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不必要な罪悪感に悩まないために

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罪悪感について考えてみましょう

罪悪感を感じる。
気分が重くなって、悪いことをしてしまった。できればなかったことにしたいけれど、そうもいかず、自分がやってしまったことを受け入れるしかない。
認めたくないという気持ちと、申し訳ない気持ちが入り混じってしまう。

さて、罪悪感を感じると、私たちはよく調べないまま、自分を責めることを始めてしまいます。

もちろん失敗を認めて、二度としないように反省するのが正当な場合も存在します。
そういう時は、しっかり非を認めて改善を誓うことが重要でしょう。

しかし、なかには本当に自分を責めるべき出来事だったのか、それがはっきりしない場合もあるのではないでしょうか?

罪悪感を感じる時、何からそれが始まるかは人によって違いがあるでしょうが、何となくこの感じは、そうだ、罪悪感というものだというように、感情とか身体の反応が先行することも多いように思います。

「やってしまった!」と気がついて、徐々に気分が重くなり、罪悪感に伴う自分を責め始める感情が起きてきます。
そして、そうなってしまうと、なかなか自分は悪くなかった、何も責任などなかったと思い直すことは難しくなっていくのです。

ここで問題なのは、習慣のようになってしまった罪悪感です。

たとえば、子どもの頃に好き放題遊びに入り込んでいると、突然親から怒鳴り声を浴びせられてしまうこともあるでしょう。

理由がなんであったかは、あまりはっきりしません。
ですが、子ども心に「あんまり調子に乗って遊んでいると、そのうち悪いことが起きる」
「その後は、なにかわからないまでも、悪いことをして叱られて、罪悪感に入り込まなければならないのだ」と思いこみます。

このようなパターンだけを記憶してしまい、叱られるきっかけとなった原因などは、よく覚えていないことになります。

つまり、何をやって罪悪感に至ったのか、その原因はもはや曖昧だし、もっと言えばなんであったかなどどうでも良くなって、ただ罪悪感に入り込む一連の感情のパターンだけが自分の中に刻まれます。

おとなになってからも、それは何かのきっかけで呼び覚まされてしまいます。
それが起きるのは、一連の感情や体の反応が先行して起きているかのようです。

そこでよくよく起きたことを検討してみれば、実は似かよってはいるけれど、やったことはどれも罪悪感など感じる必要はなかったことばかりかもしれません。

曖昧に判断できること。
これは、人間の認知行動にとって、時に非常に重要な役割を果たします。

例えば、人混みで知っている人を見分けるという行動を考えてみてください。

知っている人だから、他の見知らぬ人よりもその人の外観の情報を事細かに覚えているから、見分けが付くのでしょうか?

言い換えれば、外観の情報量の多さに比例して、人を見分ける能力が発揮されやすくなるでしょうか?

どうもそうではないようですね。

それどころか、その人が今日はどんな服装をしているのか知らなくても、何故かその人を見分けることは出来てしまうようです。

正確な情報の量によってではなく、なにかの曖昧な識別力が、知っている人の見分けに役だっているのです。

おそらく感情においても、そういった曖昧さを伴った識別の仕方は働くのではないでしょうか?


そして人を見分けるときには役に立った曖昧さも、罪悪感など不快な感情の働きの場合にも、曖昧に働いてしまいます。
そして後者では、それが罪悪感など感じる必要がなかった時にも、ダマされてしまうこともあるでしょう。

それに加えて、その人のおなじみの感情の中に、罪悪感がレパートリーにあれば、「そろそろ罪悪感を感じる頃だ。ああ、やっぱりこんなことが起きてきた。ここで私は、しばらく罪悪感を感じる時間をすごさなければならない。」と思ってしまうのです。

「どうせ私は叱られるようなことをやってしまうんだ」と開き直っていると、そうでない時まで、自分に罪悪感を呼び起こしてしまいます。

曖昧な感情の識別で、ずれたチューニングをやってしまうのです。

「私はこの種類の感情に陥りやすい」という傾向があれば、その手の感情にチューニングを合わせやすくなっていることも、大いに考えられます。

感情が先行してしまった時こそ、本当にその感じ方は根拠があるのかどうか、異議を唱えてみましょう。

特に罪悪感というのは、混乱が起きていることも多い感情です。

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素直な自分と意固地な自分(メルマガ#18)

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私たちは素直な人間関係を望む自分がいる一方で、
ひねくれた自分や意地っ張りな自分も少なからず抱えているものです。

素直に自分の望みに従って生きればいいものを、気が付くとへそ曲がりな自分が顔を出しているのを発見します。

頭ではそちらの方が自分のためになると思っても、なぜかそれを潔しとしない自分がいたりします。

あるいはどうしてもこれは譲れないと固く信じている。
そういう「あるべき」正しさは、素直な自分とは相容れないけれど捨てられなくて、別のダブル・スタンダードになってしまいます。

どちらをとるかで、それなりの生き方があるでしょうが、長期的に見て裏切らないのは、素直な自分に従うことです。

それとは違う基準を抱えていれば、絶えず自分は葛藤状態に陥ります。
今はうまく言っていても、いずれ矛盾する自分に向き合わないとならない状態がやってきます。

両者が相容れない基準を持っていれば、今までどおりの理詰めの自分を取るか、それとは反するけれどそのほうが自然に思える訴えに耳を傾けるか、どちらを取るか迷うわけです。

その主張が正当かどうかなど、いくらでも説明は考えつくものです。
なんだって、それを正しいように見せつける説明は発明できます。

そして、理屈を発展させればさせるほど、ますます捨てられなくなって、意固地になります。

その正当化は、まさに、あなたの視界にフィルターをかけているようなものです。

そのフィルターを通せば、あなたが主張するのは、もっともだと思える出来事が起きているように見えてくるのです。
そして、それにともなって、無理やり切り捨てようとしたい現実も生じます。

たとえば、意地悪な人が存在するから、警戒しなければならないと思うとします。
あなたに関係なく、あなたを攻撃してくる人はそこら中にいるのが見えてきます。

あるいは、あなたはいつも自分の正しさを説明しようと待ち構えているのですが、そのおかげで、ちょっとでも批判じみた意見をみかけると、自分を正当化しなければならないと思ってしまいます。
先手を打って相手の間違いを指摘しようとするかもしれません。

風邪が流行っているから、花粉症だからとマスクをしていたあなたが、必要がなくなっても常に警戒体制を敷いてマスクを外せなくなってしまうのです。

マスクをしたあなたが、はっきりと喋ることができないように、無警戒なあなたを表現することをためらいます。

問われてもいないことに、非難されているかのように感じて、言い訳をし始めている自分に気が付きませんか?

マスクを外さないことで、あなたは素直な人間関係を持ちかけられても、抵抗したり、排除したくなってしまいます。

その抵抗とは、これしか道はないと信じ込んだあなたが、そこから引き剥がされそうだと思い恐怖を感じた結果なのです。

ここに恐怖が存在することは、ひとつの見分け方を教えてくれます。

つまり、恐怖心から導かれる方向は何にせようまくは行かないということ。

たとえ今の自分が躊躇を感じても、それが本物だと感じる方向に舵を取りましょう。

必要なら、今の自分を維持するだけのプライドなど捨ててしまいましょう。

今の自分にとって、それがどんなに「おおごと」に思えても、所詮はどこかで使い始めた習慣です。

習慣なら、いつでも書き換えることは可能です。

できるかぎり作り物の理屈には従わないことです。
しばらくは良くても、かならずあなたを迷わせることになるのです。

あなたが今現在抱えているお荷物には、殆どと言っていいほど、そういった作りこみが含まれているのです。


☆----------------------------------------------☆
編集後記
作り物がなければどれだけ自由になれるか、驚くでしょう!

良かったらご感想などもお寄せ下さい。
ブログ左サイドに「めるまがメールフォーム」を設置しました。
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望むものが手に入らない!~そのほんとうの意味とは

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望むものが手に入らないのはなぜか?

「引き寄せの法則」のような話を聞くと、いつのまにか「望むものが手に入りさえすれば・・・」と思ってしまいますね。

しかし、この発想をした時点で、私たちはすでに言葉によって自分を騙してしまうことになりかねません。

なぜなら、「私が望むものとはなにか?」を、もう少し注意深く検討する必要があるからです。

注意したいのは、次のような発想に陥ることです。

『私が望むものは、それが手に入れば私を幸せにしてくれる。それが手に入らないから、いまの自分はまだ満たされていないのだ。それまでは惨めなままだから。』

これに馴染んでしまうと、世の中でやるべきこととは、望むものを手に入れること。それが全て!
という発想になってしまいます。

1.望むものが手に入れば、本当に私は幸せになれる。

2.望むものを手に入れなければどうにもならない。そう思うといつも不満でいなければならない。満足などしてはいけない、それではやる気を無くしてしまう。

3.望むものがいつも私を脅迫する。まだ手にはいらないのか?いっそそんなもの、放り出してしまえたら・・・

望むものとは、ほんとうに自分が必要を感じて欲しているのかどうか、実は怪しいものです。
『望むもの』とは、私たちが今まで生きてきた中で刷り込まれてきた「人なら望むべきもの」である可能性が高いわけです。

ですから、3のように本当はそんな望みなど持つのをやめてしまえば、私は解放されて自由になり、本当に自分が望むことを考えられるようになる可能性があるのです。

「望むものを手に入れること」を全てに優先する前提にしている限り、私たちは本当はどうしたいのかを知ることが出来ません。

もしかすると、本当の望みは、いま持っているものだけで今を楽しみたいということかもしれません。
なのにそれではダメだという理由をまくし立て、とても許してくれないという人達に囲まれているように感じています。

こんなことすら、自分に許すことは大変勇気がいるのです。

しかし、幸いな事に自分が何を望むかは、全て自分で決めることが出来ます。
他人に何かを強要するのではないし、誰かを束縛するわけではないからです。

それを許さないのは、実際には自分自身しかいません。
自分がそうしようと思うだけで、それは可能だし、自分自身がそうしているままでも、それに反対する人とつきあっていくことも可能です。

それが出来ないように思うのは、「他人も自分と同じ考えをしないと許せない」と思うことから来るのです。

「私は私、あなたはあなた」なのですから、どちらからも強制することはありません。

あなたが、誰かに「私と同じであれ」と思うのをやめたら、とたんにあなたの頭痛は消え去り、長年の重荷を下ろしたと感じられることでしょう。

「私と同じであれ」と願うことを別の表現を使うなら、
それは、人を許すということ、同時に自分自身を許せるということです。
また、人を憎んだり、嫉妬したりするのをやめることでもあります。

根底にあるのは、同じことです。
「私のエゴの言うとおりにあなたもなりなさい!」というトラブルの源泉がそこにあるのです。
そこを掘り返すことをやめましょう。

その代わりに、私だけは私自身を許しましょう。
それは同時に他の人を自由にしてあげることも自然なことに変えてくれます。


そして、自由になって「私が望むもの」をもう一度想像してみましょう。

そうすれば、いままで抱いていた望みが、いかにガラクタばかりの「借り物」であったかに気がつくでしょう。

それを手放したいと密かに思っていた自分にも堂々とめぐり逢えるでしょう。

別にいつもいつも望むものを抱えていなければいけないわけではありません。

いまここで、もう何も必要ないと感じられること、それこそが望みだったかもしれないではないですか。

「望みのものが手に入らない」のではなくて、望んでもいないものを望まないように、密かに自分の一部が、それを手に入れることを阻止していてくれたのかもしれません。

いつまでたっても私には手に入らない。他の人は手に入れているようなのに!
そんな比較は自分を苦しめるだけです。

きっぱりと、あきらめて、私は実はそれを望んではいないのだと認めてしまいましょう。

そうやって、空白の部分を作ってあげれば、そこをあなたの本当に望む状態が満たしてくれるでしょう。

もし引き寄せることがさだめなら、意外と別のルートから、いままで欲しがっていたものが、別の形で現れるかもしれません。

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意思がすべてではなく~意識するだけでいい~知恵ノートより

意思がすべてではなく~意識するだけでいい - Yahoo!知恵袋

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たとえば、あなたが後悔するのは、自分の意思の通りに動けなかったり、まわりの結果がそれとは異なるものになった時です。

あなたが意思の力への崇拝をやめて、その偏向性を少しでもゆるめてみれば、世界はずっと住みやすいところに変わってくるでしょう。
周りの世界が何一つ変化しなくても、あなたが自分の思うとおりになるべきだと思うのを控えるだけで、それは変化するわけです。

いますぐにでも、世界は実は素晴らしい所だったと感じられるようにもなれるでしょう。

ポイント

すべてをオンデマンドにしなくても、受動的に楽しむことも同じように重要なのです。
その匙加減が、あなたの個性でもあるのです。
引用



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ありのままの大きさで~レリゴー(Let it go)

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「このままでいい、自分を信じる」

そう宣言できるのは自分でやるしかありません。
どんな考え方をするにせよ、この部分は論理を超えてただそう信じるしかないのです。
信じなければ、それまでです。
どのように思うにせよ、その都度自分の作り上げた自己イメージを借りて、いつまでも借り物の自分を演じるしかありません。

近頃小さな子どもまでレリゴー(Let it go)レリゴーと歌っていますが、そう宣言して実際にそうするのは、どこまで行っても自分にしか出来ないのです。

買いかぶるのも、見くびるのも、それに応じて無理をすることになります。
自分を買いかぶっても、いつも背伸びしていなければなりません。
自分には無理だと諦めていては、何もできなくなりますし、いつまでも後悔することになります。

どちらのやり方も、一見他人の声をこわがって、そう見せかけているように思えますが、怖がっているとともに、変化しないほうが安全だと思って逃げている自分もいるのです。

受け入れがたくても、悔しくても、怖くても、基準にしなければいけないのは、あなたのありのままの大きさにあるのです。

こたえは、いつでも、ありのままの大きさでそれを捉えることにあるはずです。

今は自分は苦しい状態にある。それは認めなければならない。
どうやろうとしばらくは、この状態と付き合わなければならないかもしれない。

しかし、それはいつまでも続くわけではないし、その状態にあっても、それと並行して楽しいことも起こってきているのも見逃さないようにしましょう。

それさえわかれば、スッキリ出来る方法があるはずだと期待しないで、いいことも悪いことも、どちらも混在するのが現実だと受け入れなければなりません。
片方だけが存在するべきだというのは、現実を無視した思い込みでしかありません。

そのように受け入れられれば、もう現実の大きさと違う評価をしなくなります。
ありのままにそれを見て、自然に治まるのを待つしかないと腹をくくれば、今までそのことばかりに目を奪われていた状態から、他のことも見る余裕が生まれます。

いつだって、いいことも悪いことも、並行して混在しているのが現実なんだとわかってきます。
今までは、ちょっと大変ことが起きると、それ以外のことが考えられなくなっていた状態も、「それでも他のことも考えてみよう!」と思えるようになるでしょう。

苦しいことを見ないようにしていれば消えてしまうと思ったり、
外的なものや人に頼って魔法の答えを探したり、
あるいは苦しさに耐えられない自分を非難して余計に苦しめないことです。

簡単な解決法があると信じているから、正面からそのことに向き合わない。
そしてあってはならない苦しみだと思っているから、実際よりも苦しいと感じるのです。

逆の場合もあります。肉体的な痛みも、家にいたときはあんなに痛かったのに、病院にまでやってきてもうすぐ見てもらえると思うと、不思議と痛みが治まってきた経験はありませんか。

ありのままの大きさで、その苦しみを見る時、実際に今の自分にそれが起きていることを受け入れることも容易になります。
それを避けて、代償を払わずに解決して欲しいと願うから、更に事態を悪化させてしまうのです。

苦しさがあなたを動けなくさせるなら、いつでも、ありのままの大きさでそれを捉え、受け入れることから始めるのです。

そのやり方だけがいつでも自分を裏切らないでくれるのです。

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