、見えてきた物だけを相手に集中することが出来ます。
そして自分でコントロール出来ない事に神経をすり減らす必要がなくなります。

勝手に基準を作り上げていなければ、素直に無理なことは無理だとわかってきます。
無理なことを、出来ないといけないと思い込んでいるから苦しいわけです。

自分で受け入れた基準であっても、一旦受け入れれば、社会は従わなければ許してくれません(実質的には自分自身が自分を許さないわけですが)。

中には受け入れるつもりなどなかったのに、従っていることもあるでしょう。
できるだけ本来のブラックな状態に戻してやれば、見えないけれど自分を威してくることもありません。

見えないものは対抗する余地がないのですから、無駄な抵抗やというかもともと相手できないことに係わることがなくなります。
誰の手柄かも気にならなくなります。
その分、見えていることだけに集中すればいいわけです。

自分でどのような筋道で実現するのかを描くこともないわけですから、途中経過が違っているとやきもきすることもなくなります。

いつまでに達成するかというのは、社会的なもの、企業理念のようなものであって自分の生き方までそれに合わせる必要はありません。
気がついたら本当に必要なことは自然と出来上がってくるものです。

すべてまかせて、ゆったりと生きていくのが当たり前なのだと思えること、それがタオイズム的な生き方です。そのイメージとして相手をブラックボックスとして扱うのです。

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タオイズムは努力しない

「タオイズムは努力しない」とはどういうことでしょうか。

タオイズム(老荘思想)と仏教や禅は深い関係にありますが、仏教では例えば五戒(ごかい「不殺生」「不偸盗」「不邪淫」「不妄語」「不飲酒」)といわれる戒律があったりするのに対して、タオイズムはそのような戒律的なものはなく、むしろ不自然な足かせをはめることを嫌うのです。

また努力しなければできないようなやり方は、タオ的ではないと考えます。

座禅


しかし、努力も勧めないし、「無為」などといった訳のわからないことを唱えるタオイズムは、何も動こうとしないで、怠惰にだらだらしていることを説いているのではないかと思われるかもしれません。

タオイズムが勧めるのは、たしかに努力がなくシンプルな無為で人生を送るということです。

それは、言い換えれば自然(タオ)から外れた、人為的なことを排除してシンプルな自然さを取り戻すということです。

老子は、タオの道は広く平らなで歩きやすい道であると表現しています。
そして、「けれども、人は広い真ん中を通らずに横道を通りたがるのだ」という意味のことを言います。

道を歩くということに例えれば、タオイズムが唱えるのは、広い道を一歩一歩堅実に歩むことです。
それは地味で堅実なあゆみであって華々しさはないでしょうが、しかし確実なあゆみなのです。

そして、一歩足を踏み出せば、次の一歩足を踏み出すという繰り返しは、自然な動きであって努力のいらないものだと考えるのです。

例えば、私たちは身体の内部で、胃や腸といった内臓がどのような働きをしているのかを意識しません。
それは、確実に動いていなくては困ることですが、しかしそれを意識したり、努力して動かしているとは考えないでしょう。

また、少し特殊なのは、呼吸です。
同じように無意識に働きもしている呼吸という活動ですが、意識して呼吸しようと思えば、それもまたできるのです。
そのような唯一とも言える意識して制御が可能な体の働きがゆえに、禅やヨーガやリラクゼーションなどではその働きを精神の落ち着きを獲得する導入に使うことを考えます。

ですが、意識してもできるけれども、呼吸も自然な働きのひとつであるといったほうがいいでしょう。
そして、一歩一歩あゆむという活動も、同じようにそれが自分の一部となってしまえば自然な働きになるのです。

他にも方法があるのではと、あれこれ目をそらして横道を歩こうとしなければ、ただ黙々と一歩一歩あゆむことは意識しなくていいほど自然なものとなってしまうでしょう。

そのような自然に任せる動きをすることは、努力してやることではないといってもいいでしょう。
そして自然な勤勉さに従うことは、努力であったり退屈なことではないのです。

それに対して、横道にそれたり、人為的な方法で楽をして進もうと考えるのはタオから外れたやり方であると考えます。
また一方で、歩き方に決まりを設けて「正しい歩き方」を守ろうとさせるようなことも、タオイズムの流儀ではないのです。

自然な働きが自分の一部となってしまえば、努力することもなく、簡単で気苦労もない歩みをすすめることができるのです。

その意味では一歩一歩進むという勤勉さも、ごく自然なことであって、わざわざ戒律を持ち出すようなこともないと考えるわけです。
「大道廃れて、仁義有り.... 道徳経第18章」というように、自然(タオ)から外れて道を見失うから、仁義や孝慈といったことを改めて持ち出さなければならないのだというわけです。

ari.jpg


広い道を一歩一歩あゆむ。「千里の行も足下より始まる 道徳経第64章」
しかし、このような堅実な歩き方を面倒に思ったり、横道を探したくなるのも現実のようです。

一歩一歩堅実に歩くのが確実だと思っていても、なにかもっと早く進める方法があるのではないか、もっと楽に未来を約束してくれる妙法はないだろうかと考えたくなるのです。

そして現代の世の中はまさに、そのような楽な方法を探したり、誰かにそれを次々に見せられて右往左往しているといったイメージを持たないでしょうか。

私たちが日頃せっせと努力していることの多くが、横道を探すことだったり、刺激的で魅力的に見える新しいおもちゃを求めることだったりするのです。

真ん中の道を行くことは、退屈で魅力がないと感じがちです。

それと比べて未来を保証してくれるような、新しい未知のおもちゃは、あやしげではあってもひどく魅力的に見えるものです。

「簡単にできそうだし、努力も要求しないようだ。そして効果を高らかに保証している。」
同じことが続くつまらない日常から逃れるには、ちょっと覗いてみてもいいのではないかと思ったりするのです。

しかし、試してみたらそのような方法は結局効果がないし、元の木阿弥だったということになるのです。
こんなことなら、地道に歩いていれば少しは前に進めていたのにとその時は後悔するのですが、しばらくたつとすっかり忘れて「こんどこそ間違いないのでは」と希望的観測で動いてしまいます。

このような新しいおもちゃは、最初は魅力的に見えても、すぐに他と変わらないことに気づきます。
そして、やっぱり地道にやっている方が確実だったようだと思い始めるのですが、ここまで来たらひょっとしてもう少しで大当たりするのではないかと期待の方を信じたくなって残念な結果を見るまでやめられない。

「この不安を我慢して信じていれば、人よりもいい目を見られるかもしれない」
そんな考えに根拠はないのですが、人の射幸心をくすぐるのです。

またこのようなどこか正当さに欠けるやり方は、やっている間には不安がつきまとうし、終わったあともうまくいった、いかないに関わらずどこか後味の悪さを感じるものです。

いい加減に、横道にはうんざりしてきた。
もっと堅実で、余計な不安を持たないやり方に戻りたい。

そのような気になったら、シンプルなやり方に戻るのがいいでしょう。

歩く人シンボル


自然な働きにあわせて、堅実にありそうもない期待は持たずに進むやり方。
それを自分の一部としてしまえば、努力することもなく、簡単で気苦労もない歩みをすすめることができる。
それがタオイズムの流儀なのです。

そしてそのような理由から、タオイズムは努力を必要とするやり方をやめなさいというのです。


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無分別2

前回(無分別)は、禅で使われている言葉から「無分別」ということを考えましたが、今回は老荘思想からこれを考えてみたいと思います。

まずは、この荘子の言葉をご覧下さい。

古代人の知識は完全だった。
なぜ完全だったかというと、ものの存在を知らなかったからだ。
これほど完全な知識があろうか。足りないものはなにひとつない。
それからやがてかれらはものの存在を知った。しかし区別はしなかった。
それからしばらくたって区別するようになった。だがそれぞれにいいとか悪いとか判断を下すことはなかった。
人間が判断を下すようになったとき、タオは崩壊した。
そしてタオの崩壊とともに個人の選り好みというものが始まったのである。

「タオは笑っている」 R・ M・スマリヤン 工作舎 / 1991-01



判断を下すこと、分別を持つことは、通常いいことであると考えられます。

現代の多くの国の社会では、自分の意見や主張を持つことが必要であり、大事な事であるというのが常識になっています。

自分を主張できることや、信念を貫くことが、価値があると見なす文化もあります。
しかし、その裏では、反対意見を叩くか、無視するかが必要になります。

もちろん、自分の考えを持つことが許されないような国には住みたくはありませんが、自分の意見や主張は貴いものではあっても、それを振り回せばいいと言うことにはならないわけです。

謙遜とは見かけの道徳ではなくて、自分の考えが間違っている可能性を忘れないためのものです。

荘子の言葉に戻ると、タオイズムでは、人為的な判断というものは、できるだけ捨てようと考えます。

それに頼らずに、本来のタオの働きに任せることで、人は何もしなくてもうまくいくのだと考えるわけです。

そこから「なぜ完全だったかというと、ものの存在を知らなかったからだ。」という言葉がでてくるわけです。

しかし現代社会においては、知らないでいることは不可能ですし、意見を求められれば答えないわけにはいきません。

政治家2


ではどうするかといえば、「わたしの考え」「わたしの意見」というものは、あくまで借り物であることを認識しておくことです。

「わたしのもの」という言葉は、私たちを盲目にしてしまいます。

いったん「わたしの」がついてしまうと、まるで自分の身体の一部であるかのように、守らなければならないものに変身してしまうのです。

「わたしの持ち物」になった途端に、態度は一変します。
それは、言葉を使って考えている以上、思考の持つ宿命なのかも知れません。

「間違えないように気をつけよう」ではなく、間違えてしまうものだと割り切って、他の手段を考えた方がいいでしょう。
運用ではなく、構造を変えなければ、事態は変わりません。

「わたしの考え」という場合も同じです。

実は、「わたしの考え」などというものは、もともと生まれつき持っていたわけではありません。
自分が生きてくる中で、どこかで拾ってきた考えに過ぎません。

そんな「借り物の考え」を、自分自身と同一視しないことです。

そして、そのような「借り物の考え」か自分自身だとか、判断の基準にしようとしないことが肝心です。

考えたいのなら、原点に戻って、対象をありのままに見ることから始めて見ることです。

現代のような社会に生きていれば、「借り物の考え」は、すごい勢いで飛び込んできます。

それをうまく取捨選択するのが、現代人だなどと思い込まない方がいいと思います。

モバイル通信


情報の処理はコンピュータに任せるべきです。

コンピュータなら、CPUの性能が上がれば処理能力も向上させられますが、人間の場合は限界があります。
遮断できないのなら、せめて受け入れを拒否することをしないと、本来の自分がわからなくなってしまいます。

これほどの情報のシャワーを浴びている時代は、今までだれも経験していません。
これがもたらす結果は未体験なのです。

CMやマスコミの意見に影響を受けて、反射的に判断を下しているのに、ふと気づくことがあるなら、もっと危機意識を持つ必要があると思います。

「保険は電話で申し込みますか?、ネットで申し込みますか?」という時代に生きていれば、保険がそもそも必要かどうかの判断が出来にくくなります。

「画面にアナログと表示されていませんか?」と脅かしてくる社会では、テレビはそもそも必要なものかどうかを考えなくなります。
テレビを捨てようかと思い出させてくれるのは、某放送局の集金だけです。

処理能力を上げれば、なんとかなるという考えは、行き詰まりを感じ始めています。
処理能力を上げる努力をするのではなく、処理しないことを選ぶ必要があります。

処理しないということは、言い換えれば「無分別」ということです。
「分別」に頼らないで、本来の知恵を信頼するということです。

分別処理をしないで、初めて対象を見るようにとらえないと、ものごとの本質は見えてきません。

情報は便利なものですが、情報に依存するとき、自分の主体のような曖昧なものは、扱いがやっかいだからと置き去りにされ、だんだん頼りにならないものだと思ってしまいます。

情報が曖昧でないのは、切り取られた一面でしかないからです。

マルクスは「資本は死せる労働である」と言いましたが、「情報は死せる判断」です。

過去の残骸では、いまを生きることは出来ません。



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なぜか自分の気持ちと正反対のことを
言ってしまって相手を傷つけてしまったり…。

「つまり、何が言いたいの?」、
「ん?結局それはどういうこと?」、

と呆れられたり馬鹿にされたり…。

コミュニケーションが上手くいかないと、
損どころか様々なシーンで散々な思いをします。

ダン・オコナーによれば、
現実的な話、実に世の中の90%以上の人が、無意識の内に
『会話において重大な間違いを犯してしまっている』とのことです。

単純に鵜呑みにしなくてもいいですが、こういったコミュニケーションの
法則や発想は、あなたの発想に刺激を与え、自分なりに吸収すれば、
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