前回は人間関係についてのブラックボックス的見方を書きましたが、人生の生き方についてもわかっているようで、実はあらかじめわかる人は誰もいません。
行き先がブラックでは、「お先真っ暗」みたいに聞こえますが、見えないものを見えたつもりになることも、行き過ぎると弊害をもたらします。
「出来るだけ方向を自分で定めて生きることが望ましい」というのが今の私たちの常識になっています。
しかし、そこでもブラックボックスをどう扱うかという問題は残るわけです。
「人生の価値基準」をもって、ぶれない一貫した生き方をするか、
そんなものを気にしないで勝手にやればいいと思うか、
そのどちらかだと思うのが、一般的な考え方でしょう。
「人生の価値基準」に忠実であるとどうなるか?
・決断が必要なときに迷わない。
・自分の目的の達成に向けて効率よく動ける。
・周りから一貫した人だと思われる。
だから基準を持ちましょうと言われるわけです。
ですが、何かを基準にすることは、それ以外を排除することです。
最初に基準を決めたその時点の自分の判断に、その後の生き方を賭けるということを意味するわけです。
「人生の価値基準」を持たない生き方は、刹那的でどこに行くかわからないという印象を持たれているでしょう。
しかし、現実に私たちが行うことは、その都度その瞬間の選択が出来るだけです。
「人生の価値基準」をもたないといっても、その都度その時の自分の信念で選択を行っているだけで、自分のプラスに成ると思う選択を行うという点では、同じことです。
そこには、自分の選択基準が一貫しているかどうかの違いがあるだけです。
ところでこの価値基準に従おうという生き方を「選択的理念」と呼んでおきます。
一方で前回もちらっと触れましたが、タオイズムなどでは、あえて自分で選択しない、動かないという生き方を説いています。
そこでこちらを「非選択的理念」と呼んでおきます。
「あえて自分で選択しないこと」をその都度行うわけですから、これも1つの人生理念には違いないからです。
しかし、だからといって両者を同じように「人生理念」という言葉で表現するのは混乱しそうですから、別の名前をつけてみたわけです。

さて前置きが長くなりましたが、では「非選択的理念」とはどういう生き方なのか。
それをタオイズムに沿って考えたいと思います。
タオイズムとは、ものごとの流れを作り出すもとが道(タオ)であり、タオとは人間が言葉で表現できるようなものではなく、人間も含めた世界全体の流れを作りだしている大きなエネルギーのようなものだと説明されてます。
それなら、タオイズムとはタオとは何かを追求する考え方のことかと思われるでしょう。
しかし最初から言葉で言い表せないようなものを想定しているわけですから、タオを理解したら方向がわかる様になるとか、モノサシになると言う方をすると少し違うような気がします。
むしろ、タオイズムとは、「タオに沿って生きることを選びながら、タオとは何かを気にせずにそれに任せて生きること。」という表現の方があたっていると思います。
ですからモノサシをタオに置き換えるという「選択的理念」ではなく、「非選択的理念」なのです。
さて、ここでようやくこの文章の本題にたどり着いたわけですが、「非選択的理念」とは、人生もブラックボックス的に渡っていこうということです。
すなわち、このような手がかりで考えて見ましょう。
・あらかじめモノサシを用意しない。
・ブラック(ボックス)をホワイト(ボックス)にかってに置き換えない。
・自分の選択すらも大きな流れの一部だと捉える。
・自分の選択とは、すなわち自我(エゴ)のことである。
しかし、それでは自分の意志とは、主体性とはどこに行ってしまうのかと心配になる方もいらっしゃるでしょう。
そういうものが本来存在するのであれば、何があろうと残るだろうし、もともとないものなら消えていくだけです。
子どもの頃、自分で決めなさいといわれて、そうか自分で決めればいいのかとすぐに納得したでしょうか。
基準をどこかで身につけていれば、自分で決められるし、自分の意志という意味もわかるでしょう。
しかし、そのようなものをまだ身につけていない段階で、自分で決めろと言われることは、わからないことを無理にやれと強要されているわけです。
そういうやり方をとる拠り所は、子どもは徐々に周りから基準を獲得していくものだから、そう言っておけば、そのうち自分で基準を持つようになるだろうということなのです。
ですから、自分で決められるはずだと言われても、いくら考えてもわからなくて、仕方なく周りのやり方に合わせてわかったフリをすることになります。
自分の意志とか言っても、起源をたどればそんなものなのです。

基準がなければ、意志すらも存在しないブラックボックスなのが本来の世界です。
基準を持っていないとと困ると思うのは、社会がそれを要求してくるからです。
ですから、社会と係わる上では、仮の基準を持っておけばいいのです。
そこで、ブラックボックス的生き方とは何でしょうか、という中心課題に移りましょう
それは、中身はいつまでも全貌が見えないままの相手に付き合っていくということです。
そこでは、ブラックな(見えない)ものを、勝手に見えた気にならないことです。
またブラックボックスは中身がわからないと言っても、その中身は一貫した働きをするものであることを了解していることです。
だからまかせることはまかしてしまう。
見えないことは、無理に見ようとしないであずけてしまえばいいわけです。
そうすれば、見えてきた物だけを相手に集中することが出来ます。
そして自分でコントロール出来ない事に神経をすり減らす必要がなくなります。
勝手に基準を作り上げていなければ、素直に無理なことは無理だとわかってきます。
無理なことを、出来ないといけないと思い込んでいるから苦しいわけです。
自分で受け入れた基準であっても、一旦受け入れれば、社会は従わなければ許してくれません(実質的には自分自身が自分を許さないわけですが)。
中には受け入れるつもりなどなかったのに、従っていることもあるでしょう。
できるだけ本来のブラックな状態に戻してやれば、見えないけれど自分を威してくることもありません。
見えないものは対抗する余地がないのですから、無駄な抵抗やというかもともと相手できないことに係わることがなくなります。
誰の手柄かも気にならなくなります。
その分、見えていることだけに集中すればいいわけです。
自分でどのような筋道で実現するのかを描くこともないわけですから、途中経過が違っているとやきもきすることもなくなります。
いつまでに達成するかというのは、社会的なもの、企業理念のようなものであって自分の生き方までそれに合わせる必要はありません。
気がついたら本当に必要なことは自然と出来上がってくるものです。
すべてまかせて、ゆったりと生きていくのが当たり前なのだと思えること、それがタオイズム的な生き方です。そのイメージとして相手をブラックボックスとして扱うのです。
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テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体